平川武治版終戦記念日に念う事/「生まれて半歳の平川武治が体験した終戦日とは、 その時の祖母は、母は?」−2
気が付いてみると、
私たちは余りにも自分一人のことと、
その業のために身勝ってで横柄な生き方をしてしまっていませんか?
それが心地よい時期も在ったでしょう。
でも、今では、流石、もうちょっと、恥ずかしさを感じる事はありませんか?
人生を終わり掛け始めてるリタイア組の人たちはこれを認めると自らの人生が?
自然を念い、他者を想う、親を想う、先祖を憶う
社会を念う、國を念う、地球を念う
時をおもう、お金を念う、愛を想う、性を思う、
この、想うこゝろと想い合うこゝろが純に、自分らしく端整に「調和」していれば
その姿は安心出来るし、美しいはず。
僕たちが簡単に使ってしまっている『 美』は
此処からしか生まれませんね。
「 おおらかなる心と案じあうこゝろの調和。」
このこゝろの状態のキャッチボールが
”しあわせ”と呼べるものではないでしょうか?
しかし、それ自体は決して、永続性あるものではありません。
モノにも、人にも、自然にも終わりがありますように、
幸せや安心にも永続性はありません。
その幸せや安心が大切であれば、在る程に、
その”関係性”をどれだけ永く継続させて行くか?
此処にも、想い合うこゝろと行為の努力という
『謙虚さ』が必要になるでしょう。
その為には、先ず、ご自分の真こゝろを素直にお持ちください。
そのお持ちになられたご自身の真こゝろを信じて、
その真こゝろの思うままの謙虚さ在る行為を為さってみて下さい。
此処からが総てのはじまりです。
これは結構、勇気が必要なことです。
その始まりが不十分であれば、
総てが不十分な行為の結果になってしまうでしょう。
例えば、
ご自分が今、美しいこゝろを念っていらっしゃるのなら、
その美しいこゝろの美しさを念う行為をなさって下さい。
その行為が、絵を描くことなのか、服を作る行為なのか、
人を愛する行為なのか、家族を念う行為なのか、自然を思う行為なのか、
本当は、さして問題が無いのです。
問題は、自分のこゝろの想いに総てが潜んでいることです。
自らの真こゝろの在り方にあります。
学ぶこと、努力することとは
このこゝろの在り方の為に成さなければならない
人間の品位に関わるしなければならない
『謙虚』な行為の一つです。
その不連続が『関係』をも生みます。
その為された経験によって
『調和』の成熟さが生まれて来ます。
未熟、早熟、未成熟、成熟と、
この成熟さが足りませんね。
多く若い人たちも目先を急ぐあまり、
虚飾に戯れんと、謙虚なるこゝろを投げ捨て、
学ぶ真こゝろが鈍化、退化していませんか?
未成熟なこゝろに業を張ってもその業はそれまでのもの。
ご自分の業はより、成熟為されたこゝろに持つことで
その業は他者へも耀くまでのものになるでしょう。
お勉強とは、
為さなければならない自心への真こゝろの調和と広がりへの
謙虚なる行為でしょう。
だから、生ある限り、お勉強はしなければならない。
これも、自然なことなのです。
戦後の多くの日本人たちは
『不自然な』『無理な』『歪な』生き方を選ばされてしまったことによって、
僕たちが持っていたはずの
『こゝろのバランサー』をも歪にしてしまった
国民に成り下がってしまったこと。
嘗ての、
僕たちの國の湿りある、優美な調和をいっぱい想い起こしませんか?
これ以上、
”へんな”ことが当たり前にならない前に
『へんな國』にならないうちに!
そして、『へんなあなた』にならないうちに!!
気概ある真こゝろを携えて。
ありがとう。
平成二十二年八月十五日/65回目の終戦記念日に。
ひらかわたけはる:
投稿者 : editor | 2010年08月20日 19:09 | comment and transrate this entry (0)
『共棲資本主義』や『テクノロジー』について語る。/DISCIPLINE会ノオト/平成22年6月17日版,デジュメに変えて。
DISCIPLINE会ノオト/
*ひらかわのアジテーション!!
『 文明を謳い又は憂い、文化をデザインして欲しい。』
生を与えられ、生かされているあなた。あなた自らの価値観の元に築き上げる自分の世界観を拠り所に、
あなたが、あなたらしく生かされる事に必要な世界のために、社会のためにそして、人間のために、
堂々と、文明を謳い又は、憂い、文化をデザインして欲しい、それが服であっても。/ひらかわ:
*『 ファッションにもう、“夢”は無くなったのでしょうか? 』
そこで、“未来”をちょっとだけ想い、新たな、“新しさ”を考えてみましょう。
【共棲資本主義】を考え、
【分かち合い工学】を想い、
【分かち合いのためのデザイン】を考えてみる。
ここではもう、女や男の時代ではなく”人間のための”時代をその『本質』として発想する。
*変わらない資本主義に望む大切さを考える。
その発端は昨年の1年から、
『Woodstock Rock Festival 40周年』と
西アフリカ、マリ共和国への旅。
そして、『共棲資本主義』という発想。
*新たな社会環境が生まれると、
『分かち合いのためのデザイン』というテーマで 新しい時代へのデザインが、
そこに携わる人たちが 何かが出来ると信じて、
『分かち合い工学』と言うデザイン-カテゴリイを本気で考えて行く価値があると信じて!!
新たなデザインカテゴリーとして、教育機関も考えるべきである。
*
その"カッコつけ”作業のための"ウソも方弁"の社会は不変。
3+α)ここで一つ考えるべきヒントとしてのプラトン『国家』に述べられている、『知性』『欲望』そして『気概』の、
三位一体の関係性。
これを消費のレベルに落とし込めば、現在の日本の現状が解る。
あるべき『知性消費』も低下し、今は『欲望消費』のみが我々の豊かさを表層化している現状。
次なるは、物質的な『欲望消費』に満足した戦後の日本人たちと新世代の人たちが新たに思い、
求めるものは『気概消費』であろう。
ここで、『夢』の変質化。「モノへの夢から気概への夢へ。」
4)そこで、現在の若い世代の人たちの関心事とは?
――エコ、地球、環境、ヘルシー、結婚、家族、子供、安心、安全、いらないモノ、大切なモノ、
NPO、ケアー、ボランティア,友情、音楽、スポーツ、占い,神頼みなどなど。
ここにも彼らたち世代の人たちの『消費』についての変化が読める。
5)モノが与える『イメージ』を消費した時代性から,モノから得られる『リアリティ』のための消費へ。
ここで新たな「機能主義」も新しさを生む可能性として大切な要素。
即ち、これからの消費のモチベーションは『エピソード』が大切なキーワード。
モノを消費する事によって体験出来る『エピソード』が大切な時代性。
ここにも、持ち得た『エピソード』によって得られる『気概』を消費するという迄の新たな欲望シーン。
6)そこで、『本質』として考える資本主義の新たな形態とその在り方。
例えば、20世紀の資本主義が『独占資本主義』又は、『金権資本主義』としたならば、
21世紀の僕たちが求める資本主義は、出来れば、みんなで何かが出来るという気概性からの資本主義形態。
そこで提案出来る一つが、『共棲資本主義』又は、『気概資本主義』。
7)この発端はマルクスであり又、ヒッピーでもある。
資本主義の進化は、限りなく社会主義に近づく。
ここで大切なことは、社会主義と違うことは、『人間性』。
そして、その『人間性』を基盤に、『個人の自由な意志を大切な拠り所として、それぞれが作る気概ある共同体である。』
ここには『ヒッピーコミューン』が祖型としてかつてには在った。
41年前に、ロック音楽をその自由なフレームとして、行われた「Woodstock Rock Fes.」
8)ある時期、建築家集団”チームーテン”たち以降によって提案された
「建築を作り上げる空間そのものを機能的、質的に分解し、それらに能動性を与えた」運動と
その後、空間単位が取り替えられ移動出来ること迄を主張した結果、”テンポラリー”という新たな建築の発想が生まれた。
これをファッションの世界への新しさとして落とし込むことも可能である。
「身体空間そのものを機能的、質的に価値的に分解し、それらに能動性と拡張性を与える。」
9)近い将来、都市や建築などの組織又、オーダーといったものは、
その場その場の状況に対応したテンポラリーな構造や組織が必要になる。
全く価値の違ったテンポラリーな”小さな社会”。
それは、現在のような固定化された体制や組織など、個人の存在を事実上疎外した都市や環境ではなく
常に、個人の成熟した自由な意思の裁量によって築かれるあらたな共同社会である。
ここに『共棲資本主義』(『気概資本主義』)の根拠性を考えることが出来る。
10)このような新たな世界観の下でのファッションは新しい”夢”を持つ迄に、
*『物心一如』
より、肥大化して行く『大衆消費社会』構造そのものを今後、
変革して行かなければ僕たちの仏教の言葉『物心一如』のバランスが崩壊してしまうでしょう。
あの、『遠州好み』と言われている日本美学の中にも『共棲』思想と『融合』思想が在りました。
*『不義して富を求めず。』
本当に、もう、『アメリカ印の日本』から『日本印の日本』の国体へ。
その根拠性は「個人のエゴ」から「自然や他者との共棲」思想をもっと生かして行こうと。
人間味在る想いと行動が謙虚な真こゝろを持ち得るでしょう。
此処でも、もう、みんなが持ち得る自我を1%、セーブしませんか?
東洋の日本人としての成熟度を意識しましょう。
ここで、少し宗教に関心を持ってみて下さい。
おみくじを引くのも今では“消費”行動。
このままで行けば、『日本』という国は国体無き国、愛国心薄き国家、
思想無き国体と民の国になって『金権社会』構造のみが肥大化するだけでしょう。
もう、戦後は既に65年が過ぎました。
これからの新しい日本という国を、まず皆さんで想い、語り合いデザインしてみて下さい。
そこに、かつての日本人が持って居たはずの“真こゝろ”を持って!!
既に、現在では、『大衆消費社会』構造における儲ける方法、目立つ方法は無数に在りますし、
なんでもありの時代性になってしまっています。
そのレベルでのあれこれはもう、新しさや必然性や人間性を生む迄の新らしさへは至らないでしょう。
かつての日本人豪商、紀伊国屋文左衛門が『不義して富を求めず。』と言っていましたね。
こんな言葉も消えてしまった戦後の日本。
もっと、今の時代の「本質」として僕たちは何を考えて行かなければいけないかを、
『国体』を想うかを、若い世代の人たちへ投げかけて行く事しか僕は今、興味が在りません。
これが、出来れば好きなモードの世界を通じて出来れば幸せです。
*『 表層も大事ですがその深層にも真こゝろを向けて下さい。 』
僕のロジックの原点は物事の『本質』を出来るだけ学ぶ事。物事にも深層と表層が在ります。
例えば、美しい形と塊に見えている氷山にもその水面下にはそれなりの塊が在っての事。
そして、それぞれのバランスが美しさの総てを形創ると言うこと。
見えている表層のみを理屈や他者の事例を持ち出してとやかく言っても、それはそれだけの世界。
本質を学ぶ為の、本質を知る為の、本質を行為する為の、
『謙虚心』と『好奇心』そして、『勇気』と『責任』を意識しての生き方を選んで欲しいと想うのです。
若い時代に“早熟に”人生の、生き方の『本質』を知って、持ってしまえば案外と物事は自分らしく、
ポジティフに堂々と生きて行けるのですよ!!
造られ与えられた世界で生きて行く為の『マニュアル』人生はもう止めて下さい。
即ち『本質』と『表層』の関係性を自分らしい価値観と世界観で自分のバランス観を持つ、
その自分のバランス観で物事に関わって行く事がこれからは大切な「個人の責任」になる時代性でもあるという事です。
例えば、何の為にブログを書く?にも関わって来る時代性が。
自分らしい価値観と自分の世界観を持ち得るには
先ず、自分の内側を覗き込んで自分の内なる心象風景としての幼年期を見直してください。
自分が何に夢中になって遊んでいたのか?どのような環境で育ったのか?などですね。
2番目は、自分の美意識を持ってください。
自分の身近な環境から、自分なりの「文化の領域」を持ち模す事から始まるでしょう。
3番目は、自分なりの問題意識を持ってください。
自分の生きている時代性とその社会で起き上がっている諸問題に対して関心を持ち、好奇心を豊かにして下さい。
そこに『三方良し』の想いが行為の本質になれば。
*『 三方よし。』/『 三方一両得。』
『三方良し』とは多くの豪商たちを輩出した近江商人と呼ばれた人たち彼らの、”商人哲学”です。
三方とは、”自分良し、相手良しそして、世間良し”の三者良しという事です。
(6月15日付け/日経新聞文化面「私の履歴書」欄/オービック会長兼社長の野田順弘(のだまさひろ)氏/「『三方一両得』」という言葉が出てきます。
この人は昭和43年に会計機販売の仕事を自分ではじめるのですが、そのビジネスを始めるきっかけとなったアイデアだそう。/以下、勝手に引用。
「いままで自分たちが大手企業に売り込んだ会計機の多くが新型機種の買い替えやオフコンの導入で不要になり、倉庫に眠っている。それを安く引き取ってきて整備し、中小企業に低料金で貸し出すというのはどうだろう。大手企業にとっては処理に困っていたものがお金をもらって片付き、資金がない中小企業は安い料金で会計機が使える。会計機も生き返るから『三方一両得』になる。そこに商機があることに、まだ誰も気づいてないはずだ。」
*『共棲資本主義』と『分かち合いのある社会』そんな社会のためのデザインを考えたい。
そんなとき、『共棲資本主義』は一つの想い、日本人として持っていたはずの真こゝろであり、
可能性だと信じれば例えば、ここ数年前から僕の眼差しとして提言している、
ファッションデザイナーも『May I help you?』の真こゝろが必要になる。
日本のモノ、西洋のモノ、東洋のモノそして、新しいモノ、古いモノ、自然と環境、民衆のものと作家のものそして、
自分と他者など等。物質的な豊かさの生活を持ち得た『豊かなる難民』たちが持たなければならない新たな責任としての
バランス感豊かな、『共生感覚』や『共有消費』でしょう。
今の時代の現象、リメイクやエコなどもこの新たなバランス観が必要なそして、大事な世界。
そして、『腹八分目』感覚も大事でしょうね。
繰り返しますが、だから、自分のエゴを1%をセーブしてください。
セルジュ・ラトゥーシュ//"decroissance"(脱成長、縮退)理論の提唱者
『経済成長なき社会発展は可能か?〈脱成長〉と〈ポスト開発〉経済学』(中野佳裕訳、作品社、2010年7月)
*ファッションと夢
最近、ファッションの世界に興味を持って居るはずの世代の人たちと話すと
彼らたちからその好きなファッションの世界に”夢”という言葉が絡んで来なくなり始めた。
彼らたちにとってのファッションはもう、”夢”と置き換えられない迄に「日常化」してしまった世代なのだろうか?
若しくは、ファッションにそれ程の魅力が無くなり始めたのか?
それ程、憧れるブランドが無くなったのだろうか?
又、彼らたち世代の関心事は既にファッションを通り過ぎてしまって違うものに”夢”を委ね始めたのだろうか?
ここで、僕なりの判断なのですが、
彼らたち世代はもう「消費」そのものをうざったく感じ始めているのではないだろうか?
消費時代のジュニアたちも大衆の中へ入り始めたことで日常化してしまった「消費」に対して
より、客観的なる態度を持ち始め、「消費」よりも大切なことがという視点が芽生え始めたか、
又は「消費」には変わらぬ興味があるがその対称の種類が変化したとも言えるもではないだろうか?
ここでの発想と新たな消費のベクトルの一つに、
―――――『欲望消費』から『気概消費』へ。
これによっての新たな”夢”の可能性が考えられる。
『何かしら、私も地球や自然や環境に優しく生きて行きたいね!』
『古いものを大切にし、出来るものは再利用して、いらないモノはいらない生活をしたい。』
『みんなで使い合いが出来るものはみんなで使ってもいいよね。』
というようなベクトルからの新たな「消費」即ち、一つの『気概消費』が生まれたことは確かである。
ファッションの世界の『差異』はそのブランドが発信可能なイメージ力により何処って居た。
PCの発達後、この『イメージ力』によるファッションの「差異化」は急速に進化した結果、
その虚像の虚像たるネタがバレるのも早くなった。
その後、ファッションが持つそのバニティさはそれを体験出来る限られた人々と
その環境に居る人たちの世界へと狭くなり始めている。
この狭くなったカオスティックなファッションの世界をビジネスマンたちは以前より、
ヴァーチャル的にPCを使いこなしてSATE、BLOGGERそれにTWITTERSやFACE BOOK
そして、e-コマースの世界によって
より、ヴァニティなヴァーチャル体験をファッション世界の新たな『差異化』ヘ求めはじめる。
ここにも現代のファッションに興味を持ったエッジな覚めた世代には新たな”夢”の構造が読み取れる。
*テクノロジーについて再考。
もう一つ、歴史的な社会の進化を見るとこれが正当的なる新しさを誕生させ、
そこにこそ、魅力を感じる”夢”が誕生するのではないか?という視点。
それは新たな技術性/テクノロジーに目を向けることである。
即ち、“差異”、これは消費社会の必然的価値要素であることには変わりがない。
洗濯機も掃除機も冷蔵庫も新たなテクノロジーに可能性がある分だけ今後も、
「新商品」が開発され、結果、ニューデザインが必要である。
この新しさを考えた場合、
ファッションの世界では『テクノロジー』が今後の唯一の大きな可能性。
従って、これからのファッションの世界も、『テクノロジー』と『エステティック』
それに『自分の世界観』から生まれる『問題意識』。
この三位一体の発想とそれらの調和観によって新たな好奇心が”夢”あるクリエーションを産む。
此のバランスが、極めて自分的かつ、社会的であれば”時代”が表現出来る、時代に恩返しが出来る。
ここでは在り来たりの”エゴ”に頼ってはいけません。
現代社会が既に構築してしまった、個人が持ち得たパーソナルメディアの結果、
我々の社会は『POPの泡沫化』でしかないのですから
個々のエゴは普遍化し当然ですが、類似化するしかないのです。
そして、最後は消滅してしまう迄の時代性が現代。
ですから、ありきたりな人並みな生活現実から生まれる”エゴ”には
もう然程、創造性高きカオスは望めないでしょう。
ここで、”自分の自然体”への月謝が払われるか?責任感が?、という人間の倫理的なるレベル問題にも。
だから、”エゴ”と称されるレベルは只の”業”でしかない。
従って、純な”エゴ”を他者より多く例えば、200%出せばそれは社会へ届く可能性があるという事。
ここに個人の持ち得る『夢』の在り方と立場が、想いが生まれる。
そこでは、何のために、誰のために、自らの”エゴ”を持ち出すか?が、大切な創造者としての立場でしょう。
ここで、『テクノロジー』と『エステティック』それに『問題意識』、
この三位一体のためにカオスとしての”エゴ”が新たな”夢”を創世すると信じたい。
此の様な時代性になってしまうと、
『テクノロジー』はヒューマニスティックなバランスを超えてしまっている。
『テクノロジー』を認めない、認めたくない人たちが
『良心的環境主義者』としてその自らの立場を肯定し始めている。
結果、『テクノロジー』についての意識が、技術が思いが、
”形骸的な、人と違ったモノを”の軽いノリでデザインしてしまって
今、服を作る若い人たちに欠如している。
例えば、自分の『手』を信じられる迄に手を使って来たのか?
