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article(78)

速報/#Paris Fashion Week Homme-6/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 22日//JULIAN DAVIED;
 このブランドコレクションにも「アンビギュティな性」が描かれていた。
「性」に教戒があるとすれば、現代社会のようにその「性」に「真実ぽっさ」を委ねると、
”世間”はどのような様を見せるのであろうか?

 その時代のモードにおけるオリジナル”アイコン”で在った創られたマダムCOCO−シャネルの
存在とその後の立ち居場所も考慮すると、女性モード史における「アイコン/ミューズたち」の
そのほとんどが、彼女たちの”生き方”、それぞれの時代に「あたらしい自由さ」を持ってその
時代の社会に堂々と生きる女性たちであった。
 このシナリオは戦後も続く。また新たな戦後という時代に平和が訪れてき始めた’67年頃には
あのYSLが自分たちの立ち居場所に対峙するターゲットとして、「あたらしい自由」を持って生き抜こうとしている女性たちから自分たちの好みにあったミューズを探し出し、彼女たちをその「あたらしい時代」の”アイコン”に仕立て上げてきた。これがこの街のモードの一種の戦略的
手法であり、シナリオだった。

 ここで、それぞれの時代の女性たちが時代に対して持ち得た「あたらしい自由」とは何だったのか?を改めて考える。
 ”ウーマン・レボリューション”に始まって、”フェミニズム”へ発展しそして、”ジェンダー”論
までへも駆け上って、”ポスト・ジェンダー”へ至ってきたのが戦後の女性の新しい生き方の
全てであった。この表層はどのように社会に関わるか?どのような生き方を行なって子供を育てるか?そして、伴侶の人と家庭を守ってゆくか?これらのための価値観であり、具体的な方法としての生き方でありそして、そのための努力であった。
 が、そんな彼女たちのもう一つの「あたらしい自由」は「性」へも当然向けられた。
その解り易い現実は女性たちにも”同性愛者”というゾーンが生まれ始める。
ここでも根幹は人間世界は「男」と「女」だけの性差の世界であったはずが、「もう一つの性」が誕生したことである。
 しかし、表層はあらたな新しさを生み出すが、現実と現存の”世間”における「男」と「女」の間にもこの「あたらしい自由」は染み込み始め、従来からの”関係性”にも色々な影響が生まれ始め、それらが及ぼす表層は”離婚”や”家庭崩壊””片親家族”などの現実をクラッチし始め、生み出す”関係性”に対してのこゝろの不安や不信と不誠実などが生む”ストレス”を多く被るまでの社会性にもなった。
 僕が言いたいのは従来の古い”世間”を維持してきた宗教モラルに依って構築され一つの価値観にまでなってしまった”性モラル”がここにきて彼女たちや彼らたちの「あたらしい自由」に依って変革し始めているという見方である。
 この表層に、2004年に語り始められた、「ポリアモリー」がある。
しかし、この「ポリアモリー」の立ち居場所の現在は肩身の狭い状況に置かれてしまっている。”世間”の古い性モラルから大いにヘイトされ、”同性愛者”たちからもその一線を引かれてしまった立ち居場所のようである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%BC
 「あたらしい自由」を”性モラル”の中へ持ち込んだことによってその”関係性”が大きく揺れたのだろうか?この「ポリアモリー」も実は「真実っぽさ」の中で産み落とされてしっまた「新しさ」なのだろう。

 JULIANのコレクションは好きである。
東京のストリートを彼のたち居場所とそこからの眼差しで気持ちのいい”距離感”を持ってその世界を僕たちに見せてくれていたからである。彼のリアリティが持ち得たネイション・アイデンティティからの"差異”がセンス良く細やかさとともに爽やかにまとめられた上質なコレクションだからだった。それに、彼が”オプション”する素材は時代感を触れさしてくれるまでの日本素材が多いことも気に入っていた理由だった。
 その多くは変わらないであろうが、ここ数シーズン来この”差異感”が少し変化したように感じる。外国人が長く異国に住むと経験する”距離感”は変わらないが、それに対する”差異感”は変化し始める。多分、自心の中に存在している”ネイション・アイデンティティ”が蠢き、より働きかけ始まるのだろう。これは僕のようなものがこの巴里へ来だして、住みだしてそこで現れた変化でもある。
 彼のコレクションで言えばやはり、ウイメンズへの彼が持っていた”差異感”が変わった。
ということは彼の「女性観」が成長したのだろう。ここに彼の”リアリティ”も関係しているだろう。

 このメンズコレクションでは、1993年には日本でも公開された映画、「Empire of the Sun/太陽の帝国」をなぜか思い出した。
 原作がJ.G.バラード、監督がS.スティルバーグ。音楽がJ.ウイリアムスという豪華な顔ぶれによって制作されたいい映画だった。僕の好きなJ.マルコヴィッチが変わらぬうまい演技をして少年を助けていた。上海に残されてしまったイギリス人戦争孤児の少年とアメリカ兵が出会ってめばえる友情物語だったように記憶している。元”キッドブラザース”の男優だったロンドン時代の友人も出ていたので記憶していた。
 廃棄になった戦闘機を遊び場所にして、そこに残された落下傘や帽子や制服という帝国軍国
主義の象徴が残骸化されてコード化され、少年たちの”あたらしい自由”のための遊び道具になって登場したからであろうか?
 コレクションのトータルな視点はやはり、今シーズンのキーワードである「ゆるさ」でまとめられた、現代の若者たちの”ストリート・ユニフォーム”+”ヘビィー・ドゥティー”の足し算のデザイン。そこへ、”山岳スポーツ”を足元でアクセントに加える。
 
 この”ゆるさ””と”アンビギュティな性”いうクオリティに委ねられた”GENDER MIX"。
JULIANが手がけたコレクションから感じた心優しい熟しがこの映画を僕に久し振りに思い出させてくれた。
 ありがとう。
文責/平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2017年01月23日 21:26 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-5/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 21日//White Mountaineering ;
 噂に聞いていたブランドをパリで初めて見せていただく。
始めに、プロ意識を強く感じた。それは全てに、”プロ”であることとは確りとした”プロダクト”によってちゃんとした”ガーメント”になっていることである。

 大半の若いデザイナーがこの街へやってくるとき、自分たちが持ち得た”夢”への挑戦であり、その結果が”自己満”になってしまうことが多い。
 自分たちの”リスクとコスト”でこの街にやって来てそれが”継続”される可能性は非常に難しい。それなりに日本で儲けてこなければ出来得ない現実であるので、器用に”他人の褌”をかき集めて”カッコつけに”来るデザイナーが増えた。そんな連中は、ほとんどが僕が言うところの
”壁紙デザイナー”であり、コレクションも”スタイリング”コレクションに偏っている。
したがって、見せかけのデザインが多く、ガーメントとプライスが合わない。そこで、アルバイトをして資金をかき集めてとりあえずは自分の”夢”=”自己満”のレベルで”パリ・コレ参加”をプロパガンダする。そうしたら、自分も一端のデザイナーになった気分で、わずかな経験とその周辺から聞こえてくる業界話を語ってしまい、余計に”カッコつける”。この大いなる勘違いをさせるのが、雑誌メディアや今では素人に近いブロガーたちがこのレベルをインタヴューと称して聞いてしまう、この悪影響でしかない。この手の連中は”小さな嘘”を平気でつくことからファッション業界人になってゆく。これを始めると、彼らたちのその後の人生は”小さな嘘”の”上塗り”人生となる。
 この手の連中は、アンデルセンの「裸の王様」をどのように読み込むか?理解していないであろう。あるいは、ちゃんと読んでないかもしれない。
 30年以上もこの街のコレクションを見続けてきた僕の経験からの判断ははっきりしている。
このような「豚もおだてりゃ、木に登る」のデザイナーさんが変わらず、この街へやって来ている。

 このブランドの”プロ”さとは、”プロ”感とは?
当たり前であるが、冒頭にも言ったが、ちゃんとした”商品”をデザインして製品にしていること。デザインとはアートではなく、産業製品であり、それがそれ相当の機能を持ち、そのための素材選びが為されていて、その上での後加工とディーテールデザインがあり結果、ブランドとしての”世界観”を生み出していることである。”世界観”とはそのデザイナーとそのチームが持ち得た「文化度」である。この「文化度」は、スキルであり、経験であり教養でありそして、技術で構成されたものと、持ち得た”美意識”によって齎されるものである。ここから”商品”としてのクオリティが生まれ、商品としての”テイスト”がつけられるまでの結果を僕は”プロ”という。
 ショーで見たこのブランドの”商品”は、選ばれた”色”にハーモニィーがあり、そこへ加えられた柄やプリントにポジティフな神経が施され、選ばれた素材は冷静に吟味され、着る人へ優しさを与える心使いを感じるものであり、それらをどのように使ってやれば美しいシルエットが生まれ、それらをどのようなアイテムに落とし込んでやればそれらの素材が”成仏”し、どのようなコーディネートを提案してあげると着る人にその”商品”の雰囲気が与えられるか?ここまでを考えて心使って細部にまで凝ったデザインが為されている、だから”プロ”だと言い切れるのだ。

 ”プロテクション・カジュアル”と呼ぼう。
かなり、コアなる”プロテクション”がデザインなされている。これらはそれぞれの機能性を持ったパーツとしてデザインされてもいる。堂々としている。不安げなおどおどさはない。なので、”クール”なのだ!!
 このブランドの”プロ”さは僕にとっては戦国武将たちの”甲冑”を思い浮かべた。
着る武将たちの身分と位を表し、そのための素材を使いこなし、装飾されそして、身を守る機能を備えたものが”甲冑”である。
 現代日本社会の「安心のファッシズム」の中でこそ、このような”プロ”意識深い服を着込むこと、そのものが多分、着る若い人たちにとってのアイデンティティを生み与えるのだろう。
 ”プロ”とは”職人肌”がその身上でもある。
文責/ 平川武治;巴里11区:

投稿者 : editor | 2017年01月22日 07:47 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-4/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 20日//CdG H.P.
 今シーズンのトレンド・コンセプトの一つに”ジェンダー・ミックス”がある。
アンビギューティなテーマだ。これそのものが”Truthiness"であり、現代の時代感を捉えた
シーズンコンセプトであり、今年の僕の新年のグリーティングに作った言葉、
「The world is the wall-paper that looks like a truthiness.」でもある。
 我らが世界へ誇る”ファッション・クリエーター”としてのCdGのデザイナー川久保玲はこの
テーマにこゝろ寄せそして、謳いあげた。
 果たして、ファッションゲットーの人たちにはその”真実っぽさ”だけでいいがだが、
どれだけのファッショングルーピーたちには共鳴しただろうか?

 証言その1、
 彼女が銀座のDSMに使っている彼女のアート・コレクション、”シンディーシャーマン”の写真が一つのコード化されておぼっちゃまたちの頭にのっかている。むしろ、彼らたちの脳みそは
”シンディー”と同じなのですよと言わんばかりに。
 2年ほど前に、僕はベルリンのギャラリィーでの”シンディー・シャーマン”展を訪れた。
新旧取り混ざったキューレーションの展覧会であったが、彼女がどのような写真に対する距離感からこの世界へ入ってきたかが判明した1枚を見たのが面白かった。それとは彼女自身の”ヴァギナ”を撮ったものである。
 この写真家も”自己顕示欲”が正常ではないレベルのフェロモンを持ち、放っている人間であり
女である。”世間”でアーチストと呼ばれている”女性芸術家”には不思議ではない性格と人格であり、そのほとんどが”アーチスト”願望と自己顕示欲が重なったタイプである。例えば、年老いて帰国後、有名芸術家になってしまったY.草間も然りである。ここに、生きることへの自分が出し得る”執着心”と”ガンバリ”の全てを読む。
 ここで僕が認識したこととは、彼女と写真に対する距離感、アーチストと作品の距離感である。

 証言ー2、
 僕はダイアン・アーヴァスの写真が好きだった。
1945年、彼女が身ごもった折にセルフポートレートを撮ったのが始まりで彼女は”写真”の世界に魅せられて、自分が居るべき世界であると信じ込んで1971年、自ら自宅バスタブで手首を切って自殺するまでの26年間をその多くはフリークスたちを撮り続けた。
 彼女は’20年代のN.Y.で毛皮商人から財を成した裕福なロシア系ユダヤ人の娘で18歳には
すでに結婚した。そして、自らが身ごもったその姿を鏡て見てしまったことから以前から興味を持っていた写真を自分でも写真機を持って街を徘徊し、見慣れない、見たくない、見れない人たちの存在と自分の距離感を友人のエスクワイー誌の編集者からプレスパスを借りて撮りまくった。当時では、家が裕福であることで可能な職業の一つ、”写真家”になり、いいカメラ機材をいつも新機種が出るたびに購入し、湯水のようにフィルムを使って自分の好奇心に触れる人たちを撮りまくっていた。その写すという彼女の根幹はかなり屈折していた。
 そんな彼女があるところへ招待されたことによってその2週間後にはN.Y.の自宅のバスタブで手首を切って自殺した。

 3年ほど前にこのパリの美術館で久しぶりに大規模のD.アーヴァスの展覧会を見た。
この写真家には全てに恵まれた生による、”自己愛からの醜さへの逃避”という”覗き見的”な距離感を彼女の写真から感じている。しかし、その撮り方は不躾さが感じられる被写体をいつも正面から強いストロボを使ってライティングするというかなりの自己欲求の冷酷な演出によって写されていた。
 そんな性格の彼女が以前、いつもの好奇心からニュージャージーの養護施設を訪れて作品を残していた。師匠であった、R.モデルからは良い批評が得られなかった作品でしたが、彼女の作品群ではいいポジションを占めたものになっている。
 そして、彼女はかつて訪れたこの養護施設から慈善バザーの招待を受けて再度訪れます。
ここで本当に”笑顔”がどれだけ幸せを表現するか?養護施設という”世間”の中に入って知った
初めての”笑顔”。この養護施設という”世間”の幼子たちの屈託のない、自由な心から生まれる美しい”笑顔”とその”生”の無垢さを知ってしまったことによって、ダイアンは自分の今までとは何を撮っていたのだっただろうか?フリークスを撮る”覗き見的な根幹とそれとは裏腹に、被写体が自分をどのように見ているか?までの自己意識との距離感で撮っていたことに気づき、思い知り
そして、持病の鬱と重なり苦悩の末、その2週間後に自殺を行なった。

 川久保玲はこのダイアン・アーヴァスにも大いなる影響を受けまた、彼女自身の育ちの中にも自分を重ねて見ていることによってのコレクションを例えば、飽くなき”黒”という素材や”ツインズ”を使うことなどの過去に幾つかあった。

 証言ー3、
 「彼女自身、”ジェンダー”とはをどれほど熟知しているのだろうか?」
自分自身の生き方が”ジェンダーフリー”だと思っているのだろうか?あるいは、思わせてしまっているのだろうか?または、思わされてしまっているのだろうか?
 今回のコレクションでは彼女自身がかなり欲求不満な眼差しを持ってコレクションを構築してしまったと感じた。
ここでは、僕は昔から彼女が手掛けた”オムプリュス特有のバランス感”がある時から消えてしまったことも思い出してしまった。今回そのバランス感をジャケットとパンツで出そうと試みているのだが、元には戻れていない。いや、戻らなかった。以前の、肩幅がゆったり目で、着丈が短いプリュス特有のかつての優しいオムプリュスのバランスが見られない。
 それを出したかったのだろうが、ここでは彼女のリアリティから生まれているはずの”ジェンダー”が感じられない。あるいは、彼女の実際の生は“ジェンダー”とは対峙したところにその根幹があったのではないか?あるいは、そうでありたいという思いからの生き方だったのか?
 それがあのバランス感になり、あの美しいタッグ・プリーツになり、コーディネートによる
”ジェンダー・ミックス”なのだろうか?それらは、余りにも「真実っぽい」だけである。
 美しいさに憧れるこゝろの有り様と、それを拒否するこゝろの有り様の対比によって生まれたとしか言いようも無い、背負い込んでしまった、フエルト(?)によるビーズ細工と”機関車”
と”自動車”。そして、シューズ。
 「シンディ、どうして機関車を車を背負ってしまったの?」トーマスは聞いただろうか?
ここにも川久保玲流の、一つのメタファーとしての”ジェンダー・ミックス”がコード化されていたのでしょうか?
 ここに彼女の「あたらしい自由」を感じ取るべきなのでしょうね。
きっと、展示会へ伺えば、思い切り着たくなるアイテムがちゃんと準備されているシーズンでしょうね。
文責/ 平川武治;巴里11区:
 


 

