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2010年04月29日
「平川の東京コレクションをみて想うこと。東コレ批評に代えて、」
『 文明を謳い、文化をデザインして欲しい。
生を与えられ、生かされているあなた。
あなた自らの価値観の元に築き上げる自分の世界観を拠り所に、
あなたが、あなたらしく生かされる事に必要な世界のために、
社会のためにそして、
人のために、
堂々と、文明を謳い、文化をデザインして欲しい。
それが服であっても、 』
平成二十二年四月二十九日/平川武治:
2010年04月25日
My Archive Interview−2 / "逃げ足の速い男”/Hello Mr. Malcolm R. A. McLaren."
時間は止まらない。廻り続けている。
だが、時間はリバーシブルだ。
また、一人、かつて僕がインタビューをした男が死へ急いでしまった。
彼は、あのロンドン発POPカルチャーの確実なるアイコンで在った。
彼が居なければ、登場しなければ、シドもナンシーもみんなみんな生まれていなかった。
そして、ヴィヴィアン譲も。
そんな彼は
今年のフェスティバル-イエールのインターナショナル審査員に選考されていたので再会を楽しみにしていた僕。
『安らかにご冥福を。
ありがとう、ミスターマルコム。
あなたは真のブリティッシュダンディズムを生きられた。』平川武治:
******
このアーカイブインタビューは1995年発行の雑誌『SWICTH』誌に掲載された際のオリジナル-インタビューテープを起こしたものです。
僕が興味深く聞き入った事はやはり同年代人としての『’68年をどのように?』であった。
そして、彼流の時代の掴み所がいい。
メディアとの関係性も熟知している。
これはその後の僕の頭に、彼の名前と共に、かなり強く印象が脳みそに残っていた事だった。
これも今では古い話になってしまうが、
このインタビューの後に彼とは幾度か巴里で出会っている。
その一つに、僕の巴里の親友の一人、ドラッグクイーンでその名を覇した“ROLA"が催したイベント『THE CABARET』で出会った事がある。この時は丁度、マドンナが巴里へ来ていて、このローラたちのイベントにお忍びで観客で参加した時であったからかなり豪華な贅沢な時代だった。その時の彼への印象が、"Hi,M. BRITISH GENTLEMAN, MR.MALCOLM!”
そして、このインタビューでも語っている”CABARET“論でもある。
お喋りと目立つ事が大好きだった、子供の様な中年男だったから彼の周辺は大変だったであろう。
The ARCHIVE INTERVIEW on '95 in London.
Interviewer TAKE. Hirakawa:
『肌を切る風が、ロンドン特有の冷たい11月の遅い朝、遅刻することで有名な彼にしては、大変珍しく定刻通り現れ、彼が語り得る幾つかの"神話"や、現在と未来について、街、音楽、ファッションについてロングインタビュー。
「SGT.-PEPPER'S LONLEY HEARTS CLUB BAND」というビートルズの名アルバムが口火を切ったかどうかは、今となっては全てがノスタルジアなのだが、この年、'67年にロンドンにもいわゆるヒッピー革命が起こった。そして、未だ、ヒッピーの流行が勢いを持っていた'71年,「キングス・ロード430番地」に、当時では一番の、古着を中心としたポップ・レトロの店、「パラダイス・ガレージ」があり、そのバックルームでスタートしたのが、「LET IT ROCK」。
そこは、田舎から出て来た、テディー・ボーイ達の夢を全て叶えた、ブリルクリームで飾られた、ボール・ルーム。そこでは、50年代のロックンロールのレコードが中心に、確か売られていた。
その店も翌年、'72年には「TOO FAST TO LIVE TOO YOUNG TO DIE」という名前に変え、テディー達からロッカーズへ、愛玩する対象も変えた。この年は後に、「フィフティーズ・リバイバルの年」と云われる、大ロックンロールフェスティバルも開かれた。そこでも、自分たちの作った、「Vive Le Rock」というスローガンが入った、リトル・リチャードのTシャツが売られた。この店名は、バイカーズジャケットのスローガンからとったもので、店内にはスローガンで溢れたTシャツがいっぱいだったし、飾りビョウやチェーン、レザーものが主だった。この辺りから、ワーカース・クラスの若者達に圧倒的に指示されはじめた。
'73年には憧れのニューヨークに初めて行った。この街で、他のキングス・ロードの店とともに、「ナショナル・ブティック・ショー」に出展参加したためだった。
'74年春にはこの店名もイメージも、再び新しくなった。「SEX」という名で、フェティスト達を喜ばせた。レザーパンツやゴム、革製のボンテージ・ファッションが中心になり、ジッパー付きの穴あきTシャツ等もこの時代のマスターピース
だった。新しい店名が、プラスチック製のショッキングピンクで大きく飾られていた。この店から、あのパンクグループ、"セックス・ピストルズ"が誕生し、『神話』が、より神話らしく語られるに至った。