使いたいのか?修練して来たのか?
も、一番解り易い自分自身が持ち得た『テクノロジー』の一つ。
只、絵型を書いて工場や振り屋さんへ委ねて出来上がって来たモノが作品又は商品。
この世界からもう数歩も自分らしさで『テクノロジー』について
思いと、学習と関わりを持たなければ”夢”あるモノに近付けないだろう。
即ち、【ヒューマンテクノロジー】の世界、あるいは、【アルチザン-テクノロジー】。
それと解り易い【サイエンステクノロジー】の世界。
これらの調和観。
”自我”もテクノロジーの変容器官の一つ。
ファッションの場合の『テクノロジー』は
その殆どが”素材の開発”に委ねられ、目を向けられていますが、
本当は、服を作ると言う工程を分解すれば、
”縫う、編む、折る、切る、貼る、繋ぐ、明ける”などの
諸技術が必要になって造られるのが1着の”服”であるはず。
もう一つ、着る”身体”にも『テクノロジー』は存在している。
身体の”構造機能、拡張機能、性機能ともしかしたら、こゝろにも”。
例えば、”テクノロジー”は資本主義が消えても、社会主義が消えても国家が無くなっても
残り動き続けて存在して行くものでしょう。
最近の好例では、”ダイソン社の新しい扇風機”ですね!!
或る意味で『危機の時代』。
すべての根拠が失われ始めた現代と言う「POPの泡沫化現象」状態下で
”夢”ある新たなものを創ると言う行為を開始するとしたら
『テクノロジー』に懸け、委ねる事が新たなる勇気ある選択、
これこそが新しい時代を生む迄のエッポクメイキング足りうるでしょう。
ファッションの人たちに今欠如している眼差しの一つに
この『テクノロジー』への関わり方があるのではないだろうか?
どうしても、『素材』そのものの新しさに委ねてしまって
服を作る事の『本質』を考えた『テクノロジー』が欠如してしまっている。
新たな『テクノロジー』と新たな発想での『バランス-オブ-テクノロジー』が生まれなければ
所詮、ファッションはすべて、ここ1世紀を超えても未だ、『WRAPPING』/包装紙の領域。
(最近のCdGを見ていても残念乍ら、これは感じてしまう)
身近かな現実で言えば、
『手』に委ねられた“MICRO POP"現象の一つとして、
若い世代の『リ-メイク』がより、一般化している。
『リ-メイク』を製品化するための請負工場迄、現在では出来ている。
バリエーションの世界で言えば、
今後はブランドモノのリ-メイクから、ラグジュアリーモノのリ-メイク迄が。
これらの『リ-メイク』の服に対する自由なる発想を元にして
新たな考えられる、いろいろな『諸テクノロジー』と
そのバランス観が『リ-ミックス』されれば、
この現在の閉鎖的なるファッションの世界にも
新たな、豊穣なる世界観が誕生するのではないだろうか?
そして、新たなる『夢』が生まれる。
考えてみれば、
この発想による世界観は従来の日本人が最も得意とし,
発達させて来た分野では無かったのでは?
「パクれるものはパクって」
そこに自分たちだけの発想のテクノロジーが使われていれば
それはもう、オリジナリティを持ち得る迄の現実にそしてビジネスに。
極論で言ってしまえば、
『ファッションにおける日本式ケイタイを創る』可能性からスタート。
そして、ファッション版”ダイソン社の新しい扇風機”を考えよう。
* まとめ;
『共棲資本主義』と『分かち合いのある社会』そんな社会のためのデザインを考えたい。
1)20世紀の独占資本主義が今世紀も続いていいのだろうか?
変わらぬ金権主義な社会構造の下での価値観は多分、芽新たしさのみであろう。
2) そこで現在の社会的不安や不信又、含羞なきモラルをその根底として来たるべき新たな時代の社会を考えて見る。
もう一度”夢”を探して下さい。
3) そして、持ち得たそれぞれの自由の裁量とそこからの気概と希望を拠り所とした”小さな社会”を考えてみよう。
4) ”生かされている人間としての自分”がスタート。
謙虚で開かれた真こゝろを持って、想い合うこゝろと信じ合うこゝろ、助け合うこゝろ,分かち合うこゝろ、
そんな愛在るこゝろの在り方を信じ,生きて行ける世界を念い考えて下さい。
5) そのような世界で、社会で自分は何が出来るのか?したいのか?すればいいのか?を
もう一度深く悩み、考えて下さい。
6) そこに自分が好きな世界が、夢見る世界が存在していれば幸せですね。
それが、ファッションであっても,羊飼いであっても。
7) ”謙虚、誠実そして、爽やかに” 自心で自心を豊かに、ご自分の調和観で成熟させて下さい。
番外)後は、総てが”方法論”のバリエーションでしかありません。
ありがとう。
参考/
日本繊維機械学会:http://wwwsoc.nii.ac.jp/tmsj/japan/index.html
テクノ手芸ウエブ:http://www.techno-shugei.com/
Dashing Tweeds : http://www.dashingtweeds.co.uk/
Dr.Jenny Tillotson : http://www.smartsecondskin.com/main/
WearAbleTechnologies : http://www.loop.ph/bin/view/Openloop/ WearAbleTechnologies#NEW_developments
St.Martins College of Art & design : http://www.csm.arts.ac.uk/
Elisabeth de Senneville /art-couture : http://www.e2senneville.com/
BOOK/"Body extensions"/ARNOLDSCHE刊Claudio Pantellini他、展覧会カタログ
UNDER COVER :特に、 2シーズン前のメンズコレクション
ROMAIN Kremer: 此処数シーズン来の彼の世界観。
RAF Simons: "RAF-IZM"が健在。
瀬尾英樹:彼の卒業コレクション
Elisabeth de Senneville :ART COUTURIARシリーズ
"Zeitsprung"/ 2003
文責/平川武治
投稿者 : editor | 2010年08月04日 08:38 | comment and transrate this entry (0)
或るファッション学生への手紙。/ 少し前の、Gallery FAKEでの作品展で。
わざわざのメール、ありがとう。
その後、機嫌良くやっていらっしゃいますか?
僕はあなたの作品が好きでした。
あの中では僕が感じた一番正直な真面目な作品で、勇気がありました。
レベルの問題等はいろいろあるでしょうが。
初対面でのあの様な発言、少し唐突であったようですが、
あなたの持っていらっしゃたご自分の夢に対する”勇気”と“本意”が感じられたので
僕もうれしくあのように喋ってしまいました。
僕流に言えば、大半の人たちが”烏合の衆”。
言われた事の範囲のなかでやっている程度。
それっぽい所でそれっぽい事をして、
そのレベルで”自己満足”または“自己肯定”をして
お互いの”傷”を舐め合っている様な奇妙なレベルと環境でした。
僕の一番嫌な世界。(そのために200円にディスカウントされた飲み物、チープですね。)
それに、あの空間自体に美意識も与え無く、
それぞれの”勇気無き自己肯定”がひしめき合っているだけ。
だから、いらした、例えば、あなたのご家族のように”学園祭のノリ”レベルに捕らわれる原因でしょう。
(まあ、学園祭なのですがね、多分ご家族はもっと違う所のレベルを想像なさっていらしたのでしょう。)
知性と気概を持ってそれぞれの責任を果たして日常生活をなさっている人たちの眼を馬鹿にしてはいけません。
残念乍ら、すべてがあの学校とやらに携わっている先生と呼ばれている人たちの
”なま/生”が良きも悪くも出ているだけの現実というのが僕の眼差しでした。
個人の経験を売りにするのならその経験の継続とディシプリンと
人間としての”生”への考え方としての”本質”を問う迄の”好奇心”が大事でしょう。
その”本質”が甘いのでしょうか?
その”好奇心”がないのでしょうか?
又は、そう、思想がないのでしょう。
何か後ろに、或る種の”下こゝろ”を感じてしまいました。
これは、教える側にも教わる側にも。
さて、あなたの作品についてはあの時にいろいろ話した事で充分ご理解頂いていると。
もう一度,『人間の拡張』/『Extensions & Expansions of the human Body』を!!!
これからの人間が遭遇するまたはしなければならない、
持ち得なければならない環境と状況を、生活シーンを考えての
あり得るべき”人間”としての可能性を夢を。
”ボディというロマンティックな世界へ”委ねて下さい。
(今を見ているだけの人はここにトレンドが気になるのです。)
もう、男、女のレベルでの問題意識の時代の盛りは過ぎました。
今の21世紀に僕たちが考え思い果たさなければならない事は
「人間と人間性」とその「新たな役割と責任」そのための環境と社会を思い合う事。
その時に『分かち合い』のこゝろがやはり、20世紀と違って大事ですよね!!
そこで、新たな『身体の拡張』性/『Extensions & Expansions of the Body』が一つのヒント。
しかし結局は、”人間の身体が、こゝろを、時間を、思想をそして、夢を、”
【着る】ものが『服』ですからこれしかないでしょう。
ここに行き着くはずです。
望むべき環境と社会との『Extensions & Expansions of the Body』の
一つのシンボルンまたは、コードとしての『ストッキングを素材に』
どれだけの両義性を持たせるかによって「服」そのものに深みと広がりが出て来る。
その“両義性”を何によって、どのような素材または、コンテンツと
どのようなテクニックを使い合わせられるか?などによって表現する、
そこに”創造性”が発芽する。(ここでリサイクルストッキングを考える事は、案外時代性の一つでしたね。)
それを形に出来るこゝろの想いと技術が最後に製品にする。
そして、始めて自分以外の他者に関われる。
関係性が生まれる。
自分の造った物によって!
ここに“気概”が生まれ
それぞれがポジティフな関係性と行為によってエントロピーが働く。
このプロセスをもう一度あなたのピュアーの眼差しと勇気でもって
ご自分の学び持ち得た世界観でお考えになって下さい。
理屈は後付けでいい時代性です。
今始めれば、大丈夫です。(”プロパガンダ”をご存じなかった程の純粋が残っていらっしゃったあなたですから。)
未だいっぱい、あなたはあなた自身の時間と勇気を持っていらっしゃるのですから。
夢を持ち続けて下さいね。
"Just Do It!!
And Never Give up!! through your force & body for human beings”
ありがとう。
あの場所で、あなたが一番勇気があったので
此の様なメールを差し上げる関係性が生まれました。
残念乍ら他の人たちは(もう一人いらした、)
あなたが持っていた”自分の夢に対する責任感と勇気”が無く、
唯、在るように見せるためのコンセプトや理屈や恰好付けを、
そんな立場を作っているに過ぎない,
ファッションごっこに戯れる
只の古いタイプのファッション人間たちに憧れている輩?
例えば、「星の王子様」。
日本人が大好きで一度は読むものでしょう。
もう一度読み直す事も良いかも。
『むやみに、大人ぶる事に煩わされてしまって、かつて子供だった事を憶えている大人は少ない。』
と言う様な事があの物語のコンテンツだったはず。
そして、王子様が置いてきぼりにした一輪のバラの事を想い出すこゝろ。
ここに『分かち合い』や『想い合い』の本質が、共棲精神が。
風と行き来をし,雲からエネルギィイを。
ご自愛とお励みを。
文責/ひらかわ:
投稿者 : editor | 2010年06月15日 00:07 | comment and transrate this entry (0)
discipline会のご案内
"心地よい風と陽の戯れが爽やかさを
今日の1日の感謝すべき、さりげない贈り物。”
こんにちは。
ご無沙汰をしていますが、みなさまお元気でご活躍のことでしょう。
久しぶりでいつもの『discipline会』をやりたくなりました。
お時間のある方、気に掛る人、好奇心ある方々、
どうか、ご一緒に考えてみませんか?
皆さんのご意見もお伺いしたいのです。
変わらぬ、のっぺらぼうな日本の『豊かな、難民たち』
パラサイトという言葉も埋没してしまった穏やかさ。
アナーキーやニヒリズムも退化した無情の輩たち。
一向に退化しない外国人コンプレックス。
バニティなモードの世界もより、おバカさんたちが。
久しぶりで3ヶ月近く居た日本は僕にはこのようでした。
『分かち合いのデザイン』というテーマで
新しい時代へのデザインが、
そこに携わる人たちが
何が出来るかを考えています。
『分かち合い工学』と言うデザイン-カテゴリイを本気で!!
その発端は昨年の1年から、
『Woodstock Rock Festival 40周年』と
西アフリカ、マリ共和国への旅。
そして、『共棲資本主義』という発想。
モードの人々の喪われている事の一つに『含羞』があります。
弄んでいる事の一つに『謙虚さ』があります。
そして、遅れている事の一つに
『テクノロジー』があります。
新しいテクノロジーは全てに新しい可能性をもたらします。
例えば、洗濯機や掃除機は
諸技術の発達によって未だ未だ、新しさが誕生し得ます。
ビジネスにも可能性が生まれます。
モードの世界は『テクノロジー』を素材により何処って居るだけの
変わらぬ『WRAPPING』バリエーション。
勿論、服を縫製する時点でのいろいろな『手法』も分解してみると多くの技術が介在します。
『ヒューマンテクノロジー』と『サイエンステクノロジー』の
考えられる新しきバランス化。
もう一方で、
着る人間の身体の『テクノロジー』も考えなければならない時代性が。
ここにしか、今後のモードにおける所謂、
『新しさ』は登場し得ないでしょう。
ここに僕は
『共棲資本主義』におけるデザインを考え
『分かち合い工学』を想い
『分かち合いのデザイン』を叫びたくなったのです。
みなさま、
『好奇心』を感じられたら、是非、ご一緒しませんか?
=============================================================
■日時: 6月17日(木) 18:30-21:30
■ゲスト:
柴田ジュン/
アーティスト。97年渡独。
ドイツ、ベルリンにてアーティスト活動を開始、インスタレーションやパフォーマンスを中心とした作品を発表。
2003年帰国。国内外にて活動中。
三上善司/
2005年、江東区清澄白河に現代美術ギャラリー、ZENSHI を開廊。
2009年、千代田区神田岩本町に移転。
国内外経験や学歴は問わず、骨のある若手作家を中心に展覧会を企画・開催する。
東京都府中市のギャラリー、LOOP HOLE の共同ディレクターでもある。
http://zenshi.com
たくさんのご来場、ありがとうございました!
投稿者 : editor | 2010年06月08日 01:35 | comment and transrate this entry (0)
チェ・ゲバラの言葉を思い出し、私たちも、黙祷を捧げましょう。
『 なぜ、こんなことをされても日本はアメリカの言いなりなのだ! 』
エルネスト・チェ・ゲバラ/広島原爆記念館見学の言葉。
みなさま、
今日は64年前、世界で始めて
広島に原子爆弾が投下された、『広島、原爆記念日』です。
私たちも、黙祷を捧げましょう。
無残に、犠牲者になられた人たちのご冥福と共に、
忘れないために。
繰り返さないために。
私たちの国を想うためにも。
世界を考えるためにも。
私たちも、黙祷を捧げましょう。
『 なぜ、こんなことをされても日本はアメリカの言いなりなのだ! 』
そして、もう『アメリカ印の日本』を捨てましょう。
「アメリカ印の国体」を
私たちの、
『日本印の国体』に戻しましょう。
今がいい機会です。
勇気と共に:
平成21年8月06日:
鎌倉にて、
ひらかわたけはる:
投稿者 : editor | 2009年08月06日 13:40 | comment and transrate this entry (0)
お釈迦様のお誕生日に、 『関係性』と『根拠性』を想う。-1-
今日はお釈迦様のお誕生日です。
『花祭り』の日です。
僕にも思い出があり、
小学生に上がる前だったころ、近くの四天王寺さんの境内に
花で飾られた子供時代のお釈迦様の像にお水を掛けに行き、
その帰りに甘酒を貰って帰ってきました。
これが子供の頃にはうれしく楽しい春の訪れを知る行事でした。
その後は、小学校へ行くようになると始業式がいつも、この日か、もう一日前の7日なので
『お釈迦様のお誕生日』は僕には忘れられない日になっていました。
キリストの誕生日にはあんなにはしゃぎ回る日本人になってしまったのに、
お釈迦様のお誕生日は忘れている人も多いでしょう。
これが、今の日本人の心の根拠性の原点の一風景かもしれません。
『残念ですね。』
『悔しいくも想いますね。』
日本人の心の中に宗教心がなくなり始めてどれぐらい経ってしまったのでしょうか?
