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greeting(42)

久々に再開します。「平川武治のMODE-YOSE」。その第1回のお知らせ。

『 三伏の候、
まだまだ、それなりの残暑が続きますが、皆さん、お元気でいらっしゃいますか?

この程、古い友人、青木君が声をかけて頂き、久々に僕の小さなおしゃべりの会、
「平川武治のMODE-YOSE」を開きます。
令和の秋の始まりですが、お時間と好奇心が在りましたら、是非、ご参加ください。』


***

モード評論家の平川武治氏による連続セミナー「平川武治のモードYOSE」第1回を
開催致します。
平川武治氏のファッションに関する最新の考察や、経験談などをよもやま話風に
お聴きするセミナーです。モデレーターをストリート編集室代表の青木正一が務めます。

小さなスペースroomFで、参加人数を20人に抑え、深いレベルのセミナーにしたいと
考えています。同じテーマで3回行ないます。
最終日はスペシャルデーとして、参加人数を10名に抑え、個別の質問にも詳しく
お応えできるような、よりプロフェッショナルなセミナーの日を設けました。
開催日ごとにお申し込み者の中からの抽選になります。

【「平川武治のモードYOSE」 第1回】
メインテーマ:「ファッションディレクターの時代」
サブテーマ:「キャンペールなモードの現在点」
A
日時:2019年9月1日(日)17:00(16:45 DOOR OPEN)~19:00 + 懇親会
対象:一般+学生
受講料(学生):2,000円(税込)当日・現金
受講料(一般):3,800円(税込)当日・現金(領収書発行致します)
懇親会(希望者のみ):近くのキャッシュオンのカフェで
定員:20名(抽選)
応募締切:2019年8月25日23時59分
開催場所:roomF

B
日時:2019年9月3日(火)19:00(18:45 DOOR OPEN)~21:00 + 懇親会
対象:一般+学生
受講料(学生):2,000円(税込)当日・現金
受講料(一般):3,800円(税込)当日・現金(領収書発行致します)
懇親会(希望者のみ):近くのキャッシュオンのカフェで
定員:20名(抽選)
応募締切:2019年8月25日23時59分
開催場所:roomF

C
プロフェッショナルを想定した、個別の質問にも詳しくお応えできるようなサロン風の
スペシャルデーです。
日時:2019年9月4日(水)19:00(18:45 DOOR OPEN)~21:00 + 懇親会
対象:経営者、デザイナー、ディレクター、フリーランス、等
受講料:5,000円(税込)当日・現金(領収書発行致します)
懇親会(希望者のみ):近くのキャッシュオンのカフェで
定員:10名(抽選)
応募締切:2019年8月25日23時59分
開催場所:roomF

roomF:東京都渋谷区神宮前4-27-3 神宮前ビレッヂ 201 tel.050-3577-5690
最寄駅:明治神宮前(徒歩5分)、JR原宿駅(徒歩8分)
https://goo.gl/maps/AWw6qVgV1LJVgKYF9

*支払方法:当日受付でお支払ください。現金のみです。領収書発行致します。

*【応募方法】
下記の内容をメールでお送りください。
メール宛先:info@street-eo.com

申込セミナー:「平川武治のモードYOSE」 第1回
氏名:
年令:
会社名:
職業:
学校名:
希望受講日:複数応募可です。優先順にABCで記入してください。最初の希望日の抽選にハズれた場合に、次の希望日で再抽選致します。
 A:2019年9月1日(日)17:00
 B:2019年9月3日(火)19:00
 C:2019年9月4日(水)19:00

*応募締切:2019年8月25日23時59分
※当選のご連絡は、2019年8月26日中にメールでご連絡致します。
※ケータイメールをご利用の場合、info@street-eo.comからのメールが受け取れるように
設定してください。』

投稿者 : editor | 2019年08月20日 20:48 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

「近代」という時代の終焉が見え始める? 6月巴里オム・F.W.体験から感じ取れるもの。

『やはり、「近代」が崩壊し始めていますね。』
なぜ、これに僕がこだわるかといえば、次世代の「シン・近代」(仮称)は白人たちだけで
構築すべき或いは、白人たちだけがイニシアティブが取れる世界では無くなってきたこと自体が
「近代」の崩壊状況であるということです。
この眼差しを、前回の巴里で行われたメンズファッションウイークから深読みしてみよう

19世紀終わりからの「第1次産業革命」によって始まった「近代」は白人階級社会の業と欲を
軸にした都合の良さで構築されたもの。その根幹は「人間至上主義」が謳われ、それまでの
「神至上主義」が科学進化と発展によって成され生み出された機械文明社会と共に「神」の手
から「人間」の手へ時代が変わった。神に変わって人間に委ねられ、何でも可能だと言う哲学と
資本主義と共に近代という時代が誕生した。
だが、この時代における「人間至上主義」とは、やはり、「白人至上主義」であった事も認識
しておく必要がある。これが今後の新たな時代を構築するときの大切な主題であり「近代」が
綻びて来た第1の汚点であるからだ。

しかし、その「人間至上主義」が次々と自分たちがより、進化させた科学技術等の進化と発展
とその結果の経済発展により、全てが「金次第」と言う「個人至上主義」的なる現実がその実態
を表し始めた。現代では、その「個人至上主義」が構成する“集団”が“企業化”になり、その企業
倫理が今では“政治”の手法に取って代わられてしまったのが「近代」の現状。
だから、来たる次なる時代に対してどのような変革が必然かを考えると、次なる
「シン・近代」構築にはもう、「人間至上主義」=「白人至上主義」と言う根幹は通用しなく
なり、僕たち日本人の精神構造が必然である事を認識する教養を持ち日本人、僕たちがまず自認
しなければならない。そして、その必然性を白人たちとコミュニケーションを取り合って
「シン・近代」構築の共有性と責任を持たなければならないということが僕が言いたい今後の
世界視点と義務だと考えているのです。
なので、これを日本人が認識するためには「”教育“と教育者たちの志と視点がその大きな一端
を担っている。」という認識が教育関係者たちに理解してほしいという願望でもあります。

単純な言い方をしてしまうと、「もう、何でもかんでも、白人たちの行為がすごい!!という
時代は終わっている‼️」と言うことである。”C.ゴーン・スキャンダル“でもそれは理解で出来る
だろう。

モードの世界の人たちは、やはり早く世の中の動きを感じその動きの大切さを予知している。
これが「モードの世界」の真の面白い根幹でしょう。「少し先の、世の中が感じられること。」
即ち、「予知力」が養われる世界でもありまた、彼らたちはJ.コクトー曰く、「逃げ足が早い」
連中でもある。(J/C.著「大股開き」より。)

今シーズンの僕の好奇心を煽った眼差しの先には、東京のF.W.のコレクション群では皆無
だった、「ジェンダー/LgbtiI」に対してのモード界のリアクションです。
今回の巴里はもう、これがメインの”キーワード“でしたね。そして、続くファム・コレクション
もこのシーンが様々なアイディアで見ることができる楽しいシーズンでもあるでしょう。

モードの世界では、従来=近代は「男&女」世界であったのがようやく、”ゲイ“が表層化し
始めてきたのが、80年代後期からでした。その後、20数年を経てこのグレーゾーンであった性の
領域が世界的な「ジェンダー」旋風によって広く社会化、認識され具現化されて来たのが
ここ10年来でしょう。
この現代の表層の新しい動きを流石、モードの世界は素早く味方にしました。
その根幹は白人たちによって新たにウエルカムされ始めた顧客である黒人たちへのMD戦略も
当然、踏まえた新たなマーケット戦術でしかありませんが、大事なことは「男&女」という
「0:1」の世界からその中間領域である“CAMP”を認識し始めたことです。
これそのものが「近代」そのものが揺らぎ始めたと読める証と僕は感受したシーズンでした。

過去の、白人たちはキリスト教分裂の発端時のある時代に、それまでの「天国&地獄」の
間に、「煉獄」という中間ゾーンを設けたプロテスタント/新教誕生がありましたね。
現在では実社会にリアリティとして表層化し始めたこの「ジェンダー/LgbtI」が近代後の新しさ
を生む根幹の「中間ゾーン」の発端になる。と僕は今後の「シン・近代」を夢見ています。

もう、白人社会が100年以上も死守して来た「0:1」/「良い・悪い」「YES & NO」などの
「二項対峙」的な世界観そのものが揺らいでしまったのです。この構造のままで資本主義が続行
されてゆくその先は変わらず、「富める者VS貧しい者」の進化と選榮化のヴァリエーションの
時代でしか無いでしょう。この世界的現代の武器の一つが、「P.C.」の登場でしょう。
これが現在にように“世界基準機器”になってしまってからはこの速度と範囲は急速にグローバル
になり、彼らの都合の一方的な方向へ流れるようになったのも現実ですね。

これは50年ほど前にすでに当時の白人たちが予知し、ローマンクラブにて提案し決議された
「成長の限界」論だったのです。当時はまだコンピューターが現在のように進化していない時代
だったために、その後の50年間彼らたち白人社会の主流は目先の自分たちだけの「業と欲」に
プライオリティを置きこの「成長の限界」説を都合良く置き去りにして現在に至って来ました。

ほころびて来た近代のルールとシステムを根幹にした現在の資本主義社会の行為は今後、
変わらず所詮、「上塗り」作業でしかなく、新しい世界を生み出すシステムでは無い。
ここでは、ただのヴァリエーションを増やすだけの世界が”PC &モバイル“機器を使ってより
短時間と広範囲に地球規模で「人間至上主義」から「個人至上主義」へ進化発展させ可能化
されたのがグローバリズムと言う現代。ということは、「近代」の無駄と複雑さを蔓延さすだけ
の行為でしか無い時代性とも読める。そして、ここでは殆どその構造が変革されない限り、
彼らたち「人間至上主義」=「白人至上主義」者たちしかこの「近代」構造システムによって
得られる「利権」を発展増長し続けるだけの世界でしょう。

ここで、これから考える、「シン・近代」社会の基本になるであろう、「共生/共棲社会」
構築に、この「0:1」以外の新らしさが認められるべきであり、東洋思想とされている地球を
思い愛し、自然や動物そして、他者への思い遣りとともに生活する日本人が潜在的に持っている
多重な宗教観から生まれる「宗教哲学」が新しい人間の生き方の根幹の一つになるでしょう。
「環境」とは自分たちの都合の良い状況トテリトリィーを生み出すだけのこれらも白人社会が
植民地政策主義時に考え出した言葉でしかなく、その後の「近代」を支えて来たキーワードで
ある「環境を守り、進化と発展」は今後先ず、「地球を守る」ことから考え「自然と共生」する
為の諸行為を覚悟も新たに実践してゆかなければなりません。

ここで僕の一つの“愛国心”的な願望を今後迎えるべき新たな時代へ提言したいと考え始めて
います。
先ず、日本人である僕たちの多重構造的な宗教観そのものがファジーである事。よって、
CAMPな感受性や美意識を持った優しさと思いやりが、豊かな日本人の精神性が新たな“近代”を
構造化するためには大いに参与すべき時代である。
例えば、近代社会が“自動車”と言うマシーンと共にモータリーゼーションで発展充実した過去
があるように、今後は「一家に一体のA.I.」時代の到来があるでしょう。今後、20年後にはこの
現実が「新たな人間至上主義」を迎えると仮想した場合に、今後の人間の「新たな人間性」を
考慮し構築して行くためにも僕たち日本人たちは覚悟ある発言しなければならない。

このような新たな第3次産業革命後、今後の人間がA.I.と共棲するようになる時代とは?
このシーンの想像予測はすでに多くの人たちが予言的なことも含めて提言され、多くの本も出版
されているが、その殆どは科学技術面での可能性論とA.I.そのものの性能を人間と比較した考察
論でしか無い。このような時代になった場合の「人間至上主義」とは?あるいは、
その「人間至上主義」に変わる新たな人間存在論とは?を論じたものは皆無に等しいのが
現実でもある。

この「第3時産業革命」以後の実生活における「新たな人間性」とは?その「価値観とは?」
そして、「人間の役割とは?」という視点が今、僕が若い人たちへ大いに、プロパガンダすべき
大切なことであると長い外国人社会との関係性から実感しています。
合掌。
<前編完。>
文責/平川武治:令和元年盛夏八月、鎌倉にて。


投稿者 : editor | 2019年07月30日 18:50 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

UNDER COVER S/S 20: COLLECTION/上質な「覚悟」を見せてくれた高橋盾君。

そろそろ、このようなメンズモードの安直で薄っぺらな表層に嘔吐し始める
デザイナーたちが登場始めた。

まず最初に、この狼煙を上げたのはUNDER COVERの高橋盾だった。
彼の実直で柔軟な自由の眼差しと性格の優しさとそして、持ち得た彼の美意識と自らの
ディシプリンによって、「LUXURY/贅沢度」満タンの今シーズンのUNDER COVERの高橋盾は
それ相当の「覚悟」を決めた“気概と根性”を世界レベルで堂々と見せつけてくれたコレクション
について、僕は書きたくなった。

僕の好きな映画の一つに、香港映画「花陽年華」がある。
2000年、あのW.カーウエーイが監督したこの映画は、英BBCが選んだ「21世紀 最高の映画
100本」で、2位に選ばれてもいる。
参考:http://www.bbc.com/culture/story/20160819-the-21st-centurys-100-greatest-films
今の若い人たちは宮崎駿さんのは絶賛するが、このようなもう既に,20年近くが経っている
名画には残念ながら殆ど、皆無であろう。
男と女の切ない出会いと想いと行為が“微妙な”状況の元で淡々と語られているこの映画が
これほどまでに“せつなさを微妙に“醸し出している大きな要因にこの映画の音楽がある。
“梅林シゲル”氏作曲のものである。僕の好きな音楽家でもある。彼の音楽の好きなところは
人それぞれが持ち得ているこゝろの想いや情景を叙情的に、西洋楽曲では表現し難い余韻を
旋律化させ、その時のこゝろの情景を想い出させるまでの時間の“間”が作曲されているところで
あり、日本人が持っている“湿り”が音楽化されているからである。
今シーズンのUNDER COVER のショーは“こゝろの湿り”を感じさす迄のスローな入り方で
ショーが始まった。これは白人や黒人たちには到底、この“繊細さとビミョーさ”は理解できない
ある種の彼が選曲した「美意識の旋律」であり、ここで聞こえてきたのがこの “梅林シゲル”氏の
「花陽年華」のサウンドトラックでスローに入り込むかのように始まった今シーズンのUNDER
COVERのコレクションはここでも、微妙な無彩色で始まりこの無彩色のまた、微妙なコント
ラストの展開で始終し終わったが、見事にまとまった新たなる「ジョニオ・ワールド」だった。

この今シーズンの彼のショーとは彼が20数年来ファッションに託しそして、服が大好きで
大切に考えて、愛して来た証としての彼にとっては、“次世代型コレクション”になり、その
「勇気と決断」は現時点では世界レベルでも高橋盾、一人しか創造出来得なかった「覚悟ある
コレクション」になった。
「やる時は、やってくれる!!ジョニオ君。」コレクションだった。

巷のメンズファッションも黒人たちが顧客に呼び込まれそのために、黒人ディレクターを
寸時に手配してメディア戦略によってただ、ケバくラップ宜しく騒々しくわかりやすい世界へ
と堕落して行く現実にうつつを抜かしその「上書きデザイナー」たちがいきがり、増えるのみの
退化しだ巴里の現実がより、広がり始めた今シーズンにあっては彼の覚悟の痛快さに僕は脱帽。

24年間が過ぎたストリートスポーティカジュアルのデザイナーとしての高橋盾は遅れている
このストリートカテゴリィーのファッションの世界ではもう既に“レジェント”の域に達している
デザイナーである。なぜかと言えばまず、2000年以後、センスの悪い白人デザイナーたちが
ストリートにビジネスを探し始めた時にその多くが「UNDER COVER」の上書きを行い、
今では新座者「黒人」たちがまた上手に彼の20年ぐらい前の世界からヒントを得て「上書き」を
始めているのがここ数シーズンのメンズの現実でしかない。そんな状況下でのメンズの作り手
である、若いデザイナーたちにはすこぶる興味深いデザイナーとしてその存在を認められている
のも証拠であろう。今回などはショー後のバックステージへ関係のなさそうな黒人たちの
ウロウロ風景が目立ったのも一端である。

「テーラリングへの新たな挑戦」これが彼がこのシーズンに「覚悟」した行為であった。
メンズファッションにおける、“テーラリング”というカテゴリィーは「何時かは通らなければ、
避けて通ることが出来ない」カテゴリィーである。ストリート出身のメンズデザイナーたちは
あえて、自分たちのリアリティからこの“テーラリング”を都合良く逃げて来た。テーラリングが
出来なくても、”ストリート・アイテム“の世界は”T-シャツ&スウエット上下“のバリエーション
の世界。そこにどの様な”プロテクション&アジテーション“が為されているか?そして、
“ユーモア&ペーソス”がセンス良く施されているか?のシナリオがすべての根幹である。
“ストリート・カジュアルウエアー”へこのような兆しを90年代終わりに既に、現実の“路上”
へ落とし始めたのは高橋盾で代表される日本人“ウラハラ系デザイナー”だった。その後、20年
ほどの時間が経過した現在も、メンズにおけるこの“ストリート”というカテゴリィーの世界は
ほとんど不変である。ここで変わったことといえば、“シューズ”がこだわりを付帯させて新たな
アイテムとして登場してきた事である。そして、この世界が今ではモードの世界へ押し上げら
れ、新たな黒人顧客の参入によって実に、分かり易い“ストリート・スタイル”のトレンドとして
“より、騒々しさ、派手さ、安直さ”が加わって再トレンドされているのが巴里の昨今の多くの
「上書き」コレクション。

高橋盾の今シーズンは「ここからどれだけ遠くへ、しかも、どれだけ新たなカッコよさが創造
できるか?」のコレクションだった。しかも、その彼の眼差しは確実に、「日本人の眼差し」で
あった。
当然ながら、この世界観は西洋人が自慢する世界である。軍服の為のテーラリングが
スーティングの世界にも求められ、英国、フランスそして、イタリーなど、それぞれの国を代表
する軍服からのテーラリングテクニックがそれぞれの国のダンディズムを生み、“スーティング
技術” を競うまでになったのがここ100年ほどの白人社会のメンズ・モードの歴史の根幹であ
る。ここに真っ向から向かうと“ドンキホーテ”のサンチョ・パンサになってしまう。が、
この立ち居場所に自ら甘んじて未だに、完全自己満足のために金と時間と労力を使っている日本
人デザイナーたちもいるのが現実である。
今回の高橋盾は自分が持ち得ていたリアリティとしての“ストリート魂”をこの世界へ投げつ
けた。
それらはジャケットでありコートであるバランスの美しく上質にテーラリング(肩入れ )
がなされた上着。ワークスからのアイテムをここでも、手を抜かずテーラリングがなされた
上着へ。施されたS.シャーマンの写真が見事なジャガード技術によって日本の“墨絵”の世界観で
施されている。また、“折り紙”や“ずらし”というジャポニズム手法を施された襯衣(シャツ)群
など等。また、彼の得意な世界の一つとしているスニーカーが1足もなかった、徹底ぶり。
「漆黒から、グレイ・ブルーそれに、プルシアン・ブルー」までのカラー・バリエーションはに
ソフィスティケートされたデニムラインのインディゴが根幹であろうか?
これらが見事に、「やる時は、やってくれる!!ジョニオ君。」コレクションになった。

高橋盾がこれほどまでに、これらのテーラリングに魅了されたのは「VALENTINO」との
コラボレーションが始まりイタリーへ招かれて見てしまったことの全てに由来しているという。
長い経験から言わせて頂くと、多くの日本人デザイナー達が「パリ・コレ」デザイナーという
肩書き欲しさにパリへ“ネギ”を背負ってくる。そして、それなりのお金さえ使えば、誰でもが
コレクションには参加できる。これが現実である。そして、現在ではそれなりの現地組「日本人
チーム」が裏方を全てをやってくれる仕組みも出来上がっている。従って、「金次第」で憧れの
「パリ・コレ」デザイナー誕生は簡単にできる。そして、現在ではこの「金次第」の世界も中国
人たちがこの「金」を出してくれるケースが増えている。巴里でショーをやり、日本でそれなり
のメディアに騒がれる。それをもとに彼ら、中国人たちは自国でがっぷりとビジネスに落とし込
み彼ら達は損をしない。「タヌキとキツネの化かし合い」関係が昨今の、日本人デザイナーと
中国人ビジネスマンたちの関係性である。これの化かし合いに乗っかっているデザイナーたち
は、巴里へ来てコレクションをしても「巴里からは何も学ぶ事なく」只、イキがって帰国する。
早く凱旋帰国し、メディアに騒がれたい、“完全自己満足”に浸りたい。そして、“女にモテた
い。” このレベルのデザイナーたちである。折角、巴里へ来ていても、ネット上で「上書き」の
ネタ探しはするがこの街から学ぼうとする心気あるデザイナーは殆ど、皆無である。

高橋盾レベルの経験を積んだデザイナーは既に、現地の外国人たちとの関係性を持ち、
彼らたちから、学べるものは学んでいる。その結果が今回の「覚悟」を感じさせるまでの
UNDER COVERコレクションになった。

人間は、「見てしまわなければ、進化しない。見てしまったことによって、
自分がどのような行為をとるか?これがその人間の人間性に繋がる。
そして、その人間の「人格」を生む。
見てしまっても何もしない人間はやはり、クズである。」
この根幹は僕はやはり、残念な事であるが、その人間の生まれと育ちあるいは、家庭教育に
由来すると感じる。

「VALENTINO」の工場を見る機会を得た事で始まった、「新たなる時代へ、」堂々と、潔く
旅立ち始めたUNCER COVER,高橋盾の懐の深さを感じさせた今シーズンのコレクション。
彼の美的根拠あるいは、審美眼の根幹はもう、決して「トレンド」の範疇では収まらない。
寧ろ、トレンドという「壁紙」から遠く離れて、自らがその経験と関係性で持ち得た、彼自身の
世界観から生み出された彼の「LUXURY/贅沢度」がすべての根幹である。
結果、いぶし銀的なる「ジョニオ・ワールド」コレクションであった。

“梅林シゲル”氏の「花陽年華」のサウンドトラックがフィナーレにまで染み込んできた。
この日本人しか感じられない“湿り感“と共に、高橋盾の「覚悟」が一つのエピローグへと
繋がる。
「 ありがとう、ジョニオ君。」

「 浮ついたトレンディーな世の中に
心底飽き飽きしています。
こうなったら徹底的に抵抗してやろうかなと思っちゃいます笑
自分に足りないものを足していくのはとても大事ですから。
そんな思いです!」/談/高橋盾:

文責/平川武治:巴里ピュクピュス大通り。



投稿者 : editor | 2019年06月30日 23:37 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

[速報]COMME des GARCONS H.P. S/S ‘20 “What the camp show?”

6月21日発; 「巴里のF.W.で今日行われた、”コムデギャルソン オム プリュス”
S/S ‘20のコレクションの根幹とは?
「CAMPなショーであり、CAMPなコレクションであり、でも、実はCAMPでない
ガーメントだった。」

そのうえで「上書きされた(?)」“オペラ オーランド”のコスチューム担当デザイナーと言う
シナリオ?