'76年には、更に店名を「セディショナリーズ」と変え、この時代に今でもパンク小僧達の憧れとなっている名品(?)ボンテージ・ストラップド・ルックを発表した。店内には、ピカデリー・サーカスの絵が、上下逆さまに描かれていた。
近くのフルハム・スタジアムのフットボールファンたちによって、見事に壊されたファサードには、パンクス達のグラフィティーが加えられ、余計にらしさを生んだ店だった。
そして、'79年に現在も存続している名前、「ワールズ・エンド」に改名した。
今でも、正面には、この時代に新しく取り付けられた、逆回りの大時計があり、速い速度で回っている。店内は、海賊船をイメージし、床は傾斜がついている。
'81年には、最初のキャット・ウォーク・ショーをオランピアで行った。そこで発表されたのが、"パイレート・コレクション"。海賊シャツや、ショートパンツが新鮮だったが、この辺りから、音楽と服の関係に溝が出来始めた。そして、キングス・ロード430番地の弟分とも云える店を、「ノスタルジア・マッド」という名でオープンさせたが、この店が閉店されると、同じ様に、ヴィヴィアン・ウエストウッドとも最後の仕事となった。これが'84年であった。
『神話』は語られるたびに、作られてゆくものである。そして、『ノスタルジア』とは、苦痛が取り去られた記憶である。
TAKE.: 時代の先取りについて(73年頃、ブリティッシュロックの下火の時期に、ロックンロール)
Malcolm.: 「アート・スクールの学生時代からロックン・ロールファンだった僕は、卒業後、自分がコレクションしていた、何百枚ものロックン・ロールのレコードを売るために、その場所を借りたのさ。」レコードを売るために音楽に合っ
たスタイリッシュな服も売り始めた。それは、当時のキングス・ロードのどの店ともメンタリティーが違った。まるで、ロックンロール・スタイルの小ちゃなミュージアムのようだった。後に、新しい服を売るには新しい音楽が必要になったために、パンクが誕生したんだ。僕は、服は音楽無しでは売れない、ていう気持ちがあった。新しい服と一緒に、古いレコードを売ってゆくことはできなかったんだ。昔のロックンロール・スター達、例えば、R・スチュワート、D・ボウイ、R・スターやG・ハリソンそれにI・ポップ達が、僕の店に古いノスタルジックなロックン・ロールのレコードを買うために集い始めた。そうしたら、彼らに会いたい若者達が大勢集まり、自分たちももしかしたら僕に近づいたらスターになれると、考えたのだろうね。そこはまるで、アソシエーションだったし、ある種のスタイルを生むセンターだった。
プライベートでもビジネスでもパートナーだったV・ウエストウッドとは'65年から二人の交際が始まった。その関係は、お互い同士が学び取り合うと云う、補足し合う関係で、'84年まで続いた。彼女はその後も、「ワールズエンド」を継続させ、'81年以後、現在迄パリでもコレクションを発表し続け、ニューヨークのファッション誌「ウーマンズ・ウエアー・デイリー」の編集長に、「世界中の6人のトップデザイナーの1人であり、唯一の女性デザイナーである」とまで云わせた。多分、彼との出会いがなければ、また彼と仕事をしなければ、今のV・ウエストウ
ッドは存在し得ないだろう。
『記憶とは創造の過程であり、何を思い出すかは、我々の"ライフスタイル"にとって重要な意味を持っている』(ロロ・メイ/『実存』 '58年)
TAKE.: V・ウエストウッドとの関係は?
Malcolm.: 当時、僕のガールフレンドで学校の教師をしていた。僕の家は縫製工場のようなことを営んでいたので、彼女のためにミシンを購入して、服作りについて少し教えてあげた。本当に小規模だったけれど、彼女の作る新しい服の方に人気が集まり、古いレコードは姿を消し、彼女は勿論、学校の教師を辞めた。だけど、僕は音楽と関わっていたかったんだ。服はファッションでなく、音楽と結びついたものだという考えが変わらなかったからね。彼女はロックン・ロールはそれ程好きではなかったけれど、手先が器用だったから、服を作るのが上手だった。彼女の服は、自分で試着しながら裁断して、自分のサイズを縫製していく方法だった。一般的な工程で作らず、自己流のシンプルな方法(D・F)だった。
それが同義語ともなって、D・Fスタイルのパンクロックと結びついて、定着したと思うね。僕たちの発想は、全てがアマチュア的な発想だったから、伝統を重んじるところが少しもなく、非常にシンプルで、誰にでもできるようなものだった。
"服とは音楽へのステートメントだ"という発想は、ファッション誌から生まれた服ではなく、ストリートからの発想だった。そのスタイルがパンクと呼ばれ始めたのが'73年頃からの、「キングス・ロード430番地」からであった。ショップ「セックス」のスローガンが、「セックス・クローズ」という新しいストーリーで出発した。セックス・ショップで売っているアンダーグラウンドなものを、ファッション・ストーリーへ持ち出した。音楽も突然、新しいものが生まれた。かつてのロックン・ローラーたちがプレイするスタイルも容貌も異色。セクシーさが全ての重要なキーポイント。それがパンクであり、そのムーブメントを直接、世界中に広げたのが、「セックス・ピストルズ」、彼らはおばあちゃんと一緒の子供達の様だったと云うが、
TAKE.: セックス・ピストルズとは?
