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article(94)

「進化」と言うデザインを再考しよう。S/S ‘19 パリ・コレに見る新しさという眼差しは?

◯はじめに;
「今年も73回目の終戦記念日を真近かに、平成の“安心のファッシズム”ボケとしか
言えない昨今の日本。こんなにも支離滅裂な政治を愚行している安倍内閣への支持率の異常さは
続き、ますます今後の日本國は“親離れ出来ない”、アメリカユダヤ複産資本の言いなりのポチ
国家に成り下がるのみ。
気骨ある戦前からの日本人としての平和祈念、気概はただただ、風化する。
そして、現在は“フクシマ”を風化させ、“東京オリンピック”と“IR法案”によってそれらの利潤は
新興商人やパチンコ業界の階層に分有されるのみがこれからの日本国の“豊かさ”の有り様では
無いだろうか?」
冷静に考えてみると、現代という時代感は、日本も世界も資本主義国家群に於いては、
「そう、世界は”真実っぽさ”で溢れかえってしまっています。」
ーYes, the world is overflowing with "truthfulness".

“truthiness”,これは2005年にN.Y.の人気コメディアンのS.コルベアが有名にした言葉です。
ある時期から政治家や評論家たちが合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に変わって、
むやみに感情や勘に訴えるようになってきた現状を評したもの。現代社会とはヴァーチャルな
時代観と相まって、この”真実っぽさ”によって全てが構築されてしまているという趣意。

◯プロローグ;
今回、パリで初めて行なったUNDER COVERのメンズコレクションのランウエーを見て直感し
た近未来、2020年以後のためのキーワードがある。それは「革命/レボリューション」です。
S/S ‘19 パリ・メンズファッションウイークから一つの新たな時代への共通言語を敢えて、
探し出すと僕はこの「革命/レボリューション」と言う言葉の響きが新たな新しさを欲し始める
世代感を強く感じたのです。

例えば、メインターゲットが白人からイエロー&イエローへそして、新たに黒人達へ移行し始め
たことそのものもこれは従来のモードの世界からは決して考えられなかった”レボリューション”
である。そして、今の時代観の一つ、「世界には真実は無く、真実っぽさのみ。」と言う現実に
対峙し始めるニュージェネレーション達の“カウンター・カルチャー”の現れも感じ始める。
それは現代社会の「真実っぽい豊かさ」を危惧する感情の現われの一つかもしれない。
この今回感じた「レヴォリューション」とは、僕たち世代がそうだったようなポリテカルな
レヴォリューションではなく、彼ら達の「レボリューション」という言葉が持っている新たな
意味やニュアンスは新しい「豊かさの進化」における「プロテクション/守り」が感じられ、
望まれるであろう。

加えて、今この街では3つの「革命/レボリューション」に関しての展覧会が開催されている。
その一つは「ロシア革命」100年記念に関してと、「‘68年5月革命」の50年記念の各展覧会で
ある。そして、もう一つこの街の「近代デザイン」運動の流れを生み出した、「UAM」の回顧展
も開催されている。(UNION ARTISTES MODERNES/現代芸術家連盟:1929年設立~‘58年)
この運動はバウハウスの影響を受け、’25年パリ万博で見せた近代化を社会へコミットする為に
始まったこの国の「近代デザイン運動」の黎明期を再考するための展覧会と読むことができる迄
の興味深い展覧会だった。構成主義以降のアートの世界から建築、インテリアデザインと家具、
工芸そしてモードにグラフィックに至るまで。
因みに、来年は「バウハウス」創設100年記念の年でもある。
「真実っぽい豊かさ社会」にデザインは何ができるか?と言う、「レボリューション」とも読め
るであろうか。きっと、そんな時代がめぐり回って来たようだ。
(共に、ポンピドゥ・センターにて展覧会中;
http://mediation.centrepompidou.fr/infos/ja/index.htm)

◯はじめに、「時代とデザイン」の関係性を「モノ」の進化として考える
「服」のデザインの世界とは?;

ファッションにおいての服も「モノ」である。「モノ」は時代とともに「進化」する。
では、「モノの進化」すなわち「服」の進化あるいは、「服」の技術革新という視点もこれから
の新しさには大事な視点になる。
“時代が変わる”事とは、この根幹の一つにはそれぞれの時代に生活している人間が得た豊かさ
からの「自由度」から生まれる“ゆとり”あるいは精神的な余裕性が社会を変革することに他なら
ない。しかし、デザイン・ビジネス全般においては未だに、モノの表層あるいは見え方と機能に
十分に引っかっている。あらたな時代が提示してくれる“新たなゆとり”から生まれる思想や価値
観から掘り起こしそれらをデザインに落とし込むまでの文化的プロセスがファッションデザイン
の世界では年々より、軽薄で単純になっている。このファッションの世界では為されるデザイン
によって生まれ変わるモノの表層のニュアンス即ち、シーズン毎の“トレンド”と呼ばれている
この世界の「差異化構造」の「壁紙」の張り替え作業の繰り返しが依然、変わらず市場化して
いるのに過ぎないのが現実のファッションの世界。このファッションの世界システムそのものに
も「進化」は見られない。

これは戦後の豊かさがもたらした、日本社会の“文化”の領域が「消費社会のための消費文化」
でしかないのもこの要因であろう。判りやすく言って仕舞えば、「儲かるための手法」でさえあ
れば良いだけの世界が時代とともにより顕著にワールドワイドになってきた時代性だと読める。
「デザインされたもの」が全て消費社会へすぐさま飲み込まれてゆくための”壁紙“デザインと
その“上書き速度と量”が要求され、”売れているモノ”を探すだけのMD主導型の世界のための
作業そのものがデザインの現実でしか無い。
実際の職場ではどの様にその“時代が変わる”状況変化というリアリティに応じて、”デザイン
する事”をフィジカルに考えが為されているのだろうか? 現実はMDという機能によって、
「売れているもの」の情報を餌とし、集められそれをデザイナーへ投げ与えて、デザイナーたち
はその与えられた情報のバリエーションをトレンド・デザインと称して、「壁紙世界の上書き」
に走る。この速度競争に勝つことが今ではブランドビジネスの必須根幹になり、この傾向はここ
数シーズンでより顕著になり、拡大もして来ている。ここにも、“ファスト・ファッション”から
の悪し影響が見られる。
もう一つに、「ファスト・ファッション」の登場によって、リアル・ファッションとは単なる
「アイテム・ファッション」になり下がり、分かりやすい着やすいコーディネート・ファッショ
ンが時代の顔になってしまったことも原因であろう。”トップス&ボトム“をどのような「壁紙
アイテム」でコーディネートするか、これがわかり易いファッションセンスになってしまったか
らだ。
「モノ」の進化として考えられていた時代の「服」のデザインには”着まわし“のセンスで着こな
す服がモードそのものまでも”進化“させていた。例えば、1着のワンピースで幾通りもの”着回し
“が可能であり着る女性も十分、楽しめるまでの工夫すなわち、「進化」がデザインそのもので
あった。
が以後、ファスト・ファッションによって誰でもがより解り易い服が市場とメディアを占領し
始め、従来のおしゃれな感覚としての”着まわし“で着こなす服がグローヴァリズム以降世界の
モードからは殆ど姿を消してしまった。最近では、2年ほど前のアンドレ・ウオーカーDSMT・
ギンザにおけるコレクションにはその精神がまだ健在であったが、「売りずらいあるいは、売れ
ない」という理由でこの先端ショップを自負している店からさえも消滅させられてしまった。
実は、30年ほど前までは自分たちがそうしたデザインで生き残って来たことを忘れてしまって
いる。(実は、覚えている、知っている社員がいないからだろう。)

◯「モノ」の進化として考えられた「服」はその時代のヒットアイテムであった。;
ここでファッションの世界は「トレンド」という差異感覚に因りどこったビジネスのための巡回
システムの根幹がある。そして、このトレンドによって「モノ」としての「服の進化」から逃れ
てきたという現実もあろう。
しかし、この21世紀は「バーチャル」に始まり、A.I.やビットコインの時代である。そろそろこ
れからの世代達のためにもこのファッションの世界でも服を”モノとしての進化“へ新たな目を再
度、向けるべき時代性が来ているようだ。

ここ数年来の”アーカイヴのヴァリエーション“を求めて、それらに「装飾性」を加えるだけがデ
ザイン・ワークそのものではないだろう。時代の豊かさがもたらすそして、「真実っぽさだけ」
の新たな生活環境に対峙した服。技術革新と自由な発想によって生まれる新たなシンプルさや機
能性とそこに必然とされる新たな素材やパーツ類などそして、ミシンに頼らない縫製技術と新た
な組み立てシステムや手法などが総合化され、新たな時代のバランス感を生み出すことで初め
て、“進化” ある新たな「モノとしての服」の姿が誕生する。そうした「進化した服」は勿論、粗
利を生む。
この「モノ」としての「服の進化」は女服のデザインよりは男服のデザインの方がより現実的で
あり、必然性がある。何故ならば、ファッションにおける男服とは所詮、“ユニフォーム“の
カテゴリィーが根幹であるからだ。だから、先日のパリ・メンズファッションウイークでこの
「進化」に興味を覚え、このシーンが今一番、ファッションの世界の先端であり、問われ始めた
と感じたのだ。
それなりの若いクリエーター達にその兆しが感じ始めまた、現れ始める時代性をも感じた。

たとえば、歴史を省みても「近代デザイン」が登場した‘20年代終わりは「ホック・ボタン」に
変わって登場した「ジッパー」や「ナイロン」素材などとロックミシンの進化などが現在のファ
ッションにおける「モノ」としての「服」の進化を大きくもたらした時代であった。これらによ
って、タイトなボディーシルエットが可能になり、モードも着る女性たちを大いに進化させた。
アーカイブを紐解いて見ても「モノ」の進化として考えられ、デザインされた「服」はそれぞれ
の時代のヒットアイテムであった。シャネル・スーツが今尚、シャネルブランドの定番となって
売れている現実や、CdGの80年代後半の5年間程には川久保玲の生み出した女性服にも多趣多様
なローブの着まわし服の進化があった。ミラノのスピーガーノ通りの裏道にあったおばちゃん服
のプリーツ屋さんに頻繁に通い工場までも見せてもらうと、とうとう先生自ら意匠登録した
イッセイのプリーツ・プリーツにせよ、僕の大好きなJ.コロナの平面パターンの表ロックミシン
うちのパンツやコオトなどなど過去のモードを振り返って見ても、その時代時代でヒットアイテ
ムとなって売れた服はやはり“進化”から生まれたデザインものがほとんどである。
近年では、今「壁紙」デザインの渦中になってしまっている元M.M.M.で、一番売れているもの
は何か?それは日本の地下足袋を進化させた“たびシューズ”である。彼らたちはこの”たびシュ
ーズ“をその後も幾度も進化させていまに続いている人気アイテムである。そして、服の進化系は
ストリート発からも読み取れる。最近ではbeautiful peopleが売りまくったボンパージャケット
のミニ版も,”コーディガン“なるカーディガン+コート丈のはおりものもこの“進化”に入るだろ
う。もう一つの世界では、YUIMA NAKAZATOが挑戦している世界もこの「進化」を根幹にし
た自分世界への高き挑みだ。

◯「モノ」としての「服の進化」に気づかせてくれた発端は、;
今回、この「服の進化」に気づかせてくれた発端はJUNYA MANのデフィレだった。
JUNYA MANがどうして、何故“コラボ・コレクション”をこれだけ長く続けているのか?
従来のファッションの目線で見ていると、もうほとんど彼のコレクションはコラボから始まり、
コラボに頼りそして、コラボによる“消化不良”を起こしている世界でしかない。だが、今だに
現状が継続されている現実。ここには、このデザイナーが為してきた実力と実績とともに、
「誰が彼とのコラボを望んでいるか?」そして、「必要としてされているか」そして、彼ら世界
規模のナショナルブランドがその根幹にこのコラボレーションで欲しているものとは?を深く読
むことで理解が出来るであろう。
今シーズンの彼のコレクションは僕的なタイトルは、「ウォリィーくんを探せ、アウトドア編」
であり、目立ったものはウエアーよりサック類だった。しかし、このアウトドアウエアーでは
その機能を担っている重要なパーツの一つに、「ファスナー」がある。JUNYAが今シーズン選ん
だファスナーはYKKではなく、「朝日ファスナー」だった。数シーズン前にもこのデザイナーは
この「朝日ファスナー」を使っていたが、今回もファスナーの持ち出し金具に特徴のあるカッコ
良いもの、“WALDES”を確りと選んで使っている。例えば、この感覚と決定がナショナル・ブラ
ンドの企画者たちへ拘りと差異感を与えるのだろう。
彼ら世界のナショナル・ブランドは自分たちの生産システムとその規模と構造を利用し、未来へ
の「モノの進化」を必然に考えなければならないビジネスの根幹があるからだ。彼らがコラボ・
デザイナーに託していることとは、自分たちが考えられないデザインの世界においての可能なる
「進化」とその「アイディア」を託しているに過ぎないのだ。
この規模のワールドワイドなビジネスにおいてのトップを走る企業は「時代に常に新しいモノ」
或いは、「時代と共にモノも進化する。」というコンセプト&コンテンツの元に彼らたちのビジ
ネス・スキル、「新しさ感」がモノのヒットを生み出すことを熟知しているからだろう。

◯今シーズンの若手デザイナーで「進化」を感じさせてくれたのは?;
20世紀のモードにおける根幹コンセプトとは着る人間の身体を”Wrap/Wrapping”する事であり
21世紀には新たなコンセプト、“Protect/Protection”へ進展し、身体だけではなく心の有り様ま
でも“Protect/Protection”する事がストリートから生まれた現代ファッション観となっている
では、今シーズンのパリの若手デザイナーでは、「GmbH」を 僕は挙げる。このフランスの
ユニットチームの時代観と新しさを感じる彼ら達の感受性の繊細さと、それを「モノ」としての
「服」に落とし込むまでの知的プロセスとシステム発想が全く新しさを生み出したコレクション
を行なった。何故ならば、彼ら達の進化のアイテムの一つに“補正/補整下着”からのデザインソー
スを読み取ることが出来るからだ。ここでは“Protect/Protection”というボキャヴラリィーが
新たな領域、「補整/補正」へ進化しデザインがなされ始めたと読めるコレクションだったからだ
着る人間の身体や心を“守る”事から”正す“或いは“補う”までのニュアンスが新らたなコンセプト
“Protect/Protection”というファッション・ボキャブラリィーに加わり、モードの世界の最新の
シーンを語り始め、これも新たな時代観と読める。
生活者個人が持ち得なければならない「セルフ・バランサー」が今という時代においては、
新たな消費のモチベーションであるヨガ等も自身の心を“補正/補整”する為の「セルフ・バランサ
ー」と読めばこの流れも理解できるであろう。

◯日本の若手デザイナーたちが考えている「ファッションをデザインするとは?」;
これを語るには僕が今、疑問視している例えば、今の時代における「ファッションアワード」と
は、その正体とはなんであろうか?この「ファッションアワード」の舞台裏を知ったならば、
これらは全て、『「客寄せパンダ」を探そう。』のカテゴリィーに収まる。
‘97年以降10年間ほど、各々のインターナショナルジュリィを数多くさせていただいて来た過去
の経験から言わせて貰えば、今現在、色々行われているファッションアワードとはその90%は
開催企業の“広告宣伝”の話題作りと客寄せパンダ発掘そして、若手のデザイナーからのアイディ
アお頂戴と“青田狩り“でしか無い。あのLVMHアワードなどはこの最たるもので日本の審査には
元バイヤーと元サッカー選手が選んでいるというお粗末な茶番劇でしかない。
しかし、「豚もおだてりゃ木に登る」で、選ばれた当事者たちはそんな内情は知らず、LVに選ば
れたという田舎者はいきなり世界のデザイナーになった気で振る舞いが始まる。ここには既に、
彼らたちの大いなる勘違いが始まり、その後の人生を傲慢にしかしない。しかし、最近ではN.Y.
で選ばれてメンズのアワードを取った“KOUZABURO”の世界は魅了させられる。彼の服の世界
観には深いプロ意識を持っている。

他方、残念ながら日本から行政絡みの”ご褒美パリ“でうつつをぬかして、パリ上陸を勘違いして
いる若手ブランドやコレクションブランドの殆どはパリのファッション広告塔のこれ見よがしの
「壁紙」を上書きする事がデザインだと勘違いしたレベルのセンスと教養と世界観が殆どだ。
或いは“パッケージ”に気を使い、これ見よがしのパッケージング・アイデァがデザインだと
糠喜びする輩たち。
この現実は仕方なであろう、今だに日本のファッション教育やその行政関係者たちは、
「デザイン」=「装飾する事」=「模倣」或いは「驚かし」(これをアートと称して、)が根底
の教育や指導が未だに風靡された世界の住民でしかないからであろう。ここには”リアリティの
欠如“の結果がもたらした、大いなる自己満でしかない田舎者たちの世界が読めるだけだ。
しかし、国家の税金を使って、これ見よがしのデザイナーを選び、パリへ送り込むその根拠は?
そして、その目標とは?結果、誰をどれだけの人たちを“幸せ”にするための国税使いなのだろう
か?
国内のアワードを取って選ばれた彼らたちに共通することとは、「ブランドに世界観や文化度が
低く、デザインする事とはにあるべき教養が低い、世界マーケットの実情を学んで来ない、売り
たいバイヤー情報を勉強していないそして、その多くは英語が不十分」という共通点が読める。
従って、この税金の使い方は官僚行政関係者が仲介役として商社(I.C系、)へ丸投げし、商社は
パリのセールスエージェントを使って彼らへ丸投げし、彼らが都合できるサロンへご膳立てをし
数日間からそれぞれがそれなりの旨みを味わう構造でしか無い。
実ビジネスを目的としたこの ”ご褒美パリ“体験ツアーとは、ここから何が生まれているのだろ
うか?