ここから読める、今後の企業、”COMME des GARCONS“の行方。
この企業にとっては、ここ数ヶ月に議論され取らざるを得なかった一つの大きな重大な「覚悟」
が為された出来事があった。
それはこの企業の創設以来から“COMME des GARCONS”の存在と継続を共に構築して来た
「影の立役者」或いは「影のボス」とまで言われるほどに企業、「COMME des GARCONS」に
なくてはならない、彼女がいなければ現在の企業、「COMME des GARCONS」は存在し得な
かった貢献者であり、生産担当重役であり、「影のボス」だった、このブランドの初期時代から
素材手配から工場手配と納期管理及び、もちろん「クオリティ管理」までの全て、現在ではこの
役割の部署が一番実際の製品作りには重要になってきている、をディレクションなさって苦労を
共に為さって来られた僕が尊敬する、怖い「田中蕾さん」がご引退なさった。という現実の
「覚悟」の選択がこの企業、「COMME des GARCONS」を洋上の嵐に巻き込んだらしい。
多分、この「覚悟」の話は1年ほど前から双方で持ち上がっていたのだろう。
その結果とも今からでは読める、前々回の昨年秋の「COMME des GARCONS」Fammeからは
「川久保玲の逆襲」と僕は発言していたコレクションが再開され始めたからである。
ここでは、この20数年間、ちょうど現在の夫、エイドリアン氏と「ビジネス婚」後、この
企業の経済問題から「オリジナル素材」が「使えない」情況が始まり以後、川久保玲と田中蕾
に負わされた重責は「オリジナル素材」を一切使わないでこの苦境を乗り切るというミッション
の元にこの二人、川久保玲と田中蕾は企業、「COMME des GARCONS」の為にこの間、25年
近くの時間を、オリジナル素材を使わないで、どのような「あと加工」が出来るかに彼女たちのチャレンジと創造性が懸けられ苦境と辛苦を守ってこられた現実を読んでいた僕の”深読み“が
「川久保玲の逆襲」を感じさせ、先シーズンでは「川久保玲とアマゾンヌ」なコレクションと
なり、例えば、今まで彼女たちが使わなかった、「シリコン・ラバー」素材の成形作品まで
出した激しく、強く、彼女たちの気骨が貫かれた素晴らしいコレクションエネルギィーを浴び
させてくださったコレクションだった。
ブランド「COMME des GARCONS」という世間からの見られ方、そのメゾンでのモノ創りを
する者にとってそして、特にこのような時代性においては、「使いたい素材」、「選べる素材」
そして、「使える素材」が全てのクオリティと創造の勝負である。
この企業、「COMME des GARCONS」がここまで進化成長してきた原因の一つは80年代
後半からのこの企業独自の「オリジナル素材」開発とその素材をよりよく見せるために使って
来た想像力と創造が、そして製品クオリティ力に一番説得力があった時代を経てきたからである。
ここにこのブランドと企業、「COMME des GARCONS」が持ち備えた「差異と力」の根幹があり、これが新たなユダヤ人パートナーと出会って世界におけるファッション業界へ向けての
「差異と力」をユダヤ式システムの投入と再構築されたゆえの現在の世界ブランド企業、「COMME des GARCONS」の全てが継続されて来た根幹であろう。
しかし、新たなビジネスパートナーとして参加した彼は、対外国メディア対応の通訳としての立場と企業パートナーとしてのスポークスマンの二役を買って出ることで、「新たな神話」を
企業、「COMME des GARCONS」を世界へ売り込み始めた。
しかし、この世界版「企業、COMME des GARCONS神話」のシナリオには残念ながら、
「田中蕾」の役割はさほどに語られていないのが現実であり、ここが彼らたちユダヤ人の巧妙さ
でもあり、この世界のファッション業界においては現在これが成功してしまっている。

このような存在だった、田中さんがご引退された。
まだ川久保さんよりもお若い。
いろいろな諸事情が重なり合って、この「覚悟ある状況」とその決断がなされたのであろうが、
僕のように長過ぎるほどこのブランドに外野席で「ぶら下がってきた」者としては、非常に悲し
く、寂しくそれ以上に辛く、ある種の悔しさも感じてしまった。

『田中さま、本当にご苦労様でした。僕のようなものにまで大変長く、とても素晴らしく、強い気骨ある世界と服を見せてくださって、ありがとうございました。』

この田中蕾さんの引退については後日また、書かして頂くことにしよう。

さて、本題へ戻ろう。
ここ1年来、このファッションの世界で語られるべきボキャブラリィーが幾つか在る。
むしろ、語らざるを得ないボキャブラリィーである。このボキャブラリィーによってそれなりの
重みがブランドに付くまでのヴァリューであり、その一つが、「LGBTI」である。もう一つは
「サスティナブル」であり、「シリカル」であろう。

僕が見る限り、これらのボキャブラリィーは残念ながら、先の東京コレクションでは殆どの
デザイナーがその彼らたちのコレクションと称するものの中では「壁紙」を上塗りするだけで、
「語り得なかったボキャブラリィー」であった。

しかし、世界に目を向けると今、ラグジュアリィーなモード界では一番脚光と注目が持たれ
ていて、このボキャブラリィーが “自分たちのボキャブラリィー”として語られなければ、
今後のメゾンの存続にまで関わり、自分たちの立ち居場所が消滅してしまうであろう、そんな
「語るべきボキャブラリィー」として、「LGBTI」があり、「サスティナブル」&「シリカル」
がある。
多分、これらのボキャブラリィーが引き金になって、「近代」が終焉を余儀無くされ、
新しい次なる「近代」の扉が開かれるのだろうとまで考える。
「サスティナブル」&「シリカル」の根幹は、「地球環境保護」であり、この意識は商品と
しての「服」の実際の生産過程で注意深くケアフルに取り込まれなければそのブランドの
「品格」に及ぶと既に、実施している高級ブランドは増えている。
が、CdGは未だにこの「サスティナブル」&「シリカル」には全く手付かずで現在に至ってい
る。
そして、もう一つの「LGBTI」も新しい社会人文的シンボルであり、リアリティとして既に、
“新たな顧客”として組み込まれ、じわじわとデザインワークに溶解し始めて来た。
例えば、あのセリーヌのディレクターに招かれたエディ・スリマンは彼の生き方を語るまでの
身体拡張(?)として、“薄化粧”を日常に持ち込み、生き方そのものを“メタモルフォーゼ”
し始めている。彼は、きっとモード界のR.メープルソープを目指しているのだろう。

モードの世界も、110年ほどが経って、気がついてみると「女性」と「男性」と言う性別
カテゴリィーだった世界に“Camp”なカテゴリィー・ゾーンが誕生し始め,この対峙する二極構造
そのものがすでに、「ナフタリンの匂い」が香る「近代」となり、遺跡化されてしまったという
までの時代性が今シーズンは読める。
多分このような時代性を素早く感じ取っての今回の川久保玲が「覚悟」を決めて見せてくれた
コレクションと僕は読んだ。

元々、この街パリで“Mens Fashion Collections” のいまのような形式で誕生したのは、‘85年
からだった。それ以前は、この国も紳士服組合が主催して行われていた紳士服見本市(SEM)の
会場内でのアトラクション的に行われていたシステムが‘85年からこの形式を”Famme
Collections”と同様な形態と手法に進化され、現在に至っている。
この時、現実社会には既に、「同性愛者」たちはこのモードの世界へ“送り手と受け手”という
“関係性”でかなりの人口が増えつつあった時代性を丁度、この年に巴里へ来た僕は覚えている。
特に、この数年前からこの街のモードの既成事実を次々に打ち破る美意識を携えて感性と感度
豊かな世界観を創造し、メディアに登場し始めていたJ.P.ゴルチェの存在と活躍も大きかった
であろう。当時、彼の存在と自由度がなければ、この街のメンズモードも現在のような危なげな
華やかさの魅力は誕生していなかっただろう。
従って、モードビジネスの関係者たちが新たな「モードの入口」とした“Homme
Collections”のビジネスシステムがこの機にこの街で誕生されたと読める。

僕自身の経験では、‘72年にこの街に演劇の仕事で訪れた時の経験では既に、「同性愛者」
たちは存在していたが、当時の彼らたちは’66年にS.ソンタグが著述した、『非定住のキャンプや
仮設テントによって自分自身を仮設のインスタレーションとして表現する「キャンパー」にも
通じる』態度と環境でそれぞれのプライド観とともに生活をしていた現実を体験した記憶は未だ
に残っている。「同性愛者」たちが集まる場所では彼らたちは意気高揚と振る舞い会話をして
いるが、周りにノーマルな男性を意識した公衆の場では途端に「ヒソヒソ声で語り合い、行動」
していた彼らたち「同性愛者」の存在であった。
独りの人間が、自由を拠り所とし、「個人の生き様」の一つとして自分が選んだ生き方には
すべて、その個人が持たなければならない「覚悟」と「責任」が付帯すると言う「当たり前さ」
は昔も今もそして、男も女も普遍である。その根幹に「自由」を求めれば、尚更のことである。
当時であれば、「同性愛者」たちが自分たちの持ち得た才能が活かせ、心地よく生きて行く
世界、「CAMP」の一つに「ファッションの世界」が既に、成立していた事も事実だった。

そして、この35年程の時間の流れの元、現在では気がつくとファッションの世界のみならず、
多くの「同性愛者」たちが一つの社会的カテゴリィーを持ち得るまでにこの「自由の裁量」は
進化、拡張され昨今の「LGBTI」と言う広がりへ至っている。特に、このファッションの世界で
は「同性愛者」でなければ、超越した自由さと大胆かつ、繊細さによった豊かな創造性が生み出
せないと言うまでの“常識”が既成事実を生み出した。
したがって、この世界で今日現在、「同性愛者」を語る事そのものは、既に新しくない世界で
ある。
このような時代感を読み込んだ(?)今更と思うまでのコレクションを行なったのが、
今日の「コムデ ギャルソン オム・プリュス」のショーだった。
昨日のショーでは「LGBTI」をそのクリエイティブ・コンセプトの根幹に据えて、見せた
『CAMPなショーであり、CAMPなコレクション。』だった。これに上書きされたのが、歌劇、
「オーランド」の衣装を手がけると言うシナリオ。
「LGBTI」をどのように伝える為のショーのボキャブラリィーに使うか?
そこで採られた手法(?)、その一番わかりやすいコンテンツとして選ばれたのが「CAMP」。
そして「歌劇、オーランド」の衣装担当。
僕が思うに、これは最もファッション的でまた、最もトレンドな処方であり、最も表層的な
手法を選択したこのメゾンの旨さでもあり結果、世間を、メディアを驚かすだけ(?)が
いつものこのメゾンのミッションだったのか?と感じてしまうまでのコレクションでした。

実際、日本のファッションジャーナリストがどれだけこの「CAMP」を理解しているか?
あるいは、「歌劇、オーランド」をかつてに観たことがあるか、(自分でお金を支払って、)
まず、若い世代は教養不足で知らないであろう。
知っているとしたら、今年のN.Y.メトロポリタン美術館のファッション展示のテーマとしての
「CAMP」と言う理解度であろう。また、その展覧会のガラ・パーティーのドレスコードが
「CAMP」で、よりファッションピープルたちには理解(?)されているだろう。
しかし、このファッションイベントはやはり、女性が中心になった「CAMP」とはどのような
“衣装”を身につけてゆけばいいのか?が現実のレベルであり、これだけのヴァニティが揃っての
情報はすでに、メディアでも報道されてしまっている。なのに、何故、わざわざこの「CAMP」
を今回のコレクション手法として使ったのだろうか?

多分、僕なりの“深読み”をすれば、「あえて、メンズの世界だから、」と言う発想。そして、
「歌劇、オーランド」と言う上書き。そして、CdG H.P.版「LGBTI」=「CAMP」を表現して
みたかった。或いは、意表を突くと言う分かり易いいつものこのメゾンの“ミッション”によって
反響を求めたいがために?

無知、無教養な輩が多い日本のメンズファッションジャーナリストたちや業界人たちへ
向かって“吠える。”川久保玲の魂と姿を先ず、彼ら達が自認してほしい。
今や、多くのファッションジャーナリストと称する群衆は僕的な見方で言わせて貰えば、ただの
「ファッション・レポーター」の輩でしかないだろう。
もちろん、この世界を評論することができるレベルのクリエーションも少なくなり、それを
評論したくなるようなコレクションもほとんどなくなったのも、もう一つのこの世界の現実で
あろう。
しかし、「良い評論が出るからまた、優れたデザイナーが登場する。」と言うお互いの
関係性がいつから損なわれてしまった世界になってしまったのだろうか?
この現実状況をも目論んだ川久保玲の戦略は今回もまた、彼女に軍配が上がるであろう。

今回の川久保玲のコレクションを見て、彼女は自分で批評家、スーザン・ソンタグ
(Susan Sontag)のこの60年代の異端著作であった、「キャンプについての覚書」(『反解釈』
1966/所収)を読んだのだろうか?
或いは、自身の身近かな同性愛者からの単なるファッションビジネス的アドバイスによって
アートディレクションしたのだろうか?
そして、時代は「同性愛者」たちがより、細分化され(?)た現在の「LGBTI」たちへ、
何かを差し出したかったのだろうか?
或いは、これは彼女の「心の涎」なのだろうか?
僕には、ここにも変わらないこのデザイナーの何時もの立ち居場所が見えてしまう。
それは、「決して、当事者ではない、傍観者としての覚悟しか見えない。」それである。
「CdGとPUNKな関係」も同様である。「モードとしてのパンク」をこの世界で長生きさせて
いる張本人であるからだ。

女性モノの世界で散々見せられ、見慣れたディテールとエレメントが「同性愛者」ではない
若者たちも混じって、スタイリングされ、着さされて、「モダンダンサー」よろしく狭い薄暗い
会場を“舞う”仕草。ここまで来ると僕はやはり今シーズンのトレンドである、「ユニフォーム」
の世界をも感じてしまった。
それは僕流のボキャブラリィーで言ってしまえは、「ニュアンスなユニフォーム」の世界で
しかない。と言うことは、「同性愛者」たちのユニフォームという拡大解釈までが可能な現実的
世界だと言うことでもある。
このレベルに驚き、「凄い!!」と発するオーディエンス、フロントロウに座らされた輩たち
見る側の教養不足と世間知らずを上手に手玉に獲ったコレクションとも読めた僕である。
ユダヤ人的発想からいえば、「一つのことで三つ以上をミッションにする。」であろう。

参考までに、「CAMP」について下記のいくつかの情報をご一読くださればもっと、
これからの「LGBTI」の根幹が、そして、今回のCdG H.P.のコレクションが、
「CAMPなショーであり、CAMPなコレクションであり、でも、実はCAMPでないガーメント
だった。」が理解出来るでしょう。

「参考/ CAMPについて;」ー1:
「批評家のスーザン・ソンタグSusan Sontagは、「キャンプについての覚書」
(『反解釈』1966 所収)で、キャンプを「不十分な深刻さ、経験の劇場化の感性」「感覚の
自然なあり方よりも、それを人工的に誇張するような感性」だといっている。
「高級文化」の倫理的な深刻さや格式、「前衛」のもつ葛藤への極限的な表現と区別して、
彼女は三つめの文化的な価値基準としてキャンプを位置づけている。世界への徹底的に肯定的で
審美的な態度でありながら、その態度を滑稽であると自認し、みずからを面白がる皮肉な視線を
伴った生き方、そのようなキャンプの感性は、自分らの異質さをパフォーマンス化して、
そうすることで逆に、現実や周囲の世界、社会的な制度を異化していくことができる。
それはソンタグが、ゲイの美学や世界戦略を、60年代ポップカルチャー時代におけるダンディ
ズムの可能性として評価したものであったが、今や、ポストモダン的な感性としては一般化した
ともいえる。つまり、自己への再帰的な言及を欠かすことなく、同時に自己のアイデンティティ
を、受け入れつつも、その生成それ自体を軽やかに問題化していく感性である。
「キャンプ」な作家は、愛するものや表現しようとするものには誠実であるが、同時に、
「真面目さ」を窮屈だとして笑い飛ばしていく。それは、定住による登録と分類を空間の
ポリティックスとする資本主義システムにあって、非定住のキャンプや仮設テントによって
自分自身を仮設のインスタレーションとして表現する「キャンパー」にも通じる態度では
なかろうか。」
・参考文献/松井みどり/2002:『アート:”藝術”が終わった後の”アート”』/朝日出版社
P.ブルッカー/2003:『文化理論用語集』/新曜社
暮沢剛巳/2002:『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』/フィルムアート社
https://keiofieldwork.jimdo.com/field-work-shop/%E7%9F%A5%E3%81%A8%E5%AD%A6%E3%81%B3%E3%81%AE%
E5%86%8D%E7%B7%A8%E6%88%90/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83
%B3%E3%83%97/

「参考/ CAMPについて;」ー2:
「2019年『METガラ』のテーマは「キャンプ」 ソンタグが提唱した美学」
2019年のテーマは「ファッションの中のキャンプ」。スーザン・ソンタグの論文に依拠
大きな人気を博した「ファッションと宗教」に続く、2019年のテーマは「ファッションの中の
キャンプ」だ。
この「キャンプ」の概念は、スーザン・ソンタグが1964年に発表した論文『「キャンプ」に
ついてのノート』に依拠している。ソンタグはこの中でキャンプについて「不自然なもの、
人工的で誇張されたもの」を愛好する感性、美学であるとした。
『METガラ』の2017年のテーマは「川久保玲とコム デ ギャルソン」だったが、
今回の『Camp: Notes on Fashion』展にも出品が予定されている川久保玲は、
コム デ ギャルソンの2018/19年秋冬コレクションのショーが『「キャンプ」についての
ノート』からインスピレーションを受けたことを明かしている。
「キャンプ」の美学の起源と、ファッションへの影響を探る展覧会『Camp: Notes on
Fashion』では、この「キャンプ」の美学の起源を探求し、いかにしてメインストリームの
カルチャーにも大きな影響を与える存在になったのかを考察する。
メトロポリタン美術館コスチューム・インスティチュートのキュレーターであるアンドリュ
・ボルトンは「ソンタグの『「キャンプ」についてのノート』を効果的に例示しながら、
現在進行形で変わり続ける『キャンプ』のファッションへの影響に関するクリエイティブで
批評的な対話を進める」と展覧会の内容を説明する。
また「ハイアートとポップカルチャー双方へのキャンプの大きな影響を紐解く展覧会になる」
と語るメトロポリタン美術館ディレクターのマックス・ホラインは、「本展はキャンプの変化を
辿り、重要な要素に光を当てることで、この大胆なスタイルが持つアイロニックな感覚を体現
し、美や審美眼に関する従来の考え方に挑むと共に、美術史・ファッション史上でこの重要な
ジャンルが果たしてきた決定的な役割を確証する」と明かしている。
「衣装や彫刻、絵画など約175点が出展」
展示作品は、女性服、男性服に加えて彫刻、絵画、ドローイングなど約175点を予定。
作品の年代は17世紀から現在まで幅広い。取り上げられるデザイナーには、クリストバル・
バレンシアガ、トム・ブラウン、ジョン・ガリアーノ、ジャン=ポール・ゴルチエ、
マーク・ジェイコブス、クリスチャン・ラクロワ、カール・ラガーフェルド、ミウッチャ・
プラダ、イヴ・サンローラン、ジェレミー・スコット、アナ・スイ、フィリップ・トレーシー、
ジャンニ・ヴェルサーチ、ドナテラ・ヴェルサーチ、ヴィヴィアン・ウエストウッドらが名を
連ねる。展覧会はグッチのサポートによって行なわれる。
『METガラ』の共同主催にはレディー・ガガ、ハリー・スタイルズ、テニス選手のセリーナ・
ウィリアムズら参加。
展覧会『Camp: Notes on Fashion』は2019年5月9日から9月9日まで開催。
オープニングを記念する『METガラ』は5月6日に行なわれる。アメリカ版『VOGUE』編集長
のアナ・ウィンターと共にホストを務めるのは、レディー・ガガ、ハリー・スタイルズ、
グッチのクリエイティブディレクターであるアレッサンドロ・ミケーレ、そしてテニスプレイヤ
ーのセリーナ・ウィリアムズである。レディー・ガガの過激で驚きを伴うファッションは、
「不自然なもの、人工的で誇張されたもの」を愛好する感性、というキャンプの定義と相性が
良さそうだ。グッチのキャンペーンモデルも務めるハリー・スタイルズ、そして「女王」
セリーナ・ウィリアムズがこのテーマをどのように解釈するのかも注目が集まる。
#MetCamp
・参考サイト;https://www.cinra.net/column/201810-campmet

「参考/ CAMPについて;」ー3:
2019年のメットガラはCampy(Campっぽいもの)ではあれど、Campではなかった。 
スーザン・ソンタグの『キャンプについてのノート』をテーマにしながら、Campの解釈が、
そして,ガラでオープニングを飾った展覧会の内容にしても、多くの疑問が湧く。
それはソンタグの伝記作家として指名された作家ベンジャミン・モーゼーも同じだった。
本人とも交流があった彼は、今回のメットガラを巡る議論に加わり、「タウン&カントリー」で
このように疑問を呈している。
スーザン・ソンタグはメットガラを愛していたであろうと思う(今回、私自身は憎まざるを
得ないけれど)。
今年のメットガラはソンタグから(少なくともその一部を)インスパイアされたものである。
メトロポリタン美術館の衣装芸術研究所の資金集めイベントとして開催され、毎年異なるテーマ
にスポットライトを当てて祝うこの夜は、ファッションカレンダーにおいて最もパパラッチされ
るガライベントだと言える。今年のメットガラはソンタグによる『キャンプについてのノート』
にオマージュを捧げている。
1964年に伝説的な文学と政治を扱う季刊誌、『パルティザン・レビュー』に発表された
こちらの作品は、ソンタグを一躍有名にしてみせた大胆不敵なものだ。「世界に存在する数多く
の物事は未だ名付けられてさえいない」と書いた彼女は、「そして多くの物事は、名付けられて
はいるものの、それが何であるか述べられることもない」と語った。
ソンタグと当時の彼女の周りのまがい物軍団たちはそういった名付けられていない物事に
名を付け、真剣な人間なら書くはずもなかったことについて ―あるいはこれまで真剣に書かれた
こともなかった数々の主題について書きまくり、図書館を埋め尽くそうと決心していたようだ。
「キャンプのエッセンスは不自然さへの愛、つまり偽物と誇張である」
そういった主題のひとつが、ホモセクシュアルでの指向における一種独特の雰囲気をまとう
‟キャンプ”と言われるものだった。初期の草稿段階では『ホモセクシュアリティについての
ノート』と呼ばれていた。その後『反解釈』の一部として出版されると、ゲイの各種テイストに
対する公式論拠のようにも読まれるようになった。「キャンプのエッセンスは不自然さへの愛、
つまり偽物と誇張である」とソンタグは書いている。「そしてキャンプとは密教的なもの(一子
相伝的な内密なもの)であり、小さな都会の一派閥におけるプライベートなコードやアンデンテ
ィティのしるしでありさえする。
ソンタグは忍耐強く、なぜ(ジャン・)コクトーは‟キャンプ”で(アンドレ・)ジィドは
そうでないのか、シュトラウスはそうでワグナーは違って、カラヴァッジョと「モーツァルトの
ほとんど」がグループ化できるのか説明している。彼女はジェーン・マンスフィールドと
ベティ・デイヴィス、ジョン・ラスキンをさりげなくメイ・ウエストと同じに位置づけている。
真の「趣味の貴族」と彼女が書く人々はホモセクシュアルであり、彼らの「耽美主義と皮肉」
それとともに「ユダヤ人的なモラルに対する真剣さ」今日における現代的な繊細さを形作ったと
される。
キャンプとはレジスタンスだった。
ソンタグのおかげで、‟キャンプ”は、今私達が1960年台と結びつけるような新しくリベラルな
セクシュアリティやポリティクスに対するアティチュードを象徴するものとなった。
今日『キャンプについてのノート』を読むと楽しそうで面白おかしく ―そして、ちっとも
色あせていないことが分かる。だが、出版された当時は多くの人々からの激高を受けた。
当時は経口避妊薬が男性優位を脅かす存在であり、黒人市民権運動が白人至上主義を脅かして
いた。『キャンプについてのノート』はヘテロセクシュアリティ至上主義を脅かすものだった。
『キャンプについてのノート』は確立されたヒエラルキーを覆すための幅広い動きの一部で
あったのだ。
ホモセクシュアル的なテイストは常に芸術の底流にあった。ただ、名付けられるようなもので
あったことは稀である。もし名付けるようなことがあれば、ゲットーの中に投げ込まれていた
はずだし、そこの住人たちは病んでいて、倒錯している変態性欲の持ち主だとされていたこと
だろう。ソンタグはそういったアウトサイダーたちの繊細さがメトロポリタン美術館のような
エスタブリッシュメントの殿堂のような場所を包み混んでいるのを見るのを大変に愛したはず
である。
スーザン・ソンタグは同時に、メットガラを嫌っていただろう。
「私はキャンプという概念に強く引き込まれている」と彼女は書いている。「そしてそれと同じ
ほど強く、気分を害されてもいる」とも。
ソンタグはヒエラルキーに対する批評を展開し過ぎることで、それがより一層強力な
ヒエラルキーに置き換わること、お金だけが人間の価値を決めるような人たちによるヒエラルキ
ーになることの危険性を充分に承知していたのだ。
ソンタグは生涯に渡って難解な芸術におけるチャンピオンだった。それも長年の忍耐強い研究
活用によってのみ報われ、華美で派手なことが賞賛される社会に常に脅かされるような芸術に
おいて。彼女はセレブリティという概念に対してかなりの不快さを感じていた。ある人物の価値
がその人のイメージによって上下してしまうような ―または 皮肉でさえないタブロイド紙に
よってもたらされる薄っぺらな名声のために祝われるようなイベントで(名声を気にして)
怯える、そんな概念に。
ゲイの美学において、ソンタグは「社会への批判」「ブルジョワの期待に反する抵抗」を
見た。
ゲイの人たちが毎日殺害されてしまうようなこの世界で、ソンタグがもし健在ならば、
ゲイの人たちを除外するインサイダーの領域を象徴するようなイベントを賞賛し、深遠な批評を
展開するメインストリームの社会を見て、大きな警戒心を抱くだろう。そしてクレイグスリスト
(交流サイト)で人々がインシュリンを乞うようなこの国で、生涯をかけた社会的正義の活動家
であったソンタグが、ひとり3万ドル(約330万円)もするようなチケットが必要なイベントを、
そして、来場者が衣装やジュエリーに費やす法外な額を嫌悪したに違いない。
ゲイの美学において、ソンタグは「社会への批判」「ブルジョワの期待に反する抵抗」を見た
だからこそ、ソンタグはこの最も格式高い場所で開催される最もブルジョワ的イベントにおいて
闘い、真似してみせ、ウィンクしながら参加する、アウトサイダーたちの精神である
‟キャンプ”に対して、真実であり続けるパーティーゴーワーたちに興奮を覚えていたに
相違ないのだ。
(from Town & Country "Why Susan Sontag Would Have Hated a Camp-Themed Met Gala")
哲学的テーマをなんとかファッションとして表現することは、否定されるべきことではない。
しかし、その背後に様々な人たちの犠牲や思いがあるものを、マジョリティがファッションと
して消費し、本来いるべきである人たちを置き去りにしてしまうことは危険だとする、モーゼ―
の言葉にファッションで真剣に働く人であれば耳を傾けたいもの。」
(Translation : Oh Ryoko)
・参考サイト/ https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a22055094/
susan-sontag-met-gala-2019-camp-theme-190507/