その宗教心がなくなって、僕たちの国はどのように変わってしまったのだろうか?
「気骨」や「気概」とか、「羞恥」や「含羞」という言葉が
「謙虚さ」や「思いやり」というこころの在り様が
実社会から完全に近い形で忘れ去ってしまうほどの、
現代社会になってしまったのでしょうか?
代わって、
消費社会を肯定する方法としての「消費文化」とそれをいじくり回す肯定論。
自分自身を唯、唯この消費社会へプロパガンダすることのみに
安価に、身近になった情報と「時間と自由とこころ」が使われ
今にウケたいと言う行為としての自己宣伝のための生き方。
そのこころは?
その「根拠性」とは?
モノにも、人にも生まれと育ちがあります。
それらが持ち得た「根拠性」を確りと学び知ることが大切です。
それが教養であり知識であり教育であり、経験です。
有り余るほどの物と行為。
これらを選び選りすぐって
自分にとって必要なものや事そして人を選ぶためにも「根拠性」はその根源でしょう。
以前に「もっと深層を」。
『表層のみにとらわれる』のではなく物には必ず見えていることがあれば
そのものには見えないものがある。
だから、もう少しゆっくりとこころと時間と自由を賭けて
物の「深層」を見るようにしましょう。
それが大切だと。
「深層」を知ることとは
それぞれの「根拠性」を知ることです。
以前に、『いらないものは捨てましょう』を書きました。
『いらないものを捨てる』ためにも「根拠性」が必要になり、必然性を持つのです。
その時に『宗教心』が必要になるのです。
いいですか?
自分の持ち得た『エゴ』を捨てることが
これからの時代を救うことへ通じる
唯一の、
誰でもが出来うる大切な人間としての『行為』なのです。
この人間としての行為の内なるに『宗教心』が。
今日は4月8日。
お釈迦様のお誕生日です。
『お花祭り』の日です。
お祝いをしたい人は近くのお寺へ出掛けて御覧なさい。
掌を合わせてください。
自分の心の前で。
ここに真こころが在ります。
『合掌』
ありがとう。
投稿者 : take.Hirakawa | 2009年04月08日 00:55 | comment and transrate this entry (0)
今日のCOMME DES GARCONSの巴里コレクションを見て想ったこと。
巴里コレクション’09/'10-A/Wにおける今日の『COMME DES GARCONS』のショーは久しぶりに深くゆっくりと感動したコレクションだった。
その作品群は近・未来観を確実に感じさせる想像性豊かで、人間味溢れる距離感から丁寧に穏やかにそして、細やかに着る女性のために素材が選ばれ縫い合わされ、それらを自由な優しさの発想で着る女性を想う心でデザインが為されたコレクションだった。そこに僕が以前から考えていた『CARE/CURE』という新たなコンセプトが彼女によって見事に時代を先取りし、具現化され始めたと読んだ。
世界恐慌の時期であるが、時代は確実に新たな可能性を、それぞれが持ち得た関係性の継続のために委ね始めたと読めるであろう。
もし、自分が勇気を持って与えられた自由さをその創造性の為に使うならばいつの時代も確実に新たな可能性が創造される。
この日の朝、9時半という早い時間に行われた『JUNYA WATANABE』のショーはオペラ『トスカ』の頭と終わりの部分を趣味良く、気分よくそれ以上に新鮮なコスチュウムとして出てくるもの皆が、「It's so special!!」なコレクションだった。
時代の捉え方と女性への想いと自らが持つ創造性を彼もまた、見事に明日からそれなりの女性はきっと待てずに着たくなるまでの服に仕立て上げ、演出されたコレクション。この彼のデザイン性の根底にも『PROTECT/PROTECTION』から『CARE/CURE』というこれから主流になろうコンセプトが読める。
僕が想う『CARE/CURE』とは、これからのモードが馬鹿げた騒々しいバニティーな一方向性から、着る女性を優しさのジェンダーへ、人間的なる次元へ、『健康、安心、安全とそのための快適性』へ向かうこと、そして、それらは新たな服が持つべき『役割』であり『機能性』であると考えるまでのデザインコンセプトが『CARE/CURE』なのです。このコンセプトをどのような素材を選び、加工し、合成してそれらをどのようにデザインするか? これがこれからの新たなモードに求められる豊かな生活者たちのためのデザインコンセプトであろう。
自分たちが着たい服を着ることによって、身体と心と性を健康、安心、安全とそのための快適性を与えるまでの発想が必然的な時代性となるだろうという考えなのです。
単純に考えてみると、ジーパンが50年代に作業用の衣類でしかなかったのが’60年代終わりから音楽というメディアと伴により、一般化し始め’80年代にはファッション化されそして、現代までに受け継がれていることを改めて考えてみるとジーンズはまさに、この着る服によって、『健康、安心、安全とそのための快適性』を主軸にデザインされ続けられてここまで来た完成品といえるだろう。
今後のモードにおける新たな創造は素材ありきの世界になってしまう。
着る人間性を考えた、身体と心と性のために『健康、安心、安全とそのための快適性』を思う時、どのような素材を選ぶかが先ず、第一の大切な初期創造である。素材に可能性を委ねるデザインがしばらくは必然的な創造性へと導くであろう。タダの形骸的なデザインはもう疲れる。
このような近未来のモードへの眼差しを持った僕は今日の『COMME DES GARCONS』のコレクションはその先駆けであったのでより、深く、静かに感動してしまった。
”ありがとうございました、川久保玲様。”
【参考】ーーーこの原稿はほぼ、2年前に書いた雑誌[Le Pli-1号]のためのものです。
特集『CARE/CURE』
プロローグ;
「 心ある贅沢は安心をまたは、豊かさを『CARE/CURE』する。」
『星の王子さま』を読みましたね? 毎日、自分の大切なものに、育てる責任と喜びを、想いをそのために毎日、小さな木に『水』をやる王子様。 これが『CARE』の初元でしょう。そしてその行為が『幸せ』 何のために『CARE』をするのか? 『継続』のためです。 それぞれが想い持ち得た責任と行為の対象としてのその当事者でしか理解出来なくても良い『関係性』を『継続』させるために、 ぼくは『CARE』を考えています。
**
私たちが生きてゆく間には、いろいろな、たくさんのすばらしい人たちとの出会いが在り、そこに彼らたちとの共有できる贅沢な時間があって、 それが何らかの形で自分の為すべき事、他者に出来る事としての『仕事』に関わって行く。 この『関係性』が大切です。この繰り返しが大切です。 僕たちが生きて行くという事の確実な根拠性の一つです。
***
今、僕はキリスト教よりもキリスト自身が何のためにあのような行為をしたのだろうかを考えます。
その一つの答えに『関係性』が在ります。
これは多分、総ての宗教の根源の一つでしょう。
何よりも大事なのは個々の『関係性』の積み重ねです。
その中には神との関係もあります。 イエスは、『関係性』が総てである事を身を以て示しました。 あくまでも人と人との『関係性』=『愛』と言い換えてもいいと思います。---が総てである事を身を以て示そうとしたのではないでしょうか。
つまり,イエスがやろうとした事は,人間が作ったものである「国家」や「貨幣」に,逆に支配されてしまっている状況を『関係性』によって破壊しようとした。それを貫くには磔になって死んだ方が後世までも伝わり効果的であると判断したという事です。
そこに信仰心が生まれたのです。
****
「CARE】することとは?
一番単純な形としては「水」をやることだと想います。
豊かさを享受された社会に育む個人、個人は“より豊かさへ”という自己拡張のための自己確認行為へ「水」を施す。
*****
時代性は『保守化の上書き』。
消費文化という価値観の元での与えられた気概は興味,好奇心の拡大化、肥大化とそれらのガゼット化とキッチュ化。このような時代性の元における一番大切な究極の『関係性』とはより確かさを欲望する。
一つは、人間としての“肉体と心”そして、”自然”との関係性。他方,大切なのが友であり、恋人であり“家族”という『関係性』ではないでしょうか?
それらの『関係性』は自分にとって大切なもの、重要なもの、信頼すべきもの、可能性あるもの、便利なもの、不思議なもの、楽しいものそして、愛あるもの、心あるものなどいろいろなレベルの『関係性』があるでしょう。 そこで自分が持ち得た、または、結果、選んでしまった『関係性』をどのように『継続』させて行くか? 関係は友人、恋人、会社や都市、この最初に『家族』が在るのでしょう。
また職業もこの『関係性』から生まれるものでしょう。
自分自身の内なる『関係性』を求めながら、その自分が大切にしたい『関係性』しなければならない『関係性』を対=人間、時間、空間、それに自然と季節感や地球と人間としての「五感」そして、モノ=。
これらとどの様に関り『継続』してゆくか,行かなければいけないのか?そのためにはどのような,どんな『CARE/CURE』が必要なのか?
自分にとって大切な『関係性』を『継続』させて行くための心在る、思慮深き行為の一つに『リピート』という方法としての行為があります。 その行為を与えられた時間としての『生』において、どのように具現化して行くか? これが、人が言う『人生』なのでしょう。 僕はここに"CARE"という言葉を感じました。
自分らしい行為としての責任ある『CARE/CURE』は自分が望む大切な,大事な『関係性』を唯一、昇華させ継続させる目的であり、手段でもあるでしょう。
『 心に楽しく 身体に優しく。-CARE/CURE 』
「豊かな生活」を継続してゆくためのデザイン。
「豊かさのためのデザイン」から「豊かさを継続してゆくためのデザイン」を考える時代へ。
では、どのようなデザインが欲望されるのでしょうか?
その時,『創造性』と『装飾性』はそして,『機能性』は何を新たな価値観として、“ニュー・スタンダード”として考えなければならないのでしょうか?
何が「デザインの本意」となるのでしょうか?
『不変なる身体』と『欲望』の関係性からの『継続』。
その為にしなければならない新しい時代に生きる人間として考え、行為する為に、
モードの世界に於いても『CARE/CURE』を考えませんか?
「 心ある贅沢は安心をまたは、豊かさを『CARE/CURE』する。」
******
「 彼は自分自身の好きな対象を培い、養い、そして面倒を見て世話をする。
対象それ自体を豊かにしようと努め、自分の好きな対象との間に築かされた関係性によって自分自身を培っていこうとさえする。」
これこそが『象徴の関係なのです』
出典/『愛好者(AMATEUR)』をめぐって。 デジタル デヴァイスによる『クリティカルスペース』創出の試み:ヴェルナール スティグレール/11th. July ’07/東大駒場キャンパスにて:
エピローグ;
ポッチェルリの「ヴィーナスの誕生」を思い描いてください。
中央に誕生したばかりのヴィーナスが、その左右に若きミューズが見守っています。
その右側のミューズの行為の心は『CARE/CURE』そのものです。
美しい花の刺繍が施された上質の布を誕生したばかりのヴィーナスへ。
文責/平川武治:Dec.'07
投稿者 : take.Hirakawa | 2009年03月08日 08:01 | comment and transrate this entry (0)
聖バレンタイの日に;『あなたは、与えられた自由を何に使っていますか?』
今年の僕のテーマは、
『あなたは、与えられた自由を何に使っていますか?』
みんなが、与えられ、人間として持ち得た『自由』を
どのように使おうとそれこそ、『自由』。
その『自由』を何のために、どのように使うかがその人の人間的なるレベル。
これからのこの21世紀における目標とは、『質』のレベルの昇華作用でしょう。
『生活の質』、『労働の質』そして、『環境の質』と『感覚の質』。
これらの『質』の成長を先ずは、個人のアイデンティティのレベルで
バランスよく自分らしさの元で高めること。
次には、この質を持って世界レベルでの他者との大切な関係性が
次なるレベルへ昇華できるような「こころの根拠」として持ち得、
世界と共有し得るまでに。
即ち、人間生活本来の【贅沢の質】の成長を想い、智慧を使い、考え行動してゆく時代性。
自分にとって 持ち得たる大事な『関係性』をどのように『継続』してゆくか、「継続」できるか?
そのためにのみの、『質』のレベルの昇華作用が、
時間が、経験が、社会が大切になる今世紀の時代性でしょう。
今年という時代はその入り口へ辿り着いたとき。
例えば、モードの世界でもこの現象は来ていますね。
もう、嘗てのアントワープ系のような、ただ「エゴ」でのものつくり、
理屈ばかりの形骸的な服作りは疲れますね。
コンセプトと称した個人のエゴとお絵かきからのデザイン行動はもう辛く旧く感じます。
人は服からも安らぎと安心と快適さそして、健康の質を
そして、人間性までをより、贅沢に求める方向でしょう。
そのための素材選択であり、その素材を生かしたシルエットと機能性とイメージングを
どのような人間的な心と智慧で持って考え作るかの時代でしょう。
「根拠性」が大切だという視点では「糸」が大事です。
獣・羽毛、植物系天然繊維、合成繊維、高分子繊維、加工処理繊維、後加工処理繊維などと再生素材、古着、旧生地利用など、そして、機械織り、手織り手紬等、など。
どのような「質感」と「ふうあい」そして、「機能」ある素材を選ぶか?
これが先ず、クリエーションです。
ここにファッションにおける今後の【新しさ】が存在するだけ。
その選んだ素材をどのようにそれなりに丁寧に料理するか?
美味しく、味わいたくなるような味付けをしてあげられるか?
そして、食べたくなるような盛り付けと幸せになるまでの雰囲気つくりまで。
これを『服』の世界でも考えてください。
(A.アライアの世界。LANVIN,エルバスの世界。R.シモンズの世界。
そして、今シーズンではKolorの世界など、)
もう一方では、コラボというこの世界における協業システムの昨今もそうでしょう。
そこには『関係性』と『質』を根拠とした『質の昇華化プロジェクト』でしかないでしょう。
(最近のCdGの動き,JUNYA MANの世界など、)
このモードの世界も本来は「自由の産物」であったはずなのに?
なんだか、息苦しくなって来ていますね。
あなたの『自由』の使い方の眼差しを変えてみませんか?
20世紀の、前時代的な『自由』の使い方はその価値を見直してみましょう。
貨幣経済がバーチャル貨幣経済へと変革しつつある今、
あふれるモノや情報のさなか、
結局はそれらによって、マニュアル化され、バニティへ奔り
『飼い馴らされて』しまった僕たちは
本当に大切なものを見きわめてください。
自分に、家族に、他者にそして、街に、国に、地球にも大切な『自由』を
流されるのでなく、諦めるのでもなく、
真こころある想いある、思慮深い『人間の自由』を
あなたの『自由』の使い方の眼差しを変えてみませんか?
これからは、『人間としての心と眼差し』が必要なる時代性がここまで来てしまったというところが私の時代に対する根拠性。
『男の夢』、『女の夢』の単なるバニティなレベルではなく
『人間の為さねばならない目標』のためのレベルへ。
もう少し、持ちえた心を、学んだ事柄を、経験してきた時間を振ってみませんか?
その為にも、あなたに与えられた『自由』をどのように使っていますか?
自由をどのように使ってもタダです。
先ず、『自由』に対する自己認識をしてください。
「あなたには『自由』が授けられていると思っていますか?」
本来の人間としての『贅沢の質』を持つ事。
これが私が感じる21世紀における本意。
そこに自らの民族性と真こころを想いつつ。
これが私の今年のテーマ。
ありがとう。
投稿者 : take.Hirakawa | 2009年02月14日 22:14 | comment and transrate this entry (0)
『 あなたは自分が生まれた国を深く、静けさの内なるへ想いを込めたことがありますか? 』 新たな年、平成二十一年の初めへのご挨拶。
『 美はすでに精神である。ものの命を求道するという上で、美観はまた道徳でもある。贅沢という富の誇示ではない、つつましく敬虔な奉仕である。美、精神、それは道、道徳への謙虚な奉仕である。 』
『美術は大抵の時に、くらしの飾りものの一つである。しかしわが国のくらしでは、くらし自身が美しかったので、応接室に富を誇示するための美術品の展示は許されなかった。 千利休といふ人が、若干さういふ法式をつくったが、その精神には依然として、虚飾を否定する見識があった。』 保田與重郎著『日本の美術史』より:
「 みなさま、昨年もいっぱいの感謝 ありがとうございました。
あらたへの 自由性を信じたい今年、
大切な関係性に真こころある1年でありますように。
私の自由とは 人間のカオスの揺らぎ。 」
あなたは自分が生まれた国を深く、静けさの内なるへ想いを込めたことがありますか?
謙虚、誠実、爽やかと感謝。』
平川武治 / 平成二十一年正月元日:
248-0004:鎌倉市西御門1-16-8:
投稿者 : take.Hirakawa | 2009年01月02日 15:19 | comment and transrate this entry (0)
『H&M ファッション黒船』到来 !!
[H&Mは本当に、そんなにすごいのか?]
『H&Mの実質戦略を読む。』
知っておこう、これがファッショングローバリズムの今後の世界戦略:
コンテンツ】
1)日本市場への参入とイメージング拡大の広告世界戦略。
2)中国市場拡大化のプレ戦略。
3)『ストリート・ジャパニズム』といわれる日本発のリアル・ストリートファッションの
世界へ向けてのMD化戦略の現地収集と発信化。
キーワード】;
グローバリズム、トレンドの賞味期限切れ、アウトレット、イミグレーター・カラード、新・大衆、少子化現象、「トレンドの衣料品化」、W・スタンダード、ストリート・ジャポニズム、逆MD戦略、世界イメージ戦略、広告宣伝費、メディアコントロール、、、
先ず、この現象。9月13日以来、ファッションに敏感だと自称している決して、お洒落ではないそんな連中たちはもちろん、ファッションメディアばかりでなく、諸手をあげてH&Mイメージ戦略に引っ掛かっている日本メディアの恐ろしさに気がつこう。まるで、『ファッション黒船』到来の状況である。シングル・スタンダードで生きてきた平和な僕たちにとっては、ファッション・グローバリズム時代の黒船到来かも知れない。H&Mは本当にそんなにすごいのだろうか?