◯エピローグ;
一方、米国によって世界に蔓延してしまった21世紀社会のリアリティとしての「真実っぽさ
/truthiness」とはファッションの世界では元々からの根幹,FAKE=イメージング= TRUTHINESS
であるなら誰が「真実を仕立て上げるか」も新たな時代性の「クリエーション」になると言うま
でのパラドックスも現代である。
例えば、「真実っぽさ/truthiness」しか知らない人間が生み出せる世界は所詮、「真実っぽさ
/truthiness」の「上書き/更新」が根幹の世界観でしかないであろう。

さて、冒頭の僕が感じた明日への新たなボキャブラリィー、「革命/レボリューション」とは、
敢えて言うなれば、この「真実っぽさ/truthiness」という社会や生活環境でどっぷりと浸かり
切って生まれ育った世代が新たな世界を知ろうとする時、これらの環境や状況へ彼らたちの眼差
しでカウンターを抱く。ここから生まれる不安や不満や不平等それに、寂しさや儚さに対しての
“レヴォリューション”が生まれる可能性を思う。
それは、「真実っぽさ」のみが蔓延する世界から「真実」を守るための「革命/レボリューショ
ン」であろう。 宇宙を、地球を、自然を、人間を、身体を、性差を、個人をそして、新たな価値
観としての差異を「守る」ための 「革命/レボリューション」。
その根幹はやはり、「新たな自由による進化」が読めます。
決して、「安心のファッシズム」の中で飼い慣らされてしまった拝金主義者のための都合の良い
“自由“ではないでしょう。

このままでは、ファッション・デザインの世界はより、“キッチュ”な世界へ押し流されて
行くでしょう。
もう一度、「モノをデザインすることとは時代性と対峙した“進化”を考える事」と言う視点と
コンテンツによって為されるのもであることを再考して見る時期でもあろう。
ここに、新しい「革命/レボリューション」が共振する。
合掌。
文責/平川武治:平成6月23日:追稿7月23日+8月5日、10日:

投稿者 : editor | 2018年08月11日 21:38 | comment and transrate this entry (0)

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桑沢デザイン研究所講演デジュメ/「時代とデザインすること」とは? 『IKEA』を読み込むと。

「”時代が変わる“と“デザインする“ことのコンテンツも変革するはずなのに今だに、
“感性”という単語でフェイクするトレンド手法が変わらぬファッション・ビジネスの根幹?」
文責;平川武治/初稿:平成30年5月22日:

◎エピソード;
昨秋、面白い映画を見ました。
タイトルは「ハロルドが笑うその日まで」というスウーデン映画です。
新旧家具屋のオヤジさん二人の物語なのですが、旧くから営んでいた家具屋とその一方が
あの「IKEA」家具。ここで表現されている家具に対しての価値観と想いと時代感が興味と
知的好奇心が喚起されました。
この映画のシナリオの巧さに乗せられて、映画を観た後、しばらく登場する2タイプの家具屋の
関係性を考えていたら改めて、「”時代が変わる“という事とは?」そして、それぞれの時代の
生活価値観を拠り所として、「デザインすることとは?」という命題に嵌ってしまったのです。
そうしたら、今年1月終わりにこのIKEAの創業者が亡くなりましたね。
これも一つの“気”の巡り合わせあるいは、一つの時代性だと感じ、「時代とデザインすること」
というテーマを想い巡らせたのですお話しします。
(参照;NETFLIX/映画「ハロルドが笑うその日まで」)

「IKEA」はもう既に、日本でも皆さん世代にとっては一つの「カッコいい」を象徴する
“ブランド”家具チェーン店ですね。その「IKEA」の創始者、イングルバグ カンプラー氏が
この1月に91歳で亡くなった。彼は‘47年、17歳でイケア事業を起こし、一世代で、幾度かの
失敗を重ねて現在のような世界を制覇した“グローヴァル企業”であり、
僕的な視点ではこの「IKEA」は「ファスト・ファニチャー」企業です。

『「IKEA」の家具はすぐ潰れてしまう家具である。』
これが僕が引っ掛かったこの映画のコンテキストです。
主人公“ハロルド”が営んでいた古い家具店が隣に新しく出来た「IKEA」によって、彼の会社が
倒産の憂き目にあってしまうのです。そこで、この旧態然の家具屋の社長ハロルドは「IKEA」の
家具は自分たちが売っていた”家具“に比べると「すぐ壊れてしまう家具」でしかない。
と言う“視点と念い”を持ってしまうのです。
これはある種の被害者意識からの発想かもしれませんが、この主人公がそれまで商っていた
“家具”というモノが持っていた「価値観」の変革と相違がこの映画のストーリーのコンテンツに
なっています。
映画は、この念いが総じて「IKEA」の創業者を殺したいと言う発端から始まり、彼の念いが
その後の行為へとストーリー化されて行くある種、涙そそるコメディー映画です。

「新たな時代が生み出す価値観」
ここで、僕が思いついた眼差しは、時代が持ち得た”価値観”の差異としての「家具とは?」が
あります。この視点は今のファッションの世界でもある意味で同レベル、同シーンでしょう。
だから僕はこの「IKEA」を『ファースト・ファニチェー』と名つけたのです。

 まず、従来型。今でもこの価値観は世代に関係なく「モノ」に対しての重要な考え方として
継続された日本的だった価値観で、「家具は一生モノ」と言う考え方ですね。
特に、戦前の日本の中産階級以上の社会にはこの価値観が強く国民的に存在していました。
そこで「モノは大切に使う事。」と言う躾があったのです。「一生モノ」だから良いものを作る
或いは「一生モノ」だから選ばれた良い”素材“と磨き抜かれた“技術”を持って、高くて当たり前
で、良いものを作れば、売れる。従って、家具とは「大切に手入れをして使う」”モノ“とだ言う
この価値観の元での「作り手」が担わなければならない“スキルと技術と経験そして、創造性”を
必然とした世界があります。

もう一つは、「モノは消耗品」でしかない。「家具」もその一品だと言う価値観です。
第2次大戦の敗戦後、国土が”焼け野原“状態で迎えた戦後社会に生まれた価値観の新しさに、
「いくらいいモノを大切に使っていても、燃えて仕舞えば同じである。」と言う経験値からの
価値観とアメリカの戦後の消費文化に汚染され、産み落とした新たな価値観があります。
みなさんの世代は殆どこの価値観が当たり前で、持ち得た時代と環境から刷り込まれた
「モノ」への価値観になり、「消費文化」なる文化が創生され、自身の生活環境を消費で
愉しんでいる世代でしょう。

「新たな差異」という価値
このような新たな時代が産み落とした「価値観」の元での「家具」は「作り手」が必要とする
“スキルと技術と経験そして、創造性”も自ずから「新たな差異」が必然となって来ます。
多分、この「差異」がなければ、「古いモノ」あるいは、「時代遅れ」になってしまいますね。
ここでの「新たな差異」とは古い価値観のために「家具」を作ることから、新しい時代性に
よって生まれた価値観の元で「家具」を作る事であり、そこには新たな目線が必要です。
今までに無かったその価値の為の新たな「差異」を考える必要が生まれます。
これが「時代のニーズに合ったもの」を作るということの一つでしょう。
 これは時代が持ち得た「眼差しの変化」に気が付くことであり、これをケアフルに感度良く
「モノ」に新たな違いあるいは、新しさとして「差異」を付加することが「デザイン」の役割
であり結果、自由な楽しみや面白さやカッコよさや快適さなどをも生みだす世界が
「デザインする事」で有り、このデザインすることで可能なそれぞれの時代による「新たな
差異」を創造することが「近代デザインの世界」の根幹でしょう。

 時代が生み落す「眼差しの変化」という“リアリティ”は「時代が変わって行く」と表現され、
「時代が変わる」とは日常生活において”豊かさに差異が生まれる事“であり、「眼差しの変化」
に気付くことそれそのものが、「創造のための発想」の自由な契機の一つです。
これはモノを創る人や売る人たちの見落としてはならない”発想のための根幹“ですね。

「組み替えられたコンテキスト」
僕はこの映画から「IKEA」はこの様な二つの根幹的なブランド・コンセプトを見い出したと
読みました。
その一つが、この「IKEA」の家具は”すぐ潰れてしまう家具“を”誰でもが組み立てられる家具“
と言うコンテンツによってシナリオを“発想の転換”で書き換えた事です。
そして、「その結果“フラット・パック”が発想され、組み立て工程が省略されコストが下がり
低価格で売れそして、耐久性も3~5年程度で十分。」と言う家具業界での新たな価値観により
“システムとビジネス構造”を構築した事が現在の「IKEA」の成功をもたらした根幹の一つ。
ネガティフな側面をこのようなポジティフに「すぐ、誰にでも組み立てられる」という
コンテンツを発想し、シナリオに変換させた頭の良さとセンスの良さとそれに時代の読み方に
驚きます。そして、それを根幹に自分たちが儲けられるそれなりの”適正価格構造“即ち、
「自分達のビジネスは自分達でそのルールをも構築する。」と言う”システム“までが考えられた
ビジネス・スキルを築きあげたビジネスのセンスも新しく、この生み出された”システム“その
ものが「差異」だったのです。
もう一つは、この”「IKEA」の家具、”すぐ潰れてしまう家具”をでは、潰れるまでの時間を
購入した人たちをどれだけ”ハッピー”な気分にさせる事が可能か?そのためにはどのようなこと
を考え役割として施せばいいのか?その為に「デザインする事」という真逆な領域が考えられた
のです。

「IKEA」の家具を買って、自分たちで組み立てて自分の部屋でハッピーにカッコ良く共有する
為にはどの様な”サーヴィス&ホスピタリティ”を「デザイン」という“コミュニュケーション・
ツール”が可能性を持って為せらるか?より、可能性を生み出せるか? ここに、現在の様な
「デザイン優先」ブランドの「IKEA」が登場した。
「デザインする事」にその立ち居場所が与えられ、役割が与えられ“センスとスキルと技術”に
よって、ここでもどれだけポジティフ・デザインが為され、そこで生まれた「共有感覚」を
“ウリの構造”にシステム化できるか?家具そのものとそれらの形態から、それらの色彩やサイズ
感と機能性そして、それらを取りまくあらゆる”グラフィックデザイン”と”パッケージデザイン”
を新たなセンスによってポジティフな「差異」が加えられ、新たな「力」を産むまでのシステム
を構造化したのがこの企業に秘められた成功のための”㊙︎コード”だったのでしょう。

時代にはいつも“追い風”が吹くときがある。
ここで、忘れてならないことのもう一つは時代がもたらした新たな大きなうねり即ち、「時代
の追い風」です。それが、先述した“戦後という時代”が新しい時代へと「時代が変わってゆく」
事でした。 “核家族”が生まれ、“消費社会”が始まり、“家具”に対しての価値観も変わり始めた
社会と時代がもたらしたもう一つの新しさ、それは科学と工業技術の進歩がもたらした「素材」
と「生産工程」でした。 木以外の“合成樹脂”と“パーティクルボード”いう新しい技術が生んだ
「素材」が加わり、デザインそのものに新たらしい可能性を生み出す“時代の追い風”が吹き始め
たのです。
勿論、その風を「IKEA」は“デザイン”の全てに取り入れた事です。そして結果、時代は
「大衆消費社会」へと向かい始める時とこの「IKEA」の‘60年代以降の事業拡大とが
チューニングされ、重なり合っています。
現代では、PCと言う新たなメディアにおいてもこの「IKEA」は“e-コマース”と”e-メディア“と
言う新しい時代環境へ彼らたちは「デザイン力」を変わらず、十分に注入しています。

「IKEA」は一つのコンセプト、『「IKEA」の家具はすぐ潰れてしまう家具である。』を
見事なコンテンツでシナリオ化し、真逆な「発想の転換」により、ポジティフな差異を作り、
それを力にしてより、力を生み出す構造を構築した。そして、「デザインする事」に委ねた
これらのトータルな”センス オブ バランス”な感覚と「新しさ」を商品群は無論のこと、空間と
そのディスプレー&コーディネートそして、カタログをはじめ、あらゆる印刷媒体と広告媒体へ
ヴィジュアル・プレゼンテーション&パフォーマンスし、企業と従業員そして顧客たちとの
ハッピーな共有感覚を「ポジティフな3方良し」とした企業理念がこの企業の素晴らしさと偉大
さなのでしょう。(3方良しとは、作り手と売り手である「IKEA」と利用者たち顧客とそして、
作られた“モノ”の3方良しである。)これを企業理念としたことによって、「IKEAはデザインを
売る企業」と成り、現在の成長が生まれたのでしょう。

繰り返しますが、この映画を見たことによって、僕は”「IKEA」の家具はすぐ潰れてしまう
家具である。”というコンテンツをもって新たな”家具のデザインとビジネス”に挑戦したこと
そのものが凄くカッコ良くて「新しく高度なるスキル」と感じ学んだのです。

ファッションの世界では、
多分、この家具の世界の「IKEA」とはモードで言えば、「フアスト・ファッション」と
言われるカテゴリィーが対峙し、ここではやはり、あのブランド「H&M」でしょう。
この2社は同じ’47年、スウエーデン発でお互いに大いに影響を受け成長と発展を成した様です。
従って、“すぐに、ダメになってしまう服”がこの「フアスト・ファッション」の根幹です。

ファッションの世界は既に、20世紀初頭に巴里の“オート・クチュール組合”という当時未だ、
残っていた“階級社会”を根幹にした「差異化機能」が現在のファッションビジネスの世界に先駆
けて誕生し、システム化されていました。
ここには当時の階級社会がその特権とした階級を既に、”階級“そのものが「奢侈」であり、
「差異」である事を表層化する即ち、彼らを「衣服」にするというコンテキストによって200年
以上継続している世界が現存し、現在の「フアスト・ファッション」に至ったのです。
 ファッションの世界が「IKEA」で代表される『ファースト・ファニチェー』の世界との大いな
る相違は「差異化」を図りながら尚も、「継続」して行くために彼らたちは「トレンド=潮流」
というシステムを構築してきたことそして、ファッションにおける「差異化」の根幹システムに
”質”だけではなく新たに「速度」と「サイクル」を加え、「トレンド=潮流」がこの世界での
「差異化機能」となり、このコンテキストを生み出しそれをシステム化した事が『ファースト・
ファニチェー』との大いなる相違点でしょう。しかし、確実にこのファッションにおける
「差異化」機能が21世紀に入って、減速してしまったことはファッションの世界にもファスト・
ファッションが登場できた、新たな時代の「隙間」が生まれた為でしょう。

「売りづらくなり始めたあるいは、売れなくなり始めた「フアスト・ファッション」
 ファッションの世界での”すぐ潰れてしまう家具“とは、「すぐに着れなくなる服」あるいは、
「すぐに嫌になってしまう服」もしくは、「すぐに飽きてしまう服」又は、「すぐに魅力がなく
なってしまう服」だと先ず、認める事から「デザイン」活動に入るべきが王道でしょう。

 これらの”ネガティフなコンテンツを「フアスト・ファッション」は「誰でもが、安心して、
安価で自分たち地元ですぐにかっこ良く買える服そして、みんなと同じワールドワイドにお洒落
が出来る。」というコンテンツとどれだけ”ポジティフなVMD“に変換したシナリオでここ20年
間ほどで世界を風靡して来ました。
 しかし、このシナリオ自体がそろそろ古くなり、マンネリ化してきたこと自体が“次なる“を
意識し始めて来た時代性でもあるでしょう。新たな豊かさの元で生まれ育った若者たちは彼らた
ちのリアリティの中から、「トレンド=潮流」という時代の風が「倫理観」という人間の営みの
根幹が大切であることに気が付き始めた世代たちによって吹き始めてきたようですね。
 このプロローグとして、「H&M」の現在はもう既に、『4200億円相当が売れ残り? H&Mが
「セールの悪循環」に陥っている』という情報が流れています。その要因は「ファッション性と
価格関係が間違っていた。」「ファッション性とトレンドそして、価格帯と流通に歪みが出来始
めた。」と言うものらしいです。ここでのキーワードは「ファッション性」「トレンド」そして
「価格帯」「流通」ですね。当然ですが、現在の多くの「ファスト・ファッション」企業の
ブランドにおいても、これらの「キーワード」を今の時代感とそのリアリティに照らし合わせて
再考或いは、再検討すべき時期という時代性が来たのかも知れませんね。
参照/http://www.businessinsider.com/why-hm-business-is-struggling-201804
(日本語)https://www.businessinsider.jp/post-165036

この現実はもうファッションという言葉が持ち得てしまった「意味性」が新たなシーンを語る
ボキャブラリィーに変換され始めているからです。
ファッションとは既に、“装い”を表すものだけではなく今の時代では「生活環境」そのものを
指すまでの意味性と、「セルフ・プロテクト」としての新たな“ギィアー感覚”へと拡大革新して
来たのが現実ですね。
今後はここに「A.I.」感覚とその機能が新しさをも生み出すまでに。

「感動のプライオリティ」を求め始めたニュー・ジェネたち; 
 では、『フアスト・ファッション』はどうして「すぐに着れなくなる服」あるいは、
「すぐに嫌になってしまう服」もしくは、「すぐに飽きてしまう服」又は、
「すぐに魅力がなくなってしまう服」なのだろうか?

 ここには当然ですが、今の時代の価値観である「安心・安全・快適」もしくは、
「家で・みんなで・安心」の元では、「新しさやときめきそれに、自由さや驚き」などの
「感動のプライオリティ」が喪失或いは激少して行くことでしかないのです。
しかし、現実はここ20年間ほど、この「保守の進展」という時代観そのものを大衆に押し付け
求めさせ、それが自体が明日へ生きる為のシナリオと化してしまったからでしょう。
 この”楽だから、面白いから、安心だからカワイイから”に飼いならされてしまった”矛盾”を
感じ始め出した世代がいる。彼らたちは決して、”ヴァーチュアル”を美術館に未だ、入れない。
「ヴァーチュアルミュージアム」なるものを作り”ヴァーチュアル”そのものを「差異化」して、
商売を、金儲けを企んでいる輩たちではない。きっと、そんな”大人”たちを横目でみながら
彼ら世代が感じ持ち始めた「共通感覚」と「感動のプライオリティ」のための”ジグソウ・
パズル”に参加し、挑戦出来なくては彼らたちとの「共有感覚」が持てないであろう。
 何故ならば、今日のファッションの世界の人たちが変わらず、大好きな「感性」という
ボキャブラリィで「壁紙」だけを上塗りしながらここまで来てしまった今日は未だ,”明日”へ
続くのだろうか?
 
これも一つの“リアリティ”です。
 時代の変化をいち早く感じる産業はやはり、ファッションの世界です。
これはなぜかと言えば、先述した「差異化装置」としての”トレンド=潮流”という仕組みが
ファッションの世界では「速度」と「サイクル」を構造化して、いつもプライオリティを保ち持
って来たからでしょう。従って、時代の変化をいち早くコード化するのがファッションの役割の
一つでもあり、この価値をお金に変えてきたのがファッション産業だったのです。
ここから発せられる、「新しさやときめきそれに、自由さや驚き」そのものが”生活者ち”へ
”生きて行く実質な喜びと興奮と好奇心と愛”を与えてくれるまでのものなのでしたし、
これそのものが「ファッションの世界」だったのです。
 
このようなファッションの世界の今後は「コスチューム化」と「ユニフォーム化」の2極化へ
ますます進化して行くだけでしょう。
「コスチューム化」とは、繋がるために”パーソナル・コスチューム”を愉しみたい、というまで
の自己表現あるいは、自己肯定のためのコスチューム化。ここではヴィンテージやそのリメイク
などが王道となってきていますね。
 そして、「ユニフォーム化」とは、”繋がるための”「行為」のユニフォーム。
「家で・みんなで・安心」のために為さねばならない「行為」のための服としての制服化。
ヨガ・ファッションなどもそうであろうし、ファースト・ファッションそのものの”トレンドも
の”がユニフォームとなってしまっている”一家に1枚のヒートテック“現状の日常化である。
 
 なぜならば、時代が保守化しそのスピードがゆるくなってくると「新しさ」もスローになって
鈍化する。ここで起こり来るものは「創造性のパラドックス」が見られ始める。
 人々は自分と似た人を探す為の同化作用としてファッションを機能させるからだ。
そして、代りに登場するのは、”質”と”見映え”の世界です。
昨今の”4K”や”インスタ映え”ブームはこの現れでしょう。そして、ここでの最終目的は
”繋がる””繋がりたい”なのです。
 しかしこの根幹は、「みんなと一緒」に変わりはなく、人間は結局、「誰かと関係性を繋げて
いたい。」に帰するからでしょう。特に現代の日本人は孤独や寂しさを嫌う国民になってしまっ
たから余計でしょう。

では、新たなボキャブラリィ、「NEW NORMAL」とは、
 このような時代においては最近のTVコマーシャルで聞く「NEW NORMAL」という
ボキャブラリィーがその響きとともに、新鮮さを与えてくれます。
 結果、「モノ」への想いと価値が薄らぎ始め、代わって「ヒト・コト・行為=関係性」という
新たな時代の価値観が少しづつ芽生え始めて来たと感じられる時代の”新しさ”をこの言葉から
感じます。
 ならば、『「NEW NORMAL」という時代性とは?』をファイリング&ディクションすること
自体が次なる世代たちと繋がる為への”情景”でしょう。
 この関係性を構築するための「行為」が今後はより「モノ」の消費よりも増して消費する
時代性がこの「NEW NORMAL」の情景と考えられますね。
 
 閉塞感は個人の寂しさを増長させるだけである。これを背追い込んでしまった、「豊かなる
難民たち」は与えられた「安心・安全・快適」環境に委ねてしまって、自らの「自由や愛」は
”ゲーム”内でそれらを探し求める旅の面白さを知ってしまったからであろうか。
だから、行為としての「関係性」を生む筈の自らの「自由や愛」をリアルな世界では不安である
から探し求めない。彼らたちにとっては「ある場所」があれば良い。
あるいは、それが「ゴッコは嫌だけれど、ゲームであればいい、真実でなくても、
真実っぽければいい。」これが、「NEW NORMAL」の情景であろうか?