Malcolm.: 店に集まる若者達は、自分たちが着ている服に似合う音楽が欲しいと言い出した。僕の服を着た若いミュージシャン達が店に出入りし、そのファン達も集い始めた。彼らがコンサートする時のチラシやチケットも売り、彼らのス
テージでは僕の服を着たからいい宣伝になった。セックス・ピストルズは名前の通り、彼らはとても若くてセクシーな小型拳銃を持った暗殺者達のようだったから、この名前が浮かんだ。名前とスタイルと音楽、すべてが一枚の写真とストー
リーに結びついたんだ。アイディアは、僕がニューヨーク・ドールのマネージャーとして初めてアメリカへ渡ったとき、ニューヨークの小さなバーで、リチャード・ヘルがコンサートをしたのを見た時だった。彼は破れたTシャツにマジックペンでスローガンを書きなぐった姿で現れたんだ。ロンドンに戻ってからも、このイメージが残っていた。それに安全ピンを加えたのが、パンク・ロックスタイル。パンツもアメリカの軍服からのヒント。ブリーチしたり、ファスナーを加えたり、やはりストリート・ファッションそのものだったよ。シド・ヴィシャスはジョニーの友人で、店の常連客から始まった。毎日通ってくる様になって、僕が根負けしてグループに入れたんだが、何の楽器も出来ず、どうしようもなかった。ある日、リハーサル中に、ジョニー・ロットンが歌いたくないと言い出した。その時にシドがマイクを持って歌いだしたんだ。それが良かったし、彼は曲を全部覚えたいた。シドが歌えるなんて誰も知らなかったが、僕らは彼をシンガーとしてレコードを作った。でも彼は、「ゴッド・セーブ・ザ・クィーン」や「アナーキー・イン・ザ・UK 」も歌いたがらず、50年代のエディ・コクランのロックン・ロールを歌い、セックス・ピストルズの最高のビッグ・ヒットになってしまったんだよ。
その後、彼らの映画を作り、それが彼らのキャリアの終わりに繋がった。
'68年の "サマー・オブ・ラブ"は、この時代の人間達にとっては、彼らの人生の大きな分岐点になっていることは確実である。当時の体験もしくは、自分自身の問題意識が深ければ深い程にその影響は大きい。青春時代の純粋さが、この"5月革命"によって、大きな厚い壁を破る動機にもなった。'68年のクリスマスのオックスフォード・サーカスにある、セルフブリッジ百貨店のオモチャ売り場でサンタクロースの格好をした連中たちと共に、売り場に乱入し、荒し廻って子供や親達を驚かし、スローガンのビラをまき散らすというハプニングを行った事は、後に語り継がれている、有名な話。実存主義という思想が生まれ、ビートニクスたちを誕生させたカオスとしての街、パリは詩とリズムとをも生む。それらは、"リアル・60's アートステゥーデンツ"の過敏な純粋さに、過大な影響をあらゆる分野で与えたのだろう。
そんな文化のねじれを、その裏側には一体どのような知的思考が存在するのかを考え、何が文化を変えていき、刺激的で異色なものがうまれていくのだろうかと、考えていた。危険で世間を騒がせ、衝突していくもの、伝統的な価値観を突き破るイメージを追い求めて来た。
そんな激しさも新しさも優しさもすべての、ノスタルジックなパリとは。
TAKE.: いつからパリに恋をしたのか?CD「Paris」の背景は?
Malcolm.: 子供の頃から好きだった。'60年頃のソーホーのクラブでは、フランス語が喋れないと入れなく、地下のインテリアにはフランス製のポスター等が貼られていたし、ジュークボックスからはシャンソンばかりという店があったね。'60年代のパリは、実存主義が流行り、とても知的な都市だったからね。新しいヨーロッパのアンダーグラウンド・シーンのビートニクス等のムーブメントが、若者達の間で次から次に生まれていた。そんな60年代始めのパリ発の哲学が、ソーホーのクラブにも飛び火し、そこにM・ジャガーやジェフ・ベック、R・スチュワード達が、黒づくめの服装でアンニュイな表情でタバコをふかし、まるで居眠りしているかの様に見えた。こういう退廃的な若者達と、ロックン・ロールというの
はまさに、ガソリンと火の様な関係だった。実存主義に刺激されて、失う物はもうなにもないって感じで多くの若者達のロックン・ロールのバンドが生まれた。黒尽くめにロングヘアー、退屈そうな表情でギターを淡々とつまらなそうに弾い
ていた、R・ストーンズの様なバンドが次々と生まれた。これが十代の僕が最初に感じたロックン・ロール・ミュージシャンの印象だったね。これは、僕が母達とテレビジョンで当時見ていた、楽しそうに、派手に着飾ってパフォーマンスする
アーチストたちとは全く違っていて驚いたね。だから、僕がセックス・ピストルズを生む時には、この'60年代の怒れる若者達の思想を取り入れたんだ。
'93年に久しぶりにカフェ・フロールに座って、ゆっくり時間をすごしてみると、そこには僕の少年時代のパリの印象と全く変わっていない事に気づいたんだ。そうか、これが僕のやって来た事の、全ての始まりだったんだってことに気づい
たんだよ。ロンドンは、ロック・ミュージックのメッカの様に考えられているけれど、そこに存在するアイディアや精神の原形は、海を隔てたパリからやって来たものだったんだ。例えば、ビートルズのセカンドアルバムのカヴァージャケッ
トの4人組が、黒のセーターに特有のヘアー・カットでこぎれいな格好はまさに、実存主義のポップ・バージョンだった。だから僕は、パリのことをストーリーとして楽しく物語ることを、このCDでやったんだ。今のパリは少しは変わったかも
