discipline(1)
web site "Discipline" is
whims article,
greeting and
"Le Pli" info by spectator's Take.
communicate address>>>
lepli@net2.kddi.fr
投稿者 : take.Hirakawa | 2002年10月16日 23:04 |
whims article,
greeting and
"Le Pli" info by spectator's Take.
communicate address>>>
lepli@net2.kddi.fr
投稿者 : take.Hirakawa | 2002年10月16日 23:04 |
web site "Le Pli" is information and archives of guerrilla report Le Pli on TOKYO collection.
みなさま
「早、初夏の機材の太陽が顔を見せ始めるこの頃ですが、
みなさまがたに置きましては、如何、『新しい春』をお過ごしですか?
久しぶりで、『DESCIPLINE会』を開催いたします。
今回は日本サプリメント協会のご協力もいただき、サプリメント協会代表理事の後藤様との対談形式で『着るサプリメント』なんてしゃれたタイトルで、それぞれが今なさっていること、考えていることを話し合ううちにこれからの『着る』事や『いらないものはいらない生活』をすることの大事さが何かを感じあえれば、共有しあえれば、しあわせなDESCIPLINE会に、楽しい対話になると思っております。
どうか、久しぶりでこのでDESCIPLINE会へご参加くだされば、幸せです。 」
平川武治
====================================
日時:4月26日(日)
開場 13:00
スタート 13:30
終了 16:00頃(途中休憩あり)
会場:サプリメント・ギャラリー Voix(ヴォア)
〒150-0001
渋谷区神宮前5-47-12 パインビレッジアネックス1F
TEL:03-6666-2202
※以前記載した会場住所が間違っておりました、申し訳ありません。
改め上記住所をご確認の上、ご来場ください。
地図URL:http://www.j-sup.com/voix/annai/
参加費:一般2000円/学生1000円 (当日会場にて)
サプリメントのおまけ付き
対談:後藤典子 様(ジャーナリスト、NPO日本サプリメント協会理事長)
後藤典子様プロフィール:
同志社大学文学部を卒業後、編集プロダクションを経て、ジャーナリストに。
おもに政治・経済評論をテーマにした取材、執筆を主軸としてきたが、サプリメントの取材をきっかけに、市場の歪んだ情報の蔓延に義憤を感じ、生活者のための公正中立な情報の必要性を痛感して、2001年6月、NPO(特定非営利活動法人)日本サプリメント協会を発足、情報機関として活動を始める。
マスメディアにおいて企画・執筆・意見発表を行うとともに、生活者や企業に向けての演活動を通じて、ヘルス・プロモーションの啓発に努めている。他方、サプリメント指導士の養成、健康相談、専門家のネットワーク構築、サプリメント商品の評価などの市場育成活動を推進している。
2008年7月には「生活者の気づき」と「行動につながる情報提供」を掲げて、NPOが運営する「サプリメント・ギャラリーVoix(ヴォア)」を東京・青山に開設。またここを拠点に、食の推進プロジェクトとして「青山朝市」(毎土曜日に開催)や「革命ランチ」を実験的に展開している。産地取材による食の安全情報、生産者と利用者の情報交流なども行っている。
協力:NPO法人日本サプリメント協会 http://www.j-sup.com/
お問合わせ/discipline_press@yahoo.co.jp (会用暫定アドレス)
090-6470-9759(永井)
※参加への予約はございませんが、会場収容人数などの都合、
ご参加頂ける場合は、前もってメールにて人数をお知らせ頂ければ幸いです。
※席は自由とさせて頂き、当日ご来場頂いた順番でご案内致します。
みなさまのご来場を心よりお待ちしております。
投稿者 : editor | 2009年04月11日 09:09 |
あけましておめでとうございます。
『 美はすでに精神である。ものの命を求道するという上で、美観はまた道徳でもある。贅沢という富の誇示ではない、つつましく敬虔な奉仕である。美、精神、それは道、道徳への謙虚な奉仕である。 』
『美術は大抵の時に、くらしの飾りものの一つである。しかしわが国のくらしでは、くらし自身が美しかったので、応接室に富を誇示するための美術品の展示は許されなかった。 千利休といふ人が、若干さういふ法式をつくったが、その精神には依然として、虚飾を否定する見識があった。』 保田與重郎著『日本の美術史』より:
「 みなさま、昨年もいっぱいの感謝 ありがとうございました。
あらたへの 自由性を信じたい今年、
大切な関係性に真こころある1年でありますように。
私の自由とは 人間のカオスの揺らぎ。 」
あなたは自分が生まれた国を深く、静けさの内なるへ想いを込めたことがありますか?
謙虚、誠実、爽やかと感謝。』
平川武治 / 平成二十一年正月元日。
鎌倉市西御門1丁目16番地8号:
投稿者 : take.Hirakawa | 2009年01月01日 01:49 | comment and transrate this entry (1)
ご無沙汰しております。金久保健です。ディシプリン会、とても興味があります。今は鎌倉にお住まいなのですね。その後、何の連絡もしなく申し訳なく思っております。私は、時代に翻弄されまくっており、自らのスタンスを見失ってしばらくがたちます。本質的な仕事を志向すればするほど、時代とのずれ感が生じてしまい、孤立感を感じるばかりです。よろしければディシプリン会にお誘いください。平川さんとお会いすることで自らのスタンスが確認(よくも悪くも)できるような気がしております。
よろしくお願い申し上げます。
投稿者 : 金久保健 : 2009年04月06日 20:23
いらないものは捨てましょう。
学べるときは学びましょう。
学んだことを携えて
勇気ある、責任を伴った
愛溢れる経験を
堂々とやってゆきましょう。
自分らしい自由な眼差しで
もう少し上を、遠くを、深くを
ある時は広く、高く俯瞰しながら
自由な心と
豊かな精神を養って。
自分たちだけのことを考え過ぎないで
人のこと
社会のこと
そして、国のことを想い合いませんか?
想いあう、こころある
大切な関係性を
より良い方向へ継続してゆきませんか?
そのためにも、
『政治』に関心を持ちませんか?
謙虚で思いやる心を忘れないために、
『信仰心』に心を向けませんか?
『あるべき道』に関心を。
みなさんのそれぞれの立場で
少しでも
自分の国を
家族のための国を
日本人のための国を
世界のための日本を
思う、想い愛が出来る心で
『関心』を持ってくださいませんか?
確実に時代は、
ここに来て悲しい変貌の兆しを多く、語り始めました。
YSLの、彼の死もその一つでしょうが、
僕たちの国では
いま、
奇妙で恐ろしいことが
たくさん起こり始めています。
それらが表層化し始めています。
人間が
人間をいとも簡単に殺す。
死体を放置、隠蔽そして、切り刻むまで
人のお金を、国のお金を
平気で無断、不誠実に使う。
豊かで恵まれた、幸せそうな
『消費文化社会』という名の元に、
その表層の
『虚飾な』薄皮を
勇気を出して1枚めくってみると、
子供たちが息苦しくなり、
少年たちが既に閉塞感を持ち、
成年たちが社会への着地に戸惑いと不安を体験し、
大人たちは社会への不誠実さを生きる術とし
国を想い愛する心を見失い
人間が人間を慈しむ心さへも既に何処かへ、
置き忘れ
生きてゆくための『義務と責任』の所在が
虚飾に惑わされて喪失。
『楽だ!』という
水が高い所から低いほうへ流れる様に、
例えば、
「自分たちの家族には嘘をつかないが
社会では嘘をついて生きる」
何かを忘れて、捨ててたどり着く『小市民』的
お手軽ヒューマニズムの蔓延。
誰を想い、慕って
何を信じ、求めてよいか
迷ってしまっています。
頼れる社会、想える国が
今、ありません。
混沌としてしまっています。
自分独りでは
生きてゆけないのが人間です。
僕たちは、
新たに来たる未来という時間をどのように、
幸せに、実りある豊かな
そして、より、人間のがんばりとともに
歴史からその輝きを学び、贅沢な時間へ、
僕たちが持ちえた『関係性』が大切であれば、
その大切な『関係性』を豊かに謙虚に継続させてゆくための、
『CARE』がより、今後は必要になってゆくでしょう。
思いあう心と
想うことによって必要になる責任と勇気が。
そのためのオープンな心と精神と知恵が
そこに始めて
『自由』が芽生え始めます。
ただ、現在の僕たちの国、『日本』を、
その現実に起こっていることの
表層と深層を少し、思慮深く、『CAREFULに』見つめると
僕は恐ろしさを感じ始めました。
余りにも、無意味な、無教養な羞恥心なき表層は
ハリボテ世界の、『虚飾の上塗り』社会。
今の日本が日本人として、
その与えられ預けられた2000年以上の美意識と時間観を持って、
世界に誇れるものがどれ位あるのでしょうか?
心あるものがどれだけ残り
受け継がれているでしょうか?
日本人としての僕たちの祖先が
継続してきたはずの『形態言語』が、
言霊が、
精神性の内なるところで健全に、居心地良く
明快に発する事が、
そんな気概が残っているでしょうか?
そのための気骨があるでしょうか?
そのための大儀が探せるでしょうか?
戦後に育ち
勤勉さとまじめさでその『前後』を想い考え始める余裕さを
持った僕たちは、
この40年間で
完全に何かが 『去勢』されてしまった。
美しさや勇気を愛として
いっぱい持っていた筈の日本人の伸びやかな自由なこころは?
僕たちの国の若者たちは
戦後の、アメリカの政治経済軍事戦略によって
完全に『インポテンツ』にされてしまったとお感じになりませんか?
かつて、『ノン・ポリ』(ノンポリシー)と称されていた人々が築いた国とは
望んだ国とは
このようなものなのでしょうか?
僕たちの国には『国体』があるのでしょうか?
誰が僕たちの『国体』を考えているのでしょうか?
戦前には日本人が想い考えた『国体』がありました。
それを考えていた人たちがいました。
今、誰にこのことを尋ねればいいのでしょうか?
『消費文化』とは
最近のように
人間の命そのものを粗末にしてしまえるまでのことを言うのでしょうか?
不必要なものばかりが表層を埋め尽くし、
モノの値段ばかりが上がり、
人間の命の価値は下がるばかりではないでしょうか?
『メディアの役割』として
これからの僕たちの国、
日本の『国体』を考えるための
新たな価値観が、美意識が、
勇気と気骨ある心と謙虚さの調和で
深層部から
世代を超えて、リニューアルしなければ
たいへんな時代へ向かってしまうでしょう。
だから、し始めなければなりません。
今以上に
例えば、『国体・リニューアル革新化』には
大切な機構であり、機能です。
例えば、
こんなシナリオが想像出来ます。
問題の憲法第9条は
日本国憲法の全面改正という戦略的フレームの中で
部分改定がなされ
防衛庁が防衛省になってしまった後は
自衛隊が日本国の軍隊になり、徴兵制度も始まる。
これらは僕たちの国が持つべき目的もビジョン無く、
決断危うく、明晰にせぬままに
現代の世界状況の中では
憲法改正も別におかしくはないかもしれません.
ただ、アメリカの軍事産業の復興化即ち、アメリカの国体維持化ため
新たな、古ぼけてしまった『新・東西冷戦均衡化』のための国連機能に、
NATO軍的発想なる『北東アジア共産軍』の防衛に向けて、
この変わらぬシナリオにしがみつくしかない
現状の日本とは ?
その結果が、
いつの間にか『軍隊』が制度化され
その先には『徴兵』制度が待ち受けて、
2013年ごろまでには現実になるでしょう。
いとも簡単にその目的や本意や気概さえも
明確に、明晰にされないままに
ただ、ただ表層のみの行動で
軽薄な気概無き、気骨無き『右化』へ向かう若者の姿も想像がつきます。
戦前には戻れません。
が、その時代の人たちには考えられ、求めた『国体』がありました。
そして、戦後がどのように戦勝国アメリカによって
『歴史』が捏造されてしまったかを
僕たちは知る必要が、責任があるはずです。
なぜ、『大東亜戦争』が『太平洋戦争』になってしまったのかを、
だから、し始めなければなりません。
考えなければなりません。
対話しなければなりません。
若者が病んでいます。
もう、『豊かなる難民』が生まれない社会を、
世界を考えませんか?
必要の無いものが巷に溢れ過ぎています。
人間が人間らしく生きてゆくためには
そんなに多くのものは必要ありません。
それに気づく為の
知恵であり、
教養であり、知識でありメディアであるはずです。
今の僕たちの社会は‘68年からの数年間に
勇気を持った、早熟な
若者たちが苦悩し、希望した
ラジカルな芽生えの多くの諸問題のルーツが
40年経った現在
世代を経て表層化し、社会化された時代です。
成熟したはずの社会が
静かに、大きく深く
歪みを見せ始めてきました。
かつて、『未来』に心を委ねた
例えば、『ヒッピー』たちは
『共生』を関係性のユートピアとしました。
この精神に共鳴し、共感し、共有しあう先に
ユートピアが輝いていると
『OZの魔法使い』宜しく。
それが、気がつけば
その後の40年の生き方でした。
新たな国を慈しむ、想う心が必要です。
例えば、
大川周明が、小林秀雄が、三島由紀夫が、
多くの有名、無名な人たちが、
イデオロギィーに振り回されないところで
これからの『国体』を想い巡らしていました。
かつての、彼らたちのように
想い、発言し、対話して行かなければ、
行為しなければ
無恥な人たちの群集化によって、
この国はぼろぼろの国に、
世界の中では
ただ、『パシラサレル国』 日本になってしまいます。
若者たちは
自分の国、『日本』が
これから10年先、20年先がどのような国に
世界の中でどのような役割を気概として持つべき
国になってゆくのかさえも、
責任ある発言の皆無な状況の中で
本心、子供を生むことさえ
そして、
『夢』を持つことさえ躊躇してしまう
若者たちが増えています。
病んでいます。
迷っています。
『豊かなる難民』を
救うためには
これ以上増やさないためにも
僕たちの国、日本の『国体』を考え、掲げましょう。
僕たちの言霊で、
堂々と、気骨ある心と気概を持って
いい呼吸をしてゆけるように。
気概ある夢を
愛とともに持ち続けましょう。
そのためには、
いらないものは捨てましょう。
自分らしい自由な眼差しで
自分たちだけのことを考え過ぎないで
想いあう、こころある
大切な関係性を
より良い方向へ継続してゆきませんか?