投稿者 : editor | 2017年01月21日 18:20 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-3/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 20日//JUNYA-MAN:
 僕の小さな頃は少し郊外へ自転車で出るとまだ、小川があった。
その小川が本流と合流するところが面白くここに集まってくるただ浮かんだもの、浮かびながら彷徨っているもの、今にも沈みそうなもの、これら達をただ眺めているだけにたくさんの時間と雲とともに遊んだことを思い出した。
 なぜ、JUNYAのコレクションを見せて頂きながらこんなことを考えてしまったか?
ここに共通することは”浮遊物”あるいは、”ゴミ”である。
 僕の昭和30年代の思い出であるから60年も昔の記憶でしかない。
今、目前に次から次えと青年達が着せられてしまった今シーズンのコレクションを見ていると
乗ってしまった流れには逆らえない。ただ流されないように流れるだけだ。これは言葉にすると
簡単なようで実際には難しい。多分、その乗ってしまった流れから逸脱するにはまず、”自心の新しい自由”がそして、覚悟とコストと必要であろう。

 近年、”コラボ”というプロダクト手法が習慣になってしまた時代性がある。これは”デザイン手法”ではない。飽く迄も、合理性を元にした”プロダクト手法”でしかない。
 「”オリジナル”で生まれたモノ。それが”模倣”され始めその後には”習慣”になってしまう。」
これは僕の好きなG.ガルドが1911年に書いた「模倣の法則」から学んだことで、ファッションの世界の人間にはより、具体的に理解できることだろう。
 たしか、このブランドがウイメンズでこの処方”コラボレーション”を本格的に行った記憶がある。以後、世界レベルで可能なる世界のブランドは”習慣”になってしまった。
プロダクトにおける技術とスキルと情報と販路の共有化ビジネスである。
日本人ブランドだけのパワーでは不可能である。これも、いわゆる、ユダヤコミニティの関係性と「グローバリズム」の恩恵である。しかし、この発端を考えて行ったのは僕たちの「横丁のブランド」出身のUNDER COVERだったはずだ。
 
 さて、思い出を本流に戻そう。
その1、「流れに乗ってしまった以上、流れは変えられないのか?」
ここまで、”コラボ”におけるビジネスの”安全パイ”を考慮してのデザインディレクションは
少し、食傷気味になってしまったようだ。彼が乗ってしまったこの流れはこのデザイナー本人にとってハッピーなのだろうか? 自心の自由さが歓喜してのデザイン行為なのだろうか?
 彼のコレクションからこのデザイナー本人が見えてこないのである。すなわち、彼の真実であるリアリティが見えず、”真実っぽさ”が流されているだけと言う十数分。
 ここにも僕は「安心のファッシズム」を見てしまったようなのだ。
 その2、「昨日、書いたことが当たった。」そして、驚いた。
戦後、日本のメンズファッションのルーツであり、この企業のメンズラインの根幹でもある 
”VAN"がアメリカンスポーティ・カジュアルウエアーのメモリアルコードとして登場した。
 コレクションの中身は、「アメリカンスポーティ・カジュアルウエアー+ヘビィードウティ=RAP+SNOWBOARD=BLACK+WHITE」と読めるマーチャンダイジングの考えられた公式。
 ここでは、これほどまでに進化した(?)メンズファッションに与えられた名誉としてのコード「VAN」であろうか?あるいは、オリジナル回帰への”銘板”あるいは、沈みそうで、沈まないレッテル付きの”ゴミ”のようなものなのだろうか?
 その3、「流されてくる”重いゴミ”はこれからどこへ辿り着くのだろうか?途中で沈んでしまうのだろうか?誰かが掬い上げるのだろうか?」
 ショーの後半からはこれらのコラボ商品が重く感じられてきた。それなりの重素材とレザーが組み合わされたミックス・マテリアル、今シーズン売れっ子の”スタジャン”もある。多分、”ゴミ”と化した時には相当重たい”ゴミ”であろう。
 いつの時代かに、「もうゴミを出すことは考えない、なるべき出さないように!」と言う時代性の”壁紙”が一斉を風靡したこともあった。企業倫理が問われ、労働時間や問われる昨今当然、「出した”ゴミ”は自分たちで持って帰りましょう。」と小学校の低学年で教え込まれる。
それが、大人社会になると忘れられてしまう。いや、「都合の悪いことは”忘れる”ことで儲かるんだよ」。この響きは戦後荒廃した焼土の”世間”にはよく耳にした言葉であった。
 ここに日本人が大好きな「星の王子さま」の一文を思い出そう。
「かつて、子供だった頃を思っている大人は少ない。」

 ということで、僕のこのショーを見させていただき「かつて、子供だったことを思い出しました。」ありがとうございました。

 Junyaが大好きなファッションピープルにはこのブランドらしさが満載のコレクション。
新たなコラボメーカーも加わり、リーヴァイスデニムの新しさもあっの”RAP+SNOWBOARD"。これをどのように街で、横丁で着こなすか?メディアの煽り方も楽しみ。
文責/平川武治;巴里11区:

 
 

投稿者 : editor | 2017年01月21日 17:52 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-2/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 19日//KOLOR :
 久しぶりに見せて頂いた。このブランドは当然だが、メンズがいい。
このブランドの世界観がすでに確率しているからだ。
 以前は、「もう、ウイメンズは止したほうがいい、勿体無い。」と直接、彼に不躾に提言したこともあった。が、辞めないで今日も見せて頂いた。
 こうして一つのショーの中で見るウイメンズはそのデザインポリシーとコンテンツにメンズとの連続性が見られ、展示会で見るウイメンズだけの時よりは”Kolor"らしさに理屈がつけられ、
まとめられていたので少し、安心した。当然であろう、メンズよりも気を使って細かなところまでオトコこゝろでデザインされているからだ。このデザイナーが女性を見るときにそのオトコ目線が何処から始まるかが、分かりやすいデザインが為されているという意味でもある。
 僕が感じるのは、このブランドのデザイン・コンテンツは正に、「This is the Tokyo-Design」そのものであり、そして、20数年、変わらないことが誠実でもある。
 素材の吟味から始まって、オリジナル素材のミックス・メディア化。それを如何に”料理”するかがこのブランドの巧さであり絶妙なバランス感と、器用さのブリコラージュ。
そして、”the Tokyo-Design”の極上とはパッチワークや裏使いの感覚の良さと、「ちょっとしたディーテールあるいは、ワンポイント・デザイン」のセンスの巧さとオマケ感覚であろう。
この”ちょっとしたディーテール”の巧さは日本人ブランドの巧さにもなっていて海外バイヤーたちが喜ぶ、”ウリ”に直接つながるデザインポイントである。
 この機会に「This is the Tokyo-Design」とはを考えてみると、
戦後日本のメンズファッションの根幹は、「アイビー」から始まる、ブランドではご存知であろうあの「VAN」でしかない。従って、「This is the Tokyo-Design」の根幹がここにある。
そして、日本発のメンズファッションのオリジナルマップとは、テーラードのスーチングか、「VAN」のアメリカンスポーツカジュアルか、古着屋御用達、ファッションDJの登場による
「横丁のカジュアル」すなわち「ストリートカジュアル」へと、この3部構成のミルフィーユ構造で出来上がってきた歴史がある。そこへ、パリ・コレ情報とそのデザインの影響が具体的に加わり、”ゲイ御用達”デザインが進化し始めたのが’90年台半ばから。これは”コムデギャルソンH.P.”をロンドン・クルーがディレクションし始めた時期と重なっている。例えば、それまでの川久保玲の”CdG Hオム”のその育ちは「VAN」であり、これを引き継いで進化系になったのが
”CdG.H.P."。ゆえに、ある意味で、元祖「TOKYO-IVY」ブランドであった。ここがY.Y.P.Hとの違いであり、"JUNYA-MAN"との違いでもある。
 因みに、”Y.Y.P.H"は懐かしくなってしまった日本のメンズ・ファッションの黎明期を構成した「TD6」時代の菊池武夫や松田光弘から遠く離れた自己顕示な「前衛」が根幹。
そして、"JUNYA-MAN"のこの企業内での棲み分けは、”ストリートカジュアル+ヘビーデゥーティ”に委ねているはずだ。
 なぜ、このような事を言うかと言えば、このデザイナー、阿部くんのキャリアの根幹がここに存在したからである。そして、彼の独立後のキャリア(PPCM)もこのカテゴリィーから始まり現在のKolorに至っていることが”This is the Tokyo-Design”と呼ぶに由来している僕の根拠である。
 視点をKOLORコレクションに戻そう。
今シーズンのコレクションに感じる、この”ゆるさ”がなんとも絶妙の”ゆるさ”加減。スーチングも無く、フード付きも無い”ゆるさ”そして、全編、”ファー付きパッチワークサンダル”。
 これが出来るようになったこのブランドの巧さと強かさに拍手。ここには経験と自信の裏付けがある。それにやはりメンズではより、パターンメイキングの上手さが表層の構築感を出す。
この時にこの”ゆるみ”感はより、パターンメイキングと素材のオプションとのコンビネーションでしか生まれないからだ。ショー後、バックステージに行って実際にサンプルを触ってみる。
僕が好きだった、ライトグレーのワークスからインスパイアーされて出来上がったセット・アップ。この素材も見た目はフランネルかと思ったが触ってみるとより、腰のある織りのいい素材で
料理されたもの。裏地のこなし方、ヘムの”ゆるみ”の出汁加減。パンツの”ちょっとしたディーテール”であるステッチ装飾等など、ありがとうがざいました。
 そして、このメゾンでも”ネクタイ”が現れなかった。
この”ゆるさ”感と”ノーネクタイ”が「安心のファッシズム」という時代性のアイローニなのだろうか?あるいは、”ユニフォーム”なのだろうか???
文責/ 平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2017年01月20日 05:26 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-1/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 18日//FACETASM:
 「若さゆえ」という言葉がこの街にもあったことを思い出した。
この街の人間よりも日本人の方に知られていたあのJ.コクトーの作品に「アンファン テリブル」という小説があったことを思い出した。
 「若さゆえ」とは、迸るエネルギィイがあり、生意気さがある。それに、未熟さがある。
だがもう一つ、無知さもある。
 今朝のこのブランドのデフィレを見て感じた言葉がこの言葉だった。
”分量”というトレンドを意識しすぎた、”オーバー・コーディ”なショー。
 その反面、後ろでディレクションしている本人の不安げさと落ち着きのなさ、
そこから生まれる”おどおどさ”が感じ取れるまでのショーだった。
決して、肝が座って作られたものではない。
 「若さゆえ」、廻りを気にし、いい顔をしたい、させたいためにまとめられた、カッコつけて頑張った”東京ストリート ブリコラージュ”な壁紙だった。なので、音で助かっていた。
 しかし、時折その姿を現すウイメンズはいい。まるで、性格も、イマジネーションもが対峙するユニット・ブランドである。
 デザインすることの巧さは確実にこのウイメンズ・ラインには存在している。
それに女性特有の思い切りの良さが伺える、その良さが着る女性たちを”若さゆえ”心地よく感じさせるまでの大胆なデザインとコーディネートに落とされ着る女性に委ねられている。
 したがって、確実の”彼女”が手がけるウイメンズの方が才能を伺わせているし、実際にあるユニット・ブランドだ。
 例えば、学校でちゃんと勉強をしてこなかったものと、学ぶための時代には確りと学んできたものとの差異あるいは歪みがここに現れている。
 例えば、このブランドのデフィレからウイメンズ・デザインを抜いてしまうとまるで、
朝の繁華街、厚化粧がゆえに剥がれかかっているただ、大きいポスターすなわち、「壁紙」が「安心のファッシズム」の中で周りをキョロキョロ手揉みしているだけのイメージ。 
 その結果、オムに関しては”分量”を何のために意識したのか?見せられたコーディート群は「隠しききれなかった自我あるいはアイデンティティー」若しくは、「思い切り委ねたいエゴシエーションあるいは甘え」でしかなかった。
 それともう一つ大事なところは、オムの”分量のコーディ”はただ、”重さのブリコラージュ”でしかなく、ウイメンズではこれらとともに、”軽さのブリコラージュ”も使う異素材感によって
バランス良くなされていた。この大胆さによって形作られた服には東京的な色気を生み出している。ここに僕は彼女のデザイン力を褒めるのです。
 彼が”good morning"で書いているように”定義なんか存在しないのだから”という嘗ての
マイルド・ヤンキーの「若さゆえ」の無知なる開き直り、なんでも有りでショウー。

 嘗てのマイルド・ヤンキーたちの多くの今は、パラサイトし既に、姿を消してしまった。
そして今や、「マイルド・ヤンキー ニュー・ファミリィー」たちのご登場ですからね!!

 そうそう、彼はJ.コクトーの「アンファン テリブル」を読んだのだろうか?
文責/平川武治:1月18日、巴里11区:

投稿者 : editor | 2017年01月18日 21:33 | comment and transrate this entry (0)

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”今、ファッションが人に与える「HAPPINESS(幸福感)」とは何だろうか?”

 2017-シリーズー1/"However this ends, that's where we begin."  
「ファッションと幸せ感」、このような時代、”今、ファッションが人に与える
「HAPPINESS(幸福感)」とは何だろうか?” を考えてみるのもいいかもしれません。

 これを考える前に、まず、「生きることとは?」は大切な根幹です。
 ”夢を持って生きている人、希望を抱き、
あるいは、運命を抱いて生きている人や覚悟を持って生きている人。
目的があって生きている人そして、なんとなく生きている人。
コンプレックスを隠して生きている人そして、不安げに生きている人。”
いろんな人がいますね。

 この根幹によってもそれぞれの「HAPPINESS」観が違いますね。
また、それぞれの「生まれと育ち」という持ち得た「風土」によってもその幸せ感は違います。

 そして、
生きることのHAPPINESSとは?
人間が人間らしく生きるためのHAPPINESSとは?
生活することのHAPPINESSとは?
この根幹を自分の人生の中で既に、十分に考えている人たちにとっては
ファッションそのものには単純な「HAPPINESS(幸福感)」しか求めないでしょう。

 ”ファッション”が叶えてくれる”HAPPY"とは生活の「潤滑油」
或いは、「文章における”鍵・カッコ」ぐらいのものでしょうか。
或いは”ラッピング・ペーパー”あるいは、”壁紙”。

 もっと、現実的な”リアリティ”に目線を向けると、
所詮、”物欲”の世界が生み出すあらゆる”狩人的目線”としての、
”そうありたい/願望”が”HAPPY"へ通じる「壁紙」でしかないでしょう。

 もう、他人と違いたいがためにその願望をファッションへ委ねていた時代は終焉しましたね。
人間みんながそれぞれ持ち得た「幸せ感」は当然違っているものであるという自覚が
ファッションを楽しく、そこに”ファッションが与えてくれるHAPPINESS(幸福感)”が
在ったはずですね。

 現代のファッションの世界ではこの「幸せ感」は無くなってしまったのでしょうか?
”他者との差異感。”をファッションに求めていたリアリティもある種の”豊かさ”によって
「”他者たちと同化”するためにファッションがある」という迄の”習慣”を持ってしまった
世代たち。
ここには「模倣」から「習慣」という”差異”から”普遍”と言うベクトルが既に、
環境化されてしまった時代性。

 しかも、この「壁紙・HAPPINESS(幸福感)」はすぐに効力がなくなるのが昨今の特徴。
いつも”張り替え”作業が必然なリアリティであり、隣の「壁紙」を気にしながらの
単サイクルな行為になってしまった。

 したがって、ファッションによる「HAPPINESS(幸福感)」の一つは
その昔から変わらぬ、「狙った獲物を手にする」醍醐味のみになる。
即ち、「買う」こと或いは「手元に置く」こと、
自分のものにすると言う「所有欲」の日常化と習慣化がファッション・リアリティ。

 それが、ショップからネットそして、ネット・オークションというプロセスの変革によって
もたらされる「束の間の快感」の不連続な連続性に委ねてしまってる。
いわゆる、「持続可能な、快感」を諦め始めた世代たち。

「もう、ファッションで幸福感は得られない。つかの間の”妄想”。」???
 では、”HAPPINESS"そのものとは、何ですか?

 「近代」が生活の”豊かさ”と言うリアリティを持ち得たことによって、
時代「近代」の根幹であった「価値観」が変貌してしまった。
このズレが現代社会の表層へ”習慣”として大衆化し液化状況を生み出した。

 新たな時代としての近代の次なる時代としての”始まり”それが、「超・近代」なのか
「脱・近代」なの「ブリコラージュ・近代」かは別として、新たな時代を築くための、
「新たな価値観」が必要になろう。

 変わってしまった、”自然”と”環境”や”人間の欲望”と行くへ不明になってしまった”倫理観”。
”為すべき行為”への新たある価値観とその基準。
ここには、”豊かさ”なるゆえの「新しい倫理観」を求める叡智が必要であろう。

 その根幹は「人間性」であり、「宗教心」でありそして、「民族心」かもしれません。
「ナショナル・アイデンティティ」と「ネイション・アイデンティティ」の区別理解と
そのバランス化。
そこに生まれるのが「文化力」。
この新しい時代の始まりとこれからのあるべき時代の「価値観」の元で、
ファッションがどのように”ファッションを愛する人たち”に何が与えられるのだろうか?
 ここに、新たなファッションとHAPPINESSの関係性が生まれるだろう。

 より、人間が持ち得る「業・欲」に輝く”金メッキ”なラッピング・ペーパーでしかありえないのだろうか?
或いは、持ちえた日常のストレスへの”癒し”の一つ?