しれないが、当時のまま残っている場所はあるし、あのアマチュア的な精神と効率の悪さ、ロマンチックで不器用なところは少しも変わらず、今に息づいている。ところが英国では、まるでドイツの様に効率の良さとプロフェッショナルな事を重んじるあまりに、25年間培われた精神は消え失い、詩さえ消えてしまった。そこで僕はもう一度、セルジュ・ゲーンブールやF・アールディとかM・デイビスのジャズ、F・トリュフォーの映画の様な世界に戻ってみたんだ。現実にはそのような世界はもう存在しないけど、パリの街路の壁の亀裂から、ディテールを垣間みる事が出来るんだよ。"Paris"のアルバムに参加した理由は、旅人の様に僕の想いの街、パリを歩きながら失われた文化のディテールを追い求め、糸をたぐり寄せストーリーをつなぎ合わせてみたかったんだ。それに、C・ドヌーブや、共演のパリのアイドル達に恋をしてしまったんだ。アミーナと出会って、僕はとても音楽的なアイディアが浮かんだ。ロックン・ロールがヨレヨレになってしまい、詩が生まれにくくなっている現代、昔のキャバレーの雰囲気や、アマチュア的な精神の方がもっとモダンでいいし、ファッショナブルになっていることにも気付いたんだ。ニューヨークでも再びキャバレーは貴重だと思う様になってきた。80年代のハイテックなディスコティックはもう飽きられて、夜会服を着てキャバレーに行って楽しむ事の方が面白くなり始めた。大学でも、実存主義やビートニクが再び評価されているらしいし、クエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」を見たとき、僕は60年代のヌーベルバーグもの、トリュフォーの「ピアニストを撃て」とそっくりだと思って喜んだ。バラバラの他人同士が一つの輪の中でまとまってゆくところや、全体のヴァイヴがそっくりだよ。パリとロンドンの違いは、パリが女性なら、ロンドンは男性だね。パリでは皆はアマチュアになりたがっているけれど、ロンドンでは皆はプロになりたがっているんだ。パリのブルジョワ達は歌いたがっているし、画家になりたがるし、アーティスト達と混じり合って、アーティスティックでいたいという生活があるね。一方、ロンドンのブルジョワ達はいかさない。この絵が買えるだろうか、あれやこれや買えるだろうかと、あくまで消費者であり、外出もしたがらない。きっと、よりドイツ人に近いものがあるね。英国人自身はこの事をあまり認めようとしないところも、問題だね。
メディアが怪物化して来ているという。そんなメディアをどう使ったら良いのか、メデしアと関わる場合、自分が主導権を握る方法とは何であろうか。メディアにへつらわない、媚びないこと、メディア以上の分野を持ち得てメディアに立ち向かう事なのだろうか。ヴォーグ・マガジンに反抗する服作りを考えていた。スタイリストが借りに来ても断る。音楽ファッションはストリートにいるオーディエンスを頼りにすれば良い。ファッション雑誌を頼っても仕方がない。メディアの産物が、僕たちの集合的ノスタルジアの風景を支配する様になったということだけで、十分なのだろうか。
TAKE.: メディアとの関わり方巧みで、あなた自身がすでにメディアになっていると思うのだが、メディア観を。
Malcolm.: メディアと仕事をしてゆく事は、難しい。昔のメディアはとても若く、ナイーブで、無垢であった。今のメディアは年老いた老人の様で、どんなことでもよく知っているし、どこにでも出没する。風呂場を開けてもメディアが存
在する様な時代になってしまった。もう逃げ場がないんだ。そんな今のメディアは、生き残ってゆくために以前にも増して、ストーリーを作り上げていかなくてはならないんだ。それが混乱を生む。もはや昔の様に、大きなストーリーが一つ
存在する時代ではなく、何千もの小さなストーリーが存在するので、一体僕たちはどのストーリーを信じたら良いか、選んだら良いのか、解らなくなった。本当に難しい時代なんだ。メディアはモンスターになってしまい、ノンストップでストーリーを喰いまくっている。だから、小さな良いアイディアが生まれてくる事も少なくなった。今の時代、ファッションや音楽を中心とするサブカルチャーの人たちの多くは、昔の時代を振り返って、ノスタルジアの中から安全な物を選んでいこうとしている。明日をすばらしいと思わない人が増えて来た時代だけど、そんな中で、明日に生きたいと思う人たちは、自分の家から外に出ず、コンピュータやインターネットの世界に閉じこもって暮らしている。彼ら達は、インターネットを使って、無料の情報を収集しているんだ。たぶん、将来の鍵を握っているのは、アーティスト達ではなく、科学者達なんだ。アーティスト達は過去へ戻りたがっているし、科学者達は行く末を決めていこうとしている。だから大切なのは、科学者とアーティストの橋渡しを、誰がしていくかが、問題になるだろう。科学者がロックン・ロールになり得る時代なんだよ。それに、ロックン・ロールの中で使われる詩が、みんな古くさくなってしまった。人をより刺激して楽しませる、新しい詩が生まれてこないといけない時代なんだ。メディアがモンスター化した結果、言葉やコミュニケーションが難しくなったってことだよ。
特に、ここ一年来、『未来』について、再び考えなくてはいけなくなってきた。明日がモダニズムを生んだ時の様にはポジティブではない事を識ってしまった僕たちとその子供達。でも、時は確実に未来の方へ刻み進んでいる。近代のツケは近代に払っておくべきである。誰が、"クロス・オーバー・ザ・ライン"を行うのだろうか。
『人がどのような自分になろうとしているかによって、かつて自分がどの様であったかという思い出も決まって来る』(ロロ・メイ/『実存』 '58年)
TAKE.: 未来の事をもう少し。貴方が未来を演出するとしたら、どんな21世紀を演出しますか?