 例えば、「フジロック」や「YOGA」それに「ダンス」があり又は、「追っ掛け」がある。
これらのそれぞれは「行為」そのもので出会える関係性を音楽や癒しを共有し、“行為”としての
楽しみにする、費やすそして繋がる。また、インスタで繋がりたいための「行為」が消費そのも
のを生むまでのリアリティでもある。ここには前述の「感動のプライオリティ」がコンテンツの
シナリオがある。そして、今後の先端ファッションも「LIFEHACK」へとより向かう。

「気の利いた手段で、もっと快適に、もっと楽しみ、もっと効率良く」とい「LIFEHACKER」
たちの選択した「行為」としての生活手法はファッションの世界へもアプリと3DとA.I.を携えて
”リアリティ+ヴァーチャル”の方法や手段をみんなと一緒に共有し“ヴァーチャル・リアリティ”
を美術館へ行かなくとも日常で愉しもうというまでの「行為のマーチャンダイジング」が
”現在から明日”を指さす時代性の一端でしょう。

◎まとめ;
「 時代が変わるー豊かさが変わるーリアリティが変わるーモノの価値観が変わる
ーモノへのニーズが変わるー”モノ”の進化を考えるーデザインのコンテンツが変わる。」

◎参考/ウキペディアで”「IKEA」を調べると;
「1947年に17歳だった、Ingvar Kamprad、(1926年 - 2018年)が設立した“雑貨屋“が
初まり。当時は需要があれば何でも取り扱う店であったが、1947年に地元の家具店と契約して
格安販売を開始するとこれが大当たりし、1951年以降は完全に家具販売に集中する。
1953年に最初のショールームをオープン以後は、順調に売り上げを伸ばしていたが、
同業他社との深刻な価格競争に巻き込まれることになり、ライバルの圧力によって、家具メーカ
ーからの商品供給停止という深刻な状態となる。
しかし、こうした事態をバネに、自社で独自のデザイナーを抱え、企画・製造・販売まで全て
まかなう、現在の「IKEA」のスタイルを誕生させた。また、この際にイケアの特徴の一つである
「フラットパック(分解された商品は、できるかぎり薄く小さい梱包をされており、車の
トランクに積んで簡単に持ち帰ることができる)」も誕生している。
2015年に店舗のあるすべての国でインターネット通販を展開すると発表。アメリカ、ドイツ、
イギリスなど欧米でオンラインサイトを展開し、日本では遅れて2017年4月に開始した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/イケア

 日本では2001年に再展開を始め現在に至っている。
 また、新しいところでは今年1月に発表したT-シャツキャンペーンで黒人少年を使ったコピー
が人種差別そのものであるというSNS炎上から一気にブランドイメージが低下した。
これも現在の「IKEA」のリアリティであり、売り上げを落としている原因でもある。
*「IKEA」の企業実態は下記のサイトが参考になる。
「IKEA Group(イケアグループ)の2016年8月期(2016年度)の売上高は351億ユーロ
(1ユーロ=130円換算で4兆5,596億円)。
また、売上総利益は161.6億ユーロ(同2兆1,003億円)となり、粗利益率は46%。営業利益
(ここではオペレーティング・インカム)は45億ユーロ(同5,849億円)で、営業利率12.8%。
また、当期純利益は42億ユーロ(同5,460億円)となっています。
http://www.toushin-1.jp/articles/-/3930
*「IKEA」の「職場が楽しい」日本版は下記のサイトを参照。
https://toyokeizai.net/articles/-/63220
文責/平川武治:再校/6月10日:再々稿/7月1日:
合掌:

投稿者 : editor | 2018年07月05日 00:03 | comment and transrate this entry (0)

article(94)

18AW-PARIS・Fashion Weekからモード環境を考察する。/『 ”象徴の貧困”としてのモードの世界とは?』

「モードの環境」と、「ファッション・ビジネスの現場」の新たな時代の関係性を
理解するために。

”象徴の貧困”としてのモード化社会。/18AW-PARIS・Fashion Weekから
「モードのパリ」と言う現場の変革を深読みし、一つの考察をしてみよう。

 僕の流儀である、まず結論を先に言ってしまえば、
 この様な時代性になってしまった”モードの世界における創造”とは着る人間の身体構造と
生活環境が変革しない限り、「服」における全く新たな造形の創造は”枯渇”してしまった。
 この現実をまず、認めるべきである時代性。
次は、このような時代では”創造性”とはどの様なことであるかを認識すべきであること。
では、この様な時代性になった現代の、ファッションにおける「創造」とは過去の創造の
ストック、「FASHION ARCHIVES」を利用する”バリエーション化”あるいは”ブリコラージュ”
と言う手法に取って代わられてしまった「創造的あるいは、装飾的」が現代のモードの
「創造の世界」である。
 他方、新たな現実に対応し始めた「ファッショ・ビジネス」の世界は、その”象徴の豊かさ”に
委ねられたモードの世界が”象徴の貧困”化し始める。ここでは「工業製品」である”ファスト・
ファッション”を生み出し、従来のアパレル産業に取って代わり、「SPA型」ファッション・
ビジネスの世界を発展させ、時代の”IT”を味方に付け、”e-コマース”と言う新たな”ヴァーチャル
売り場”を戦力にした世界と生産プロセスにおける多種多様な情報力とその量と速度の高度な進化
によって、”e-プロダクト”と”e-メディア”と言う新たな可能性をも味方にした”象徴の貧困”が
ファッション化されている。
 この様な時代性になった時、”作り手否、送り手”であるデザイナーたちはどの様な「価値観」
を携えてこのファッションの世界へ「夢と憧れ」を抱いて来ているのであろうか? 
 或いは、この”象徴の貧困”のファッションの世界に、どの様な「創造の価値」を心して
デザイナーに成りたいのか?或いは、成っているのか?
ーーー名声、富、ヴァニティーな世界への憧れ、自己満足、自己顕示欲、自己肯定等など???
??? 有名になりたい、金持ちになりたい、デザイナーと呼ばれたい云々、、、、、、、、、
 
 『既に、”新たなる創造なき世界”に何を価値として関わって行きたいのか?』
僕はこの”象徴の貧困”の根幹こそが、そのデザイナーの人間性を問うまでの時代性になったと
感じ始めてしまっています。

時代を象徴する一つのプロローグを、
モードを語る前に、既に、”象徴の貧困”としてのモード化社会を認識しよう。
『我々の今日的社会はコントロール社会(管理される社会)と言う調整社会であり、
この様な社会に於いてはバランサーとしての感覚的な武器が必要不可欠である。』
Jeremy Rifkinはこれを『文化資本主義』と論じた。
/参照;「アクセスの時代―Age of Access」/渡辺康雄訳;集英社刊/01年:
 例えば、以前読んだもう1冊には、このような一文もあった。
『ハイパーインダストリアル時代には、感受性は執拗なマーケティング戦略攻撃に
晒されているが、その感受性こそが今、紛れもなく起っているあらゆる種類の戦いの争点と
なっていると言う事。その戦いの武器はテクノロジーであり、被害を受けるのは個々のそして、
それぞれの集団つまり、異文化/異民族の特異性であり、今や文化資本主義の下、我々の
消費社会は”象徴の貧困”が果てしなく広がるに至っていると言うことを認識してください。
例えば、武器としてのオーディオヴィジュアルやデジタルと言ったバーチャルな感覚に関わる
技術をコントロールする事が問題なのでありそして、その技術のコントーロールを通じて、
魂とそれが住む身体の意識と無意識の時間までをもコントロールしようとの企てが始っています
ね。それは”フロー”をコントロールする事で”意識と生”の時間を調整する事なのです。』
/参照;“DELA MISERE SYMBOLIQUE 1. L'epoque hyperindustrielle"
By Bernard STIEGLER EDITIONS GALIEE,04/Paris.
 
 そして、世界は確実にある一つの流れの方向へ導かれている。
世界規模での地デジ変換の目的の一つもこの範疇であった、インターネットを介したTVとPCの
統合により、明日の『テレヴィジョン』端末は『テレアクション』端末へと、モバイルになり
小型化、大量情報そして、速度というファクターによって変革してしまった。
この現実とは、文化資本主義の下に文化産業が産業全般そして、今後の情報社会の基幹産業と
なりつつある事だ。現代日本の「安心のファッシズム」に漂っている多くの消費社会の国民は
この「テレアクション」=映画+TV+ゲーム+音楽+フットボール+ショッピング+金融+保険
に現実時間の多くを委ね切った安心という願望の日常リアリティでしかない。

世界は21世紀以来、文化資本主義の下、文化産業をビジネス構造化するための”文化価値”と
感覚的武器の一つである芸術の価値即ち、”美-美意識”の“価値判断”の唯一統合化に依って、
”特異なモノが特殊なモノに”変えられてしまう。そして、彼らたちにとって変わらぬ世界とは、
コントロール社会(管理される社会)が”金融―価値観―武器”の新たな調整戦略によって
より高度な技術による、「コントロール社会(管理される社会)」へと進化,革新している。
これが今と今後の、世界の”グローバリゼーション”の本意本質である。
嘗ての20世紀初頭、政治の根幹は自分たちの国家が富める国家であろうとするために、
「植民地政策主義」によって利権化構造とともに白人資本主義社会が帝国主義化を競い合い、
黄色人種としての日本も加わって、結果、2つの世界大戦をもたらしてしまった近い20世紀の過去
を忘れないでおこう。そして、21世紀を迎えた我々は新たな技術を持って、新たな武器
とした「グローヴァリゼーション」の時代を手中にした。この新たな技術が「インターネット」
であり、この新たな技術を利用した「コントロール社会」の構築化と進化が現在の21世紀の
初頭であろう。ここには古いシステムに、新たな技術を加え、構造化された根幹が読める。
即ち、資本主義とは、『力と差異をどのようにシステム化』することで可能なシナリオであり
これは依然、変わらない白人社会が生み出した根幹である。ここに、新たな進歩としての技術
革新が加わっただけが「文明の進歩」と読むことが現代をシンプルで理解しやすいであろう。

**
さて、こうして”未来”を読んだ場合、
ファッションの世界にも“象徴の貧困”が染み込み始め、表層化されるだけであろう。
そこに“表層のボキャブラリィー”がより、フォーカスされ”特異な文化が特殊な世界に”消費社会
のために変えられてしまう。ここに僕が発言している「壁紙デザイナー」や「庭先デザイナー」
の登場とその立ち居場所が可能になったファッションの世界が現代である。
 ある時期まではこのモードの世界も、”象徴の豊かさ”故に存在価値があった時代があった。
メゾン、M.M.がこのモードの世界へ彼らたちの「創造の発想」によって一つの時代性を創造した
根幹は、それまで存在していた”象徴の豊かさ”を解体し、“象徴の貧困”と言うリアリティを
”落ち穂拾い”即ち、再構築したことであろう。
 そして、現代のファッションに於ける“象徴の貧困”とは、ヌーボー・リッシュ(新興成金)に
よるラグジュアリィ・ファッションの金メッキ化されたヴァニティな世界そのものの存在で
あり、他方、“流行/トレンド”とはグローヴァリゼーションを背景に新たなパワーとして
の大量生産可能な「工業化製品」としてのフアスト-ファッションの登場とその差異化のための
コードが“象徴の貧困”である。
 もうひとつ、それらのブリッジとしての役割を与えられていたプレタ・ポルテの現実とは
ファッシズムな調和のための創造的ゲームであり、“フェッチ&キッチュ”か或いは、
“ユニフォーム”へと流れ始めている。ここでは、 救われる唯一の身体の意識と無意識の時間の
ための”武器”は“過去”の使い方である。この過去とは集積された”アーカイブ”であり、
“共有したノスタルジア”の不連続な連続における集合体として甦る。
 ここでの価値は”未来のイメージ”ではなく過去へのイメージであり、それ以上に共有し得る
”エピソード”のヴィジュアル化と“コスチューム”化が“象徴の貧困”社会の新たな”武器”だ。
 象徴が貧困化すればするほど、嘗ての”カッコ良さ”がノスタルジー化され,美化され語り
続けられる”エピソード”になる。そして、これによってモードの世界も「美術館ビジネス」と
言う新たなビジネス構造が誕生し確立される。
この発端を直接的に構造化したのはCdG川久保玲の”作品展覧会”が動機である。
売れなくてもいい。それなりの場所に置いておくだけで価値が生まれると言うビジネスシステム
をランウェーで実行したのが川久保玲だ。ここにこれ以後の新たな彼女の新しい立ち居場所を
アヴァンギャルドに自らが創造したのであるからやはり彼女の気迫と根性はすごい。
 以後、世界のラグジュアリィー・ブランド企業はこぞって、「ファンデーション機能」を
設立し始めたのも現実になった。ここでは自分たちのアーカイヴを使っての未来への”創造性”と
それらのアーカイヴにより、文化資本主義の下、文化産業をビジネス構造化するための
企業自らがデレクションした”文化価値”を育成するためである。

もう一方の側の若手デザイナーたちの立ち居場所では、固定されない立ち居場所を見出し
始めている。考えようによると「自分のブランドとはインターネットのプラウザである。」
と言う視点だ。「いいね!」を押し合って彼ら世代のバーチャルな関係性を構築し、そこで
「コラボレーション」と言う手法を味方につける。この手法も見方を変えれば、
「アートビジネス」の構造に類似している。「コラボ」することによって自分たちのブランドの
「来歴」を造ると言うシナリオだ。この「来歴」即ち、「コラボ」の話題性が凄いほど
そのデザイナーの立ち居場所がメディアによってシナリオ化され拡散され、ブランドと
デザイナーの「知名度」へ繋がる構造がここには見られる現代である。
 ここではコラボの相手先がインターナショナル・ブランドであればあるほどに、自分たちが
求めている”立ち居場所”を約束してくれると言うシステムになりつつある。これは彼らたちの
関係性の拡散手法に『”成熟”を拒否し始めた世代』の表層が実は見える。
 この根幹は「競い合う」対象の変革化とでも言える新しいビジネス構造の一環になり始める。
”創造性”で競い合うことよりも”話題つくり”と”ヴァリエーション作りあるいは、
”ブリコラージュ”によって競い合う「選曲・編曲」と言う時代性であり、変わらぬ
”ファッションと音楽”の関係性が尚、ハネムーンであるし、そこに新たに”アートビジネス”の
システムが加わりファッションビジネスも本格的な「モノ資本主義」から「文化資本主義」の
元、文化産業としての新時代が到来したのが今である。
 
***
 このような時代観を自らの”形態言語”の日常環境とした時、モードを語る人たちは
何を語れば良いのか?
『誰が』『いつ』『誰に向けて』『何のため』それらを作ったのかという事をどのような
”立ち居場所”で、どのような”眼差し”で、どのような”ボケブラリィー”で、どのような”素材”と
“手法”によって、”未来の貧困”へ向けて語られているのだろか?
あるいは、”過去の豊かさ”へ向けて持ち得たそれぞれの「文化度」によって語りかけるだけの
ものなのであろうか?
 或いは、それ以上に「作り手」と言うよりも既に、唯の「送り手」になってしまった
ニュー・ジェネ・ファッションディレクターたちが認識し、持たなければならない根幹がある。
それはこの時代性だから持たなければならない「創造のための価値」観である。
 「創造のための価値」とは簡単に言ってしまえば、時代が進化することによって生まれる
「豊かさ」によって、「作り手=送り手」たちも、「なぜ好きな服を作るのか?」どうして、
「ブランド・デザイナー」になりたかったのか?と言うまでの自身の心の有様の根拠性と
自らが求めた”立ち居場所”のためのアイデンティティそのものでもある。そして、持ち得た
自らの「夢」の根幹でもある。
 この現代の作り手としての根幹である「創造のための価値」の発想の由来と根拠が本来は
そのデザイナーやブランドの「クオリティ」や「品格」となり、自らが求めた「立ち居場所」の
存在意義の確認に大切な根幹になる。
 なぜ、今この根幹が大切な時代であるかと言えば、ファッションの世界に「純創造」と言う
世界がいまだに存在するのであればその「創造」に挑戦することが自分が持ち得た自由の根幹
になりそれが創造へ賭ける心のエネルギィーになり得た時代があった。
 嘗て未だ、ファッションの世界に”新たな創造”と云う領域が芳醇に存在していた時代であれば
「作り手」は「創造のための発想」のみを深く考えて行為し、概念を発言すれば良かったのだが
今はこのシーンはすでに過去のものになってしまったからである。

 僕が最近のコレクションを見て評価する根拠は、このデザイナーはどのような
「創造のための価値」を持ってコレクションを作ったのか?と言う眼差しで見始めている。
誰のために、どのような人達のためのためのコレクションなのか?
或いは、コレクションを行なっているのか? を感じ、読むことがとっても大切な「共有感覚」
を創造する根幹であることだと信じて見ている。
 しかし、その多くは「自己中心」に始まり、「自己満足」「有名になりたい」「儲けたい」
それに、ラグジュアリィーブランドのデザイナーに登用されたいと言う“象徴の貧困”を
上塗りするだけの「壁紙デザイナー」や「庭先デザイナー」が賑わいを作っている世界でしか
無くなって来たと読めるまでの先月の『Paris・Fashion Week,18A/W』だった。
合掌:
文責/平川武治:  

<参考>
 *今回、パリで見た展覧会;
『M.M.M. 20周年回顧展』/於;モードガリエラ、
『Y.S.L.展』/於;ファデーションYSL,
『FUJITA展』/ 於;マイヨール美術館、
『RAOUL HAUSMANN写真展』他/於;JEU DE PAUME: 1918年のベルリン・ダダに関わり、
2つの大戦を経験したその作品群は眼差しの向こう側にあるものを捉えていたウイーン生まれ。
『IMAGES EN LUTTE展』/ 於;Palais des Beaux-Arts : 今年で50年を迎えた「’68MAY」の
オマージュ展。当時のグラフィック、フリーペーパーなどとその後、続出したキューバ、チェコ、
インドシナ等の「革命」のプロパガンダ・イメージ & グラフィックス展。
 日本おける「安保'68」展は何処かでやるのだろうか?  
『MUSEE CONDE』/ 於;CHATILLY, 久しぶりにシャンティイ城と街全体を16世紀の佇まいを
残したサンリスへ出かけた。サンリスの夕刻がメラコリックでいい。
 *読書;
『都市と娯楽』/ 加藤秀俊著:鹿島出版会刊:
『柳宗悦』/ MUJIBOOKS刊: 
『暴政』/ T.スナイダー著:慶應義塾大学出版会刊:御一読を進めます。
『日本二千六百年史』/ 大川周明著;毎日ワンズ刊:

 ありがとう。

 


 

投稿者 : editor | 2018年03月28日 17:12 | comment and transrate this entry (0)

article(94)

ブルータスSTYLEBOOK 2018 S/S向け原稿草案。『モードにしがみついてきた男の供述書。』

本原稿は、「ブルータスSTYLEBOOK 2018 S/S向け原稿草案」として書き下ろされたものの
全稿であり、私書版「14歳のためのモード論」のプロローグの一章でもある。

『モードにしがみついてきた男の供述書。』
ーーーーーー終戦の気配が漂い始めた頃に生まれたものが、
あの戦後の荒廃期の中から不謹慎さと共に変わらず、「装うことが好き」と言う事を
自分の中に見出して、幾通りもの好奇心と衝動に揺れ動かされながらも、
それにしがみついて来た者の追憶記否、供述書。

「今だから言えることなのでしょうが、
結果、それが何であれ、私の中に何か、「輝くもの」を感じ触れ、触れればそれは、
まず、第1のしあわせだと思いました。
次にはその見つけ出した、私の中の「輝きそうなもの」を恥ずかしさうにつかみ出して、
私らしく輝くようにその想いと共に、磨く事。
そして、時間と想いを掛け、磨きをかける事。
すなわち、感じる事、学ぶ事、喜ぶ事、愉しむこと。
そして、自分の価値観を築くことに費やした私でした。

そうすれば、仲間を見つけられ、時には競い合うこともありました。
私はこれを感じ、これにしがみついて来た事の結果として、今があります。」

“しがみつけた理由の根幹とは?”