ご一読、ありがとう。
文責;平川武治:令和元年6月22日;巴里ピクピュス大通り街にて。

投稿者 : editor | 2019年06月22日 07:51 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のSS20/コレクションを深読みしてみよう。

僕はここ1、2年来のパリで見るコレクションに対しては、真から「かっこいい!!」
”It was so Super Cool!!”と思うようなものに、出逢い難い時代になったとしか感じられまないの
は僕だけだろうか?

これは自分でも判るのですが、僕は以前のように、書けなくなって来たのです。
これは自分が歳をとったと思っていたのですが、そうではなく、書きたくなるようなショーが
ほとんど、無くなって来たのだからでしょう。
僕が今までの30数年間、見続けて来た巴里・メンズコレクションの流れから言えることは、
その殆どが、「書くほどのものでない。或いは、書きたくなる程のコレクションではない。」
多くの若手デザイナーたちは表層のトレンドと称される「壁紙」を上塗りする「小手先」や
「要領の良さ」だけのレベルのショーでしか無く、メディアはそのレベルではしゃぎ回り、
おべんちゃら・御用記事で広告を取ろうとする魂胆がその総ての世界になってしまった?
そう感じてしまっています。
解りやすく言って仕舞えば、そんな彼らたちからは「欲の涎」しか見えないのです。
海外の今、世間を騒がしているブランドディレクターたちは在る時期に、思ひ切り騒がれること
をする事が“仕事”だと割り切って(?)のレベルでの“役割”しかしていませんね。
彼らたちはそれが自分たちが“有名”になる根幹だとスネてしまって、知っているからです。
ここには残念ですが、「服」が好きで、「服」を愛し、「服」を創造する人たちが、例えば、
川久保玲や彼女の頑張りにクールさを感じ自分たちのクールさを持ち続ける為に戦っている
高橋盾君や宮下君の“FORCE”がそして、その「こゝろと想い」が感じられるコレクションが
多くの「壁紙デザイナー」たちによって、ほとんど皆無になってしまった為でしょうか?

しかし、一度積を切ってしまった濁流は止まる事なく新たな黒人ファッショングルービーたち
の夢と強欲を飲み込むかのようにノイズを撒き散らす、そんな実情と表層の元で“Men’ s F.W.
Paris”が始まりましたね。
そんな気分の僕が初日の「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のコレクションは書きたく
論じたくなったのです。 原因はいまのこの様な時代で「全てが濃い」コレクションへ挑戦し
続ける彼のFORCEに魅了されたからです。

少し前に入った巴里、6月の巴里は二番目に好きな季節。
そして、今日も快晴。気温も風も心地よさだけを感じさせてくれている。
そんな穏やかさに委ねて読み始めた手じかに残っている本、
幾度も読んでいたはずなのに、昨日見つけたボードレールの一文が巴里の僕のこゝろに
ミラージュをおこす。

「女性が妖麗かつ超自然的な姿に見えようとするのは、全く正当な権利だし、一種の義務を
果たすことでさえある。女性は人を驚かし、魅惑する必要がある。偶像として、崇拝される
ために身を金粉で覆わなければならないのだ。だから女性は.......自然の上方に登る手段を、
あらゆる芸術から借りてくるべきだ。......そうした手段を数え立てれば限りもないだろう。
しかし、私たちの時代が俗に、メイキャップと呼んでいるものに、話を限るとしても、
おめでたい哲学者たちが愚かしくも排斥の対象としている白粉の使用というものは、狼藉者の
自然が顔色の上にまき散らしたありとあらゆる汚点を消し去り、皮膚の木目と色のうちに一つの
抽象的な統一を作り出すことを、目的ともし結果ともしており、この統一こそは、肉襦袢
(タイツ)によって作り出される統一と同じ様に、人間をたちまち彫像に近づける、すなわち、
神的で一段上の存在に近づける。......」
/「ボードレール全集#4/阿部良雄訳:“現代生活の画家”から。

「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のコレクションを見ていて頭に浮かび始めた
幾つかのシーンに混ざって、このボードレールの文章を思い出した。
彼が描いたこの文章はちょうど、150年前に書かれたものであるが古さを与えず、このように
”メーキャップ“について語られた文章としては珍しく僕は大切に感じている文章である。
このデザイナー宮下は日本人デザイナーに珍しく、壊れそうな繊細さを強靭に持ち、その繊細
さゆえに自分が生み出す服の世界では彼の饒舌さをデザインに込めたものである。
この宮下の繊細さがゆえの饒舌なデザインによる今シーズンのコレクションを僕は
「ニュアンスのユニフォーム」というシーズンだと発し感じた。
“ニュアンス”の意味は「微妙な雰囲気」と簡単に捉えるとわかりやすいかもしれません。
はっきりとわかることではないが、わかる人にはわかる微妙な雰囲気のことです。
ほとんどの日本人を含めたデザイナーたちが今シーズンのトレンドとしての“ユニフォーム”に
引っかかって、単純に機能あるものが“ユニフォーム”だと大いなる勘違いをしたコレクションが
殆どだったが、このデザイナーの宮下の思考能力は決して、そんなに浅くなかった。
むしろ、強かでアイディアと感覚を纏い付くまでに、考え解きながらそれを紐解いて行く
プロセスを自身が楽しみながらあるのデザイナーへの畏敬の念をも込めて構築して行く。
それが今シーズンは亡くなったK.L氏だ。彼の癖の一つである“Neck fetch.”へのオマージュが
見て取れる。
しかし、彼も今シーズンのトレンド・フレームである「Gender」のサークルに参加する。
それをロマンティクに彼の癖の一端でもでもあろうか、「フェッティシスト」に纏め上げた。
そこでは、僕は少年臭さの恥じらいとともに隠そうと漂わせたマヌカンのメイキャップに
気がとられた。そして思い出したのが前述のボードレールのメイキャップに関する一文だった。
ユニフォームであってユニフォームの意味を喪失させてしまうまでのミッキーマウスたちの
使い方は自己の欲望の道を欲しながらも、同時に遮断するダブルバインドの状態も感じられ、
註釈し、同時に隠蔽する役割をこのミッキーマウスは担っている。
彼が作り出す今シーズンの世界はもはや身体や欲望や感情から切り離された表層の認識の源泉
としての視覚ではなく、それらとそれぞれが結びつく事で視覚や視覚的イメージ(ファンタス
マ)が彼の想像力の中で豊饒されている。例えば、彼にとってのこのミッキーマウスは実は、
一種の”カモフラージュ・プリント“なのである。ここでも、「ミッキーが持っている意味を
喪失させる」までのグラフィックな使い方というか、遊び方が痛快である。
それによって、今回の彼の“ジェンダー”なるファンタスマは現実の物質的な存在あるいは精気
とも合体する事で着た人間の身体中を駆け巡るだろう。そして、時には心の病に、フェッティ
シズムにおとしいれたりするかもしれない。
ここでは、「どんな物も、使用対象である事なしには、価値ではあり得ない。」という
マルクスの商品の物神性に関する言葉を思い出そう。
そして、「モノの救済はモノになることによってのみ可能であり、服は服になることが
服なのだと言おう。」
或いは、「意味が消滅されたユニフォーム」に異質な意味をカモフラージュすることによって
「Gender/Lgbti」へ何かを差し出したのだろう。
文責/平川武治:巴里ピクピシュ大通りにて、6月27日:


投稿者 : editor | 2019年06月19日 22:53 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

Looking at the luxury of Paris that I had nurtured for 35 years.

“THe Elegance quality begins to change.“

Mr. K. L. passed away and the "mode elegance" of this town is also more and more,
like a "gold plating" is starting to walk alone swinging to start at Paris.
It will be a business priority this season with a classical atmosphere.
Surely, the trend theme is "The Cinema".
How does they playwith the real Luxury in this frame?
I have seen only a few shows on the second day, but it will be easy to understand.
Because it is such an era, let's say "The LUXURY" from each reality I'd like to see!!
The modern luxury is already not like a ”Picturesque“ anymore.
But this town also needs such a luxurious luxury to attract new customers.

I remain strongly impressed,
Kawakubo's last season's elegance created by the spirit and curiosity towards
another now if you see such reality in this town.
I understand that her "The LUXURY" is completely different from the stage
which is comparable.

Thanks a lot.
Taque.HIRAKAWA/26th. Feb.’19:

投稿者 : editor | 2019年02月27日 18:28 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

T.MIYASHITA SOLOIST Collection A/W ‘19 ‘20を感じる。

「こんなにも考え過ぎなくてもいいのに。
こんなにも求め過ぎなくてもいいのに。
もっと、たかが服だから突き放してもいいのに。
でも、優しさが滲み込んでくる服だ。」

T.MIYASHITA SOLOISTのフィレンチェ・ピッチウオモ以降、2年ぶりのコレクションを
パリで見る。彼のコレクションを見ているといつも同じ気分になる。
それはそのまま彼が持っている癖の世界観なのであろう、
それほどまでに彼は自分の世界観を堅持している数少ない頑固なデザイナーである。
「切なく、厳しくだが、優しさが最後には溢れる」服作り職人なのだ。

真面目に、深く考え込み過ぎてしまうほどに、服が好きなのだろう。
“壁紙の上書き”では治らない好奇心が彼のすべてのコレクションである。
多分、“組み立てること”が好きな遊びの少年だったのではないか?
彼のコレクションを見ていると、“組み立てあげる”服を創造している。
従って、建築的にも見えてしまうことがある。人体を、こゝろを大黒柱とした建築である。

その大半の日本人デザイナーが特にそうであるように
例えば、FECETASM落合のように「後出しジャンケン」で「貼り合わせる」事がデザインだと、
思い違いをしてイキがっているタイプでは決してない。即ち、商人ブランドでは無い。
だから余計に興味を覚える。

考え過ぎ、組み立て直し、また組み立てるのが多分、
とっても自分らしい創造性であることを
それが自分にとってのラグジュアリィーだということを
もうこの歳で熟知しているデザイナーでもあろう。

「protectionism」と呼ぼう。
何をプロテクションしたいのか?
何でプロテクションしたいのか?
どうしてプロテクションしたいのか?
プロテクションは自由を求めすぎるゆえの証し。

自分の息使いを、
自分のこゝろの有り様を、
自分の身体を、
そして、今回のコレクションでは
自ずから性までもプロテクションし始めたのか。

一枚のフリースの布が巻きつけられることで
こゝろを癒してくれるモノになることも信じて、切り裂く。

自由に徘徊したい。
自由に癒したい。
自由に、自分らしく自分に委ね生き続けたい人間には
もってこいのユニフォームであろう。
そして、常に、自分らしく自由に生きる概念を持った人間が身に付けたくなる
アーマーでもあろう。

彼の服は着た人間だけを彼の世界観で優しく癒してくれる。
多分、そんな服を作りたかったのだろう。

厚化粧の女に惚れる男は多い。
表層しか読み取れないファッション識者もいる。
いや、本当は大半の輩たちは表層しか見ない。
そのためにフアストロウに座りたがる。
やがて、携帯をスイッチ・ONにする。

そんな輩たちは決まって、「重い、暗い」と嘆く。
その重い、暗き世界の下には
途轍も無い優しさに溢れた自由な世界が仕組まれているというのに。

こんな時代になると、
大きく張り出された壁紙を上書きする輩たちと
厚化粧の女に惚れる男は後をたたない。

だが、「後出しジャンケン」は耐え難い恥じらいだと、
まだ、含羞の念を覚えている育ちで育った人間の頑固さゆえの
これは、彼自身の“ラグジュアリィー”だ。

ありがとう、宮下くん。
平成31年1月20日:巴里ピクパス大通りにて。

投稿者 : editor | 2019年02月01日 02:20 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

”We Margiela”/M.M.M.ドキュメントフィルムの試写を見る。

このドキュメントフィルム、「We Margiela」は昨年7月に南イタリーで亡くなられた
Jenny Meirensさんへのオマージュでしかない。

このような映画は古い例えを使うなら、「メクラと象」になり易い。
が、シナリオにおけるコンテンツがしっかりしているのと編集が上手くなされているので、
映画としてもファッションに興味ある人ならば、好奇心溢れる映画となっている。

かつての当事者たちが語る、かつての古巣、M.M.M.という名のコミューン。
あるいは、画面上では翻訳されなかった、プレス担当だったパトリックが発言している
「ファッション・キブツ」という発想は面白いし、“ユダヤ人+知性”がないと思いつかない。
「生きている人間」をこれだけ語れるという現実とその想いそして、”We”という関係性で
持ち得られたプライドの証明。
「関係性」を極めることとは、それぞれの立ち居場所があっての「関係」性。
“白、無記名タッグ”など、このブランドの特異性はジェニーさんのアイディアだった。
そして、資金を工面したジェニーさんと自分の文化度も含めた世界観をクリエーションし
マーチン、そんな二人のそれぞれが負うべきリスクに差異が生じてきた。
システムの成長とビジネスの進展により、それぞれが持つべき、「責任」が不明瞭化し始める。
この“We”とは「二人の主人公」と周囲のスタッフとでできる関係性。
そして、これはユダヤ人特有の「関係性」というシステムとその発展的プロセス(?)の
ドキュメント。
資金を工面した人と、それを使って創造の世界を生み出す人との関係性の過去の進化形。
すなわち、「鶏が先か、卵が先か?」

これは優秀なファッション・ブランドでは、当たり前の事であるこの関係性への問い。
才能に焦がれてあつまるか、お金に焦がれて集まるか?
あるいは、そのブランド名に焦がれて集まることもある。
「有名になること。」「常識を破ること。」この二つがもたらした情熱と創造
そして、成功と認められた後の立ち居場所の差異と関係性に生じる差異。

画面でも語る、インゲの変わらぬ本音発言が最も、素晴らしい!
14年間、「有名になること。常識を破ること。」のために無心につき走り続け、
疲れ切ってしまった「二人の主人公」と“We”たちのたくさんある中の一つの実話。

彼、パトリックはマーチンとは公私ともに最も近い関係でもあり、苦渋を味わったオリジナル
メンバーが求めていたシステムがやっと、日本マーケットによって稼働し始めた後の‘93年から
この映画の登場人物では遅くに加わった。そんなパトリックはスノッブに、一番客観視した視点
で或いは、一番マーチンに近い思いを発言しているのだろう。
「会社としての機能が保障されていたからこそ、パワフルなデザインが生まれたわけで、
そのデザインなしには会社としてあれだけ機能しなかっただろう。」P. S.

そして、ブリュッセルで自らが持っていた2件のブティックを売却してマーチンが語った
“夢”に掛け共有し、資金を工面したジェニーさんは、この14年間を猛スピードで働き詰めた。
母親であったジェニィーの一番近い立ち居場所にいたソフィーの発言もジェニィーとマーチン
そして、“We”たちの関係性を見たく無いことも含めて、見ていたソフィーの発言も重みがある。
お互いが委ねあって持ち得た「夢」は成就したのだろうか?
或いは、垣間見ただけだったのだろうか?
「我々は、とにかく既存の方法から離脱しようと努力しただけなのです。
長期的に考えれば、システムに依存せずに自由を得ることができるはず。
負けることを覚悟しないと、勝つことはできないのです。」J.M.

数字を知らなかったマーチンに”それなり以上の数字“をもたらして、
結果、彼女は最終的には”挫折した“のだろうか?

僕には、数日後まで気にかかったことが2つあった。
その一つは、元プレス担当者だったパトリックの「FASHION KIBBUTZ」発言。
これが字幕翻訳がなされていないのは勿論、故意なのだろう(?)
ここでは僕は『「ヒピィー・コミューン」と「キブツ」の相関関係論が成立するのだろう
か?』という新たな好奇心が芽生えた。
もう一つは、ジェニィーさんが亡くなられたのが、‘17年の7月1日でした。
このドキュメントフィルムが完成したのが、その2ヶ月ほど後の’17年9月と書かれています。
では、亡くなられるご生前にジェニィーさんご自身はこのドキュメントフィルムの
最終チェックには参加されなかったのだろうか?
僕には、ここがこのドキュメントフィルムの制作者の義務と責任所在の根幹になるはずだと
確信もしそして、このフィルムがただ単なる最近話題の「壁紙的M.M.M.」レベルの
カテゴリィー「メクラと象」映画なのか、の核心でもあると信じる。

上映後、館内の照明がつくと僕はなんだかとてもサッドな気分になってしまったのが
本意でした。
そして、「ファッションへの愛があれば、ファッションとはこの映画が語っているように、
人生において、偉大であり凄いものなのだろうか?」という問いも改めて実感に想った。

ありがとうございました、素晴らしいファッションのもう一つの世界観を見せて下さった
ジェニーさん、安らかに。
ご冥福を 改めてお祈りいたします。

***
Such a movie is easy to become "Blind and elephant" if you use an old example.
However, since content in the scenario is solid and editing is done well,
If you are interested in fashion as a movie, it is a very curious movie.

   A commune named MMM, formerly known as the old nest, told by former parties.
Alternatively, Patrick, who was in charge of press that was not translated on the screen,
said the idea of ​​"The fashion ・kibbutz". It’s the idea of "fashion / kibbutz" is interesting
and I can not think of it,I’m not "Jewish + intelligence".
The reality that we can talk about only living beings and their desires and the proof of
pride obtained with the relationship "We" is the basis of this movie.
"Extracting relationships" means "relationship" with each place of residence.
"The White & No Name tag" etc., the specificity of this brand was Jenny 's idea.
And Jenny who raised the fund and creator of one new world view with his own
aesthetic sense, Martin. There was a difference in the risk that each of these two should
bear.
Due to the growth of the system and the progress of the business, the "responsibility" that
each should have is beginning to become obscure.
This "We" is a relationship that can be done between "the two main characters" and
surrounding staff.
And this is a document of the Jewish "relationship" system and its developmental process
(?).
A past evolutionary form of the relationship between the person who made money and
the person who creates the world of creation using it.
   That is one of the story, "Is chicken first or egg ahead?",also.
This is an excellent fashion brand, a question to this relationship which is commonplace.
Are they gathering for talent? Does they get bored with money?
Alternatively, they may gather briskly on name of the brand.
"Become famous." & "To break common sense."
The passion and creation brought by these two
And differences arising in the differences and relationships of the place of the own
positions after being recognized as success.
Talk on the screen, Inge's unchanging real intention is the most cool!

For 14 years, They continued to run absolutely for "to become famous, to break common
sense" that one true story among a lot of "two main characters" and "We" who have
exhausted.
He, Patrick, was closest in relation to Martin, both public and private.
However, he joined the commune in '93 after the business system that the original
members who had tasted bitterness finally began to operate by the Japanese market.
Therefore, he was one who joined late in the characters of this movie.
Is such a Patrick saying to the snob, from the point of view that is most objective or the
feeling that is closest to Martin, the most?
"Because the function as a company was guaranteed, a powerful design was born,
Without that design it would have worked only that as a company.” By P. S.

Jenny multiplied the "The dream" Martin talked about and in order to share that "The
dream" with him she sold two boutiques that her owned in Brussels, raised funds and
packed up the fight very intensely at a tremendous speed for the last 14 years.
Sophie's remark at the closest her standing position of Jenny, who was a mother, also
had weight. She was watching including the things that she do not want to see the
relationship between Jennie and Martin and "We".
Did they fulfill " The dreams" that they had entrusted to each other and fulfilled?
Or was it just a glimpse?
"We just tried to withdraw from existing methods anyway.
In the long term, you should be able to get freedom independent of the system.
If we do not prepare to lose, we can not win. “ by J. M.

"It is more than the number" brought to did not know sales real number Martin, a result,
she eventually to wonder "frustrated" him?

There were two things I care about here.
One of them is Patrick said "FASHION KIBBUTZ" remark, who was a former press
representative.
Of course it is deliberate that this is not translated subtitles (?)
Here I will say that "the correlation between" Hipie · Commune "and" Kibutsu "will be
established Is it? “ I had a new curious spirit grew.
Another thing was that July 1st. ‘17, Jenny passed away.
This document film was completed as 'September 17' that was two months later.
So, Jenny herself before the death of this document film
Did not she participate in the final check?
I am convinced that this will be the backbone of the duties and responsibilities of the
producers of this document film. This is because it believes that this film is at the heart of
whether it is just a recent topic "wallpaper MMM" level "blind and elephant" movie.