この「黒船」と戦うのは誰なのであろうか? 先ず、H&Mのターゲットが日本では何処なのか?それによって、ライバルも変わるでしょう。
彼ら、H&Mのメインターゲットはヨーロッパを中心に調べてみても、移民・カラードたちの新世代の若者たちであることを知っておこう。これは、端的な表現をしてしまえば、あの『Mr. New President OBAMA』の登場とも同じコンテンツである。これが現代という時代性を構築してゆく新社会構造であり、グローバリズム以降のアメリカやヨーロッパが持ちえた社会構造の新たな変化、新たらしい大衆消費社会の新人New Generationsたち、『新・大衆』の登場である。これは、かつての、『植民地時代』のパラドックス化。グローバリズムが『新・植民地主義』であると称される本意の一つがここにある。自国内にイミグレーターたちが完璧な入子構造化が構築されてしまっている。
彼ら、イミグレーターたちやカラードたちの新世代たち、『ニュー・ジェネレーション』による『新・大衆』が存在しない日本の消費社会では、時代が変わってもターゲットの本質が変わらないですから依然、「世代間+テイスト」で斬る人口比率のMD発想でしかないのが現実の日本の消費環境でありこの中へ入れ込むにはイメージングとメディア戦略でしかない事情。だから、僕的に言えば彼らたちの本当のライバルは『ユニクロ』よりはむしろ、『09』『ZARA』『ラフォーレ』的なファッション感覚に目聡いがお金がそんなに使えない、使いたくない層がメインとそして、最近増えつつある『アウトレット』との競合化でしょう。喰われるのは国内アパレル系のブランドとセレクトショップ系のオリジナルブランド層がライバルでしょう。『ユニクロ』とはオリジナルなカテゴリーと商品の育ちが即ち、「べーシック」が違いますので立ち上がり期はライバルとなりますが、最後は日本的な折り合いの中でGAP化、即ち、かつてのGAPのような末路を辿るでしょう。
年代でいえば、30代そこそこまでのOLと学生、フリーターレベルでしょう。この世代は『少子化』で人口が先細りしている構造でイメージには強い層。彼らたちをどれだけ話題性とイメージ力で捕まえておけるかがH&Mの寿命でしょう。それに忘れてはならないのは中国、台湾、韓国からの観光客も大事なターゲット。
今、日本のデパートにファッション顧客がいるのでしょうか?デパ地下顧客はいても?デパートのフロアー構成が日本のアパレルの縮図構成でしかない以上は今後、未来は大変な状況でしか?? だから、本当は日本のデパートがこのH&Mレベルを「お気軽ものトレンド」として、餡子の様に真ん中においてその上に『ラグジュアリー系』、その下にコンビニアンスな感覚の『美的生活デザインガゼット』そして、『デパ地下』という単純なコア4層構造方式で今後のデパートの基本的構造は決まりでしょう。後は、それぞれのコアのテイスト細分化で作れるマドリックスがデパートでしょう。
今後の日本のファッションビジネスの発展性、許容量はもう残念ながら'90年代の様な延びはありません。なぜならば、外国のように日本国内には戦後の政治的配慮から、異民族(イミグレーター/カラード)が共生している社会環境構造が皆無に等しいからです。従って、主軸はいつの時代も変わらず、新たな人口が増えない限り、このS・スタンダードに限界があり許容量が読めます。理由は、若い層の人口が増えない。ファッション学習はますます進化しイメージ先行より、バーチャルな世界へ、反面、トレンドの賞味期限は切れる。経済不況が続く。これらが大きな原因でしょう。
H&Mが海外で成功した要因は移民たちによる新世代ターゲット、「新・大衆」が誕生したことと「トレンドの賞味期限」が切れ始めてきたこと。そのため、「トレンド」はマークダウンして売らなければ売れない、そして、グローバリズムという時代性を背景に熟知したファッションメディアを使った、イメージング世界戦略によるものでしか有りません。かつて、アニエスB続いて、APCの登場時は「衣料品のトレンド化」でしたが、今は「トレンドの衣料品化」までトレンドの鮮度が低下してしまった「豊かさの蔓延」現象。
そこではトレンドそのものの価値が虚像化してしまった時代性をうまくコンテンツにディレクションしてきた頭のいい、グローバリズムなファッション企業がH&Mです。しかし、ユニクロはいまだに「衣料品のトレンド化」のカテゴリーです。ここが育ちと『W・スタンダード』の違いです。
僕たちが昨年の7月に巴里で発行した、世界でモードを学ぶ学生たちをメインターゲットにした新しいモード・カルチャー誌『Le Pli』の創刊0号がまさにこの現実を一足先に予告したかのごとく、特集として組み、そのグラビア特集ではすでに、H&Mとコムデギャルソンのミックスコーディネートでイメージペイジを構成した。(フォトグラファーがマルタンを撮り始めたロナルドでスタイリング、村田明子)これは彼らたちH&Mに大いに影響を与えたはずである。結果、この東京進出に当たってH&Mは確りと、コムデギャルソンとコラボレーションを行い、その話題性を作り、以後、ご承知のメディア状況である。(このコラボはH&M側からCdG側へリクエストされて出来たプロジェクトであり、一足先に行われたCdGとLVとのコラボは川久保さんからLVへ持ち掛けたプロジェクトであった。)
今、巴里のオスマン通りにある大型H&M店では奇妙な現象が起こりつつある。
あのコムデギャルソンとのコラボ商品がこの巴里の黒人たちに人気が出て、彼らの大きな体型にカーブしたロゴ、”COMME des GARCONS”がクリスマス商戦さなかに増え始めている。
CdGを黒人たちが着る。これは今までになかった新たな客層がこのコラボレーションによって出来上がったという、東京では考えられないグローバルな現象結果であるのが面白い。この新たな関係性は今後もしばらくは続けられるだろう。
だが、東京におけるH&Mはそんなに気にすることはないでしょう。GAPを見れば解ります。デビュー当初のパワーが何年続きましたか?残念ながら、6年も続かなかったはずでしょう。(これは通常の日本ブランドのデヴューブームの2倍はありましたが。)日本人の目新しさ好きとめずらし物好きと外国コンプレックスで何年奔れるかが、本当のところでしょう。
それと共に、彼らは日本上陸と共に日本からの、渋谷、原宿界隈からのMD情報を逆輸入して世界戦略に利用することにも高いプライオリティを置いているはず。ストリート・ジャポニズムをMD化して、H&M発で中国アジアと世界へ向けて発信する方が最後には金になるという魂胆。H&Mも今後の中国拡大作戦の一つに日本をターゲットに味方にしなければならないと知っています。(現在、7店舗が現実?)日本で話題性を作り、それでそれなりの商売が日本で展開出来、その裏で日本発ストリートトレンドのMD情報と新・素材情報をも収集して、世界発のこのブランド・レベル(カラードたちと中国アジア)へマークダウンしたトレンドをH&M流に発信してゆくことの方に本意があり、プライオリティを置いているはずと読みます。
その証拠に、彼らが立地する場所、銀座、渋谷、原宿?を読んでください。ここにも、彼らたち流の『W-スタンダード』が読めるはずです。
原宿は『ラフォーレ』の並び。渋谷は『09』の向かい側。銀座は『腐っても鯛』の銀座でのイメージ拠点。
これに、ラグジュアリー系ブランドが使えなくなった、もう余り使われなくなった日本での『広告宣伝費』を今回もまだユーロ高期にこれ見よがしに使っての日本メディア構成。そこへあの、CdGをも巻き込むという強かで、見事な世界戦略の実施ですね。
海外では、上記の『新・大衆』をマーケットにしたい場合は『漫画、アニメ、ケイタイ、TVゲームそして、MTV、HIP HOPとプロ・スポーツ』が彼らたちへの重要な世界規模でのファッション・コンテンツ。日本の平成生まれたちはもうこの漫画、アニメ・ゲームのオタク・カルチアー世界がファッションの世界へ直結している世代なのです。
今後、カラードたちとアジアを中心に世界へ向けてのファッションをビッグ・ビジネスと考えるならば、彼らたちは当然の如く僕たちの東京に停泊し、『トウキョウ・ジャポニズム』から新たなコンテンツを学習するしかないであろう。このH&Mの陰になってしまったが、『TOP SHOP Japan』もロンドンから上陸しラフォーレとのタッグ戦略化。また少し先立ったが、フランス投資会社が『09』の2ブランドを買収したのも、多くがこの端的な『3つの目的/H&M戦略』を周到、実施しているだけである。
だから、この辺で、僕たちの「日本人としてのアイデンティティ」をこのファッションの世界でも意識しなければこの継続性はありえません。
これからは日本発がトレンドというまでの僕たちの自信と今の時代感での『ジャポニズム』を意識するべき時代です。―ファッションにおける『黒船』、H&Mも上陸したのだから。
(注)S(シングル)・スタンダード;自分の国での成功事例によって、自国の価値判断だけで十分であるという狭義な常識と現実しか持ち合わせていないこと。(最近の若者に増えつつある。)
W(ダブル)・スタンダード;自分の国でも、また世界のどの国へ行ってもそこでの価値判断は複数であることを経験と認識の上で理解していること。グローバルな世界観には必要な発想。
『Le Pli』0号は完売。
現在、『LePli』No.01号をUNDER COVERのサポートにより発行準備最中。
特集は『CARE』。プロテクションし過ぎ始めたことに気が付かなければ、次なる世界観へ至れない息苦しさをみなさんは感じていらっしゃいませんか?モードの世界によって僕たちの身体とこころを『CARE』するまでの慈しみさがデザインというシナリオで、『こころに優しく、身体に快適な服を考えましょう。』というコンテンツです。どうか、もう少しお待ちください。そして、ご期待を。
(やはり、資金不足で、もう、1年、遅れたしまいました。お詫びいたします。すみませんがもう少しお待ちください。)
追記;
前回にZUCCAのところでYOHJIのブチックがまだ出来上がっていないと書きましたが、今回この街へ戻ってきた今現在、やっと、オープンをしました。これも彼の『思いと夢』の現実化。
"あの、カンボン通りに僕のブチックはあるんですよ。" ーおめでとうございます。
思い出すに、'80年代の半ば、所謂DCブームとやらが叫ばれたころを通過してきた世代が往々にして持ちえた共通なる思い、それが、もう一方のブームのディーバであった『シャネル』と『フィオリッチ』。
今でも、結構これにひかかって此処まで来た日本人それなりの世代デザイナー諸氏は多いはずだ。
文責/平川武治:
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年12月08日 16:25 | comment and transrate this entry (0)
ParisCollection‘09 S/S コレクション覚書;Vol.2、3
『 揺らぐ身体-Illustion/Delusion-Reflections 』
[もう一つの現実。]
かつての6,7年前の東京・シーンが、やっと、世界的な現代社会の一面となる。
『誰でもがお手軽、お気軽にイメージを造れる生活環境。』
デジカメ、ケイタイとPCによるヴジュアル生活がこの、ヨーロッパでも一般化した。
その現われの一つに、今シーズンのコレクションではそんなヴジュアル化社会を幾つかのコンセプトにし始めたシーズン。そして、早熟な若者たちはやはり、自分たちの育ちの世界へモードを引っ張り始める。オプティカルアートから3ディメンション効果、そして、ヴァーチャルなイメージングへ。これらが特徴ある今シーズンのコンテンツと読めることにこの街、パリてはある種の新鮮さと面白さを感じた。そのための素材、プリントそして、こなし方、いろいろ。
アニメ、TVゲームから、ヴァーチャル・ハリウッドへ、かつての『アメリカン・ヒーロー』の世界へも再び?確実に、若者たちのリアルな日常性へモードのベクトルは動き始めるがどれだけ、彼らたちの「ILLUSION・パワー」は天上のオペラやバレー、クラシックーミュージックを再び、満足気に聞き惚れているスノッブたちを地上に揺らし落とせるか?
[50年、40年そして、20年。]
CACHAREL, Sonia RYKIEL, ZUCCAそして、Maison MARTIN MARGIELA
それぞれのアニバーサリーシーズンだった今シーズン。
CACHAREL、
ショーフィナーレではM.Cacharelの登場で最高の盛り上がり。自らの50年前の写真を招待状に使ってのアニヴァーサリーショーは、MDに長けた先シーズンからのデザイナーの一人、イーリー(Eley Kishimoto)のうまみある、ちょっと古めかしい既製服をリバティプリントを巧く使い込んだラブリーなコレクション。ショーの終わりに出てきたハイティーン・ジュニアのコレクションにこのブランドがいつも架けている未来を感じる。
Eley Kishimotoたちの優れたMD力が既製服感度へ上手に落としている巧さに驚く。
Sonia RYKIEL
はプレタポルテの黎明期からのデザイナー。シャネルのスピリッツを引きついでのプレタポルテにおけるこの40年はお見事。あのCdGの創成期もまた、ここから始まった。彼女の場合も当然であるがその奥にCOCOが。自らが持つ女の強さを癒すかのような仕事振りはさすが、強い女性たちの共通した業の一つ。時折のシーズンに見せる彼女のオムのコーディネート・ショーは好きだった。多くのこの時代のデザイナーたちが少なくなった現在、T.ミュグレーかソニアにチャーミングなはなやかさとシックさを委ねるしかない現在の巴里・プレタデザイナー。そして、今この街の装飾美術館での展覧会がご褒美で開催されています。
ご苦労様です。
ZUCCA
も20周年になるという。もう、20周年か?という、これが実感だった。このブランドが悩み学んだことは多分、自分たちの日本での成功をそのまま巴里へ持ってきても受けないということだったであろう。ここにも、シングルスタンダードだけではだめであるということ。世界を舞台に、そこに堂々と立ちたければ、ミックススタンダードを、それなりのコストとリスクを掛けて学習し持ちえなければいけないこと。その結果が、どれだけ、ユダヤ人業界人(その殆んどがそうである)に認知してもらえるかにかかってくる現実を知ったおかげで今回の20年アニバーサリー。そして、ご自分の『夢』を実現する。あの『Rue Cambon』の入り口に「夢のアドレス」のブチックが。(もと、Maria LUISAの1st.店後) 『継続は創造なり』、おめでとうございました。
(物入りで工事を始めた同じ通りのYOHJIのショップは1年になるが未完。ロシアンマネーが燻っているのだろうか?)
Maison MARTIN MARGIELA
かつての’90年代始まりまでのCdGの川久保玲は大和なでしこながらあの小柄で、チャーミングな彼女はそのうちなる彼女の気概と性格を持って勇気と努力と根性を彼女自らの美意識と自分の世界観に委ねて、このモードの街へ出掛けて来て10年間、巴里・モードという“大木”をこれでもか、これでもかと揺らし、揺らして天上のサロン服をディストロイさせ地上へ引き摺り下ろした。
その勇気といさぎよさとそれ以上にカッコ良さを感覚的だけではなく、頭と身体で、感じ共鳴し始めた若者たちがその”路上”に落ちた天井からのモードの断片の落穂ひろいをし始める。その多くが巴里のすぐ隣の街の住民、フラマンのユダヤ人たちだった。彼らが習い作るモードには、それまでスタイルというものが見つからず探し回っていた連中。その先鋒が、3年半J.P.ゴルチェのところでこの巴里のモードとはの、何かを見てしまったMARTINと数人の仲間たち。彼らは頭のよさと悪ガキ振りを自分たちのために出資、工面してくれたディーバと共に、自分たちが拾い集めた断片をマジシャン宜しく、そのイメージまでも大胆に、質高く創造し、見事なクリエーションの醍醐味とビジネスを5年タームで僅か、14年間で成功させたのがMaison MARTIN MARGIELA。こんな、彼らたちのデビューコレクションを知っているものたちにしたら、なんと馬鹿げた、惨めなコレクションだったで在ろうか?最近のマルタンしか知らないファショングルービーたちにとってはアレでもいいのかもしれないが、僕にすれば、全くの『マルタン漫画』ショー。悲しくなってきました。会場を後に、出会った数人の旧い友人に打ち明けて、共感を得て一安心。
出てきたものがその後のディゼルイ以降の物がほとんどでマルタン時代のものはT-シャツのみだった様に(?)寂しい限りでした。
20周年記念を謳うも、その影ではマルタン自身の契約期限切れ問題を隠した演出。会場はその昔、モルグだったところ。死体置き場が操車場にそして、この10月半ばからアートスペース104に。そんな会場に多くを集めてのショーに出てくる服自体がもう、既に死体?僕から見れば、あのすばらしい初期のマルタンチームが必死で自分たちの夢へ向けての共有しあった精神と真心が否応にも感じてくるまでの強い品格を感じさせる服は残念ながら1着も出てこなかったショウ。まるで表層はそれなりのアイディアで作られた服、マルタンガゼット。でも、こんな服、誰が高いお金を払って買って着たくなるのか?
やはり、ディーゼルレベルのショーでしかなかったのがこの機に残念だった。もう、既にあの主役、マルタンはいない。終わってしまった。
文責;平川武治
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年11月29日 21:03 | comment and transrate this entry (0)
Paris Collection‘09 S/S コレクション覚書;『 揺らぐ身体-Illustion/Delusion-Reflections 』
初めに、いつも読んでくださって、ありがとう。
前回の『巴里・コレクション』を軸に時代を感じ取ってみる行為を僕のサイトで数回やってみようと。
今回はその第1回として、目次的総括から。
『 揺らぐ身体-Illustion/Delusion-Reflections 』
序文;
「 室町時代の武将たちは競って、自分の屋敷の庭に池を掘り、鯉を飼い放すことが所謂、流行りものになった。」
彼らたちは池の鯉の何をそんなに自慢げに観賞し喜んだのだろうか?