そうしたら
何かが見えてくるはずです。
そうしたら
何が大切か、が感じられるはずです。
そして
対話しませんか?
そうして、
行動してくださいませんか?
何か、『発端』を
創ってゆきましょう。
僕も迷ってしまっています。
もうそろそろ、
好き/嫌い、カワイイだけの世界から卒業して、
ウザッタイかもしれませんが。
どうしたらよいかを教えてください。
そのための対話をしませんか?
時間はいっぱいあります。
急ぎすぎないで
『日本』という大事な現実を、
見失わないために。
「お願いします。」
ここまで、読んでくださったあなたの勇気と優しさに感謝!!!
ありがとう。
『モードの話』が語り辛くなってしまったのです。
文責/平川武治:
(注)『国体』;国のあるべき姿、かたちだと思っています。
広辞苑では、国家の状態、くにがら、くにぶり、
国家の体面、国の体裁、
主権または統治権の所在により区別した国家体制。
大川周明/岩波選書刊/『大川周明』松本健一著)
小林秀雄、三島由紀夫/多数の著書が、
YouTube/三島由紀夫インタヴュー
とても戦後の日本が良くわかる本に、
『日本国憲法の200日』 半籐一利著/文芸文庫刊 があります。
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年06月18日 13:26 | comment and transrate this entry (3)
いつにも増してすばらしい、ブログ以上の言葉ですね。
僕は今32歳ですが、やはりファッションやストリートが好きな友人たちも、今政治と日本と今後の未来についてのほうが興味があるようで(25~35くらいの若者というには少し歳をとっていますか)、その思想に基づいた新しい(今、戦後としての)価値観という物を探しているように感じます。
コンビニエンスストア、ケンタッキー、マック、ディズニーランド、インチキなファッション、等等、みなそれぞれですが、捨てようとしている物は確実にあるようです。
私自身も右でも左でもない1人のクリエイター(と自負はしております)ですが、先日自動車を捨てました(笑)
ファストフードにもディズニーにも行きません。
しかし毎日のようにコンビニエンスストアに行ってしまいます。
今の目標は、日本人らしい食生活です。
徒歩と自転車でいきていくことです(自転車のトリックがうまくなってしまいました)。
そしてそこから生まれるクリエイションを楽しもうと考えております。
TAKEさんは前にインタビューで「まだやることがある。」とおっしゃっていました。
TAKEさんは僕が知る大人の中でもっともかっこいい日本人の1人です。
TAKEISMを少なからず継ぐ若者が必ずいます。
僕たちは今日もエコ(CMなどで言うところの)なんかより日本の未来ことを考えています。
投稿者 : 高橋誠太郎 : 2008年06月18日 17:47
これだけのモノが市場に溢れ、またさらにその数も「無限」に増殖するばかりですが、今この世に、それを惜しみなく手に入れられる人はどのくらいいるのでしょう。
時間は、富める者も貧しい者にも、みな平等に与えられているといいます。どれだけ大金をはたいても、1日は24時間だけ。これ以上引き伸ばすことも、縮めることもできません。
時間の使い方を考えはじめると、自分の人生そのものに関わるすべて、自分と世界のつながりかたを考え直すことに行き着きつくと思います。誰と、何を、どこで、どういうふうにするか。一日(一生)の終わりに、安心して眠りにつけるには、どうしたらいいのか。
モードの業界は、ある程度人を忙しく保ってくれます。6ヶ月という単位でアイデアを発案し、それを具体化し、ショーでお披露目、広告を作って、注文をとって生産にかける。そしてまた次シーズンのアイデアの構想を始める。なんとも目まぐるしく、この一連の作業にかかわる人々の数も膨大。それがけっこう楽しかったりします。この6ヶ月のサイクルの刺激的なお祭で、クルクルと楽しく、行き場も考えることなくその華やかなイメージと一体になり、踊りつづけることも可能です。
モードの権威的な企業は、この大恐慌の時代に利益を生み出し続けている。
「ただ、それをまわし続けていくために」、自意識なく自分も回っていくのでしょうか。祭に酔いしれ、知らぬ間に意識を失うのでしょうか。
シラフに戻って、周囲を、自分を見直す意思は、持てるのでしょうか。
投稿者 : 田村有紀 : 2008年06月27日 17:58
僕らは僕らの社会が間違っている事を意識的にしろ無意識的にしろ知っています。
それは表面的には環境問題や、頻繁に起こる加害者にも被害者にとっても悲惨な事件や、社会の影に生きる人たちの生活や、お互いを怖がり合う都市の生活に感じます。
また、僕らの生活を支配する静かな虚無感と不感症の雰囲気に感じます。
今一番恐ろしいのは”麻痺”です。感覚からも他人からも僕ら自身が離れて行き、鏡越しのように他人と自分の生活を見てしまう事です。そして全てが嘘に感じられていく事です。
でもこの生活の現状が一番楽だという事と、他の選択を知らないという理由で、僕らの多くはこの社会が間違っていることを分かっていながらこの社会に生きています。
だから自分達と社会に対するニヒリズムと冷笑と怠惰と”情熱的な肯定”の否定とが僕らの誠実さなんです。僕らは生きずに自分達を蔑みながら、ただ何かが起こるのを期待と怠惰の内にまっている気がします。
情熱や希望を恥ずかしげもなく持つ事に憧れるけど、どうやったら良いか今はまだ分かりません。でも答えはあると思いますし、そしてそれは平川さんの言うように”日本のアイデンティー”と関係があるんだろうと感じます。
投稿者 : Yuichi : 2008年08月03日 15:03
『 イヴサンローランが亡くなられた。
ついに、イヴサンローランも亡くなった。
ご冥福をお祈りいたします。
永い間、ご苦労様でした。
巴里の“エレガンス”を
僕のようなものに
教えてくださったのはあなたでした。
ありがとうございました。
燦然と、
その輝きが一等星の如きの輝きも遂には朽ちてしまった。
残されたものの使命の一つは
自らの醜さを曝け出すこと。 』
彼も、早熟であった。
その美しすぎる早熟さで
このモードの世界を駆け抜けた。
逃げ足の速かった彼も
駆け抜けようとしたが、
後年
彼の美しい、しなやかなかでか細いその足は
もたついた。
其の時は、
もう、既に彼が駆け抜けてきたグランドの土ではなくなっていた。
僕はどうしてもK.Lを好きになれない。
好みの問題だけではないらしかった。
いつも、イブサンローランと比べていたからであった。
ベルナール・ビュッフェに失恋をしたP.ベルジェが
どうして
こんな繊細で美形の若者をすぐに捜し得たのだろうか?
ある本を読んだ。
J.コクトーが
当時、逗留していた南仏の銀行家の別荘に
それまでは、
ベルナール・ビュッフェを伴って訪れていた彼、P.ベルジェが
新しい彼、『若く美しすぎる青年』を伴って来たと言う。
僕はP.ベルジェの審美眼を信じる。
そして、僕はどうしてもK.Lを好きになれない。
ただ、あまりにも、違いすぎる。
第2次世界戦争が終わってほっとした
50年代も半ば、
この美しすぎる才能を秘め込んだ青年は
都に現れた。
『美』と『自由』を『才能』で突き刺す
早熟性を持ち備えて
三人の、出会うべき男に出会った。
Michel de Brunoff, Christian Diorその後、Pierre Berge。
‘68MAY。
この街にも
革新な、大きな波のうねりが起こった。
40年前の、その出来事が
今のパリの、フランスの新しさの全てへ通じている。
決して、政治的なる事象だけではなかった
男と女の関係性も、
女性の生き方、社会とのかかわり方も、
生活様式も、モラルも
そして、モードの世界も。
「Yves Saint-Laurent Rive Gauche」は
この兆しを読み取った2年前に
左岸で誕生。
’68MAYのうねりに捻じ込まれ
カルチュアームーブメントへ、
この街のモードの世界が
囲われた階級者たちから解放され
新たに、『プレタポルテ』が生まれる。
「Yves Saint-Laurent Rive Gauche」は
この新たな時代性を切り開らく。
今、多くのこの街の書店には
『‘68MAY』の本が並ぶ。
N.サルコジも元闘士だった
40年前を省みる時間の年。
そんな時に
彼は去った。
もう、戻って来ない
逃げ足速く、走り抜けるはずだった
早熟な、美意識豊かな少年は
何処かで、
自分が奔り抜くべき道が違ってしまったことに勘付き
居心地の悪さを知ってしまった。
ゆっくり、
おやすみください。
おもうぞんぶんにおねむりください。
そうじゅくであったころを
ゆっくり
ねむるじかんもなかった
あのときの
たいようのかがやきをおもいだして
ゆっくりと
おねむりください。
このまちは
ぼくに『エレガンス』をおしえてくれた。
あなたは
そのかおりを
かぐわせてくださったおかたでした。
ご冥福を深く、かさねがさね。
『 Going on means going far. Going far means returning. 』
平川武治:2008年06月02日夜更けに:
追伸;
終わった。
確実に、
一つの時代が終わった。
そして、
確実に時代は変わった。
あの時、彼がこの街に現れなかったら
この街のモードの世界も
閉塞感のみが蔓延した遅れた世界。
プレタポルテも誕生が遅れただろう。
はやく、
新たな価値観を
このモードの世界の新たなる価値観を見つけなければ、
どこかに、
早熟で
美しく、
逃げ足の速い
時代のアイコンに
辿れ着くことまでが出来る
赤子が生まれたに違いない。
星が流れる。
武治著/
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年06月03日 15:25 | comment and transrate this entry (1)
悲しみと焦りが伝わります。
ご冥福をお祈りいたします。
投稿者 : 高橋誠太郎 : 2008年06月03日 19:26
【世界で騒がれている一流ファッションデザイナーたちは、女性の美しさを定義して、表現できるのか?】
ファッションデザイナーという職業の、彼らたちは
ある意味、『選ばれたる人』に成りたい為または、
成りきって独断と偏見を自分流に定義して、
その時代時代の身勝手な女性像を作り出して来ました。
その多くの根拠は、
それぞれが持ち得た「時代観と社会性そして、モラル」が基盤です。
そこにデザイナーという当事者たちが持ち得た
知性と教養と文化そして、美意識と問題意識が
それに、大切な個人の人間性が拠り所に
彼らたちの極めて個人的な「眼差し」が存在しているはずです。
それらを自分たちの好きな世界、
それが『モード』というステージの上で
自分たちの好きな又は興味ある女性たちへ
『服』という消費財に表現しているのでしょう。
そこでは、
ビジネスがより大切だと考えるデザイナーたちは
与えられた『トレンド』というフレームの中で
自分たちの世界観やイメージをデザインするのです。
彼らたちはトレンドを造りません。
デザインするだけです。
これが僕が30年以上の経験で得た、理解出来た
「ファッションデザイナーとは?」の教科書的な答えです。
では、着る女性たちはなぜ、ファッションに興味を持って
これらのデザイナーと称する人たちが造った『服』を着るのでしょうか?
結局は、自分自身の為です。
自分自身の『存在』の在り方や有り様の、見られ方の為でしょう。
少し前迄は自分自身の生き方を表現出来るという迄の
価値観の世界も確かに、存在し必要でした。
今ではもっと端的に
そう、総て、自分の為です。
それを身じかには家族や友人たち、仕事の世界でそして、男友達たちと恋人たちへ。
それに自分自身の為に。
『ときめきたい』
という感情がより強い拠り所になりました。
しかし、それらの美の根拠は、女性の美しさは、感情は
着る女性その人自身が作り出すものです。
従って、着る女性は自らの『美意識』を持っている必要性が大切でしょう。
優しい心の在り方も必要でしょう。
それを拠り所に、自分の『在り方や有り様』を身近に、
自分流に日替わりメニュー宜しく
プレゼンテーションが出来得る日常的な消費財が
今のファッションのレベルなのです。
もう少し、レベルを高くして言えば、
いわゆる、西洋社会ではキリスト教をベースにしたキリスト世界の価値観とモラルと
そして、美意識を哲学化した【西洋美学】による、美と文化があります。
仏教を基盤とした世界での仏教美学もあり、其れを拠り所とした美意識も美もあります。
当然ですが、文化もあります。
きっと、アラブの世界でもそうでしょう。
アフリカのマサイ族の世界も、ピグミー族の世界も、
アンデスのインディオたちの世界にも。
(ナショナルジオグラフィックの世界です。
決して、ヴォーグだけの世界ではありません。)
各地域の言語がある限り、文化もその数だけあり、美意識、美も違ってあるでしょう。
美人もその数だけいるのが当たり前です。
(少数民族の女の人たちの美しさを想い起こしてください。)
ファッションデザイナーたちはペテン師か道化師か手品師たちです。
自分たちの形態言語と技を駆使して
上手な嘘を誰もが判るようにまた、判らぬように
上手にカッコ良く『虚』(Vanity)を造る。
其れが結果、
幸せや喜びを呼ぶ事に通じれば
役割であると自負する、
技を持った職業人たちです。
これを自らが判ってやっている人たちが
世界のメディアを騒がせられる「有名ファッションデザイナー』たちです。
彼らたちはポジティフに楽しんでやっています。
それらに拍手を送る人たちとは
有識階級(クラース)の人たちから、
今では大衆へ
中身の無い人たちが、
その中身の無い事を知られたくないので
お手軽に彼らたちのペテンや道化に乗かって、
メディアを通じて拍手喝采。
自らが内蔵してしまった『張りボテ人形』を
知られたくなく
どうやって、カッコ付けてイキがって自分の『在り方や有り様』を
身近に、と気にしている人たちが大半になって来たようです。
結果、「ブランド」(銘柄)モノへ走ってしまっているだけの大衆消費者たち。
これが現実のモードの保守化のレベルであり
社会そのものでしょう。
『水は高きから低きへ流れます。』
本人が輝いて下さい。
その輝きがより、他人を輝かせます。
その結果が笑顔になります。
其れが美しさです。
『自灯明塔』
造られたものの中で、
造られたものばかりを観ていないで下さい。
自然には未だ、変らぬ美しさがあります。
自然を観てください。
自然を大切にしてください。
自然になってください。
ここに日本人の
こゝろのともりがあります。
自分が輝いて下さい。
その為には何が大切か?