そこで考えられる一つのアイディア、「ユニフォーミズム」を超えたところに見えてくる
「Sophisticated Fashion」が考えられますね。

 いつでも、当たり前に、安心して何処ででも着られる身だしなみ豊かなファッションに感じさせられる文化力が生み出す着る人の「文化度」と”ずれ”を愉しむ「こゝろの有り様」。
あとは、イメージのボヤジナリィーが愉しみ。

 これが僕が感じる「Sophisticated Fashion」の根幹。
そして、新たなファッションとHAPPINESSのブリコラージュな関係性。
 そのこゝろは、"May I help you?"

 今年もよろしく、ご指導とご鞭撻がいただければ幸せです。
皆様も、知的感度豊かに、好奇心溢れる誠実な1年でありますように、
"Keep your the Force!!"
合掌。
文責/平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2016年12月30日 07:20 | comment and transrate this entry (0)

article(78)

ファッションはもう”ユニフォーム”になってしまったという視点。

 『新年が穏やかに、おおらかなる年の初めをお迎えになられたことでしょう。
今年は”29/フクの年”。僕も老いて、ますます辛辣な意見と好奇心を
今年もモードの世界へ向けます。
変わらぬご鞭撻をよろしく。合掌。平川武治:

「これは終わりだが、始まりでもある」という時代観とは?;
 "However this ends, that's where we begin." とは、; 
 このP.トランプ当選後のM.ムーアの発言では,何が”終わり”、何が”始まる”というのでしょうか?僕が最近発言している、「近代」という時代が終わり、新たな時代性が誕生するだろうと
いう視点があります。これは皆さんの周りのより、現実的な世界を見ていただいて、何か、
今までとは違った”something new"な匂いや段取りの違い、気配などを感じ始めていませんか?これがすでに、”新しい何か”が始まっているファッドなリアリティでしょう。
 このファッドなリアリティの一辺づつをブリコラージュしてゆけば、”あたらしい自由”のみが生み出せるあらたな時代の”始まり”でしょう。
 例えば、『時代はまた、「ナマ/live」モノ感を必要とし始めました。
小劇場、ライヴ、フェス、ダンス、ラップ、スポーツ、それらに、習い事のヨガや色々。
 この裏には、バーチュアルなエモーションではなくより、直感できるナマな「エモーション」が恋しくなり始めたということでしょう。
 人と”繋がっても”そこにお互いが直感で直に繋がり合える”感動”がより、具体的に必要な時代が来ています。PCでの繋がりに限界ともどかしさをやっと感じ始めたからでしょうか?
 ここには、”便利”と”感動”は自ずから本質的に価値のレベルが違うことがわかり始めた新たな大衆たちの誕生があるでしょう。このリアリティこそが、僕は「近代」という時代の次なるチャプターが必要になってきた時代だと感じ始めています。
 今までの過去においてもこの「ナマ/live感」は当然、感動を得るための陣頭手段でした。
感動とはそんな「生」の、”リアリティ+リアリティ”の経験や体験からしか生まれ得ないものであるという常識の時代から、現代ではすでに「ヴァーチュアル・リアリティ」という新たな感動も知ってしまった人類が、オプションすべき、感じたい「感動」即ち、「ナマ/live感」とは、を感じ吟味することが大切な時代性なのでしょう。
 このようなファッドなリアリティを感じ取ることが現代社会ではかなり、重要な人間個人としての"差異”でしょう。ここには”教養”と”感度ある感性”の4Kが要求されるからです。ほとんどの現代人と称される”情報社会”に生きている人たちが持ち得た”ヴァーチュアル・リアリティ”とそこに表された”真実っぽさ”の社会によって、”センス オブ ヒューマン”が劣化してしまった。
 すなわち、”時代と寝る”ためにはより、人間的なる「クオリティある繊細さ」が必要な時代になってしまったからでしょう。この要因は表層の豊かさのみが液化状態になり始めたからです。
 では、僕が感じるこの「近代」の終焉から、新しさの始まりでもある今後の「近代」の次に
来る時代観を少し、お話をしましょう。
 これからの数年間で起こりうる世界情勢は、確実に、小さな塊の、より強靭なコミュニティを羨望する各国の動きがあるでしょう。すなわち、保守が進展すれば当然のように起き上がってくる”愛国心”という怪物の登場でしょう。この古き新しさでは、新たなバランスとしての
”ナショナル・アイデンティティ”と”ネイション・アイデンティティ”のセルフ・バランスが
問われる時代性になってゆくでしょう。グローバリズムによって、大きく固まったその実態構造そのものが不誠実なものであること自体を知り始めた知恵ある諸国と人民は、より確実な”塊”へ揺れ戻しの始まりがあるでしょう。例えば、合衆国ももしかしたら、”州”が個別にインデペンデントな構造体になり始める可能性もありますし、英国もそうですし、EU諸国においてもそれぞれのネイションアイデンティティが国別に強くなり始めるでしょう。
 グローバリズムによって、国/ガヴァメントと企業/ビッグ・ビジネスという”複合企業体”が
地球規模でそれぞれの産業において、それなりの企業形態を成立させてしまったのが20世紀の最後の役割だったのですから。
 ここで参考にするのが、すでに40年は経過してしまっている、1980年、アメリカで出版された
「Friendly Fascism」という本です。(これは、今回のトランプ選挙陣営のネタ本の一部です。)

 「Friendly Fascism」とは、;
 参照/翻訳版「笑顔のファッシズム上・下」B.グロス著;日本放送出版協会刊:
 『新しい独裁政治がアメリカ全土にゆっくりと忍び寄っている。”政府と企業の複合体”が
何十年もかかって、次第に形成され、その複合体の司令部には顔のない独裁者が座り込んでいるのだ。彼らは自らの権力と特権を拡大しようとして、組織や個人のためになりふり構わず利益を追求している。さらに、広い意味では、経済的操作や情報活動、あるいは軍事的侵略による、
世界各地における国際政治への介入の拡大等も、そういう独裁者たちの利益追及の結果生じて
くることなのだ。こういった自体の全てがすでに、世界的な規模で軍拡を煽り、核兵器及び通常兵器という殺人のための機械の備蓄を増大させているのだ。 
 (これは現在の安倍内閣以後の日本における”政治と企業の複合体化”から軍事防衛費予算がだんトツに増大し、戦後時以降、具体的なる今後の”軍産複合体”構造を構築しはじめている現実にも現れている。/筆者)
 アメリカはまず、”軍産複合体”の手に権力が握られ続いて、この複合体に類似したものが多数
存在してしまっているのが現実です。そしてこれらの構造体は”多国籍企業体”構造を持ってより
複雑な存在価値を構造化してしまっている。原子力複合体、科学=工業技術複合体、石油=自動車産業=高速道路複合体、銀行=証券会社=住宅産業複合体、都市計画=開発産業=不動産業複合体、農産物生産及び、加工と農機具・肥料・飼料の製造販売までも含まれる農業関連産業複合体そして、IT=モバイル産業=情報産業=メディア産業複合体などなど。
 これらの複合体に実際の企業名を当てはめればその実態が見える。彼らたちは公然と貢献したり、秘密裏に援助の手を差し伸べたりして、その経済的基盤やそれを育む環境を備えている公共機関や大学が加わり、これらが複雑に絡み合ってさらに巨大な複合体を形成しているのが現代であり、こういう色々な複合体と同様に重要なのが、顕在化しているビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携であり、この現実が今では世界のいたるところで見られ、その根幹は巨大な超国籍企業と様々な多国籍複合体にあり、これらが世界にまたがる”自由主義諸国”を一つにまとめ上げたのが”グローバリズム”であり、ここに、新しい独裁主義を成立させている。”新しいファッシズム”はその国の伝統や文化遺産によって違った色合いを浴びて現れるだろうし、人種構成や
宗教の構成、政治機構、地政学的環境などによってそれぞれが違った様相を呈する。』
 
 そして、もう一つ、現代日本のファッシズム、「安心のファッシズム」とは?;
 では、日本的な視点でこの現代という時代性を新たな視点で捉え、考えてみると、僕が、
「みんなで安心・安全・快適」というコンセプトを初めて使い始めたのが90年代の終わりに
近い頃であった。これはファッションのコンセプが”WAPPING"から"PROTECTION"へ変革し
始めた時期であり例えば、世間では”tatoo”がクールになり一般化し始めたので覚えています。
 着る人間の身体と心を”モード”によってプロテクトし始めた新しさだったのです。
現在ではこのコンセプトはすでに常識になってしまっていますが当時はフード付きの”被り物”はまだ限定されていて、ブラックのストリート・キッズから発生し、ラップによってプロパガンダされそして、流行によって”クール”になり、今では当たり前の一つの生活衣料品になっている。これがまさに”サブ・カルとファッションによる液化現象”ですね。
 例えば、お笑い系でも、”シソンヌ”のギャグ・コントが現在の”spa"型のショップの現実を
パロディっているというまでの日常の”液化現象”です。
 その後、インターネットの普及化と携帯がより多重・多機能化しスイカが生まれ今のような
平成の「安心・安全そして、スイスイ」社会にこの「安心のファッシズム」は発展した。
 この平成の「安心・安全そして、スイスイ」ボケの現代社会を切った「安心のファッシズム」という本があります。
 参考;「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;

 考えてみると、「誠実に生きる、真面目に生きる、真剣に生きる」等とは、これらは全て、
与えられた”自分の生”に対しての、自分の自由な生き方への詞です。これらを放棄さえすれば、
みんなと一緒になれば、その社会の人間たちは誰でもが、「みんな、安心・安全そして快適に
スイスイ」と生きてゆけますよ!という社会構造の構築と科学技術の開発によって素早く現実に至った現代日本社会です。ケータイがなければ何もできない、電車にも乗れない、街も歩けない
暮らしてゆけない社会の構築。
 巨大なシステムに操られることが苦痛にならずむしろ、心地よく便利にスマートに生きて行けると感じさせる時代性がここに、見事に構築されてしまいました。これは、物事の根幹を知らなかったら、”知性”や”教養”に関係なく全てに飼いならされてしまうという時代性とも読めるのです。これが現代日本における「安心のファッシズム」の由来です。
 一台の携帯電話+各種アプリ+1枚のプリペイドカード+クレジットカード+キャッシュカード+各種会員カード+マイレージ各種クーポンサービス+社員証+マンションキー+スイカ等の交通機関乗車券などなど、=安心、安全そして、スイスイ快適生活=「安心のファッシズム」
という現代日本社会構造。(参照/日経新聞/2004年5月20日付け。)この構造を起業化したのが、
「フィリカネットワークス」という2004年に設立した企業です。
ある意味ではたった”1枚のカード”に不動産価値構造を構築し、携帯を”ハブ”機能とさせれば
”スイスイ・快適”が日常化するという、「安心のファッシズム」の発想でしょう。 
 参考/フィリカネットワークス”=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立:
http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html
 ここでは、地上のすべてがマーケッターたちの”ゲーム版”上と化してしまっています。
「動く商圏」を構成する「息する財布」としてしか、認識されなくなってしまった人間たち。
大衆達は「操舵の術」としての”マイカード”と繋がるための”ケイタイ”によって、現代人の肉体
そのものをコントロールされていても違和感を感じないように飼い慣らされてしまっています。
だが、これらはすべて、「アメリカの軍事衛星」を経由して流されてくる提案に操作されているという”根幹”は果たして、どれだけの利用者たちが認識した上での”スイスイ効果”なのでしょうか?ここでは、「自由に生きる」ことそのものが変革され”操作”されてしまっていることなのですが。
 ここで、”ファッシズム”とは、本質的に、ファジーな曖昧なものの塊をいうのです。
全ての根拠が”曖昧さ”で始まっている現代のキーワード、「真実っぽさ/truthiness」の世界
そのものであり、自由でないことの”幸福感”が芽生え始め、支配されたがる人間が主人公/ヒーローでありる世界。そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている不自由な社会。
 しかし、この世界を誰が作り始めたのでしょうか?そして、どんな人たちが我れ先にとその世界へ駆け込んだのでしょうか?ここに、ビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携連帯で
築かれ作られた”複合体”社会の真意があり、「使われ慣れした、使われやすい、飼いならされたい人間たち」の登場いわゆる、”世間にお利口さん”な世代たち、彼らが登場し、そして主役。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」
第1部終わり:後半があります、お楽しみに!!
文責/  平川武治:

投稿者 : editor | 2016年12月26日 07:00 | comment and transrate this entry (0)

greeting(38)

Hello President Mr.Trump!! "The world is the wall-paper that only the truthiness."

「The world is the wall-paper that only the truthiness.」
 「ーそう、世界は”真実っぽさ”で溢れかえってしまっています。」

/2005年S.コルベア(コメヂィアン)
 ある時期から政治家が合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に変わって、むやみに感情や「勘」に訴えるようになってきた現状を評したもの。現代社会とはこの”真実っぽさ”に寄って全てが構築されてしまている。

 「保守とリベラルの違いは、リベラルの方が合理的だとか、物事を考え抜くことに熱心とかいうのではない。リベラルの方が自己欺瞞に陥っているだけである。彼らたちは自分たちが合理的であると思っているが、その実、他の誰かと同じように感情的で直感に頼っている。このような思い込みはともすると驕りにつながってゆく。彼らは世界を予知し、支配し、変える自らの能力を過信する。このため、リベラルは人間の条件を改善すべく莫大な費用を要するのに無益な計画に従事し、みんなの暮らしを以前よりも悪化させるのが常である。人間行動の深遠な根幹を無意識の領域である直感的・非合理的な思考形態を素直に受け入れることは自己欺瞞に陥ることを防ぐであろう。」D.ブルックス/N.Y.Timesコラムニスト「人生の科学」(The Social Animal)
 参照/「啓蒙思想2.0ー政治・経済・生活を正気に戻すために」NTT出版刊/J.ヒース著:

 今回の President Mr.Trump陣営の一つの”ネタ本”、
 "Friendly Fascism"という本が1984年に出版されています。
参考文献/"Friendly Fascism"/「優しいファッシズム」by Bertram Gross/1984/01刊
http://www.thirdworldtraveler.com/Fascism/Friendly_Fascism_BGross.html
https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://en.wikipedia.org/wiki/Friendly_Fascism&prev=search
 ベトナム戦争後に再び戦争に向かうアメリカ社会の内情を描いたものです。
グロスは、米国は依然として世界で最も裕福な国であると述べ、 資本主義は、まだ大衆のための快適さを作り出していました。安全安心を求める市民の欲求が政治的に利用され、いつの間にか自由を奪われた社会に向かっていく、というもの。当時は軍国主義は強権的政治が生み出すものと考えられていましたが、グロスは普通の市民が抱く感情がマスコミによって誘導されることで、容易にファシズムが実現できると警告したのです。

 ここでも「ナショナル・アイデンティティ」と「ネーション・アイデ ンティティ」のバランス化と言う「文化力」の根幹と本質が新たな「シン・人間性」を生み出すでしょう。
民族がもちえている「NATION IDENTITY」をどのように、マーケティングしてゆくか?
ここに「NATIONAL IDENTITY」と「NATION IDENTITY」のバランス力が
新たな”文明”そして、”国力”になる時代性の到来でしょう。
 この行為が「保守的」な関係性を生み出すか、あるいは「革新的」な関係性を生み出すか?
はただの方法論でしかなく、根幹はここに今後の合衆国の「賭け」があるでしょう。
 彼、President Mr.Trumpは不動産業とカジノ産業で儲けていましたね。
これら、「賭け」には「掛け金」が必要です。彼のこの「掛け金」の動かせ方が今後の
「経済」となる、やはり日本経済にとっても厄介なPresident でしょう。
日本の戦後の政治と社会とは”リスクとコスト”を回避することで成長してきたのですからね。
 しかし、このPresident Mr.Trumpの元においてはあるいは、「カウンター・カルチャー」
そのものが”リ・モデル化”され、芽生え激しい新しさを欲求する新たなコミュニティー運動の
可能性が見えるかもしれないし、その一端としての”州”の独立運動もありうる時代へ至るかも?