思わず、今シーズンのパリコレを見ていると、こんなことを思い出した。
その答えは、「泳ぐ鯉の肌の色、例えば、緋色、銀色、金色などの鯉の肌の色が泳ぐ水面に反射してその肌の色が美しく揺らぎ、微妙な色彩感覚と文様を周りの自然に対して映し出す、その様を観賞したのです。」
この様な,繊細でうつろいある四季感覚を観賞吟味できうるのは日本人だけに通じるすばらしい美意識の一つで僕はとても気に入った好きな話として覚えています。
さて、今シーズンのコレクションでは、着る女性たちの身体がより、『新鮮』に輝き揺れ動く様を、楽しげに、エレガンスに、生き生きと、不安げに、でも、力強い女を表現したかったのだろうか? ということを感じさせてくれたシーズンでした。
そして、そんな彼女たちが委ねたい時代の雰囲気、そのものをより、新鮮に魅力的に揺り輝かしたいというのが僕のコレクション観でした。
そこで、このタイトル 『 揺らぐ身体-Illustion/Delusion-Reflections 』
というボキャブラリーを現代の『時代感』として提案します。
そして、結論的には、「時代は新しいものよりも新鮮なものを要求し始めています。」
[一つの現実。]
パリ・コレ発の『トレンド』の賞味期限の鮮度がかなり落ち、久しくなり始めている。
今シーズンコレクションで見られた幾つかのトレンドもここ2,3シーズン以前からの継続トレンドが主流だった。
例えば、その代表は『フラワー』そして、『アフリカ』。もう一つは『円/サークル』と『ジオメトリー』が今シーズンも解りやすく続いていた。
大半のデザイナーたちはこの『継続トレンド』と呼ばれる賞味期限切れの範疇で自分らしさをデザインしている。したがって、トレンドが賞味期限切れであってもそれが消費者の心を捉えればそれはそれで良いという時代性になり始めたということであろう。
ここではデザイナーやブランドの力量として『It‘s a everything so special』を見せてくれさえすればそれなりのスペシャル・プロパープライスでも仕方ないであろう。 が、世間並みのというよりも、トレンドブック並みのトレンドであれば、ファッションに薀蓄を吐く輩たち、消費者はついに進出してきたH&M辺りか郊外型アウトレットモールでデズニーランド気分宜しくの週末お買い物のほうが楽しい。
ここで、現在の東京は新たなファッション都市構造が構築されたといえるであろう。
都市の中心部はブランド・イメージのショールーム。毎シーズンの流行モノをイメージよく情報発信機能のみになってしまったショールーム化。
ここでの売れるもののキーワードは『スーベーニール』。みやげ物感覚で工夫されたガゼット類がメディアに取り上げられてお気軽に。そして、肝心のお買い物はヴァーチャル市場と都市周辺部に要塞の如くに出来上がってしまった在庫処理機能とアミューズメント機能を併設したアウト・レットショップ群。物欲肥大症の買い物上手症候群たちへの新たな気概はこの方向へしばらくは流れるであろう。(先シーズンの巴里ではあのCdGが旅行者たちが行き交う界隈、モンマルトルとマレ地区にスーベニア・ショップを2店舗開店した。*)
この現実の変化は消費者たちが持ちえた『豊かな生活』とその豊かな生活の継続化および、『もっと、より豊かなる生活』をと言う欲望に対しする『気概』の表れが招いた新たな消費社会現象であろう。
*pocket Montmarte/ 17 rue La Vieuville 18e:
pocket Marais / 31 rue Debelleyme 3e:
第2回目;
[もう一つの現実。]
かつての6,7年前の東京・シーンが、やっと、世界的な現代社会の一面となる。
『誰でもがお手軽、お気軽にイメージを造れる生活環境。』
第3回目;
[50年、40年そして、20年。]
CACHAREL, Sonia RYKIEL, ZUCCAそして、Maison MARTIN MARGIELA
第4回目;
気になったデビュー展』;
『 no editions 』 from N.Y.
『 Gurath Pugh 』(ANDAM‘08受賞)from London.
第5回目;
[H&Mは本当に、そんなにすごいのか?]
『H&Mの実質戦略を読む。』
第6回目;
‘09 S/S: 幾つかのキーワード; 『Reflections 』
【‘80年代終わりから、’90年代初めへ】;
第7回目;
終わりに、
文責;平川武治/巴里市モントロイュ街55番地にて、晩秋:
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年11月26日 12:11 | comment and transrate this entry (0)
ご質問へ、はらだこうすけくんとyellow whale君そして、いはらゆいいち君へのご返事。
kosuke haradaさま;yellow whale君;
遅れてしまってすみません。
案外と無精者なので一つ一つの処理が厄介ですね。きっと、少し年老いてきたのかもしれません。
とても的を得たコメント、ありがとう。
避けようにも避けられない全てが現在の僕たちの置かれてしまった国の立場上のアイデンティティでしょう。その上で、ポジティフに共有してゆくところは大いに期待しましょう。
ここに来て、『移民』が存在しないような(?)状態の国家の限界も見られるのですが。戦後、60年の良いも、悪いも『ツケ』でしょう。
おっしゃる様に、この欧米ではこれからこの戦後の日本の”NO LIFE”カルチュアーが彼らたちの国の『移民』の若者たちによって主流化して来るでしょう。
確実にこれからはそれぞれの国で生まれ育った『移民』たちの若ものたちによる『新・大衆』が、新たな消費者層になるからです。しかしながら、彼らたちは決して、それぞれの国に於いて『クラス』へはタッチできない状況を持ちえてしまった『新・大衆』です。幾ら金持ちになろうがここの門は硬く閉ざされたままでしょう。これが、ちょうど、戦後の日本社会の経済的発展と状況が似てくることなのです。そこに、彼らたちの新世代たちには共通したコンテンツとして、『アニメ、漫画、TVゲームとMTV』があるから余計でしょう。
最近は良くこのフランスで、『オリエント工業』を例に出して話をします。
たかが『ダッチワイフ』。作り続けて30年。これが1.5m.もの見事(?)なものへ創造性を膨らますことが出来るのが日本人。ちょっと、突飛ですがね。
そして、『ネール』は現代日本の"琳派"だとも。
『骨で着る服』
これも、おっしゃるように、究極は人体の骨格をアナトミカルに理解し得た衣服または、民族衣装だからでしょう。農耕民族、四季のある国。島国。湿りの国。などなど。
着物は『民族衣装』。今の洋服は日常生活へ歩み寄った所謂『ご利益服』(?)いろんな意味での。
3次元の人体での骨の部分とは『肩骨』と『腰骨』。
着物を見栄えよく着るための『着付け』なるものは出来るだけ動かないほうがきれいですよの世界。
『ずらし』『くずし』『見栄』などが日本の着物に対するある種の着る側が出せる美意識。それは究極の『曲線』の美学。肉で着てしまってはこの『究極の曲線』が出ませんね。『浮世絵』を見てください。
ここにも、世界へ影響を与えた日本の美意識の根源があります。平面を唯1本の線がきで、3D.を表現してしまったことを。
巴里のデザイナーで、先にも彼の名前を挙げたのですが、”Gustavo Lins"は浮世絵の本をコレクションしています。浮世絵からの曲線が一番人体が表す曲線では艶っぽいと言い切っています。
日本の築城時の方法の一つに『たるみ』という言葉があります。『たるみ曲線』です。これが日本の神社仏閣の屋根の曲線になり、城壁の石垣にもこの曲線が用いられています。
ちょっと、話がそれたようですが、
これで良いでしょうか?
ご質問、ありがとう。
これからも宜しく!!ね。
僕の脳みそをかき混ぜてください。
ご自愛と共に。
***
ありがとう、いはらゆいいち君;
遅れてすみません。
お元気ですか?
何事も、ポジティフに、
好奇心と責任観と他者を想うこころとで勇気ある行為を自分らしく、周りに関係なくやってしまってください。
そのための2つの経験が必要です。
一つは脳みその経験。これは学びたいこと知りたいことは学んでください。学ぶことが脳みそを経験させます。それから、身体の経験。この2つの経験のバランスが君自身の自信になるでしょう。
そこに、出来れば『自由』という心があればより、すばらしいものになるでしょう。
この自由には少々コストとリスクがかかりますが。
『自由』は創造のすべての根源です。
また何かあれば、何時でも!!
ご自愛ください。
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年10月10日 07:26 | comment and transrate this entry (0)
盲目のクチュリエ、Genevieve SEVIN-DOERINGインタヴュー;
「 まるで、魔法使いに会いに行くような気持ちで、
―――『自由と人間らしさ、その強さ。服しかないその想い。』 」
インタヴューアー;平川武治/モードクリニュシェ:
於;マルセイユの彼女のアトリエにて、4月30日。
*はじめに;
私が彼女、Genevièveに初めてお会いしたのは
アントワープで行われた「パターン展」のレセプション会場であった。
その後、皆さんと夕食会へご一緒させていただいた。
彼女が私の手を握る。
厚い手のひら、太い指、そこから染み出る熱。
エネルギィーとはこのような熱さか?
生きている、蠢いているそして、感じている。
これが私の彼女への第一触感。
不思議なことだが、
この彼女が与えてくださった、感じさせてくださったあの「熱」は
その後、たびたび想い出すまでの感触になった。
在る時は喜びとともに、在る時は憤りともに。
また、やさしさを想い感じるときに。
私にとっては
それは、時には「女の熱さ」であり
「母の熱さ」でさえあった。
それ以来、私は彼女に再会できる日を
機会を密かに、工作し待ち望んでいた。
私は本心、
まるで、魔法使いに会いに行くような気持ちでいた。
私は薄暗く翳りの多いアトリエの中に
彼女の堂々とした背中を見つけた。
彼女は私の方を向き、
その大きくて熱い、あの熱さで私の手を握った。
その瞬間に時空を超えた私。
*インタヴュー;
私: お元気でしたか。
Geneviève : 元気よ、元気。昼食の後、少し昼寝をしたから元気よ。
私: 早速ですが、あなたにとって”自由”とは何ですか。
G : それは選択。一つの強制。
ほら、それは選択、強制に義務を負わせることよ、当然。
それ以外のものは自由じゃないわ。
例えば、私が16歳だったころ、パリへ出た。
お金は持っていなかったし、辛かったわ。
でも、それは私が望んで選択したこと。私は自由を選択したのよ。
私 : では、あなたは幸せですか。
G : えぇ、私は幸せよ。自分が在る、まだ自分が在ることが。
私は自分が学んだことが続いていくことが嬉しい。
ここに、私の娘や生徒たちがいることが私の喜び。
そして、それが前進するのを見る時、私はとても幸せ。
私 : 以前、何かのインタヴューの中で、”総てが、お金の問題じゃない。”とおっしゃていましたが、それはどういう意味ですか。
G : 創造するということに関しては、富やお金が問題ではないという意味。
それは人々がその上、その向こうを見ないということ。みんな近くばかりを見ている。
今のモードの世界はエゴイズム。
つまらない人々がつまらないものを創っているだけで私には興味がない。
私にとっての自分の仕事は、一つの問題と向き合って答えを見つけること。
創造ではなくて解決策。
もう一つ言えば、洋服というのは身体と洋服の間にある距離、空間が大切なのよ。
ストレッチの濫用を取り除いた体が呼吸する空間、従って空間との釣り合いが大切。
私: まさにそれを伴った『服』が、”どのように身体をcareするか”ということですね。
G:そうとも言えるはね。
私: 洋服を作ろうと思ったきっかけは何ですか。
G : 私は知ってるは、どうして私が洋服を作ろうと思ったのか。
私たちが小さい頃、私の両親にはたくさん子供がいたから、女の人たちが家に私たちの洋服を仕立てに来ていたの。
私は彼女たちにこう言ったの。”こんな風に幅の広いスカートにして欲しいな。” ”だめ!” ”パフスリーブにして欲しいな。” ”だめ!” 全て、彼女たちの好みの洋服だった。
その後、私が大きくなった時、自分で自分の洋服を作り始めた。悪くなかったわ、より自分の好みの洋服に出来たから。それから洋服作りを学ぼうと決めた。
一度、パリのオートクチュールの組合の学校 l'Ecole de la Chambre syndicaleで仕立ての勉強をよくしてから、”ファッションのためではなく、演劇のための衣装を作ろう。”と決めた。
なぜなら演劇のための衣装を作るには、たくさんの異なることを学ぶ必要があったから。
そして、それは私に降りそそいだ。
私は装う人の内側が良く在るようになるために、一片で洋服を作りたいと思った。
既製服の上着を羽織ってもし、あなたがこういう動きをした時(両腕を挙げて)、あなたは車を運転出来ないはずよ。もしあなたが両腕を挙げた時、洋服も一緒に上がってきたら、それは、その洋服が上手くカットされていないということ。
今はいたるところで、このような服が売られている。
人々がこのような洋服しか見ていない。これはとても大きな問題。
それと同時に彼等は悪い洋服を装うことにもう、慣れてしまっている。
だから彼等は着心地が良いと感じる形の無いTシャツやジーンズを着る。
見た目は素敵な格好をしても着心地が悪い、反対に着心地が良い服を着ると素敵じゃない?
私: 以前あなたはインタヴューの中で、”きれい、それは人々がよく望むけれど、美しさは深刻ね。” とおっしゃっていましたが、それはどういう意味ですか。
G : それは私の洋服を試して、今までにない美しい自分の姿を見る女性たちに関して言ったこと。彼女たちが今まで眺めることのなかった彼女たち個人の美は、確かに耐えられない。
きれいさは表面的なもの。美しさ、そうね、それは深刻、もっと深いところにあるもの。
美しい服装であるためには、”ちょうど”でなければならない。
人々が美について話をする時、しばしば審美的なことを話す。とりわけモードの世界において。でもそれは装飾にすぎない。そして、それは変化する。瞬間を素敵に見せるためだけ。
物事が美しい時、それはそれらがちょうどである時。一時だけれども永遠に、バランスが存在する時。
ちょうどで在るというのはとても難しいこと。多過ぎず、十分であること。
私 : 洋服を作る上で一番大切なことは何ですか。
G : ちょうどであること。即ち、バランスが存在すること。着る人と着る服との関係においての接触観? 考えを持つのではなく、答えを感じ見つけなければならない。
私 ; 日常の中で一番大切になさっていることは何ですか。
G : 知的な人々に出会うこと、人と話をすること、料理をすること、ラジオを聞くこと…
たくさんあるわ!
私 : あなたは夢を持っていますか。
G : それは私がやってきたことよ!
とても長く、難しかったけれど。でもそれは私がしてきたことよ。
私 : 小さい頃はどのような夢を持っていましたか。
G : 全然!
小さい頃はパリへ出るということを決めただけよ。
私 : 若い人たちにどんなことを言いたいですか。
G : そうね… 楽しみなさい!
仕事というのはいつも辛いもの。山を登るようにね。
でも一番上まで登る必要はないの。偉大なクリエーターになる必要もない。
自分がしていることを好きになりなさい。
日常の中に小さな幸せを見つけること、それが一番大切。
ほら、今日も美しい一日だったわね。
私 : ありがとうございました。
*あとがき;
初めての夕食会。その後、もう6年近くが経った。
変わらないGenevièveさんは80歳。
ヒールしか履かない彼女。
いつも女の人はエレガンスであるべきだからと。
インタヴューの合間もワイグラスに手が幾度も延びる彼女。
飲まない私が注ぐことが遅れてしまう。
『ちょっと、タバコが吸いたいから休憩しよう。いい、あなた?』
あのアントワープの時もそうだったように、ワインを、タバコを堂々と飲み、吸う。
彼女にとっての自分で得た自由の証だと言わんばかりまでの
堂々とした誇らしげが自然に漂う、その時間。
巴里に出て覚えたことがタバコとワインだとおっしゃる。
それは、自分で、自分の好きなことを学び、それで稼いだお金の
自分らしい自分の自由の象徴。
だから堂々と、
きっと、こんなところにも彼女は自分の自由の裁量を、
それは選択。一つの強制。
――暗くなり始めたアトリエの古壁の幾面にも聖母マリア像が像を残す。
こんなにも緊張と怯えが混ざったインタヴュー前は私には嘗て、無かっただろう。
本当は彼女は『マリア』だった。
インタヴュー/完:
******
―GENEVIEVE SEVIN-DOERINGの歩み、プロフィールに代えて。
『 自由それは選択。一つの強制。』
地方出身者、土のにおいを知っている少女。
フランス北部のトゥルコワンという小さな田舎町で生まれる。
その後、南仏の少し大きい町そして、少し文化がある街、エクスアンプロヴァンスにて幼少期を過ごす。自分の将来を見つけることにときめきを感じた16歳、彼女の早熟さは『華の都、巴里』を選択する。そして、オートクチュール組合学校 (l'Ecole de la Chambre syndicale) にて縫製技術を学び自分の世界を持って、自由なひとり立ちの生活が始まる。
幾つかのクチュリエのサロンで働いた後、モードのためではなく演劇のための衣装を作ることを選択する。与えられた条件の元、自分の自由さを“衣装”という演劇の世界で表現でき、多くの人たちに見てもらえる強制の世界へ憧れる。
1948年第2回フェスティバル エクスアンプロヴァンスでのモーツァルト“DonGiovanni” の初演のための衣装を手掛ける。この時ナディーヌ・カサンドラに出会う。彼女の夫は、先ほど亡くなられたYSLのロゴマークをもデザインしたグラフィックデザイナー。そしてリュシアン・ルロンは彼女の師となる。
以後、 レオノール・フィ二ー、ジャン・ヴィラー、ジョルジュ・ウィルソン、ジャン・ルイバロー、アンドレ・バルサック、クロード・レジー、ジョルジュ・ヴィタリー、ミシェル・フォンタイン、アントワーヌ・ヴィテ、マルセル・マレシャル、ジャック・カルポ、ジョセフ・ラッジーニなど有名、無名を問わず数多くの演劇舞台人たちと仕事を共にする。
夫であるReinhard Ubbelohde-Doeringは染色職人だった。
彼個人の仕事よりも彼女と共に、彼女の仕事の必要不可欠な作業である生地の染色を構想し再現していた良き協力者、共にアトリエで働いた。
結果、二人での作品は1972年ミュンヘンにて開催された職人・クリエーターの国際展覧会 “Exempla 2000”にて金賞を受賞。この衣装はパリ、国立劇場(TNP Chaillot)および、アヴィニョンフェスティバルにて1963年から1968年にかけて演技の演習、本番に使用されたものである。そして、これらの衣装は現在、パリの国立図書館の工芸アート部門にて保管されている。
より、豊かな自由を選択するためにその手法を創造した。
彼女の早熟性からの好奇心や欲求は物事のより、奥底へ向かう。
彼女の経験から発想される必要な思考と主張は衣装にエスプリと表情をさらに加えるために新たなアプローチの技法を展開するまでに至る。洋服を作る上でパターンを平面状にて一片にカットする。この技法の原理は、体の動きとのバランスに基づいた彼女の自由な経験とイズムから生まれたものである。このパターンカットの革命は1967年から始め、主に、洋服よりも舞台衣装に活用させる。
異文化がメチサージュする暑い街へ、
1978年パリからマルセイユへ居を移し、アトリエ活動を始める。
この街の近辺、アヴィニヨンやエキサンス-プロヴァンスそして、マルセイユなどで行われる演劇祭等にも多く参加、その活動の場を広げる。
『 母が視力を失った原因は網膜の退行性の病気の発作で、これは遺伝性の病気で、主に男性から遺伝するものだといわれている。
何年かの経過によって、視野が次第に狭まり、こうして暗闇の世界が母に辛い思いをさせた。
遂に1993年、視力の完全喪失は突発的に起こり、ある1つの舞台衣装に関する計画を止めざる終えなくなった。
でも彼女は未だ仕事を続けている、ただしアシスタントたちと一緒にだけれども。』
(彼女の娘、MIMIの言葉。)
1999年、マルセイユ市は彼女の仕事に対する敬意を表し、マルセイユ モード
美術館にて大規模な展覧会を開催する。
次いで、2000年、カナダ モントリオールにて展覧会が開催される。
そして、2003年、アントワープモード美術館の『パターン展』に招聘され展示。
彼女のもとを訪れ、学んだ多くの生徒たちは彼女の服つくりへの情熱と信念そして、自由な心とエスプリを受け継ぎ、それを知った以上、永続させるべくそれぞれの世界で、自分たちが選択した自由をより豊かなるものへ向けて羽ばたいている。
彼女のアトリエには日本人学生もアントワープやロンドンから訪れたことがあった。
彼らたちは『一つの強制』を得たのだろうか?