考えるという行為を。
読んでくださって、ありがとう。
華かすむ鎌倉で、
文責/平川武治:
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年04月08日 05:58 | comment and transrate this entry (1)
こんにちは。
いつも温かい言葉をありがとうございます。
ファッションやモードを通しての平川さんの言葉と考え方が本当に好きです。
これからもお体に気をつけて私たちに本当のことを教えてください。
私自身もこれらの言葉を糧に、輝き続けられるよう精進してゆきます。
次も楽しみにしております。
投稿者 : 高橋誠太郎 : 2008年04月17日 14:57
The Best Tops Shows-AZZEDINE ALAIA】
コレクションが他の街に移った後のこの街は一時の静けさ。
春の陽射しと風と雨とが1日の内に戸惑って遠慮している様は、
新たな春が窓のすぐそば迄来ているのにこちらへ入って来ないもどかしさの毎日。
今シーズンのコレクションで僕が兎に角、感動したコレクションを書き並べてみよう。
その壱番バッターは矢張り、AZZEDINE ALAIA.
彼は今、現在は完全にインデペンデントな状況で此のモードの世界に君臨しているただ独りのクリエーターです。
彼の作るもの、彼の会社組織そして、彼の顧客、その総てが僕流に言ってしまえば、『The Top of the World』。
コレクションは彼の凄すぎる持ち味を充分に生かしての見事な迄のコレクション。
着る女性たちを先シーズンに続き、総て、上質なフレッシュ&エレガンス。
先シーズンはその多くを日本素材を使ってのコレクションであったが、今シーズンはイタリー製の最高級な縮襦ニットに手工芸的な技を幾つも施したもの、アニマルプリントを表面に施されたこれも、イタリー製のハラコ皮革素材を使ったものそして、同じように、日本のいぶし銀的な光沢表面に施した同じ、イタリー製の程よく鞣された皮革素材、これらがメインの素材でありこれらによって彼の世界がすべて、『Everything So Special !! 』な世界をクリエートした。
驚く事の最初が此の素材の選択眼である。
その根底には自信ある彼が持ち得ている構築力としてのトワレ感覚であり、技術であろう。
先ず、彼自身これらに自分のなすべき事のレベルと範囲と世界を見てしまっているのであろう。素材美をそのまま活かすもの、その上に施された装飾としてのプリントをバランス良く生かすものそして着た人の動きを生かす迄のシルエットの決め。これらのバランスある調和力に脱帽。分量のある上モノとミニ・フレアーなボトムというシンプルで絶妙な分量バランスが着る女性をより、フレッシュに、エレガンスにセクシーにさばき、仕立て上げる迄の服を今シーズンも発表した。
彼の企業形態も以前にPPCグループから買い戻し、今では自分の会社にしているはず。これで自分の世界を自分の「義務と責任」で守れる状態にした事も此の世界では凄いこと。
当然だけど、他のプレタポルテデザイナーは彼の足下には及ばない。あまりに彼が居る世界が違うのだろうか?
多分、J・ガリアーノが一番彼にジェラシーを感じている唯一のデザイナーであろう。
これらの素材の選びに驚き、次は其れを仕立て上げる技術と勘とまとめ方の巧さ。
そして、最後には、いいご夫人程着てみたくなる、着たくなるエレガンスとセクシーさが絶妙なバランス。
やはり、プレタのデザイナではありません。
彼のこの勘とセンスと何よりも素材の選びと其れにあった技術の施し方は何処から学ぶのでしょうね。
僕は彼を本当に腕のいい料理人に思ってしまうのです。
素材と、それらを料理する技術と言うか、腕前そして、勿論味付け。そして、最後はまとめる盛りつけの感覚に似た美の世界の上品さ。
其れを出されたご夫人たちはその見事さと匂いと盛りつけの美しさというより、エレガンスとセクシーというレディーが欲しい薫りが程よく、そして、みんな着たくなるもの、着てみたいもの。このほどの良さを、バランス感を熟知してしまっているクチュリエ。
ご自分がいい女と思っていらっしゃる顧客である世界の社交界のご夫人たちは当然でしょう。
彼に取っての美意識とは理屈ではないのでしょう。
勘と着る人を想うこゝろからのものでしょう。
きっと、着るご夫人たちとの会話から、彼女たちのこゝろを読み取り、感じ拡げる臭覚とでも、CAREこゝろとでも言う感覚も日毎に研ぎすまされていかれる勤勉な人なのでしょうね。
これが彼のコレクションのすべて。
世界の名だたる上流婦人が彼の顧客だと言う事が理解出来る迄の今シーズンのコレクションでした。
今シーズンの僕の眼差しは、
『 Everything So Special, That's all !!! 』
素材にも、クリエーションにも、技術にも、完成度にもそして、価格もが総て、自分の世界観で、『So Special !!』 が今は必要な時代性であり、キーワード。
当然、その造られた服の後ろに作り手の『異文化、教養そして、美意識』が熱く感じられるもの。
今の時代はお金さえあればそこそこのものが、フラットなものが造れる時代。此の波に乗って自らが、勘違いをしているのが今なお、多くの日本人デザイナーたち。
出来れば、何処かのサイトででも(STYLE.COMですか?)何かの機会にAZZINE ALAIAさんの作品を見て下さい。
そして、余談ですが、今、彼の作り出す世界でアシスタントを始めて居るのが日本人、瀬尾英樹君です。彼はアントワープを4年前に卒業した3Dが立派に造形出来た希な、卒業生でした。その謙虚さを持って堂々とこの世界でがんばっていらっしゃる数少ない、人間的にとってもチャーミングな人物。うれしいですね。こんな所でもがんばっている日本人がいらっしゃる事は。日本では、その大半が海外の学校を出れば其れなりのデザイナーになった様に大いなる勘違いで『虚飾の上塗り』作業ばかりしている輩が多いと言う時代なのですが。
蛇足を言わせて頂くと、
昨今のプレタのデザイナーと称する人たちは、若い人程、”フラット”な張りボテ。
トワレさえも自分で組めないお絵描きお芸術家デザイナーたちが彼らたちの新しいおもちゃの一つ「ILLASTRETER」や「PHOTO SHOP」を使ってのものつくりとイメージ作りが普遍化してしまった時代だから、いつの時代も『簡単/イージー/容易い』見た目の世界へ其れが、それなりに見えるフラットなイメージングの世界であればの、水のごときに流れてしまうから此れを時代性ともいいうのでしょう。
怖いし、寂しいし、本当のただの『虚飾』あるいは、金鍍金の世界。
これにも世界があるのでその世界で喜べる人びとたちは其れでいいのでしょう。そんな世界の彼らたちが「作品」と称するものの後ろに『教養や文化や美意識そして問題意識』さえも感じられない、させないフラットなものつくりが多くなってしまった此のモードの世界。だから、誰が作ったかも自分の名札が無ければ判らなくなるものたちの世界観。ここでも、メディアが発達してよかったのでしょう、でもその根底は『ただ、消費社会へ』。
何処迄、個人の欲望のみが肥大化し表層の張りボテ人間になれば何れ、その無様さに気が付く時が来るのでしょうか。
「 Merci beaucoup !! Mousieur AZZINE ALAIA. 」
「 ありがとう!瀬尾君。」
ありがとう、みなさん。
文責/平川武治:巴里市モントロイユ街55/57番地にて、
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年03月18日 21:37 | comment and transrate this entry (2)
いつも一人の日本人として読ませていただいております。
平川さんの指摘する問題と解決への方向性に身が引き締まる思いです。特に”フラット”な張りボテというくだり、今の日本を象徴するような妙言ですね。
次も楽しみにしております。
更に私たちの知らないモードという世界を教えてくだされば幸いです。
投稿者 : 高橋誠太郎 : 2008年04月05日 15:07
10年ほど前、某服飾専門学校で半年程、平川さんの講義を受けていた者です。
学校を卒業後はファッションデザインには進まずに、様々な職を経て
現在はIT関連の仕事をしております。
(その間、アパレルの職には一切就いておりません)
この記事でご指摘の
トワレさえも自分で組めないお絵描きお芸術家デザイナーたちが
彼らたちの新しいおもちゃの一つ「ILLASTRETER」や「PHOTO SHOP」を使ってのものつくりとイメージ作りが普遍化してしまった時代
がちょうど始るか始らないか頃、学生生活を送っておりました。ファッションデザインを諦めたのはこれが原因かもしれません。平面もダメ、トワレもダメ、、デザイン画はヘタクソ、縫製は汚い、ただ休まず学校に行っているだけ。
担任には言いたいことをズケズケと物を申し、学校にケンカを売っていた…
その頃、ちょうど『イメージつくりが普遍化してしまう』原因ともいうMacに触れた事で、今の仕事の礎が気付けたと思っております。
『道具=Mac』も使い方一つで何でもできますが、『使いよう』という感じでしょうか。
10年前と何も変わっていないこと
平川さんが相変わらずな『平川節』でモード界をぶった斬っているように私も相変わらず“上”には物を申しておりますし、常にケンカを売っております。
お忘れかもしれませんが、学生時代、ある座談会の時に私が発言をしようとすると平川さんの顔が
すごい嬉しそうに見えました
『お、こいつまた言うぞ!』
みたない感じで。
そんな昔話をこの記事を読んで思い出してしまいました。
投稿者 : sdkt : 2008年11月28日 16:25
はじめに】
望むと望まないに関係なしにそのカルーセルの中に嵌ってしまえば、自然の流れで再び、コレクション発表の時期がやって来る。
これは巴里も此の東京も同じである。
だから自分たちも【巴里・コレデザイナー】と自負し、同じように勘違いをし、思ってしまう結果になる参加デザイナーが多くなるのだが、本当に、今ウケていると言われている日本発のデザイナーブランドはどのような状況の元で一人歩きし始めたのだろうか?
昨年の秋にまとめたレポートをここで、此の時期にご紹介。
一つの眼差し/———アッセンブリッジが上手なデザイナーたち】
日本人はその参加が多くなったデザイナーたち。そして,この国の文化庁が主催しているANDAMでTOGAと口の巧いブランドが貰うまでになる。
日本人デザイナーたちはここに来て一つの段階をクリアーした感が在る。
『アッセンブリッジが上手なデザイナーたち』という資格を貰った様だ。
これは前回も書いたようですが,今は時代が追い風を吹いている。
この時代の追い風とは、これからこの街、パリもそして、他のEUの都市はこれらの街に住むイミグレーターたちの新世代層が中心の新たな消費者層として確実に『大衆消費社会構造』化へ行くこと。これは、取りも直さず、かつての、’90年代中期以降の日本の状況である。(参照LePli-0号)
そして、具体的には、先ず,進化した新素材が享けている時代性。それらの進化した素材を案外と簡単安価に使いこなせる状況を持っていること。そして,生産構造が未だ確りしている事からのクオリティとデリバリーが他の外国人若手デザイナーたちと比べると良い。それに情報が発達している所からコピーや組み合わせが巧く出来こなせるデザイナーが即ち,器用さがいかせるデザイナーたち。しかし,オリジナリ性は弱いか無いが今は円安で価格が適当に買い易い。従って,買っておいとけば『Made in TOKYO』がセールスポイントにもなり売れる。この状況はメンズもレディースも同じ状況をもたらし始めている。TOGAにしても,今回だけで外国バイヤーの方が国内バイヤーより,数が多くなったと言う。(国内40%、海外60%比率)
『勤勉性と器用性と見栄性』が生む見た目感】
しかし,冷静に考えてみると,この状況というのは案外,『日本的なる状況』と言えるかもしれない。従来からの『Made in Japan』には決して,モノの本質的な創造は無かった。そのオリジナリティは無いか貧しいにしても,その主題の取り方、素材の使い方の上手さと巧さで即ち,工芸的に使う事でオリジナルものより以上に装飾的に使いこなしてその結果、それそのモノを”オリジナル”としてしまうことが即ち『Made in Japan』であったはずだ。これは,オーバーな言い方をすると,『日本文化の本質』かもしれない。僕たちが使っている漢字に対しての仮名の関係も然り,磁器と陶器の関係,漢画と大和絵そして,琳派の関係等など。最近でのIT機器類にしても,ケイタイの本体の特許部分はサムソンが押さえていてそれらを使ってのアッセンブリッジが多種多様化されたものが上手、得意分野という事も考えれば、これが,元々の『日本人の作る』という事に対するオリジナリティ性と理解出来る。日本人らしさの『勤勉性と器用性と見栄性』が生む見た目感な「創造の世界」がこのモードの世界へもやっと,ここ60年をへて辿り着いたのかと考えられる。この日本的創造の世界の本質には『素材』へのこだわり観と,日本人の特質性である『器用性と見栄性』とその「見た目感」の関係性が日本的に存在するある種の法則を考えてしまえる。これらも,戦後からの『豊かさ』の発展,進化の結果がもたらした今後,日本人の若い世代に期待するべき所でもあろう。
そんな彼等たちはどのような構造でビジネスを行っているか?】
多く開催されているサロンへの出店が増えている。サロン数は大きなもので10サロンを超える。それらのサロンで、自分たちのテイストとレンジが合うところへモノと自分たちが行って出店する初期的な構造からスターとしているブランド。そして、ディストリビュターオフィスでの展示受注を行っているブランド。(多分、13%〜18%のセールスコミッションを取られてやっているはず)彼らたちに任せば、従来からの良い顧客を持っているのでそれらが自分たちの顧客になる想いをかけて任せる。これらは基本的にショーをやりその後の営業活動を現地のディストリビュターを外付けとしているブランド。
海外バイヤーたちにどのような受け取り方や格付けがなされているのか】
商売中心に考えるとこれからもっと、可能性がある日本ブランドという感想。
メインのブランド商品ではないが置いておくと売れてしまうというサブ的なもの。
これは価格帯とデザイン性そして、デリバリーとそれなりのクオリティから。
ここでも、日本人らしさの善いところが認められてのバイニングであろう。
それに、追い風としての話題性ある「新素材と東京」。
彼らたちが世界のメインブティックのメインブランドになるためには】
『サロン』出展から次は『ショー』へ。
その時にどれだけ、コストとリスクを掛けて、『明日』を指させられるクリエーションが発表出来るか?そして、それなりの世界レベルのジャーナリストたちに気に入ってもらえるか?