Malcolm.: それは非常に難しい質問だね。テクノロジーが独走し進歩していくのに、それを上手く結びつけるクリエーターは誰なのかって問題が在るんだ。21世紀のサブカルチャーはきっと、世界中でどこでも同じものが起こり得る情況に
なるね。21世紀に生まれる人間達には一体、何が新しく何が古いのか、何が真実なのかは見分け難くなるだろうし、それらの意味も問題にならない。歴史なんかに全く気に掛けない世代が生まれそうだね。歴史を検索しても、あらゆるものが
混じり合っていて何も解らない。ヴァーチャルワールドが必要な全てのものをクリエイトしてくれる時代が21世紀だう。人間とのコミュニケーションの方法も変化するだろうし、仕事と余暇の境界線がなくなるだろう。だから、文化の役割はより重要になろうし、企業体は国際化され、政府の役割やアイデンティティーなどは徐々に重要性を失っていくだろう。また、金持ちは長生き出来、貧乏人は早く死んでしまう時代になるかもしれないよ。男と女の関係ではまず、婚姻そのものが疑問だね。そのうち、男と女の間で大きな市民戦争が起こるかも知れないよ。多分、女性の方が勝つだろう。男は常に狩りに行きたがるんだ。何も射止めるものが無くっても、それでもオフィスやバーに一日中座ってじっと物色する動物なんだよ。女性の方がより物事を把握している。彼女達は生を産み出す力があり、社会性があり、地球を理解出来るんだ。そして、今後はゲイの男達がいいかも解らないね。現に、ゲイの男達が世の中で一番成功しているでしょう。彼ら達は、普通の男達よりももっと現代社会と調和しているからです。女性問題を起こす事もなく、自分で稼いだお金を全部貯め込んで自分のためだけに使えば良いし、子供もいないから楽な暮らしが出来る。彼らは集団で助け合って生活しているコミューンの様で、他の人たちよりもサバイバル力がある。ゲイをターゲットにしたマーケティング戦略がもっと直接に具現化されるかも解らないね。僕のアルバムも、ゲイの人たちに売れているんだ。彼らはただ金持ちなだけではなく、心がオープンで平等主義で楽天的で全く偏見がない人たちなんだってことも、次の時代の個人生活の重要な点だよね。
服で云うと、質の高さと長く着られる服が戻って来るだろう。従って、デザインも知的で多くの変化は必要なくなる、例えば、J・P・ゴルチェよりA・P・Cの様なデザイナーに人気が集まり始めた事が、一つの事実だろう。着る人達は、自分の顔を持ちたい。顔の見えないクラブで遊ぶより、じっと座ってキャバレーのショーを見るように、見る時間が大切になり、長くなって来るだろう。スーパーモデルの登場も、ボディではなく顔を眺める様になった一例かも知れないね。今後
は顔がファッションになり、顔の違いが重要な時代だろう。今、イギリスでは本当に面白い現象が初めて起っているんだよ。それは不況の結果なのですが、学校を卒業してプロとして仕事を持ったのに、再び失業した40歳前後の人たちがまた
、学校へ通い始めたんだ。これは、'70年代、’80年代には考えられなかった現象で、極めて'90年代的な現象だね。プロである事を忘れ、シンプルな学生生活に再び戻り、21世紀への生き方を考えてみるという行為だよ。精神的にも知的にも充
分に備え、多くの情報を切り捨てて、自分たちが選び出した情報のみに焦点を絞ってゆくという不況時の過ごし方の一つだ。ニューヨークの友人、トム・ウルフがかつて、『90年代はもっと退屈な時代になるだろう。きっと、多くの人たちが
図書館へ戻っていく事になるだろうからね。』と云った。多分、今後の学生は、若者だけとは限らず、年配の人たちも多くなるだろう。きっと、余暇と仕事と情報がみんなシンクロした、新しいタイプの人が現れるだろう。
TAKE.:最後に、貴方をゴッド・ファーザーと憧れ、崇拝している多くのマルコム・チルドレンたちへメッセージを。
Malcolm.: 『メディアはまさにメッセージを失ってしまった。』これが僕のメッセージだよ。
60年代にマクルハーンの『The medium in the message』という本が有名になった。だけど今の時代は自分を信じるしかないんだ。メッセージなんかあるわけないよ。ファッションは既に、皆の手に渡ってしまった。ファッションとはもう、君
たち自身の事なんだ。ほとんどのデザイナー達は、何も伝える事がなく、ただ歴史をひっくり返し続けているのだよ。
今、スーパーモデルのクリスティー・タントンのドキュメンタリー映画のサントラ盤の制作とロバート・アルトアンの新作映画「プレタ・ポルテ」でのソニア・リキエルのための歌とそのサントラ盤のためのプロモーションをしている。
彼、マルコム・マクラーレンが持っている勘の若さとノスタルジアは大きな夢とキャリアの両方だろう。それがバランスを保っている限り、彼は『神話』を世界
中のストリート・オーディエンスたちに語り続けてくれるだろう。
ファッションや音楽は僕たちの日常生活の知覚や経験の大部分が常に作り直される手段である。完 』
// 初校版再校正:平川武治/25 April. ’10
参考出典/雑誌「SWITCH」Vol.-13『逃げ足のはやい男』より:
翻訳協力/豊原千恵子
ありがとう。
2010年04月16日
ARCHIVE原稿(3)「WOODSTOCK ROCK FESTIVAL」の40周年記念日に思うこと。そして、『共棲資本主義』(Original/Sep.'09)
