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最終編『モードを語るとは,モードを評論するとは?』—五。

 ”感性の問題と政治の問題そして産業の問題は一体”を成しているのである。
 『私が特異(唯一)性を失えば、私は自分のことをもう愛せない。
自分には自分だけの唯一なものがあるという秘めた確信があってこそ、
人は自分を愛せるのであり、
それゆえ「共同体とは根源的に自分から自分への親密な絆によって成り立つ」のである。
芸術に関して言えば、芸術とはこの感覚し得る特異性の体験(実験)でありその支えであり、
この特異性こそが、象徴的なものを生む活動、すなわち集団的な時間において痕跡を残し、
また他者の痕跡と出会う活動にわれわれをいざなうものなのだ。
以上のように、”感性の問題と政治の問題そして産業の問題は一体”を成しているのである。

B.Stiegler『象徴の貧困』より。

 僕の学びと経験から言える『モードを論じるとは?』の大切な心得を幾つかのポイントで上げてみよう。
1)”世界”を知る事、そのために経験すること。
2)自分の”立ち居場所”を明確に持つこと。
3)そこでの自分自らの”眼差し”を持ち、オリジナルな”ボキャブラリィー”を持つこと。
4)今と言う”時代”を読み解き、明日と言う”未来”へのイマジナリ—ボヤージュを楽しむこと。
5)論じる場合も自分の”こゝろの有り様”を100%に行為する事。
 これらがどの程度のバランスで構築されて論じられたモノかで、秀作、駄作、書かなくてもいい、
こんな事わざわざ今、言って貰わなくてもと言う決断が為され他の人たちが論じ書かれたモノを評価する。

蛇足であろうが、もう少し説明を加えよう。
1)”世界”を知る事、そのために経験すること;
「ファッションとは何か?ファッションの世界とはどのような世界なのか?」この認識度がそれなりに必要。
これによって、ただの見えている所謂、表層をどの程度論じているだけなのか、その論じているレベルが見える。
ファッションビジネスの世界は社会のどのレベルと領域に位置していて,構造はどのようになっているのか?
ファッションクリエーションの世界とは?その規範とは?自由とはどの程度までを言うのか?アートとの関わりは?
ファッションビジネスの究極の価値は?”イメージを売って儲ける事。”
ファッションクリエーションの究極の価値は?”時をクリエーションし、スピードをデザインすること。”
ファッションは資本主義消費社会の産物である。
 この程度の事はファッションを論じる者が責任としてフィジカルに持っているべき“共通言語”である。
誰が読んでも”ジャッジ/決断”が出来る共通認識と共通言語が使われていること。

2)自分の”立ち居場所”を明確に持つこと。
ファッション世界での立ち居場所。—創造性/産業性/商業性
位置的立ち居場所。—日本/アジア/世界/不明
時間的立ち居場所。—現代/過去/ヴァーチャル
距離的立ち居場所。—当事者/傍観者
性的立ち居場所。—女/男/同性愛者
身体的立ち居場所。—”頭でファッションを見る/身体でファッションを感じる。/こゝろでファッションを知る
          /Mix.

3)そこでの自分自らの”眼差し”を持ち、オリジナルな”ボキャブラリィー”を持つこと。
自分が持ったファッションに対しての立ち居場所から学んだ事、経験したファッションへ”視点”を持つこと。
自分が選んだ立ち居場所から、”専門”を持つこと。
もう一つ、自分が選んだ立ち居場所から、”表層”を論じるのか、”深層”を論じるのか?
そして、ファッションにおける共通言語を理解した上で、
独自の形態言語を持つこと、自分のボキャブラリィーで論じる事。パーソナリティを造ること。
そこに、ボキャブラリィーの”新鮮さと斬新さ”が必要。特に、時代性を論じる場合は不可欠。
論じる者の虚像が文章化されるにはこの”眼差しとボキャブラリィー”が独自性を生む。

4)今と言う”時代”を読み解き、明日と言う”未来”へのイマジナリ—ボヤージュを楽しむこと。
ファッションの新しさとは時代の”モダニティ”である事の種明かしをする。
新しさとしての時代性/社会性/文化性/女性像/男性像/人間像/等を読み解くき、
”示唆”する内容とボキャブラリィーが必需。
現状把握からファッションの世界における明日と言う”可能性”を投げ掛ける、未来を示唆する。
ファッションの究極の価値は?”時をクリエーションし、スピードをデザインすること。”であれば、
そのための新しさとしての”時を探る事、時を読むこと”。
時を感じるモノとしてのイメージから、体感した共通の”エピソード”を語り合うまでのモノ化を論じる。
そのための”共通感受性”を仕掛ける。

5)論じる場合も自分の”こゝろの有り様”を100%に行為する事。
ファッションを論じるとき、そのこゝろの有り様は100%、自分の有り様である事。
自分のこゝろの有り様でない場合は論じてもそれは書き連ねてた”下こゝろ”あるレポートでしかあらず。
その切り口はフニャ、フニャで潔さ、心地良さが感じられない。

 さてこのシリーズ、『モードを語るとは,モードを評論するとは?』はこれで終わりです。
このような事を羅列しましたが、本当は学んだ事を持って、経験し又、不足なところを知ったなら、
再び、学び、と言う繰り返し、これを経験と言うのですが、
この“経験”を繰り返しそこに、自分自らがデシプリンしてゆく事で自然に身に付く事でもあります。
ですから、ここに至らない人が”経験不足”と言われ、自己満足な”レポート”になってしまうのでしょう。
 例えば、インタビュー文を読むとこのバランスが結構よく見えます。
今、なぜ、このデザイナーをインタビューする”価値”があるのかに関わって来るからです。恐いです。

 お終いに、今僕のこゝろの有り様が気になっている一文を、
『人間であることが恥ずかしいという思いを、
われわれは全く取るに足らない様な状況でも感じる事があります。
たとえばあまりにも低俗なものの考え方に出会ったり、
バラエティ番組を見たり、大臣の演説を聞いたり、
「鈍い楽天家」の言葉を聞いたりしたときです。
 恥とは哲学をするためのもっとも強力な動機のひとつであり、
それによって哲学は必然的に政治哲学となるのです。
資本主義においては、普遍的なものはひとつしかなく、それは市場です。
普遍的な国家というものがないのは、それはまさにひとつの普遍的な市場があるからで、
すべての国家はその市場の単なる中心地、つまり証券取引所なのです。
その市場は世界を普遍化させたり、同質化させたりするどころか、
それは桁外れの富と貧困を生産する機構です。
 人権を考えれば資本主義の「喜び」を讃えることなどできないでしょうが、
実際は人権も資本主義に熱心に参与しているのです。
民主主義国家で、この人間の貧困の生産に芯まで加担していない国家などありません。
恥ずかしいことに、われわれには生成変化を守るための、
まして生成変化を芽吹かせる(自分たち自身の中にさえ)ためのいかなる確かな方策もないのです。
 なぜなら、われわれに今日あらゆる恥じる心を失わせている戦争とは経済の戦争なのだから。
そして、この経済は欲望と情緒を失わせ、そこで動員される武器はマーケティングによって操作されている。
 ———マーケティングは今や社会のコントロールの道具である。』Gilles Deleuze/Pourparlers,p.86

 こんな事をおさらいしてしまった僕は、友人から頂いた本を読む事の大儀さが僕を蝕み始めました。

ありがとう。
平成二十三年九月十五日;
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2011年09月12日 22:00 | comment and transrate this entry (0)

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