プロフィール/完
文責;平川武治:
翻訳;佐藤麻美
出典;雑誌『装苑』平成20年10月号掲載済み:
参考資料/
カタログ: lifting:la revue du muse de la mode,Marseille No.1-1999年版
アントワープモード美術館「パターン展」カタログ:2003年
本 : ITINERAIRE -Du costume de theatre ・la coupe en un seul morceau
DVD: Dans L’armoire du monde
WEB.: sevindoering.free.fr
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年10月10日 05:31 | comment and transrate this entry (0)
日本人の、日本人たちの価値観を拠りどころにした アイデンティティあるファッションデザインを考える時代が来たようです。
【 日本人の、日本人たちの価値観を拠りどころにした
アイデンティティあるファッションデザインを考える時代が来たようです。
―――巴里入城を目指した兵ども、それぞれのジャポニズム考 】
文責;平川武治/
『彼がいかに大切だったかを振り返り
失うことがどれほどの痛手かを知るのです
ココシャネルは彼を後継者と見なしていました
シャネルは女性に自由を与え
イヴサンローランは女性に力を与えました
男性服を女性服に転換することで女性に力を与えたのです
イヴサンローランと今のデザイナーを比べることはできません
才能ある人はたくさんいますし
すばらしい人が現れ成功することを期待しています
引退の日彼は自ら幕を下ろしたのです
一つのファッション とりわけオートクチュールの幕を』
イヴ サン‐ローランが死んだ。
この原稿を書き始めた矢先だった。
冒頭の文章はP.ベルジェ氏がフランスのあるTV局のインタヴューに答えた言葉です。これがパリのモードの世界の現実でありレベルでありそして、悲しみなのです。
日本人デザイナーのみならず、パリにおいても【プレタポルテ】のデザイナーたちの登場はYSL,彼が存在したから始まったといっても過言ではない。
‘66年に彼が実際には追い立てられるようにC.Diorのメゾンと惜別して自分のブランド YSL Rive Gaucheを当時としてはアヴァンギャルドにその名のごとく『左岸』で立ち上げる。正に,モードのヌーベル・ヴァーグであった。以後、「’68MAY」と言う戦後の『新たなるフランス革命』と称しても、それがもたらしたその後のこの国の現代思想や政治、社会への価値観の変革と変貌を見れば、決して、過言ではない当時の若き学生たちが起こしたただの「’68MAY」学生運動以後、このファッションの世界もYSLの新しいモードに対する考え方、女性の美に対する想い方そして、フランス美学のオーソッドクスさである『エレガンス』をその中心軸としてさらなる新しいモードの形態が誕生した。それが『プレタポルテ/高級既製服』であった。
‘65年、文化服装学院の初めての男子生徒の一人であった高田賢三が卒業後、単身巴里へ向かう、まるで武者修行をしに行くかの如く。’’68年、N.Y。経出かけた三宅一生はその後、迷いながらも当然の如く巴里を訪れる。ちょうどその学生運動のさなかであった。この頃に彼の巴里レポートが当時発売されて間もない雑誌『ハイ・ファッション』誌に連載されているので知ることが出来、面白い。
クチュールではない、新しいカテゴリーである創造のモードの世界『プレタ・ポルテ』の誕生黎明期であった。総て目にするものが新鮮に眩く輝いて見えたであろう。総てが羨望と欲求の眼差しであったことが多感な三宅のコラムからも感じられる。‘70年、ケンゾーはヌーベルバーグの波にサーフし、やっとつかめたチャンスで自分のブチック「Jangle Jap」をやはり左岸で開店する。’71年、彼を慕って大阪のコシノヒロコのブチックで働いていた入江末男が巴里入りをしケンゾーの所に逗留する。東京からはやはり文化の卒業生、熊谷登喜夫がコンクールのご褒美として巴里へ到着。一度帰国した三宅は資金調達に当時の”東レ”と関わり‘72年に巴里のデザイナーになるためにVavinで初陣する。’74年に山本寛斎も既にショーを、’75年、鳥居ユキがそして、森英恵が’77年にクチュールで巴里にいぞむ。
が、やはり、日本人ファッションデザイナーと巴里を考えるとき、高田賢三の存在が大きい。彼がこの時、パリに居なければ彼の存在が無ければ日本のファッションデザインそのものが10年以上は遅れていたであろう。彼の巴里での活躍が夢となり嫉妬となり東京でもインデペンデントなデザイナーブームが『マンションメーカー』誕生として始まる。
この’60年代終わりから’70年代当時の日本人デザイナーたちは当然、『POPカルチュアー』誕生の暑い息吹を被り、サーフした。そして自分たちが異邦人であることを否応にも認めなければ自らのアイデンティティがぶっ飛んでしまうことに気が付いたコレクションを行っている。自分たちが持ちえた『日本人らしさ』をどの様な感性と美意識とアイデアで巴里という怪物に切り込むか?ポジティフな『ハレ』のジャパニズムを、『POP Japonizm』をそれぞれのテイストとレベルで見栄を張った。
‘77年に音楽の世界では既に『PUNK』が生まれたように、東京ではYMOがデビューしたように、’80年代に入ってからの時代観は少し変化の兆しを見せ始める。その新たな時代観にモードの世界で匕首を突きつけたのが山本耀司とコムデギャルソンの’81年、’82年の巴里入城であった。
特に、CdGは20世紀の巴里モード界の伝説となったコレクション『黒の衝撃』を持って、総ての価値観を塗り替えた。その後、多くの日本人デザイナーたちが、巴里デザイナーたちをターゲットに目指さず、巴里という場所を必要として、自分たちの国のデザイナー即ち、『コムデ』『ヨウジ』を彼ら自らのターゲットとして巴里に関わり始めた。
『’68MAY』の当事者であった女子学生たちが社会への進出を果たした結果、いわゆる、この国でも『高学歴』を持った女性たちの活躍そのものが社会化された時代となり、この新たな価値の元で大いに追い風を受けて巴里のモード界を闊歩し始めたのが
コムデギャルソン、川久保玲が生み出し続けた執拗なまでのアヴァンギャルド性を生命とした創造の世界であった。しかし、現在というモードの螺旋階段の踊り場に立ってしまった僕たちが、沸きあがったあの『コムデ』らしさとは?を思う時やはり、ジャポニズムを感じてしまう。巴里の玄人たちが『ZEN』を口にし始めたことからもそれは理解出来る。『墨黒』をベースに『黒の彩色』化、コーディネートファッション、素材美、無表情さなど等。自分たちが自分たちの国でブームを誕生させビジネス的にも余裕ある状態で巴里入城を始めたこの’80年代の日本人デザイナーの代表者たちも自分たちのアイデンティティはやはり彼ら流のジャポニズムであった。日本の美意識のもう一つ『わび・さび』を歪ました所の『NEGATIV Japonizm』。先の10年前の日本人デザイナーたちがポジティフな『POP Japonizm』であれば、彼らたちは堂々とペシミズムを軸とした『NEGATIV Japonizm』を持って、異種混合を文化創造の大切な糧、教養としている彼らたち巴里っ子たちの度肝を抜いた。
‘90年代に入っての日本人デザイナーたちが何を巴里入城の武器としたのか?
それは『UNDER COVER』で代表される『STREET Japonizm』であった。
‘89年小野塚秋良、‘92年荒川新一郎、93年渡辺淳也、’99年高橋盾。巴里のモードの世界も’89年のマルタンマルジェらの登場によってまた、新たな価値観が世に問われ始めた。天上に在ったモードが地上に落ちてしまった時代、音楽ではヒップホップが全盛を極め始める。石油問題で金持ち層が変わり、「創造」が「解体」に繋がると言うまでのパラドックスが始り、地上に落ちたモードのピース(古着)の落穂拾いが始まる。
『裏ハラ』で生まれ育った高橋盾の『UNDER COVER』は自分たちのもう一つの武器である『パンク音楽』を変わらない心意気としてむしろ、気概として、この時ばかりと自分たちの横丁をアイデンティティとして、自由にエゴセントリックにサンプリングし『STREET Japonizm』を世界へ発信させ巴里凱旋したいさぎよさ。
そして、21世紀の日本人デザイナーたちが巴里入城を目指したとき、彼らたちはどのような自らが美と定めた武器を持参すればよいのだろうか?
例えば、その答えの参考となるのが、一昨シーズン、巴里でデビューコレクションを行った、インド人デザイナー、マニッシュ・アローラの2度目のコレクションに読めるであろう。’70年代のヤマモトカンサイを髣髴させるポジティフで楽しくすべてがSO SPECIALなコレクションで評判を得た。その裏読みをすれば、自分の国インドの産業インフラの幾つかを自分の世界、大好きなモードの世界で突き刺したコレクションと読めた。インドの素材の面白さと良さ。インド人のクラフト感覚の良さと器用さ細やかさ。それにマサラ・ムービーと呼ばれるインド映画の世界とインド音楽。これら、インドではのものを自分のモードの世界のために使った強烈なコレクション。ここには自分の国を想うこころが読める。国をプロパガンダする意気込みが感じられる。巴里絶対主義的に反抗する楽しさと痛快さが見事であった。巴里にないもの、新鮮なものを投げかけた。これによって彼、マニッシュ・アローラは異国のジャーナリストやファッションピープルたちから『スタンディングポジション』が与えられた。
今、残念ながら、日本人若手デザイナーたちからこの知恵と教養とセンスの良い感性が感じられない。今回の『東京コレクション』でも皆無。自分たちの国を想うこころからの自分たちのアイデンティティを考えたアイディアや創造性それにプロパガンダ精神は無く多分、考えもしないで作ってしまっているであろう。彼らの賞味期限切れに近い価値観『トレンド』を未だ最高の拠りどころとしたもの作りはこの辺で考えなければ?!
だからといって、自分たちが不勉強な世界を珍しいと思いつき、和モノや着物を出せばの単純思考、これもいただけない。このレベルのデザイナーは『骨で着る服』を考えるべきである。例えば、巴里ではグスタフ・リンというデザイナーがいる。彼の作品を見るがいい、学べばいいそして、着てみればよい。もう、このような時代になれば、僕たちの国を想うこころが感じられる服つくりを試みる時期に来たのではないだろうか?外国カブレ、外国コンプレックスからのモードは自分たちの存在と立場をなくし、自分たちの民族性を否定するまでのものでしかないことに気が付かないのであろうか? 日本でうけているからそれを持って行ってもダメ。これでは単純なシングル・スタンダードな発想。エトランジェとしての日本人はこの21世紀、どのようにわれわれのアイデンティティあるモードを武器にすればいいのであるかをもっと、教育面からも考えなければならない。
ファッションとは『自由』の産物でしかありえない。自由さが生命である。これを感じさしてくれる作品を生み出せる人間だけが『クリエーター』と称されるはずだ。本質的なる自由さに敏感に反応できる人間。これは共通言語。自由さとは本来、『カオス』の揺らぎ。先輩の、’70年代、’80年代、そして、’90年代の先輩諸デザイナーたちが偉大であったのは、根本は彼らたちが持ち出せたあの時代の自由さ。それがその後の彼らたちの気概へと繋がり、それによって持ちえた異国での関係性を継続してゆく努力と勤勉さが彼らたちの存在そのもの。これを真剣に学び、考えたことがあるのだろうか?デザイナーたちも、ジャーナリストといわれる人たちも。唯、外国ファッション有名校を出たからというだけで表層を見ての評価、デザイナー扱いをしてしまうジャーナリストたち。外国にいても外国人世界へ入りきれず、日本人の取り囲みを金で作ってそこでヒエラルキーを作って自己満の世界でエゴのものつくりしかしてこなかっただけなのに、日本に帰るともうデザイナーに。まるで、『豚もおだてりゃ木に登る』現象が続くのみ。
もうこんな哀れな世界観で、シングル・スタンダードでモードを語ったりいきがったりするのはよしましょう。日本人はこんなモードを提案できる!!というまでの国を想う心もそこへ入れることを忘れずに自分の世界観を堂々と、武器にしませんか?
エディー・スリマンが頼まれてモード誌のために刀を振り回すジャポニズムをやれば、カッコいいの唯の表層の世界もいただけませんね。僕たちは自分の国なのですからもっと深く優しく楽しく日本を思いませんか?そこで一番強いものをモードでパラサイとしてゆくことも、先のインド人マニッシュのように一つの健全でポジティフなアイディアでしょう。そうしたら、今他方には、日本のサブ・カルとしての『オタク』がありますね。これは確実に世界の新世代と彼らたちが構成し始める『新・大衆』のサブ・カルの共通コンテンツなのです。日本人の日本人たちの価値観を拠りどころにしたファッションデザインを考える時期が来たようです。
ずばり、『オタク・ジャポニズム』を考えることもこれからの手段です。もう一つは原点回帰であり、昔取った杵柄。そして、『腐っても鯛』という諺がここに来て案外、大切な価値観。時代が進行発展している保守化の社会性。新たな消費者層としての『新・大衆』である『New Generation』たちの共通のコンテンツは『漫画、アニメ、TVゲームそして、MTVとデジ・カメ』。老いも若きもセルフ・ヴィジュアル化へ走る。再び、『オプティズム』そして、ポジティフな『オタク・ジャポニズム』をどれだけ「So Special」にアッセンブリッジが出来るかが彼らたちの新たな武器となるのでは。現在の日本の文化であるサブ・カル即ち「オタク・カルチュアー」と手先の器用さと素材の新しさそして、エコな心意気を持って『オタク・ジャポニズム』もしくは『アキバ・ジャポニズム』を武器に世界へ特出、特化出来ませんか?
東京コレクションで見ることが出来なかった、感じることが出来なかった
アイデンティティを感じさすまでの、国を想うまでの服つくり。
もう、ここまで来たのだから、自分の国の心感じる服作りもありでしょう。
価値観を変えてみましょう。
賞味期限切れ真近なトレンドに振り回されなで
僕たちの『ジャポネズム』を真剣に、堂々と。
今がチャンスです。
【 これからのファッションにも、
日本人としてのアイデンティティを。
そのためには、『それぞれのジャポニズム』を探し求めること
そのために国を想うこころを持ちませんか?
そのための『MIX STANDARD』が必要。
そして、『EVERYTHING SO SPECIAL』!!
自分にとっての『SO SPECIAL』を。 】
文責/平川武治 モードクリニシェ:巴里モントロユィ街にて。晩夏‘08
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年09月10日 05:26 | comment and transrate this entry (2)
はじめまして。ファッションを勉強している者です。今回タケさんが昔からおっしゃっている『骨で着る服』というものをもう少し具体的に教えてもらえませんか?先日着物の着付けの先生と話す機会があったのですが、実際の着物ではウエストがくびれている人はタオルをウエストに巻いたり胸元を少しふっくらさせたい人は胸元にもタオルを入れたりするという風にタケさんがおっしゃる骨で着るという事と真逆の事を着付けの先生に言われてしまったので当方よく理解できずにいます。どうゆう視点から見て骨で着るという事なのか、その着方の美意識はどんなデザイナーが持っているのか、又は持っていたのかを詳しく教えていただければ幸いです。ちなみに長沢節さんの著作の中で帯を下にずらしてウエストのくびれを活かした着物の着かたを見た事があるのですがこの着かたの事でもないのでしょうか?