そして、やっと、念願の【パリ・コレ デザイナー】へ!! 今、一歩。
日本のファッションビジネスとブランドの利点と欠点】
*素材が豊富。特に新・高品位繊維。
*まだ、国内生産に頼れる構造が残っている。
*出来上がりクオリティがよい。
*デリバリーがきちんとしている。
*市場が大きく、動く。
*メディアのホロがいい。
*消費者が成熟しはじめている。
*プライス面がこなれている。
*売れ線、トレンドものしか作らない。
*クリエーションにおける冒険はあまりやらない。
*ファッション教育構造が特化している。
*ONE POINT DESIGNが出来る。即ち、売れるコツをデザイン出来る。
*手先の器用さでSPECIALが出来る。
*コーディネートファッションは上手。
今後の課題は将来性を指差すこと】
総体に売れるものをきちんと作る事がうまく、それ以上の冒険、可能性そして、独自性を打ち出しているブランドはまだ少ない。
トータルで、結果、スペシャル性又は、アヴァンギャルド性又は、クラフト性のそれぞれの高品位性を目指すこと。そして、服の後ろに【文化】が見えるものまたは、【美意識】が感じられるものに挑戦してくれる心意気とレベルが欲しい。これが無ければ、世界レベルのファッション・ジャーナリストたちを驚かす事は出来ない。
肩を並べる外国人デザイナーたちは彼等たちをどのような眼差しで見ているか】
ここまで来るブランドであるからそれなりの資金的な現実が先ず、外国人若手より有るのでそれにジェラシーを感じる。それと生産構造が身じかでしっかりしたところが残っていると言う現実は実際に商品を作ること自体が難しい彼らたちにはとっても羨ましいこと。
結論としては、現在のNew-Generationsたちは完全に『CONSUMING-DECADENCE』の落とし子たちである。従って、ファッションを売る事、売りたいという事には早熟でありこの15年程でかなり成熟した日本ブランド。特に、男物はかなり、世界に通じる事が可能。そのサンプリングに『裏原』系が有る。それと、劇画、TVゲームからのイメージングソースは今や世界規模で共通のコンテンツになっているので女物のテイストやモード観の違いがまだ存在する世界よりはやり易い。
それとこの10年間程で、この世界も海外留学生が増え、彼らたちが帰国後やはり、海外を目指し始めた。それによっての語学力の進化も大きな要因。世界マナーを身につけ始めたとも言える。
弱点は、ビジネス構造としてのスタッフ人材に弱い。これからは彼らたち、世界に通用するファッションビジネスマンの養成と教育する事が課題である。
ある意味で中途半端な作り手志向よりも今は、ビジネス力を持つ事が鍵。
どんなものをどんな人が買うかが解らないまま進出しているブランドさえ有る。
現在のままで往くと、あの1987年の『原宿コレクション』参加ブランドがいつの間にかその後、『DC]ブランドという名称をマスコミから貰って創造性豊かなデザイナーブランドの横に並んでしまった状況の巴里版を思ってしまう。
そして、最後に、国内における『ファッションジャーナリズム』を気骨在るものへ成熟させることも大切な作り手への知的ホロが必要。
彼らたちのルーツ的、キーワード:オタク=STUDENT CONSUMERS=販売バイト/フリーター=オリジナルものと称したコピーもの=T-SHIRTS、靴、帽子、アクセサリー、皮小物、シルバージュエリィーそして=トータルブランド展開へ=『夢』としての海外進出。
このような、日本人デザイナーたちにとっては『追い風』が吹いています。
この風を上手く利用して『風力発電所』的構造と機能を世界へ、アジアへ向けて気概豊かに、参加ブランド企業も公的機関もそして役人たちも揃って、現実を直視して新たなモードの可能性へビジネス戦略を構築して行って欲しいものである。
/文責;平川武治/昨夏執筆文:
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年03月11日 07:21 | comment and transrate this entry (0)
本当に今のパリの少年たちは可愛い。
14、5歳なのだろうか? 彼らたちが、一昨年の秋、モードの世界へ影響を与えたスリムなジーンズをはいてコンバースにちょっと、ロンゲ。7:3に少し掻き分けカールされたヘヤーは今彼らたちの中での流行り。
街では『PARANOID PARK』と言う映画が懸かる。タイミングがいい。スケーボー少年の物語。監督はGAS VAN SANT. 以前作の『ドラッグストア・カーボーイ』、『マイ・プライベート・アイダホ』を含むポーランド3部作の第1作目。
イノセントでナイーフな今の時代観をそのまま携えた彼ら、この早熟な街で、都市で生きてゆく彼らたちは自分自身の存在そのものをアンテナにして時代の、社会の歪みから生まれるノイズをいつも敏感にピュアーに読み取ってしまうまでの早熟性と未熟性を持ち合わせている世代の『恐るべき子供たち』であろう。
未だ固まっていない知恵と早熟で不安定な五感を持って彼らたち、スケボーキッズたちは小さな、ミニマムな板切れ、ボード上で自分の身体を張っている。
自分を自由にして、自分らしく生きてゆきたいがために。
自由の裁量に総てを委ねミニマムな自分の領域、ボードの上で輝こうと
スケボーキッズたちに取っては、輝きとは自分らしいバランスを取る事で発する光。
その光に憧れる。
友人である立花肇君。
彼と出逢ったのはもう30年も以前の事になる。
その頃の彼もナイーフな美しい少年の後半期であった。
そんな彼を昨年、在る若人たちの雑誌で本当に久しぶりにインタビューをした。
その時で彼は、既に、50歳。その彼が、『今、僕が嵌っているのがPISTO自転車なの。』
自慢げに言い放っていた。その時の彼の言葉で気になったのが、『PISTOはストリートスポーツ、最後のものです。』だった。
PISTO自転車にはブレーキが無い。
車輪とスポークとサドルとハンドルだけ、各パーツが自分たちの好みでアッセンブリッジ出来る、メカ・シンプルな自転車である。
言い方を変えれば、美しいメカものだ。
ブレーキが無い所がこの自転車の特徴であり、機能であり醍醐味であろう。
彼らたちの『世界大会』と銘打たれたPISTOの競技会代々木公園前へ深夜に見に行った事もある。YOPPIY, HIROSHIそして、HAJIME、彼らたちと本場とされているサンフランシスコからも来ていた。京都の僕の友人たちがやっている『風』集団たちも参加。大半の日本人組たちのPISTOは美し過ぎた。
壊れそうな印象を持った。外国人組たちのPISTOはボロボロで使いこなされて安心出来そうに想えるものばかりだった。
それから、1年も経たないうちにこのPISTO自転車は元ウラ原系を中心にしてブームになった。ウラ原を歩くと、これ見よがしに自分たちのショップ前に美しすぎるPISTOが立ち掛けられ始めた。
分析好きの僕はすぐに、『これはスケボーと同じだ!!』と言う答えを出した。
それで、肇君が行った言葉にやっと繋がってゆく。
自分自身の身体性と五感と体感が頼りの遊び(?)である。
自分自身の判断力と責任だけで、自分の自由の裁量に身体を委ねる事で総てがコントロールされる遊びである。 美しすぎるマシーンはミニマムな板と同じなのである。即ち、ボードをマシーン化したとも言えるのがPISTO。
東京では大人男たちが嵌っている。
彼らたちも『バランサー』が必要なのだろう。
セルフコントロールのための『バランサー』しかも、【ミニマム】な。
大人になっても少年心を忘れたくない遊びこゝろを持つ大人たち、
彼らたちも輝きとは自分らしいバランスを取る事で発する光。
その光に憧れ続けている。
いつの頃だったであろう。
確か、80年代の半ばの時代で在っただろう。
スケ・ボー、サーフィン、ウインドー・サーフィンがそれに自転車がブームになり始めたことを想い出した。 ある時代には「POWER」のスポーツが、ある時代は「チームワーク」なゲームが、そして、このような『セルフコントロール』のためのセルフ・バランサーが遊戯化され社会化され必要になる時代性。今と言う時代性もこの状況を想い出してしまった。
自分たちが、より、自分らしく自由の裁量に、身体性をも委ねてセルフバランスを取るための『セルフコントロール』のためのセルフ・バランサーはプロテクトし過ぎたことに気が付き始める早熟な若者こゝろを持った男たちがこの兆しを見つけ出す。
女性はこのバランサーを自らの身体の中に持ち備えているから強い。
モードにはこのバランスがトレンドとなってあらわれる。
今シーズンのモードはそれで代表される。
着た女性の体つきを分量に依る新たなバランスを作り出すことが、この時代の新しさへ通じる一番の手法になってもう2、3シーズンが経つ。
そこに、P・ポワレ(1903年)が登場する時代性も面白い。
文責/平川武治:平成19年10月執筆分:
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年03月10日 08:31 | comment and transrate this entry (0)
”豊さ”を求める事から始まった戦後の僕たちの生活目標がもう既に、”豊さ”を持ち得てしてしまった今、彼らたちは現代の東京が持ち得てしまった“CONSUMING DECADENCE"の中で彷徨う ”豊かなる難民”化。自分たちの持ち得たテリトリーを守る事、保護する事そして拘束までもの自分の自分化。(その結果がモードへは『PROTECTION/PROTECT』がコンセプトになった。)そんな彼らたちが目覚める時とはいつなのだろうか?その時に彼らたちは何を大切に考えるのだろうか?その兆しが今少しずつ社会のリアリティーとして現れ始めている事に気がつこう。例えば、東京の街では”和物ブームからピスト自転車”また、豪華に見える触覚が違う食材を組み合わせたケーキの横に最近、ウケているのが、シンプルな『ロール・ケーキ』。「モノの初源」に戻る。”トゥーマッチなものからシンプルなものへ”見え透いたもの、装飾過剰なまでのものの本質を観てしまった彼らたちは案外と良心的なる世界へ目を向け始めているようだ。前春のプルミエールビジョンでも、“ETHIC"(倫理的)というまでの言葉がこのモードの世界でも使われ始め、少しでも社会に貢献出来るようなものの買い方をしませんか?というまでの想いが始まり、“NU AUSTERITY"という一種の、ありのままの姿に厳しさを持ってというコンセプトも一般化し始めているのも現在の特徴だ。
日本では、言い換えれば、やっと、巡り回って来た”和魂洋才”の現代版”洋魂和才”化が読めるのではないだろうか?自分たちの知らない物としての日本の古いものから始まって、出来るだけ過剰なものを排除したものへの志向性。その結果が、”シンプル/フレッシュ/イノセント/フラジール”などへ結び付くベクトル。
今のEUは景気はそこそこいいようだ。そこで暮らしている人たちの表層はやはりOPTIMISMだろう。その結果がこの巴里のこれからが新たなる消費者クラスの登場に依る“CONSUMING DECADENCE"への進展が読める。でも、彼らたちは決してこの表層に満足はしていなく、寧ろ危機感をも感じ始めている事は明らかだ。その影響から”ダブル-スタンダード”と言うコンセプトもこのモードの世界に現れ始めたのが先シーズン。景気の不安定化、環境問題への心配、クラス化への反動と行ったマイナス要因はダブルスタダードを意識し始めた。例えば、“LIGHT=SHADOW" "OUT-SIDE=IN-SIDE" "UP-SIDE=DOWN-SIDE"等は先シーズンのトレンドになった。L.Vの裏地に凝る。前後の異なるデザインDRESS UP & DRESS-DOWNなコーディネート。大人の中の少女性。(だから、映画、VERGIN SUICIDEが気になった。)そして、スピリチュアルリズム。日本でも精神世界へ憧れ、ヨガ、ベリーダンス、ワンピース志向。
そして、もう一方では『LIGHT』な部分としての飽きない『虚飾の上塗り』作業も変わらぬこのモードの世界のリアリティー。これらをどのようにバランス良く日常性の中へ、そこで暮らして行くかのための、『豊かな日常性』の継続化と『クラス化』を望み始めると、『バランサー』も必要になり始めた現在でしょう。自らが『豊なる難民』にならないように身に付けるべき『セルフ・コントロール』のためのセルフ・バランスサーが。
だから、スケートKIDSやピストに夢中になる大人たちが登場するリアリテ。
'07/秋;文責/平川武治:
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年03月04日 01:50 | comment and transrate this entry (0)
皆さん、僕の身勝手でしばらく休んでしまっていたこのブログを再会します。
これらの文は昨年の秋に書いたもの、よろしく、コミュニケーションを。
リアリテ−1】
『レンタル自転車』も今回来てみると利用者が多く街で見かけられる。少し、重そうな自転車だが、頑丈である。もしもの場合のデポジットが150ユーロ。調べてみると、最初の1ヶ月で、もう既に利用者数が100万台を突破したそうである。勿論、この街、パリッ子の珍しい物好きも手伝っての事であろうが、それでも凄い。これを仕掛けたのは車両広告代理店。メトロやバスの広告を仕切っている代理店が、企画立案で現実に至たらしい。