「それは、まず何よりも、母の存在でしょう。
私事ですが、彼女はとても上品でおしゃれで自分の人柄を漂わせるお洒落をしていた人でした。
敗戦後の“母独り、子独り”と言う特殊な家庭(?)環境でどのように育てられたかと言えば、
母が装う姿を荒廃した社会の日々に、日常として目にしていたことでした。
今ではそれが当たり前の日常ですが、その当時では寧ろ、異常な非日常の光景でした。
その母の姿は、優しさと共に、喜びや勇気、プライドや責任感、楽しさや嬉しさそれに、
ある時は悔しさや悲しみさえも私は当時の母の粧姿からすでに、子供こゝろに感じ取っていた
のでしょう。そんな母の姿を見かける多くの人たちは決まって、「君のお母さんかい?
綺麗な人だね。」「上品な方だね。」「美しい人だね。」「優しそうなお母さんだね」と
声を掛けてくださっていました。まだ幼かった私にはそれが自慢でもあったのでした。
そして、この感覚はすでに小学校の頃には私の装いの感覚になっていました。
自分が産んだ子供なのに、自分が付けた名前で呼べない母と子。
この母との距離感と関係性が、いまの私と装いにはあります。
だから、私は今の「装い」を評論する立ち居場所を探したのでしょう。
そんな母が選んで着せてくれた私の装いは当然、当時の周りの友達や近所の目からは
浮いてしまっていました。
しかし、私は当時、すでにその目線が与える心地よさや楽しさや嬉しさときには、
ときめきさえも知ってしまっていました。
私の小学生時分はお兄ちゃんたちのお古の“国民服”が一般的でしたが、
私は一度もその様な服を着せてもらったことが無く、私が中学へ上がった時に始めて着たのが
常襟の学生服でした。私はこの学生服を学校から着せられることによって、自分の心までもが
社会の制約の中へ閉じ込められる想いと感覚を今でも覚えています。
私が私らしく装うことを躾けてくれたのが母の存在とその母が自分の体験から選んで
着せてくれた装いだったのです。それは、それしか出来なかった母のリアリティであり、
彼女が出来得た「愛」の一つだったのです。
これにしがみついて来たのが私です。
或いは、この頃では私はこれにしがみつくしかなかった時代と環境だったのでしょう。」

”その後、何に影響を強く、受けましたか?“

「敗戦真近に生まれた私がその後、自分の世界観と価値観らしきものを感じ始めた時
あるいは、自己主張を装いによって生意気にそして、異性を意識するまでに育った頃に、
世間では大いなる味方が誕生していました。それが「VAN Jac.」でした。
そして、「JUN」も知りました。
私は大阪で生まれ育ちましたから、そのあとに「Edward」を知り、そのテイストの違いに
かなりの衝撃を覚えました。だから私は「VAN Jac.」で当時流行した“アメリカン スポーティ
カジュアル”なる装いの洗礼を確実に受けた世代の一人です。
当時は心斎橋そごうの1階に在った、「VAN Jac.」コーナーや梅田に出来た、「Men’sShop」
難波に在った「トラヤ帽子店」の「JUNコーナー」そして、神戸三宮の高架下にあった
「ボンド商会」に友人たちと通ったことも記憶に残っています。この「ボンド商会」の親父さん
からは自分だけの「装い」とはのいろいろなことを教わり一方、「VAN Jac.」の創業者であった
石津謙介氏の大阪時代に母が知り合いだったことから母もこの装いには味方をしてくれました。
もう一つ、私は母の影響でB.クロスビーやF.シナトラ、メルトーメ、S.デイヴィス Jr.等の洋楽
スタンダードを聞いていたのですが、この頃には私は「モダンジャズ」を聞く様になりました。
当時、戎橋と梅田にあった「バンビ喫茶店」や心斎橋の橋詰めにあった「オグラ」に通い始め、
友達も出来“装い談義とジャズ談義“に明け暮れていました。O.ピーターソン,S.ロリンズ、
M.デイヴィスやC.アダレー、J.コルトレーンのコンサートを当時の大阪フェスティバルホールへ
勿論、「装い」を決め込んで、友人たちと押しかけていました。」

”覚えている自分のかっこよさとは?“

「私が「VAN Jac.」を通じて知ってしまった、”装う“事のその楽しさと生意気さは年齢と
時代と共に変化し始めました。アメリカでDacronが発明されて当時の新しい素材が登場した頃、
私も「銀座ヤジマテーラー」でラペルをジャズメンたちに見られたシングルラウンドにした
黒のスーツを仕立てて頂いたことも憶えています。今でも時折、私が着ているものに、
「エドワード」のエポーレット付きのキャメルジャケットがあります。
もう、半世紀以上のヴィンテージものなので、縫い糸がほころびてきていますが、好きで、
かっこいいジャケットだと信じて未だに大切にしています。
私は歳を取っても体型が変わらなかったので、これらのとてもお気に入りのスーツや
ジャケットで好きなもの、良いもの、気に入ったものは大切に、大事に随分長く着ています。
だから、当時、母に買って貰った「VAN Jac.」のジャケットも今も着ています。余談ですが、
私はこの「テーラーヤジマ」のジャケットは当時交際していた女の下宿に忘れてしまったことを
今も覚えているぐらいです。それも、既に20年ほど昔の話ですが。
「好きなもの、大切なものはそのこゝろの想いの分だけ大切に着てあげなさい。」と、これも
母から躾けられた”装いこゝろ“の一つで、”お洒落“とはの根幹を躾けられたと
私は自負しています。」

“おしゃれこゝろの大切さとはなんでしょうか?“

「私の次なる新しい装いのシーンの舞台は倫敦に移りました。
’73年から数年間、機会があって住み始めた都市、倫敦は私の装いの価値観をもう一つ広げて
くれました。私はこの街で「自由さ」という精神が接ぎ木されました。
当時の倫敦は未だ、“ロックとカーナビー”の残り火が燻っていましたし、キングスロードも
輝きと騒がしいさを溢れせせていました。それらの輝きは当時の体制に対する自由の裁量から
発せられたものでした。
「装い」とは一つの才能であること、その才能は自由なこゝろから生まれ、持ち得たバランス
感覚で如何様にもなり得ることを私はこの街で体感しました。
私は気ずくとその輝きの中で新たな自由とは、何であるか、どの様にすれば感じられるか?を
現実の中で体感し、自分のリアリティとして学んで来たようです。
そして、私は本当の「自由」とは現実の中に生まれたものでしかあり得ないという根幹を知り、
それを価値観として身に付け始めました。
もう一つ、当時は未だ、「質素、倹約」がこの国の美徳であった時代でしたから、自ずから、
「古くても好きなものは大切にする。」という心の有様も学び、私の「装い」こころに新たに
「古着」という“宝の山”を発見したのがこの街からでした。
この街での4年近くの実生活の後半はHIGH STREET KENGINGTONにあったマーケットと
その裏にあったアトリエでの「陶芸と古着屋」で生活費を稼ぎそして、スクーリングと音楽と
育児が生活の全てでした。

”あなたが「装い」にしがみ付くことの大切さとは何ですか?“

「結論から申し上げます。私が、私らしく生きてゆくことの一つの証です。
私の中で輝くものが何なのか?それを感じ、それが好きになれば、
その好きなものを現実で探し、見つかれば、それにしがみ付くしかなかったのが私の時代、
私の育ちそのものだったのです。私がこんなに長い間、しがみつけたのも苦しいものより、
楽しい幸せなものの方が、醜いものより、美しいものがその根幹にあったからでしょう。
そして、私以外の人たちにも共有していただけるものの方が良かったのです。

その後、日本社会も豊かさが生まれ始めて、消費社会が誕生した後はこの「装い」も
新たな世代へ広がり、装うだけではなく自分たちが着たいものを作り出す世界が多く誕生し
始めました。私が倫敦から帰国し、上京した時には気がつくと私自身もそんな作る世界の側に
足を入れ始め、しがみつき始めていました。しかし、この時期とはあの「VAN Jac.」が倒産した
時期でもあり、その後、数年で母も他界いたしました。

世間では、「酒の上の過ち」と言う言葉がまかり通っていますが、
私の場合は母が幼い頃から気を使ってくれた「自由な装いの過ち」が勇気と覚悟を与えてくれ、
今の私の立ち居場所を決断させてくれ、私の人生をこのような幸せな流れに導いてくれたと
たいへん感謝しております。」

”最後に、14歳の若い人たちへ「装い」についての一言を、“

「 私のこれまでの経験から申し上げますが、誰のために「装う」のか?
という問いへの答えは、まず、自分自身のため。自身の存在を自分で自由に表現できること。
そして次には、自分が愛する人のため。それが恋人だけではなく、家族や友人たちも含まれま
す。ここには自分が愛する人への想いが存在するからです。そして、出来れば、社会のために
なればもう最高でしょう。この根幹は「装う」ことが持っている自由さと幾つかの価値観、
立ち居振る舞いや身だしなみ、躾などですね。それに、“コミュニケーション”と言う機能が
ある為です。
ここまでお話しすればもうお判りでしょう。私の「装い」には所謂、ブランドやデザイナー
モノへの薀蓄や願望等は殆んど、介在しませんでした。それより寧ろ、「モノが持ち得た
リアリティ」に魅力を感じていたのでしょう。だから私の装いのほとんど全てが自分の古着と
それぞれ訪れたことのある街の古着屋から目に留まった「リアリティが詰め込まれた古着」が
私のワードローブの全てであり、それらと自由に遊ぶと言う感覚での着こなしを楽しむ
「装い」でしかありません。

最後の最後に、私の好きな、第14世ダライ・ラマの言葉に、
“Approach love and cooking with reckless abandon.” というのがあります。
私はここにもう一つ、「装い」を付け加えたいです。
“Approach love, cooking & fashion with reckless abandon.”
ありがとうございました。」
文責/平川武治:私書版「14歳のためのモード論」からのある1章より。

投稿者 : editor | 2018年03月28日 04:01 | comment and transrate this entry (0)

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UNDERE COVER 高橋盾 AW18を評論する。

かつての70年代終わり、ミラノの「ゴルディースミス」によって「イタ・カジ」ブームが
起こり、引き続きパリ、80年代初頭には当時の「シェビニオン」で代表された
「フレンチ・カジュアル」が全世を風靡し、リセの子供たちのユニフォーム的にまでなった
時代があったのを思い出させるまでの痛快さを感じた。
丁度、その当時の”ニュージェネレーション“達が今では、このUNDER COVER の高橋盾世代
であろう。「時代はリバーシブルあるいはメビオスの帯」。

ここ数シーズンのUNDER COVERのコレクションは好感を持ってクオリティー高い違いを
感じることがある。
先シーズンのPitti uommoのメンズコレクションにしても、パリで行われているファムの
最近の4シーズン来にしてもそれぞれデザイナー自身が何よりも、愉しんでいることである。
即ち、高橋盾が楽しみながらコレクションを、自分世界の中に引き込んで創っているのが
感じるまでの世界を堂々と見せてくれていることである。
この状況をデザイナー自身が持ち得て自分のコレクションを創っているデザイナーは矢張り
少ない。自信がない、トレンドを気にする、売りを気にするそして、それなりのデザイナー先生
ぶっているのだからそれなりに見られたいことなどが大きな要因になって、このデザイナー先生
自身が苦しんで創っている或いは、大いなる邪心と共に自信のないコレクションの結果なって
しまうことの方が多いからだ。
そもそも、ブランドとは「商標」であり、自分のブランドとは自分の世界観を生み出すための
「商標」であり、この世界観はデザインに関わった人たちとそれを総合でディレクションする
人たちが学んで来た「スキルと経験と関係性と美意識それに持ち得た文化度」によって構成され
ているのが当たり前である。ここにこのブランド或いはデザイナーのもう古くなってしまった
ボキャブラリィーである「個性」がその創造性と共に現れるものを「デザイナーブランド」と
称されて位置付けされている。

従って、UNDER COVERの高橋盾の世界観としての、「スキルと経験と関係性と美意識それに
持ち得た文化度」に余裕が生まれ始めた事。或いは、豊穣され、”豊かさが自由さを生むまでに“
なったことと感じられるので僕は好きである。
あと、自分のコレクションだから、自分のやりたいことを自分らしくやるというレベルの
ゆとりと、もっと言えば、「自分たちのお金で堂々とパリに来ているのだから自分たちの
やりたいことをクールにカッコよくやりたいね。」という正直なデザイナーの声も聞こえる。
もう一つが、「自信」であろう。もうここまでの10年数という経験をこなして来た自信でも
あろう。この辺りが最近のアンレ・森永の進歩しない、他人の新しい褌を使い回しての古い発想
で面白くもない学生コレクションレベルとの大いなる相違点であろう。根幹はこのデザイナーが
自己自慢がしたいがためのパリ。結果、パリからは何も学んだものが見当たらない故、女性が
着たくなる服が作れない所詮、「庭先デザイナー」でしかない。

さて、本題の今シーズンのUNDER COVERのコレクションの素晴らしかったこととは、
「新鮮」であったこと。「愉しかった」こと。「自由」であったこと。そして、幾つかの
「新しい」アイテムが見られたこと。何よりも僕が嬉しかったのは、彼が提案したターゲットが
「14歳」(?)
僕の去年来の構想と雑誌「ブルータス」の特集にもなった、「14歳のモード論」にも彼は
目線を行き届かす「自由さと新鮮さ」がとっても可愛いかった。
彼の眼差しはこの世代の女の子が恥ずかしやり屋さんであることを承知したところでの
「オシャレ!」にコンテンツを投げかける。「普段着の安心と親しみ」で着られる「ちょっと
違った、オシャレ感覚」を提案。「分量あるキャンパス・ルック」を可愛く着せる。
素材の面白さでは、形状記憶素材をこの世界へ落とし込んで”おしゃまなシルエット“を提案。
ゴム長にメッセージを書き込む。スニーカーも逃さない、上手い。そして、キャスティングも
良かった、ナイキに出ている旬なモデルをちゃんとゲットしていたからだ。
トレンドも気にしていない。自分がやりたいことを堂々と自身のクオリティを落とさないで
クールにこの”ニュージェネレーション“に全てを投げ掛け、コーディネートを見せたことも
潔が良い。結果、パリのファッション雀の意表をついたコレクションは話題になる。
その証拠にショールームでの実ビジネスもとても良かったと友人のマダム・クリスティーヌに
聞かされた。

ここで、冒頭のかつての「フレンチ・カジュアル」ブームへ、イマジナリ・ボヤージュとなる
「あたらしさ」を思うのは愉しい想いである。

そして彼、高橋盾はこれからは、メンズを軸としたコレクションをパリで挑戦発表する
という。
ここでも、彼の「豊かさから生まれる自由さ」をこのデザイナーと共に、愉しんでみよう。
文責/平川武治;パリ市ピクピュス通りにて:


投稿者 : editor | 2018年03月20日 19:24 | comment and transrate this entry (0)

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“JUNNYA WATANABE” AW18コレクションを評論する。

先ず、僕の結論はここ、2シーズンが低迷であったJUNYA WATANABE コレクションの
今シーズンには一つだけ彼らしさの力量を持って自分らしさの世界に挑戦した世界があり、
いいコレクションだった。

勿論、ビジネスをも考えなければならない立ち居場所上、ヴィンテージセーターや
そのリメイク的こなしをいつものパンキュッシュなイメージングによって、しっかりと
そのお役目も含めた”Good job”をしたのも好感がもたれる。

大事な今シーズンの視点はやはり、「分量のバランス感」だった。
渡辺淳弥はパターンメイキングでは素晴らしい腕を持っている職人肌のデザイナーである。
このような職人はいつも自分自身に挑戦する難しさを正面から迎え撃っている。
それが自分のプライドとなる“腕”を磨くことであることを熟知しているからだ。
彼の今シーズンの新しさへのチャレンジもここにあった。
僕が感じた彼の今回の“source of the new balance”の根幹は先シーズンのオムでもトレンド
アイテムの一つであった”ポンチョ“だ。このポンチョが持っている肩に乗せるだけで生まれる
ボリューム感が生み出すシュルエットに注目したのではないだろうか?
彼はこの時のシルエットとボリューム感を今シーズンのテーマの一つになった
「袖周りへの新しさ」へ彼のパターン力を駆使した造形へチャレンジしたと観た。
僕は袖と袖下に造形の新たな空間を見つけ出した彼の眼差しに感心した。
そのほとんどの白人デザイナーは今シーズンのこのテーマを表層の足し算のデザインで逃げ、
フリルをつけ、プリーツを使いあるいはシンクビックと。しかし、彼は過去からも多くの
デザイナーが避けてきたこの新しさへ職人気質で向かい合ったシーズンだったと感じた。