After the screening, as the lighting in the hall got me I was feeling very sad
It was true.

And, "I thought once again that" If there is love for fashion, fashion is cool and great in
life, as this movie is talking about " again.

Thank you very much, Madam Jenny who showed us another view of the world of the
wonderful fashion, Rest In Peace,deeply.
I pray for your soul again.
By Taque.HIRAKAWA:15th.Dec. ‘18 at Kamakura:


This is an excellent fashion brand, a question to this relationship which is commonplace.
Are you gathering for talent? Do you get bored with money?
Alternatively, they may gather briskly on their brand name.
"Become famous." "To break common sense." The passion and creation brought by these two
And differences arising in the differences and relationships of the place of residence after being recognized as success.

   Talk on the screen, Inge's unchanging real intention is the most wonderful!
For 14 years, I continued to run absolutely for "to become famous, to break common sense"
One true story among a lot of "two main characters" and "We" who have exhausted.

   He, Patrick is the closest relationship between Martin and public and private, and the original which tasted bitterness
The system that the member seeking finally finally began operating from the Japanese market, since '93
In the movie characters joined late. Such a Patrick is the snobbing, the perspective from the most objective viewpoint
Or perhaps he is remarking the feeling closest to Martin.
   "Because the function as a company was guaranteed, a powerful design was born,
Without that design it would have worked only that as a company. P. S.

   And Martin talked about selling two boutiques that they had in Brussels
Mr. Jenny who shared and sponsored funds for "dreams" worked hard at this speed for the last 14 years.
   Sophie's remarks at Jenny's closest living place that was her mother were also Jenny and Martin
Also, Sophie's remarks, which I have been watching, including weights that I do not want to see the relationship of "We" and others, also have weight.
   Have fulfilled "dreams" that each other was entrusted with?
Or was it just a glimpse?
   "We just tried to withdraw from existing methods anyway.
In the long term, you should be able to get freedom independent of the system.
If we do not prepare to lose, we can not win. J. M.
   
   Bringing "more numbers than it" to Martin who did not know the numbers,
As a result, is she eventually "frustrated"?

   I had two things to care a couple days later.
One of them is "Patrick's" FASHION KIBBUTZ "who was a former press representative.
Of course it is deliberate that this is not translated subtitles (?)
   Here I will say that "the correlation between" Hipie · Commune "and" Kibutsu "will be established
Is it? A new curious spirit grew.
   Another thing, Jenny was passed away on July 1st, 17th year.
It is written that this document film was completed in September, 17 months after that month.
Then Jenny himself used this document film before her death
Did not we participate in the final check?
   To me, this is supposed to be the backbone of the obligation of the producer of this document film and the responsible location
Convinced And if this film is just a recent topic "Wallpaper MMM" level
I believe that it is the core of whether it is a category "Mecla and elephant" movie.

   After the screening, as the lighting in the hall got me I was feeling very sad
It was true.
   And, "If there is love for fashion, fashion is like this movie is talking about,
Is it great and great in life? I also realized again the question of the question.

合掌。
文責/ 平川武治:‘18年12月11日:At Shibuya:

P/S;
筆者はJ.P.ゴルチェ時代の後半には既に、マーチンと面識があり、彼らたちのファースト・
コレクションも見てその後、彼らたちが創造する世界に大いなる好奇心を煽られ続けていたので
このドキュメントの見方はかなり偏向があろう,お許しいただきたい。
彼らたちのミッションであった「有名になること。」「常識を破ること。」は
マーチンがゴルチェ時代の3年半で学んだ、「リアリティから学べ!」という教えと共に
“古着とストリート・スタイル”をリアリティのコンテンツとした”source of the creations”と
その時代性であった女性論としての「ジェンダー」をコンセプトに、「脱構築と再構築」との
“差異”を彼らたちは創造のアイディアと根幹として、ジェニーとマーチンそして、”We”は
「新たな革命」を巴里のクチュールを軸にしたモード界のバリケードを28回のコレクション毎に
破り続けた。
このリアリティは全て、彼らたちのブランドに関わる全てのもの、例えばラベルであり、
ショー形式などなど、への“創造”と”革命“への執拗な自我であり、彼らたちのエネルギィイの
発散と消耗は当然、巴里モード界に一つの時代を築いた。
特に筆者が印象に残っているのはファーストコレクションでありまた、この映画にも取り上げ
られている、巴里19区の普段はこの界隈のイミグレーターたちの子供の遊び場であった空き地を
貸してもらって行われたコレクションだ。
そしてどうか、この映画を観たからと言って「M.M.M.を、マルジェラを、」解った振りを
しないで欲しい。この映画は冒頭にも言ったが、やはり、「メクラと象」の物語であるからだ。
彼らたちの世界を共有したければ、彼らたち”We”が築き上げた「世界観」を“着る”ことでしか
無い。ファッションとは、“買って、着ること”で生まれる自らのリアリティがその作り手たちと
の関係性を紡ぐことになるからだ。決して、表層の小難しい理屈は何も真実を紡ぐことはない。

参考;
もう一つ、Jenny Meirensさんに、マーチンに、そしてこのブランド“M.M.M.”に興味が湧い
たならば、ぜひ、下記の”N.Y.T.”紙のインタビューの御一読をお勧めする。
https://www.nytimes.com/interactive/2017/02/06/t-magazine/jenny-meirens-margiela-interview.html
あと、ユダヤ人には常識であっても日本人には馴染みが薄い「KIBBUTZ/キブツ」について
は、 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キブツ で、お勉強を。

尚、この試写を見せて下さった、“エスパース・サロウ”の樋口さまと
長い間、友人でいてくださる“ストリート”の青木さんに感謝いたします。
再び、合掌。

投稿者 : editor | 2018年12月18日 12:23 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

MILK & MILK BOY、3年振りのランウエーを見る。

「MILK & MILK BOY」COLLECTION, 3年振りのランウエーを見る。
僕の眼差しは、「3年ぶりのこの規模の大きなコレクションをなぜ、彼女は今行ったのか?」

ご連絡をいただき、久しぶりで見せていただくこのメゾンのコレクションだ。
古くから親しくしていただいている大川ひとみさんのブランドで、愉しみにしていた。
結果は僕の期待を裏切らずピンクのバンダナと共に、若々しくカワイイコレクションでした。

1970年来、ブランド「MILK」を原宿で立ち上げて以来、「原宿のおかあさん」と言われる程
の原宿の主、知る人ぞ知る大川ひとみがまたもや3年ぶりで地元、原宿でのコレクションだ。
このブランド「MILK」はロンドンスのストリートと古着に憧れ、当然のように素早く、
ヴィヴィアン・ウエストウッドの世界を知り、’74年には「MILK BOY」を立ち上げ、その影響と
共に日本の若者たち、それもロック好き、おしゃれなロンドン・ストリートファッション大好き
若者たち、パンク好きな少年少女たちのアイコンブランドであり、一斉を風靡したデザイナー
であり、彼らたちへ大いなる刺激と影響を与えた正真正銘の「原宿ブランド」である。
こんな一つの街にこだわった街ブランドは世界でも類が無い。ちなみに、この時代のCdGは巴里
で全盛だったS.リキエルを上書きしていたブランドでしかなかった。
例えば、’77年、当時ロンドンのミュージュックシーンに登場した音楽とストリートシーンで
誕生した“パンクファッション”をいち早く、同時性と共に日本の若者たちに興奮をもたらし、
大いなる流行を原宿にもたらした第1人者は彼女、大川ひとみだった。従って日本における
“パンク・ファッション”を語るならば、当事者としての大川ひとみでありその後、10年ほど遅れ
CdG H.P.はブランドを反体制的なブランドにイメージングする為に用いたまでの発端だった。
ここでは「当事者、大川ひとみと傍観者、川久保玲」という差異が熱意と時間差を日本のファッ
ションシーンへもたらした結果があり、その後の川久保の学びを知った。しかし、この事実を
語れるもう一方の傍観者であるジャーナリストたちも今では少なくなってしまったので、
「CdGがパンクの精神を引き継いでいる」ブランドと評価されているがその発端の事実は決して
そうでは無かった。
そして、大川ひとみのもう一つの事実は、かつての「裏原ブーム」の起爆者、Under Coverの
高橋盾と今、世界レベルで渦中の人になってしまった藤原ヒロシの「育ての親」でもあり、
僕は山口文彦くんのセンスの良さも覚えている。
大川ひとみには鋭い眼力のような審美眼を持って原宿に集まる若い男の子のセンスのいい子を
見つけ出し、面倒を見てファッションセンスを育て磨き上げるという特異な癖がある。
即ち、彼女はファッションの本当の面白さは自分がロンドンの路上に憧れたように、原宿の
ストリートに自身のまなこを今なお晒して生きているリアリティなデザイナーなのである。
その彼女は1年前の3月半ばに彼女にとっては4番目のブランド、「ヴィクセン・プロダクツ
/VIXEN PRODUCTS」をこれも原宿の「MILK BOY」の地下にショップと共に立ち上げてい
る。ブランド・コンセプトは緊急を意味する“イマージェンシー(Emergency)”で、早々と
これからのメンズファッションの新たなコンセプトになる“オシャレな防災服/SWAT”をデザイン
する若さをも持ち続けている。

今回のコレクションもこの意気込みがまだ熱く感じられるまでの若さとクールさと可愛さ
が溢れた品の良いコレクションに仕上がっていた。
特に、MILK BOYはかわいかった。ゆるいファンクション & プロテクションにまとめられて、
着る男の子のうぶさを上手に、クールにデザインし、そのバランス感は正に、「HARAJUKU・
BOY」で旨い。
3年振りに開かれたこのコレクションは大川ひとみのファッションへの思いとこのブランドの
ファンへの愛と経験があの様な若さと楽しさ溢れるコレクションを生んだのだろう。
フラワー&フリル、オプトパス、マーメイド、ナース、パジャマ、スケーターにサンタまでの7つ
程のシーンで展開されランウエー。僕はオプトパスに驚き、スケーターも好きでした。
演出もうまいしキャスティングもいい。レディースにもメンズにも幾つかのアイテムは新しい
アイテムのデザインに「進化」が見られる。トレンド素材のメッシュを使ったロングカーディ
ガンやブリーチ・デニム素材でのおしゃれなストリートウエアー、ミュールを含めたシューズや
バッグ等など。「スタイル+ファンクション+プロテクション」を今の若者感覚として、
どれだけ「緩く」バランスに気をつけてシンプルにまとめるか?のさじ加減とビジネス感が
やはり、玄人である。この彼女の旨さにはアンダーカヴァーの祖型が見られた。
本当に、このお歳で愉しい世界をクリエーション為さっている。
ここで気がついたことは大川ひとみと東コレやコンテストに始終している「後出しジャンケ
ン」&「壁紙デザイナー」たちの違いはどこに所在するのだろうか?
それはデザイナーの経験値もあるだろうが、結局はどれだけ、街のリアリティを体感し、
「服を愛しているか?この服への想いを誰に届けるか?どんな気持ちで着てもらえるか?
そして、着る人を思うこと、」などが変わらぬ若さとユーモアそして、バランス感覚の旨さと
時代感の表現力に現れるのであろう。そして、継続可能なビジネス観に由来するのだろう。
ただ、私利私欲と自己満足を小さな虚言を発言し、ファッションのステージへ乗せるだけで
デザイナーぶっている輩との「未熟さ」が感じらた、ユーモアとセンスのいいおおらかささえも
溢れていた今回の「MILK & MILK BOY」ショーでした。

最近ではファッションに目覚める年齢がより、若くなってきた。
小学生高学年になるともう自分の着るものへの欲望が生まれる豊かな時代で在る。
しかし、現実は国民的衣料品ユニフォームのユニクロやSPA系の安価な「壁紙ブランド」などに
親たちは始終したファッションをお仕着せさせてしまっているのが多くの現実であろう。
この現実への一石を投じているのが大川ひとみのリアリティであり、これが彼女の変わらず
好奇心と若さを育んでいる根幹であり今回のコレクションにも繋がったのだろうと僕は感じた。
彼女のファッションこころと眼が感じた、「今、私がやらなければ!!」と言う念いと、
「この世代の子供たちが輝かなければ、輝く大人は生まれ難い。」と言うファッション観。
なぜ、イタリアはまだ、「ファッション大国」なのか?
それはこの国の親たちが変わらず、子供にオシャレを惜しまないでいるからです。

「ありがとうそして、ご苦労様でした、ひとみさん、スタッフの皆さん。」
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2018年12月15日 18:48 | comment and transrate this entry (0)

lepli(4)

“The film,”We Margiela” is a tribute to Madame Jenny Meirens.”

“The Hommage to Madame Jenny.”
“This document film,”We Margiela” is a tribute to Madame Jenny Meirens.”

Thank you, Madame Jenny. Please sleep peacefully.
You had created the world built with another wonderful creativity fashion has,
for young people and me who love mode.
It had showed up with Martin and many young staffs with M.M. M. "Reality".
I imagined a lot about you during this movie.
And I remembered several few words I had with you.
I must say agein thank you so much for your the force & it was cheers for the cool works.
By Taque.HIRAKAWA from KAMAKURA:

投稿者 : editor | 2018年12月14日 21:21 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

YANG LEE from his show-room by Taque. Hirakawa. “019 S/S Paris Collections;

YANG LEE;
YANG LEE,he had opened the his window by himself.
The wind that is felt there is light and simple that a kind of new minimalism for the street
costumes.

I say that women's clothing is a category of costumes and men's clothing is a category
of uniforms. Costumes are historical and ethnic, and there are stage costumes.
It is a reality of the era of the present age that the sense of stage costume in the daily life
conscious of the instagram has become potentially necessary for the daily life of a modern
woman.
Poetic kindness and simplicity, and above all comfort and a sense of protecting
ourselves are elements that attract attention to their stage costumes.

It is already the end of the era when fashion is made with a one-sided look from the
maker. How do you feel the reality of the times and design the cuteness and beauty of
women who were in that age? I think that the feeling like "May I help you by my
collection?" Is an inevitable era for contemporary designers.
And since clothes are also things, please evolve with the times.
It will create a sense of freshness.
It is something that has been selling from now and it was evolved by material and pattern
making, also balance of silhouette & volumes.
For example,
Speaking of why shoes sell well is because there is evident visual evidence there.

“The world of Couturier in the mode is stagnant in elegance and can be decorative.
However, the design of the prêt-à-porte is a flow, "evolution" is the backbone.
This flow is "periodicity", evolution is "newness".
In other words, how is "Objects" always related to people of that era as well?
And what can we contribute to the society of the new era?
This is the foundation of designing and it may be a difference from the art world. "
By Taque.Hirakawa: At the Show-room in “no season” in Paris on 26th.Sep.

投稿者 : editor | 2018年10月18日 00:57 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

Review from behind "Scales from the eyes"-3: by Taque. Hirakawa. “019 S/S Paris Collections;

◯KOCHE/
彼らはよくリアリティを観て確実に自分たちのレベルと規模で成長している数少ない
若手ブランドだ。
そのポイントは何と言っても自分たちの現実というリアリティをよく見てそれらを彼らたちの
時代感と美意識でセンス良くうまくまとめ上げていることであろう。
即ち、現代社会におけるモードの”創造ための発想“とは全てリアリティからしか生まれない
事実を認識しているデザイナーとその集団である。その上で決して、浮き足立っていない。
だから見せられるショーがカッコいいものなのである。敢えて、ラグジュアリーに媚びない
立ち居場所に自信を堅持している。彼らたちが編集して観客に配る小冊子はインテレクチュアル
でしかも贅沢さに媚びていないクオリティで作られているのでこれも僕は好きである。
今回はそれなりの引用文を集めて編集しているのも面白い。

[ My work is not about “Form follows function.” But “Form follows beauty” or, even better,
“Form follows feminine.”] By Oscar Niemeyer:
今回、彼らたちが選んだ会場はこの街のO.ニーマイアーの代表作品の建築物だったのも
頷ける。
今シーズンは誰もが“アフリカ”をリードターゲットに意識したが、彼らたちはそのなかでも
“モロッコ”にGSP機能を当てたコレクションを行なった。そう、モスリム世界のリアリティを
モードへ落とし込んだ。これはある意味で大変なリスクであり覚悟がいる世界を演出したのだ。
コレクションは今シーズンのトレンドを彼らたちの思惑でまとめた。“フリンジ”やフリル使い
それに光りもの。また、ぬくもり感大切に見せる手編み風ニットやパッチワークをスポーティな
アイテムとドレスでコーディネート。スタイリングもかっこいいそして、シューズも上手い。
「シューズがうまくデザインされていないデザイナーは根本的にセンスが悪い。」
これは僕の長年、コレクションを見てきたものの持論である。
フレッシュとインパクトがあったコレクションだった。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2018年10月07日 21:13 | comment and transrate this entry (0)

lepli(4)

アーカイブインタヴュー/「川久保玲との150分」 My Archives part-1; Interview / 150 minutes with Rei Kawakubo (Part 1)

「現代の多くのファッションブロガーと称している表層しか喋らない、
“評論なき、教養浅きSNSファッション・ジャーナリズム” へ一石を投じたく
僕の昔の仕事であるアーカイブインタビューを掲載いたします。」

「 自分で言うのもおこがましいけれど、
このインタヴューの川久保玲さんからは本当に、ご自身の人間味溢れる素顔の発言に始終して
くださった2時間を越すインタヴューでした。
数年後、プレス担当者から聞いた話では、このインタヴューが彼女自身が一番嫌なインタヴュー
の一つだったとおっしゃっていたそうです。
それぐらい人間“川久保玲”が溢れたインタビューでした。
その後、数は少ないけれど国内・海外誌/紙のインタヴューに応じられていらっしゃるが
ここまでの彼女の人間味が感じられるものは僕は読んだことがありません。
多分、国内では、インタヴューアーの勉強不足。海外では全て彼女の夫、エイドリアン氏が
通訳として間に立たれたのものですから川久保玲の生身が要約されていないものが
殆どでしょう。仕方ありません、彼も「和魂未熟」な外国人ですからその根幹は当然、
ビジネスマインドになってしまっていることが多いです。
私感ですが、一番最近のイギリスの”GARDEIAN”紙のインタビューは二人の人間の根幹の
違いが翻訳されて、読むのも辛いものでした。以前、このようなインタヴューをさせて頂いた
当事者としては悲しいものさえを感じてしまいました。」

“ジャップ / Zyappu” ; 第6号/1995年秋;「コム・デ・ギャルソン特集」号:
「川久保玲との150分 (Part 1)」
  
インタビュー/文責:平川武治。

なぜ、今、川久保玲なのか?
「彼女の仕事は非常に尊敬しています。彼女は「破壊」だけに拘っているのではありません。
幾シーズンか前に、薄くやわらかい素材でソフトなものを打ち出したことがありましたが、
それもとても好きでした。自分を変えることなく、絶えず自分のスタンダードを維持出来ると
いうのは凄いことですね。」
ジョン・ガリアーノが2年程前に、素晴らしいコレクションで、パリで再デビューした年の
『アメリカン・ヴォーグ』誌でのインタビューです。(VOGUE USA '93年3月号) 
ジョン・ガリアーノの言葉を借りるまでもなく、川久保玲ほど世界のクリエーター達の賛辞を
数多く受け続けている人は、僕の職業的経験から言っても例がありません。
'82年にパリへ進出して以来、彼女が「コム デ ギャルソン・スタンダード」を、しかも毎回
アヴァンギャルドなクリエーションのみを発表し続けていることに対しての、もしかしたら
ジェラシーをも抱かれている、大変稀な日本人なのです。
僕は今、「ジャップ」の読者である若い人達へ、彼女の現実と実像と世界レベルのクリエーショ
ンを投げかけることによって、読者が好きな世界に対して、「勉強と努力と、そして経験」に
時間消費を重ねることで、まず「自信」を持つことのきっかけを掴んでくれればと願ってやみま
せん。若い時に、みんなが平等に持ち得てる「エネルギー」という特権を、ただ単純に「消費
者」としてカタログ誌を読みあさって、エネルギーを使い果たしてしまわないで欲しい。
「創造者」になることも可能であるという自覚を持つために、大切な「自信」を養って、レベル
の高い目標を持つことを経験してもらいたいのです。