兎に角、タクシーの運転手から文句が出ている事が現実を知らせてくれるが、僕としては”共有化”システムがこのような都市構造の中で進化していくこと自体がうれしい事だ。
もう一方では、確実にこの街が、新たな消費社会環境を持ち始めている。
予測通りにこの街のイミグレーターたちが新たな大衆消費者になり始めている。今回、驚いた事は、彼らたちを確実に消費者対象と考えられたM.D.戦略が為され始めたためだろうか?メトロの構内、至る所に宣伝広告の新しいスペースが作られ、これ見よがしの広告が張り込められた新しい表情がこの街で始まった。
もう一つの定着し始めた風景にやはり、この街の“New Generations"がいる。
彼らたちはもうこの街の新しい顔になりつつある。スケートボード、ローラーブレードそれに自転車のこの3アイテムのストリートスポーツを例えば、左岸だけでなくバスティーユのオペラ座の前にも、一つの塊が出来上がっている。彼らたちのグルービー的な女の子たちの姿さえも、いつも見受けられるまでになった。スリムジーンズにT-シャツ、ロン毛にシンプルなコンバースタイプがその典型。ラッパータイプのパンツ姿の激小化も観られる。自転車はさすが、未だピストまではいっていないが、小型マウンテンでのアクションライディングが主流。でも、この街へのピスト化ももうすぐだろう。街には当然だが、彼らたちのご愛用ショップが幾つも出来始め、ストリートスポーツギア類とウエアーとしてのT-シャツ類(プリント、ロゴもの)G-パン、シューズ類そして、今までの”黒”に変わって彼らたちの世界では” カーキ”が目に付き始めそれに、CDとゲームソフトが繋がっている所も在り、かつての”ウラ原”情景が増えている事も事実だ。ここには東京で見かけ始めている”虚飾的な”光り物スタイルはなくある意味ではストリートの祖形がシンプルにフレシュに感じさせる要因となっている。
ここに新たなこの街のリアリティーが派生、存在し始めこれを撮りに来るコレクション写真家たちの姿さえ見受けられる事が在る。彼らたちもモードのステージよりも若者たちのリアリティーを撮っている方が楽しく良い即ち、『お金になる』というまでの発想で彼らたちをサポートし始めてもいる。きっと、これからのこの街のモードの世界も身近な彼らたちのリアリティーをサンプリングしていくベクトルがここでも読まれ始めいる。
驚いた事が一つ。
アディダスが僕に言わせれば、とてつもなくフューチャーチックなイメージ広告をうち始めた。「REVELE-TOI adidas TechFit-technologie conque pour la performance 」というコピーで街の中、メトロの駅中に張り出されたTECHFITキャンペーン。白人か、黒人が只の長袖T-シャツを着ている絵図らの広告なのだが、この長袖T-シャツの素材が全くの新しいもの、身体への一体感を強調した新しいスポーツウエアーとしての長袖T-シャツ。身体の必要な部分の網立てに変化が付けられている素材なのだ。これは、正しく、この前のプルミエールビジョンでも言われ始めた、『プレタスポルテ』素材。スポーツウエアーのプレタ化と、プレタポルテのスポーツ化を意味した新しい言葉が一人歩きし始めているのだが、こんな素材が既に、このように広告に載ってしまうまでに開発されている事に驚き、これはもうすぐ来るな?と思い返したのが、僕が考える新たな未来へのカジュアル日常着の世界。
この続きは3日後に、
ほんとうにご無沙汰していてすみませんでした。
LePLi 誌の編集等に追われて情けない状況でした。
ひらかわ たけじ:
投稿者 : take.Hirakawa | 2008年02月26日 01:49 | comment and transrate this entry (0)
一雨が、
それが時期を外した豪雨で、稲光りをも伴うとあれば
あれ程までの続いた灼熱の陽をも黙らしてしまう。
幾分か落ち着いた残暑の週末、
久しぶりでDISCIPLINE会を開こうと思い立ち、
突然ですが、ご案内いたします。
平川のヨオロッパでの活動の今回の一つ、
新しいモードを学ぶ学生と学校をターゲットとし
新しいコンテンツのもとに企画編集して発行した新雑誌“LEPLI-0"の事、
その経験を元にした”時代の眼差し”をモードの世界、日本の現実、これからの時代などについて
皆さんとともに話し合う機会としてDISCIPLINE会をやってみたくなりました。
今後も『CONSUMING DECADENCE』を突っ走るだけの日本なのか?
その『CONSUMING DECADENCE』の落し子たちはどこへ駆け込もうとしているのだろか?
『 やはり、「祖形へ戻る」はこれからの時代の方向性のように感じます。
その時、もう一度、人間とモノとの関係性、人間と空間、時間の関係性を、そして、
自分自身のうちなるをも再考する。
そこから新たな新しさが始まる。
そこには、何が大切なのかを勇気を出して探し出す行為としての存在が。』
今回のDISCIPLINE会はある意味、それを感じるためのところでフリートーキング的に、
皆さんのいろんな”スタンダード”で、皆さんと共にコミュニケートできればと思います。
楽しく、少しだけでも本当のエモーションを感じてみましょう。
変わらぬご参加を。
平川武治:
=======================================================
日時:9月7日(金)
18:15頃スタート 20:30頃まで (開場17:50)
会場:都内公共施設
参加費:一般2000円/学生1000円
ゲスト:参加していただける可能性有り
参加特典;新雑誌”LEPLI"の割引購入が可(数量限定)
収容人数に限りがありますので、ご参加頂ける場合は
前もってメールもしくはお電話にて人数をお知らせ頂ければ幸いです。
お問合わせ/press@lepli.org
=======たくさんのご来場ありがとうございました!=======
投稿者 : editor | 2007年09月01日 22:30 | comment and transrate this entry (0)
天地に生命がほとばしり 馥郁たる 五月の薫に、
いかがお過ごしですか?
<DISCIPLINE会>を名古屋で開催することになりました。
あなたのファッションへの情熱をみなさんとともに、
講義テーマ
モードの現在とは?今はもう21世紀、モードはどのような方向に行こうとしているのか?
パリのモードと接して20数年の眼差しから
日時 2007年5月5日 18:00〜21:00
18:00〜19:30 講義
19:30〜19:45 休憩
19:45〜21:00 質疑応答、ディスカッション
参加費 一般2,000円/学生1,000円(当日受付にて)
*参加希望者の方へ
開催場所についての詳細は参加いただけるのみにお伝えてしています。こちらまで連絡を
press@lepli.org
なお収容人数の関係上、定員(30名)になり次第締め切らせていただきます。
*当日会場では「Le Pli」バックナンバー(vol.1〜vol.3)の販売(数量限定)も行います。
投稿者 : editor | 2007年05月02日 12:20 | comment and transrate this entry (0)
『 モード、そのものが、もう既に以前のモードとは違ってきてしまっています。
当然ですが、モードを育む環境としての社会やそこに住む人々たちの生活意識や様式がその実体としての【リアリテ】も、そして【ネオ・リアリテ】も、総てが変化し過ぎてしまった後に来たのがこの21世紀。ある意味では、もう一度、総ての環境も社会も「人間が中心」の「人間の速度」による「人間の心の在り方」を軸とした社会と生活様式をその中での「デザイン」を考え始める時期に少し、近づきかけているようにも感じられる時代性を予感で来たシーズン。
生きている人間の「実体」としての又、自分自らの「リアリテ」としての「身体」を一番大切だと感じ始め、それへ自らが投資し始め、健康や安心と同じレベルで自らの身体の美しさを、バランスを想い始めた事。これらへ、気が付いてみると「服」よりも既に多く、投資している事実。社会でのこの新しい現象は決して、時代が貧しかった時期には「夢」であり、「願望」であったはず。社会が豊かになり始めてここまでの余裕が出来たことによる、今までに無かった新しさとしての社会現象の一つが、社会の表層としての「モード」が持っていた役割へと新たなスタンスで近づき始めたと読んだシーズンです。
嘗てのモードは階級社会のイニシアティブを持っていた人たちによる「FAMME OBJECT」でスタートした世界。そのための男の身嗜みとしての「HOMME」はダンディズムと言う思想と社会のルールの中での楽しみ。
その後、’80年代はじめより、男が男を想うことも社会の表層の一部となり始め「HOMME OBJECT」 がこのモードの世界のもう一方のコンセプトになる。以後、’80年代後半から’90年代はこの「HOMME OBJECT」に翻弄されてそれなりの女はより、見られることのみへ又、ちょっと違う所にいた新しい生き方を求めた女性たちは自分たち自身の生き方や思想までを探し始め、「ジェンダー」や「トランス・ジェンダー」その後の「フェミニズム」を「モード」の世界へまでも影響し、辿りつき「モード」で感じようと試みあらゆる服の造形においても「リアリテ」ある可能性を路上に探し始めた。
そして、21世紀になり、生活の豊かさが一応に手中に入ると今度は自分にとっての真の「リアリテ」を想い始め、不安になり始める。ここで「モード」はこの時期から「PROTECTION/PROTECTS(束縛/解放)」という最も古いコンセプトが再燃され始める。ここでは、『イメージ』(幻想)から『リアリテ』(生)へ、モードの主体も変化したと読める。
そこで新たにモードに加わったのが「SPORTS」「UNDER WEAR」そして、僕流に言う所の「SEX」。これらが今世紀に入ってからの「豊かさ」とその裏側の「不安」のアンバランスから生まれた新たな「モード」。これらは僕の視点ではみんな「PROTECTION/PROTECTS」がコンセプト。身体の機能と心のヒーリングそして性差と性そのものとを「モード」によってプロテクッションし始めたのがこの21世紀の新たな「モード」の入り口。
今シーズンではこの「性」を考え、女性が持つ「リアリテ」として投資した「身体」の美しさをバランス化し始めたデザイナー達が先を走った。
着ているブランドやデザイナーモノの「服」を楽しみ、見せびらかし遊んだ時代から、着ている服ではなく、「身体」(=「リアリテ―生」)を楽しみ、見せびらかし、安心して遊ぶ時代性が今。ここに来て、大きく変った「服」と「身体」の関係のパラドックス化。変わりない、「イメージ」ばかりで遊ぶことに飽き始めて来たともいえるでしょう。イメージは所詮イメージのみ。「リアリテ」を作れなくなってしまったバーチャルな世界。「エモーショナル」なるものも所詮疑似体験としてのエモーション。彼らたちは「サランラップ世代」そして、TV,TVゲーム、まんが、MTVなどからの感動は総て、バーチャル&シュミレーション世界。
それだけ、現代の女性たちも、ゲイたちも自分たちの唯一の「リアリテ」としての「身体つき」をいとほしくも大切に想い始め、それらに気が付くと服以上に既に投資している現実性。これは今までに無かった「新しさ」の社会化。当然「モード」はこの先端に委ね我がもの顔をする。
ディーテール・デザインやプリントそのものが主役ではなく、もっと堂々と着る人の「身体」と「性」そのものを美しく見せるための、上品に見せるためのプロポーションをバランス感でどのようにデザインしてあげられるかまでがこれからのデザイナーの役割へと変化。だから「ボディー・コンシャス」。身体のシェープさと動きに委ねた「オプティカル・プリント」、ショートミニのための「ハイウエスト」、そのための「ショルダー・ポイント」そして、「トランスパーレンス」「ジョーゼット」「シフォン」。やはり、時代は「保守化の進展」のみへと。クラッシク、オーセンティック、べーッシク、トラディショナルそして、ロマンティック、エレガンスはエモーショナルとともに。しかし、実はその裏側には若者たちの新しい彼ららしい『STREET』が。その位相は『身体で遊ぶ』事。そのための「服」を作る人たちは「My I Help You?」の心が必要。即ち、「愛」と「ロマン」が、「ロマンティック・イデオロギー」を願望し始めた時代性。
それに、もう一方では「たるみ」始めた身体をどの様に美しく見せられ続けるかの為のここでも、「PROTECT/PROTECTION」が「縛る」(フェティズム)「解放」(オーガニズム)までの表現も続くであろう今後。』
******
この『時代の身体つき』の変化に気をつけよう。
先ず、服を買う以前から、それ以上にもう、既に自分たちの身体つきに投資をし始めてきたご婦人たち。
自分たちの身体つきの変化に対してあらゆる可能性で既に、それ相当のお金を使い始めてしまっている彼女たち。
頭髪は染める植える付け足す,もう自由自在。顔は基礎化粧品を塗りたくってプチ整形から小じわ取り、身体の付き過ぎた脂肪をエステ、フィットネッスへ通いつめ、ダイエットをして矯正補整まで。そして、足。
勿論、ピアス&ボルトそれにタトゥウとシャドウまでの直接的装飾までも施す現代。
ここまで自分の身体を触りいじくった時代があっただだろうか?