 M.ムーア曰く、
"However this ends, that's where we begin." /「これは終わりだが、始まりでもある」
 
 「トランプ大統領の誕生。」
”現実”とはこのようなものです。
この新たな”現実”によって、
今後のリアリティが生み出されてゆくのですね。
アメリカ国民の大きな賭けの時代が始まるでしょう。
賭けには「金」がつきものです。

そして、確実に「近代」は終わるでしょう。
その次なるのためのカードは?
そのカードとしての「価値観」とは?
その価値観を育む「プログラミングとシステム」

「保守」の時代性も変革が起こるでしょう。
これからのアメリカ人たちは「何が変わることに期待をしているのでしょうか?」
金の世界が生み出すヴァニティな世界は”薄っぺらなヒューマニズム/truthiness”を救うか?
これが彼流の”ファッシズム”あるいは、"Friendly Fascism"という名のナショナリズム”。

”0 or 1”の決断には金だけだはなく、経験そして、「勘」と「感情」が必須でしょう。
”ヤルか、ヤラナイか?”の世界が広がるでしょう。
今後のこの世界に決断できるのはもしかしたら、案外”エトランジェ”たちか
あるいは「黒人」たちもしれませんね。

リベラルを装う白人たちの”ヨオロピアン・コンプレックス”に変わって、
彼らたちの勘と経験からの価値観が決断を産めば、
その新しさは一つの時代を生み出す可能性があるでしょう。
例えば、彼らたちが吐き出すボキャブラリィーである
「ラップ」を聞けば理解できるでしょう。

彼らたちが選択する「近代」の次なるは、「脱・近代」なのか、「超・近代」なのか、
あるいは「シン・キンダイ」なのか?それが、「超・保守」なのか???
問題は「幸せ」という真実が蜃気楼であり、
ただの”真実っぽさ/truthiness”でしかなかったこと。
世界は「壁紙ワールド」。

しかし、President Trumpは「近代」と言う1頁を彼の"教養"/レベルで完全にめくるでしょう。
彼の武器はなんなのだろう?
そして、目指すは古き良き時代の「いにしえの帝国」と言う名の集合集団。
憂国の孤独から生まれる"Friendly Fascism。

今日までに既に、綻びかけていた「近代」は
グローヴァリズムによって全く”新しいルールとシステム”の必然性を知る。
ここに来て「金の力」で新たな「近代」が押し出されるでしょう。
そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている不自由な社会。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2016年11月18日 14:15 | comment and transrate this entry (0)

article(78)

大切な蛇足、「あたらしい酒もふるい皮袋へ、」変わらぬ”猿山軍団”の惨めさ。

 「新しい酒は、新しい革袋に」/『新約聖書』マタイ伝第九章の一節。

 僕はこの言葉が好きで、「モードとその社会」が変革する時にいつも使ってきた言葉です。
思い出すと、80年代始めと80年代終わりそして、90年代半ばと21世紀へ入って間もない頃使いましたね。
 そこで、相変わらず、「ふるい革袋」で粋がっている若い「自称アーチスト・デザイナー」たちへ蛇足な一言。

 ”自称アーチスト”デザイナーや「古い自由」で権力や集団性にしがみ付いて、「壁紙デザイナー」振っている僕的には、自分のコレクションにおいて、”世界観”が出せなく踠いている帰国組デザイナー達が二宮君のショーへも見に来ていた。CdGメゾンのショーを見に来ることで自分達が出せない何かを”パクリ”に来たのか?”バカの学校”のネタにし、自分たちが彼ら達と同類に見られたいという「古い自由」による行動なのか?
 メディアに媚びを売るだけの「古い皮袋」発想の輩達のここ数シーズンの行動。

 誰もが、”よちよち歩きの時は自信はハナからないので心配でたまらない。誰かに頼る。そして、それなりに自分たちの目的に近くなるともう彼ら達はさも、「自分たちの実力でこのようになりました」と日本人の”徳”の一つである、”礼節”を欠いた「忘恩の徒」と成って、顔と態度が
変貌する。ここには彼ら達のこの世界の小賢しさと”生まれと育ち”としての「風土」がある。
 昨今の日本社会に見られる、敗戦後の生き方の一つである「倫理観の欠如」の”2代目”たちであろう。

 彼ら達は何を見に来たのだろうか?服を見に来たのか、なんのために、どのような目線でこれらのショーを見たのか?展示会へも行ったのだろうか?
そう、ケイタイで写真を撮っていたものもいたね。コレクション後、お礼を言っていないね、、、、、
 
 集団で僕の鎌倉へ”泣き”に来た。
彼ら達セント・マやアントワープ帰国組の連中男、7人が帰国後2年程もしない時もう、待てなかったのだろう。焦り始めていた時であった。結果、彼ら達は集団で僕の鎌倉へ”泣き”に来た。
ここでも彼ら達は”集団行”しか取れなかった。
 「僕たちは海外の有名校を出たのに、どうしたら僕たちは有名になれるのでしょうか?」という切羽詰まった質問の答えが僕から欲しくって来た彼ら達。
「僕たちは海外の有名校で学んだのに、どうしたら独り立ちできるのでしょうか?」
 僕のその時の彼ら7人への答えは、「一人で何もできないのなら、”海外組”ですよという”集団”で行為するしかないだろう。」であった。
 即ち、最も日本人的な行為である、”赤信号、みんなで渡れば怖くない”方式を授けた。
 その結果が、”コルク・ルーム”、”エスペランサ”そして、”バカの学校”へ、まるで、”猿山のボス”構造を日本のファッションメディアを丸め込み、構築した「使い古された自由」の行使でしかなかった。
 僕の経験から言わせてもらえば、彼ら達の売りは”海外の学校を出た”とDIESEL社の”客寄せパンダ・コンテスト、IT'S"での受賞でしかなかった。が、これらにまんまと引っかかったのが”外国人”や”海外校”にコンプレックスしか持っていなかった当時の文化系ファッションメディアとそのリタイア組みおばさん達そして、専門学校と、アートとデザイン関係性やそれらのたち居場所が社会にどのようにコミットしなければならないかを教える側が理解していない”雰囲気美術学校”、これらが加わっての”猿山構造”。この”猿山のアントワープ組”で言えば、彼ら達が在校中、どんな事をして来たか?、何を学んだか?彼ら達の親が卒業時にどのように”上手にカネ”を使ったか?ほとんど熟知している。
 そんな彼ら達もすでに「小さな嘘」の連続によって、その立ち居場所を設けてしまったが故に、今後の活躍となると大変!!変わらず”イカサマ”社会でやってゆくしかないであろう。
しかし、現代日本社会の表層とはそして、日本のファッション界も同様、このような小さな”イカサマ”で成り立ってしまっている世界でしかないから彼ら達は今後も、旨く立ち回るだろう。

 彼ら達を冷ややかな眼差しを持って、心地よい距離感を持って自分の”世界観”を生み出しているのが、巴里のA.アライアさんのところで頑張ってアシスタントを続けながら自分の「世界観」を作品に世界で発表し続けている瀬尾英樹君がいる。http://www.hidekiseo.net
 そして、東京で彼ら達から”つかず、離れず”、自分のたち居場所をしっかり持って活躍し始めたのが中里唯馬君であろう。自分が持ち得た「風土」から健全に、もうすでに自分のコレクションに「あたらしい自由」による自分の「世界観」を持ち得始めた”海外組”のデザイナーであろう。http://www.yuimanakazato.com
 この二人は「新しい酒であり、新しい皮袋」を自分達で探し出した僕が認めるアントワープ王立の卒業生である。
 
 自分のブランド・コレクションを世界で、巴里で行うということとは、「自分の持ち得た経験とスキルそれらに文化度と美意識を振りかけ、これらに人間性を加味し尚、”自心のこゝろの有り様”に正直に、自分の「世界観」を「あたらしい自由」とともに構築していくことである。
ここに現在では「素材」の新しさと人間性としての”ヒューマン・テクノロジー”が一つの時代の新しさ感を表す”言語”となっているのが今の時代感でしかない。
 何故ならば「自由」とは自分のこゝろの有り様に正直に行為することであるからだ。
よく言われる”自分らしさ”とはこの自分の「あたらしい自由」の表現にあり、それが一つの”世界観”をも構築していることに対して、自分の「ブランド・ネーム」をつけることが自分のブランドになる。
 そして、このブランドが発信する”世界観”が着る女性たちを魅了し、エモーションを与え、
彼女たちを時代の「あたらしい自由」に耀かせなければいけない”使命”までも考えるところに
現実モードの世界の素晴らしさがあり、凄さと大変な苦労が存在し、そこに面白さと愉しみと
カッコ良さが存在する世界である。そして、この”世界観”の塊のシーズンシーズンが”コレクション”と言われるものである。

 しかし、昨今の巴里でも日本と同様な「SPA」型のデザイナー・メゾン・ブランドが増えたために、彼らたちの”世界観”とはビジネス優先の”世界観”であり、これが多くなり、ここに”トレンド”が新たな「世界基準」として、より、世界の共通言語化し始めてきた。
 このような時代では経験豊かなそして企業規模があるブランド・デザイナー達は自分達の”世界観”によって「世界基準のトレンド」を編集していることである。ここには「自称アーチスト」ぶったCdGチルドレン達のお母さんブランドも現在ではこの手法で”自分世界”を継続するための
コレクションを行なっているに過ぎない。
 だが、自ら達が社会に”コミット”することを怖がってきた、実社会の経験未熟な”猿山軍団”たちが持ち得た、「風土」による”人間性”と”文化力”では到底”お母さんブランド”の”質”と”品”は
生み出せないし、そこから生まれるブランドの”世界観”が未だにない。当然、「品格」は皆無だ。

 これらを熟知しないで、「ふるい自由」な価値観と「ふるい皮袋」の中で、自分の自己満足のため、自己顕示のために”自称アーチスト”ぶったレベルで、大いなる勘違いの経験乏しい輩の郎党が”バカの学校”生み出した。そこへ、これまたより未熟な連中が「自由」とは何かの根幹さえ知らず、「赤信号、みんなで」方式で、勘違いしている仲間がいるので怖くない”セフティーネット”上でたむろする。結果、東京の「壁紙デザイナー」養成所レベルに至る。
 何故ならば、「自称アーチスト」たちが今では”デザインの世界”でどのように自分たちだけが”金儲け”をして”巴里詣”に行くかを算段し始めたからでしかない。

 さて、どのようにブロガーと称する”宣伝集団”たちを自分達の”小さな嘘”の上塗りでペテンして、今シーズンはどんな「壁紙」を貼り付けるのだろうか?これからも見せてもらおう、
 あの時、鎌倉へやって来た男7人たち「猿山軍団」のシリアスな惨めさを!
文責/平川武治:Morocco、Tanger市にて;

投稿者 : editor | 2016年10月22日 17:11 | comment and transrate this entry (0)

article(78)

”NOIR”/二宮啓君のミニ・コレクション。

 僕が好きで、気にかけている二宮君の巴里でのミニ・コレクションが、
やっと見ることができた。

「エレガンス」は立ち居振る舞いから生まれる”しぐさ”を美しく調和感のある様のことである。

 最後発隊のこのメゾン・ブランドのオリジンは90年代初めに作った”CdG NOIR"。
ソワレや婚礼を意識して当時作られたブランドだったが、当然であるが、そのほとんどがメディアへのイメージング・サーヴィスで終わり、在庫となり、その多くは京都服飾財団へ寄贈された。しかし、ここにも川久保玲の”夢”を僕は見てしまっていたし、その後、ここで行われた
”THINK BIG"なこなしやディーテールは現在の川久保玲のコレクションへも引き継がれている。

 僕が初めて彼の展示会で見た少数の作品は全て、”手仕事”でまとめられた見事な”職人根性”で
作られていた。その名の通り、”黒”を使っての新たなブランドも3年目を迎える。
 このメゾン・ブランドでは出し得なかった何にか、”人間的な温かみ”を感じさせるまでの作品を、その最初の技法としての装飾は”刺繍”によってこの恵まれた若きデザイナーは生み出していた。
 幾シーズンかをこの技法を主としたのち、彼も僕的には”WITHOUT SEWING"プロジェクトのカテゴリィーに入る作品をレザーを使って手がけるようになった。僕はこの当時の彼の作品に 
”鎧”を感じ取っていた。
 
 僕は日本人の歴史において、戦国時代の”戦国武将”たちが身につけた”鎧”とは、その武将の
”地位と権力と強さ”をそして、矢や刃からも身を守る”機能”も考えられた”装身具”であり、見事に当時の”日本美意識”によってデザインされ作られた優れものであり、世界に類を見ないものとして色々な資料を漁っていた時期があった。西洋でも勿論、”鎧/ARMER"はあったが、実践的で
あり、機能優先がそのほとんどで装飾性における”美しさ”では、日本の鎧が見事に勝っていた。
 その後の、”江戸時代”に目を向けると”商人文化”が芽生え始め、利休による茶文化で生まれた美意識を根幹にいわゆる、”旦那趣味”へと、彼らたちは当時の金に糸目をつけず、茶道を軸に
花道、香道から、日常の生活美に至るまで日本美が何たるであるかを誇示するまでの”手工芸品”
を別注しその収集に勤しんだ。しかし、僕はこの江戸文化の美意識の根幹にあの戦国武将たちの
”鎧・兜”の美の世界があると感じている。
 江戸の町民文化が現実に求めたものは”兜・鎧”で使われていた素材と表面加工のバリエーションでしかなかった。”鎧”は竹であり、革・毛皮であり、金・銀であり、銅板・真鍮・鉄板であり和紙であり布とそして、漆加工や鞣し加工、象嵌から印伝加工や打ち出し加工、刺し子などと、
”組紐”や”マクラメ”によって全体を組み合わせていた。これらの素材と加工技術が江戸時代には当時の豪商たちの”生活工芸品”へと進化発展した。
 この時代による”美意識”の進展化を考えると今後のモードの世界にも「ミシンと糸と針」で
縫うだけの世界ではない”衣装”の世界が可能であること。しかもこの世界はほとんどが、1点制作であり、これは日本版元祖”クチュール”の世界であり、現代においては”コスチューム”の世界であるという視点が働き、”WITHOUT SEWING"プロジェクトを思いついたのである。
 当然この裏には、”ユダヤ人たち”がすでに制覇してしまっている世界のモード界そのものである"ファッション・ゲットー”から、出来るだけ遠く離れ、新たな世界そのものを構築しないと
これからのモードを目指す才能多き、ユダヤ人以外の若者たちの”たち居場所”はすでに限られてしまっているという僕の経験からの発想と思惑もあった。できれば、このアイディアを東京と上海でヴィエンナーレ方式で世界中の「あたらしい自由」をモードの世界に求める人種を超えた、今後の”カラード・クリエーター”たちが大いに活躍出来るチャンスを提案したいとまで考えていたプロジェクトである。

 話は少し、飛んでしまった、二宮啓君のミニ・コレクションへ戻そう。
彼のコレクションをこうして”ショー”形式で見せていただくとそこには「黒のバリエーション」という彼独特の世界が見えてくる。”黒”が色々な色に見えてくるのだ。
 この世界は、今では残念ながら見えなくなってしまった、かつてのCdGが挑戦した世界。
そこに彼の持ち得た”美意識”と”文化度”が、”手の器用さ”と”頑固さ”が彼、二宮啓の
「あたらしい自由」の世界を生み出している。
 そして、僕が彼を信じるところは日本人デザイナーがこの若さですでに「エレガンス」を
デザインできるまでのもう一つの才能を持ち合わせているからだ。
それらはショーで垣間見ることもできるが、展示会へ行き、バイヤーたちが実際のサンプルを
試着している折に最もよく判ることであった。「軽み」と「重み」のバランスを生み出すために造形していると感じるまでの世界がここにはある。パンチング、テーピング、モチーフ、ドット、メッシュ、工業用素材などを使い組み合わせられた世界は”パーツ オブ ボディ”の世界でもある。当然だがこれらの素材による小物の世界もいい。

 この彼の実力は、外国で勉強しました猿軍団、東京「壁紙デザイナー」たちとの歴然とした、謙虚さと気骨が違う恵まれた環境から生まれる”差異”である。
 クチュールの仕立てが素晴らしいこととは、仕立て上げる過程で着る女性の”肉つき”を
パターンへ落とし込む回数が多いことがその価値の根幹である。 
 この”しぐさ”による「エレガンスな”様”」を生み出すにはパターンがうまくないと生まれない。パターンが出来ないデザイナーたちのものは平面的なデザインであり、薄っぺらい服になってしまう。いわゆる、”平面的な服”と言われてしまう世界でしかない。ここが僕が言うところの「壁紙デザイナー」の所以の一つである。
 このタイプのデザイナーに共通するところは”表層の装飾”が過剰になる。あるいは、テキスタイルに凝り、デザインに凝る世界、手工芸的な熟しだけに拘ってしまうものである。
 そして、着ると美しさがその着た人の立ち居振る舞いに現れない。最近のようにPCが発達してしまったこの世界でも、その結果はより表層的なるデザインがインジェクション・プリントや
異素材の組み合わせに依って成される傾向と、ショーがインターネットで見れることの功罰の
一つとして”正面”のデザインにのみ凝る。
 しかし、やはり、いい服とは「着た女性がどれだけ、癒された”エレガンス”な女性へ変身
出来るか?」でしかなく、”どれだけ目立つ”かではない。
 パターンが上手なブランドの服は動きを作り、着た”女性のしぐさ”を美しくするのだ。
すなわち、「エレガンス」が生み出せる世界を構築できることである。