平川武治(以下、平川):・・・・ジャップの読者が若いということがあって、結構当たり前の
ことがこのインタビューでは大事になってくるんですが。
川久保玲(以下、川久保):若い世代の立場に換算して、話したり考えたりすることは難しいで
すね。30年前のことですから。
平川:僕は海外でデザイナーも含めて色々な人に、例えばどういうデザイナーに興味があるの、
関心があるの、好きなのって聞くと「コム デ ギャルソン」(以下、CdG)って必ず出てくるんで
すね。それはやはり、彼らの考えの中に、CdGが毎シーズンそれぞれ違うクリエーションを展開
して、それがひとつのCdGのスタンダードとして20年以上も継続していることのすごさに、
やっぱり向こうの若いクリエーターたちは・・・・
川久保:でもその継続過程は、その若い人たちは知らないでしょ?逆に今のことしか知らないで
しょう?
平川:知らないですね。だけど、取り敢えずそういう答えが返ってくる外国の若い人と、東京の
若いデザイナーに同じ質問をしても、今の流行のデザイナーの名前しか出てこない。で、その辺
で僕はやっぱり、東京で、我々と同じ町で育って、同じ街から発信されているCdGっていうのが、、、
川久保:お互いに自分の国の人を言っていなくて、ちょうどいいと思いますけど(笑)。
向こうの若い人はサンローランって言わないわけだから。日本の若い人は舶来主義じゃないか
しら?
平川:ある種、ミーハーっぽいですね。若い人たちに一度、CdGっていうのは、どういう考えで
どういうモノづくりをしてこられて、それなりの・・・・苦労っていうのを・・・・
川久保:苦労話をするんですか?
平川:いやいや、そういうネガティブなことは・・・・僕は苦労話する人、自慢話する人、
あと偉そうな人は嫌いだから。でも、CdGが、ある程度のスタンダードを継続して持っていらっ
しゃることの、何か・・・・
川久保:秘訣?
平川:うん。努力みたいなものが話の中に入ってくればと思って。昔のことは色々なインタビュ
ーでも、どういうカタチからスタートしていったのかとか、言ってますよね。僕は風土と育ち
みたいなものは大事だと思っているんです。学校を卒業して、会社に入られて、少し広告の仕事
をなさって、その中で自分が実際使いたい服を自分でつくってっていうことから、スタートなさ
いましたよね。クリエイション、ビジネス、イメージという三つの軸を成立させるフォルムみた
いなものをいまの若い人に・・・・
川久保:苦労話というのがさっきありましたけど、自分で苦労したとはもちろん思っていないん
です。でも、いま考えてみると、その時その時で、何かに反発している状況があったと思うんで
す。会社に入ったときも、その時期に女の人が就職するということはまだまだ当たり前のことで
はなかった。しかも大学卒で、男の人と同じ仕事で同じだけお給料をもらえるということは無か
ったですし。そういう状況に対しても反発を感じることがあった。今でもまた違う意味でありま
すし、どうにかものをつくれるようになって、商品が売れる場所が出来たかなという頃に、また
やはり専門の勉強をしていないとか、専門の学校を出ていないとかで白い目で見られたし、色々
ありましたね。パリに行けば行ったでまたなんやかやと(笑)。もう永久に、幸いなことに続く
んですね。そのたびに、怒って、エネルギーになっているということは言えます。日々、当たり
前に会社にきて仕事をして、当たり前の生活なんですけれども、その中で、ひとつひとつ
「そうじゃない」とか「それはおかしい」とか、そういうことが毎日一個や二個は必ずありま
す。また、そういうことを感じなかったら、つくれないと思うんですよね。
平川:クリエーターっていうのは何かいつもその時代に対して問題提起しなければなりませんよ
ね。
川久保:意識はしていなくて、それが苦痛だとかそういう風には思っていないんですけど。
平川:例えば最近、日本の今の現実を危惧するということは?
川久保:あっても無言でいたいですねえ(笑)。それに口をだして、自分のひとつの柱みたいに
言うのも好きではないです。だからインタビューが面白くなくなるでしょう。それで悩んでいる
わけではないから(笑)。
平川:じゃあ、一番悩んでいるのは、次のシーズンの洋服のこと?
川久保:そうね。やっぱり、一番悩むことは、つくれなくなるんじゃないかってことですよね。
平川:それってやっぱり、ご自身でつくれなくなるって思われます?
川久保:周りを見ているとそうだから。
平川:周りっていうのは?
川久保:多くの先輩たちなど・・・・、やっぱり体力が落ちるように。それに、今までにやった
ものじゃないものをつくらなきゃいけないわけですから。
平川:川久保さんが洋服をつくるときに一番大事にしていることってなんでしょう?
川久保:やっぱり見たり着た人がドキドキしたり、何かを感じることじゃないですか?
それがなかったら意味がないと思っています。ということはつまり、新しいものじゃなきゃダメ
なんです。一番怖いのは、新しいものをつくれなくなることで、その恐怖はずっと続いています。
平川:それは、こういう道を選ばれたときから決定してますよね。
川久保:してたわけですね。覚悟とか、そういう用意はなかったんですけど。それはやっていく
うちに、「しまった」ってことです(笑)。
平川:他人と一緒のことはしたくないという種類の人間がいますよね。
で、川久保さんはやっぱりその種類の人間ですよね。
川久保:それは当たり前にそうです。それがつくる中での一番の柱です。
平川:そのためには、自分がどう感じて、どういうエネルギーで毎シーズンカタチにしていく
か、その連続性が、エネルギーが一番すごいと思うんです。不連続の連続というか。同じ時期に
パリでスタートした人たちも、全く時代とは関係ないところでものをつくっている人がいますよ
ね。それが、CdGの場合、なお継続しているクリエイションは、すごいエネルギーだなあって。
でも、それを持続させる構造には、会社というのは大きな力でしょ?
川久保:組織という意味ですか?まあ、どちらが先か分からないですけど。
平川:「インタビュー」誌かなにかだったと思うんですけど、「デザインの発想は、人の生活や
日常性からヒントを得る場合が多い」とお答えしていましたね。
川久保:質問が、インスピレーションを得るために、絵だとか、本とか旅行なりをしますか?
っていう質問に対して、特別な出来事からではなく、日常の積み重ねから意識しないうちに
出てくるということを言うために、そう答えたと思います。実際本当に、自分の中からは
そういうものを見つけることは出来ないわけですし、そういうことを言いたかったんですけどね。
平川:結構人間がお好きですか?
川久保:変わった人のほうが好きですね。
平川:どの程度変わった?
川久保:「変わってるわね、あの人は」っていうのが付くぐらいじゃないとだめですね(笑)。
平川:僕はファッションはズレているから面白いと思っていて、ハマってたら面白くないと
思っているんですね。ところが、はまっていることがファッションになりつつある時代の背景が
現在ある。それでもなおかつ、ずらしてずらしてクリエイションするのが川久保さんのテイスト
であって、ご自身の生き方でもありますよね?
川久保:最終的にはそうですね。つくられたものってすべてそうですよね。
平川:そうすると、前に出た風土と育ちが出てきますよね。
川久保:それは関係ないと思いますが。
平川:例えば家庭環境とか・・・・
川久保:そういう風土ね。私の場合、普通の家庭環境だったから。でも普通だったから
普通じゃなくなるということもあるでしょう?
平川:例えば学校時代、制服が嫌いだったでしょ?
川久保:制服好きです、ある意味では(笑)。
平川:具体的にデザインする中で何を一番大事にされます?
川久保:まず、コレクションで何を一番言いたいか、言わなければいけないかということ、
それを最初に考えますよね。それを考えるときに、例えばひとつの素材やパターンだけじゃなく
て、色々な要素を複雑にミックスしながら、表現方法を考えなければならない。最低三つ四つの
要素は、表現するためには見つけなければいけないですよね。
平川:単純に、アイディアとデザインは違いますよね。今おっしゃった三つ四つの項目が出て、
初めてアイディアがデザインになる。
川久保:そう。だからデザインは最後の一月ぐらいで決めます。その前は、色々なことを踏まえ
ながら、何をやろうか、何を出そうかって試行錯誤しています。そうしているうちにどこかで
接点が決まるわけです。それは日常の中から生まれることもあるし、「今これが気になる」と
いうことが関係することもあるし、色々なケースがあります。スタートした頃はそこまで具体的
に考えなくて、もっと直感的だったと思いますけど。今はショーという形があるから、色々な
ことが要求されるでしょう。服をボディーに着せて見せるのとは違う世界ですから。
平川:洋服は川久保さんにとって「アート」ではないですよね。
川久保:ないです。
平川:完全にひとつの消費財であり、生活の中でのものであり・・・・
川久保:だけどやっぱり、人をときめかすそう意味ではアート的とも言えるかもしれません。
平川:デザイナーになったら、アートに走ってしまうほうが楽で偉いんだと思っている人も
いますね。川久保さんは全体のバランスをつくることとか、トータルなイメージを幾つもの要素
を使って作り出す、バランス感覚が絶妙ですよね。
川久保:いえ、平川さんには時々怒られていますよ(笑)。
平川:いえいえ(笑)。
川久保:イメージとのバランスが最高に一致するなんてことは何年に一回しかないですね、
きっと。毎回どこかがやっぱり足りないです。
平川:それがまた次のコレクションのエネルギーに変わりますよね?
川久保:そうかもしれませんね。
平川:パリでのショーの場合、東京で服を全部コーディネートしていくんですか?
川久保:そうですね。組み合わせを考えながら縫製に出しますから。
平川:じゃあ、結構早い時期からイメージが先に出来ているんですね。
川久保:早いと言っても、縫製を始めるのはひと月、2、3週間前からだから、
その頃からですからね。何をやりたいかは分かっていますけど。もちろん1週間前にディテール
で色々変わることもありますし。
平川:そういう意味で、川久保さんのショーはいつもパーフェクトでしょう?
川久保:納期が?
平川:(笑)いやイメージが。
川久保:自分としては、納得行かなくてもそのまま諦めてしまうこともあります。
1週間前に、ショーの準備をみんながしているところをひっくり返すなんて、とても出来ない。
したから良い結果を生むとも限りませんし。
平川:でも、見る側からしたら、一回勝負だし。僕は洋服を見るときは一番最初にバランスに
注意するんです。素材のバランス、着こなしのバランス、アイテムのバランス、それからそれを
演出するためのヘア&メイクだとか、音楽だとか。川久保さんはショー全体のバランスを考えて
いますよね。それが本当にいつも絶妙なんですよ。
川久保:それが、難しいんですよね。
平川:一番難しいことですよね。そして、それは発想とは別の問題でしょう?
川久保:ひとつひとつが道具だから、ちょうどいいパーツが揃わなければ難しいですね。
でも難しいから逆に面白いっていうのはありますよね。
平川:最終的に、いいショーをするということは、いいイメージをつくること・・・・
川久保:それと、言いたいことを伝えるということと・・・・
平川:そして、最終的にはビジネスとして見返りがあるっていうことですよね。
川久保:そうです。ビジネス的に売れて、ジャーナリストに受けが良くて、自分も満足できる
なんて、あり得ないです。今は、売ることよりもジャーナリストにどう感じてもらっているか
の方が分からないですよね。
平川:予想がつかない?
川久保:昔より予想がつかなくなっています。
平川:昔はそういうことを意識せずショーをしていた?今はジャーナリストがひねてきたんでし
ょうかね?
川久保:仕事としてというよりも、自分の好き嫌いの趣味だけで仕事をしている人が多いのじゃ
ないですか。そうしたら、CdGは殆ど「ノー」っていわれるに決まっている(笑)。
「自分はシャネル着るけど、クリエイションとしての価値判断を持ってちゃんとモノを見る」
っていうぐらいの人はどれだけいるんでしょうか?
平川:川久保さんに対する世間の見方ですごいなあっていう部分のひとつは、洋服は着ないけど
川久保さんの生き方が好きだっていう人と、それからそういうことは関係なく洋服が好きという
人と、両方のファンというのをちゃんと持ってらっしゃいますよね。
川久保:そうだといいんですけど。
平川:僕なんか、嫌いな人の服は絶対着ないもんね。
川久保:特に年が上の方は、自分が仕事をしていて苦労した部分が共有できるから、
服が好きだというだけで着るのではないのでしょうね。外国人の女性でそういうことはあまり
ないかしら。
平川:向こうの人は好き、嫌いの分岐点がはっきりしていますよね。CdGのスタンダードを、
コンスタントに毎シーズンクリエイションするっていうのはチームづくり、チームワークが
うまいなと、チームの利点というものを知っていらっしゃるんだなと思うんですよ。
日本はチームワークがなさすぎと感じることありますよね。例えばデザイナーの仕事ひとつ
取っても、デザイナーが先生になってしまったら、下の人間が完全に「イエスマン」になって
しまう。川久保さんの場合、素材にしても音楽にしても、ショーをやるのにちゃんとチーム
ワークが出来ていますよね。
川久保:チームって周りの人?
平川:そう、信頼していらっしゃるでしょう?僕、最近仕事で、パリの2人組みのクリエーター
たちを何組かインタビューして気がついたんだけれど、彼らたちには、個人主義が基本的に徹底
されているために、1足す1が2プラスαになると信じてやっているんです。日本の場合、
1足す1が、うまくいっても2、または2マイナスα的な仕事のやり方をしてしまっている。
川久保:そういう、対等な組み合わせの人っていませんよね。
平川:対等でなくても、自分の発想とデザイン、クリエイションをどう現実化するかっていうの
は、単純に個人では出来ない。アートとデザインの違いっていうのは、アートというのは一人
の、個人のエゴでモノをつくる世界だと思うんです。デザインというのは複数とのかかわり合い
ですよね。自分と他人とどう関わっていくかという。そのルールが確立していなければ、最終的
に良いものが出来ないと思います。
川久保:でも、ビジネスのかたちによっては、一人で出来るモノもありますよね。
ビジネスのかたちが既製服のプレタポルテだと形態としては難しいけれど。
平川:その難しい構造を持ち続けるというのは、一方では大変な努力でしょう?
川久保:そうですね。
平川:例えばグラビアをつくるにしろ、カメラマンがスタイリストはあの人をって言っていたの
を、スケジュールが合わないからといって違う人をたてる。
川久保:余り知らないけれど、いい仕事をしている人って、みんなパートナーを決めてチームを
組んでいますよね。何をやりたいか、そのためには何をつくらなきゃいけないか決まっているの
で、うちの場合出来るんじゃないですか。
平川:僕は個人主義が好きなんですよ。個が確立している人が集まって、自分自身がテイクケア
出来ないと他人とは組めないという発想。それが川久保さんの場合、ずっと続いているという
ことは、ある種の「コム デ ギャルソンらしさ」ですよね。
川久保:そういう意味では、平川さんのおっしゃる個人主義の人間が集まっていますね。
別に仕事以外に何をやっているかとか、何をして週末過ごしただとか、そういうことが話題に
ならないんですよ(笑)。別に無理しているわけではないんだけど、朝から仕事の話ね。
そういう意味で、個人主義って当たっています。言われてみると、個人主義の人が集まっている
会社ですよね。
平川:「1足す1=2プラスα」ですよね?でもそれを維持していくというのは、この東京という
風土では大変でしょう。
川久保:そこはわがままにやらせて頂いていますから。行きたくないところへは行かないし、
冠婚葬祭はちょっと失礼させてもらって(笑)。嫌いなことはしていないですね。
平川:僕は嫌いな人は嫌いと先に言ってしまうんです。自分の領域を他人に示さない限り、
結構勘違いされて、土足であがってこられる場合があって。
川久保:でも東京も結構最近は変わったんじゃないですか?昔に較べれば。
平川:ただそのときに個人主義を守る場合、当然他人と関わる接点というのをちゃんとしなけれ
ばならない。
川久保:そうですよね。責任を持たないとならないですね。
平川:そこで、義務と責任、権利が当然出てきますよね。ところが、若い人の中には曖昧さが
ありますね。川久保さんのデザインを表す形容詞に「いさぎよさ」というのがあって、
その辺の部分が欠けている。
川久保:そう言われればそうかもしれませんね。
平川:よく「デザイナーにならなければ何になっていたか」って聞かれません?
それって考えるのも馬鹿らしいと思います?
川久保:答えるんですか?じゃあ平川さんは?お坊さん?
平川:僕は思いつかない。考えないですね。それよリは今のほうが大事ですね。
川久保:考えても意味ないですものね。意味の無いことは考えないように出来ているみたいで
す。
平川:そういう意味では合理主義ですよね。
川久保:現実的ですね。だからビジネスをやっていられるんじゃないかしら。
逆に男の人の方がロマンチックなところがありますね。出来ないことでも言ったりしますから。
平川:それがやっぱり男と女の基本的な違いでしょう(笑)。
理想がビジョンをつくる部分ってありますよね。男っていうのは絶対的な強さは何も持っていな
いですよ。
川久保:私だって、絶対的な強さなんて持っていないですよ。よく子どもを産むから女性は強い
と言う人がいるけど、私には当てはまらないし(笑)。だから男と女と分けてモノを言うのは
良くない。
平川:やっぱり人間として考えなければならない。
川久保:そうね。
平川:人間がお好きなんですね。
川久保:意識はないですけどね。動物の方が好きかもしれない(笑)。人間がくたびれたから
動物が好きなのかどうかはわからないけど。
平川:僕は人間好きなんですよ。人間見ていたら楽しいし、男の人見てても女の人見ていても、
そこから色々な考えや思いつきが出てくる。それは人間が好きなのだけれど、結局は自分が好き
なんだと思うんです。
川久保:そこまで考えたことないんですけど(笑)。そういうことを考えて日々過ごして
ないですね(笑)。
平川:ナルシストではないんですね。
川久保:そういう難しいことは考えないです。平川さんはよくそういう風に考えるんですか?
一部終了。
文責/平川武治:
出典;“ジャップ / Zyappu” ; 第6号/1995年秋;「コム・デ・ギャルソン特集」号/光琳出版刊:

投稿者 : editor | 2018年09月29日 12:01 | comment and transrate this entry (0)

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Review from behind "Scales from the eyes"-2: by Taque. Hirakawa. “019 S/S Paris Collections;

The review from behind "Scales from the eyes" -2: by Taque. Hirakawa.
“019 S/S Paris Collections;

◯AFTERHOMEWORK/
Perhaps they are still dirty teens duo designers.
That alone has enough potential they definitely climb the stairs they have sought.
I like that feeling and mind. And this season is the leather craftsman and Hermes had also
experienced ISAAC which is currently doing their brands extensively is collaborating bags
for this brand.
Both women's and men's clothes are younger than anything else because they have the
environment and situation that they can afford if they just attach risks. That youth makes
freedom and it is building freshness.
They are suffering while thinking about something new things that they can do.
That means fresh !!
Women's clothes like pretty modes and have the strength to be a designer.
She can understand it because she care about the trend of the season.
And men's clothes have style, design functionalities and protections,
and there is loose and comfortable to them in their generation.
I would like to look forward to how they will grow in this world in the future.
By Taque.H.

多分、彼ら達は未だ、ギリギリの十代デュオデザイナー。
それだけで十分に可能性を持っている彼ら達は確実に自分たちの探し求めた階段を登り続けて
いる。その気概と心の有様が僕は好きだ。そして、今シーズンはあの皮職人でありエルメスも
経験し今では自分のブランドを手広く手がけているISAACがこのブランドのためにバッグを
コラボレーションしている。
女服も男服も自分たちの好きなことがリスクさえ貼ればできる環境と状況を持っているために
何よりも若い。その若さが自由を生みそれが新鮮さを構築している。
何か、自分たちでできる新しさとはを考えながら苦しんでもいる。そこがまた新鮮なのだ。
女服はかなりモードが好きなそして、デザイナーになりたい強かさを持っている。
それは今シーズンのトレンドを気にしていることでも理解できる。
そして、男服はスタイルがあり機能性とプロテクションもデザインし、
彼ら世代に大切なゆるさと楽さがある。
今後、この世界でどのように成長してゆくか楽しみに見ていたい。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2018年09月28日 19:19 | comment and transrate this entry (0)

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Review from behind "Scales from the eyes" by Taque. Hirakawa. “019 S/S Paris Collections;

今シーズンはこのような趣向でパリ・コレを覗いてみましょう。
題して、”背中越しからの寸評“。

The review from behind "Scales from the eyes" by Taque. Hirakawa.
“019 S/S Paris Collections;

◯Dior/
A few years ago, a brilliant collection that emerged a new strategy that began with the
disappearance of "Christian" from this brand name.
The result is such a collection in a world of easy-to-understand mathematics.
The answer is only to erase French mode 's aesthetic sense which was even one of French
culture completely with "money".
CHRISTIAN DIOR - CHRISTIAN = Only the label that French Esprit has gone out is old,
a wine that is out of the tast & mind.
The venue until the beginning of the collection was supposed to be a salon that
exchanged each esprit.
However, recently only children of the new generation of rich Chinese affluent people
who hang around is playing with mobile. They do not need French Esprit, just the label and gold plating are good tribes.
by Taque. H.

数年前に、このブランド商標から“Christian”が消された事から始まった新たな戦略とは、
言い換えれば、フランスのモードの美意識を完全に”金“で消してしまう事でしかないのだろう。
その結果が、わかりやすい算数の世界で、このようなコレクション。
CHRISTIAN DIOR-CHRISTIAN=フレンチ・エスプリが消えてしまったラベルだけが古い、
気が抜けたワイン。
コレクションが始まるまでの会場とはそれぞれのエスプリを交換し合うサロンだったはず。
しかし、昨今はその周りではしゃぎ回る中国富裕層のニュー・ゼネたちしかめだたない。
彼らたちにはフレンチ・エスプリなんて必要ない、ただそのラベルと金鍍金があれば携帯と共に
はしゃぎ回る輩達。
文責/平川武治:

◯JACQUEMUS/
He certainly was a great talent, a designer who should have the design ability
and talent to evolve modes fun and beautifully in this case.
It seems that something, a great misunderstanding force began to work and join him as
we did in the last season & this season. If you put it in easy-to-understand way,
"Commercial collection"?
He is one of the young designers chosen among French designers and expected to be
the most prospective. But, such a thing he makes such a collection ! !
Has he made a mistake on the button?
Or was sexuality with the woman he had, or was gender in the mode like this?
It's too easy, is not it?
What is the reality of the sex of a woman he could have in such a world?
I've seen plenty of reality that French designers with many talents have had great
misunderstandings with French fashion people and media,already.
I’m still continue to look for ways to create modes and how to evolve with women living
in times as creative fashion designs.
By Taque. H.

彼は確かにそれなりの才能、この場合モードを楽しく、美しく進化さすデザイン能力と才能
があったはずのデザイナーでした。が、今シーズンは昨シーズンもそうであったように彼に何か
大いなる勘違いの力が働き始まったようだ。わかりやすく言って仕舞えば、“コマーシャル・
コレクション”。
彼はフランス人デザイナーの中で、最も将来を期待されて選ばれた若手デザイナーの一人で
す。そんな彼がこのようなコレクションをするなんて!!ボタンを掛け違えたのでしょうか?
彼が持っていた女性に対する性とはあるいは、モードにおけるジェンダーとはこんなものだった
のでしょうか? 彼が持ち得た女性の性というリアリティとはこんな世界なのでしょうか?
私は今までに多くの才能を持ったフランス人デザイナーがフレンチファッションピープル達
とメディアによって大いなる勘違いが始まった現実をたくさん見てきました。
私は依然、モードを創造することとはどのように時代に生きる女性達とともに進化することが
モードの-デザインだと信じその凄さを探し続けています。
文責/平川武治:


投稿者 : editor | 2018年09月27日 19:59 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

「進化」と言うデザインを再考しよう。S/S ‘19 パリ・コレに見る新しさという眼差しは?

◯はじめに;
「今年も73回目の終戦記念日を真近かに、平成の“安心のファッシズム”ボケとしか
言えない昨今の日本。こんなにも支離滅裂な政治を愚行している安倍内閣への支持率の異常さは
続き、ますます今後の日本國は“親離れ出来ない”、アメリカユダヤ複産資本の言いなりのポチ
国家に成り下がるのみ。
気骨ある戦前からの日本人としての平和祈念、気概はただただ、風化する。
そして、現在は“フクシマ”を風化させ、“東京オリンピック”と“IR法案”によってそれらの利潤は
新興商人やパチンコ業界の階層に分有されるのみがこれからの日本国の“豊かさ”の有り様では
無いだろうか?」
冷静に考えてみると、現代という時代感は、日本も世界も資本主義国家群に於いては、
「そう、世界は”真実っぽさ”で溢れかえってしまっています。」
ーYes, the world is overflowing with "truthfulness".