今シーズンのパリのモードの欲求には、「もう、90年代のアーカイブからのブリコラージュ
だけでは感動がない」という新たな欲求が感じられた。そこでやはりモードの造形の根幹である
「分量のバランス感」が問われ始めた。新たな分量のボリューム観によってのシルエット、
そのバランス感でどのようなシルエットを生み出すか?にあった。この欲求にはリスクが
多くある。すなわち、「売れるか、売れないか?がはっきりとビジネス上で数字で現れるから
だ。」従って、このトレンドに真っ向からいぞんだデザイナーは少なかった。ラグジュアリィー
は無論、若手と称される4シーズン目に入ったデザイナーまでこのトレンドを避けた
コレクションがほとんどだった。ここではパターンメイキングの基本力が問われるからであり、
今の大半のデザイナーたちはこの能力が皆無に等しいからだ。

身体を「表と裏/左右対称」しか考えない西欧人たちの美意識の根幹。
その上でのバランス観から始まり、非対称そして脱構築とジェンダーレスまでがこの西洋美學に
基づいたモードの世界の創造性の変換であり、現在へと至ってきた。
この世界へ刺激ある現実を持ち込んだのが82年のCdG・川久保玲であり、それに刺激と影響を
見つけたのが後のマルタン マルジェラだった。
その後、90年代はじめには多くの若いデザイナーたちが、
H.ラング、M.シットボン、J.コロナ、A.L.マックイーン、H.チャラヤン、V. & L.たちが
このモードの世界を芳醇、豊饒な新たな世界へと革新した。
その後の多くは所詮、彼らたちの「チルドレン」たちでしかない。
そんなこのモードの世界観の遍歴を考えると、今シーズンの渡辺淳弥のコレクションには
新しき視線が感じられ、その挑戦への自信が読み取れて僕は心地よかったのだ。
「ありがとう。」
文責/平川武治:パリ市ピクピュス大通り:平成30年3月5日初稿。

投稿者 : editor | 2018年03月11日 20:04 | comment and transrate this entry (0)

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CdG, ”川久保玲作品発表会“/3月03日、を論じる。

今年のこの街は、興味ある二つの「50周年記念」がある。
一つは、この国の戦後の左翼イデオロギィーの根幹になっている「MAY ‘68」の50周年。
もう一つはあの70年代のモードの在り方、「プレタポルテ」を生み出して牽引して来たメゾン、
「ソニア リキエル」の50周年でもある。

そして、川久保玲がスタイリストをやめて、友人三人で始めたこのブランドも多分、
「50周年」を迎えるであろう。当時の全てを知っているものが少なくなったことは、
この「50年」という半世紀前の出来事を熟知しつずけている人間が少なくなったことと、
やはり、都合の悪い事は忘れたいという心情と、”時間“が暗い時代とこゝろを
「風化」させてしまったからであろう。これによって戦後の大衆は「豊かさ」を持ち得るまで
に”努力“して来た50年であった。


ここで、 ”川久保玲作品発表会“を見る度に思うことがある。
このデザイナー、川久保玲はどのような服を作りたくって日本のファッションの世界へ入って
来たのかである。
彼女の全ての始まりは、彼女達がつけたブランド名でも判るし、当時のS.リキエルの
コピーから始まった彼女たちのブランドが、先日のような”発表会“を為すまでに至ったかを、
このような時間と、どのような関係性と努力を経て、現在の川久保玲の作風に至るまでの
「メタモルフォーゼ」が可能なのか?を誰も今だに論じない。
ある意味では、ここに日本のファッションが「文化の領域」にまで達することができない
所以の一つがあろう。他方では、自らが欲しくって、「文化勲章」を貰ってしまったデザイナー
も存在したと言うのに。
最近の東京ファッションウイークの”枯れ木に山の賑わい“も、日本の現在の外交政治
「庭先外交」と同じく、その多くが「庭先デザイナー」でしかない。
見える庭先ではしゃぎまわっているだけの輩たち。
「おい、君たち、“床の間”を持っているのか?」
すみません、今のマンション住まいで育った世代は”床の間“の存在すら知らない世代でしょう。

では、”川久保玲作品発表会“を論じよう。
まず、何よりも昨シーズンから、このデザイナーの作風が変わった。僕もハッピーになる。
多分、あのN.Y.での展覧会以後、このデザイナーはある種の肩の荷が降りたのであろう。
今シーズンは先シーズンに増して、何よりも当のデザイナー自身が楽しんでコレクションに
携わったであろうと感じた。
このデザイナーがこのような発表会形式でショーを行ったこととは、新しい時代の、
新しいモードの立ち居場所へ挑戦したことが何よりもこのデザイナーに僕が感じた功績である。
以後、この現実性を見抜き始めたモードの世界のビッグメゾンはL.V.やPinoグループなどが
独自の「ファンデーション」を持つまでにモードがアートの世界へ近ずく、新たな在り方へと
変革させた。この事自体がこのメゾンが成し得た最近のモードの世界での大きな変化である
ことを忘れないでおこう。

あの、F.フェリーニの代表作「道」の、ニノロータのテーマ曲でこの発表会は始まった。
チネチッタで見慣れた仕草がランウエーを動き出す。二つの照明什器が静かに引き上げられる。
すると、ファーストルックが。
全身白で装った黒人のマヌカンがゆっくりと歩み始める。
これは長い間見せていただいて来たパリ・コレクションにおいてもこのメゾンでは初めての
キャスティングである。窓は開かれた!!
素晴らしい、オープニングであった。これも,川久保玲の特技の一つであろう、上手い。

今回の川久保玲のコレクションは無垢さとチャーミングさそれに大胆な美しさを見事に
自分の創造世界の中でポジティフに展開した。
変わらず、自分の好きなエレメントは継続して居る。
それらに加えて、今回はいくつかのいままでに見られなかった手法を魅せてくれた。
今回の”source of the image”はトレンドの一つである「レイアード」を彼女の世界観へ
引き込み、自らの美意識と過去への想いも込めてポジティフな世界観を構築した。
ボンディングやキルティングを「未完の状態」で自分の素材とした事。
そこへヴィンテージ下着やヴィンテージニットを加えるという手法を用いた。
このヴィンテージにそれなりの彼女なりの想いがコードとして感じられ、読める。
魅せたかったのはそのエッジとボリュームのバランス感の変わらぬ美しさであったであろう。
僕が一番気に入って好きだったのは、白を基調としたレイアードの中から見え隠れする
いくつかの色彩あるうす布が見え隠れするあの“ミルフィーユ構造”のシンプルな構築の中に、
多くの布をレアードされたそのエッジの美しさとチャーミングな少女的はじらひを造形した
アウトフィットのものだった。
とっても失礼な思いだったが、思わず、食べたくなった。
(ある日、ローズベーカリーへ行くとこの”ミルフィーユ・れい“が食べられる。
そんな思いまで、)
だが、少し時間を置いて想いおこすと、「女の表層としての面と内面がエッジに現れ見え隠れ
するうす布の僅かな色彩」にこのクリエーター、川久保玲の「はにかみ」と言う女らしさを
想った。
この「はにかみ」というこゝろの有り様はやはり、日本人が持っている特異性であり、
人間としてのチャーミングさでもあろう。そして、隠されている美しさがあるからこそ、
こゝろ魅かれる。ここには日本人でしか理解できないこゝろの有様の一つに、
「情緒をひとしをに深くする」という美意識があった事も思い出す。
そして、かつては多分、このデザイナーはこのような内面性を自身で語ること自体が
「はにかみ」であったであろう。こんなところにもこの、川久保玲のメタモルフォーゼを感じ、
共有出来たことに喜びを覚えた。

このメゾンのプレスが対プレス関係者へ手引書的な文章を出しているようだが、僕は未だ、
貰ったことがない。ということは、僕は彼ら達がくくるプレス対象者ではないのである。
これも、僕の立ち居場所をよく理解されての対処であろう。
そして、今回のテーマが「camp」だったと言う。
僕が思い出したのは、S.ソンタグ。あるいは、古い映画「coach 22」。
それにしてもやはり、このコードとしての「camp」は僕たち世代のボキャブラリィーだ。
例のウキペディアでこの「camp」を引くとすぐさまそれなりの教養が入手できる白人的解説が
学習できる。あくまで、西洋哲学と西洋美意識の範疇によって60年代にコード化された
ボキャブラリィーでしかない。
ここには日本人特有の“湿り”から生まれた哲学と美意識は皆無である。
ちなみに、「バロックやキッチュ」はドイツ美學から生まれた様式である。
しかし、「CAMP」は戦後のアメリカで生まれたボキャブラリィーである。
ここにも僕は残念ながら、今だに「外国コンプレックス」或いは、「白人コンプレックス」が
むやみに横行している様しか見ることができない。非常に悔しい。
多分、このようなプレス対応のシナリオは白人が考えるのだろう。
当然であるが、海外のプレスやバイヤーたちに理解してもらいたいという役割があるからだ。
悪く思えば、そのついでに日本人たちへも、このように読み込んで欲しい。そしてどうせ、
あなたたちは「カワイイ!!」「スゴイ!!!」しか言えないだろう。という目線も見える。
しかし、現実的には、この幼稚すぎる日本人的眼差しがこのブランドを育て、愛して来た40年
ほどであった事も忘れないでいよう。日本マーケットのバックアップがなければ、
いまの川久保玲の存在もこのブランドの立ち居場所もないのであるから僕たちはもっと、
自信を持って、僕たちの美意識と感覚とそこからのボキャブラリィーで”川久保玲作品発表会“を
見てあげ、報じてあげなければならない。
貰った、”虎の巻“をリライトすることが記者やジャーナリストと自称する輩の仕事ではない。

昨シーズンの”川久保玲作品発表会“は「キッチュ・ジャポネズムズム」が僕のタイトル
だった。この時もトレンドを意識して、時代を先取りしていた。
そして、この「キッチュ」という香辛料は既に、今シーズンのある意味で、
メインコンセプトになった。
当然、このような全く新しいものが必要なくなって来た時代性の元での
クリアティヴィティとはやはり、足し算の世界へ走る。この足し算の趣味性あるいは、
悪趣味が「キッチュ」である。
全てが「真実っぽさというフェイク」で満たされ始めた現代という時代。
そんな時代の存在象徴がトランプであり彼の向こうを張って、ゲームに付き合っているのが
北朝鮮の金である。
このような、在るようで無いリアリティな時代性の最中のモードの世界もここでは、
バロック、キッチュと続けば、今後の流れはどのようになる?という予測的眼差しが読める。
その西洋的、黒人的、ヴァニティ的「悪趣味」がこれからのモードの世界を覆う
流行り病であろう。大変な騒々しい、ケバケバしい時代になろう。

”川久保玲作品発表会“で見せていただける作風が全くポジティフに、彼女のこゝろかわりに
接しられること、見られることは僕もハッピーな人生である。
例え、玄関ドアーは重いドアであっても、最近の彼女は窓を開けているからだ。

ここにモードの世界も時代がメビオスの輪のように根拠あるものをリンクする風景を
見せてくれるのが面白く、傍観し続けて来たのがパリにおける僕の立ち居場所でしかない。
「ありがとう、川久保様。いつも好奇心を揺さぶるまでのエネジーを。」
文責/平川武治:パリ市ピクピィス通りにて、初稿;平成30年3月06日:.





投稿者 : editor | 2018年03月09日 17:41 | comment and transrate this entry (0)

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、“CdG NOIR KEI NINOMIYA”のデビューコレクションを評論する。

僕が彼のデビュー当時から注目していた若手デザイナーの二宮啓のブランド、
“CdG NOIR KEI NINOMIYA”がパリでオフィシャルなコレクションデビューを先ほどした。

最近の日本人デザイナーのデビューコレクションとは違って、世界レベルでのジャーナリスト
やバイヤーたちが詰めかけた。
というのも、実際にはこのブランドは数年前からCdG Parisの自社内でプレ・コレクションを
行い、この企業のお友達メディアやバイヤーたちに実ビジネスを始めていたブランドの
パリファッションウイークでのオフィシャルデビューだった。 従って、もう既にコンデナスト社
やバイヤーたちからもそれなりに注目されている幸運な育ちと環境と彼の実力の元にデビュー
したブランドである。
実際に、Junya に次ぐ立ち居場所を彼はこのデビューコレクション以後、担うであろう、
それ程の実力と器を持っていると信じている。

ここでは、このブランドの立ち居場所をはっきりさせておくべきであり、
その立ち居場所によって、どれだけのデザイナー自身が持っている才能とこの企業のチーム
ワーク力を計算した上での評価がされるべきであるからだ。
この企業(株)CdGの現状と今後を読む限り、新たな才能あるデザイナーが必然であることは
時間が証明している。以前には「TAO」というブランドがこの役割を担わされてパリでデビュー
させたことがあり確か数シーズン、ランウエーをしたことを覚えている。
僕はこの「TAO」のデザイナーがロンドンのセント・マーチン校を卒業した際の卒業作品を
見に行った事、その彼女の卒業作品が全く、尊敬するにやまなかった川久保玲のDNAを持った
ものであったことを未だに、覚えているしその後、彼女の希望どうり、川久保玲のCdGの元で
実際は、渡辺淳弥の「トリコ」のアシスタントデザイナーから大好きなこの企業で頑張り、
彼女のブランド「TAO」がパリでデビューした経過も熟知していた。その後、数年後に突然に
この企業内で「TAO」ブランドは消滅さられてしまい、この残り火が今ある、「トリコ・
スペシャル」という纏まりで残されている。
結果、この企業が今後の世界ビジネスを掛けたところでの新たな戦略が
この “CdG NOIR KEI NINOMIYA”の起用となった。
もともと、“CdG NOIR”は90年の初めに立ち上げられたフォーマルを意識したブランドだった。
が以後、お荷物ブランドとして二宮くんが登場するまでは、「在庫」されていた。
その当時のアーカイブスは殆ど、税金対策も含めて、京都服飾財団へ寄贈された。

今回の “CdG NOIR KEI NINOMIYA”の二宮啓のカレンダーデビュー・コレクションは
この重責を担って行われたデビューコレクションだった。
僕が評価する根拠は「3つの素晴らしさ」があった。
その一つは、彼がこの企業で学び培った「バランス観」が見事なぐらいに、川久保玲の
バランス観であったこと。分量あるシュルエットの分量感のバランスは勿論であるが、
今シーズンのトレンドバランスの一つのである、“ハイ・ウエスト”においても、かつて
川久保玲が自分のバランス観にした“チョゴリ”のバランスが構築されていたこと。
きっと、この“バランス観“が、”ブランドらしさ“を表現できるあるいは、今後このブランドを
継続して行く唯一のクリエーション・ファクターであろう。
「バランス観」あるいは、「バランスをデザイン」することそのものが現代の、もうすでに
新たな形骸的なデザインが終焉化してしまった昨今では、クリーエターの”good job”そのもの。
ついでだが、お母さんの奥座敷的コレクションの作品群にしてもこれが根幹にあって成り
立っている彼女の作品群であり、そこにどのような想いあるエモーショナルな「素材観」と
「色」そして、時代を表装するプリントをデザインするかの世界でしか無い。
その2つ目は、やはり、このデザイナーが理知的である証拠であるが、
「自分にしか出来ないこと」を正面切って勇気と覚悟を持って行っていることである。
言い換えれば、「お母さんには出来ないこと」とは何か?を深く考えられた上での
コレクションであったこと。
これは、この企業においては必須事項であり、貴重なことである。川久保玲だけでは無い、
渡辺淳弥もいる。この二人の世界の最高峰なる先輩たちには出来ないことを目指すのは
エレベストへたった一人で登ることよりも難しい。このデザイナー、ケイ・ニノミヤはそれを
わずかなパーティたちとともに敢行した。彼の「自分にしか出来ないこと」への始まりは布帛の
中に優しさを入れ込むエンブロイダリーから始まった。ここにも彼が見つけ出した
「手芸性あるいは、工芸性」をこのメゾンに持ち込んだ。
彼は「手仕事」をリスペクトすることからこのメゾンにおいて、「新しさ」を見出す。
そして、この続きとして、3っつ目の素晴らしさがある。このデザイナーも僕流にいえば、
「レゴ・ゼネレーション」である。彼らたちの子供時代はレゴ・ブロックで遊んだ。
しかし、我々の子供時代の室内での遊戯とは、ぬりえで代表される2Dの世界でしかなかった。
すでに、3Dのレゴ・ブロックのピースを使って遊ぶという世代たちの時代が来た。
ここにも、「お母さんには出来ないこと」への根幹の育ちと時代の違いを知覚したところでの
彼のその後の創造性が始まる。その世界が、まず素材によって“3Dのピース”を作る。
ここにも彼がリスペクトする「ヒューマン・テクノロジー」が拠り所として存在する世界を
探した結果がある。

丁度、少し前に一方で僕が若い人たちへ投げかけ始めていた、「without sewing」プロジェクト
があった。このコンセプトやコンテンツを健全に具現化し始めるデザイナーが登場し始めた。
そのひとりがケイ・ニノミヤであり、もうひとりは「YUIMA NAKAZATO」である。
僕の考え思いついたこのプロジェクトの根幹は、「新しさ」と「ユダヤビジネスから
遠く離れる。」そして、「日本の甲冑鎧」の世界観があった。女性たちが美しさを装うための
「甲冑鎧」が発端であった。この21世紀においても、ファッション産業が成立している
産業的根幹は依然、「ミシンと針と糸」の世界でしかない。『今後の21世紀におけるモードの
「新しさと凄さと新たなビジネスチャンス」』という眼差しが僕のプロジェクトの根幹だった。
パリでのこの新しさへ挑戦したのが68年のパコ・ラバンヌが居た。勿論、彼が見出した
「source of the creations”は西洋の甲冑だった。

時代がチューニングし始めたと言うのであろうか、丁度現在、この街の東洋美術博物館ギメ
でこの日本の鎧甲冑の展覧会がなされている。
余談だが、すぐ隣のモード美術館ガリエラでは時代の寵児、「M.M.M.展」も始まった。
しかし、僕的には、「M.M.M.展」はモードの世界に「20世紀の終焉」をもたらした
クリエーター。しかし、「日本の甲冑鎧」展で見られる世界はある意味で、”21世紀への
プロローグ“とも深読み出来る。

さて、話が少し飛びましたが、このケイ・ニノミヤが持ち得た新たな眼差しとしての
クリエーションとは、「お母さんには出来ないこと」+「21世紀モードへのプロローグ」+
「CdGらしさのコンポジション」である。この足し算は見事である。
今回の彼のデビューコレクションで見事に、自分しか出来ないこととして、
『エレガンスに、美しく品性を感じさせるまでの「装い」の世界』を
この20世紀の”終焉の断片“に現を吐かし、しがみついて居る昨今のパリのモード界へ、
覚悟ある勇気とともに見事に健やか品性深く見せてくれ、新たな新しさをもたらした。

余談だが、僕がショー後彼のバックステージへ行って挨拶をした折の僕の評価は「80点」
だった。この僕の「ー20点」とは?
それは、彼が、あまりにも素直で、お利口さんであるための、「ー20点」である。
「分量のバランス観」すなわち、「装いのコンポジション」をどのように時代にチューニング
し、構築するか?が、現在の最もクールなクリエーションであると自負して居る僕からは、
あまりに、真面目であり、お利口さん過ぎたというところが僕なりの物足りなさという
本音であったからだ。

「ありがとう、にのみやくん。脱帽です。
僕は素直に、日本人としての喜びを、あなたの新たらしい色を感じさせるまでの黒という
『風』から爽やかさを感じました。」
文責/平川武治:巴里、ピクピィス大通りにて。初稿/03 03 ‘18:

投稿者 : editor | 2018年03月08日 19:13 | comment and transrate this entry (0)

article(94)

「これほどまでに、ある新しい体験、」

前回のブログを書く発端は僕の旅の経験から発した全てがそうさせたので少し、
書き加えたくなった。

多分、『安心のファッシズム』の中で快適さを求め、のほほんと自己満足に委ね、
一喜一憂している輩達には到底実感が伴わない一つのリアリティーであろう。

前回の約1ヶ月の旅では今迄、これほどたくさんの外国の街を旅 慣れしてきた者でも
“初体験”を経験した。
 この体験は実際に外国を旅慣れていないと心に留めないことであろう。
また、グループ旅行や企業任せの仕組まれた旅行ではこのような体験には気がつかないで
あろう。
僕がパリを軸にして興味ある街と人間と美術館を徘徊しはじめてすでに30数年が経つ。
若い時代の旅を合わせてるともう、僕の人生に半分程を既に,海外の都市への徘徊に委ねて
来たことになる。

確か、この体験はここ6、7年前まではこのような経験はなかったと言い切れる。
これは時代が変わったということに尽きる体験であり、僕は結構ショックを感じてしまった。
結果、自分の国「日本」の現実を思い知らされたという実感を味わってしまった。
前回パリのファッションウイークの前後に合わせてユーロ圏とモロッコの7都市を徘徊した。
この旅路において幾度か気軽によくあることですが道すがら出会って、声をかけられた。
「あなたは中国人ですか?」 「お前は中国人か?」「中国人?」、、、、、、
見事に、それらは全て僕を”中国人“と見なしたのだ。
こんな体験は初めてであった。

以前であれば、「あなたは日本人ですか?」「君は日本人か?」「日本人?」でしか無かった。
しかし、ここ数年来は、「あなたは中国人あるいは、日本人?」もしくは、
「君は日本人ですか中国人ですか?」という掛詞であった。
そして、ついに、今ではもう、完全に日本人であることへの興味や友好気分は消えてしまって、
黄色人種、イコール「中国人」という自分たちが知っているレベルで国名を名指しすれば
間違いがないあるいは、その方がクールであるという彼ら達のいわゆる”常識”レベルでの
価値判断の結果が僕が体験したこの現実であろう。

海外を旅しているとこのような現実に出会う。
このリアリティそのものが時代を新しく生み出している大きな要因である。
そして、この体験は実際に“旅”をしない限りわからないし、理解できない。
「安心のファッシズ」の中でかき集められ、送り込まれる諸情報や知識からは
このリアリティは知り得ることができない。

 「日本」という国家が戦後、敗戦国でありながらここまで、この70数年の努力の賜物が
結果、現在ではもうすっかりその立ち居場所を「中国」に取って代わられてしまったという
現実は僕に取っては全く悲しい限りでしかない。
 僕の経験からの’80年代後半から2000年ほどの15年間はこんなことは全く、聞かれなかった。
声を掛けられてもそのすべては「あなたは日本人ですか?」「私は日本が大好きです。」と
までのウエルカム・グリーティングを頂くことでしかなかった。

僕の視点は、これは現在の「日本」という国家の実態が完全にアジアから消えてしまった
結果とも読めよう。
 僕に取ってのこの経験はアジア圏国家としてのアイデンティティが確実に日本国は
もう既に、“中華人民共和国”に取っ手替わらてしまったというリアリティを実感した
出来事であった。
 全てがわかりやすく日本にとって変わって、「中国」がアジアに於るそのイニシアティブを
完全に掌握変革させてしまった現実が街に、大衆に現れたといえよう。
 この現実が世界においては、現在のアジアにおける僕たちの国家「日本国」の政治的、
経済的、市場的にそして、モラル的な立ち居場所の評価でしかない。

 「砂糖菓子」が崩れる時とは、
一滴の水でジワーと時間の染み込みのごとく緩やかに、音もなくそして、綺麗に
消えてしまうものである。

 「やがて、オージー/狂宴の後、」
(ボードリヤールのある書物に使われていた言葉である、)
「安全のファッシズム」日本国も今は、2020年が目前に迫り始め、その“オリンピック”に
多くの輩たちが ”ぶら下がる事”しか考えていない。

 その狂宴もいずれは終焉を迎える。
その終焉後の”向こう側”に何が姿を現し見えてくるのだろうか?
「シン・ゴジラ」であろうか?

 その向こうから見え始めるのは「徴兵制度」。
トランプ政権のウリである、”強い国家”のための「新・安保条約」後の日本は、
これに基づく新たな憲法改正後に、戦後70数年、日本でそれなりの人たちが待ち望んだ、
「軍隊」と「軍事産業+原子力産業」が表層に現れ、独り歩き始める。

 ここで、少子化による18歳に選挙権を下げた根幹もここで帳尻がつく。 
軍事防衛費がやたらと膨らむ。成り上がり国家はやたらと「最新型兵器」に弱い。
あの不評限りなく、多発事故発生軍機”オスプレー”は
現在、日本以外の国家はどこも購入していないという現実も知ってください。
そして、北朝鮮がミサイルを飛ばす度に日本の軍事防衛予算が億単位で平気に膨らむ現在。
安倍内閣の閣僚議員達は小泉政権以来の「天下り利権」から「ファミリィー利権」に貪り
掴まろうと、メディアを使い、解り易い“お笑い芸人”までも巻き込み、
トランプ氏から与えられた「北アジア冷戦構造」という“シナリオ”を読み上げているだけ。
 これが現在の僕たちの国、「日本国」の政治事情とそこから生まれる経済事情の根幹。

 これでは、「あなたは日本人ですか?」と聞いてくれる外国人たち庶民は居ない。 

 このような現実を体験してしまった僕は、斜陽、硬直化してしまている現在の日本の
ファッション産業に対して何が問い掛けられるか?

 「ファッション・デザインによって、どのように、実産業を発展豊かにさせて行けるか?」
「デザインは遊びではない。”ファッションデザイナー・ゴッコ”で在ってはならない。」
 自分のブランドとは、持ち得た世界観を、文化度と美意識と倫理観そして、ヒューマニズムに
よって、それぞれの世界で確立展開させる責任所在のマーキングでしかない。
決して、”自己満足”の証しだけではない。
なぜならば、デザインとはやはり一つの”コミュニケーション・ツール”である。
自分のブランドで、どのような世界へコミットできるか?
自分のブランドで、自立自活出来るか?
そして、自分のブランドで何が社会へ還元出来るか?」

 世界のファッションピープル、多くのユダヤ人たちも既に、5、6年ほど前から
「JAPON」と「CHINOIS」の棲み分けは, 完了してしまっている。
ありがとう。
合掌:
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2017年12月18日 18:46 | comment and transrate this entry (0)

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改訂版/ THE PARIS & TOKYO FASHION-WEEK BRICOLAGE;

今回も、巴里ファッションウイークが終わり、
ファッショングルービー達もこの街の表層から姿を消し始めた頃、
僕は地中海の向こうのタンジェへ、三度目の旅立ちへ。
その紺碧の空とそこで戯れる風に委ねたいそして、異国語の飛び交う喧騒さの中に身を
浸したいという欲望と願望から訪れたタンジェはその期待に答えてくれた。
パリのコレクションが始まる少し前に亡くなったP.ベルジェ氏がパトローネだった
この街にはやはり似つかない佇まいの書店へも立ち寄って、特有のスノッブさを醸し出している男性と話を交わす。
「ピエールさんは去年の年末は、日本へ訪れて、「直島」で過ごされていたのですよ。」
この言葉を聴き僕はP.ベルジェ氏の“好奇心”に揺さぶられた。
http://http://www.librairie-des-colonnes.com/http://www.librairie-des-colonnes.com/

1)パリ・ファッションウイーク ‘18S/Sでは;
資本主義の肥大化と元では、「巨大資本がより、巨大化を占有するのみ。」
巴里の今回のファッションウイークはLVMHグループの企業戦略とその為の資金の使い方と
そして勿論、政治力を見せつけられた一面としての、新店舗ラッシュ。
ヴァンドーム広場の入口のゲランショップを横へずらして迄のLV店舗のオープン。
マレでは、とてもいい古い金属加工部品屋だったところの角地をKENZOショップに
この時期に合わせて変貌させた。
そんなシーズンのパリ・モードの風向きも分かり易い”ストリート & スポーツ”。
その風が”ストリートの吹き溜まり”をいずれ、もうすぐ作ってしまうのでしょうが、
それまでに何処が、どれだけ儲けるか? のシーズン。
トレンドアイテムが”ストリート”へなびいてるのですが、僕的な見方ではそのすぐ後ろに
”ドレス”が見えてきました。例えば、日本のセレクトでも、”ドレス”が動き始めていると言う。
”ストリート”に対局する世界がこれからじわじわと次なる”新しさ”へ、これが通常の
ファッションのトレンドの動きであるから驚かないでおこう。
ファッションビジネスの世界も“ビッグ・ビジネス”だけがより、“ビッグ・ビジネス”へと
邁進する方向性を見せたシーズン。
まずは、シャネルとディオール社の全面戦争が始まる兆し。
そのまえにYSL社との対決も踏まえた、その一つの現れが、コレクションウイークの初日に
YSLとDIORのビッグメゾンがコレクションを競い合った。
DIOR社は「フランスの文化資産」であるメゾン・ディオールのクチュール部門のすべてを
完全買収して手中に収めたその企業力と文化力とプライドを今後、実ビジネスにおいても、
売り上げでトップを取りたい勢いが始まったシーズン。YSLはP.ベルジェが死去したことから
今後の転換が迫られるであろう兆し。
元YSLのデザイナーはL.A.でCHANEL社との契約としての、M.カールがくれるお小遣いで
声がかかるのをアーティスト気取りで待っている状況のみ。
当然、若手のインデペンデントなデザイナーは苦戦シーズンが続く。
しかし、このような“豊かさ”を持ち得てしまった社会では、どの様に自分たちのブランド・
アイデンティティをプロパガンダするかも至難の技になってしまった。掛かる経費の問題で
あり、新たなクリエーションとは?の両面の向かい風を受けてしまっているからだ。
そこには新しいクリエーションは見られず、ミレニアム世代が知らなかった90年代の始まりの
バブル期前後の時代が経済的に豊かだったころへのオマージュとノスタルジアへ
流れるしかない貧困さも。
従って、モードの世界も成熟期を迎えた頃のクリエーションからのバリエーションと、
ここ数シーズン来のトレンド、“スポーツ & ストリート”のラグジュアリィー版が
継続トレンドのメインだった。まだ、多くの若いデザイナーたちはVETMONTを見習って
“2匹目のドジョウ”を探し求めるが、、、、、、
商人はその勘が鋭い。オリジナルとしての“vintage”がまた、新たな表世界へ。
日本人ファッション人間たちの“ご利益スポット”のトップである”メルシー”のロビーでは、
ディスプレーが“VINTAGE”フェアー。特に、パリでは“アメリカン・ヴィンテージ”がウケる。
新しい顧客としての黒人社会での高額所得者とそこから降りてくるミレニアム世代たちへの
影響を読み込んだ“ラグジュアリィー・スポー ツ & ストリート”は強くやはり、
その解り易さがウリ。
今シーズンは新たなトレンドはオケージョンを提案したクラシカルな気分を呼び込もうとした
ロマンティックでポエティックなドレス、ワンピースが登場。

この時代の気分を見事な発想とユーモアで観るものもその仕掛が判らないほどの
コレクションをリヴァーシブルな世界で堂々と謳い上げたのがUNDER COVER、高橋盾の
コレクション,”JANUS”。“ここまで凝るか?”と言う彼らしい世界は日本生産でしか出来ない
世界でもあり、ユーモアとアイロニィー溢れたチャーミングなシーズンだった。
もう一つ、彼、U.C.のコレクションはショーで見せるものは全て展示会に出し、受注をとる。
これもこのデザイナーの実直さと心意気を感じるので僕は好きである。
https://www.sz-mag.com/news/2017/09/undercover-ss18-womens-paris/

 カレンダー外のデザイナー達の自由と好奇心を愉しむまでのインスタレーションの幾つかに
勢いを見ることができ、嬉しかったシーズンだった。
彼ら達の中で僕が素晴らしいと感じ選んだのが、「ANDRE WOLKER、NOIR/二宮慧それに、
ANDRA DUMITRASCU」を挙げる。
https://www.nytimes.com/2017/10/05/fashion/andre-walker-paris-fashion-week.html http://www.dumitrascu.de
 ANDRE WOLKERは80年代、自分のパリで発表したコレクションを復元した。
見事な時代の読みとパラドックスと遊びが現代という時代性を捉えたクールなコレクション。
彼のコレクションは着まわしコレクションであり、安全ピンをデザインしたドレスピン一つで
いかようにも着こなしが可能という世界。
 今回はDSMから締め出されて、新たにイタリーの工場エージェントがついての発表。
彼のスマートさとセンスの良さと思い切りとエレガンスに徹した美意識を買う。
僕もこの彼のコレクションを80年代にレアで見たことを思い出し余計に嬉しくなった。
使っていたシューズもいい!!彼も”ゴールド・シューズ”を出した。

 CdG・チルドレンの一人、NOIR/二宮慧は変わらず、優等生である。
彼の”レゴ・ジェネレーション”特有の発想はすでに認められたがその内容とまとめかた
そして、時代感としての「軽く、強い。」のこなしかたと見せ方と、そのバランス感が
時代の空気感を表現している。このデザイナーにはファンが既に、生まれて居るが
彼らたちバイヤーも買って着たくなる服を作っている。
この”レゴ・ジェネレーション”ではもう一人、日本人でパリ・クチュールに参加して居る
”YUIMA・NAKAZATO"も僕は好きで注目している。彼も遅まきながら、今回、新人奨励賞を
貰ったようでうれしい限り。
彼らたちの世界には共通する今後の一つの新しさとしての“WITHOUT SEWING”の彼方が
想像できる。
 彼らの特徴は、素材をまずは”3D"のパーツ化をし、そのパーツにPCで可能な装飾を施す。
それをボディに構築してゆくという処方と美意識に委ねた世界はレゴ・ブロックで育った世代の発想であろう。
 
ANDRA DUMITRASCUはベルリンに住みセレクトショップも経営している30代デザイナー。
ヴィエナのクンストを卒業し、当時先生だった、V.ブランキーノに彼女の卒コレが見事に
パクられてしまったという逸話を持っている自由人デザイナーである。
前回はパリにある”ラブホ”を借り切ってのインスタレーション。
今回はポンピドゥーセンター前でのインスタだった筈が当日急遽、駄目を出されて、
近くのメトロの駅をモデルがチケを買って入ってショーイングという自由な発想で、
これまた人騒がせなコレクションを行なったが、その内容は新しさと自由さが満杯の
メンズ&ウイメンズコレクションだった。
選び使った素材が新しい、タクティックな感触をオーバーバランスとフリルで楽しませた。
ここでもアンビギュゥティなコンセプトと遊びと愛が溢れたクールなコレクション。
”愛”をモード化したデザイナーは今までも少なかったが、それだけで今の時代感と空気感を
センスとユーモアで良く醸し出した。なかなか頭もいい、センスも良い、スキルもあり
美意識が高いデザイナーの一人です。
(今回、久しぶりでやはりイタリーの工場エージェントがついてインスタレーションを
行なった、”W. & J."が彼女の素材感を一部パクっていた。同じヴィエナ出身だからであろうか?)
 もし、次回もこの3人のデザイナーがコレクションをやるならば是非、美的&知的好奇心を
持って、彼らたちが提案してくれるクールな”時代の空気感”や”時代の気分”を感じ見て欲しい。
 彼らたちのコレクションは全てが”ウエアラブル・コレクション”であり、それらは決して、
”アーチスト”気分でお友だち世界でデザインしていない、強さとオリジナリティある王道観が
逞しい。そして、彼らたちはみんな、「フランス人」ではないのが楽しい。

ビジネス面で見れば、少しその活動が落ち着いた市場である。
“ロシア”への再度なるアプローチが今後の営業不振を救うとしているが、そのロシアも
自国のデザイナーやファッション企業が進化したことによって今までのように
外国人ブランドへの興味が薄らいだのが事実であり、それだけロシアン・マーケットが
厳しくなって来た。
この状況は少し前からの“中国”のファッション・マーケットの進化と良く似ている。
その証拠にロシア人デザイナーのコレクションもこのパリのウイークでは増え始めている。
もう一つ、このパリの「モードのショーケース」たる所以の“サロン”は数は増えるが
入場者数は増えないという現実のパイが見え始め来場者数は減少ばかりの状況で、現状維持が
精一杯の苦戦。
ここに来て、従来のこの街のファッションウイーク本来の業務内容を変更しなければならない
機を迎え始めたと読む関係者も生まれる。その原因はやはり、「E.C./e-コマース」の進化だ。
作り手と売り手の間に存在した「セールス・エージェント」という構造が「E.C.」の普及と
進化によってその存在価値と利用価値が弱くなり始めたという時代性。

2) 20世紀と21世紀のファッションビジネスの違いとは?その“新しさ”とは?;
ーーー「E-コマース」という新しさをもう一度考えてみる。
何気に“仕事”を”自己満“でこなしている当事者たちは、案外この違いを熟知していないか、
感じていないだろう。
 もう、“川上”や“川下”の世界ではあるまい。この視点は未だ、東京を見ていると
恐ろしい位にこの視線がそれなりのファッション人間達からちらつき哀れさを感じてしまう。
 ’97年以降、 PCの確立で変貌したファッション産業。一つはクリエーションにおいて、
もう一つはビジネス。この両方を認識して21世紀型のファッション産業を再考&再構造化する
必要が現在の様にかつて、”アパレル”と言われた日本のファッション産業界には必然である。
 モノつくりは「新たらしい”過去”へ」流れ始めるしかない。
そのためには、PCによって自分たちの”嘗ての杵ずか”である「アーカイヴス & パターン」の
再構築化のための“整理と分類とマニアル化”であろう。
 もう一つのビジネスにおいての手法は”e-コマース”という新たな技法が 加わった事によって
そのトレンドとしての服の見え方、見せ方が変わり結果、売れるものと売れ方が変化した事に
気づき、新たな”営業手法”として管理と監修を行いここでもマニュアル化が必要になる。
 この変化が今後どのように変貌してゆくか? ここがこの低迷化するだけの日本の
ファッション産業復活の為の“ヨミ処”であろう。
 では、この現時点で、新たな”e-コマース”というビジネス手法はどのような、
儲けるための都合良い構造改革が今後考えられるか?
或いは、新たな”e-コマース”でどれだけファッションが”トキメキ”を与えられるか?
 現在の”e-コマース”の構造は日本においてはそのほとんどが「zozotown」に依存集中している構造でしかない。この構造では”エージェント・フィー”が発生する構造となんら変わりがない。
  例えば、個々のブランドが”e-コマース”のアプリ利用によって独自の”e-”営業が可能な
システムを考え構造化することも有りであろう。新たなPCを使った営業方式が定着すれば、
新たな”作り方”と”見せ方”が可能になる。ここにまたこのファッションの世界の
「自由な発想と新しさ」がウリになるであろう。
ファッションによる”トキメキ”とは何らかの”新しさ+好奇心=自由な発想”という公式から
生まれるものでしか無いからだ。
 例えば、ファッションショーと”e-コマース”だけで今後のファッションビジネスが可能か?
「イメージング+話題性+コーディネーティング+着まわし+素早さ+トキメキ+リーズナブル=
”e-コマース” というまでの極端な見方はどうだろうか?
 ここでは「“ショー“という動画配信」というカテゴリーで考えられる”e-コマース”への
新しさとその付加価値を顧客へどのようなサービスとおもてなしで行なって行くか?
この場合当然、”e-コマース”に都合の良いモノつくりとショーの在り方とメディ アの対応、
などのパッケージ・ビジネス的な発想は必然になる。