当然だろうが、ここまでの身体をどのように見せるかまでの『時代の身体つき』が大切なコンセプト。
そこで現れてくるのが『ボディー・コンシャス』。日本の「ボディ・コン」とは総てのクオリティが違うはず。
ただ、単純に体の線を見せることよりもその線がどれだけ金がかかっているかまでの贅沢さをより、リアルにエモーショナルに見せるまでの「ボディー・コンシャス」。
そのため選ばれた身体に纏いつくまでの感触ある素材と色とプリント。だから「オプチカルプリント」も新しい。そして、それらが感じられるまでのスタイリング。
身体をプロテクトしたスポーツユニフォームのデザイン化によるアウター化とカジュアル化で今世紀が幕を開け、心と気分をプロテクトした下着のアウター化が続きそして最後が、性をプロテクトするまでのフェティシュな「ボンテージ」モノとその週辺としてのウエアラブルなボディー・コンシャスとしてのボディータイツ、スパッツもその現れ。
男も男を楽しむために彼らたちの「身体」をモードの中に再び引入れたことによって、女は女らしさを自分たちが磨き上げ投資して来た身体で勝負する時代がここに。その時の性はいつも変わらぬ性差のシンボル。
これも、時代が「保守の進展」をもたらした新しさの一つ。
ダンス、現代舞踏それにバレーが面白くなってきたことも忘れてはいけない。
又、岩波書店からの新しいシリーズ、『身体をめぐるレッスン』
(全4巻/責任編集鷲田清一ほか。11月末発売予定。)も興味在る本。 文責;平川武治】
投稿者 : take.Hirakawa | 2006年12月07日 19:09 | comment and transrate this entry (1)
雑誌ができるのを楽しみにしてます!
最近、こちらの更新が少なくて残念です。
投稿者 : sunafkin : 2007年05月17日 11:26
『 シーズンが終わったばかりのこの街の白々しさは好きです。
あれ程までに、会場を埋め尽くす為に「群衆」化してしまうほどの人たちが何処に行ったのか、突然に居なくなってしまうこの街のマジックもまた、魅力の一つ。
気が付いてみると’85年来この時期になると僕もこの街の魅力や友人たちに会いたくて通い続けてしまった一人。
正直言って、少し、永過ぎるようです。
モード、そのものが、もう既に以前のモードとは違ってきてしまっています。
当然ですが、モードを育む環境としての社会やそこに住む人々たちの生活意識や様式がその実体としての【リアリテ】も、そして【ネオ・リアリテ】も、総てが変化し過ぎてしまった後に来たのがこの21世紀。ある意味では、もう一度、総ての環境も社会も「人間」が中心の「人間」の速度による「人間」の心の在り方を軸とした社会と生活様式をその中での「デザイン」を考え始める時期に少し、近づきかけているようにも感じられる時代性を予感で来たシーズン。
生きている人間の「実体」としての又、自分自らの「リアリテ」としての「身体」を一番大切だと感じ始め、それへ自らが投資し始め、健康や安心と同じレベルで自らの身体の美しさをバランスを想い始めた事。これらへ、気が付いてみると「服」よりも既に多く、投資している事実。社会でのこの傾向は決して、時代が貧しかった時期には「夢」であり、「願望」であったはず。社会が豊かになり始めてここまでの余裕が出来たことによる、今までに無かった新しさとしての社会現象の一つが、社会の表層としての「モード」が持っていた役割へと新たなスタンスで近づき始めたと読んだシーズンでしたが。
かつてのモードは階級社会のイニシアティブを持っていた人たちによる「FAMME OBJECT」でスタートした世界。そのための男の身嗜みとしての「HOMME」はダンディズムと言う思想のルールの中での楽しみ。
その後、’80年代はじめより、男が男を想うことも社会の表層の一部となり始め「HOMME OBJECT」 がこのモードの世界のもう一方のコンセプトになる。以後、’80年代後半から’90年代はこの「HOMME OBJECT」に翻弄されてそれなりの女はより、見られることのみへ、又ちょっと違う所にいた女性たちは自分たち自身の生き方や思想までもを探し始め、「モード」の世界へまでも辿りつき、「モード」で感じようと試み可能性を探し始める。
そして、21世紀になり、生活の豊かさが一応に手中に入ると今度は自分にとっての「リアリテ」を想い始め、不安になり始める。ここで「モード」はこの時期から「PROTECTION/PROTECTS」という最も古いコンセプトが再燃され始める。ここでは、『イメージ』から『リアリテ』へ、モードの主体も変化したと読める。
そこで新たにモードに加わったのが「SPORTS」「UNDER WEAR」そして、僕流に言う所の「SEX」。これらが今世紀に入ってからの「豊かさ」とその裏側の「不安」のアンバランスから生まれた新たな「モード」。これらは僕の視点ではみんな「PROTECTION/PROTECTS」がコンセプト。身体の機能と心のヒーリングそして性差と性そのものとを「モード」によってプロテクッションし始めたのがこの21世紀の新たな「モード」の入り口。
今シーズンではこの「性」を考え、女性が持つ「リアリテ」として投資した「身体」の美しさをバランス化し始めたデザイナー達が先を走った。
着ているブランドやデザイナーモノの「服」で楽しみ、見せびらかしたり遊んだ時代から、着ている服ではなく、着た服によってより、「身体」(=「リアリテ―生活」)を楽しみ、見せびらかし、安心して遊ぶために着る。時代性が今。ここに来て、大きく変った「服」と「身体」の関係のパラドックス化。変わりない、「イメージ」ばかりで遊ぶことに飽き始めて来たともいえるでしょう。イメージは所詮イメージのみ。「リアリテ」を作れなくなってしまったバーチャルな世界。「エモーショナル」なるものも所詮疑似体験としてのエモーション。彼らたちは「サランラップ世代」そして、TV,TVゲーム、まんが、MTVなどからの感動は総て、疑似体験感のみ。
それだけ、現代の女性たちも、ゲイたちも自分たちの唯一の「リアリテ」としての「身体つき」をいとほしくも大切に想い始め、それらに気が付くと服以上に既に投資している現実性。これは今までに無かった「新しさ」の社会化。当然「モード」はこの先端に委ね我がもの顔をする。
ディーテール・デザインやプリントそのものが主役ではなく、もっと堂々と着る人の「身体」と「性」そのものを美しく見せるための、上品に見せるためのプロポーションをバランス感でどのようにデザインしてあげられるかまでがこれからのデザイナーの役割へと変化。だから「ボディー・コンシャス」。身体のシェープさと動きに委ねた「オプティカル・プリント」、ショートミニのための「ハイウエスト」、そのための「ショルダー・ポイント」そして、「トランスパーレンス」「ジョーゼット」「シフォン」。やはり、時代は「保守化の進展」のみへと。クラッシク、オーセンティック、べーッシク、トラディショナルそして、ロマンティック、エレガンスはエモーショナルとともに。しかし、実はその裏側には若者たちの新しい彼ららしい『STREET』が。その異相は『身体で遊ぶ』事。そのための「服」を「My I Help You?」の心が必要。即ち、「愛」と「ロマン」が。
それに、もう一方では「たるみ」始めた身体をどの様に美しく見せられ続けるかの為のここでも、「PROTECT/PROTECTION」が「縛る」(フェティズム)までの表現も続くであろう今後。』
******
この『時代の身体つき』の変化に気をつけよう。
先ず、服を買う以前から、それ以上にもう、既に自分たちの身体つきに投資をし始めてきたご婦人たち。
自分たちの身体つきの変化に対してあらゆる可能性で既に、それ相当のお金を使い始めてしまっている彼女たち。
頭髪は染める植える付け足す,もう自由自在。顔は基礎化粧品を塗りたくってプチ整形から小じわ取り
身体の付き過ぎた脂肪をエステ、フィットネッスへ通いつめ、ダイエットをして矯正補整まで。そして、足。
勿論、ピアス&ボルトそれにタトゥウとシャドウまでの直接的装飾までも施す現代。
ここまで自分の身体を触りいじくった時代があっただだろうか?
当然だろうが、ここまでの身体をどのように見せるかまでの『時代の身体つき』が大切なコンセプト。
そこで現れてくるのが『ボディーコンシャス』。日本の「ボディ・コン」とは総てのクオリティが違うはず。
ただ、単純に体の線を見せることよりもその線がどれだけ金がかかっているかまでの贅沢さをより、リアルにエモーショナルに見せるまでの「ボディーコンシャス」。
そのため選ばれた身体に纏いつくまでの感触ある素材と色とプリント。だから「オプチカルプリント」も新しい。そして、それらが感じられるまでのスタイリング。
身体をプロテクトしたスポーツユニフォームのデザイン化によるアウター化とカジュアル化で今世紀が幕を開け、心と気分をプロテクトした下着のアウター化が続きそして最後が、性をプロテクトするまでのフェティシュな「ボンテージ」モノとその週辺としてのウエアラブルなボディーコンシャス。
男が男らしさをモードの中に再び引入れたことによって、女は女らしさを自分たちが磨き上げ投資して来た身体で勝負の時代がここに。その時の性はいつも変わらぬ性差のシンボル。
これも、時代が「保守の進展」をもたらした新しさの一つ。
ダンス、現代舞踏それにバレーが面白くなってきたことも忘れてはいけない。 文責;平川武治:』
投稿者 : take.Hirakawa | 2006年10月16日 03:14 | comment and transrate this entry (0)
『 人は夢を見る。
自然体な人間としての行為の一つとしてみる夢。
人は夢を想う。
人生を、時を
より、自分らしく生きようとする人たち
彼らたちにとっての普遍的なる意思行為としての夢を想う。
人は思い出を持っている。
生き続けている痕跡としての思い出。
人は思い出を探す。
より、自分らしく感動したい人たち
自らの与えられた時を消費した感動の証としての思い出を探す。
人は明日を想う。
生き続ける感動としての明日。
人は明日を願う。
より、自分らしい希望を持った人たち
願いたい明日は自分たちの思い出に夢が重なる。
人が夢を想い、明日を願うとき
生きるエナジーの輝きは希望であり
何時の時代からか、
人間は持ち得た自らの思い出から夢を捜し求め始めた。
思い出と夢はメビウスの輪。
感動という生き続けるためのエナジーの炎を燃やしながら 』
『 Going on means going far. Going far means returning. 』(TAO-ICHIN)
******
『 今、僕が考えている今後のファッションは、イメージだけではなく、より、人間的なるリアル・エモーションがそのビジネスを生む』と言う発想。
即ち、イメージ・ビジネスであったものはより、進化しそしてまた、もう一度人間的な感情を大切にした、エモーション・ビジネスへ向かうと言うまでの考え。
感情移入とそれを表現することが上手なユダヤ人たちは、20世紀まではそんな彼らたちの感情移入を『イメージ』という手法で表現して来た。
それを自分たちが好きな世界、絵画、音楽、バレー、演劇、映画、写真、それに、モードなどなど彼らたちが得意な分野で。従って、モードの世界も今までは所謂『イメージ・ビジネス』で生業として来た。
しかし、時代は21世紀。
気が付くとそんな『イメージの世界』は既に誰でもが、そこそこのイメージを作り出せる時代性とその背景にテクノロジーの高度な発達と進化は情報と媒体の革新をも生み、「誰でも、何でも」の時代性となってしまった。 これらによって総てのイメージの世界はアミューズメント化やテーマパーク化されるまでの新たなビジネスの世界がこの21世紀。そして、何が『リアル』かが不透明になって来た時代性。
バーチャル・イメージやヴィジュアル・イメージそして、疑似体験などでのみ既に、、エモーショナルを感じてしまっている世代たちの時代。
そんな時代性の現代では
唯の表層としてのイメージよりももっと、より人間的なる感情が、すなわち、リアル・エモーション/エモーショナルな方向へと新たなこの時代の文化産業の中心軸はベクトル移行化し始めた。
「イメージ・ビジネス」は「エモーショナル・ビジネス」へと向かった。
そこで、モードは
『服を通じてその着ていただく人へ服と、服つくりを通じて学んだ人間的なるものをどれだけその人へ私なりのエモーションを与えられるか?
その心は「MAY I HELP YOU.」 』 :
今年のアントワープアカデミィーから東洋人で初めての女生徒としてこの学校を卒業した、村田明子さんはこの様なコンセプトで卒コレを制作した。
* 『多くの思い出を持ったご婦人たちのノスタルジアをお伺いすることで私の役割はそれら彼女たちそれぞれの思い出を服という私が愛した世界を通じて彼女たちの夢と共有できることが、その思い出が明日の夢へと繋げることが私と言う服を通じて何かして上げられることが出来れば私のコレクションは自分の中では成功。』
そのこころもきっと、「MAY I HELP YOU.」
* 『そこには彼女たちのリアリティとしての思い出・ノスタルジアへ、どの様な感情移入を私が学んだ服の世界で私が出来るかにかかっています。
私が学んだ服の世界と彼女たちのリアリティに基ずいたノスタルジアを通じてより、
エモーショナルに夢を見せ共有して上げられるかです。』
* 『ノスタルジアとリアリティを私の感情移入による感情表現によってより、豊かなエモーショナルな夢を持ってもらうためのそして、その夢そのものの共有です。』
『装う』を『装う心』を忘れてしまったモードはただのノイズ。
文責;平川武治:
投稿者 : take.Hirakawa | 2006年09月28日 00:55 | comment and transrate this entry (0)
日本でも既にブランド的モードの教育機関であるアントワープ王立アカデミィーのモード科を代表した、主任教授であるLINDA LOPPAが突然辞職。2006年09月13日、アントワープ発;
本日、王立アカデミィーのモード科、主任教授であり、彼女自らが提唱者の一人であった、
FLAMAN FASHION INS.(FFI)フラマンファッション研究所及び、国立アントワープ服飾美術館館長をも兼務していた LINDA LOPPA女史が突然、総ての職を辞任した。
今年2月に地元新聞で公金横領のスキャンダルに巻き込まれていた彼女がその半年ほどの後の出来事。彼女が携わって来たこの街、アントワープにおける総てのモード関係の職を辞任した。
その彼女の新しい職場は、イタリーのフレンチェに在る、「ポリ・モ-ダ」へ移籍。
この「ポリ・モーダ」とは、この国のファッションを代表するS.フェラガモ社が創設した教育ならびにモードをプロパガンがする研究機関である。彼女、LINDA LOPPAのルーツはイタリア人。ここ数年来、フィレンチェの「ピッツァ・ウオモウ」関係でアントワープのデザイナーたち、RAF SIMONS,ANGERO F.等を送り込んでイベント企画等を行ってきた、その経過での新たな動きと見ることが出来る。
彼女自身も今後、フレンチェに大きな家を買って、多くの若いアントワープデザイナーたちに成長した教え子たちのためにイタリアの工場を紹介するとまでの公言。これは彼ら、アントワープの若手デザイナーたちや今後の卒業生たちにとって本質的な事がらであり必然性と、大いに可能性を含んだこと。
だが、その移籍本意はもっとどろどろしたものがありそう。
これによって、アントワープのモード科も今後どのような方向性へ向いた教育機関になるか?