“truthiness”,これは2005年にN.Y.の人気コメディアンのS.コルベアが有名にした言葉です。
ある時期から政治家や評論家たちが合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に変わって、
むやみに感情や勘に訴えるようになってきた現状を評したもの。現代社会とはヴァーチャルな
時代観と相まって、この”真実っぽさ”によって全てが構築されてしまているという趣意。

◯プロローグ;
今回、パリで初めて行なったUNDER COVERのメンズコレクションのランウエーを見て直感し
た近未来、2020年以後のためのキーワードがある。それは「革命/レボリューション」です。
S/S ‘19 パリ・メンズファッションウイークから一つの新たな時代への共通言語を敢えて、
探し出すと僕はこの「革命/レボリューション」と言う言葉の響きが新たな新しさを欲し始める
世代感を強く感じたのです。

例えば、メインターゲットが白人からイエロー&イエローへそして、新たに黒人達へ移行し始め
たことそのものもこれは従来のモードの世界からは決して考えられなかった”レボリューション”
である。そして、今の時代観の一つ、「世界には真実は無く、真実っぽさのみ。」と言う現実に
対峙し始めるニュージェネレーション達の“カウンター・カルチャー”の現れも感じ始める。
それは現代社会の「真実っぽい豊かさ」を危惧する感情の現われの一つかもしれない。
この今回感じた「レヴォリューション」とは、僕たち世代がそうだったようなポリテカルな
レヴォリューションではなく、彼ら達の「レボリューション」という言葉が持っている新たな
意味やニュアンスは新しい「豊かさの進化」における「プロテクション/守り」が感じられ、
望まれるであろう。

加えて、今この街では3つの「革命/レボリューション」に関しての展覧会が開催されている。
その一つは「ロシア革命」100年記念に関してと、「‘68年5月革命」の50年記念の各展覧会で
ある。そして、もう一つこの街の「近代デザイン」運動の流れを生み出した、「UAM」の回顧展
も開催されている。(UNION ARTISTES MODERNES/現代芸術家連盟:1929年設立~‘58年)
この運動はバウハウスの影響を受け、’25年パリ万博で見せた近代化を社会へコミットする為に
始まったこの国の「近代デザイン運動」の黎明期を再考するための展覧会と読むことができる迄
の興味深い展覧会だった。構成主義以降のアートの世界から建築、インテリアデザインと家具、
工芸そしてモードにグラフィックに至るまで。
因みに、来年は「バウハウス」創設100年記念の年でもある。
「真実っぽい豊かさ社会」にデザインは何ができるか?と言う、「レボリューション」とも読め
るであろうか。きっと、そんな時代がめぐり回って来たようだ。
(共に、ポンピドゥ・センターにて展覧会中;
http://mediation.centrepompidou.fr/infos/ja/index.htm)

◯はじめに、「時代とデザイン」の関係性を「モノ」の進化として考える
「服」のデザインの世界とは?;

ファッションにおいての服も「モノ」である。「モノ」は時代とともに「進化」する。
では、「モノの進化」すなわち「服」の進化あるいは、「服」の技術革新という視点もこれから
の新しさには大事な視点になる。
“時代が変わる”事とは、この根幹の一つにはそれぞれの時代に生活している人間が得た豊かさ
からの「自由度」から生まれる“ゆとり”あるいは精神的な余裕性が社会を変革することに他なら
ない。しかし、デザイン・ビジネス全般においては未だに、モノの表層あるいは見え方と機能に
十分に引っかっている。あらたな時代が提示してくれる“新たなゆとり”から生まれる思想や価値
観から掘り起こしそれらをデザインに落とし込むまでの文化的プロセスがファッションデザイン
の世界では年々より、軽薄で単純になっている。このファッションの世界では為されるデザイン
によって生まれ変わるモノの表層のニュアンス即ち、シーズン毎の“トレンド”と呼ばれている
この世界の「差異化構造」の「壁紙」の張り替え作業の繰り返しが依然、変わらず市場化して
いるのに過ぎないのが現実のファッションの世界。このファッションの世界システムそのものに
も「進化」は見られない。

これは戦後の豊かさがもたらした、日本社会の“文化”の領域が「消費社会のための消費文化」
でしかないのもこの要因であろう。判りやすく言って仕舞えば、「儲かるための手法」でさえあ
れば良いだけの世界が時代とともにより顕著にワールドワイドになってきた時代性だと読める。
「デザインされたもの」が全て消費社会へすぐさま飲み込まれてゆくための”壁紙“デザインと
その“上書き速度と量”が要求され、”売れているモノ”を探すだけのMD主導型の世界のための
作業そのものがデザインの現実でしか無い。
実際の職場ではどの様にその“時代が変わる”状況変化というリアリティに応じて、”デザイン
する事”をフィジカルに考えが為されているのだろうか? 現実はMDという機能によって、
「売れているもの」の情報を餌とし、集められそれをデザイナーへ投げ与えて、デザイナーたち
はその与えられた情報のバリエーションをトレンド・デザインと称して、「壁紙世界の上書き」
に走る。この速度競争に勝つことが今ではブランドビジネスの必須根幹になり、この傾向はここ
数シーズンでより顕著になり、拡大もして来ている。ここにも、“ファスト・ファッション”から
の悪し影響が見られる。
もう一つに、「ファスト・ファッション」の登場によって、リアル・ファッションとは単なる
「アイテム・ファッション」になり下がり、分かりやすい着やすいコーディネート・ファッショ
ンが時代の顔になってしまったことも原因であろう。”トップス&ボトム“をどのような「壁紙
アイテム」でコーディネートするか、これがわかり易いファッションセンスになってしまったか
らだ。
「モノ」の進化として考えられていた時代の「服」のデザインには”着まわし“のセンスで着こな
す服がモードそのものまでも”進化“させていた。例えば、1着のワンピースで幾通りもの”着回し
“が可能であり着る女性も十分、楽しめるまでの工夫すなわち、「進化」がデザインそのもので
あった。
が以後、ファスト・ファッションによって誰でもがより解り易い服が市場とメディアを占領し
始め、従来のおしゃれな感覚としての”着まわし“で着こなす服がグローヴァリズム以降世界の
モードからは殆ど姿を消してしまった。最近では、2年ほど前のアンドレ・ウオーカーDSMT・
ギンザにおけるコレクションにはその精神がまだ健在であったが、「売りずらいあるいは、売れ
ない」という理由でこの先端ショップを自負している店からさえも消滅させられてしまった。
実は、30年ほど前までは自分たちがそうしたデザインで生き残って来たことを忘れてしまって
いる。(実は、覚えている、知っている社員がいないからだろう。)

◯「モノ」の進化として考えられた「服」はその時代のヒットアイテムであった。;
ここでファッションの世界は「トレンド」という差異感覚に因りどこったビジネスのための巡回
システムの根幹がある。そして、このトレンドによって「モノ」としての「服の進化」から逃れ
てきたという現実もあろう。
しかし、この21世紀は「バーチャル」に始まり、A.I.やビットコインの時代である。そろそろこ
れからの世代達のためにもこのファッションの世界でも服を”モノとしての進化“へ新たな目を再
度、向けるべき時代性が来ているようだ。

ここ数年来の”アーカイヴのヴァリエーション“を求めて、それらに「装飾性」を加えるだけがデ
ザイン・ワークそのものではないだろう。時代の豊かさがもたらすそして、「真実っぽさだけ」
の新たな生活環境に対峙した服。技術革新と自由な発想によって生まれる新たなシンプルさや機
能性とそこに必然とされる新たな素材やパーツ類などそして、ミシンに頼らない縫製技術と新た
な組み立てシステムや手法などが総合化され、新たな時代のバランス感を生み出すことで初め
て、“進化” ある新たな「モノとしての服」の姿が誕生する。そうした「進化した服」は勿論、粗
利を生む。
この「モノ」としての「服の進化」は女服のデザインよりは男服のデザインの方がより現実的で
あり、必然性がある。何故ならば、ファッションにおける男服とは所詮、“ユニフォーム“の
カテゴリィーが根幹であるからだ。だから、先日のパリ・メンズファッションウイークでこの
「進化」に興味を覚え、このシーンが今一番、ファッションの世界の先端であり、問われ始めた
と感じたのだ。
それなりの若いクリエーター達にその兆しが感じ始めまた、現れ始める時代性をも感じた。

たとえば、歴史を省みても「近代デザイン」が登場した‘20年代終わりは「ホック・ボタン」に
変わって登場した「ジッパー」や「ナイロン」素材などとロックミシンの進化などが現在のファ
ッションにおける「モノ」としての「服」の進化を大きくもたらした時代であった。これらによ
って、タイトなボディーシルエットが可能になり、モードも着る女性たちを大いに進化させた。
アーカイブを紐解いて見ても「モノ」の進化として考えられ、デザインされた「服」はそれぞれ
の時代のヒットアイテムであった。シャネル・スーツが今尚、シャネルブランドの定番となって
売れている現実や、CdGの80年代後半の5年間程には川久保玲の生み出した女性服にも多趣多様
なローブの着まわし服の進化があった。ミラノのスピーガーノ通りの裏道にあったおばちゃん服
のプリーツ屋さんに頻繁に通い工場までも見せてもらうと、とうとう先生自ら意匠登録した
イッセイのプリーツ・プリーツにせよ、僕の大好きなJ.コロナの平面パターンの表ロックミシン
うちのパンツやコオトなどなど過去のモードを振り返って見ても、その時代時代でヒットアイテ
ムとなって売れた服はやはり“進化”から生まれたデザインものがほとんどである。
近年では、今「壁紙」デザインの渦中になってしまっている元M.M.M.で、一番売れているもの
は何か?それは日本の地下足袋を進化させた“たびシューズ”である。彼らたちはこの”たびシュ
ーズ“をその後も幾度も進化させていまに続いている人気アイテムである。そして、服の進化系は
ストリート発からも読み取れる。最近ではbeautiful peopleが売りまくったボンパージャケット
のミニ版も,”コーディガン“なるカーディガン+コート丈のはおりものもこの“進化”に入るだろ
う。もう一つの世界では、YUIMA NAKAZATOが挑戦している世界もこの「進化」を根幹にし
た自分世界への高き挑みだ。

◯「モノ」としての「服の進化」に気づかせてくれた発端は、;
今回、この「服の進化」に気づかせてくれた発端はJUNYA MANのデフィレだった。
JUNYA MANがどうして、何故“コラボ・コレクション”をこれだけ長く続けているのか?
従来のファッションの目線で見ていると、もうほとんど彼のコレクションはコラボから始まり、
コラボに頼りそして、コラボによる“消化不良”を起こしている世界でしかない。だが、今だに
現状が継続されている現実。ここには、このデザイナーが為してきた実力と実績とともに、
「誰が彼とのコラボを望んでいるか?」そして、「必要としてされているか」そして、彼ら世界
規模のナショナルブランドがその根幹にこのコラボレーションで欲しているものとは?を深く読
むことで理解が出来るであろう。
今シーズンの彼のコレクションは僕的なタイトルは、「ウォリィーくんを探せ、アウトドア編」
であり、目立ったものはウエアーよりサック類だった。しかし、このアウトドアウエアーでは
その機能を担っている重要なパーツの一つに、「ファスナー」がある。JUNYAが今シーズン選ん
だファスナーはYKKではなく、「朝日ファスナー」だった。数シーズン前にもこのデザイナーは
この「朝日ファスナー」を使っていたが、今回もファスナーの持ち出し金具に特徴のあるカッコ
良いもの、“WALDES”を確りと選んで使っている。例えば、この感覚と決定がナショナル・ブラ
ンドの企画者たちへ拘りと差異感を与えるのだろう。
彼ら世界のナショナル・ブランドは自分たちの生産システムとその規模と構造を利用し、未来へ
の「モノの進化」を必然に考えなければならないビジネスの根幹があるからだ。彼らがコラボ・
デザイナーに託していることとは、自分たちが考えられないデザインの世界においての可能なる
「進化」とその「アイディア」を託しているに過ぎないのだ。
この規模のワールドワイドなビジネスにおいてのトップを走る企業は「時代に常に新しいモノ」
或いは、「時代と共にモノも進化する。」というコンセプト&コンテンツの元に彼らたちのビジ
ネス・スキル、「新しさ感」がモノのヒットを生み出すことを熟知しているからだろう。

◯今シーズンの若手デザイナーで「進化」を感じさせてくれたのは?;
20世紀のモードにおける根幹コンセプトとは着る人間の身体を”Wrap/Wrapping”する事であり
21世紀には新たなコンセプト、“Protect/Protection”へ進展し、身体だけではなく心の有り様ま
でも“Protect/Protection”する事がストリートから生まれた現代ファッション観となっている
では、今シーズンのパリの若手デザイナーでは、「GmbH」を 僕は挙げる。このフランスの
ユニットチームの時代観と新しさを感じる彼ら達の感受性の繊細さと、それを「モノ」としての
「服」に落とし込むまでの知的プロセスとシステム発想が全く新しさを生み出したコレクション
を行なった。何故ならば、彼ら達の進化のアイテムの一つに“補正/補整下着”からのデザインソー
スを読み取ることが出来るからだ。ここでは“Protect/Protection”というボキャヴラリィーが
新たな領域、「補整/補正」へ進化しデザインがなされ始めたと読めるコレクションだったからだ
着る人間の身体や心を“守る”事から”正す“或いは“補う”までのニュアンスが新らたなコンセプト
“Protect/Protection”というファッション・ボキャブラリィーに加わり、モードの世界の最新の
シーンを語り始め、これも新たな時代観と読める。
生活者個人が持ち得なければならない「セルフ・バランサー」が今という時代においては、
新たな消費のモチベーションであるヨガ等も自身の心を“補正/補整”する為の「セルフ・バランサ
ー」と読めばこの流れも理解できるであろう。

◯日本の若手デザイナーたちが考えている「ファッションをデザインするとは?」;
これを語るには僕が今、疑問視している例えば、今の時代における「ファッションアワード」と
は、その正体とはなんであろうか?この「ファッションアワード」の舞台裏を知ったならば、
これらは全て、『「客寄せパンダ」を探そう。』のカテゴリィーに収まる。
‘97年以降10年間ほど、各々のインターナショナルジュリィを数多くさせていただいて来た過去
の経験から言わせて貰えば、今現在、色々行われているファッションアワードとはその90%は
開催企業の“広告宣伝”の話題作りと客寄せパンダ発掘そして、若手のデザイナーからのアイディ
アお頂戴と“青田狩り“でしか無い。あのLVMHアワードなどはこの最たるもので日本の審査には
元バイヤーと元サッカー選手が選んでいるというお粗末な茶番劇でしかない。
しかし、「豚もおだてりゃ木に登る」で、選ばれた当事者たちはそんな内情は知らず、LVに選ば
れたという田舎者はいきなり世界のデザイナーになった気で振る舞いが始まる。ここには既に、
彼らたちの大いなる勘違いが始まり、その後の人生を傲慢にしかしない。しかし、最近ではN.Y.
で選ばれてメンズのアワードを取った“KOUZABURO”の世界は魅了させられる。彼の服の世界
観には深いプロ意識を持っている。

他方、残念ながら日本から行政絡みの”ご褒美パリ“でうつつをぬかして、パリ上陸を勘違いして
いる若手ブランドやコレクションブランドの殆どはパリのファッション広告塔のこれ見よがしの
「壁紙」を上書きする事がデザインだと勘違いしたレベルのセンスと教養と世界観が殆どだ。
或いは“パッケージ”に気を使い、これ見よがしのパッケージング・アイデァがデザインだと
糠喜びする輩たち。
この現実は仕方なであろう、今だに日本のファッション教育やその行政関係者たちは、
「デザイン」=「装飾する事」=「模倣」或いは「驚かし」(これをアートと称して、)が根底
の教育や指導が未だに風靡された世界の住民でしかないからであろう。ここには”リアリティの
欠如“の結果がもたらした、大いなる自己満でしかない田舎者たちの世界が読めるだけだ。
しかし、国家の税金を使って、これ見よがしのデザイナーを選び、パリへ送り込むその根拠は?
そして、その目標とは?結果、誰をどれだけの人たちを“幸せ”にするための国税使いなのだろう
か?
国内のアワードを取って選ばれた彼らたちに共通することとは、「ブランドに世界観や文化度が
低く、デザインする事とはにあるべき教養が低い、世界マーケットの実情を学んで来ない、売り
たいバイヤー情報を勉強していないそして、その多くは英語が不十分」という共通点が読める。
従って、この税金の使い方は官僚行政関係者が仲介役として商社(I.C系、)へ丸投げし、商社は
パリのセールスエージェントを使って彼らへ丸投げし、彼らが都合できるサロンへご膳立てをし
数日間からそれぞれがそれなりの旨みを味わう構造でしか無い。
実ビジネスを目的としたこの ”ご褒美パリ“体験ツアーとは、ここから何が生まれているのだろ
うか?

◯エピローグ;
一方、米国によって世界に蔓延してしまった21世紀社会のリアリティとしての「真実っぽさ
/truthiness」とはファッションの世界では元々からの根幹,FAKE=イメージング= TRUTHINESS
であるなら誰が「真実を仕立て上げるか」も新たな時代性の「クリエーション」になると言うま
でのパラドックスも現代である。
例えば、「真実っぽさ/truthiness」しか知らない人間が生み出せる世界は所詮、「真実っぽさ
/truthiness」の「上書き/更新」が根幹の世界観でしかないであろう。

さて、冒頭の僕が感じた明日への新たなボキャブラリィー、「革命/レボリューション」とは、
敢えて言うなれば、この「真実っぽさ/truthiness」という社会や生活環境でどっぷりと浸かり
切って生まれ育った世代が新たな世界を知ろうとする時、これらの環境や状況へ彼らたちの眼差
しでカウンターを抱く。ここから生まれる不安や不満や不平等それに、寂しさや儚さに対しての
“レヴォリューション”が生まれる可能性を思う。
それは、「真実っぽさ」のみが蔓延する世界から「真実」を守るための「革命/レボリューショ
ン」であろう。 宇宙を、地球を、自然を、人間を、身体を、性差を、個人をそして、新たな価値
観としての差異を「守る」ための 「革命/レボリューション」。
その根幹はやはり、「新たな自由による進化」が読めます。
決して、「安心のファッシズム」の中で飼い慣らされてしまった拝金主義者のための都合の良い
“自由“ではないでしょう。

このままでは、ファッション・デザインの世界はより、“キッチュ”な世界へ押し流されて
行くでしょう。
もう一度、「モノをデザインすることとは時代性と対峙した“進化”を考える事」と言う視点と
コンテンツによって為されるのもであることを再考して見る時期でもあろう。
ここに、新しい「革命/レボリューション」が共振する。
合掌。
文責/平川武治:平成6月23日:追稿7月23日+8月5日、10日:

投稿者 : editor | 2018年08月11日 21:38 | comment and transrate this entry (0)

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桑沢デザイン研究所講演デジュメ/「時代とデザインすること」とは? 『IKEA』を読み込むと。

「”時代が変わる“と“デザインする“ことのコンテンツも変革するはずなのに今だに、
“感性”という単語でフェイクするトレンド手法が変わらぬファッション・ビジネスの根幹?」
文責;平川武治/初稿:平成30年5月22日:

◎エピソード;
昨秋、面白い映画を見ました。
タイトルは「ハロルドが笑うその日まで」というスウーデン映画です。
新旧家具屋のオヤジさん二人の物語なのですが、旧くから営んでいた家具屋とその一方が
あの「IKEA」家具。ここで表現されている家具に対しての価値観と想いと時代感が興味と
知的好奇心が喚起されました。
この映画のシナリオの巧さに乗せられて、映画を観た後、しばらく登場する2タイプの家具屋の
関係性を考えていたら改めて、「”時代が変わる“という事とは?」そして、それぞれの時代の
生活価値観を拠り所として、「デザインすることとは?」という命題に嵌ってしまったのです。
そうしたら、今年1月終わりにこのIKEAの創業者が亡くなりましたね。
これも一つの“気”の巡り合わせあるいは、一つの時代性だと感じ、「時代とデザインすること」
というテーマを想い巡らせたのですお話しします。
(参照;NETFLIX/映画「ハロルドが笑うその日まで」)

「IKEA」はもう既に、日本でも皆さん世代にとっては一つの「カッコいい」を象徴する
“ブランド”家具チェーン店ですね。その「IKEA」の創始者、イングルバグ カンプラー氏が
この1月に91歳で亡くなった。彼は‘47年、17歳でイケア事業を起こし、一世代で、幾度かの
失敗を重ねて現在のような世界を制覇した“グローヴァル企業”であり、
僕的な視点ではこの「IKEA」は「ファスト・ファニチャー」企業です。

『「IKEA」の家具はすぐ潰れてしまう家具である。』
これが僕が引っ掛かったこの映画のコンテキストです。
主人公“ハロルド”が営んでいた古い家具店が隣に新しく出来た「IKEA」によって、彼の会社が
倒産の憂き目にあってしまうのです。そこで、この旧態然の家具屋の社長ハロルドは「IKEA」の
家具は自分たちが売っていた”家具“に比べると「すぐ壊れてしまう家具」でしかない。
と言う“視点と念い”を持ってしまうのです。
これはある種の被害者意識からの発想かもしれませんが、この主人公がそれまで商っていた
“家具”というモノが持っていた「価値観」の変革と相違がこの映画のストーリーのコンテンツに
なっています。
映画は、この念いが総じて「IKEA」の創業者を殺したいと言う発端から始まり、彼の念いが
その後の行為へとストーリー化されて行くある種、涙そそるコメディー映画です。

「新たな時代が生み出す価値観」
ここで、僕が思いついた眼差しは、時代が持ち得た”価値観”の差異としての「家具とは?」が
あります。この視点は今のファッションの世界でもある意味で同レベル、同シーンでしょう。
だから僕はこの「IKEA」を『ファースト・ファニチェー』と名つけたのです。

 まず、従来型。今でもこの価値観は世代に関係なく「モノ」に対しての重要な考え方として
継続された日本的だった価値観で、「家具は一生モノ」と言う考え方ですね。
特に、戦前の日本の中産階級以上の社会にはこの価値観が強く国民的に存在していました。
そこで「モノは大切に使う事。」と言う躾があったのです。「一生モノ」だから良いものを作る
或いは「一生モノ」だから選ばれた良い”素材“と磨き抜かれた“技術”を持って、高くて当たり前
で、良いものを作れば、売れる。従って、家具とは「大切に手入れをして使う」”モノ“とだ言う
この価値観の元での「作り手」が担わなければならない“スキルと技術と経験そして、創造性”を
必然とした世界があります。

もう一つは、「モノは消耗品」でしかない。「家具」もその一品だと言う価値観です。
第2次大戦の敗戦後、国土が”焼け野原“状態で迎えた戦後社会に生まれた価値観の新しさに、
「いくらいいモノを大切に使っていても、燃えて仕舞えば同じである。」と言う経験値からの
価値観とアメリカの戦後の消費文化に汚染され、産み落とした新たな価値観があります。
みなさんの世代は殆どこの価値観が当たり前で、持ち得た時代と環境から刷り込まれた
「モノ」への価値観になり、「消費文化」なる文化が創生され、自身の生活環境を消費で
愉しんでいる世代でしょう。

「新たな差異」という価値
このような新たな時代が産み落とした「価値観」の元での「家具」は「作り手」が必要とする
“スキルと技術と経験そして、創造性”も自ずから「新たな差異」が必然となって来ます。
多分、この「差異」がなければ、「古いモノ」あるいは、「時代遅れ」になってしまいますね。
ここでの「新たな差異」とは古い価値観のために「家具」を作ることから、新しい時代性に
よって生まれた価値観の元で「家具」を作る事であり、そこには新たな目線が必要です。
今までに無かったその価値の為の新たな「差異」を考える必要が生まれます。
これが「時代のニーズに合ったもの」を作るということの一つでしょう。
 これは時代が持ち得た「眼差しの変化」に気が付くことであり、これをケアフルに感度良く
「モノ」に新たな違いあるいは、新しさとして「差異」を付加することが「デザイン」の役割
であり結果、自由な楽しみや面白さやカッコよさや快適さなどをも生みだす世界が
「デザインする事」で有り、このデザインすることで可能なそれぞれの時代による「新たな
差異」を創造することが「近代デザインの世界」の根幹でしょう。

 時代が生み落す「眼差しの変化」という“リアリティ”は「時代が変わって行く」と表現され、
「時代が変わる」とは日常生活において”豊かさに差異が生まれる事“であり、「眼差しの変化」
に気付くことそれそのものが、「創造のための発想」の自由な契機の一つです。
これはモノを創る人や売る人たちの見落としてはならない”発想のための根幹“ですね。

「組み替えられたコンテキスト」
僕はこの映画から「IKEA」はこの様な二つの根幹的なブランド・コンセプトを見い出したと
読みました。
その一つが、この「IKEA」の家具は”すぐ潰れてしまう家具“を”誰でもが組み立てられる家具“
と言うコンテンツによってシナリオを“発想の転換”で書き換えた事です。
そして、「その結果“フラット・パック”が発想され、組み立て工程が省略されコストが下がり
低価格で売れそして、耐久性も3~5年程度で十分。」と言う家具業界での新たな価値観により
“システムとビジネス構造”を構築した事が現在の「IKEA」の成功をもたらした根幹の一つ。
ネガティフな側面をこのようなポジティフに「すぐ、誰にでも組み立てられる」という
コンテンツを発想し、シナリオに変換させた頭の良さとセンスの良さとそれに時代の読み方に
驚きます。そして、それを根幹に自分たちが儲けられるそれなりの”適正価格構造“即ち、
「自分達のビジネスは自分達でそのルールをも構築する。」と言う”システム“までが考えられた
ビジネス・スキルを築きあげたビジネスのセンスも新しく、この生み出された”システム“その
ものが「差異」だったのです。
もう一つは、この”「IKEA」の家具、”すぐ潰れてしまう家具”をでは、潰れるまでの時間を
購入した人たちをどれだけ”ハッピー”な気分にさせる事が可能か?そのためにはどのようなこと
を考え役割として施せばいいのか?その為に「デザインする事」という真逆な領域が考えられた
のです。