40年前に;
昨年の8月15日はあの「WOODSTOCK ROCK FESTIVAL」の40周年記念日でした。1969年8月15日から始まった此のロックフェスティバルはもう,40周年を迎えたのです。
僕は幾日も、幾度もDVDを借りて見入りました。別にこれと言う理由は無く見始めたのです。多分、此の時代のロックミュージシャンたちに興味を覚え,特にJ.ヘンドリックスやサンタナが聞きたかったからでしょう。
そこには、奇跡が現実になった3日間がありました。
ROCKに集まった50万人の若者たちが一つのコミューンを,小さな村を構成したのです。
ロック好きな若者たちが数人たちで企画し遂にはN.Y.郊外の私有農地を借りることが出来、行われたのが此のロックフェスティバルでした。(これは会場となる農地のオーナーの息子とその家族から描いたフェsティバルの映画が製作されている。’09年)
ここで一つ,大切な事があります。自分たちが好きな事は自分たちが思い立ち,企画してそれらを自分たちの手で、彼らたちのリアリテで成し遂げたと言う,もの凄く当たり前な事ですが,大切な根拠性がここにはありました。現代では此の手のフェスティバルは広告代理店と企画会社任せのものが総て。ここに一つの問題定義を感じます。総てが商業主義に乗っ取ったヤラセイベントだという事実。
当然ですが,当時のロック音楽大好きな15,6歳から30代前後の若者たち男女がまさに,『ロック大好き!』と言う理由だけで最終,50万人も集まったと言うこと。企画者たちの最初の予想では3日間で約20万人集まればトントンでいいよな!!と言う位で始めたそうです。
今から見ればステージやセット環境も然程のものではなく、必要な環境としてのステージとスピーカータワーのみが用意された規模でした。それが結果は50万人も集まった此の当時でも世界始めてのロックフェスティバルになったのです。
最初は前売り入場券を発売していたのですが,余りの観客動員のため2日目以降は全くのフリーコンサートにしてしまったのです。これも凄い事ですね,当然、代理店が入ってですから今では考えられない事です。
ロック好きな若者たちが自分たちで好きなロックのコンサートを自分たちの手で企画し開催する。やる以上は自分たちが聞きたい,また聴いてもらいたいすばらしいロックを演奏してくれるミュージシャンたちへ声を掛け出場依頼を行う。その真こゝろが結果が,J.バエズ、J.ヘンドリックス,10Years after, J.ジョップリン,サンタナ,Who,想い出せばきりがない程の当時の凄いミュージシャンたちがまた,すばらしい演奏した此のフェスティバルは規模もそうですが,中身も大変に濃く凄かったのでした。
3日間の此のフェスティバルの状況をDVDで連日見ているとそのステージはむろんですが,観客たちへ眼差しが行く様になりました。
最初は此の様な経験をした当時の若者たちも今では50歳を超え始めたと言うこと。人生の半分以上が過ぎてしまった彼らたちは此の『ウッドストック体験』がその後の彼らたちの人生へどのように関わったのかが気になり始めたのです。ある種のジェラシーを彼らたちに感じる様になり始めたのです。
スクリーン上で見ている限り,当時の彼ら若者はいわゆる,大人しく,それ程,お行儀も悪くないすばらしい若者たちに見えました。彼らたちのもう一方では,あの『ベトナム戦争』の現実が忍び込み始めてもいました。そして,やはり此の時代なのでしょう,『黒人』観衆は未だ,少なかったです。見るからに『ヒッピー』が目立った為でしょうが、普通のロック好き若者たちが大半だったでしょう。服装を見てもその殆どが,G-ジャンとG's, T-シャツそれにコットンのチェックのシャツ、ライダージャケット等が多く見られた今も変わらぬアメリカンスポーティカジュアルな彼らたちの服装でした。
此のフェスティバル体験者のその後の40年。これをインタビューにまとめることが出来ればこれはきっと、20世紀の一つの文化の明かしにもなるでしょうし,楽しいものが出来るであろうと感じ始めたのです。
僕は此の時期には丹波の山奥へ籠り,陶芸家の所で丁稚生活を始めていた時代でした。此のDVDを見れば見る程に此のフェスティバルに参加しなかった事が残念に思ったのも事実。画面上で日本人がいるかを探しましたがそれらしき東洋人は居たのですが直接は発見出来ませんでした。もし,居ればその人を捜し出してインタビューをしたい迄に高揚したのです。しかし,考えれば此の時期に海外へ出ていた日本人は数が少ないし,ヒッピーだった人も少なく,もし居ても彼らたちはインドへ出向いていたのでしょう。それに,此の時期の日本はもう一方で,『安保闘争』が始まり、学生運動が盛んになり始める時期であった事でヒッピーになった若者よりも学生運動へ走った若者の方が多かった事も僕たちの戦後のリアリテだったのでしょう。だから余計探し当てたかったのですが、
そして,コンサート状況を見ていると次にはその観衆たちの行動とその環境が見え始めました。3日間で50万人は本当に突然に出来上がった小さな都市です。もう,初日の遅くからは,当然ですが此の会場がいわゆる田んぼの真ん中ですから多くの観衆たちが乗り合いバスや自家用車やバイクでしか来れなかった事での『交通停滞』が始まったのです。