3)東京ファッションウイークを全く新しい眼差しで考える。;
 ーーー世界の主要消費都市ではすでに、21都市で行われている”ファッション・
ウイーク”。

 気がつき、考えなければならないことはそれら各都市で行われている
ファッション・ウイークの”手法と価値観”が全て同じ構造で行われていると言う事である。
ここには、この世界の連中だけが儲けられる構造が仕込まれてしまっているからである。
このワールドスタンダードになってしまった”ファッション・ウイーク構造”そのものを
都市が持つ差異をもっと自由な発想と新しさで取り組むことを提案しよう。

 例えば、今シーズンの東コレでは、年商売上400億円ほどのブランドが参加した。
それが、”G・W”。きっと、過去最大の売り上げブランドが参加したことになった。
このG.W.のショーは時代のキーワード「軽く、強い」を上手くまとめ、アンビギュティな
イメージングと共に、爽やかさが溢れたコレクションを見せた。
https://www.instagram.com/p/BahD9XKF17i/
実はこのコレクションをまとめたのは文化卒業後、パリのスタジオ・ベルソー卒業その後、
19年間パリに住み、クリエーター J.コロナの元でアシスタントを務めていた経験者だった。
 世間では、“東京コレクション”とはファッション・クリエーションを競い合う機会と
一つの環境であると言う古い見解がまだ 残っている。
 これは、前述の「ファッション川上・川下」論と同じく、単なるアナログ発想でしかない。
従って、参加デザイナーたちにはクリエーションがある、あるいはクリアティビティな
コレクショ ンをする作家やアーチスト達という古い、表層的なる理解の元、無知なる
思い込みと希薄な職業意識のもとで誤解されて行われて来たことが長過ぎたのではないか。
これによって、結果、多くの勘違いをしたファッションデザイナー像を捏造してしまい、
「大いなる自己満足」タイプのアート・コンプレックス症候群デザイナー誕生の根拠に
なってしまった。
では、このようなタイプのデザイナーのブランドの売り上げがどれ位あるのか?
ジャーナリスト達は本人に聞く勇気も持っていない。これだけのショーをやるのだから、
これぐらいの売り上げがあって当然、という視点と読みが皆無であるのが変わらぬ、
東コレ・ジャーナリズムの弱点。この現実はショー後のインタビューでも理解できる。
彼らたちが聞くこととは「コンセプトはなんですか?」から始まるというアナログ発想。
多くのブランドは10年ほど東コレを続けているのに年商2億円程度の”ノラリクラリブランド”
言ってしまえば、”未熟児ブランド”が多い。そんな彼らたちはOEMやSPA等の”バイト“慣れで
この綱渡りをこなしているに過ぎない。
このような現実の裏側が”枯れ木の賑わい”を見せ、メディアも便乗しての“ファッション・
デザイナーゴッコ”を年2回、行政+スポンサー企業の援助金を使って遊んでいる状況は
ここ20年以上、変わっていない。これが”東京コレクション”の自体と現実でしかない。
ここには低迷する日本のファッション・アパレル産業をどのように発展させ担って行くか?
の使命感は全く感じられない。

4)「現代における「ファッションクリエーション”とは
或いは、前衛とは何だろうか?」

ーーーなぜ、ファッション・ディレクターが活躍するのか?
僕の経験からの判断では、すでに20年前にはその兆しが見え始めて、
10年前の2007年からは完全にファッションにおける“全く新しいクリエーションあるいは、
クリアティビティ”は消滅してしまっている。この時期とは、たとえば、ブランド、M.M.M.が
ディーゼル社に売却した時期でもある。
この原因は生活者の“生活のリアリティ”が豊かになったこととジェンダー以後、
時代の最前線で生き抜く“新たな女性像”が見えにくくなってしまったことが考えられる。
変って、ファッション・クリエティビティとは、“時代の空気感”あるいは、“時代の気分”を
表現するレベルのクリエイティビティとイメージングの世界でしかなくなった。
結果、今までのような”コンセプト“頼りの形骸的な造形服はファッション学生の課題向け。
そこで”アーカイヴのブリコラージュ“と言う“古くい新しさ”という手法が生まれた。
では、またこの時代における“前衛”とは?なんであろうか?
この世界も作り手たちが現実、どのような社会環境で生活しているか?を問う事で
その答えも明白である。
“豊かさ”を享受し、“安心、安全、快適”を求めた「安心のファシズム」に無条件に
自由を委ねた、そんなリアリティの元での「アヴァンギャルド」は所詮“前衛ゴッコ”、
例えば、“PUNK”は”PUNKY”というここでも「時代の空気感」でしかないのが現代であろう。
“現代アーチスト”が生み出す作品もこの、「時代の空気観」あるいは、「時代の気分観」が
まず、ロジックなコンセプトにまとめ上げられている必要がある世界でしかない。
そこで、ファッションクリエティビティとは、それぞれの時代の“空気感”あるいは、
“時代の気分”をどのように表現するかまたは、”人間の皮膚感覚”にどのような新しさ或いは、
感覚そのものが投じられるか?が特徴となるのが現代社会における「ファッション・
クリエーション或いはクリエティビティ」だと言える。
若くは、その為にどの様な素材を選びまとめるか?がこの世界である。
この世界觀が従来のような形骸的な造形服よりも着ることがトキメキを与えてくれる服
或いは、安心させてくれる世界がプライオリティを取り始めた。
ここでも”20世紀”と”21世紀”の違いを読み込まなければならない。
人間的なる五感の世界から見ると、「聴視覚の時代」が20世紀だったとすれば、
21世紀は「触覚の時代」が始まった。皮膚と素材の「タクティックな関係性」である。
しかし、ここに一つの「時代のパラドックス」がある。
それはITの世界、e-コマースの世界はやはり、仮想な世界でしかない。
したがって、ここではこの21世紀の新たな関係性である「タクティックな関係性」が不在。
ゆえに、現実の服に求められるものが自ずと違って来た。
そこで”アーカイヴのブリコラージュ“と言う“過去があたらしさの根幹”という発想と手法が
生まれ、時代の「タクティックな関係性」を素材感に頼ることも大切な現代の時代感である。
このような時代には何を、「オプションするか?」が全てを決定する。
そのための感覚と教養とスキルと人間性がファッション・クリエーションにも、最も必需な
根幹が現代です。

 もう一つ今、僕が評価できるいいコレクションあるいは、いいデザイナーとはを敢えて
いい放すと、
「先ず、どの時代の、誰の、どのアーカイヴを選び出すか? そのセンスの良さを判断します。
次に、大切なことはその選び出したアーカイヴ・アイテムにどのような素材を選出し、
当てがうか? そして、場合によってはこの選んだ素材にどのような“後加工”を施すか?
この感覚と感度がそして、スキルがいまの時代には一番重要でしょう。
 ここが“現代ファッション・クリエーター”としての見せ所と決めどころでしょう。
後は、コレクションとして、”時代の気分や空気感”をどのようなバランスでまとめているか?
アイテム、コーディネート、分量、色彩、プリントそして、イメージングと、そこにやはり、
ファッションデザインの世界ですから”ウエアラブルな服”という基本要因は必然です。
これらを見せていただいたショーから判断して「良かった或いは、ダメだった。」を言う。
 このそれぞれのバランス感が「時代の気分」あるいは「時代の空気感」を生み出し、
現代の創造性となります。実際にここまで考え、まとめ上げられるデザイナーあるいは、
コレクションはやはり素晴らしいく、かなりの才能と経験と美意識と文化力がないと独りでは
到底、出来ないことです。
 なのでここに”ファッショ ン・ディレクター“と言う役割があるいは、”アトリエ・チーム”の
存在価値が生まれ、高まり現代には大切なポジションになっています。

更なる今後、ファッションにおけるクリエティビティを自由な好奇心で求めるなら、
一つの方向性は、「WITHOUT SEWING」。レゴ・ゼネレーションたちが競い合う
新しいモードの世界。
これを代表している優等生が“NOIR/NINOMIYA”や“YUIMA NAKASATO”,ここでも世界へ
この独自性を発信し始めているのはI.V.ホッテンと共に日本人デザイナーたちです。
もう一つの世界は、「コスチューム」という発想でまとめられる世界でしょう。
最初から”アート”を意識した輩たちの服作りとここが大いなる違いの根幹です。
元々のクチュール思想とは顧客という人間がトキメキと共に装身するもの。
即ち、「時代のコスチューム」を優れた職人たちの手仕事で仕立て上げ、
その時代の手仕事としての”技“にトキメキを感じ、粋に着る世界だったのです。
「コスチューム」には3つのカテゴリィーが有ります。
ヒストリカル・コスチューム、フォークロア・コスチュームそして、ステージ・コスチューム。
今ファッションが向かい合っているのは、「現代という時代のステージコスチューム」。
「ヒストリカル・C.+フォークロア/C.+ユニフォーム」と言う足し算がコンテキストの世界。 
このようなコンテキストは新しいトキメキを創造することでしょう。
この眼差しは実際にそれなりの人たちは感じ始めていますね。
ロッテルダムで催されていた「POWER MASK」展という展覧会もこの流れを証明したもの。
ここには”ノマド“や”プリミティブ“或いは、”エキゾティズム”というボキャブラリィが
そして、装いたい人間の最後の砦、「顔」をラッピングすることが生み出す
新しい“装い/粧ひ”のトキメキとクールさが見え始めています。

5)もう一度僕たちの足元、東京ファッション・ウイークへまなざしを、;
ーーーファッション・アパレル産業を救いたいファッション・ウイークなのだろうか?
このような時代性ですから当然、東京コレクション自体も変革しなければなりません。
しかし、残念ながら現在のこの東京コレクション関係者たちの時代認識においてはこの発想は
未だ、感じていないでしょう。そして、日本のファッショ ンメディア自体も遅れています。
「売れている服にはクリエーションがない。」と言う時代遅れな視点。
今の時代におけるファッションクリエーションとはなんでしょうか?
自己満足な、着ずらい形骸的な服がアートして、クリエーショ ンというファッションに対する
思い込みはもう終わっていますね。この世界は売ることを去勢した”自己満足の自慰行為”で
実際の社会のリアリティにコミットしたくない世界で漂っているだけ。
従って、この世界に漂って居る輩たちは同じ傷を舐め合うが如く、自称”アーチスト”擬きで
世間にデザイナーぶって居る、”お友だち、みんな集まれ!”、
彼らたちの求める自由とは、「安心のファッシズム」共同体の自由探しでしかなく、
決して、それが産業や社会に繋がる或いは、コミットするまでの”デザインの価値”行為でも
無く又、トキメキ迄の“カッコよさ”ではないのです。
 かつての、”TD-6”を誕生させ日本のデザイナーファッションの世界を支えた先輩、
レジェント・デザイナーたち、菊池武夫や当時の川久保玲たちの”志し”は決して、
「自己満足」の世界で漂わず、堂々と”マーケット・パワー”を最優先したことによって
それぞれがその後の”志し”の高さと努力によって、今の立ち居場所をものにしたのです。
   
 そして、時代は既に21世紀も17年です。今回の東コレへの幾つかのSPA系の参加は
”マーケット・パワー”を基盤に、新たな顧客のためへの新しい眼差しを提案した行為と
取れるでしょう。
ここには”コレクション”=”クリエーション”という公式はなく、ショー自体を全く違った
コンテンツで機能させ、社会化させるという、即ち、今後の「ファッションアパレル産業」の
実ビジネスを再興するための手段の一つ「“ショー“という動画配信」も今後のこの世界の根幹。
実社会へ自立したくない、頭デッカチな未熟児デザイナーたちのショーイングだけの
デザイナー観や「壁紙デザイナー」の服作りは“ダサく”、「枯れ木の山の賑わい」。
 彼らたちのレベルでは現実の日本のファッション産業の振興と発展と彼らたち自身の“継続”に
どれだけパワーフルなミッションと「高き”志し”」を持っているのだろうか?
合掌:
文責/ひらかわたけじ:まだとれぬ、時差ボケとともに鎌倉にて。

投稿者 : editor | 2017年10月13日 15:19 | comment and transrate this entry (0)

article(94)

今後、読めるパリモードと日本の「御三家」の今後とは?−1。

「今シーズン或いは今後、予想されるパリモードのメディアの騒ぎ具合とはを
幾つか予測しよう。」

 プロローグ;
 この街のモードもかなり、ポリテカルなシーンへ入ってきました。
”ファッション・ゲットー”にもイミグレーターたち、彼らたちのミレニアムジェネレーションが
格好のサクセスストーリーを求めてまた、ゲットーの白人たちも彼らたちを新興富裕層としても
受け入れなくてはならない状況に立たされてしまっています。
 この現実の先取りの一つが、ロンドンヴォーグの新・編集長、エドワード・エニンフルの
起用がこの状況をうまく受けましたね。

 日本ではそれなりの効果があったのでしょうか、
鳴り物入りでのN.Y.メトロポリタン美術館での憧れの(?)展覧会によって、この企業も、
日本生まれパリ育ちそして、”ユダヤ・ブランド”として今後の継続が約束され堂々と、
世界ブランドとして溶解されて、認知されてゆくのでしょう。このパリでも、プレタポルテ出身
ブランドが生き残れる条件は非常に厳しく、今までではS.リキエルぐらいでしょう。
しかし、このブランドでさえ今は中国資本によって存続されているのですから、
日本人としては、喜ぶべきことあるいは、嬉しいことなのでしょうか?

 そして、この川久保玲のN.Y.の展覧会を他の「御三家デザイナー」たちは
どのような眼差しで見、自分たちの今後をどのように模索(?)したのであろうか?
 このCdG、川久保玲の選んだ今後、それはいつか”世代交代”しなければならない時を
迎える、自らが設立し、君臨し続けたこの「コムデギャルソンというファッシズム体制」
から消滅しなければならない宿命に対しての”営業的、ユダヤ的セレモニー”の一つでしか
ないという「ご苦労様でした。あとは、僕たちが引き受けますよ。」という読み方が僕の
生意気な視点です。
 では、先の展覧会の読み方、認識が、他の「御三家デザイナー」と称されてきた、
三宅一生、山本耀司はどのように自らの今後の現実を読んでいるのだろうか?
 彼らたちさえ、もうすでに”老齢年金”を貰える世代なのである。
彼らたち、戦後の日本のファッションデザイナービジネスを盛り上げ世界へ認知させる
過大な役割を担った”企業”としての今後はどのように存続が可能なのか?
 どこかのユダヤ企業が介在するのか、あるいは、自社で現状維持、日銭を稼ぐ企業で
自己満足するだけなのであろうか?
 そろそろ、この視点で今後の日本におけるファッションデザイナービジネスとその在り方、
構造を考える必要があろう。
 しかし、残念ながら日本のファッションジャーナリズムはこの視点での役割認識が皆無、
変わらず”業界紙”クオリティで”御用聞き”でしかないのが現状ですね。

 もう一つ、パリの昨今は、”シャネルへ殴りこみを仕掛けるディオール”という構造が
メディア化する今後でしょう。
 企業売上では未だに、シャネル社がトップを走っています。その後をいつも追随して来た
のがデイオール社でした。そこで、フランスの文化の一つである"C.DIOR”ブランドの全てを
やっと、究極のクチュールメゾンも手中にしたM.アルノーは意気揚々、この時期が到来と
ばかりにシャネル社へ挑戦を仕掛ける時期と読んでいますね。
 その現実が今行われている”DIOR”展。これは、素晴らしい見事な展覧会です。
パリを訪れる目的の一つになるまでのファッションに関心のある人たちは必見の展覧会です。
ここにはこの国、フランスの文化が、”そのテイストと匂いとエレガンスと雅”が漂っています。
やはり、歴史という積み重ねられた”エレガンス”が違いますね。

 その1ー老舗”Chanel”への殴り込み劇とは?; 
 あのカール伯父さんこと、K.ラガーフェルド氏の引退劇であろう。
まず、いつ出来るのであろうか?本当に、可能なのであろうか?
次は、ではその後釜には誰が?この二つの大きな問題があるが、後継者としての
”ファッション・ディレクター”はもうすでに、決まっている。
それよりも問題は誰がいつ、彼のためにレッド-カーペットを引いてあげられるか? である。
勿論、これには彼本人のご意見が左右することで時間が費やされているのだが、そろそろ
その時間にも期限がやって来そうである。
もう一つの問題は殆ど、大丈夫である。
カールおじいさんがレッド-カーペットを歩くその後ろには変らず、ゲイ叔父様方にウケが
いい、あのエディ・スリマンくん、彼がはにかんだ笑顔で佇んでいるであろう。
この現実が訪れる前にもう一つのメディアを騒がせる事件は、ムッシュー・アルノー一家の
出入りであろう。彼はラグジュアリィブランドの世界で名実共に、頂上に立ちたいのである。
フランスの奢侈文化を代表するまでの”メゾン・C.DIOR”を全て買収完了してしまったこの
実業家が目的とするところは今度は実ビジネスであり、もう一方の老舗一家を打ち倒すこと
である。
現実のパリモードの売り上げ順位を見ると、今だに、老舗”Chanel”がブランド売り上げで
1位に君臨している。これはM.アルノー一家にとっては目の上のタンコブである。
この名実共の老舗ブランド”CHANEL”をターゲットとして、どのように打ち落とすかの
タイミングが彼ら達にとっては”今 !” なのである。
何故、今なのかとは、その偉大さをモード美術館でお披露目している”大DIOR”展の立派さと
凄さはすでに、メディアと世間で実証済みでありまた、あたらしいDIORのデザイナーのウケは
メディアも顧客にも頗る良く、売り上げも伸びているのでその勢いをもって、宿敵”CHANEL”
一家との世代交代劇に付け込む事であると読まれた作戦だろう。
また、E.マクロンが大統領になったこともポリテカルに幸いしている。
ここで、“CHANEL”の新・ファッション・アートディレクター、エディ君はあらたな使命
として来春ぐらいには(?)今までこのメゾンになかった新ブランド”CHANEL・HOMME”を
打ち立てて彼ら達を迎え撃つ事であろう。
今回は”フレンチ・エレガンス”を知らなかった、ラフ君とは違ってメディとしては申し分のない
エディ君の輝きと自由さが新しいモードの状況を誕生させるためのシナリオの一端が担える、
話題性に事欠けない状況と読んで目論んでこれからの賑わいが起こる。
 これが海の向こうのパリでこれからファッションメディアが騒ぐことの読み方、
その1である。(続く、)
文責/ 平川武治: 巴里市ピクパス大通り。


投稿者 : editor | 2017年09月28日 17:31 | comment and transrate this entry (0)

greeting(41), lepli(2)

Message de condoléances à la M.Pierre Berge,

 ”Merci beaucoup de m'avoir invité à de nombreuses choses magnifiques depuis longtemps.
 Je visiterai la "Librairie des Colonnes" de Tanger.
Une bonne réunion avec lui、、、、、、、”