「IKEA」の家具を買って、自分たちで組み立てて自分の部屋でハッピーにカッコ良く共有する
為にはどの様な”サーヴィス&ホスピタリティ”を「デザイン」という“コミュニュケーション・
ツール”が可能性を持って為せらるか?より、可能性を生み出せるか? ここに、現在の様な
「デザイン優先」ブランドの「IKEA」が登場した。
「デザインする事」にその立ち居場所が与えられ、役割が与えられ“センスとスキルと技術”に
よって、ここでもどれだけポジティフ・デザインが為され、そこで生まれた「共有感覚」を
“ウリの構造”にシステム化できるか?家具そのものとそれらの形態から、それらの色彩やサイズ
感と機能性そして、それらを取りまくあらゆる”グラフィックデザイン”と”パッケージデザイン”
を新たなセンスによってポジティフな「差異」が加えられ、新たな「力」を産むまでのシステム
を構造化したのがこの企業に秘められた成功のための”㊙︎コード”だったのでしょう。

時代にはいつも“追い風”が吹くときがある。
ここで、忘れてならないことのもう一つは時代がもたらした新たな大きなうねり即ち、「時代
の追い風」です。それが、先述した“戦後という時代”が新しい時代へと「時代が変わってゆく」
事でした。 “核家族”が生まれ、“消費社会”が始まり、“家具”に対しての価値観も変わり始めた
社会と時代がもたらしたもう一つの新しさ、それは科学と工業技術の進歩がもたらした「素材」
と「生産工程」でした。 木以外の“合成樹脂”と“パーティクルボード”いう新しい技術が生んだ
「素材」が加わり、デザインそのものに新たらしい可能性を生み出す“時代の追い風”が吹き始め
たのです。
勿論、その風を「IKEA」は“デザイン”の全てに取り入れた事です。そして結果、時代は
「大衆消費社会」へと向かい始める時とこの「IKEA」の‘60年代以降の事業拡大とが
チューニングされ、重なり合っています。
現代では、PCと言う新たなメディアにおいてもこの「IKEA」は“e-コマース”と”e-メディア“と
言う新しい時代環境へ彼らたちは「デザイン力」を変わらず、十分に注入しています。

「IKEA」は一つのコンセプト、『「IKEA」の家具はすぐ潰れてしまう家具である。』を
見事なコンテンツでシナリオ化し、真逆な「発想の転換」により、ポジティフな差異を作り、
それを力にしてより、力を生み出す構造を構築した。そして、「デザインする事」に委ねた
これらのトータルな”センス オブ バランス”な感覚と「新しさ」を商品群は無論のこと、空間と
そのディスプレー&コーディネートそして、カタログをはじめ、あらゆる印刷媒体と広告媒体へ
ヴィジュアル・プレゼンテーション&パフォーマンスし、企業と従業員そして顧客たちとの
ハッピーな共有感覚を「ポジティフな3方良し」とした企業理念がこの企業の素晴らしさと偉大
さなのでしょう。(3方良しとは、作り手と売り手である「IKEA」と利用者たち顧客とそして、
作られた“モノ”の3方良しである。)これを企業理念としたことによって、「IKEAはデザインを
売る企業」と成り、現在の成長が生まれたのでしょう。

繰り返しますが、この映画を見たことによって、僕は”「IKEA」の家具はすぐ潰れてしまう
家具である。”というコンテンツをもって新たな”家具のデザインとビジネス”に挑戦したこと
そのものが凄くカッコ良くて「新しく高度なるスキル」と感じ学んだのです。

ファッションの世界では、
多分、この家具の世界の「IKEA」とはモードで言えば、「フアスト・ファッション」と
言われるカテゴリィーが対峙し、ここではやはり、あのブランド「H&M」でしょう。
この2社は同じ’47年、スウエーデン発でお互いに大いに影響を受け成長と発展を成した様です。
従って、“すぐに、ダメになってしまう服”がこの「フアスト・ファッション」の根幹です。

ファッションの世界は既に、20世紀初頭に巴里の“オート・クチュール組合”という当時未だ、
残っていた“階級社会”を根幹にした「差異化機能」が現在のファッションビジネスの世界に先駆
けて誕生し、システム化されていました。
ここには当時の階級社会がその特権とした階級を既に、”階級“そのものが「奢侈」であり、
「差異」である事を表層化する即ち、彼らを「衣服」にするというコンテキストによって200年
以上継続している世界が現存し、現在の「フアスト・ファッション」に至ったのです。
 ファッションの世界が「IKEA」で代表される『ファースト・ファニチェー』の世界との大いな
る相違は「差異化」を図りながら尚も、「継続」して行くために彼らたちは「トレンド=潮流」
というシステムを構築してきたことそして、ファッションにおける「差異化」の根幹システムに
”質”だけではなく新たに「速度」と「サイクル」を加え、「トレンド=潮流」がこの世界での
「差異化機能」となり、このコンテキストを生み出しそれをシステム化した事が『ファースト・
ファニチェー』との大いなる相違点でしょう。しかし、確実にこのファッションにおける
「差異化」機能が21世紀に入って、減速してしまったことはファッションの世界にもファスト・
ファッションが登場できた、新たな時代の「隙間」が生まれた為でしょう。

「売りづらくなり始めたあるいは、売れなくなり始めた「フアスト・ファッション」
 ファッションの世界での”すぐ潰れてしまう家具“とは、「すぐに着れなくなる服」あるいは、
「すぐに嫌になってしまう服」もしくは、「すぐに飽きてしまう服」又は、「すぐに魅力がなく
なってしまう服」だと先ず、認める事から「デザイン」活動に入るべきが王道でしょう。

 これらの”ネガティフなコンテンツを「フアスト・ファッション」は「誰でもが、安心して、
安価で自分たち地元ですぐにかっこ良く買える服そして、みんなと同じワールドワイドにお洒落
が出来る。」というコンテンツとどれだけ”ポジティフなVMD“に変換したシナリオでここ20年
間ほどで世界を風靡して来ました。
 しかし、このシナリオ自体がそろそろ古くなり、マンネリ化してきたこと自体が“次なる“を
意識し始めて来た時代性でもあるでしょう。新たな豊かさの元で生まれ育った若者たちは彼らた
ちのリアリティの中から、「トレンド=潮流」という時代の風が「倫理観」という人間の営みの
根幹が大切であることに気が付き始めた世代たちによって吹き始めてきたようですね。
 このプロローグとして、「H&M」の現在はもう既に、『4200億円相当が売れ残り? H&Mが
「セールの悪循環」に陥っている』という情報が流れています。その要因は「ファッション性と
価格関係が間違っていた。」「ファッション性とトレンドそして、価格帯と流通に歪みが出来始
めた。」と言うものらしいです。ここでのキーワードは「ファッション性」「トレンド」そして
「価格帯」「流通」ですね。当然ですが、現在の多くの「ファスト・ファッション」企業の
ブランドにおいても、これらの「キーワード」を今の時代感とそのリアリティに照らし合わせて
再考或いは、再検討すべき時期という時代性が来たのかも知れませんね。
参照/http://www.businessinsider.com/why-hm-business-is-struggling-201804
(日本語)https://www.businessinsider.jp/post-165036

この現実はもうファッションという言葉が持ち得てしまった「意味性」が新たなシーンを語る
ボキャブラリィーに変換され始めているからです。
ファッションとは既に、“装い”を表すものだけではなく今の時代では「生活環境」そのものを
指すまでの意味性と、「セルフ・プロテクト」としての新たな“ギィアー感覚”へと拡大革新して
来たのが現実ですね。
今後はここに「A.I.」感覚とその機能が新しさをも生み出すまでに。

「感動のプライオリティ」を求め始めたニュー・ジェネたち; 
 では、『フアスト・ファッション』はどうして「すぐに着れなくなる服」あるいは、
「すぐに嫌になってしまう服」もしくは、「すぐに飽きてしまう服」又は、
「すぐに魅力がなくなってしまう服」なのだろうか?

 ここには当然ですが、今の時代の価値観である「安心・安全・快適」もしくは、
「家で・みんなで・安心」の元では、「新しさやときめきそれに、自由さや驚き」などの
「感動のプライオリティ」が喪失或いは激少して行くことでしかないのです。
しかし、現実はここ20年間ほど、この「保守の進展」という時代観そのものを大衆に押し付け
求めさせ、それが自体が明日へ生きる為のシナリオと化してしまったからでしょう。
 この”楽だから、面白いから、安心だからカワイイから”に飼いならされてしまった”矛盾”を
感じ始め出した世代がいる。彼らたちは決して、”ヴァーチュアル”を美術館に未だ、入れない。
「ヴァーチュアルミュージアム」なるものを作り”ヴァーチュアル”そのものを「差異化」して、
商売を、金儲けを企んでいる輩たちではない。きっと、そんな”大人”たちを横目でみながら
彼ら世代が感じ持ち始めた「共通感覚」と「感動のプライオリティ」のための”ジグソウ・
パズル”に参加し、挑戦出来なくては彼らたちとの「共有感覚」が持てないであろう。
 何故ならば、今日のファッションの世界の人たちが変わらず、大好きな「感性」という
ボキャブラリィで「壁紙」だけを上塗りしながらここまで来てしまった今日は未だ,”明日”へ
続くのだろうか?
 
これも一つの“リアリティ”です。
 時代の変化をいち早く感じる産業はやはり、ファッションの世界です。
これはなぜかと言えば、先述した「差異化装置」としての”トレンド=潮流”という仕組みが
ファッションの世界では「速度」と「サイクル」を構造化して、いつもプライオリティを保ち持
って来たからでしょう。従って、時代の変化をいち早くコード化するのがファッションの役割の
一つでもあり、この価値をお金に変えてきたのがファッション産業だったのです。
ここから発せられる、「新しさやときめきそれに、自由さや驚き」そのものが”生活者ち”へ
”生きて行く実質な喜びと興奮と好奇心と愛”を与えてくれるまでのものなのでしたし、
これそのものが「ファッションの世界」だったのです。
 
このようなファッションの世界の今後は「コスチューム化」と「ユニフォーム化」の2極化へ
ますます進化して行くだけでしょう。
「コスチューム化」とは、繋がるために”パーソナル・コスチューム”を愉しみたい、というまで
の自己表現あるいは、自己肯定のためのコスチューム化。ここではヴィンテージやそのリメイク
などが王道となってきていますね。
 そして、「ユニフォーム化」とは、”繋がるための”「行為」のユニフォーム。
「家で・みんなで・安心」のために為さねばならない「行為」のための服としての制服化。
ヨガ・ファッションなどもそうであろうし、ファースト・ファッションそのものの”トレンドも
の”がユニフォームとなってしまっている”一家に1枚のヒートテック“現状の日常化である。
 
 なぜならば、時代が保守化しそのスピードがゆるくなってくると「新しさ」もスローになって
鈍化する。ここで起こり来るものは「創造性のパラドックス」が見られ始める。
 人々は自分と似た人を探す為の同化作用としてファッションを機能させるからだ。
そして、代りに登場するのは、”質”と”見映え”の世界です。
昨今の”4K”や”インスタ映え”ブームはこの現れでしょう。そして、ここでの最終目的は
”繋がる””繋がりたい”なのです。
 しかしこの根幹は、「みんなと一緒」に変わりはなく、人間は結局、「誰かと関係性を繋げて
いたい。」に帰するからでしょう。特に現代の日本人は孤独や寂しさを嫌う国民になってしまっ
たから余計でしょう。

では、新たなボキャブラリィ、「NEW NORMAL」とは、
 このような時代においては最近のTVコマーシャルで聞く「NEW NORMAL」という
ボキャブラリィーがその響きとともに、新鮮さを与えてくれます。
 結果、「モノ」への想いと価値が薄らぎ始め、代わって「ヒト・コト・行為=関係性」という
新たな時代の価値観が少しづつ芽生え始めて来たと感じられる時代の”新しさ”をこの言葉から
感じます。
 ならば、『「NEW NORMAL」という時代性とは?』をファイリング&ディクションすること
自体が次なる世代たちと繋がる為への”情景”でしょう。
 この関係性を構築するための「行為」が今後はより「モノ」の消費よりも増して消費する
時代性がこの「NEW NORMAL」の情景と考えられますね。
 
 閉塞感は個人の寂しさを増長させるだけである。これを背追い込んでしまった、「豊かなる
難民たち」は与えられた「安心・安全・快適」環境に委ねてしまって、自らの「自由や愛」は
”ゲーム”内でそれらを探し求める旅の面白さを知ってしまったからであろうか。
だから、行為としての「関係性」を生む筈の自らの「自由や愛」をリアルな世界では不安である
から探し求めない。彼らたちにとっては「ある場所」があれば良い。
あるいは、それが「ゴッコは嫌だけれど、ゲームであればいい、真実でなくても、
真実っぽければいい。」これが、「NEW NORMAL」の情景であろうか?

 例えば、「フジロック」や「YOGA」それに「ダンス」があり又は、「追っ掛け」がある。
これらのそれぞれは「行為」そのもので出会える関係性を音楽や癒しを共有し、“行為”としての
楽しみにする、費やすそして繋がる。また、インスタで繋がりたいための「行為」が消費そのも
のを生むまでのリアリティでもある。ここには前述の「感動のプライオリティ」がコンテンツの
シナリオがある。そして、今後の先端ファッションも「LIFEHACK」へとより向かう。

「気の利いた手段で、もっと快適に、もっと楽しみ、もっと効率良く」とい「LIFEHACKER」
たちの選択した「行為」としての生活手法はファッションの世界へもアプリと3DとA.I.を携えて
”リアリティ+ヴァーチャル”の方法や手段をみんなと一緒に共有し“ヴァーチャル・リアリティ”
を美術館へ行かなくとも日常で愉しもうというまでの「行為のマーチャンダイジング」が
”現在から明日”を指さす時代性の一端でしょう。

◎まとめ;
「 時代が変わるー豊かさが変わるーリアリティが変わるーモノの価値観が変わる
ーモノへのニーズが変わるー”モノ”の進化を考えるーデザインのコンテンツが変わる。」

◎参考/ウキペディアで”「IKEA」を調べると;
「1947年に17歳だった、Ingvar Kamprad、(1926年 - 2018年)が設立した“雑貨屋“が
初まり。当時は需要があれば何でも取り扱う店であったが、1947年に地元の家具店と契約して
格安販売を開始するとこれが大当たりし、1951年以降は完全に家具販売に集中する。
1953年に最初のショールームをオープン以後は、順調に売り上げを伸ばしていたが、
同業他社との深刻な価格競争に巻き込まれることになり、ライバルの圧力によって、家具メーカ
ーからの商品供給停止という深刻な状態となる。
しかし、こうした事態をバネに、自社で独自のデザイナーを抱え、企画・製造・販売まで全て
まかなう、現在の「IKEA」のスタイルを誕生させた。また、この際にイケアの特徴の一つである
「フラットパック(分解された商品は、できるかぎり薄く小さい梱包をされており、車の
トランクに積んで簡単に持ち帰ることができる)」も誕生している。
2015年に店舗のあるすべての国でインターネット通販を展開すると発表。アメリカ、ドイツ、
イギリスなど欧米でオンラインサイトを展開し、日本では遅れて2017年4月に開始した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/イケア

 日本では2001年に再展開を始め現在に至っている。
 また、新しいところでは今年1月に発表したT-シャツキャンペーンで黒人少年を使ったコピー
が人種差別そのものであるというSNS炎上から一気にブランドイメージが低下した。
これも現在の「IKEA」のリアリティであり、売り上げを落としている原因でもある。
*「IKEA」の企業実態は下記のサイトが参考になる。
「IKEA Group(イケアグループ)の2016年8月期(2016年度)の売上高は351億ユーロ
(1ユーロ=130円換算で4兆5,596億円)。
また、売上総利益は161.6億ユーロ(同2兆1,003億円)となり、粗利益率は46%。営業利益
(ここではオペレーティング・インカム)は45億ユーロ(同5,849億円)で、営業利率12.8%。
また、当期純利益は42億ユーロ(同5,460億円)となっています。
http://www.toushin-1.jp/articles/-/3930
*「IKEA」の「職場が楽しい」日本版は下記のサイトを参照。
https://toyokeizai.net/articles/-/63220
文責/平川武治:再校/6月10日:再々稿/7月1日:
合掌:

投稿者 : editor | 2018年07月05日 00:03 | comment and transrate this entry (0)

article(106)

18AW-PARIS・Fashion Weekからモード環境を考察する。/『 ”象徴の貧困”としてのモードの世界とは?』

「モードの環境」と、「ファッション・ビジネスの現場」の新たな時代の関係性を
理解するために。

”象徴の貧困”としてのモード化社会。/18AW-PARIS・Fashion Weekから
「モードのパリ」と言う現場の変革を深読みし、一つの考察をしてみよう。

 僕の流儀である、まず結論を先に言ってしまえば、
 この様な時代性になってしまった”モードの世界における創造”とは着る人間の身体構造と
生活環境が変革しない限り、「服」における全く新たな造形の創造は”枯渇”してしまった。
 この現実をまず、認めるべきである時代性。
次は、このような時代では”創造性”とはどの様なことであるかを認識すべきであること。
では、この様な時代性になった現代の、ファッションにおける「創造」とは過去の創造の
ストック、「FASHION ARCHIVES」を利用する”バリエーション化”あるいは”ブリコラージュ”
と言う手法に取って代わられてしまった「創造的あるいは、装飾的」が現代のモードの
「創造の世界」である。
 他方、新たな現実に対応し始めた「ファッショ・ビジネス」の世界は、その”象徴の豊かさ”に
委ねられたモードの世界が”象徴の貧困”化し始める。ここでは「工業製品」である”ファスト・
ファッション”を生み出し、従来のアパレル産業に取って代わり、「SPA型」ファッション・
ビジネスの世界を発展させ、時代の”IT”を味方に付け、”e-コマース”と言う新たな”ヴァーチャル
売り場”を戦力にした世界と生産プロセスにおける多種多様な情報力とその量と速度の高度な進化
によって、”e-プロダクト”と”e-メディア”と言う新たな可能性をも味方にした”象徴の貧困”が
ファッション化されている。
 この様な時代性になった時、”作り手否、送り手”であるデザイナーたちはどの様な「価値観」
を携えてこのファッションの世界へ「夢と憧れ」を抱いて来ているのであろうか? 
 或いは、この”象徴の貧困”のファッションの世界に、どの様な「創造の価値」を心して
デザイナーに成りたいのか?或いは、成っているのか?
ーーー名声、富、ヴァニティーな世界への憧れ、自己満足、自己顕示欲、自己肯定等など???
??? 有名になりたい、金持ちになりたい、デザイナーと呼ばれたい云々、、、、、、、、、
 
 『既に、”新たなる創造なき世界”に何を価値として関わって行きたいのか?』
僕はこの”象徴の貧困”の根幹こそが、そのデザイナーの人間性を問うまでの時代性になったと
感じ始めてしまっています。

時代を象徴する一つのプロローグを、
モードを語る前に、既に、”象徴の貧困”としてのモード化社会を認識しよう。
『我々の今日的社会はコントロール社会(管理される社会)と言う調整社会であり、
この様な社会に於いてはバランサーとしての感覚的な武器が必要不可欠である。』
Jeremy Rifkinはこれを『文化資本主義』と論じた。
/参照;「アクセスの時代―Age of Access」/渡辺康雄訳;集英社刊/01年:
 例えば、以前読んだもう1冊には、このような一文もあった。
『ハイパーインダストリアル時代には、感受性は執拗なマーケティング戦略攻撃に
晒されているが、その感受性こそが今、紛れもなく起っているあらゆる種類の戦いの争点と
なっていると言う事。その戦いの武器はテクノロジーであり、被害を受けるのは個々のそして、
それぞれの集団つまり、異文化/異民族の特異性であり、今や文化資本主義の下、我々の
消費社会は”象徴の貧困”が果てしなく広がるに至っていると言うことを認識してください。
例えば、武器としてのオーディオヴィジュアルやデジタルと言ったバーチャルな感覚に関わる
技術をコントロールする事が問題なのでありそして、その技術のコントーロールを通じて、
魂とそれが住む身体の意識と無意識の時間までをもコントロールしようとの企てが始っています
ね。それは”フロー”をコントロールする事で”意識と生”の時間を調整する事なのです。』
/参照;“DELA MISERE SYMBOLIQUE 1. L'epoque hyperindustrielle"
By Bernard STIEGLER EDITIONS GALIEE,04/Paris.
 