お忙しいと思いますが、お返事お待ちしています。
yellow whale
いつも興味深く拝見しています。
マニッシュ・アローラのお話が出ておりましたが,argentinaのmartin churba率いるtramandoについての意見も聞いてみたいと思いました。個人的には欧米の表現形式とかけ離れた『自由』を見てしまうのです。なんなのだろう,この自由さは。
日本人のアイデンティティについて。個人的な意見を書かせて頂きます。
戦後のアメリカ型民主主義(市場原理主義)を,主体性のない状態である意味野放図に受け入れてしまったこと,皮肉にもこれはアイデンティティだと思います。
そのため,世界で最先端の『行き詰まり』を感じている国,それが日本。 今のこの国の状態は,他国の未来を予見している状態かもしれません。
ヨーロッパを中心に,いまさらながらにオタクという閉塞文化を受け入れようとしていることにそれが見て取れます。そうです,最先端なのです。
オタクという文化は,戦前や戦中の日本人が元来持っていた資質,例えば村八分の慣習などに見られる”集団に従属する”意識とか,ホノルルまで零戦を到達させる軍事技術を開発するファナティックさとかが土台となっていて,戦後の主体性の無い資本主義と化学反応を起こした結果に生まれた文化です。
身に迫る侵略の脅威も無く,移民の問題もなく,大したデモがあるわけでもなく,それでいて投票率は低く,情報とモノだけが充実している。
そういう何十年間でうまれたカルチャーなのです。
yellow whaleさんのコメントにかぶっちゃってすいませんが,私見を書かせてください。
骨で着る服とは,想像ですが人間の骨格をアナトミカルに理解し得た服ということではないでしょうか? ダヴィンチ的なアプローチがきちんと出来ている服というか。
和の表現で陥るのは『図柄』のインパクトに依存した表現,これに似た事は東京コレクションのtokyo-pop的表現にもあったと思います。しかし,本当の和服って,きちんとアナトミカルに考えられたものだと思います。だからその対極に究極の『着くずし』の美学があるんだと思っています。
いずれにしても,昔の和も今のオタクも,表層ばかりをなぞっていては『木を見て森を見ず』ってことになってしまいますね。
今やゴミを捨てるのにも金のかかる時代,大衆の心理には消費に対する『後ろめたさ』までが現れてきているように思います。
この状態まで来ているという事は,ある1つの新しい『概念』を感じ始めている民族という事ですから,それは堂々と主張できるメッセージになると思います。
なにしろ技術とか歴史だけは深く,長いものを持っている民族ですからそういったpieceを上手くつなぎ合わせる新しい『概念』,こいつしかないですね。
ずいぶん乱文で失礼しました。これからも楽しみにしています。
東京でのコレクションの前に、【日本人デザイナーはどのようなレベルでウケているのか?PARIS 編】
はじめに】
望むと望まないに関係なしにそのカルーセルの中に嵌ってしまえば、自然の流れで再び、コレクション発表の時期がやって来る。
これは巴里も此の東京も同じである。
だから自分たちも【巴里・コレデザイナー】と自負し、同じように勘違いをし、思ってしまう結果になる参加デザイナーが多くなるのだが、本当に、今ウケていると言われている日本発のデザイナーブランドはどのような状況の元で一人歩きし始めたのだろうか?
昨年の秋にまとめたレポートをここで、此の時期にご紹介。
一つの眼差し/———アッセンブリッジが上手なデザイナーたち】
日本人はその参加が多くなったデザイナーたち。そして,この国の文化庁が主催しているANDAMでTOGAと口の巧いブランドが貰うまでになる。
日本人デザイナーたちはここに来て一つの段階をクリアーした感が在る。
『アッセンブリッジが上手なデザイナーたち』という資格を貰った様だ。
これは前回も書いたようですが,今は時代が追い風を吹いている。
この時代の追い風とは、これからこの街、パリもそして、他のEUの都市はこれらの街に住むイミグレーターたちの新世代層が中心の新たな消費者層として確実に『大衆消費社会構造』化へ行くこと。これは、取りも直さず、かつての、’90年代中期以降の日本の状況である。(参照LePli-0号)
そして、具体的には、先ず,進化した新素材が享けている時代性。それらの進化した素材を案外と簡単安価に使いこなせる状況を持っていること。そして,生産構造が未だ確りしている事からのクオリティとデリバリーが他の外国人若手デザイナーたちと比べると良い。それに情報が発達している所からコピーや組み合わせが巧く出来こなせるデザイナーが即ち,器用さがいかせるデザイナーたち。しかし,オリジナリ性は弱いか無いが今は円安で価格が適当に買い易い。従って,買っておいとけば『Made in TOKYO』がセールスポイントにもなり売れる。この状況はメンズもレディースも同じ状況をもたらし始めている。TOGAにしても,今回だけで外国バイヤーの方が国内バイヤーより,数が多くなったと言う。(国内40%、海外60%比率)
『勤勉性と器用性と見栄性』が生む見た目感】
しかし,冷静に考えてみると,この状況というのは案外,『日本的なる状況』と言えるかもしれない。従来からの『Made in Japan』には決して,モノの本質的な創造は無かった。そのオリジナリティは無いか貧しいにしても,その主題の取り方、素材の使い方の上手さと巧さで即ち,工芸的に使う事でオリジナルものより以上に装飾的に使いこなしてその結果、それそのモノを”オリジナル”としてしまうことが即ち『Made in Japan』であったはずだ。これは,オーバーな言い方をすると,『日本文化の本質』かもしれない。僕たちが使っている漢字に対しての仮名の関係も然り,磁器と陶器の関係,漢画と大和絵そして,琳派の関係等など。最近でのIT機器類にしても,ケイタイの本体の特許部分はサムソンが押さえていてそれらを使ってのアッセンブリッジが多種多様化されたものが上手、得意分野という事も考えれば、これが,元々の『日本人の作る』という事に対するオリジナリティ性と理解出来る。日本人らしさの『勤勉性と器用性と見栄性』が生む見た目感な「創造の世界」がこのモードの世界へもやっと,ここ60年をへて辿り着いたのかと考えられる。この日本的創造の世界の本質には『素材』へのこだわり観と,日本人の特質性である『器用性と見栄性』とその「見た目感」の関係性が日本的に存在するある種の法則を考えてしまえる。これらも,戦後からの『豊かさ』の発展,進化の結果がもたらした今後,日本人の若い世代に期待するべき所でもあろう。
そんな彼等たちはどのような構造でビジネスを行っているか?】
多く開催されているサロンへの出店が増えている。サロン数は大きなもので10サロンを超える。それらのサロンで、自分たちのテイストとレンジが合うところへモノと自分たちが行って出店する初期的な構造からスターとしているブランド。そして、ディストリビュターオフィスでの展示受注を行っているブランド。(多分、13%〜18%のセールスコミッションを取られてやっているはず)彼らたちに任せば、従来からの良い顧客を持っているのでそれらが自分たちの顧客になる想いをかけて任せる。これらは基本的にショーをやりその後の営業活動を現地のディストリビュターを外付けとしているブランド。
海外バイヤーたちにどのような受け取り方や格付けがなされているのか】
商売中心に考えるとこれからもっと、可能性がある日本ブランドという感想。
メインのブランド商品ではないが置いておくと売れてしまうというサブ的なもの。
これは価格帯とデザイン性そして、デリバリーとそれなりのクオリティから。
ここでも、日本人らしさの善いところが認められてのバイニングであろう。
それに、追い風としての話題性ある「新素材と東京」。
彼らたちが世界のメインブティックのメインブランドになるためには】
『サロン』出展から次は『ショー』へ。
その時にどれだけ、コストとリスクを掛けて、『明日』を指させられるクリエーションが発表出来るか?そして、それなりの世界レベルのジャーナリストたちに気に入ってもらえるか?
そして、やっと、念願の【パリ・コレ デザイナー】へ!! 今、一歩。
日本のファッションビジネスとブランドの利点と欠点】
*素材が豊富。特に新・高品位繊維。
*まだ、国内生産に頼れる構造が残っている。
*出来上がりクオリティがよい。
*デリバリーがきちんとしている。
*市場が大きく、動く。
*メディアのホロがいい。
*消費者が成熟しはじめている。
*プライス面がこなれている。
*売れ線、トレンドものしか作らない。
*クリエーションにおける冒険はあまりやらない。
*ファッション教育構造が特化している。
*ONE POINT DESIGNが出来る。即ち、売れるコツをデザイン出来る。
*手先の器用さでSPECIALが出来る。
*コーディネートファッションは上手。
今後の課題は将来性を指差すこと】
総体に売れるものをきちんと作る事がうまく、それ以上の冒険、可能性そして、独自性を打ち出しているブランドはまだ少ない。
トータルで、結果、スペシャル性又は、アヴァンギャルド性又は、クラフト性のそれぞれの高品位性を目指すこと。そして、服の後ろに【文化】が見えるものまたは、【美意識】が感じられるものに挑戦してくれる心意気とレベルが欲しい。これが無ければ、世界レベルのファッション・ジャーナリストたちを驚かす事は出来ない。
肩を並べる外国人デザイナーたちは彼等たちをどのような眼差しで見ているか】
ここまで来るブランドであるからそれなりの資金的な現実が先ず、外国人若手より有るのでそれにジェラシーを感じる。それと生産構造が身じかでしっかりしたところが残っていると言う現実は実際に商品を作ること自体が難しい彼らたちにはとっても羨ましいこと。
結論としては、現在のNew-Generationsたちは完全に『CONSUMING-DECADENCE』の落とし子たちである。従って、ファッションを売る事、売りたいという事には早熟でありこの15年程でかなり成熟した日本ブランド。特に、男物はかなり、世界に通じる事が可能。そのサンプリングに『裏原』系が有る。それと、劇画、TVゲームからのイメージングソースは今や世界規模で共通のコンテンツになっているので女物のテイストやモード観の違いがまだ存在する世界よりはやり易い。
それとこの10年間程で、この世界も海外留学生が増え、彼らたちが帰国後やはり、海外を目指し始めた。それによっての語学力の進化も大きな要因。世界マナーを身につけ始めたとも言える。
弱点は、ビジネス構造としてのスタッフ人材に弱い。これからは彼らたち、世界に通用するファッションビジネスマンの養成と教育する事が課題である。
ある意味で中途半端な作り手志向よりも今は、ビジネス力を持つ事が鍵。
どんなものをどんな人が買うかが解らないまま進出しているブランドさえ有る。
現在のままで往くと、あの1987年の『原宿コレクション』参加ブランドがいつの間にかその後、『DC]ブランドという名称をマスコミから貰って創造性豊かなデザイナーブランドの横に並んでしまった状況の巴里版を思ってしまう。
そして、最後に、国内における『ファッションジャーナリズム』を気骨在るものへ成熟させることも大切な作り手への知的ホロが必要。
彼らたちのルーツ的、キーワード:オタク=STUDENT CONSUMERS=販売バイト/フリーター=オリジナルものと称したコピーもの=T-SHIRTS、靴、帽子、アクセサリー、皮小物、シルバージュエリィーそして=トータルブランド展開へ=『夢』としての海外進出。
このような、日本人デザイナーたちにとっては『追い風』が吹いています。
この風を上手く利用して『風力発電所』的構造と機能を世界へ、アジアへ向けて気概豊かに、参加ブランド企業も公的機関もそして役人たちも揃って、現実を直視して新たなモードの可能性へビジネス戦略を構築して行って欲しいものである。
/文責;平川武治/昨夏執筆文:
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年03月11日 05:11 | comment and transrate this entry (0)
巴里発 LEPLI no.0 発売開始
投稿者 : editor | 2007年09月23日 02:05 | comment and transrate this entry (0)
東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』−4 & 傍観者の眼差し−3
今シーズンは全くに気まぐれで見たシーズン。
東京へ余りたびたび出たくないと言う気の置き所がその理由でした。
ーSUPPORT SURFACE, ユージュ、garconshinois, ato, h.NAOTO, Ne-net, FUR、SUNAO KUWABARA。
結果、見たのはこれだけだった。見たいと思うものはそれでも、幾つかは在ったのですが、単純に朝が早いために、鎌倉の朝と東コレの朝を比べたら駅までも行く気にならずに失礼をしてしまった。お仕事で毎シーズン、毎シーズン,見なければならないという環境と状況の中で東コレを見ていらっしゃる報道記者という方々は、ここで、改めて大変だなあーと痛感いたしました。
この程度であればJFWのサイトでのチェックで十分という感じもしました。
「SUPPORT SURFACE」;
このブランドに時間の流れが感じられなくなった。
代わり映えが感じられないコレクション。
変わった事は遅れて来た、トレンドに手を出したこと。(s。スリムG−パン)
良かった事は2タイプの新しい素材が見れたこと。
クチュールで使っても引けを取らないオパール加工のパンチング素材。しかし、このオパール加工で想い出すのはもう、4、5年も前になろうか?市ノ瀬君がやっていたVANDERLIZEのコレクションが早く印象に残っている。今回これを見て市ノ瀬君のコレクションを改めて、すごかったんだとも想い出す限り。
もう一つは薄物の白地のジャガード。これは確実に、次回へ繋がる素材。
さすが、素材関係会社がバックアップしている現実のみが強さを感じさせた。
結局、このデザイナーのベーッシクな持ち得たスタンダードが狭い事。これが継続性の中では、ここに来て彼の世界をも狭くしている。
アトリエ内に、ある種の「異種混合」が必要であろう。
ユージュ;
見に来ている人たちが、それなりの業界人が目についたのでそれなりのデザイナーなのかと?
でも、僕はショーが始まって、見ている間に何処を見て良いのか解んなくなってこの教会建築の内部天井の構造を一生懸命に見てしまっていた。
それだけのコレクションでしかなかった。バランス感とテイストが古い。絵を見て絵を描くタイプのデザイナー。久しぶりに退屈したショー。でも、このクラスが一歩間違えればあのDC。そう思うと怖くなったが未だお絵描きのお絵描きで稼げるだろう。僕が発見した事はこの教会を建築した建築家はキリスト教信者でないという事だった。(?)
ato;
昨シーズン、見ていない僕は変わったatoというイメージを持った。どう変わったかと感じたか?ポジティフデザイナーになったという程に変わった。それの現れはコーディネートアイテムが増えたこと。本来、ジャケットだけを作っていれば良いコレクションだったこのブランドに幾つかのトレンド的ユニフォームがのぞいていた。彼のコレクションで好きな事、そして信じられる事にこのデザイナーは自分の嫌いな事はやらないという所である。だから、今シーズンの彼のコレクションには幅が出来たとも言えるだろう。(?)しかし、いつも正直に思ってしまうのは『女物』は止した方が良いという事は変わらなかった。あまりにもその『男物』に対して、夢物語的なのだ。怖かった事はショーの最後のアイテムが『ベビードールドレス』だった。
h.NAOTO,;
この手のビジュアル系と称される原宿ファッションは僕は、原宿特有のものだと思っていたのが、勉強不足だと言う事に気が付かせてくれた彼のコレクションだった。結局は、v. westwood と pink houseそれに、当然だがMILKが合体した所のガンダム系、アニメのものである事が解った。残念ながら原宿のオリジナルではなかったのが寂しかった。でも、観客の、所謂、顧客たちはそんな事はお構いなく、この時ばかりと競って(?)楽しく、うれしくのびのびと晴れやかに着飾っての参加だった事が僕も楽しかった。バランス感は良いのだろう。コーディネートが行き届いていた。この手のブランドものにも新しさが在る事も気がつかされた。それは、以前であれば、やたらと使いたくなって使う『メタル』ものが少なくなって、『レース』『コード』『リボン』が多く使われていたのがこの系でも、優しさへの進化なのであろうか?ソフトプロテクション?
僕が思ったのは、彼らたちは案外、お利口さんだったという事、それだけ、面白さとリスクは感じられなかった。
Ne-net;
今シーズン、見せて頂いたブランドのコレクションでは一番『創造のための発想』が考えられ、時代にチューニングされたもの。東コレでは本当に、数少ないタイプのデザイナーになった?しかも、彼の身体性としてのスケール観が強く感じられる所も良い。在る意味で、彼自身が時代をそれなりに感じ取っている、勘と頭の良さをそして、素直さを感じたショー。このタイプは本当に少ない現在の東コレ。多くは世間の”トレンド”のフレームの中でまとめてしまうもの。"Back to the roots" “New Generation"もう一度自分たちの、ある種の”祖形”(胎児)に戻ってしまいいたい?の思い。マサイ-アフリカを中心としたフォークロアからインスパイアーされたコレクションにここでまた、日本の素材の強みを上手に彼らしく使う。全体としては、やりたい事とやらなければならない事のまとめ方にシャープさが欠けた感があるが、彼自身の世界観を持ってまとめていたのが何よりも楽しかった。ここでも、ジャガード、フリースフリル(?)等の興味ある素材が。でも仕上がりのコンセプトは"ROOT" よりはやはり、未だ、”SOFT PROTECTION”.そして、メディア受けもちゃんと狙った、”カメレオン”。ただ、彼の”創造のための発想”のルーツにはいつも今の時代の日本人の感覚としてのオタク観やその根底の、ある種の少女たちが持つブラックユーモアさえもが感じられるのが僕は興味深い。
FUR;
このデザイナーの千田君もなかなかしぶとくがんばっている。
久しぶりに見せてもらったが所謂、”プロ”である。この世界でのお勉強と経験がちゃんと自分の世界を外さずに、最近のこの手の女の子たちが憧れる日本的コーディネートをクラフト的なこなしも含めて巧く、そつなく市場性からも離れない程度でまとめている事。だから、プロ。彼の"SOFT PROTECTION"はスピリチュアリズム志向を都市型ファッションへ向けさせた新しい可愛さか?色の押さえ方、素材のミックス感そして、要所、要所のアクセサリーが時に生きていた。
SUNAO KUWAHARA;
このデザイナーも先シーズン見なかった事で、こんなデザイナーだったのかと?