 例えば、かつての”アパレル”ブランド、最近では”SPA"ブランドやフアスト・ファッションの
商品はこの”付加価値”が生み出せない。
 そこで、”プレタ・ポルテ”のデザイナー達はこのクチュールと既製服の距離感から
そのビジネスにおける”立ち居場所”を持ち得ることができたことがそもそもこの街で誕生した
”プレタ・ポルテ”の世界であった。巴里において60年代も終わりに近い頃、この世界を初めて提案したデザイナーが誰であるか?勿論、YSLであった。
 ここに彼の、この世界の「あたらしい自由」が生み出した素晴らしさと功績が潜んでいたはずだ。
 そして、未だにこの”クチュリエ・メゾン”が出す”プレタ・ライン”が、”ラグジュアリィー・
ブランド”と称してその商品価値を”金メッキ”に変換させてビジネスをしている状況もここに
由来している。現在の大半の”ラグジュアリィー・ブランド”の商品の生産工程も既に、”SPA"と
同じ環境で生産しているのがファッションの”グローバリズム”と言われる所以である。
 ここでのデザイナーの役割とは、”広告宣伝”のためのイメージングと話題つくりでしかない。そう、ラフ君や最近では、ヴェットモンたちのように。

 僕が好きな”NOIR”二宮啓くんの”世界には確実に、このメゾンにおける「あたらしい自由」が溢れている。
 今までにはこのメゾンでは少なかったであろう、”手が器用な”デザイナーであり、自分でコツコツ手仕事をするのが好きなデザイナーであろう。そのほとんどが当然であるが、川久保玲に
憧れてこのメゾンの戸を叩くであろう。が、このレベルでこのメゾンへ入るともう、
”負け”である。良くも悪くも”使われる”だけである。これは企業の倫理でもある。
 自分にあって、その環境には無いものあるいは、少ないものの世界へ挑むことによって、
そこに初めて、自分の”たち居場所”が生まれる可能性があるはずだ。
ここには「覚悟」と「勇気」が必要になる。
 例えば、帰国子女達の多くが、”外資系”なる企業へ就職したがる。
それがステータスであると言わんばかりに。しかし、この世界での語学はここで働く外国人達にとってのネイションランゲージである。したがって、少しばかりの語学力も彼ら達に
”扱き使われる”ためのものでしか無いレベルとなる。その世界そのものが外国語が当たり前な
世界でしかないからだ。
 ならば、外国語が最も程遠い世界でその喋れる外国語を使うことの方が価値があるし、
次なる可能性が生まれる。この考え方が現代日本人には少ない。
 
 彼の”Golden Hand"は次なるはどのような世界を目指すのであろうか?
もう”刺繍の世界”へは近づかないのだろうか?
この”刺繍の世界”は世界共通言語であり、人に、感動を与えられる世界であるはずだが。
 ”鎧”の世界と”刺繍”の世界のコラボ?に僕は彼の”Golden Hand"による
「あたらしい自由」を夢見てしまっているのだが、
文責/平川武治:Morocco、Tangerにて。

投稿者 : editor | 2016年10月19日 21:36 | comment and transrate this entry (0)

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JUNYA WATANABE/パリ・コレクション’17 S/S ”モダン・テクノロジーとヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュ

 ”モダン・テクノロジーとヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュ
”パンキー& ニユー・エレガンス”コレクション。
 一つの判り易いコレクション・パターンを見せてくれた今シーズンのジュンヤ・ワタナベ。
彼はここ数シーズン、自分の世界をこれからの時代へチューニングするためのトライアルを新しさとしてコレクションに残してきた。僕は彼のこの姿勢が好きであったし、この彼のトライアルに勇気と覚悟が伺えるまでのとても素晴らしい、いいコレクションだったことを覚えている。
彼の”軽さと重さ”、”エレガンスと激しさ”が絶妙なバランスでまとめられていたからだ。
 それらは、僕が数年前から提案していた「WITHOUT SEWING」プロジェクトの一環に値する視点での新たな発想に基づいたコレクションに挑戦してきた。これは”モダン・テクノロジーと
ヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュであり、”I.D"との”ラップ”。
時代の新しい自由さを感じさせるまでの美しさにまとめられ、着る女性を生き生きと伸びやかな姿にするマジックをこのデザイナーは既に、持っている。

 今シーズンの彼のコレクションもその延長上であった。
もともと平面である素材を彼も”3D"構造のメイン・エレメント・パーツに仕立て、
その3D.エレメントの連続性で”服”を仕立てるというマティマティックスな手法はここ3シーズンの継続コレクション。
 前々回のコレクションで、それまでの3シーズンほどを塩ビ素材を使ってエナメル加工したものも含めてそれらを平面のラウンドなパターン・ピースを作り、このピースを一欠片づつつなぎとめる手法で”服”を仕立て上げて来た。僕はこのシリーズは”ポリーマグー”的なイメージと新しさ、晴れやかさと爽やかさをエレガントに感じた。
 その後、彼は2シーズン、3D.のエレメントで”新しい自由”を提案した。
トライアングル・グリットによる”折り紙”あるいは、”ペーパークラフト”的発想で3D.エレメントを構成し、これらを使った世界をこれらも見事な、彼らしいい端正さと几帳面さが作品の品を表すまでの軽やかなコレクションを行なった。安い合繊素材そのものを先ず、”加工ー部品”化するすなわち、”I.D"の手法によって、この世界の延長、バリエーションが今シーズンだった。

 しかし、今シーズンはコマーシャルを意識したバリエーション。
この発想の初回のコレクションは、こんなアイディアでこれほどのコレクションが出来ますよという力の入ったシリーズー1。そして、2回目の先シーズンはこの発想をここまで広げられ
尚且つ、力を抜いて軽妙にまとめられますと言う迄の充実したエレガントなコレクション。
結果的には、このシリーズのコレクションとしては一番いいコレクション。
 今回はこの3D.エレメントを使い、売ることを考えられたところでまとめたコレクション。
”ナイン・インチ”の激しいリズムがコレクション中鳴り響くなか、颯爽と”パンキー& ニユー・
エレガンス”コレクション。
 このような発想のコレクションは、僕が提案していた”WITHOUT SEWING"でもそうであるが、これらの根幹には、”モード”と”インダストリアル・デザイン”のコラボ的発想の新しさが存在している。もっと、わかりやすく言ってしまえば、”レゴ・ブロック”世代へ共感する発想のオリジナリティがある。まず、パーツとしての”エレメント”を作る。次にそれらを組み合わせて人体に”装着”させるという発想だ。ここでは、”縫わない”で”組み立てる”という手法を”モード”の世界へ持ち込むという”新しい自由”の一つである。
 したがって、この”エレメント”を作る場合、機械加工に委ねるためそれなりのロットが発生しそこに”リスク”が生じる。そのため、それらの”エレメント”である”部品”を使いまわし、このコストを下げなければビジネスに繋がりにくい。
 新しいことをするために生じる”リスク”と”コスト”はいつの時代にもそれなりに派生する。
その”リスク”と”コスト”を工場が持った上での製品化が”インダストリアル・デザイン”の世界である。その結果、この世界は、その後の量産によって、売れれば売れるほどに”儲け”が生まれる。この現実は、かつての”I.MIYAKE"のプリーツシリーズが現在の”I.MIYAKE"ブランドを経済的に救ったことでも理解できる。
 
 今回3シーズン目の、この世界に挑戦した結果となったジュンヤ ワタナベのコレクションは
彼のセンスとまとめ方という”モード”の世界での経験とスキルが十分に生かされてまとめられたコレクションだった。
 ”軽さと雰囲気”を大切にしたコレクション・テーマでの彼が考えた”創造のための発想”は”パーツ オブ ボディ”であった。着たい女性の全身を”ラッピング”するのではなく、彼女たちの姿態の部分にこの”エレメント”を使って”装着”するというアイディア。その結果が、”エプロン”や”肩掛け”といったアイテムに見事に落とし込まれて彼、特有の世界観を生み出した見事に、心地よいコレクションだった。ここには”センスの良さと頭の良さ”が伺えるまでのコレクション。
 インナーは分かり易いBIG・メッセージT-シャツ。時代性としての”ストリート感覚”をベルリンの今では、”グラフィテー・アーチスト”に成り上がった連中とここでも”コラボ”。売るための時代感覚がここに織り込まれたコレクション。日本のストリート・ブランドの今ではこの感覚は若き”書道家”の登場になっているが、どちらが世界ウケするのだろうか?
彼ぐらいのデザイナーになれば、”ネイション・アイデンティティ”に堂々と挑戦することも
”義務”かもしれない。いつまでも白人たちへの眼差しを気にした目線から生まれる”PUNKY"
イメージはすでに、「カウンターカルチャー」では無く、寧ろ「ヤッピィー・カルチャー」でしかない。
 あの僕たち世代へ強烈なカウンターを放った、「B.ディラン」さんもノーベル平和賞の時代なのだから。
文責/平川武治:モロッコ、ティツアン市にて。

投稿者 : editor | 2016年10月19日 15:41 | comment and transrate this entry (0)

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<追加編 >巴里’17S/S CdGコレクション展示会から、

CdGコレクション/追加編; 
 CdGショーで大切なことを付け加えるのを忘れた。
それは、今シーズンのこの世界観で、なくてはならないもの、時代感を感じさせ、新しさと
爽快感を与えたものがあった。それが、”ヘヤー”デザインである。
 ここで使われた素材は、”塩ビの透明チューブ”。
この素材が彼、ジュリアンのデザインによって見事に時代の顔つきにまでショー全体を高揚させたのである。
 今シーズンではこのヘヤー・アクセサリーが僕には一番のカッコいい、センス良いクリエーションであった。
ありがとう、ジュリアン!!

 そして、展示会で見せていただいた今シーズンのCdGのビジネス・コレクションは時代性と
いうより、今のビジネス状況を大いに加味して構成された巧いコレクション。
 基本的なデザインエレメントは、かつて見たことのあるもの。その根拠はショー・コレクションの”エレメント”そのものが使い回しのものが多いため、これらのショー・コレクションを
実際に着用できるまでにまとめた優れたものが今回のビジネス・コレクション ピース群。
 すなわち、ショー・コレクションの”プレタ”版と言う構造で構成されたもの。
従って、その殆どがいつか見たことのある素材と”アイテム”群。それらがプリント処理等の
後加工によって新しい顔つきを生み出した「CdGらしい」ビジネス・コレクション。
このブランドの崇拝者達にはやはり、日常で着て見たくなるもの。いくつかのアイテムとニットに今シーズンの”ソフト・グランジ”の施しがさりげになされているから売る側からも売りやすいシーズンであろう。
 特出ではショーにも出されていた”シューズ”。ナイキとのコラボによるソールを剥がすというアイディアによる”別注品”。
 この規模のワールドメーカーと、堂々とコラボができるこの企業の強さと立ち居場所を改めて知らされた1品。軽い、売れるであろう。
 今の若い人たちがモードへ入ってくるとき、
「おしゃれなものを買う」という行為は”シューズ”からである。
センスにうるさい連中は決して、上物やボトムから入ってこない。
 まず、”シューズ”である。シューズを決めてからそれに合う、”上物”となる。
この今流のファッション・プロセスを知っていなければ、今の時代、もう、カッコ悪い、
センスのないただの「壁紙デザイナー」でしかない。
 ということで、このCdGのビジネス・コレクションは全く、「コムデらしい」無難にまとめ
上げられたものだった。
文責/ 平川武治:巴里市ピクパス大通りにて。

投稿者 : editor | 2016年10月12日 21:49 | comment and transrate this entry (0)

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変われないだが、堂々と胸を張った!!コム デ ギャルソン パリ・コレクション-2017/春・夏。

 「大衆は”モンスター”が好き。」
”The Century of the Self”より ; https://www.youtube.com/watch?v=eJ3RzGoQC4s

 K.ブロスフェルト曰く、「植物は、単なるつまらない機能主義に決して陥らず、論理と適合性に一致し、
その原始の力で最高の芸術的な形を達成する。」
『芸術の原型』/Urformen der Kunst,1928年より:

 『「戦う女」⇨「甲冑」⇨「ソフィスティケーティッド」⇨「シンク・ビッグ」⇨
「サンボリック」⇨「心を守る女」⇨「繭玉」⇨「輝きのもと、なお、蕾。」
⇨⇨「ジェンダー」又は「ソフト・プロテクション」』

 今シーズンのCdG、川久保玲のコレクションの結論的ロジック・コンテキストを僕はこのように読んだ。当然だが、僕にはこのシリーズにおける「創造のための発想」は変わらず、
”川久保玲”本人に重なって見えてしまう。
 このシリーズを始めてもう、10シーズン目を超えたであろう。
今シーズンは作品の造形度とまとめ方がソフィスティケートされその分、川久保玲の
「潔さと端正」が完成されたイメージを残したシーズンだった。
 使われた素材や色目はある意味では”CdGらしい世界”でまとめられていた。
過去のこのデザイナーのコレクションによく使われてきた色目と素材と読める。
若くは、”原反在庫”を利用したのだろうか?素材の上からの刷毛目染めによってのオリジナルも出しているし、ハート型のフロッキー・プリントもある。
 コレクションに於ける作品の80%ほどのエレメントは従来から使ったことのあるエレメントの登場であり、これらを素材とモジュール違いでまとめられている。
 ここまで続けるとこれによって、余計に”CdGらしさ”がこのシリーズで感じられるまでになった。ということはこのブランドの根幹である「特異性」という立ち居場所がより、明確になるがその「特異性」そのものは弱まった。
 ディテールのまとめ方は「シンク・ビッグ」という手法である。結果、堂々としているし、「サンボリズム」を感じる。この手法は80年後半のV.ウエストウッドが好んで使い、
先シーズンのUNDER COVERが使った手法である。
 個々のディーテールでは、このデザイナーが昔、よくブルーゾンの襟に使っていた、大好きな襟のラインを白であしらい、「シンク・ビッグ」によって「シンボリック」に構成されている。この辺りのディーテールの使い方と構成力はさすが彼女の好きな世界であり、働く女性としての「戦士」を美しく清楚にバランスよくまとめているのも見事だ。

 今回のコレクションの”ソース オブ イマジネーション”も「曾ての、ラ カンブル校の
クリフトル君」そして定番、「K.ブロスフェルト」などのお馴染みがラインアップ。 そして、
なぜか、「BORO,東北地方の貧農家の布団ドテラ」(?)までも。
 特に、この新即物主義写真家のパイオニアと言われる、19世紀末のドイツ人 K.ブロスフェルトからは川久保玲は以前から過大な影響を受けている。自分のファッション・デザイナーとしての立ち居場所を死守する方法論の師ともしている。
 彼も、植物だけを取り続けて35年。よく似てますね、このデザイナーの生き方と。 
 K.ブロスフェルト曰く、「植物は、単なるつまらない機能主義に決して陥らず、
論理と適合性に一致し、その原始の力で最高の芸術的な形を達成する。」と述べている。
そして、彼は30年以上に渡り同じ写真の技術を使い、植物写真のガラスのスライドを作った。が、それは全て「学生」のための教材としてでであった。彼の35年に渡る仕事としての
作品群からは、「機能性」を越えた「奇妙さ」という美が感じられるが、ここには川久保玲の
このシリーズ全体の根幹がある。
 そして、「彼は自らの写真は芸術的業績とは考えていなかった。」というK.ブロスフェルト
自身の心情も川久保玲にも共通するところであろう。
 5年前にこのシリーズを始めたこのデザイナーも決して、自分が創り出す世界は
”芸術”ではないという立ち居場所で始めたはずであろう。
 このモードの世界で、しかも”パリ”というただ、若い頃の”憧れ”であり、”夢”となった
このパリへ実際に上陸した自分。その後、”継続”することを願望し始めた以後に感じ始めた
ある種の孤独感とその恐怖。しかし、立ち向かわなければならない。
 自分自身が「戦士」の如く、潔く立ち向かわなければ”継続”は不可能。
そして、”二人三脚”だと信じていたパートナーの裏切り。頼っていた小指敦子さんの死。
その小指さんが残していった「SIX・マガジン」に既に使われていた、K.ブロスフェルトの写真群。ここに以後の彼女の「ソース オブ ザ クリエーション & イマジネーション」があるのも
当然であろう。

”Over thirty years, he used the same photographic technique. From his negatives he made glass slide to give his students an understanding of nature's forms and structures.”
"He did not consider his photo an artistic achievement."/Urformen der Kunst,1928
https://ja.wikipedia.org/wiki/カール・ブロスフェルト
 