出演者であるミュージシャンたちでさえ会場迄来れなくなったので当時のUS空軍が手伝ってヘリコプターで彼らたちが会場入りを始めた程の状況だったのです。次に『トイレ問題』、画面でも出て来る『水問題』と『食料問題』場内アナウンスでも入る『ドラッグ問題』と『セックス問題』そして,最後には『ゴミ問題』までの此の「7つの諸問題」が此の僅か3日間のウッドストックの会場で起き上がっていたもう一つの凄い現実でした。しかし,その後の40年間で僕たちの都市生活環境にはこれらの『7つの諸問題』が拡大と蔓延と日常化しただけの40年間ではなかったかと言う視点を憶え感じてしまったのです。そうです,僕たちのその後の40年の現実が、ここにはそれらのオリジナルが既に、あったのだと言う見方が出来たのです。凄い事です。その後のアメリカがヴェトナム戦争へのめり込まないで,冷戦関係に始終して軍事産業のみの活性化を考えなければ,暗殺者やテロリストを育て上げなければ,石油利権に塗れなければ,中東戦争を始めなければ,此の『Woodstock Rock festival』を一つの未来社会の始まりとして観て,考えれば此の40年間も随分と変わったもっと,寄り道をしない,進化した現実を生み出していた事であろうと考えてしまったのです。ここでは『人間の真面目さと素朴さを信じる』と言う僕なりの教訓を見ました。
ここに僕は今後の『共棲資本主義』のオリジナルを見てしまったのです。或る意味で此の50万人は一つのコミューンでありコミニティでありそこには一つの安心があり安らぎがあると考えればここに新たな観念と感性の元に,『ユニフォーミズム』が成立するであろうと。豊かさのイメージを追う事に疲れ始めた若者たちが向かうべき新たな世界はこんな所かもしれません。共有するものがロックなのか,クラッシックなのかヒップホップなのかアキバ系なのか,サッカーなのか?エコなのか?ひつじなのか、僕たちが持ち得た「自由の裁量」で括る多数のコミュニティが人生の新たな『気概』を生む迄の発想をすればここに何らかの新しい21世紀が生まれるはずでしょう。
『共棲資本主義』—『コミューン/コミニティ』—『地元』—『レジデンサー/居住者』—『コミット化』—『環境』『エコ』—『精神主義』〜『共費消費』『共有消費』〜『時間概念』の変革—『popの泡沫化』〜『Micro-POP』『After the reality』の向こう側。此の様なキーワードが思いつきますね。
『ユニフォーミズム』
これが今僕が想っている言葉、感じている言葉です。
そろそろ来そうです。今の時代の、感覚と気分と気概によるユニフォーミング。
『UNI-FORM』ですね。
このWoodstock Rock Festivalに参加した人を捜していたらなんと、僕の古くからの友人、あのDianeParnet女史が"Take,I was there by the helicopter," と教えてくれた。『私はグラムで、ロックではなかったけど行ったの!』何と、悔しい限り!!その後、改めていろいろ彼女からこのウッドストックについて聞く。話は幾人かのミュージシャンとその演奏についてとドラッグの話、極めて個人的な話で終わった。
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次世代デザイナーたちの可能性としてのサイト;
あの僕が尊敬をもしているこのまちのデザイナー、Jean Colonnaが新たなファッションビジネスを始める。www.jeancolonna.frで見られるサイバービジネスです。
素材はカシミヤとシルク混。アイテムはタンクトップとT-シャツと彼自らのアーカイブコレクションからのレザーものも含めての3アイテム。型数はそれぞれショート、ミディーとロングの3型。編立てもメリヤス,リブとレース編みの3タイプ,色数も黒,カーキィーと肌色の3色。サイズも3タイプでこれらをマドリックス化したビジネス戦略のブランドをインターネット状で再開した。素材をカシミヤとシルクに絞ったことから総てをミニマムに絞り込んでのある種,『マティマティックなプロジェクト』を始めた。素材と生産工場はネパール。デザインディレクションは巴里。ビジネスはネット上。
最後は、ネットで受注を承けると真空パッケージにして郵送。服は高級素材であり,薄物であるからインナーにも,下着にも,ホームウエアーにもそして,ベッドウエアーにもなるコーディネートファッションアイテム。それに、かさ張らないので旅行にも持って行ける快適的さと最適さを持った服。時折,テンポラリィーなショップを開きメディアへもサービスをすると言う迄のコンセプト。真空パックの中にはミニ-メディアも入れ込んだ面白さもある。
此のオリジナルアイディアはN.Y.のブランド『NO EDITIONS』 http://noeditions.com/ 元H.ラングに居た2人組が始めたプリントを組み替える事での面白さと新しさを売りにしたやはり,アイテムはジャン-コロナと同じようなタンクトップ、T-シャツがベースでのショート、ミディ,ロングの3タイプここではプリントデザインに工夫が凝らされていて施されたプリントを着て楽しむと言う趣向のブランド。
ここでも,若いデザイナー志望の人たちへ助言する事は今の時代『サイト』を使ってのサイバービジネスを考える事は必然的になったと言うこと。それを利用する事で出来うる新たな可能性或るクリエーションと広がる関係性をビジネス化してゆくという発想はショップを持ったり,卸に夢中になるよりも今的なアイディアの一つになろう。