時代を感じての”フェミニン”感覚がコレクションへ?それとも、彼自身が好きな世界だったのか?日本人がまともにこの世界へ入って行っても太刀打ち出来ないだろう。間違って、”オカマの宝塚”もの。
エレガンスをどのようにコケティッシュに、ユーモアに、アイロニーも込めて楽しむかのテーマとしての”ピエロ”。テーマをこれでも良いだろう。そのマテリアルには総てに、”自由”な展開が欲しかった。アイテムのまとめ方と素材のこなし方にもっと乱暴だが知性と少女観がある発想が在れば僕は驚いたのに。今のツモリにはこれが備わったことが彼女のブランドが世界で認められたと見ている。靴に印象が残っている。3型程の靴に良さを感じた。
ここで、僕の好きなSACAIの阿部さんが今回、毎日ファッション大賞を貰われた。
『おめでとうございます。
とても、うれしいです。
が、解っていらしゃるでしょうが、ご用心もください。
この東京、土足で上がって来る人が多いです。』
それに引き換え、新人賞は変なにおいが感じられる。
マッチョな世界のマッチョな臭い。デヴュー時から変わらぬ”表層2nd.SKIN"。
メディアもこの手には勘違いする。素材に助けられて、素材を助けていないコレクション。すばらしい日本素材をレベルの低いこのデザイナーはエゴで玩んでいるだけの世界。料理の仕方も、まして、技術も味付け方も未熟な表層のみの、この玩びをよしとする所謂、『虚飾の上塗り』タイプのデザイナーがまた一人誕生させられた。マッチョな世界が見え隠れの結果なのだろうか?デザイナー自身の謙虚さを今後期待する。
ごめんなさい、『ミントデザイン』へ行かなかったのが悔しい。
文責/平川武治:
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「東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』ー傍観者の眼差し-3」
”日出る所のものたち”
mintdesignsのショーを見た感想。彼らは今シーズン、JFW主催の東京ファッションウィークに参加していない。意図的になのか、そうでないのか?図らずも、沈み行く泥舟と日出る所のものたちとの対比が鮮明であったコレクション。今シーズンの東コレに来ていた海外招待客も、はるばる極東の首都に来た甲斐があったという様子。最後の最後になってやっと東京土産を得ることができたようだ。
ショーの中身について。僕が感じたこと、そして彼らが今回のショーで主眼としたと思われることは、「軽さ」「軽やかさ」という今の気分をどうイノセントに、「膨らみ」を持たせながら、優しく、ポジティブに表現するか。それでいて、ある種のシャープさ、リアリティ、華やかさ、エレガンスをどのようにバランスをとりながら最終的な空気感を形作るか。
「インテレクチュアル」だけど決して尖っていない軽やかさ、軽やかなエレガント、昔々のお話のような「ドリーム」が私たちにもたらしてくれる「楽」さ、「解放」。こんなに薄汚れて行き場のない硬直した表層だけの「コンシューミング・デカダンス」の中で我々はどこへ行き先を見つけようか。すべては美しき「軽やかさ」へ。
これこそが僕たちが今、本当に望んでいること。世界の実相を見つめながらも、軽やかに美しく、そして知的に自分たちの人生を楽しんで生きたい。
彼らのモチーフとなったのは「気球」、「飛行船」だった。
頭には粗い目のネットに包まれた風船。しかしこのようなスタイリングはかつてジュンヤがやったものとは違う。宇津木が今シーズンモデルにかぶらせたカツラとも違う。すべては軽やかさをどう表現するか。重力からどうやって身体を解放するか、といったところに目線があった。
そして、今シーズンのミントは衣服のバランスを変えてきた。今周りで主流なのは肩のあたりにボリュームを持ってきて、そのボリュームを下に垂らして腰や胴の部分を隠し、足はタイツでラッピングして、身体をどうプロテクトするかといったところ、ミントはむしろ肩の辺りをごくナチュラルに薄くしてドレープで腰や胴の部分に軽やかにボリュームのバランスをつけている。
僕が連想したのは、1999年あたりでヨウジが出したウエディングドレスシリーズとその前あたりの白のシリーズ。
しかし、ミントの方が明らかにシャープ、軽やか、そしてグラフィカルでありながら「エレガント」。いつも彼らのクリエイションを見ていると日本ではなくヨーロッパ的な知性のようなものを感じるが、今回のエレガンスはいわゆるヨーロッパ的なそれとは違う視点によって生まれたように思う。
この「エレガンス」には正直驚いた。普通、エレガンスとは少なからず「老い」「成熟」が関係しているもの。しかし、ミントはある種の「若い成熟」「しなやかさ」のなかに「エレガンス」を見いだしていたような気がする。
そしてそれを可能にしているのはテキスタイル。グラフィカルなテキスタイルはもともと彼らの得意とするところだが、今シーズンはボーダーを主に、気球や飛行船、雲をイメージしたスケッチのような線画をプリンティングしてきて、「コンセプト」から「お話の世界」へ。「アバンギャルド」から「ナチュラルフィーリング」へと変貌を遂げた。
カラーバランスにしてもそう。一時期はまじめすぎる色使いと地味さに今を感じることはできなかったが、今シーズンは今を感じさせる、控えめでありながらもポップで鮮やかな色たち。今まで彼らのグラフィカルが連想させてきたある種の数学的、建築的な「カタさ」は消え、よりナチュラルで華やかな知性が感じられた。
このような彼らの変化は一朝一夕のものではない。「包む」のシーズンあたりからずっと、彼らがイメージする時代感、空気感を形にするにはどうしたらよいかという試行錯誤がありありと見えてきて、今シーズンようやくそのアジャスト、バランシングを見つけてきたなと感じ、感動した。
これが「沈み行く泥舟」と「日出る所のものたち」との違い。
これ見よがしのエゴや「自己表現」なるお遊戯会、もしくは過去の枠組みでしか今を見ることができない、結果明日を食いつぶす従順な市場主義者たちは何のためにコレクションをやるのかを再検討すべきだろう。僕たちに今を感じさせながらその先を指差してくれる作り手のみがショーをする資格があり、また意味があるのだから。
傍観者;Josh Matsuzaki
投稿者 : editor | 2007年09月22日 16:11 | comment and transrate this entry (0)
LePli-創刊準備0号、発刊!
ごあんない;
拝啓、 盛夏の候、貴社ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
平素は格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。
このたび、私どもは新しいカテゴリーのモード・カルチャー誌【LEPLI】(ルプリ)をモードのキャピタル、巴里で企画編集して、創刊準備号、“LePli-0号”を発刊いたしました。
この新たな【LEPLI】はモードを学ぶ世界の学生たちをコア・ターゲットとしたワールドワイドの英文季刊誌です。そして、彼らたちに関心あるモードの世界に携わっているファッション社会人たちもが興味を持ち、満足できる内容に心がけています。
編集は常に、斬新であること、インテレクチュアルであることそして、エモーショナルであることを大切にしています。興味深く読み、識り、観る、総てにバランスの執れたクオリティ高いテキストとヴィジュアルそれに、最新の世界のモードを教える諸学校とそこで学ぶ学生間の相互情報などが中心のモードとカルチャーのコミュニティ誌です。
この【LEPLI】の編集軸は3軸。一つはモードを学ぶ学生たちのための【創造のための発想】をメインコンテンツとしたテキストとアーティクル。二つ目は、彼らたち学生が感じ識らなければならない【過去と時代、現代社会そして身体】を新たな感性でミックス・スタイリングされたヴィジュアル・イメージング。そして三番目が、彼らたちが卒業後、モードの現実世界へ自分らしくランディング出来るための【インキュベート機能】を考えた諸情報と学校間、学生同士の諸情報の発信。これらがこの新たなモード・カルチャー誌の3本のコンテンツです。
この新たな【LEPLI】はモードを学ぶ学生たちが真に、創造性を豊かに発展させ、自らの好きな世界で自信あるアイデンティティの元に活躍してゆくための手引き書であり、より、具体的なモードの世界の現実が把握でき、その情報の元で出会うべき人たち、今後の就職活動などに役立つモード・コミュニティ誌である事。そして、ここから新たな時代へ向けての新人デザイナーの登竜門的役割と立場がこの新たな【LEPLI】の使命だとも考えています。
この新たな【LEPLI】の編集発行はTONFU MEDIA PUBLISTY.
責任編集ディレクターは過去10数年間、ヨーロッパのアントワープ王立アカデミーを始め、ラカンブル、アーネム、ヴィエナ、バーゼル、ベルリン等多くの実力あるファッション学校などと、イエールフェスティバル、IT’Sそして、GWANDなど、ヨーロッパにおけるファッションコンテストの国際審査員経験を元にした平川武治が行ないます。
そして、彼の20数年における、モード/巴里—東京での経験と交友関係を生かした編集チームを30代前半のジャーナリスト、スタイリストたちがパリとアントワープそして、東京で発足し実際の編集にあたります。
本創刊0号は既に、昨シーズンの巴里オートクチュールサンディカ主催の打ち上げレセプションの参加者たちへ又、バロセロナファッションウイーク等でのプロモーションを行い、多くの関係者たちから暖かい興味深きお言葉を頂き既に、いくつかの有名ファッションサイトで紹介もされています。
また、9月から始まる各学校のオープン・スクール期とパリのプレタポルテコレクションシーズンにあわせてプレゼンテーションをも予定しております。
そして、“ LePli創刊1号” は【THE CARE】を特集テーマに、ヨーロッパを中心にU.S.Aおよびアジアでの世界規模の発売を新年、1月の新たなコレクションシーズンに向けて発売を予定しています。
どうか、皆様、ご関心とご興味を持ってこの新モード・カルチャー誌【LePli】にあらゆる面でご協力をお願い致したく又、御実直なご意見をも頂きたく紙面にてご挨拶とお願いとご案内に代えさせていただきます。
敬具。
2007年08月:
責任編集企画;平川武治
発行元;TONFU MEDIA PUBLISH
LePli編集室;
チーフ・エディター;Jesse BROUNS
モード・ディレクター;Akiko MURATA
AD & グラフィック;gift
55/57 rue de Montreuil 75011,PARIS
0033140240050: TEL&FAX
http://www.lepli.net/
既に紹介されているロンドン巴里のサイト;
http://showstudio.com/project/080barcelona/blog/22511
http://www.fashion-eye.net/
Diane Pernet、etc,,,
投稿者 : editor | 2007年09月13日 02:53 | comment and transrate this entry (0)
「 東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』−3」
『 もう一つの日本ブランドのあり方。』
『モードのショーケース』のキャピタルとしてのパリへ、このところ2年ほどで多くの日本人デザイナーたちの直接、個人参加が増えている。彼らたちのパリ参加への形態を分類してみると、
*従来からのショーをやり、その後自分たちのメゾンで展示会を行っている既に、世界のブランドの仲間入りしているブランド。それに、ショー後はパリのディストリビューターオフィスに委ねての展示会をしているブランドもこの分類にはいる。
*独自で展示会会場を借りて、展示会だけをやり始めたブランド。
*増えた現地の『サロン』(パリだけで現在では13サロンが開催されている。)と称される完全に商業ペースでオーガナイズされてしまっている合同展示会会場の自分たちのテイストとレンジが合うところへモノと自分たち自身が行ってブースを借りて出店する初期的な構造の参加組。
大きく分類してもこの3パターンであろう。
即ち、ディストリビューション機能の『内蔵メゾン』か『外つけメゾン』の違いでの現地営業活動であり、これはそれぞれの予算と人材に関係しているだけの違いだけである。これは、取りも直さず現地のそれなりの人たち、ジャーナリスト、プレス、セールスエージェントなどのとの関係性が作品としての『服』を通じて出来上がっている日本ブランドであるか、『お金』と『度胸』(ノリの良さ)だけを持って現地の作られた商業べースの構造の中で、”ウケる”即ち、売る事だけの世界へ入るかの入り口の違いを読まないと勘違いが起る。
彼らたちの現地評判は、バイヤーたちにどのような受け取り方や格付けがなされているのか?商売中心に考えるとこれからもっと、『売れる』可能性がある日本ブランドという感想。決して、”メインブランド”としての商品ではないが置いておくと売れてしまうというサブ的なもの。これは価格帯と売れるデザイン性そして、デリバリーからだと言う。
では、彼等の利点と欠点すなわち、日本のこのレベルのファッション産業のインフラ的なるものとは、日本のファッションビジネスの利点と欠点を考えると、
*素材が豊富。特に合繊が今はいい。
*まだ、国内生産に頼れる構造が残っている。
*出来上リのクオリティが悪くない。
*デリバリーがきちんとしている。
*クリエーションにおける冒険はあまりやらない。
*売れ線、トレンドものでまとめ、それしか作らない。
*ONE POINT DESIGNがうまく出来る。
*手先の器用さでSPECIALやONE POINT DESIGNがうまくこなせる。
*ファッション教育が普及している。
*日本国内の市場が大きくそして、何でも有りの節操がない動き。
*国内メディアのホロがいい。
*消費者が成熟している。
*コーディネートファッションは上手。
*プライス面がこなれている。
*即ち、『CONSUMING DECADENCE』な社会環境にドップリである。
これらの要素と現実が確実に自分たちの身体的規模でそれなりのリスクを張って楽しみに行く、毎シーズンに出会えるバイヤーたちとの”お友達”関係のノリで彼らたちと関係性を作ってゆく事でその結果が、何を彼らたちが欲しがっているかを理解して、帰ってきての国内生産でこれをホロしている。従って、バイヤーたちには都合がいいお利口さん日本ブランドなのである。
しかし、彼らたちの今後の課題は”将来性”をリスクを張って勇気を持って指差すことでしかない。これがパリでは大事なブランドアイデンティティへと繋がり、この街のモードの世界での本質的な関係性が出来上がって行くのだが、彼らたちはその手前で、無難なところと彼らたちの本質によって、総体に売れるものをきちんと作る事がうまく、それ以上の勇気ある冒険、可能性そして、独自性を独自で”リスクとコスト”を堂々と張って、打ち出しているこのレベルと、規模のブランドはまだ少ない。
きっと、ブランド意識の方が強くそれで儲かってゆけばいいという発想が此の手、展示会参加組には多い。ここではデザイナー志向を持った若手が少ないのが現実。スペシャル性とアヴァンギャルド性そして、クラフト性がハイレベルにバランスが取れ、実際に着れる服、着てもらえる服のコレクションをやっているデザイナー意識の高い若手デザイナーブランドは現在では、UNDER COVERそして,SACAI,TOGA,へと流れが続くぐらいのものであろう。
では、彼等たちと肩を並べる若手外国人デザイナーたちは 彼等たちはどのような眼差しで見ているか?
ここ、パリまで独自で来るブランドであるからそれなりの資金的な現実が先ず、外国人若手より有る。それにジェラシーを感じる。それと生産構造が身じかでしっかりしたところがまだ、残っていると言う国内現実を利用し実際に商品を作ることと、そのクオリティを保つ事等が難しい彼らたちには、とっても羨ましいことなのである。その結果、デリバリーにも影響が出る。
この自分たちの身体的規模でのパリサロン・商業的展示会への進出組の結論としては、現在の、ある種のNew-Generationsたちは完全に『CONSUMING-DECADENCE』の落とし子たちである。従って、ファッションを売る事、売りたいという事には早熟でありこの15年程でかなり成熟した日本ブランドとなっている。特に、男物は世界に通じる事が可能強いのが現在だ。
彼らたちの世界そのもののサンプリングに『裏原』系の総てが有る。それに、劇画、アニメ、TVゲームそして、MTVからのイメージングソースは今や世界規模で共通のコンテンツになっているので女物のテイストやモード観の違いがまだ存在する世界よりはやり易い。弱点は、ビジネス構造としてのスタッフ人材に弱い。これからは彼らたち、世界に通用する成熟度とセンスを持ち備えたファッションビジネスマンの養成教育が課題である。
ある意味で中途半端な作り手志向教育よりも今は、ビジネス力つける教育を行う事が大切な鍵。極論を言えば、『イメージを数字に置き換えられるセンスある人材』がほとんど皆無であるのが今の日本のファッションビジネスの現実である事に目覚めなければならない。例えば、自分たちが作ったものがサロンへ出店するまでは、
『どんなものをどんな人が買うか?』が解らないまま、自分たちがサンプルを抱え持ってサロンへ進出しているブランドが殆どである。が、彼れらが強くなってゆく可能性は日本的なる『甘えの構造』のうちでの『東コレ組デザイナー』たちよりも大いに在ると感じる。
その可能性を現実化するためには、自分たちのクリエーションに『リスクとコスト』をオリジナリティ高く、インテレクチュアルに、勇気を持ってかけられるか?すなわち、『今日の雰囲気』だけではなく、どれだけ『明日を指差すか?』もっと難しく言ってしまえば、服の『表層』だけを作るのでは無く『深層』をどれだけ深く読んでデザインが出来るかに掛かっている。『表層」としてのメディアに左右されない『深層』を感じ読めるかが彼らたち、外国人が指摘している『インテレクチャー』という意味であリ、僕の言っている”成熟度”である。
彼らたち、多くの日本ブランドの図式を考えると、オタク=STUDENT-CONSUMERS=販売バイト/フリーター=オリジナルもの=プリントT-SHIRTS、靴、帽子、アクセサリー、皮小物、シルバージュエリィー、=トータルブランドへ、=夢としての海外進出。=コンセプト『お友達』なる関係性。これが彼らたちのある種の『リアリテ』であり彼らたちはまず、彼ら自身が消費者であった事が強いリアリテになっているはずである。一方で、レベルそのものは別として『専門』学校出身者が多い事も現在のこの世界を生み出している。卒業生たちはミシンが在る事と先輩、後輩の人材としての日本人的なる(?)関係性。
それとこの7年間程で、この世界も海外留学生が増え、彼らたちの一部は帰国後やはり、海外を目指し始めた。それによっての語学力の進化も大きな要因。世界スタンダードを、マナーを身につけ始めたとも言える。
/文責;平川武治:
投稿者 : editor | 2007年09月13日 02:15 | comment and transrate this entry (0)