« 9月11日、この様な事をやってみます。” ファッション、耳年増になるためのパーソナル-コーチングの会 ;第壱回 ”/ VACANT編。 | メイン | 『モードを語るとは,モードを評論するとは?』—参。 »

『モードを語るとは,モードを評論するとは?』—弐。

『表層のボキャブラリーに潜む本意に気づく事』
 評論とは持ち得た”知識”のみで媚びる事ではない。

 評論の眼力とは、メディアを鵜呑みにするのではなく、書かれた評論を妄信するのではなく
『誰が』『いつ』『誰に向けて』『何のため』それらを作ったのかという事を
客観的に調べて、どのようなメディアも『真っ白』ではない、寧ろ、黒に近いグレーでしかない。
そこには必ず政治的、社会的、資本的メッセージが有り、
もう一つ下には総てに金の流れが有り、下心が有る。
即ち、本意の伝達と任意の関係性が存在すると言う事をラジカルに見抜くリアリズムである。
これは個人が主体的に生きるための学習でもある。
 評論すると言う事とは、それらを見抜く事,その眼力を持つ事から生まれるべきである。
人やモノが持ち得た ”育ちのボキャブラリィー”に
具体的且つ、客観的に専門的に関わる事が評論のための行程の始まり。
そこに独自な評論の眼差しと遊びこゝろが生まれるはずである。
自心の形態言語が生み出され、そこが評論を行なう人間の立ち居場所である。
 評論する事の必然とはオリジナリティ豊かな形態言語である。
他者のボキャブラリィーのコラージュだけではなく、
自心の文化から発する言霊を社会の為にぶつける事である。
 
 勿論、総ての行為に必然である、論じる側の人間性が大本である。

 では、モードを語るとは,モードを評論するとは?の具体的な展開は次回へ、

 台風のあとの蝉時雨のなかで。
平成二十三年九月四日深夜:
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2011年09月05日 13:08 | comment and transrate this entry (0)

コメントしてください




保存しますか?