 そして、世界は確実にある一つの流れの方向へ導かれている。
世界規模での地デジ変換の目的の一つもこの範疇であった、インターネットを介したTVとPCの
統合により、明日の『テレヴィジョン』端末は『テレアクション』端末へと、モバイルになり
小型化、大量情報そして、速度というファクターによって変革してしまった。
この現実とは、文化資本主義の下に文化産業が産業全般そして、今後の情報社会の基幹産業と
なりつつある事だ。現代日本の「安心のファッシズム」に漂っている多くの消費社会の国民は
この「テレアクション」=映画+TV+ゲーム+音楽+フットボール+ショッピング+金融+保険
に現実時間の多くを委ね切った安心という願望の日常リアリティでしかない。

世界は21世紀以来、文化資本主義の下、文化産業をビジネス構造化するための”文化価値”と
感覚的武器の一つである芸術の価値即ち、”美-美意識”の“価値判断”の唯一統合化に依って、
”特異なモノが特殊なモノに”変えられてしまう。そして、彼らたちにとって変わらぬ世界とは、
コントロール社会(管理される社会)が”金融―価値観―武器”の新たな調整戦略によって
より高度な技術による、「コントロール社会(管理される社会)」へと進化,革新している。
これが今と今後の、世界の”グローバリゼーション”の本意本質である。
嘗ての20世紀初頭、政治の根幹は自分たちの国家が富める国家であろうとするために、
「植民地政策主義」によって利権化構造とともに白人資本主義社会が帝国主義化を競い合い、
黄色人種としての日本も加わって、結果、2つの世界大戦をもたらしてしまった近い20世紀の過去
を忘れないでおこう。そして、21世紀を迎えた我々は新たな技術を持って、新たな武器
とした「グローヴァリゼーション」の時代を手中にした。この新たな技術が「インターネット」
であり、この新たな技術を利用した「コントロール社会」の構築化と進化が現在の21世紀の
初頭であろう。ここには古いシステムに、新たな技術を加え、構造化された根幹が読める。
即ち、資本主義とは、『力と差異をどのようにシステム化』することで可能なシナリオであり
これは依然、変わらない白人社会が生み出した根幹である。ここに、新たな進歩としての技術
革新が加わっただけが「文明の進歩」と読むことが現代をシンプルで理解しやすいであろう。

**
さて、こうして”未来”を読んだ場合、
ファッションの世界にも“象徴の貧困”が染み込み始め、表層化されるだけであろう。
そこに“表層のボキャブラリィー”がより、フォーカスされ”特異な文化が特殊な世界に”消費社会
のために変えられてしまう。ここに僕が発言している「壁紙デザイナー」や「庭先デザイナー」
の登場とその立ち居場所が可能になったファッションの世界が現代である。
 ある時期まではこのモードの世界も、”象徴の豊かさ”故に存在価値があった時代があった。
メゾン、M.M.がこのモードの世界へ彼らたちの「創造の発想」によって一つの時代性を創造した
根幹は、それまで存在していた”象徴の豊かさ”を解体し、“象徴の貧困”と言うリアリティを
”落ち穂拾い”即ち、再構築したことであろう。
 そして、現代のファッションに於ける“象徴の貧困”とは、ヌーボー・リッシュ(新興成金)に
よるラグジュアリィ・ファッションの金メッキ化されたヴァニティな世界そのものの存在で
あり、他方、“流行/トレンド”とはグローヴァリゼーションを背景に新たなパワーとして
の大量生産可能な「工業化製品」としてのフアスト-ファッションの登場とその差異化のための
コードが“象徴の貧困”である。
 もうひとつ、それらのブリッジとしての役割を与えられていたプレタ・ポルテの現実とは
ファッシズムな調和のための創造的ゲームであり、“フェッチ&キッチュ”か或いは、
“ユニフォーム”へと流れ始めている。ここでは、 救われる唯一の身体の意識と無意識の時間の
ための”武器”は“過去”の使い方である。この過去とは集積された”アーカイブ”であり、
“共有したノスタルジア”の不連続な連続における集合体として甦る。
 ここでの価値は”未来のイメージ”ではなく過去へのイメージであり、それ以上に共有し得る
”エピソード”のヴィジュアル化と“コスチューム”化が“象徴の貧困”社会の新たな”武器”だ。
 象徴が貧困化すればするほど、嘗ての”カッコ良さ”がノスタルジー化され,美化され語り
続けられる”エピソード”になる。そして、これによってモードの世界も「美術館ビジネス」と
言う新たなビジネス構造が誕生し確立される。
この発端を直接的に構造化したのはCdG川久保玲の”作品展覧会”が動機である。
売れなくてもいい。それなりの場所に置いておくだけで価値が生まれると言うビジネスシステム
をランウェーで実行したのが川久保玲だ。ここにこれ以後の新たな彼女の新しい立ち居場所を
アヴァンギャルドに自らが創造したのであるからやはり彼女の気迫と根性はすごい。
 以後、世界のラグジュアリィー・ブランド企業はこぞって、「ファンデーション機能」を
設立し始めたのも現実になった。ここでは自分たちのアーカイヴを使っての未来への”創造性”と
それらのアーカイヴにより、文化資本主義の下、文化産業をビジネス構造化するための
企業自らがデレクションした”文化価値”を育成するためである。

もう一方の側の若手デザイナーたちの立ち居場所では、固定されない立ち居場所を見出し
始めている。考えようによると「自分のブランドとはインターネットのプラウザである。」
と言う視点だ。「いいね!」を押し合って彼ら世代のバーチャルな関係性を構築し、そこで
「コラボレーション」と言う手法を味方につける。この手法も見方を変えれば、
「アートビジネス」の構造に類似している。「コラボ」することによって自分たちのブランドの
「来歴」を造ると言うシナリオだ。この「来歴」即ち、「コラボ」の話題性が凄いほど
そのデザイナーの立ち居場所がメディアによってシナリオ化され拡散され、ブランドと
デザイナーの「知名度」へ繋がる構造がここには見られる現代である。
 ここではコラボの相手先がインターナショナル・ブランドであればあるほどに、自分たちが
求めている”立ち居場所”を約束してくれると言うシステムになりつつある。これは彼らたちの
関係性の拡散手法に『”成熟”を拒否し始めた世代』の表層が実は見える。
 この根幹は「競い合う」対象の変革化とでも言える新しいビジネス構造の一環になり始める。
”創造性”で競い合うことよりも”話題つくり”と”ヴァリエーション作りあるいは、
”ブリコラージュ”によって競い合う「選曲・編曲」と言う時代性であり、変わらぬ
”ファッションと音楽”の関係性が尚、ハネムーンであるし、そこに新たに”アートビジネス”の
システムが加わりファッションビジネスも本格的な「モノ資本主義」から「文化資本主義」の
元、文化産業としての新時代が到来したのが今である。
 
***
 このような時代観を自らの”形態言語”の日常環境とした時、モードを語る人たちは
何を語れば良いのか?
『誰が』『いつ』『誰に向けて』『何のため』それらを作ったのかという事をどのような
”立ち居場所”で、どのような”眼差し”で、どのような”ボケブラリィー”で、どのような”素材”と
“手法”によって、”未来の貧困”へ向けて語られているのだろか?
あるいは、”過去の豊かさ”へ向けて持ち得たそれぞれの「文化度」によって語りかけるだけの
ものなのであろうか?
 或いは、それ以上に「作り手」と言うよりも既に、唯の「送り手」になってしまった
ニュー・ジェネ・ファッションディレクターたちが認識し、持たなければならない根幹がある。
それはこの時代性だから持たなければならない「創造のための価値」観である。
 「創造のための価値」とは簡単に言ってしまえば、時代が進化することによって生まれる
「豊かさ」によって、「作り手=送り手」たちも、「なぜ好きな服を作るのか?」どうして、
「ブランド・デザイナー」になりたかったのか?と言うまでの自身の心の有様の根拠性と
自らが求めた”立ち居場所”のためのアイデンティティそのものでもある。そして、持ち得た
自らの「夢」の根幹でもある。
 この現代の作り手としての根幹である「創造のための価値」の発想の由来と根拠が本来は
そのデザイナーやブランドの「クオリティ」や「品格」となり、自らが求めた「立ち居場所」の
存在意義の確認に大切な根幹になる。
 なぜ、今この根幹が大切な時代であるかと言えば、ファッションの世界に「純創造」と言う
世界がいまだに存在するのであればその「創造」に挑戦することが自分が持ち得た自由の根幹
になりそれが創造へ賭ける心のエネルギィーになり得た時代があった。
 嘗て未だ、ファッションの世界に”新たな創造”と云う領域が芳醇に存在していた時代であれば
「作り手」は「創造のための発想」のみを深く考えて行為し、概念を発言すれば良かったのだが
今はこのシーンはすでに過去のものになってしまったからである。

 僕が最近のコレクションを見て評価する根拠は、このデザイナーはどのような
「創造のための価値」を持ってコレクションを作ったのか?と言う眼差しで見始めている。
誰のために、どのような人達のためのためのコレクションなのか?
或いは、コレクションを行なっているのか? を感じ、読むことがとっても大切な「共有感覚」
を創造する根幹であることだと信じて見ている。
 しかし、その多くは「自己中心」に始まり、「自己満足」「有名になりたい」「儲けたい」
それに、ラグジュアリィーブランドのデザイナーに登用されたいと言う“象徴の貧困”を
上塗りするだけの「壁紙デザイナー」や「庭先デザイナー」が賑わいを作っている世界でしか
無くなって来たと読めるまでの先月の『Paris・Fashion Week,18A/W』だった。
合掌:
文責/平川武治:  

<参考>
 *今回、パリで見た展覧会;
『M.M.M. 20周年回顧展』/於;モードガリエラ、
『Y.S.L.展』/於;ファデーションYSL,
『FUJITA展』/ 於;マイヨール美術館、
『RAOUL HAUSMANN写真展』他/於;JEU DE PAUME: 1918年のベルリン・ダダに関わり、
2つの大戦を経験したその作品群は眼差しの向こう側にあるものを捉えていたウイーン生まれ。
『IMAGES EN LUTTE展』/ 於;Palais des Beaux-Arts : 今年で50年を迎えた「’68MAY」の
オマージュ展。当時のグラフィック、フリーペーパーなどとその後、続出したキューバ、チェコ、
インドシナ等の「革命」のプロパガンダ・イメージ & グラフィックス展。
 日本おける「安保'68」展は何処かでやるのだろうか?  
『MUSEE CONDE』/ 於;CHATILLY, 久しぶりにシャンティイ城と街全体を16世紀の佇まいを
残したサンリスへ出かけた。サンリスの夕刻がメラコリックでいい。
 *読書;
『都市と娯楽』/ 加藤秀俊著:鹿島出版会刊:
『柳宗悦』/ MUJIBOOKS刊: 
『暴政』/ T.スナイダー著:慶應義塾大学出版会刊:御一読を進めます。
『日本二千六百年史』/ 大川周明著;毎日ワンズ刊:

 ありがとう。

 


 

投稿者 : editor | 2018年03月28日 17:12 | comment and transrate this entry (0)

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ブルータスSTYLEBOOK 2018 S/S向け原稿草案。『モードにしがみついてきた男の供述書。』

本原稿は、「ブルータスSTYLEBOOK 2018 S/S向け原稿草案」として書き下ろされたものの
全稿であり、私書版「14歳のためのモード論」のプロローグの一章でもある。

『モードにしがみついてきた男の供述書。』
ーーーーーー終戦の気配が漂い始めた頃に生まれたものが、
あの戦後の荒廃期の中から不謹慎さと共に変わらず、「装うことが好き」と言う事を
自分の中に見出して、幾通りもの好奇心と衝動に揺れ動かされながらも、
それにしがみついて来た者の追憶記否、供述書。

「今だから言えることなのでしょうが、
結果、それが何であれ、私の中に何か、「輝くもの」を感じ触れ、触れればそれは、
まず、第1のしあわせだと思いました。
次にはその見つけ出した、私の中の「輝きそうなもの」を恥ずかしさうにつかみ出して、
私らしく輝くようにその想いと共に、磨く事。
そして、時間と想いを掛け、磨きをかける事。
すなわち、感じる事、学ぶ事、喜ぶ事、愉しむこと。
そして、自分の価値観を築くことに費やした私でした。

そうすれば、仲間を見つけられ、時には競い合うこともありました。
私はこれを感じ、これにしがみついて来た事の結果として、今があります。」

“しがみつけた理由の根幹とは?”

「それは、まず何よりも、母の存在でしょう。
私事ですが、彼女はとても上品でおしゃれで自分の人柄を漂わせるお洒落をしていた人でした。
敗戦後の“母独り、子独り”と言う特殊な家庭(?)環境でどのように育てられたかと言えば、
母が装う姿を荒廃した社会の日々に、日常として目にしていたことでした。
今ではそれが当たり前の日常ですが、その当時では寧ろ、異常な非日常の光景でした。
その母の姿は、優しさと共に、喜びや勇気、プライドや責任感、楽しさや嬉しさそれに、
ある時は悔しさや悲しみさえも私は当時の母の粧姿からすでに、子供こゝろに感じ取っていた
のでしょう。そんな母の姿を見かける多くの人たちは決まって、「君のお母さんかい?
綺麗な人だね。」「上品な方だね。」「美しい人だね。」「優しそうなお母さんだね」と
声を掛けてくださっていました。まだ幼かった私にはそれが自慢でもあったのでした。
そして、この感覚はすでに小学校の頃には私の装いの感覚になっていました。
自分が産んだ子供なのに、自分が付けた名前で呼べない母と子。
この母との距離感と関係性が、いまの私と装いにはあります。
だから、私は今の「装い」を評論する立ち居場所を探したのでしょう。
そんな母が選んで着せてくれた私の装いは当然、当時の周りの友達や近所の目からは
浮いてしまっていました。
しかし、私は当時、すでにその目線が与える心地よさや楽しさや嬉しさときには、
ときめきさえも知ってしまっていました。
私の小学生時分はお兄ちゃんたちのお古の“国民服”が一般的でしたが、
私は一度もその様な服を着せてもらったことが無く、私が中学へ上がった時に始めて着たのが
常襟の学生服でした。私はこの学生服を学校から着せられることによって、自分の心までもが
社会の制約の中へ閉じ込められる想いと感覚を今でも覚えています。
私が私らしく装うことを躾けてくれたのが母の存在とその母が自分の体験から選んで
着せてくれた装いだったのです。それは、それしか出来なかった母のリアリティであり、
彼女が出来得た「愛」の一つだったのです。
これにしがみついて来たのが私です。
或いは、この頃では私はこれにしがみつくしかなかった時代と環境だったのでしょう。」

”その後、何に影響を強く、受けましたか?“

「敗戦真近に生まれた私がその後、自分の世界観と価値観らしきものを感じ始めた時
あるいは、自己主張を装いによって生意気にそして、異性を意識するまでに育った頃に、
世間では大いなる味方が誕生していました。それが「VAN Jac.」でした。
そして、「JUN」も知りました。
私は大阪で生まれ育ちましたから、そのあとに「Edward」を知り、そのテイストの違いに
かなりの衝撃を覚えました。だから私は「VAN Jac.」で当時流行した“アメリカン スポーティ
カジュアル”なる装いの洗礼を確実に受けた世代の一人です。
当時は心斎橋そごうの1階に在った、「VAN Jac.」コーナーや梅田に出来た、「Men’sShop」
難波に在った「トラヤ帽子店」の「JUNコーナー」そして、神戸三宮の高架下にあった
「ボンド商会」に友人たちと通ったことも記憶に残っています。この「ボンド商会」の親父さん
からは自分だけの「装い」とはのいろいろなことを教わり一方、「VAN Jac.」の創業者であった
石津謙介氏の大阪時代に母が知り合いだったことから母もこの装いには味方をしてくれました。
もう一つ、私は母の影響でB.クロスビーやF.シナトラ、メルトーメ、S.デイヴィス Jr.等の洋楽
スタンダードを聞いていたのですが、この頃には私は「モダンジャズ」を聞く様になりました。
当時、戎橋と梅田にあった「バンビ喫茶店」や心斎橋の橋詰めにあった「オグラ」に通い始め、
友達も出来“装い談義とジャズ談義“に明け暮れていました。O.ピーターソン,S.ロリンズ、
M.デイヴィスやC.アダレー、J.コルトレーンのコンサートを当時の大阪フェスティバルホールへ
勿論、「装い」を決め込んで、友人たちと押しかけていました。」

”覚えている自分のかっこよさとは?“

「私が「VAN Jac.」を通じて知ってしまった、”装う“事のその楽しさと生意気さは年齢と
時代と共に変化し始めました。アメリカでDacronが発明されて当時の新しい素材が登場した頃、
私も「銀座ヤジマテーラー」でラペルをジャズメンたちに見られたシングルラウンドにした
黒のスーツを仕立てて頂いたことも憶えています。今でも時折、私が着ているものに、
「エドワード」のエポーレット付きのキャメルジャケットがあります。
もう、半世紀以上のヴィンテージものなので、縫い糸がほころびてきていますが、好きで、
かっこいいジャケットだと信じて未だに大切にしています。
私は歳を取っても体型が変わらなかったので、これらのとてもお気に入りのスーツや
ジャケットで好きなもの、良いもの、気に入ったものは大切に、大事に随分長く着ています。
だから、当時、母に買って貰った「VAN Jac.」のジャケットも今も着ています。余談ですが、
私はこの「テーラーヤジマ」のジャケットは当時交際していた女の下宿に忘れてしまったことを
今も覚えているぐらいです。それも、既に20年ほど昔の話ですが。
「好きなもの、大切なものはそのこゝろの想いの分だけ大切に着てあげなさい。」と、これも
母から躾けられた”装いこゝろ“の一つで、”お洒落“とはの根幹を躾けられたと
私は自負しています。」

“おしゃれこゝろの大切さとはなんでしょうか?“

「私の次なる新しい装いのシーンの舞台は倫敦に移りました。
’73年から数年間、機会があって住み始めた都市、倫敦は私の装いの価値観をもう一つ広げて
くれました。私はこの街で「自由さ」という精神が接ぎ木されました。
当時の倫敦は未だ、“ロックとカーナビー”の残り火が燻っていましたし、キングスロードも
輝きと騒がしいさを溢れせせていました。それらの輝きは当時の体制に対する自由の裁量から
発せられたものでした。
「装い」とは一つの才能であること、その才能は自由なこゝろから生まれ、持ち得たバランス
感覚で如何様にもなり得ることを私はこの街で体感しました。
私は気ずくとその輝きの中で新たな自由とは、何であるか、どの様にすれば感じられるか?を
現実の中で体感し、自分のリアリティとして学んで来たようです。
そして、私は本当の「自由」とは現実の中に生まれたものでしかあり得ないという根幹を知り、
それを価値観として身に付け始めました。
もう一つ、当時は未だ、「質素、倹約」がこの国の美徳であった時代でしたから、自ずから、
「古くても好きなものは大切にする。」という心の有様も学び、私の「装い」こころに新たに
「古着」という“宝の山”を発見したのがこの街からでした。
この街での4年近くの実生活の後半はHIGH STREET KENGINGTONにあったマーケットと
その裏にあったアトリエでの「陶芸と古着屋」で生活費を稼ぎそして、スクーリングと音楽と
育児が生活の全てでした。

”あなたが「装い」にしがみ付くことの大切さとは何ですか?“

「結論から申し上げます。私が、私らしく生きてゆくことの一つの証です。
私の中で輝くものが何なのか?それを感じ、それが好きになれば、
その好きなものを現実で探し、見つかれば、それにしがみ付くしかなかったのが私の時代、
私の育ちそのものだったのです。私がこんなに長い間、しがみつけたのも苦しいものより、
楽しい幸せなものの方が、醜いものより、美しいものがその根幹にあったからでしょう。
そして、私以外の人たちにも共有していただけるものの方が良かったのです。

その後、日本社会も豊かさが生まれ始めて、消費社会が誕生した後はこの「装い」も
新たな世代へ広がり、装うだけではなく自分たちが着たいものを作り出す世界が多く誕生し
始めました。私が倫敦から帰国し、上京した時には気がつくと私自身もそんな作る世界の側に
足を入れ始め、しがみつき始めていました。しかし、この時期とはあの「VAN Jac.」が倒産した
時期でもあり、その後、数年で母も他界いたしました。

世間では、「酒の上の過ち」と言う言葉がまかり通っていますが、
私の場合は母が幼い頃から気を使ってくれた「自由な装いの過ち」が勇気と覚悟を与えてくれ、
今の私の立ち居場所を決断させてくれ、私の人生をこのような幸せな流れに導いてくれたと
たいへん感謝しております。」

”最後に、14歳の若い人たちへ「装い」についての一言を、“

「 私のこれまでの経験から申し上げますが、誰のために「装う」のか?
という問いへの答えは、まず、自分自身のため。自身の存在を自分で自由に表現できること。
そして次には、自分が愛する人のため。それが恋人だけではなく、家族や友人たちも含まれま
す。ここには自分が愛する人への想いが存在するからです。そして、出来れば、社会のために
なればもう最高でしょう。この根幹は「装う」ことが持っている自由さと幾つかの価値観、
立ち居振る舞いや身だしなみ、躾などですね。それに、“コミュニケーション”と言う機能が
ある為です。
ここまでお話しすればもうお判りでしょう。私の「装い」には所謂、ブランドやデザイナー
モノへの薀蓄や願望等は殆んど、介在しませんでした。それより寧ろ、「モノが持ち得た
リアリティ」に魅力を感じていたのでしょう。だから私の装いのほとんど全てが自分の古着と
それぞれ訪れたことのある街の古着屋から目に留まった「リアリティが詰め込まれた古着」が
私のワードローブの全てであり、それらと自由に遊ぶと言う感覚での着こなしを楽しむ
「装い」でしかありません。

最後の最後に、私の好きな、第14世ダライ・ラマの言葉に、
“Approach love and cooking with reckless abandon.” というのがあります。
私はここにもう一つ、「装い」を付け加えたいです。
“Approach love, cooking & fashion with reckless abandon.”
ありがとうございました。」
文責/平川武治:私書版「14歳のためのモード論」からのある1章より。

投稿者 : editor | 2018年03月28日 04:01 | comment and transrate this entry (0)

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UNDERE COVER 高橋盾 AW18を評論する。

かつての70年代終わり、ミラノの「ゴルディースミス」によって「イタ・カジ」ブームが
起こり、引き続きパリ、80年代初頭には当時の「シェビニオン」で代表された
「フレンチ・カジュアル」が全世を風靡し、リセの子供たちのユニフォーム的にまでなった
時代があったのを思い出させるまでの痛快さを感じた。
丁度、その当時の”ニュージェネレーション“達が今では、このUNDER COVER の高橋盾世代
であろう。「時代はリバーシブルあるいはメビオスの帯」。

ここ数シーズンのUNDER COVERのコレクションは好感を持ってクオリティー高い違いを
感じることがある。
先シーズンのPitti uommoのメンズコレクションにしても、パリで行われているファムの
最近の4シーズン来にしてもそれぞれデザイナー自身が何よりも、愉しんでいることである。
即ち、高橋盾が楽しみながらコレクションを、自分世界の中に引き込んで創っているのが
感じるまでの世界を堂々と見せてくれていることである。
この状況をデザイナー自身が持ち得て自分のコレクションを創っているデザイナーは矢張り
少ない。自信がない、トレンドを気にする、売りを気にするそして、それなりのデザイナー先生
ぶっているのだからそれなりに見られたいことなどが大きな要因になって、このデザイナー先生
自身が苦しんで創っている或いは、大いなる邪心と共に自信のないコレクションの結果なって
しまうことの方が多いからだ。
そもそも、ブランドとは「商標」であり、自分のブランドとは自分の世界観を生み出すための
「商標」であり、この世界観はデザインに関わった人たちとそれを総合でディレクションする
人たちが学んで来た「スキルと経験と関係性と美意識それに持ち得た文化度」によって構成され
ているのが当たり前である。ここにこのブランド或いはデザイナーのもう古くなってしまった
ボキャブラリィーである「個性」がその創造性と共に現れるものを「デザイナーブランド」と
称されて位置付けされている。

従って、UNDER COVERの高橋盾の世界観としての、「スキルと経験と関係性と美意識それに
持ち得た文化度」に余裕が生まれ始めた事。或いは、豊穣され、”豊かさが自由さを生むまでに“
なったことと感じられるので僕は好きである。
あと、自分のコレクションだから、自分のやりたいことを自分らしくやるというレベルの
ゆとりと、もっと言えば、「自分たちのお金で堂々とパリに来ているのだから自分たちの
やりたいことをクールにカッコよくやりたいね。」という正直なデザイナーの声も聞こえる。
もう一つが、「自信」であろう。もうここまでの10年数という経験をこなして来た自信でも
あろう。この辺りが最近のアンレ・森永の進歩しない、他人の新しい褌を使い回しての古い発想
で面白くもない学生コレクションレベルとの大いなる相違点であろう。根幹はこのデザイナーが
自己自慢がしたいがためのパリ。結果、パリからは何も学んだものが見当たらない故、女性が
着たくなる服が作れない所詮、「庭先デザイナー」でしかない。

さて、本題の今シーズンのUNDER COVERのコレクションの素晴らしかったこととは、
「新鮮」であったこと。「愉しかった」こと。「自由」であったこと。そして、幾つかの
「新しい」アイテムが見られたこと。何よりも僕が嬉しかったのは、彼が提案したターゲットが
「14歳」(?)
僕の去年来の構想と雑誌「ブルータス」の特集にもなった、「14歳のモード論」にも彼は
目線を行き届かす「自由さと新鮮さ」がとっても可愛いかった。
彼の眼差しはこの世代の女の子が恥ずかしやり屋さんであることを承知したところでの
「オシャレ!」にコンテンツを投げかける。「普段着の安心と親しみ」で着られる「ちょっと
違った、オシャレ感覚」を提案。「分量あるキャンパス・ルック」を可愛く着せる。
素材の面白さでは、形状記憶素材をこの世界へ落とし込んで”おしゃまなシルエット“を提案。
ゴム長にメッセージを書き込む。スニーカーも逃さない、上手い。そして、キャスティングも
良かった、ナイキに出ている旬なモデルをちゃんとゲットしていたからだ。
トレンドも気にしていない。自分がやりたいことを堂々と自身のクオリティを落とさないで
クールにこの”ニュージェネレーション“に全てを投げ掛け、コーディネートを見せたことも
潔が良い。結果、パリのファッション雀の意表をついたコレクションは話題になる。
その証拠にショールームでの実ビジネスもとても良かったと友人のマダム・クリスティーヌに
聞かされた。

ここで、冒頭のかつての「フレンチ・カジュアル」ブームへ、イマジナリ・ボヤージュとなる
「あたらしさ」を思うのは愉しい想いである。

そして彼、高橋盾はこれからは、メンズを軸としたコレクションをパリで挑戦発表する
という。
ここでも、彼の「豊かさから生まれる自由さ」をこのデザイナーと共に、愉しんでみよう。
文責/平川武治;パリ市ピクピュス通りにて:


投稿者 : editor | 2018年03月20日 19:24 | comment and transrate this entry (0)