 現代社会における”モードの世界”で「新しさ」へ挑戦することとは、「服」の形態や形状
すなわち、デザインとしての造形の範疇で次なる新しさを探しても、もう見当たらない。
 この時代で「新しさ」を探すには、先ず「あたらしい自由」を持ち得なければならない。
これがよく言われる「見方を変えましょう。」発言です。
 しかし、もう見方を変えただけでは”バリエーション”の世界しか生まれ得ません。
それがこのモノに溢れてしまった資本主義・消費社会時代の現実でありますね。
 このブランドそして、川久保玲のコレクションの後、それなりの人種たちが一様に発する
「凄いでしたね!」とは、その根幹はなんなのでしょう? 何が「凄い?」のだろうか?
 この5年間ほどのシリーズを彼女の「あらたな自由」の発見と考えると、僕は川久保玲の
「凄さ」とは、4つある。
 『いつも彼女自身の「ボキャブラリィー」を持ち続けていることそして、その持ち得た
”ボキャブラリィー”によって、自分の「立ち居場所」を変えないこと。
この”立ち居場所”を変えないための「ビジネス」をしっかりと考えていること。
そのための自分の”ボキャブラリィー”が通じる「人材」を周りに置いていること。』
 これらの4つに加えて、このシリーズへ変革した発端とは「このモードの世界の従来の
”ボキャブラリィー”を彼女自身が自ら変えて、常に、”川久保玲のボキャブラリィー”によって
自らの世界観を変革させ、「語り始めた」こと。
 そこに、彼女の「あたらしい自由」が生まれることを熟知している「凄さ」がもう一つの
「凄さ」であると言い切れる。
 パリ30数年で、自らが体験し、身につけた”ボキャブラリィー”によって、
自らの”リスクとコスト”を背負い込んで「覚悟」ある新たな自分のモードの世界を語り始めた。
 このことそのものが川久保玲の「凄さ」でしかない。 
 彼女は、彼女自身で、「モードのボキャブラリィー」を新たな自由で語り始めたことが
「凄い!」のである。
 作品とはその結果でしかない。作品を生み出し、残すことが目的ではなく、常に、
「自分のあたらしい自由」を見つけ出したいデザイナーでしかない気骨ある稀なる
デザイナーである。ここが、昨今の「自称アーチスト」や「壁紙デザイナー」たち輩との
人格と品格の違いである。

 
「ありがとうございました、川久保さま」:
文責/平川武治:巴里市ピクパス大通り:

投稿者 : editor | 2016年10月11日 02:52 | comment and transrate this entry (0)

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パリ・コレクション-ここ3シーズン、成長し続けるUNDER COVER/2017/春・夏コレクション。

「モードのキャピタルは”RAP・WORLD"に色目を使い始めなければならない。」
 景気の悪さがストレートに見えてしまうのが、巴里のファッション・ウイークの怖い
ところだ。ジャーナリストたちはプロが少なく、バイヤーたちは古参が多い。
その中で、ブロガーと称する若者たちが”すきあらば”と言わんまでのセルフ・プロパガンダで
会場の前だけは異様な空気と盛り上がりを見せる。が、”ゲットー”の中は変わらずのこの世界
独特な淀みしか感じられない。当然だが、この空気感はその後、始まるランウエーのコレクションの表情と顔つきにも漂う。

 街の顔つきも当然だが30年前とはすっかり、変貌した。
判りやすく街の表層は”綺麗になった。”だが、昔の否、本当の「巴里」を生きてきた人たちに
とってはその全てが本当に”遠い、いにしえ”の風景になってしまったと嘆く。
 これは何も巴里という街の変化だけに限ってはいない、この街のモードを同じように30年も
見続けている僕のようなものには”モードのキャピタル”も同じベクトルで変化し始めなければならないと感じ始め、一つの時代を脱皮しようと、変わり始めたシーズンだった。

 「誰が、新しい顧客なのか?」「誰に売れば、モードとして輝きが廃れないか?」
「誰が金持ち新興スノッブ人種なのか?」「誰がパリ・モードを美しく着こなせるのか?」

 
 そんなこの街のメタフォルモォゼの近い過去として一番、ノスタルジックにメランコリックに思い起こさせてくれるのが’60年代半ばの”ジャズ イン サン・ジェルマン”だろう。
 例えば、既に、YSLが亡くなり、つい先月もS.リキエルも亡くなった。彼れらたちの時代が
どんどん遠ざかってゆく。それはオーディエンスも然りである。
 こんな懐かしい時代のアトモスフェールとジャズをテーマ・コンセプトにとてもハッピーな
コレクションだったのが、UNDER COVER、高橋盾が見せてくれた世界だ。
 素材が勝負の時代にジョニオ君が選んだのは”ニールド・パンチング”による異素材の組み合わせという、こちらのデザイナーにはまだ高価でこの手法が一般化されていない世界。
ここで、白人デザイナーたちから1歩リードを取った。
 ローブやトップスにこの手法で”JAZZ AGE"なるモチーフで彼のポジティフな世界を見せてくれた。ここに漂っていたのは「メランコリー」「ノスタルジア」そして重なる、「ロマンティック」や「ポエジック」が表層に転写によってデコされてた世界。極め付けのアイテムはこのデザイナーの凝り性な性分がレザーブルーゾンに現れる。あのM.レイの写真に見られる音符記号などが嵌め込み手法で丁寧に、豪華にブルーゾンになる。全体的には”ストリート・テイスト”をラグジュアリィーにまとめたシーズン。そこにも彼が提案する”ストリート・エレガンス”が溢れる
うまさ。このうまさは、彼のコレクションが年々、評判を呼ぶまでの上手さの証であろう。
 彼が上手いもう一つはいわゆる、”小物類”のデザインセンスとそのまとめ方である。これらによって、より、「UNDER COVERの世界」が耀く。
 フィナーレはこのメゾンも「トランス・ジェンダー」、メイクもすっかり変え、スーツの素材も打ち込みのしっかりしたメンズ素材で仕立てられたボディーフィットしたスリムなボーイッシュ・スーツ。カッコいい!!
ありがとう、ジョニオ君。
文責/平川武治:巴里、ピクパス大通り。

投稿者 : editor | 2016年10月11日 02:15 | comment and transrate this entry (0)

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’16/’17・ 秋冬のコムデギャルソンのコレクションと「裸の王様」

 実は、この原稿は先シーズンのCdG,川久保玲のコレクションを見た後の、後味の悪さと心のざわめきによって書いたものでした。
 その後、しばらくまとめることができず放置しておいたのですが、先シーズンのオム・コレクションで、再びこのCdG・HPがやってくれたのがこの童話「裸の王様」を一つのコンテンツとしたコレクションだったので驚いた。

 
 <今回、彼女の自身のコレクションがもうすぐ、ここパリで行われるので再読し、
まとめたものです。>

 皆さんは童話「裸の王様」を読んだことはありますね。
 デンマークの童話作家、アンデルセンが1837年に発表。原題 "Kejserens nye klæder"であり、日本語に直訳すると「皇帝の新しい服」となるいわゆる、二人の服飾ペテン師の話です。
 アンデルセン自身もユダヤ人でしたからこの童話は多くの比喩がなされていますね。
この童話の幾つかの比喩が現在のファッション・ビジネスの世界を構築している根幹の全てです。
 この童話が世に出たヨオがロッパ世界の1837年には、あのモールスが有線信号を実用化し、「産業革命」という言葉が初めて使われ始めたのもこの年からであり、ヨオロッパで新たな市民社会が躍動し始めた時期だったのです。「衣装品」の世界も手工芸の機織りから機械生産が、そして1840年にはミシンが誕生しいわゆる、量産が可能になり始めた時代でもあったのです。
 だから、僕が見てしまった40年間ほどのファッションの世界も未だに、この童話「裸の王様」の世界であり、社会環境というよりは”技術”の発達と進化によって齎された生活環境が変化しただけであって物事の”善悪”と人間の”業欲”の根幹はほとんどこの時代によって構築されたもので、以後、これらは”普遍的”でしかありません。

 *
 "The fashion is always in fake."と僕はよく発言します。
が、この発端は僕なりのこの「裸の王様」の読後感とその後の経験からの言葉で、この”FAKE”で成り立っている世界そのものがやはりファッションの世界なのでしょう。
 これは作り手であるデザイナーや売り手であるセールスマンそして、作られた作品としての服がこの”FAKE”で成り立っている世界だということです。
 そのファッションの世界が今では、広告産業と化してしまったということもこれで納得がいくでしょう。広告産業の根幹もこの”FAKE”ですからね。”FAKE”をイメージやクリエーションと訳せば事は簡単です。
 そうすれば、「アート」の世界をこのファッションの”FAKE”側に立っている人たちが渇望することも理解できますね。現代美術とはユダヤ人たちが作り上げた”芸術”という構造の上に立った20世紀最後の一番、知的で教養あるそして、巧妙な”FAKE”ビジネスの世界だからでしょう。
 その世界を見習ったファッションの世界の作り手であるデザイナーたち自身の立ち居場所とその”来歴”には多くの ”FAKE”が見つけられます。
 これは僕のパリモード30年の経験で言える事です。当然ですが、日本人デザイナーたちの多くもこの部類の人たちです。何かしら、自分の経歴や来歴それに、育ちや環境について、学んでいないのに学んだようにまた、自分が作っていないのに自分の創造のように発言したりと平気で偽りの厚塗りを行ってその立ち居場所を虚構している人たちです。
 僕が自分の立ち居場所であるこの”ファッションの世界”の人たちとの関係性を世界レベルで30年以上見てきた経験と体験からやはり、「この世界の人たちで、”尊敬”できる人たちが少ない。」と言い切っている根幹はここにあります。あまりにも彼らたちの多くが”小さな嘘”を当たり前のように吐く。
 そして、彼らたちのセンスと教養をより、上塗りしなければならないために、解ったふりして
”持ち上げている”人種たち、ファッションメディアとその周辺での傍観者たちがファッション・ジャーナリストと呼ばれている殆ど、”パラサイト”な人種たちです。
 この虚構構造を企業構造として”カネと小さな嘘”でジグソウパズル・ゲームよろしく”上書き”
を絶えずしながら「壁紙」を堂々と強かに且つ、楽しみ、カッコつけが厚顔に出来る現在の立ち居場所に君臨してしまっているデザイナーたちが”巨匠”的存在になるのもこの世界の特徴でしょう。ここには「純金の輝きから、鍍金の輝き」になってしまったビジネス社会の表層と現実があります。
 この多くの事実の根幹は周りから「自由な発想でカッコよく、出来れば少し、知的に見られればいい。」のレベルでの”FAKE”です。だから罪にもならないのでしょう。例えば、このFAKE構造のためのシナリオを書いたり、自分たちのデザイナーをより、”鍍金の輝き”にするためにプロテクトする立場の人たちが”プレス”という職域の人たちと彼らたちに”パラサイト”している先述のファッション・ジャーナリストたちで構成されているのがこの「裸の王様」をコンテンツとした世界であると実体験してきたのが僕のモードとの関わりの30年でしょう。
 もうひとつの世界とは、この「裸の王様」では”イカサマ”をした彼らたちが関わらなかった、実際に「服」というモノ=消費財を生み出す世界、”生地屋さんと縫製工場”の世界があります。
しかし、多くのジャーナリストと呼ばれる側の人たちもこの実世界には立ち入らないしまた、
入れない。この世界では”作る”ことが勝負の世界ですからどれだけの”モノ”を作れるかという
”実世界”なのです。だから、この世界へ立ち入るのは”業界”メディアとされている、より専門的な視点とスキルと経験を持った殆ど、”職人的”なあるいは、より専門的な職域なのです。
現実には”素材”や”縫製技術”を語れる経験と教養とスキルを持ったジャーナリストという立場の人たちが少数でありまた、”メディアという広告産業+e-コマース”の発達でほとんど必要なない世界になってしまっていますね。
 したがって、この世界はデザイナーたちがどれだけの”金の卵”を生み続けられるかによって、
この構造の規模が違ってくるだけであって、”ピン”は世界のラグジュアリー・ブランドのデザイナーたちから、”キリ”は東コレ構造にパラサイトしているデザイナーたちの現実状況でしょう。従って、プレス業務とはそのためにどのようなメディアとお付き合いをするか?あるいは、どのようなジャーナリストたちとお友達関係を築くか?が具体的なお仕事ですね。
 この現実も世界に出てみるとファッション産業の世界はほとんどがユダヤ人民族で構成されているという事実に関係しているでしょう。彼らたち民族の秀でた特性の一つに”美意識”が高い事と”無いものを在るように見せることが上手く”そして、白人にしては”手先も器用”です。この彼らの特性は「アート」の世界やファッションの世界に特出した特性なのです。
 例えば、「付加価値」という言葉、確か’80年代のマーケティングの世界で言い尽くされてきましたが、彼らたちはこの広告業界の根幹コンテンツ、「付加価値」の創造が秀でて上手いこと
でしょう。そして、「ユダヤ人世界」という普遍的なる”関係性”を堂々と使いこなせるもう一つの強みを持っている民族だからでしょう。
 例えば、この歴史的現実を学ぶには、二十世紀の当時の新しい学問であった”精神分析”と”心理学”から大衆と少衆たちをどのようにマインドコントロールしてきたかのプロセスとその結果、広告産業を生み、政治へ利用し、中産消費社会構造を誕生させたプロセス。この二十世紀における資本主義社会に何が重要な課題であったかとともに、これらをドキュメントフィルムにまとめられた素晴らしい、力作があります。
 原題は"The Century of the Self"、「自我の世紀」という訳されたもので、G.フロイトから戦後の”消費資本主義世界”がどのように彼らたちによって、コントロールされて二十世紀という時代が生み出されてきたのか?約3時間以上に上る英国のBBC放送局が制作したこの世界のドキュメントフィルムの素晴らしいものが現在でもユーチューブで見ることができます。
(興味深い英國BBC制作のドキュメントフィルム:参考/"The Century of the Self":
https://www.youtube.com/watch?v=eJ3RzGoQC4s
 ここでみなさんは理解されたでしょう、「実際に、服が作れなくても、作らなくても、さも自分が作ったような顔つきを上手に、したたかに素早く権力者にあるいは、お金持ちたちに取り入れば、関係性を構築すれば、自分たちは美味しいものと女たちにありつける環境が手に入る。」この実際の世界を比喩したのがアンデルセンの"Kejserens nye klæder"「裸の王様」という”童話”ですね。ここには、それなりの人たちがファッションの世界に憧れる根幹がすでに、コンテンツ化され、学び、深読みできる童話になっていますね。

 **
 昨年来、敗戦後の日本が根幹の「倫理観無き世界」が原因の不祥事が続々と表層化し、メディアが面白がって過敏に、過熱報道し始めています。現在ではその渦中にいるのが「舛添東京都知事の倫理観無き行為」でしょう。(早いものですね、今では、もう誰も語らなくなりましたね、わずか10ヶ月前の不祥事ですが、)彼の場合も”世代”と”育ち”にありますね。”世代”は戦後の荒廃期そして、”育ち”は自分から「在日」をカミングアウトをしてその立ち居場所を両義性あるものにする。ここには「ユダヤ人」たちの手法と同類性を見てしまいます。
 敗戦後のあの瓦礫の世界から1日も早く生え抜け出すためには「倫理観」ほど無力、無益なものはなかったのが現実でした。これは”敗戦後”を実体験して生き抜いてきた世代の人たちの現実/リアリティでした。従って、”戦後日本”の”中産階級”構造を現在のような「B層」構造に構築化してしまった元凶は「取り合えづは、、、」という言葉と「倫理観無き世界」の「根性論」構造が産み出したもの。この世界で多くの彼らたちは自分たち家族のための「ガンバリ」を、戦前の日本にはあったはずの含羞を捨て去り、根性で生き抜いてきた人たち”育ち”の賜物でしょう。それが70年を経た今、「舛添東京都知事の倫理観なき、反省なき行為」でしょう。
 戦後日本のファッションの世界を省みても彼らたちの戦後の功績は実業界と芸能界やプロスポーツ界のみならず、案外とファッションの世界にも多いのです。彼らたちの「ガンバリ」と「根性」によって、自らの”立ち居場所”を「革新」できるという敗戦後の「自由」の社会が存在し、その「自由」を謳歌した人たちが60年代後半に生まれた世界、”マンション・メーカー”から始まりその後の、東京デザイナーたちへ引き継がれていますね。次なるは、彼らたちのこの世界へ当時の”カウンターカルチュアー”を読み込み、”カッコイイ”と憧れてやってきた「団塊の世代」たちによって事実上、模倣されたファッション・ヤッピーたちのもう一つの現実が日本のファッションの二つの構造世界を構築してきました。