彼女のあとを受け持つことになったのは、今までこのアカデミィーの3年生の担任教授であったWALTER VAN BEIRENDONCKがモード主任へ昇進。文責;平川武治:
Poli moda(ポリモーダ) ;フィレンツェ市内 にあるポリモーダは1986 年、ニューヨークのファッション・インスティテュート・テクノロジー(FIT ) との提携のもと、イタリア・ファッションをグローバルに学ぶ場所として地元フィレンツェ市やS . フェラガモ社などの協力で創立されたファッション・スクール。
デザイン、創造性、技術革新を重視し、 デッサン教室、テクノロジー・センター、デザイン・ラボラトリー、テキスタイル・ラボラトリー、 図書館等を備えている。
1986 年の創業以来、世界中から集まってくる生徒数は700人を越え、卒業生の7割がファッション産 業で働いている。イタリー、ファッション業界と密接な関係を保持しているのが大きな特色。ファッションを 基礎から学びたい人、すでに学歴・職歴ある人たちの能力開発及び文化的教養を高めたい人に向けての応用・専門コースを各種開講しており、夏期講座では日本語コースも可能らしい。
参考サイト;
http://www.vrtnieuws.net/nieuwsnet_master/versie2/english/details/060912_lindaloppa/index.shtml
投稿者 : take.Hirakawa | 2006年09月14日 06:12 | comment and transrate this entry (0)
アン、ラフ、リキヱル、ランバン、ギィーヴァス、ベルンハルトそれにビジネス的に上手なコレクションをした、クリスと淳弥。若手では、ヴィエナのウーテイ。安心してのエルメス。R.オーエンの中止は惜しい。
新しい素材としての合繊モノとそれらの機能性をデザインへ落とし込んだものとしてのスポーツ。これはワールドカップの影響も見られるのだろう。それに、ワークスのユニフォーム類からのデザインソースが今シーズンも多く、もう一つのアイディアは未だ、フォーマルのダウン化。今シーズンも変り映えしないこれらの多くは[PROTECTION]がコンセプト。
アンは変らぬテイストとクオリティのヌーボーボヘミアン。楽しく、巧かったのがリキエル・オム。得意のニットのレジメンタルをパリジャンらしくソフトにコーディネート。ロングカーディガンやベストとのスタイリングは新しさを生んだ。ベルンハルトのチロリアン・フォークロアはニットものが新鮮。これは男、女ユニセックスも大丈夫であるし、シーズンが過ぎてもベーシックなニットとしてもいけるもの。クリスは初めてウイメンズも出し、いわゆる[ペアー・ルック]上品さとフレッシュな感覚で、ベーシックなものを主体にちょっとした所をいらう程度のデザインが返って、新鮮さを感じさせる。前シーズンのベロニックのペアー・ルックを思い出す。このベロニック、今シーズンはショーも展示会もやらなかった。きっと、ヴィエナのアカデミーで教鞭をとっていることでの躊躇観がそうしたのであろうか?
ビジネスを考え、尚且つこのブランドらしさを考え外国マーケットのみではなく国内市場もリードせねばならないという状況と環境のブランド淳弥。この大変な条件の下でも流石見事なコレクションをするビジネスに徹してしまった淳弥。今シーズンはスポーツ。それもフットボール。最後に恥ずかしそうに出した、[ゴルフ]の新たなコンセプトのものが一番クリエイティブであった。それにしてもこのブランドのショーを見て感じたのは見事な「F-1レーサー」デザイナーだ!!と言うこと。かわらず世界のナショナルブランドとのコラボレーションシリーズ。いろいろなワッペンをF-1レーサー宜しく貼り付けてのコレクション。[運転は巧いのですがガソリンを買わなくては!]と言わんばかりのショーデザイナーに感じてしまった。
アイテムでは、今シーズンもオーバーオール、カーディガン、ベストそれに、靴では[タッセル]が新鮮。
ゴルフからか、ドーミュールのみが出していたがこれは来シーズンも引くであろう? そして、今シーズン余り出ていなかったのが、エラスティック素材による細身のデニムパンツ。もう、そろそろ、パンツのシルエットが変る。(ルージーなロー・ヒップパンツはもうそろそろ終わり。)
この時期、巴里の街角では12,3歳のKIDSたちがスケートボードで遊び始めた。そんな彼らたちがこの超・細身エラスティックなデニムパンツが一番カッコいい。(しかし、今シーズンのデザイナーレベルではまだ出していない。)
一方では、より『マスキュリム・ダンディズム』が続く。
このシーンでは、上質な素材と美しい縫製、そのためのしっかりとしたパターンが大切。特に,ジャッケト
は要。短くなった上着丈で正方形方への上着と細身のパンツ。ソフィスティケートされたメンズの世界が
新しい。バタフライやアスコットタイにフリルモノのシャツも。帽子ではハンチングが。
そして、ショーでは『キャスティング』が大切。時代の雰囲気を醸し出せる顔がデザインよりも新鮮に映える。いい男が出ていたのがCdG. とアンは格別。
CdG HOMME PLUSは「GOLD MEN」。本当にそこまでするのかと言う感じの「ゴールド・ラッシュ」。
ここ2年来、このブランドもすっかり、作り方が変ってしまったのだろうか?『ピンクパンサーに始まって、ローリングストーンそれの今シーズンのゴールデンボーイ』基本的にはアイディアでの勝負モノ即ち、色物。
思い切り派手なアイディアでの勝負。コレクションを見ている時は驚きもし、凄いと唸ってしまうまでのもの。しかしその驚きが後に引かない。即ち、ショックは感じるが余韻は残らないまでのコレクションになってしまう。ワンシーズンのメディア受けを狙ってのアイディアで勝負。それがビジネスへ反響を与えればそれで良しとも読めてしまえるまでのコレクションになってしまった?展示会へ行くと成る程と言うアイテムとインナー、ニットものに着てみたくなるのもが多くあるのだが、ショーだけを見てしまうとそのインパクトだけで勝負している感じが強くなって来た。多分、『創造のための発想』がにかける時間の配分が変って来たのだろうか。
DIOR・HOMMEの来シーズンからはエディ・スリマンが契約切れ。
クリスにも話が来たが彼は今、自分のブランドが好調でその気なし。
結局は、もう一度エディが? これも総てメディア戦略としてのシナリオ???
文責;平川武治:
投稿者 : take.Hirakawa | 2006年08月21日 00:36 | comment and transrate this entry (0)
“君たちは自由かい?
そのための自らの、スタンダードは持っているかい?!”
『 君の体調のその後は、
そして、ご機嫌は?
――今回の巴里や、アントワープでのモードを見る限り、今後のモードの世界もやはり、[総てが権力と金次第]と言う傾向が読めてしまって本来の精神的な高揚もパッションも感じられないままに[これでいいのだろうか?]と言う思いの儘が残ったのみ。
エモーションと言う言葉だけが独り歩きしてしまう。クリエーションと言う言葉もただ、既に記号化されてしまったように。
やはり、時代が変ってしまったのでしょう。
その時代が変ったとは? 社会の物質的豊かさの終わりなき蔓延化と一方でのハイ・テクの社会環境化それに新しさの不透明さと人間が生活するための本意とその心の在り方の傲慢化が時代を変えてしまった。そして、モードの世界も時代の変化後、この状況を一層、表層のみの、競争経済のための合理化へと導くただの消費財でしかなくなってきているのでしょう。その消費財に消費力をつけるためのショーはちょっとうがった比喩でドラッグに例えて言ってしまえば、「クラック」か「スピード」のレベル。決して、その余韻が長く何時までも残るような上質なものではなくなってしまったまでの観。丁度、1シーズンと言う時間とその間にどれだけメディアを騒がせるイメージに委ね、その勢いに乗ってのビジネス効果を計算してしまったものづくり。そのための「表層的なZAPPING/ザッピングの勢いあるパットさ」しか感じられない。それを派手さと凄さと速度で料理。そこには残念ながら本当に僕たちが乞い始めた「エモ-ション」不在。
たぶん現代社会にかつての「ロマンチィック・イデオロギー」が消滅し、これらさえもただのバーチャルな世界での『ロマンチック』になってしまった現代の日常観も原因でしょう。
今まで可能であった、モードに於ける芸術的作品についてもその表層の物質的価値だけを見るような眼差しに変革してしまい、目に見ない例えば、氷山の水面下の形態言語など鼻から考慮しない。益々、眼に見えない高度の審美性は概念的になりそれが証明出来なくてもただ、消費化されビジネスへと反映されれば良いというまでの方法論としての手段が一般化したのみ。
当然であるが、芸術的価値はその物質的なるものに在るのではなく、精神的な高度な審美性に基づいた美意識によって、人々の共感により、その存在価値が見出されるものであるはず。もちろん芸術的な作品では作品そのものは物質であるがそれに対する審美性あるいは、美意識は人間の情動による全機的な価値評価に基づいて存在している筈だからだ。
たぶん、現代人の大きな欠如していることとは、各人が持つべきはずの、又は探さなければならないはずのあるいは、学ばなければならないはずの自心を自由に存在して行くための自らの早熟かつ成熟した「スタンダード」であろう。
この「スタンダード」を鼻っからぶら下げられ、与えて貰い、得られ易いメディアの末梢的諸情報に多くを又は、総てを委ねてしまった結果の現実化であろうか? したがって、個人のモラル観の不在と不自由さそして、未熟さが現在と言う時代をより、不自由な没個性な時代にしてしまったのではないだろうか?
従って、自信ある経験を回避して自信と勇気なき責任意識不在の中での漂い観でイージーに(お気軽に)生きていけるだけの「豊かさ」を国家が産み落とし、技術と環境が新たな風土としての現代社会を構築し、それに囲われた方がいわゆる「ラク」と。多くがより、多くを享受してしまった結果なのでしょう。これが多分、僕たちが選択してしまった戦後の60年間の『微温湯』だったのでしょう。
これは、この間のワールドカップ戦の日本人チームの現実やボクシングのタイトルマッチを見ていると読めてしまった、日本メディアによってご都合よく仕組まれてしまっているシナリオが読める、現代日本人が築き上げて委ねている社会構造なのでしょう?
ここで、皆さんは本当に『自由』を享受して自分らしく生きることを選択したのでしょうか?
最後に、
「自心を自心が自由にする」。(1)
好きな言葉です。
そのために自心は何を?
人間の存在価値とはこのレベルで考え行動して行きたいものです。
どうか、ご自愛ください。 』
平川武治:モード・クリニュシュェ
(注-1)「自心を自心で自由にする」
他と対立せず、自己の独立を意味する自受用三昧と言う道元禅の本意の一つ。
投稿者 : take.Hirakawa | 2006年08月17日 22:44 | comment and transrate this entry (0)
ごあんない。
啼く、蜩が盛夏の趣を涼しげに。
皆様、夏バテも為さらずにお元気でいらっしゃる事でしょう。
ご無沙汰をしてもう既に、1年近くが過ぎてしまいました。
そこで、例の勉強会を久し振りでやってみたくなりました。
今回は『桑沢学園』様のご好意で会場を提供して頂いての
寺小屋・夏の『デシプリン会』です。
雑誌『OK FRED』の編集長ご夫妻と、瀬尾英樹さん とのお話と
特別ゲスト『神奈川県 原爆被災者の会』事務局長 中村雄子 様
を交えての少し、矯めになる会にしたいと考えております。
ご多忙でいらっしゃいますでしょうが、
是非、お友達などをお誘いの上、お気軽にご参加ください。
平川武治
<DISCIPLINE会>
日時:8月11日(金)
16:45開場 17:00スタート
会場:桑沢デザイン研究所 3階 32教室
所在地/ 東京都渋谷区神南1−4−17
MAP http://www.kds.ac.jp/info/map/map/index.html
● JR「原宿」駅表参道口から徒歩約8分
「渋谷」駅ハチ公口から徒歩約10分
● 東京メトロ千代田線「明治神宮」駅から徒歩約10分
参加費:一般2000円/学生1500円(桑沢学生1000円)
*飲み物付
ゲスト:雑誌『OK FRED』編集長ご夫妻とLILIYO 様、 瀬尾英樹 様
特別ゲスト:『神奈川県 原爆被災者の会』事務局長 中村雄子 様
第1部で平川武治が社会の変化をモードというフィルターを通して読み、
第2部ではゲストに参加していただいてのトークそして、
第3部では特別ゲストをお迎えし、より、盛り上げた楽しく興味深い時間に。
最後は、皆様の質疑も交え展開していく予定です。
もし、
こんなことを話して欲しい、聞きたいと言うリクエストがございましたら
事前にメールでお知らせいただければうれしいです。
皆様と共有出来る、楽しく贅沢な時間にしましょう。
収容人数の関係上、ご参加頂ける場合は
前もってメールもしくはお電話にて人数をお知らせ頂ければ幸いです。
問合わせ先/press@lepli.org
ご来場を心よりお待ちしております。
投稿者 : editor | 2006年08月02日 20:55 | comment and transrate this entry (0)
はじめに;
東・コレ、今シーズンの眼差し;
思い起こし、考えてみる必要がある、『かわいい!!』という形容詞が現在のように、これ程までに日本人の日常語、尋常語となったのはいつ頃からだろうと。
確か、‘92年に宝島社から『CUTE』創刊。その1,2年前から、コムデギャルソンのトリコが『カワイイ』のパイオニアたちを産み落としその後、『CUTE』と共に、そんな新しさを感じさせ始めた二十歳前のトウキョウ娘たちへZUCCAは時代のボキャブラリーになり始めた『カワイイ』をデザインし、ブランド化した。
多分、これで、『カワイイ』は完全にカッコいい響きとニュアンスを持った流行語として市民権を持った。
そんな、『カワイイ』は僕たちの日常生活の気分感を感じ解く、依然重要な『キーワード』なのだと再感する。外国で生活していると日本から訪れるその、殆どの人たちが唯、『カワイイ!』だけで殆どの感情表現を済ませていることが、不可思議に、奇妙にさえ感じてしまう経験が多い。
彼らたちの感情を表現する手段としての言語は、コミュニケーションの時代なのにそのコミュニケーション・ボキャブラリーそのものが単一化し始めているという現実。
あるいは『言語のユニフォーム』化現象の始まりなのか?
