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平川武治版終戦記念日に念う事/「生まれて半歳の平川武治が体験した終戦日とは、 その時の祖母は、母は?」−2

 気が付いてみると、
私たちは余りにも自分一人のことと、
その業のために身勝ってで横柄な生き方をしてしまっていませんか?

それが心地よい時期も在ったでしょう。
でも、今では、流石、もうちょっと、恥ずかしさを感じる事はありませんか?
人生を終わり掛け始めてるリタイア組の人たちはこれを認めると自らの人生が?

 自然を念い、他者を想う、親を想う、先祖を憶う
社会を念う、國を念う、地球を念う
時をおもう、お金を念う、愛を想う、性を思う、
この、想うこゝろと想い合うこゝろが純に、自分らしく端整に「調和」していれば
その姿は安心出来るし、美しいはず。

僕たちが簡単に使ってしまっている『 美』は
此処からしか生まれませんね。
 
「 おおらかなる心と案じあうこゝろの調和。」

 このこゝろの状態のキャッチボールが
”しあわせ”と呼べるものではないでしょうか?
しかし、それ自体は決して、永続性あるものではありません。
モノにも、人にも、自然にも終わりがありますように、
幸せや安心にも永続性はありません。

 その幸せや安心が大切であれば、在る程に、
その”関係性”をどれだけ永く継続させて行くか?

此処にも、想い合うこゝろと行為の努力という
『謙虚さ』が必要になるでしょう。
その為には、先ず、ご自分の真こゝろを素直にお持ちください。
そのお持ちになられたご自身の真こゝろを信じて、
その真こゝろの思うままの謙虚さ在る行為を為さってみて下さい。

 此処からが総てのはじまりです。
これは結構、勇気が必要なことです。

その始まりが不十分であれば、
総てが不十分な行為の結果になってしまうでしょう。

例えば、
ご自分が今、美しいこゝろを念っていらっしゃるのなら、
その美しいこゝろの美しさを念う行為をなさって下さい。

その行為が、絵を描くことなのか、服を作る行為なのか、
人を愛する行為なのか、家族を念う行為なのか、自然を思う行為なのか、
本当は、さして問題が無いのです。

 問題は、自分のこゝろの想いに総てが潜んでいることです。
自らの真こゝろの在り方にあります。

学ぶこと、努力することとは
このこゝろの在り方の為に成さなければならない
人間の品位に関わるしなければならない
『謙虚』な行為の一つです。
その不連続が『関係』をも生みます。
その為された経験によって
『調和』の成熟さが生まれて来ます。

 未熟、早熟、未成熟、成熟と、
この成熟さが足りませんね。
多く若い人たちも目先を急ぐあまり、
虚飾に戯れんと、謙虚なるこゝろを投げ捨て、
学ぶ真こゝろが鈍化、退化していませんか?

 未成熟なこゝろに業を張ってもその業はそれまでのもの。
ご自分の業はより、成熟為されたこゝろに持つことで
その業は他者へも耀くまでのものになるでしょう。
お勉強とは、
為さなければならない自心への真こゝろの調和と広がりへの
謙虚なる行為でしょう。

 だから、生ある限り、お勉強はしなければならない。
これも、自然なことなのです。

 戦後の多くの日本人たちは
『不自然な』『無理な』『歪な』生き方を選ばされてしまったことによって、
僕たちが持っていたはずの
『こゝろのバランサー』をも歪にしてしまった
国民に成り下がってしまったこと。

 嘗ての、
僕たちの國の湿りある、優美な調和をいっぱい想い起こしませんか?

これ以上、
”へんな”ことが当たり前にならない前に
『へんな國』にならないうちに!
そして、『へんなあなた』にならないうちに!!
気概ある真こゝろを携えて。

ありがとう。
平成二十二年八月十五日/65回目の終戦記念日に。
ひらかわたけはる:

投稿者 : editor | 2010年08月20日 19:09 | comment and transrate this entry (0)

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