***
 コムデギャルソンのデザイナーである川久保玲の先シーズンは彼女の高齢化とその立ち居場所を死守するというこの世代のデザイナーが誰しも向かう”最後の困難”へ挑戦した。この至難な困難さは前シーズンに既に、その兆候が見られた。
 その大きな一つは、もう彼女が作り出す”創造の世界”のエレメントが使い古され始めたこと。8シーズン程も続けたこの彼女の変わらぬチャレンジ・シリーズもある種の、マンネリ化をもたらし始め、見る者に新たで強烈な時代感が感じられるまでには至らなくなった。使いまわされ始めた”エレメント”をファッショントレンドで出された素材でまとめ上げられるという手法に陥ってしまった。かわらづ続けて見せていただいている僕にはここにエネルギィイの欠如感とソースオブザクリエーションが新しくなくなってしまたと感じる。
 ここにはこのシリーズになってから常に変わらずに登場する一つのパターンがあった。2008年にアメリカで行われた展覧会で刊行された「MASK」は彼女のコレクションのソースブックであったろう。また、2012年にドイツで発行された、C. Fregerがまとめた東ヨオロッパにおける民族サイトその衣装写真集、「Wilder Mann」からも最近では影響が見られ始めた。この「MASK」からの1体は前シーズンまで使う素材をそのトレンド性に合わせながら引き継がれ使われているし、多くのインスピレーションを「Wilder Mann」からも感じ取れるコレクションが多くなってきた。
 確か3シーズン目では、僕はこのデザイナーは自分の「自伝」を作品によって語り始めたのであろうか?と言う迄のかなり、辛く、苦しいピアーなエレメントをメタファーすることが出来たが、次なる前シーズンはその激痛はなく、先シーズンはでは、どのようになるのだろうか?が僕の一番の関心であった。
 そして、先シーズンの彼女のコレクションはより、蛇足的になり、わかりやすい”ファッショントレンド・アート的コレクション”でしかなかった。使われたエレメントも時代との関係性からは、全く創造的な価値観は無くなり、今シーズンの新たな新しさとして若手デザイナーたちからぼつぼつ登場し始めた、「without sewing」の世界観までをも感じられた。
 僕的なる視点では彼女の制作チームが変わり、この制作チーム力が”弱い”あるいは、”若い”もしくは、彼女がやりたいことが十分に伝わりきれずに”発車”してしまった。なので、「このままでいいもですか?」という気持ちが後に残ってしまったのが先シーズン。
 「CdGの川久保玲で在り続ける」こととは、これが今の彼女の”こゝろの有り様”であろう。
実際に彼女が取り始めた戦略とは、「特異性」の維持であろう。
 当時、このブランド名からしても、”巴里大好き!”な、憧れであったモードの街、巴里へ進出して以来のブランド・デザイナー川久保玲の見られ方は、決して、この街の”ファッション体制”
に媚びない。という一点であっただろう。そのためにどのような服作りとイメージ作りをして行けば良いか?そのための”資金”も必要。この時に彼女が採った立ち居場所は「パリに居て、巴里から遠く離れて、」というまでの「特異性」を構築することであったはず。
 その結果と、延長が現在の彼女の最近の作品群と方法になってその”立ち居場所”を今も堅持している。この「凄さ」は凄い。先シーズンの作られている作品を見る限り、一つの見方は”リアリティ”がなくなり始めた。という視点である。このデザイナーが持ち得た”リアリティ”と実際の作品との関係性が普遍性になってきているからだ。この根拠はやはり、彼女の最近の「特異性」にもファッショントレンドが重なり始めているからであり、その「創造のための発想」の拠り所が
”机上”からのものが多くなってきていると感じられるからである。
 以前のこのブランドの「凄さ」とは「リアリティ」に所在していた。時代に対してのリアリティ、着る女性が感じたいリアリティとしての「リアリティある」あるいは、「リアリティを感じさせる」までのフェミニズムを軸にした「特異性」があったが、それがなくなってしまったという見え方である。ヨオロッパの多くのファッション・スクールの審査をやらせて頂いて来た強かな経験の僕にはしたがって、コレクションのクオリティが下がるとその見え方は「スクール・コレクション」の域になってしまう。ここ2シーズンの彼女の「特異性」は残念ながらこのように見えてしまった。
 彼女の”実生活”からどのような時代観やそれに対する「カウンター」を持ち得ているのか?
が見えないし、感じられない。しかし、僕がこのブランドのコレクションを'85年来の長い間見せていただいている限りでは、川久保玲というデザイナーは以前からこのような”自身のボキャブラリィー”での「カウンター・カルチャー」は持っていなかったのが現実だ。寧ろ、周りのメディアによって意味付けされてきたものを良い処取りする手法を使ってきた。例えば、「寡黙なデザイナー」で代表している風潮がこれを物語っている。多くのデザイナーたちがメディアに映り出されることが大好きで、喋らなくてもいい事を喋ってしまう現実からの距離感を持つこと。それが「特異性」という手法でしかなく、ここには彼女自身のボキャブラリーによる発言は存在していない。ここで、「彼女の作品が全てを語っています。」方式のプレス対応が可能で有効打であった。彼女がメディアへ語ることは”時代の優柔不断さ”や自身の立ち居場所における不満足な状況を嘆く程度でしかない。
 しかしながら、今の若い世代のコレクションに共通する不足分も、彼ら世代が現実の社会や時代性にどのような、どれだけの「対抗意識と感覚」を持っているのだろうか?ということである。彼ら世代からも、使い回され、もう古くなったかつての「カウンター・カルチャー」から、自身のボキャブラリィーによる「カウンター」を感じることが少ない。ほとんどが時代に”サーフする”ことあるいは時代の”壁紙”であることに始終しているレベルのコレクションである。
 この現実ではやはり、現存、活躍するデザイナーではやはり、CdGの川久保玲の仕事は異色であり、狙いの「特異性」を大いに感じさせられるまでの「自我」がある。それが、殆どのオーディエンスがショー後の嘆きにも感じられる「凄いですね。」が全てとなる。どの様に、なぜ「凄い」のかは不明のまま。そして、この「凄い!」は結局は彼女の「特異性」への”頑張り”に至ってしまう。
 今、この彼女の「特異性」に何の意味があるのだろうか?
そして、この彼女の”ガンバリ”とは極論、自分のため、自分たちのためのそして、このデザイナーを崇拝する人たちへの「頑張り」でしかない。だが、ここにこのデザイナー個人の「風土」としての時代観を感じてしまうのは僕だけであろうか? 
 当然、日本人がこの街で、この世界でこの”立ち居場所”を堅持し続けるには彼女が為すこと、全てが至難なことである。大変な「リスクとコスト」を払わなければならない。従って、ここで、現在のこの計算し尽くされた”企業形態と構造とその構成”が大いに世界の「ファッション・シンジケート」においては役立っていることも確かである。現在、若いデザイナーたちが見習うべきこととは、このCdGというファッション企業のビジネス形態とその構成とそれから生まれる「関係性」そのものが必須である。
 しかしながら、未だにこのCdGの表層に影響された「コムデギャルソン・チルドレン症候群」を持った遅れてきた若者たちの「自己満足世代」がこのパリを訪れてくる。

 僕はこの2シーズンのコレクションでは同じようにある種の「コムデギャルソン・チルドレン症候群」を持って訪れたはずの”UNDER COVER”の高橋盾のこの2シーズンのコレクションに大いなる拍手を送り、軍配をあげたい。特に先シーズンは見事にあるレベルを超えてしまった彼のピジティフな「凄さ」と「リアリティ」を体感した。デザイナーのジョニオくんが持ち得た若い頃からの”リアリティ”がうまくコンバインされ、ブリコラージュされ始めたことが一つの素晴らしさを生み出す大きな要因になっているところが、CdGの現在と違うところであろう。彼自身に大好きなものへの「癖」と「嗜好」が詰まっているからだ。
 見せていただき、感動と幸せ感がいっぱいだった。ありがとう。

****
 そして、先の6月のシーズンのCdG・H.P.のコレクションに現れた童話「裸の王様」。
いや、参りましたね。このロジックがここに現れたかというまでの見事さ、新鮮さと可愛らしさ、ある種の”マジック”。アイディアは以前、'96年頃だったかと思うのですが、A.P.C.のジャンが既に行ったシリーズ。ここで彼は既に、大胆に”塩ビ”を素材にブルーゾンなどを発表していた。(その実物を僕は大好きな服の一つとしてコレクションしている。)
 これの同じブランドの”オムコレクション”を見てしまうと、このブランドの女性物と男性物は誰がいったいデザインしているのか?という、また僕らしい、いやらしいく、穿った考えが横切ってしまう。

 では、明日のショーでは、どのような世界で「特異性」を見せてくださるのだろうか?
招待状が未だ、届かないパリピクパス大通りにて、平成28年9月30日:
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2016年09月30日 18:13 | comment and transrate this entry (0)

article(78)

ありがとう、中里唯馬くん。彼が生み出した「あたらしい自由」とは、

 第2部;
 その彼が持ち得た他者たちとの「差異」とは先ず、彼の「生まれと育ち」にあり、それは
”EVERYTHING SO SPECIAL"であった。
 ご両親が、自分達が持ち得た「美意識」を持って、必要なる環境を自分たちが信じるその
「美意識」と「価値観」に委ね自分達で想像し、造形し作り足してゆくという「生活環境」そのものを生み出してこられたご両親である。彫刻家であるお父さんは”家”という生活住器”を、お母さんは”生活雑器”と”食物”をそれぞれが担当分担した生活環境で大事に育てられた。この彼が持ち得た”風土”としての”生まれと育ち”はこの世界の、この時代感では結構、大切な要因である。
 表層の豊かさすなわち、物質的豊かさの環境を持ち得た人たちがこの世界に入って来やすくなった時代性では、どこか人間個人の"癖”が必然な世界でもあるからだ。ある時代までは”逆境”という状況が一つのエネルギィイを生み出す環境状況であったが、現代の日本社会の日本的なる豊かさで生まれた”液化状況社会”では当然ながら”生まれと育ち”は大切である。
 例えば、戦後の”在日系”の人たちは自らの新たなその立ち居場所を彼らたちの”ガンバリ”で金と知名度によって求めた。最近では、”ふとん屋の息子”はアカデミーで、”ふとんカバー”をネタにし、”髪結い亭主”然とのらりくらりと虚言と金の力を必要として戯れている輩もいれば、新興宗教のお陰で育った人は新興宗教に委ねている。農民中産階級の出身者たちは何か在るモノがなければ生む出せない。また、職人の息子たちは職人的器用さと細やかさと頑固さを持っている。
これらはいい意味で日本人的なる精神癖であり強みであり、これらがその後のものつくりに大いなる影響をもたらす。よって、自分の”生まれと育ち”をよく吟味することも、自分世界を創造するためには大いなる根幹である。この育ちを偽って為されることのすべては”本物”ではないだろう。どこかで、自分ではないことをやっているという不安感が横切るがこれらが”ガンバリ”になっていることが実際であり、そのレベルが現実を生んでいる。
 「自由」とは身勝手なことをすることではなく、本来の「自由」とは”自心のこゝろの有り様”に正直に行為すること。なのであるからだ。例えば、ファッションを学んできた人たちが
「アート・コンプレックス症候群」に陥る原因はこの「自由」の根幹を理解しないまま成長した人種たちである。
 そこで彼らたちはつかないでいい”小さな嘘”をつき始める。だいたい「俗物」と言われてしまう人間タイプはこれが多い。彼らたち「俗物」がメディア受けするのが現代メディア社会である。彼らたちは構造という名の”セフティー・ネット”が張り巡らされた社会の中でうまく飼いならされて生きているためである。自分たちの”生まれと育ち”という「風土」を自覚していないであろうし、自認したくない人たちもいる。そのような世代人はもう古い人間タイプでしかない。現代社会では新たな若い人たちの間で”風土回帰”としての”ふるさと創生”が歌われ始めている。
 ”創造”するとは自分の好きな世界で、自分の”世界観”を生み出すことである。したがって、
このような時代では自らの「風土」である”生まれと育ち”である持ち得た自らの”アイデンティティ”そのものが大いなる武器にもなり得るということだ。
 巴里のモードの世界はこのようなそれぞれの”階級社会”との関係性から生まれた美意識と技量と教養が備わっていなければならない”職人”たちが築き上げてきた世界だった。が、この世界がそれぞれの「マーク・ブランド」さえ付いていればメディアが喜ぶという世界へ変革してしまったのが現代の巴里のモード社会の弱さであろう。

 話を、中里唯馬くんに戻そう。彼には、モードの世界ではない世界での”特技”がある。”ヨーヨー少年”だったのだ。この世界でチャンピオンにまでなった経験を持っている。これとは、「自分の好きな世界で、競い合ってそして、見られることの世界観を体験している」と僕流には翻訳できる。したがって、”見られる”ことがどのように人間の心にある種のエネルギィイを生み出すか、即ち「見られる快感」とはどのような根幹なのかをも知っている彼が今度は”見られる人”のために作り出す世界を選んだこと。
 それが、今の彼の収入源である「コスチューム」作りである。これを為すことでも学ぶべきことは学び、自分の世界観の中にひとつのスキルとしてまた、技術として受け入れている。「見られる」という場合の”立ち位置”や、「歌う」という時の”身振り”とは?
 ここにも前述の僕なりの簡略な「風土」論が存在してる。多くの日本人デザイナーたちはこの「見られる快感」を体験していないでただ、「自己顕示欲」のみでそれなりの格好付けをして粋がっている輩がほとんどである。自分たちのセンスの悪さや洗練さのない行動、「フェミニズム」も理解されていない男たち、など等、、、
 唯馬くんが出発した彼の「世界観」はこのように僕的な読み込みをすれば当然の立ち居場所であろう。1枚の塩ビシートから始まる彼の新しさとしての「without sewing」というコンセプトで生まれた”モード・クチュール”。今後の可能性は沢山詰まっている。自分たちが覚悟を持って、堂々と掘って行けば、多くの新しい鉱脈が発見される。この世界がこれからの「あたらしい自由」の世界の一つへ繋げるであろう。
 今回の作品を”フォーマット”化しそのバリエーションをより、新たな感覚でまとめあげて行けば、無数の彼の「風土」から生まれた世界の可能性と新しさが生まれる。また、もう一つの世界、”コピーライト”へも届くであろう。
 ”一つの物質”である素材に新たな加工を加え新しい顔つきにする。その”1枚”のシート状のモノを立体化する。そこへ無尽蔵なまでのカットワークを入れ込む。これを”3D”化する。それを一片のピースとして、レゴブロックのように人体に構築してゆく。バランスを考え動きを考えそして美しさを構築してゆく。
 これらの行程はまさに、これからの「オートクチュールの世界」そのものであろう。
日本に古くからある「折り紙」の世界や西洋の「ペーパークラフト」の世界の合体と、古いローテックな手法と、PCを使ってのハイテックな手法と、人間個人のパーソナルな感性と技術をはい・ブリットさせたところで生み出される彼の「あたらしい自由」による世界。
 創造の世界におけるこの「あたらしい自由」のための数式とは、「ヒューマン・テクノロジー+サイエンス・テクノロジー+パーソナル・エクスペリエンス」であろう。

 「現代社会における”鎧”や”甲冑”とは?その新たな優しい必然性とは?」ここに、今後のモードの新たな可能性が垣間見られる。たとえば、女性にとっての「コルセット」はその時代においては一つの”鎧”や”甲冑”であった。では、現代社会から俯瞰可能な未来社会における”鎧”や”甲冑”
とは??? 「身体に着せるとは、肉に着せるのか、骨で着るのか或いは、皮膚に着せるのか?
または、心に着せるのか?虚飾に着るのか?立場に着せるのか?」
 もう一度、モードも、”生まれと育ち”としての「風土」であるこの根幹を再考する時代性が「あらたな自由」への始まりのように感じる。
ここから、モードの面白さが再び始まる。
 消費社会での豊かになった生活のための”生活衣料品”はファスト・ファッションに委ねればいい。

 ありがとう、中里唯馬くん。
来シーズンも君の「あたらしい自由」の世界を見せてください。
文責/ひらかわたけじ:

投稿者 : editor | 2016年09月28日 17:22 | comment and transrate this entry (0)

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中里唯馬くんのクチュールの世界、 ”眼から鱗が落ちる 。”

『見えるものが実在するとは限らず、触れるものだけが実在する。』
大森荘蔵著/『流れとよどみ』より:
 
 先日のLEPLI-VACANT会で中里唯馬くんに参加していただき、彼の”あたらしい自由”による、彼が発表したクチュールの世界の誕生を語っていただき、僕は”眼から鱗が落ちる ”までのリアリティを味わった。「嬉しかった、ありがとう、唯馬くん。」

 「眼から鱗が落ちる 」とは新約聖書「使徒行伝」第9章からの引用のことわざである。
「何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになる」が意味である。最近のTVコマーシャルでも、このコピーはよく使われ始めているらしい。
 