今シーズンのLE PLIの眼差しは、この 「『カワイイ』が日本のモードにどの様に影響を与えているのかまた、与えられているのか? 」 「どの様な感情表現のためのボキャブラリーと使っているのか、又は、その時、感情は存在しているのか?という『カワイイ!観』を今シーズンの東コレで感じ、読んでみたい。 Le Pli 編集責任:平川武治:
>>……確実に、この東コレも新たな“主役”交代のシーズン。
もう、これ見よがしなノリと派手、悪趣味・オミズ嗜好な、オツム空っぽファッションブランドは
“二流”へ!!
15年程が過ぎたこの国民的[カワイイ!!]も時代と共に変質変貌し始めた今シーズン。
等身大的人間のおおらかさを伸びやかに謳歌し始めた新たな[カワイイ!!]の登場。
これは今シーズンの東コレの本質的な新しさの一つ。
結論を言ってしまえば、『その、大半が、ニュアンス表現が幼稚で大味な作り手に成り下がってしまった。』
*
具体的には、細部のディーテールのデザイン・バランスが大味で、無意味に取って付けた程度のバランス・デザインそして、固まりとしてのアイディアに(これはメディアに左右された所の)頼った無粋な表現または、成金・悪趣味的な所謂、お水っぽい感情表現の日常化が自らのレベルでの美意識(?)で着せ替え人形ゴッコお遊び即ち、「それぞれのバービー人形」化しただけの表層デザイン・コレクションが大半であった。そして、それらに対する形容詞がお決まりの全て、『カワイイ!!』語で処理してしまえるまでのある種、無責任なデザインと観客。
いつの間にか、個人の大切な感情表現をカワイイ!の一言で済ませてしまっている我々、日本人の多くがもしかしたら、それぞれが持ち得た感情のニュアンスを表現出来ずに、又は感じることに億劫さと複雑さそして、無表情さを持ちえてしまった国民性なのではないだろうか?とまで言えるような疑問をやはり、この東コレのデザイナーたちの発表コレクションからも伺えてしまう。当然、なんでも『カワイイ!』環境の基に生活しているのは何も消費者だけではなく、作り手である、デザイナーと称される側の人たちの環境と日常性も同じである。
結果、かれら達が『それぞれのバービー人形』での着せ替えゴッコとして表現した今シーズン。幾つかの大きなブロックに分かれてしまった所詮、彼らたちのレベルでの『バービー人形』志向の『カワイイ!』観の現われでしかなかった東コレ。
イメージの上塗り作業、CADによって誰でもが作れる(?)美意識の低い過剰意識における成金的品性なき装飾性の『カワイイ!』と自己満足によるアイディアだけで先走ってしまっているちょっと捻った『カワイイ!』。それに、まるっきり無節操にマーケットのみを意識した日本の上得意であるO.L向けは「デパ・コレ」派『カワイイ!』そして、流行としてのリメイクもので、カッコいいと煽っている『カワイイ!』元ウラ原系から古着屋系まで。今後、注目されてくるだろうポジティフ・オタク、ちょっと文化系な「カワイイ!!」。そんな幾つかの『カワイイ!』を素材にスタイリストが加わっての、これを見て下さいと言わんばかりの時代への問題意識たるや希薄なスタイリング・ショーが今シーズンの東コレの結論。結果、東コレ、9つの原罪は先シーズンと殆ど変らず、「時代先取り観なし。知的さは殆どなく、アート観なく、エモーション少なく、従って、自由さが感じられず,文化の香りは間違っても感じられず、現実味が無く従って全体が面白味も無く、それでいて上代が高すぎる。」これらの幾つかを既に、スタンダードとして持ってしまっている育ちしか見えなかったメゾンが多かったに過ぎない。
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これは今シーズン主催者側が招待してインターナショナル・ヘラルドトレビューン紙の世界のトップファッション記者、スージー・メンケス女史に見てもらったら良い評論を書いてもらえるかもという悲しい性の元にJFWサイドが今シーズンのトリに据えたドレスキャンプの彼女のレポートに的確に見られたから面白い。この短い文をご紹介しておこう。
「Dress camp's wild show followed in John Galliano's footprints.」
「本物」を見て知ってしまった人、何がモードかを知っている人たちにとっては所詮、”いかさまゴッコはいかさまゴッコ”これが現在、東コレの世界レベルの眼差しでしょう。彼女も精一杯に旨くそつない単語を使って書いています。日本メディアが騒ぐ、無理な集客力があるでも、やはりコピーはコピーの世界。
ジョン・ガリアーノは知的センスと途方も無い自由さの発想力による創造性が彼の先ず、スタンダードに在っての彼の世界。表層を追っかける所謂、日本的丘サーファー(時代に乗っかるだけ)ファッションD.J.レベルでは教養も品ある贅沢さも感じられない、全くの桁違い。(スージーさん、今シーズンはジョン・ガリだったかもしれませんが、先シーズンはヴェルサーチェだといっていたフランス人が居ましたよ。その前にはサン・ローランもやった事が在りますよ!!古い、器用なデザイナーなのでしょうね。)
この彼女の3月28日付けのインターナショナルヘラルド・トレビューン紙では今までの彼女の経験と関係事実から一生グループのA・ポックとCdGの新人ブランドのTAOを大きく取り上げ、コレクション関係ではYAM YAMはパトリックがロンドン出身のためもあってだろうか、あとはTHEATER PRODUCTSを評論記事的に書いたのみ。さすがにこの英国人モード評論家の冒険心と反骨精神と問題意識を美的に刺激するまでの東コレ・ブランドは皆無だったのだろうか?
もう、彼女が好きな、あのUNDERCOVERがパリコレで見せているレベルの魅力的挑発的反骨精神を持ち備えた後発デザイナーは見つけられなかったのだろう。
バイヤーたちは売れるものを嗅ぎ付けて買うのが仕事だから其れなりの物を探しに何処へでも行くし、来たとしても当たり前。海外のジャーナリストたちはわざわざ自分たちのコストを使ってまでもこの地へ、このコレクションを見には来ないであろう。見に来る必然性や興味が、余りにも「Far East」 過ぎるからである。招待されてこれだけのリアクションしかないのが現実のレベル。
客入りがいいから、ノリがいい、オミズ系とその筋の芸能人が来るだけで今シーズンのトリになってしまったDC が余計に惨めにも見えてしまう。誘うほうの思惑もそのレベルなら、誘われる方も大いなる勘違いとケチな下心だけでやってしまうまでの品格の無さは、これも現在の東コレを象徴。彼らを大いなる勘違いへ、豚もおだてられれば木に登るまでに勘違いをさせたのは2年前の『毎日ファッション新人賞』であろう。この年ではこのブランドが貰っていい賞はモネシャンドン賞で十分だったはず。自分たちのプリント素材をプロパガンダする為の、ある種の不純さとヒネ具合を持ってスタートしたテキスタイルデザイナー、10年歴のブランドであり既に、其れなりの企業形態になってしまっていたこのブランドはその受賞後すぐに三井物産との資本提携をもくろみ見事に成功。他に、苦労して小さな未企業形態で1枚のカラーコピーも思うままにならないで自分たちの世界観を丁寧に上質に創造しようと励んでいたインテレクチュアルな小規模なブランドも多々あったはず。例えば、この審査をした女性審査関係者たちは実際にこの服を試着してまでして審査をしたのであろうか?
何故かと言うと、このブランドはこの時期まで完全に着る女性たちを美しく見せるための「分量のデザイン」、即ち、「バランスをデザイン」する事が殆ど皆無であったはず。このデザイナーの育ちが90年代初めに文化のメンズ科を卒業。したがって、パターンメイキングが出来ない。卒業後、同窓生6人で合同ショーをしている。呼んで貰って行った僕の目では彼の作品は只のスタイリストショーに過ぎなかったのを憶えている。以後、プリントデザイナー、即ち平面、CADデザイナーでしかなかったこと。従って、いつもヴィジュアル的な発想でしか服が作れて居なかった。自社のプリント素材とフリルと厚手素材の足し算でバランスを逃げた見た目のデザイン。だから、ショー時がこのブランドレベルの最高表層イメージの世界。(その多くは芸能人向け御手軽撮影にそのレベルのスタイリストたちが派手・見栄えするが故に使って表層化しただけ。)実際に、女性が試着すると品あるバランスが取れたデザインが出来ていなかった。これが僕の理由である。
又、現状ではこの賞自体も今後、継続して行くのならその在り方を再考しなければ、かなりの無理があるだろう。
ここから確実に、日本の現実の東コレ・レベルが「ノリと観客動員数とオミズ的芸能界」指向へ。そう、水と同じように、『高きから、低くきへ流れるまま』になってしまった観を感じてしまうのは筆者のみか?
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今シーズン、気が付いたことは海外で好きなファッションを学んだ人たち、帰国デザイナー
の幾人かは地味だが、確実な彼らたちの世界の進歩は今後の日本のモードをどの様に本当の意味での『インターナショナル』なレベルへと進化さすか迄の面白みを持っていた。彼らたちはコンセプトが作れる。それを然りとした自分の作品に3Dデザインできそして、そのコンセプトからのイメージングでインテレクチュアルでよりエモーショナルなプレゼンテーションが出来ていることが彼らの強み。本当の創造性には金の力や芸能界的小さな嘘の上塗りは不要な世界。
(アントワープからの瀬尾英喜(現在、日本人初のA・アライアの所でスタージュ)セントマーチンからのヨシ・山縣、インダストリアル・カテゴリーの横塚そして、10年住み慣れた巴里より帰国して群馬県の実家でデザイン活動を始め、ルーツを再確認し始めたコレクションのTAGOなどは気をつけよう。)
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最後に、結果、ニュアンスのデザインが大雑把になってしまったデザイナーたちや、彼らたちが作りましたと見せる東コレでの新しさは、やはり、この時代になっての[カワイイ!!]が新陳代謝し始めて来ている事である。多分、15年程が過ぎたこの[カワイイ!!]も時代と共に変質変貌し始めたのも今シーズンの東コレの本質的な新しさでもあろう。
POTTO,mercibeaucoup,Ne-net,MINTdesignsそれに、myeinなどがこの「トウキョウ・新・カワイイ!!」ムーブメントの起爆剤だろう。
彼らたちのデザインの中から読み取れるコードは、[スタンダードが備わった人間としての、自由さ、おおらかさ、それに、ナイーフさも忘れてはいけないし、ユーモア、アイロニーそれに、周りに振り回されないつよい自我と自分たちらしいリアリティとゆとり、それらをポジティフに組み立て構築して行くデザイナーの等身大的知的さとニュアンスでデザインされているポジティフ・オタクなコーディネートファッション]である。
TRICO,ZUCCA,JUNYA,TUMORI,I.S.、TOGA,MINA等のルーツがここにあることを忘れてはいけない。
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終わりに、作られた服が大味になってくれば自分たちの着こなしに、彼女たち所謂、年頃の眼差し、真剣なおしゃれに対する心と自由さのニュアンスが伺えるのが、多分今も、一番の「トウキョウ・ファッション・リアリティ」であろう。
彼女たちは日本発のファッションカタログ誌で毎日、毎日学習して来た賜物であろうかまた、10数年前に初めて、この彼女たちの学習結果を堂々と紙面に組み込み「街・スナ」という造語を生み出すまでの、ストリートでのナマのおしゃれ感度をページ化し編集し紙面化した[CUTIE]誌以降のトウキョウ・ファッション・メディアが敢行した独自性の「功」も忘れてはいけない。 街角で出会う重ね着を一生懸命、上手に自分流にスタイリングしコーディネートして十分に楽しんでいる彼女たちの等身大的リアリティを東コレ・デザイナーたちはどの様に学んでいるのだろうか?実際に、いつも東コレ・デザイナーの先を走っているのが彼女たちのトウキョウ・リアリティでしかない。この現実を読み、学び、謙虚さが見られないデザイナーたちはもう、既に終わり。
文責;平川武治:
投稿者 : take.Hirakawa | 2006年05月28日 02:59 |