これにも後談がある。
彼らはこのサイトビジネスのためクリスマスシーズンに向けて空き店舗をマレの中に見つけて来て最小亜3週間程のつもりで、テンポラリィーな形態でオープンさせた。これがシーズンの勢もあって、案外好評で未だ開店中である。この理由は、jean曰く、目的であったサイトでの商売がこの巴里では3ヶ月でたった1件しかビジネスに成らなかったのでコレクションシーズンに訪れる日本人バイヤーたちへ向けての旧形態のビジネスに切り替えた為であった。そして友人をディストリビューターにしての旧態ビジネスへ落ち着いたらしい。これでは僕が期待していた新しさが生まれず、又間に何人もの人を入れての商売であるから結局、売値が高くなってしまっている。u.aを始め幾社かが買ったらしい。やはり、此の様なpcの発達とそのビジネスは日本の方が早くおもしろいのが現実であり、巴里は未だ遅れている。つまんないね!!
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日本素材のすばらしさの証拠;
パリプルミエールビジョンはこのような時代性の元,訪れる客層がより広がり,ここで発信される『トレンド情報』を求める顧客の層に変化が現われ始める。プレタポルテデザイナーたちが挙って『よらば大樹の陰』的に此の『トレンド情報』を参考にしての素材探しはプレーヤーが代わり最近ではspa型のアパレルが良い顧客であり,中国人たちもその中に混ざり始めた。そして,今迄のプレタポルテデザイナーたちの尖った連中は少しでも違う,スペシャルで、変わった,使ってみたい素材へと変化を見せ始めた。そんな彼らたちが憧れるのが日本の素材である。今年から始まった『プルミエールビジョンテキスタイルアワード』第1回のINNOVATION賞にIWANAKA,HANDLE賞にSHOWAが受賞した。
そして、特別賞に僕も以前、彼らの展覧会企画の仕事をした、Jakob Schlaepfer社が受賞した。
このjakob社は先シーズンに期間中にマレのギャラリィーを借りて素材展を開いていたのは流石だった!!
(PREMIERE VISION // Newsletter Novembre // PV AWARDS // Round One)
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別記;
このところ盛んになり始めたファッション展覧会;
*mina perhonen/24 October~ 28 Feb. '10/ at The Audax Textile Museum Tilburg./オランダ/これはもう終わってしまったが、カタログがminaしていてこのブランドの世界観の総てがある。いわゆるかわいい美意識がいっぱい。日本初のすばらしさの一つ。/www.textielmuseum.nl
*Bnernhard Willhelm & Jutta Kraus' / 13 Dec.'09~ 11 April'10/ at the Groninger Museum,Groningen/オランダ/これも先日に終わったもの。彼らたちの10周年のコレクションとそのイメージを展示したもの。この美術館の建築があのメンフィスの主謀者、A. Mendiniのディレクションになるもの。/ www.groningermuseum.nl
*Alexander van Slobbe/ 13 Feb.'10~16 May '10 /at the Centraal Museum Utrecht / オランダ/ 日本での人気のあったメンズを主体にレディスも良いコレクションを展開していたSOブランドの20周年記念の展覧会。彼の知的なソース オブ クリエーションが丸見えの中々の良い展覧会。彼の知的創造性はある時期のマルタンやウオルターよりも早く先駆けていた、エッジに効いたコレクションが今も新しく見える。僕もカタログに寄稿している/http://www.centraalmuseum.nl
*Y.S-Laurent /29 Feb.'10~29 Aug.'10/ at the Petit Palais/ 巴里/僕の友人のflorence Mullerがキューレターとして立ち上げた最新のYSLの展覧会。’58年から2002年迄のものを写真とVTRとイラストで回顧展。P.BERGE財団の持ち物を主体に展示。/ http://www.yslretorspective.com
*Hussein Chalayan/03April~20 Jun'10/東京都現代美術館/フセイン自らがこの展覧会の紹介をした以前、ロンドンのデザインミュージアムで行われたものの巡回展。彼のインテレクチュアルな人柄と几帳面さが解るイメージ-マジカルツアーby hussein編。/http://www.mot-art-museum.jp
+追記;
1年程前から気になっている良いショップ。
GENBAGEN/ http://gbgemirrorblogspot.com / 鎌倉市大町3丁目/一度、行ってみてください。作る事のうれしさと楽しみと怖さが感じられるギャラリー。オリジナルとはを学びたい人は是非!!行けば、もしfusaさんがいらしたら必ず、お話を交わしてください。
文責/平川武治(再編集)