 僕が今回の彼の作品の世界を彼自身から話を聞き、学ぶ機会を得たことで、”眼から鱗が落ちた” 一つは僕が3年ほど前に提案していた”僕自身のための『Without Sewing』”プロジェクト案とそのコンセプトが既に、”彼の新たな創造のための発想と努力と覚悟によって”見事に、美しくその世界を彼は創造してしまったという新しい出来事”の事実でであった。
 もう一つは、現実のファッションの世界が極論すれば、世界レベルで「日毎に、詰まらなくなってゆく」この現実に、彼が齎した”あたらしい自由”によってこれからもやってくるであろう
モードの世界が若い人たちによって再び、エモーショナル豊かな「美の創造」がこの世界で未だ、多くの”可能性があるという前向きな大いなる希望が与えられたことである。
 僕の長年の体験と経験から、このモードの世界は既に、”ユダヤ・コミュニティ”で構築され、ビジネス構造化されてしまっている世界である。したがって、日本人であれば、彼らたちユダヤ人との例えば、結婚やゲイ関係という手段を使って余程の強力な信頼か、金儲けにおいて関係性が確立されていなければそれなりのところで、それなりに扱われてしまう世界でしかない。
言い換えれば、日本人がいくら頑張ってもそれなりのところで”ウエイティング”が掛けられてしまうという現実であること。
 これはこのモードの世界における”創造性”においても然りである。
例えば、モードの素材の殆どは布であり皮革であり、縫製はミシンである以上はこの現在のある種の”ユダヤ・ルール”は不変であり、”世界基準”であることには変わりがない世界である。
 そこで、ではどのようなコンセプトと手段を持てば、彼らたちと一線を持って肩を比べまた、彼らたち以上に日本人としての特徴である細やかな美意識と表現手段が”ヒューマン・テクノロジー”と高度なる日本人の”サイエンス・テクノロジー”の合体によって創造され、それらをよりハイ・イメージングとスーパー・リアリティによって生み出される世界が可能であるか?ここで、日本の多くの若者たちは”大いなる勘違い”をその未熟な教養によって”アート”の世界へ逃げ足早く逃げ込むものが多いことである。特に、中途半端に海外の学校を卒業して、していないことをさも、出来るようにメディアにタレ込んだ帰国組の連中にこの現実が多い。ここでは、”アート”という詭弁を無教養に使ったもの勝ちという変わらぬ日本人村社会での現実であろう。
彼らたちは、”デザイン”とは?に対しての教養とスキルの根幹が教育されていなく心は”アーチストコンプレックス症候群”。”デザイン”の世界がなぜ、1919年に突然のように当時の社会へ登場したのかの意義もわからず。これは日本のデザイン教育の一端の表れと責任でもある。
 少し、話が逸れましたが、この問いへの僕なる回答が、「では、針と糸あるいは、ミシンを使わないで作る衣装」という”創造のための発想”が生まれた。ここでのモードに対するコンセプトは「着る」ことではなく、身に装うことである「身体装着」という発想である。
 そこで、日本の歴史を顧みると、「鎧と兜」の世界があり "experience・mode"の世界である。昔、アントワープ・アカデミィーの海外審査員をやっていた折に、いつも1年生の作品が新鮮で自由で楽しい世界を創造していたことも思い出した。その理由は彼らたち1年生の作品課題が"experience・mode"だったからであった。
 また、丁度この年より、日本にも”3D"プリンターが登場したこともこの僕の突飛な発想に
拍車をかけた。その結果が、この"Without sewing" というコンセプトになった。
 
 中里唯馬くんの話を聞く前までは、巴里のオートクチュールでわざわざ日本からショーを見せるためやって来た彼のコレクションを見る機会を持ったが、その体験では僕の評価は低かった。
 遠見で見せていた僕は暗闇から”輝く、蛍光&発光”体の塊が女性を装っているにしか見ることができなかった。このような塊だけであれば、もっと斬新な発想で使え見せることができるであろうとも考えた。この素材はどこかの日本の素材企業が考案した新しい技術によるもので、それを使っての世界観だろうという失礼な見方をしてしまっていた。結果、実に愚かで恐ろしい自己満足な見方であった。
 そして、今回の打ち合わせのため、彼のアトリエへ伺った時にその僕のうがった見方そのものが間違っていたことを思い知らされた。
 彼の今回の想い秘められた世界観の「コトの次第」は”1枚の塩ビ・シート”が発端であった。
 例えば、日本人は「神=紙」を上手に敬い扱って、関わってきた民族である。
ここには平面から立体へ変身する「かたち」の世界が存在した。今回の唯馬くんが想像した彼の世界観はここが根幹であろう。日本人がもつ単純で明快な原理構造を知っている若者が”あたらしい自由”によって為し得た、新らたな造形の感覚の素晴らしいさと頭の良さが生み出した世界感である。この彼の新しいものを創造する”覚悟と行為” これらに僕は見事に「眼から鱗が落ちた 」のである。
 素材としては、決して高価ではない、”塩ビ・シート”。これを、作業上における経済寸法を出してその寸法でシート化する。このシートに一定文様に近い切り込み線を入れてカッティングし、このカッティングの目を幾重にも織り込んでシートを”3-D"構造化してゆく。この作業によって、”1枚の塩ビ・シート”が小さなブロック上の立体ピースに加工される。すなわち、”レゴ・ブロック”の構造と同じ発想ともいえるであろう。この折り返しを”立体化”する時に小さな留め金具で一箇所づつこれも、手作業で止めてゆく。あとは、このブロックを人体に構成してゆく作業である。ここで”クチュリエ”本来の感覚と繊細さと持ち得たファッション・スキルとそれなる経験が必然となり、それを具現化してゆく”チーム”が必要でもある。ここが”農協デザイナー”や”壁紙デザイナー”たちとの歴然とした「差異」を彼は持ち得ていたのである。(後半は後日、)

投稿者 : editor | 2016年09月27日 17:35 | comment and transrate this entry (0)

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『ファッションがつまらないくなったという声がよく聞かれます。』

 「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”というリアリティ」 
ブルータス依頼原稿初版版より/平成28年八月記:

 『ファッションがつまらないくなったという声がよく聞かれます。』
 そうですね、つまらなくなったというよりも、魅力が無くなった或いは、面白く無くなリ、
ファッションが醸し出すキラキラしたときめきが日本の現代社会には必要とされていない
のかもしれません。
 嘗ての”原宿”で、風変わりな目立った格好をした「ファッション出たがり」や、たまに乗る
電車の中にも、もう「ファッション・バカ」は居なくなり寂しくなりましたね。
 そんなにファッションがダサくなってしまったのでしょうか?
或いは、世代が変わったことによって消費者の願望が変化してしまったのでしょうか?
或いは、現代社会ではファッションでカッコつけなくっても女の子にモテる時代になったので
しょうか?又は、 世間から”はみ出したい”からファッション・バカになるのが手取り早かった
そんな時代が終わってしまったのでしょうか?
 
 このファッションの世界とは”作り手”と”売り手”そして、”買い手”とその人たちの”世間”と
”時代”で成り立っています。この何れかがズレ始め、これらのバランスが崩れてしまったから
でしょうか?
 そうです。僕流に言ってしまえば、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた」のが
原因だと思っています。これは”ケイタイ以後”の現象ですね。
豊かさを持ち得た20世紀の人間が「あり得るべきはずの、”距離”の短縮化=文明の進歩
・発展」という命題にのめり込み過ぎた世紀の終焉、「距離の消滅」の完了によって齎された
「時間のパラドックス」が根幹でしょう。
 以後、”時間”はだんだんスローになっていきましたね。この当りの面白さは、
2000年にR.パワーズが書いた小説、「舞踏会へ向かう三人の農夫」(みすず書店刊)は
かつての山本耀司によって、彼のメンズファッションのネタ元にされたA.ザンダーを
主人公にして描かれれいるので余計に面白い小説でしたね。
 
 この”距離感”は”作り手”であるデザイナーにもそして、”売り手”であるディストリビューター
にもそして、”買い手”という消費者たちにも在ったはずのそれなりの”距離”が
無くなってしまったからです。
 当然、彼らたちが生活している”世間”にもその「あり得るべきはずの、”距離感”」は
無くなってしまっていますね。でも、”世間”ではこのような社会が望まれ、このような社会を
目指してきたのが戦後71年の目標だったのではないのでしょうか?
 これが時代や社会が”豊かに”なったということなのでしょう。或いは、”豊かに”なったから
このようなフラットでリキッド化した”世間”になったのかもしれません。戦後の日本社会は
合衆国によって「押しつけられた或いは、飼いならされた”普遍性”」によっていわゆる、安心、安全、快適という”セフティーネット”が見事に張り巡らされてしまった”世間”が成立しいます。
 敗戦後、解体された”日本の階級社会”はその後、倫理観無き輩たちによって「大衆消費社会」が構造化され、”消費者”と呼ばれる人たちもこの与えられたセフティネットの中で何を選ぶかの”自由”に戯れているだけの差異無き現状というリアリティですね。従って、ファッションと
その機能である装うこともこの管理社会の中で普遍性を持ってしまいました。
 この一因はファッション産業そのものが変革し、世界規模の大衆消費社会を対象とした
「SPA方式」による”ファースト・ファッション”が誕生し、これが予想外に”世間”に受け入れられたことですね。
 ここでのキーワードは”トレンド”は無くならずより、フラットな「世界水準」になって
しまったということです。また、人間の身体構造が不変故、ファッションデザインそのものも
100年以上を継続して来て、”作り手”は全く新しい創造性が生み出しにくくなったこと、
その必然性もなくなったこと。何よりも、作り手が持つべき”自由”に「あり得るべきはずの、
”距離感”が無くなり始め」どこかで見たもの、誰かが持っているものの方が”売れる”という、
”Variations of the Archives"の世界に佇み、”模倣”が”習慣”を生み出すというベタな、
G.タルドが既に、1890年に「模倣の法則」で指摘した時代性に至ってしまったことは
興味深いですね、ここにも”メビウスの輪”が見える世界観です。
 生活が”豊か”になるということは、その生活における価値観が変わりました。
例えば、ファッションという言葉の意味合いもその広がりや機能さえも、豊かさを享受してからは服だけの世界ではなく生活様式そのものへ広がりましたね。従って、服で装うだけでなく、
生活環境を装うという余裕も生まれたのでしょう。また、”豊かさ”ゆえに方法論としての術は
何でも有りの世界になってしまいました。ここには”作り手”と”買い手”にも、あり得るべき
はずの、感覚的な”距離感”も無くなってしまいましたね。
 従って、資金さえ十分にあれば、誰でもがそれなりの「壁紙デザイナー」に成れる、何でも
可能な時代性になってしまったことも”距離感”がなくなった一因です。
 かつて、オタクと呼ばれた”豊かなる難民”だった世代が今では社会の中枢へそして、まだこの
世代の一部は”自己顕示欲”が旺盛であった世代ですが、その後の世代は”豊かさ”の充足に伴い、性欲と同じなのでしょうか、”自己顕示欲”も減退し彼らたちは「自己確認世代」ですね。
従って、”繋がる”ことも踏まえた自己確認をSNSやインスタを駆使してヴァーチャルな上での
「ウオリー君を探せ」に勤しんでいます。ですから、彼らたちの足元のシューズを見れば
どれだけファッション・トレンドを潜在的に意識しているかの閃きが伺えますが、ここにも、「あり得るべきはずの、”距離感”」を寧ろ、無くするベクトルでその”世間”という塊に委ねた
生活者となっています。従って、彼ら世代にとってのファッションは彼らたちのそれぞれの
”塊”における”ユニフォーム”的発想のものでしかなくなったのでしょう。
 このような典型的な保守の進展という時代の追い風に立ち向かって行くにはそれ相当の
”覚悟”がいりますね。かつての、僕たちの時代には自分たちの持ち得たリアリティから
”はみ出す”すなわち”距離感”を持つ或いは、”ズレる”ために”覚悟”して生み出したものが
「カウンターカルチュアー」でした。
 このビートニック&ヒッピィー文化と称されたものが現在でも尚、使い古されています。
その検証的展覧会が今、巴里のポンピドゥー美術館でタイミングよく開催されています。(BEAT GENERATION展)
 そして、現在ではこのビート&ヒッピィー文化を生み出した”コミューン”形態が”野外フェス”で模倣、継続されそれが日常生活の新たな習慣になろうとさえしていますね。ここには、
その表層は同じようですが、”ドロップ・アウト”し、”距離感”を持つことで既存社会にアンチ
テーゼを示すことを生んだ「カウンターカルチャー」と、時代のトレンドとしての”スロー・
ライフ・スタイリング”という”距離感”無き根幹とに、その覚悟の相違が読めるのです。
 今の若者たちにとっての「カウンターカルチャー」とは何なのでしょうか?
”ストリート=パンク”というのももう古いでしょう。音楽がまた80年代初めのラップが流行り始めたことからそろそろ、グラフィティも出てくる兆しを感じるのですが。
 そして、やはり時代の風に立ち向かって行くには個人が持ち得た「文化度」が必然となるでしょう。
 日本からの若い「壁紙デザイナー」たちが巴里へやってきましたが、彼らたちの世界には
「情報のザッピング」と「見せかけのリアリティ」がちらつくだけでその奥に在るべきものが
見えないものがほとんどでしたね。この在るべきものとは、デザイナーというよりも、人間個人が持っているべき「文化度」ですね。それにブランドが持っている「文化力」さえも”壁紙
程度”、これではCdG HPとは勝負ができませんね。
 悔しいですが、このCdGという企業にはこの「文化度」があり、常に意識したファッションの
世界観を結果、その特異性を持って構築している、未だに「距離感」がある企業であり、
ブランドであり、デザイナーなのです。彼らはこの「文化度」を生み出すための「文化力」を
日頃から精進して「文化度」をどのようにセンスよく、その時代性に差異化し発表出来るか?
そのための企業力も凄い、その結果でしょう。

 最後に、僕が言いたかったのは、この時代の追い風に向かい合うためにはそれ相当の”覚悟”が必要であることと、そのための特異性を取り戻すには、「文化力」豊かな、「文化度」が
必要であり、その文化力が現代のファッションにおける新たな”機能”となり、”自由”を生み出し
その”自由さ”が新しさを感じさせるまでの世界を、そのブランド”らしさ”という言葉で
見せてくれる、ということです。
 僕がこの30年間、巴里で好きなファッションを見続けてきた愉しさと気概とは、
彼らたちが散らつかせる文化力に痺れ、「文化度」に喜びと感動を感じて来たからです。
この「文化度」は一夜漬けでは生まれないものです。日頃の教養と経験と持ち得た謙虚なる
リアリティと人間的なる倫理観から生まれ得る例えば、”メタファー””レトリック”
”アイロニィー”"アレゴリィー””ペーソス””ユーモア””メチサージュ”
そして、”エステティック”と”エキゾチズム”などなど、のものですね。
 これらは「壁紙デザイナー」には無縁なもの、だから彼らたちは”アート”をカッコ良いと
嘘ぶってしまうのでしょう。彼らたちが立っていたい場所とは、「消費文化」の情報量だけが
拠り所での立ち居場所でしかないようですね。
 だから、『ファッションがつまらないくなった。』とは、”あたらしい自由”を感じさせない
デザイナーたちの「文化度」の貧しさそのもので、自分善がりもいいところでしかないのです。 そこで結論的には、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”という
リアリティ」へ新たなバランス感覚ーまさに”NEW BALANCE”ですね、ここでも消費財が
その新たなバランス感よりも先に、リアリティを生み出してしまった消費文化しか生まれない
東京、、、、だから、「あたらしい自由が見つけ出せない壁紙デザイナー」と「あたらしい自由を必要としない消費者」という”世間”とそれらを煽るメディアが我が物顔になってしまった
ことが元凶の日本のメンズ・ファッションの世界でしょう。
 巴里まで行って「壁紙デザイナー」の世界を見ることは僕にとってはただの”ノイズ”でしかありませんね。

 現代日本の社会には、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”という
リアリティ」のみが漂っているだけなのでしょう。
 ファッションの世界も"あたらしい自由”によって、新たな立ち居場所を教養と経験と勘と
そして、文化度によってまず、次なる時代を見つけるべきであり、そのための歴史を知り、
明日を夢見るアドベンチュアーヘ覚悟ある始まりを探さなければならないでしょう。
 
 何故ならば、もうすでに「近代」はル・コルビジュェが”世界遺産”になってしまっている
からだ。
文責/平川武治:

参考/
G.タルドの*「模倣の法則」/河出出版新社刊、2007年初版:

                                     

 

投稿者 : editor | 2016年09月02日 15:32 | comment and transrate this entry (0)

greeting(38)

おしらせ ”VACANT- Le Pli会 ”残暑の宴”

VACANT- Le Pli会 ”残暑の宴。”

三伏の候のごあいさつ。
みなさま、お元気で今年の酷暑を
お愉しみになりましたでしょうか?
既に、半年はご無沙汰をしてしまっていた、
この原宿VACANTでのLe Pli会を開催させていただきます。

僕はと申しますと、
初夏の宵に慌てふためいた結果、
路上で膝の皿を割ってしまうという久し振りに、
僕にはちょっとした出来事がありました。
お陰で、暫くは動きも取れずその後も、杖に厄介になる日々を
2ヶ月半ほど過ごしておりました。
が、今ではたくさんのお気遣いで回復へ、
そして、
巴里からも帰国し再び、鎌倉で潜む生活を営んでおります。

今回の会では
僕の近況とそこから色々考えていたことをやはり、
”モード”の立ち居場所からこれだけはお話をした方が良いだろうと言う事のいろいろ、
そして、みなさまからのご質問とともに
この残暑を忘れる迄の豊饒な時間をと考えております。
よろしく、ご期待ください。

今回のコンテンツは
マタイ伝から、「あたらしい酒は、あたらしい革袋に」
そして、「あたらしい自由」です。
僕たちは「近代」の次なるを考える時代性が来てしまっています。
何故ならば、ル・コルビジュェがもう、既に、”世界遺産”になってしまったからです。
 
原宿VACANT-Le Pli会のごあんない。
開催日時;九月二日午後七時より。(会場は六時半~)
会費;一般/¥二千円、学生/¥千七百円。
休憩時にお茶とお菓子をご用意します。

ゲスト;中里唯馬氏;
先シーズンの巴里のHaute Couture Weekにてコレクション発表.

予約|info@takashiogami.com
*件名を「Le Pli」とし、お名前・人数・ご連絡先を明記の上、
上記のアドレスまでメールをお送りください。

相安相忘。
平川武治

投稿者 : editor | 2016年08月26日 10:04 | comment and transrate this entry (0)