 Y.S.L.が亡くなった時の彼、P.ベルジェの言葉でした。
 「彼を失い深い喪失感にかられています 、
皆さんも同じ気持ちでしょう。

 今朝新聞で今までにあったことを読んだと思います
アーティストの死とはいつもこういう風なものなのです。
彼がいかに大切だったかを振り返り
失うことがどれほどの痛手かを知るのです。

 ココシャネルは彼を後継者と見なしていました。
シャネルは女性に自由を与え
イヴサンローランは女性に力を与えました
男性服を女性服に転換することで女性に力を与えたのです

 イヴサンローランと今のデザイナーを比べることはできません。
才能のあるデザイナーがいないと言っている訳ではないです
才能ある人はたくさんいますし
すばらしい人が現れ成功することを期待しています
でも誰も彼と同じことができる人はいないのです
引退の日彼は自ら幕を下ろしたのです。
一つのファッション とりわけオートクチュールの幕を、」
 
 ベルジェさん、安らかな眠りへ。
合掌。

 またひとつ昨日、悲報を知りました。
巴里のモード否、世界のモードにとっても大いに、悲しい現実です。
これからのモードの世界には、新たな支える柱が必要に迫られます。
 が、シャネルを唯一のビジネス・ターゲットにしているディオール軍団の猛攻撃によって、
エディを巻き込んで、全面戦争が始まるのみです。
 でもこれは、YSLの時代には無かった、
取るに足らない、ただのヴァニティなビジネス戦争でしかありません。
これがこれからのモードの世界なのでしょう。
鎌倉にて:
文責/平川武治。


投稿者 : editor | 2017年09月09日 13:46 | comment and transrate this entry (0)

article(94)

廻り回って来た、今日という「終戦記念日」に、

今日は72回目の「終戦記念日」です。
 先月、7月7日に国連本部で開かれていた核兵器禁止条約制定が賛成129カ国の多数決で
制定されました。
 今回は「核兵器を完全に除去する」必要性を強調し、広島、長崎の被爆者の訴えを汲み取り
「核兵器使用の被爆者と核実験の被害者の受け入れがたい苦しみと被害に留意する」との
文言も盛り込まれましたが、唯一の被爆当事国である僕たちの政府、安倍内閣はここでも、
気骨なき”二枚舌”を使って「アメリカの”核の傘”」に依存し、不参加。
 日本民族が持ち合わせていたはずの、こゝろの様である国を想い人民を念う「気概」や
「気骨」はいずこかへ。
 年々、僕たちはこのような記念日の前後にしか、もう、「戦争」を語る,知る機会が
無くなりつつあります。
 やはり先月、「日本の長い戦後」という1冊の本が出版されました。
副題が、「敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか?」
アメリカ在住の社会学者、橋本明子著、みすず書房発行です。

 どうか、大いなる、良心を持ってご一読をお勧めします。

 これからの子供達が豊かに、堂々と自慢できる国家、”世界の日本”という現実性はますます
ネガティフな方向性になってゆくことを思い考えそして、みなさん行為してください。
 どうか、お願い致します。
 黙祷。
ひらかわ:

投稿者 : editor | 2017年08月15日 05:36 | comment and transrate this entry (0)

greeting(41)

巴里土産、”僕的、”巴里の新しい出来事、”平成29年7月記。

 ”僕的、”巴里の新しい出来事、”

 DIOR展で見つけた言葉。
“TRUE LUXURY NEEDS GOOD MATERIALS & GOOD WORKMANSHIP.”
 
 コレットが閉店します。12月20日で終焉。
ここでも、”20年周期”が。
確か、2年ほど前に(?)台湾系企業がオーナーになったはずですね。
彼らたちが、持ちきれないほどのビジネスレベルだったのでしょうか?
まだ、サラたちファミリィーが持っていれば、これにしがみついていたでしょう。
お母ちゃんはサラのために、自分が持っていた”サンチェ系の既製服ブランド”を
7社ぐらい売却してやり始めたのですから。
きっと、自分たちは売却して得たお金と、サラたちの顧問契約で
のらりくらり営業になったのでは?
一度、調べてみたいですね。
http://ja.colette.fr/?___store=ja&___from_store=ja

 時代は作り手の立ち居場所が変わったように、
ディストリビューターのあり方にも変化が必要な時代性。
もう、”DSM”も古くなってしまった商業形態でしかない。
自社ブランドと競合ユダヤ・ブランドとのリトマス試験紙あるいは、”振り屋”構造。
”世界の豊かさ”たちはどこで、どんな買い物をしたいのか?

 「ボンマルシェ」の創始者たちの言葉が思い出されます。
「3つのサーヴィス+もう一つ、」
そして、「新しい酒は、新しい革袋に」が再び、必要な時代性。
これは世界レベルで必需事項なり。

 日本でも、デパート、セレクトそしてAEON,駅ビル系から、
次なる新しいディストリビューターのあり方が必然になってきた時代性ですね。
ここで、どのようなバランスで、e-コマースとの構成比を考えるか?
例えば、”しまむら”も売り上げが落ち始める。
ここはe-コマースの比率が低いから早く落ち始めたのでしょう。
デパートにおんぶに抱っこアパレル・ブランドが消滅化。
セレクトは今では”SPA型”ビジネスで売り上げを取り、
”セレクト”とは名ばかりの落ちぶれ方。
AEONにしがみついているSPA型も今後がない。
e-コマースの比率をどのように堅持し、伸ばせるかが生き残りポイント。
新たの時代の気分を感じさせる「ファッション・ディズニーランド」か、
「ストリート・ラグジュアリィー」という名の「ロコ・ファッション」や
「コス・プレ」の世界。
そして、「ブラック・ラグジュアリィー」のみが
今後のあらたなファッションシーンを生み出せる時代の美意識。

 元マルタンの社長、ジェニィーさんも先日亡くなられましたね。
早すぎました。
南イタリィーのバ-リ、M.M.M.を売却して購入した別荘で。
彼女もファッションが大好きな人でした。
ブリュッセルで営んでいたブティック2件を売却してマーチンと”夢”を共有した彼女。
僕をいい距離から見てくださってた人でした。
「タケは今度生まれてくるときは”デザイナー”だろ!!」と言われた言葉を思い出し、
「いや、デザイナーにはなりません。」と返事した。
 黙祷。

 モード美術館、ガリエラのキューレーターをしていた、オリビエくんが
ここを突然解雇されて、J.W.ウエストンヘ再就職したそうです。
今、ブルーデル美術館でいい「バレンシャガア展」をキューレーションしたというのに、
残念です。
この展覧会は「バレンシャガア・ノアール展」。
知的なコンテンツがこの美術館のブルーデルの彫刻作品と対比されて展示されている
素晴らしい知的展覧会。
もともと、この美術館自体が小さなフレンチガーデンがあり、美しく、
大きな紫陽花が印象的。
このクチュリェの針の動きとブルーデルの人間の肉体の塊、マッスの捉え方との対比が
素晴らしい。
オリビエ自身が会場構成とセノグラフィーを担当したのも良い。
黒に拘った白の使い方、彼の繊細で知的な神経がこの展覧会の全てをまとめ上げている。
クチュールの美しさとは、作品を着た女性の表情と佇まいのバランスであろう。
それらをどのように見て貰いたいか?また、魅せたいかに拘った
彼のバレンシャガアヘのリスペクトと恋こゝろがこの展覧会への想いの全て。
当然ですが、始まったばかりのDIOR展とはその展覧会の趣旨と目的が大いに違うために
この差異は経験できない好奇心を味わせてくれた。
数年前に彼、オリビエがCdGの展覧会を白でまとめて魅せてくれたことを思い出す。
パリのモード・インテリとしては申し分のない人材だったのに、今回の再就職は残念である。
もう少し、これも調べて見たい。
http://www.bourdelle.paris.fr/fr

 DIOR展はすごくお金がかかった展覧会。
“TRUE LUXURY NEEDS GOOD MATERIALS & GOOD WORKMANSHIP."
”DIOR王国”とはこれぞ!!をこれ見よがしにまとめてやり始めた。
この裏には、アルノー氏がやっと、この”クチュールDIOR”メゾンの買収に成功し、
今まではプレタと化粧品だけであったが、この中枢のメゾンを手中にしたことによっての
ある意味、「文化は武器」というコンセプトを開け出した、
自分たちがこの王国を持っているのだぞ!と言わんばかりのプロパガンダ展。
でも、すごい!展示体数だけでもこれだけを展示された展覧会はない。
素人にもわかりやすく、誰もが、ノスタルジアを想い出させる展覧会である。
ディオール本人が一番凄い”クチュールとは!”の世界を作っている。
YSLのセンスがDIORのエレガンスを引き継いだ巧さは認められる。が、堂々さは感じられない。
アブラハムのプリントも彼の味方をした’70年始め。
うまくビジネスも繋げていたM.ボラン、彼が一番長くデザイナーをしていた。
イタリアン・エレガンスとフレンチ・エレガンスの差異が出せず苦労した学者的デザイナーJ.F.
フェレ。
自分の自由さを、自由の謳歌をこのメゾンで行った、唯一のジョンくん。
あの時には、その大胆さと繊細さが狂い始めてきていたのだろう。
ディオールとは違った意味での”魔術師”の才能を見せてくれるジョンくん。
一生懸命、”DIORエレガンス”を勉強して彼なりに頑張った、ストリート・クチュリェ ラフくん。
素材のオプションに面白さを見るが、これはT.TANAKAくんの仕事分野だっただろう。
ネオ・ヴァニティへの挑戦なのだろうか?あるいは、マーケットの入り口をより、広げるための
”FAMME OBJECTS”コレクション。
初めて委ねられた女性クチュリェ、マリア・グラツィア・キウリ。
それぞれの”DIOR”が一同に揃ったとにかく、必見すべき見事なキューレーションの展覧会。
パメラがキューレターで頑張った、展覧会としては素晴らしいものになっています。
ここで、パメラとオリビエに差が出来てしまったようです。
そして、多分、パリの展覧会で会場構成に”プロジェクト・マッピング”を使ったのは
この展覧会が初めてでしょう。
https://www.dior.com/couture/ja_jp/メゾン-dior/展示

 アントワープへ出かける。
あんなに通った街なのだが、その思いが砕かれてしまった鏡のような田舎町。
展覧会を見る。
やはり、パリの展覧会と比べてはいけない。
この街のどこに”エレガンス”があるのだろうか?それが、この展覧会にも見て取れる。
M.M.M.のオリジナル作品と、HERMES-M.M.M.の”SOUCE OF THE CREATIONS”の
面白さに、過去を思い出して微笑む。
嬉しいことにこれらのほとんどを僕は”レア”で見せて頂いてきた者、
M.M.がやって見たくなったという気持ちがわかるまでの”貧しさ”が発想の根幹でしかなかった
彼らたちのオリジナルコレクション。
ヴィンテージという名のオリジナルあるいはリアリティを見事に料理していたコレクション群。
HERMES-M.M.Mが持っているはずの”エレガンス”が展示予算の問題だけであろうか、
会場の雰囲気からは感じられなかった。
当時の状況を知らずに、彼らたちの作品だけをこうして見ると、
やはり、モードを学ぶ学生たちにはそれなりの新しさと、凄さを感じさせるまでの
展覧会である。
作られたものの説明が多く、その背景や時代感を感じさせる対比事項が弱いキューレーション。
https://www.momu.be

 LVMHアワードで特別賞をとった、N.Y.のkozaburoくんに会いました。
セントマから、TOMのところへ、そして独立。
なかなか、しっかりしたものつくりをしている精神性と美意識高い日本人でした。
今、TOMのところにいる福本ゆうくんと友達。なので、ゆうくんとも久しぶりの再会。
デザインをN.Y.で。ものつくりを日本で、ショールームをパリでという考えで
スタートし始めた彼。
今後の進展に興味あり。
ハンドクラフトとサイエンスクラフトのメチサージュ。
ハンドメイドクオリティとインダストリアルクオリティのバランスの良さが品よく仕立てられ
日本人には難しさである”エレガンス”があなたの美意識の高さによって
シンプルな美しさを構築されていました。
パリのモードの世界は”クチュールの世界”が根幹で成り立っています。
ですからこの街でのモードの究極の褒め言葉は”エレガンス”です。
どうしても、現代の日本人の美意識ではこの”エレガンス”が
間違った理解のされ方というよりは、身勝手な理解の上で表現されています。
”シンプルさ”で豪華な優美さをも表現できる世界なのですが、
”シンプルさ=貧弱さ”になってしまう分量のバランスさに問題があるのでしょう。
日本の”手仕事”の世界を生み出した美意識の多重構造”に自信と覚悟を持って
これから、ますます、お励みください。
ある意味で今の時代の”ヌーヴォー・ジャポニズム”です。
https://www.kozaburo.com

 Yプロジェクトがフランスの文化庁主催のAndamアワードを取ったそうですね。
僕はあまり好きではないデザイナー。
創造性において、新しさが感じられない。
所詮、”ブリコラージュ ドゥ アーカイブス”の世界でのお利口さん。
時代の風向きが味方したのでしょう。
http://andam.fr

 YUIMAくんが今季もいいコレクションを行なった。
どの様に良いかといえば、
「わかりやすく、見事に美しい”自分世界”をプレゼンテーションした。」
会場で流されたA.V.も大変親切に製作されていたので、
余計に彼の”SORCE OF THE CREATIONS”が丸わかりこれはこれで成功だろう。
が、僕が毎シーズン彼へ進言している「意匠登録」/COPYLIGHT」の申請が
まだなされていない。
この様な世界は、自分の思想的なこと以外ではやはり、自分の才能は自分で
守らなければならないだろう。
あの一生のプリーツでさえ、意匠登録を獲った為に彼の企業が救われたのであるから。
僕は唯馬くんは見事な「レゴ世代」を代表している、新しいクリエーターであると、
リスペクトして今後の彼の進化に興味を持っている。
彼がやっていることは見事に、世界に先駆けた発想で世界のモードに挑戦している
日本発の若者の一人であるからだ。
同じような海外で勉強してきました集団組とは大いに、一線が引けるまでの
志の高さを持っているから嬉しい。
http://www.yuimanakazato.com

 この街の新しさとしての”AFRICAN INFERENCE”。
じわじわと、過去へ戻ってゆこうとするパリ。
ケ・ブランディ美術館の「ピカソとアフリカンマスク展」
LVMH美術館での「アフリカンアート展」
それにラ・ヴィレットでの「ジャマイカ・レゲエ展」
僕は今シーズンのコレクションに現れてくると予測していた「AFRICAN LUXURY」
この兆しがこのような展覧会となってすでにこの街をあの時代へワープ。
1911年来、アフリカのプリミティフな世界がこのパリへ染み込み始める。
それらの”滲み”を新しさと感じられる世代たちの登場。
街のイミグレーターたちも第3世代へ。
豊かさを感じ始めるまでの、おしゃれとしての「ロコ・ファッション」が増え始めたこのパリ。
我が、CdG H.P.のコレクションが、まさに、”AFRICAN INFERENCE”そのもの。
海外のバイヤー達が言い始めた、
「このイメージングはロンドンチームがまとめたものだよね。」
アフリカの伊達男達、”サプール”と、ロンドンのストリーターズ達のイメージング・コラボ。
こんなクールなイメイジングは、流石!!CdG H.P.
あるいは、’68年に誕生した、R.ハミルトンの作品に現れた”POP”に見られる
アフリカンプリントの使い方。
そう、今シーズンのラギッドなトレンドとはこの”AFRICAN INFERENCE”。
そして、「AFRICAN LUXURY」あるいは、「BLACK LUXURY」が
これからのクールなトレンド。
http://www.quaibranly.fr/fr/
http://www.fondationlouisvuitton.fr/
http://www.citedelamusique.fr/francais/
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2017年07月13日 08:25 | comment and transrate this entry (0)

article(94)

SS18/ Paris Homme Collections-1;プロローグ;

 37度を超えた日中の最中に行われた初日。 
まるで、A.カミュの”異邦人”の冒頭を錯覚させるまでの酷暑のこの街、巴里。
 この最中、定例のメンズコレクションが始まったが、このファッションウイークそのものも
また、その内容もこの異常な暑さとは裏腹に盛り上がらなかった。
 パリ・サンディカ(組合)の人事が変わってからオーガナイズがラフで何かスッキリしない。
今シーズンのコレクションスケジュールの組み方もどこかおかしい。
参加メゾン数も減っている。ちなみに、ミラノのウイークも3日間になってしまったという。
 ここ3シーズン来、このメンズのファッションウイークそのものが様変わりし始めている。
男服に加え、女服もランウーでショーイングするメゾンが増えたこと。
考えられる要因は前回も書いたが、
「スケジュール+経費の節約+素材関係の早期ビジネス。」が主であろうが、
このファッションウイークの形態自体がまだ落ち着いていないのがざわつきの一つでもあろう。
 が、何か、”怪しさ”を感じる。
 穿った考えをすると、”LGBT"というジェンダーを意識してモードの世界の新たな領域を
狭軌ではあるが構築するためなのか?ここにデザインの面白さを求めるのは容易いからだ。 
 あるいは、もっと現実を読み込むと、現在の世界のファッションビジネスは
”ファスト・ファッション=SPA"の登場以後、確実にビジネスの量としての本流は彼らたちが
その主導権を握ってしまっている新たな”ユダヤ人ビジネス”の領域になってしまった結果。
 従って、当然彼らたちは情報としての”シーズン傾向”である、”素材・カラー・ディーテール・バランスそして、雰囲気”という必須情報はより、早くランウエーから知りたい、パクりたい。
それによっての工場投入期が変わってくるすなわち、”ビジネスチャンスが太く、長く、
リピート”が可能になる。ここには従来のメディアが成せなかった、情報の”スピード”化が
SNSという無数のファッショングルービーたちから直接に入手可能になった現実も加わっている。
 即ち、グローバリズム以降に構造化された、”ファスト・ファッション=SPA"タイプの
グローヴァル・ワールドワイド・ファッション産業(=ユダヤ産業)の儲けにつながるという
読みもできる。このために、今シーズンも変わらず”コラボ・コレクション”は全盛である。
 読み方を変えると、”ファスト・ファッション=SPAファッション産業”の拡大化のための、
”プレゼンテーション”そのものに、”プレタポルテ”のファッションウイークは様変わり始めた
”新構造”とも読めるであろう。しかし、この発想そのものは’70年代以降の当時、
”プレタ・ポルテ”がこの街で登場してきた時代と同様の構造でもある。
 上は、”ラグジュアリィー系”の定番商品から、日本では”セレクトショップ”系のオリジナルと称している商品はそのほとんどが”SPA構造”で生産されている現実である。
これを知るのは生産地を知れば理解できる。
 例えば、ブランドは巴里、生産は中国あるいはモロッコなど。
日本のセレクトで売られているそれらも同様で、そのほとんどが中国生産に委ねてしまって、
粗利を儲けるための構造でしかなく、”いい服”を作るという誠実さや真実は残念ながら、
ここにも見当たらない。

 世界規模では確実にこのような”ファスト・ファッション=SPAファッション産業”の
ビジネスは拡大しているのである。
 まず、素材関係業者が儲からなければこの世界は成立しないのが根幹であるからだ。
しかし、日本のファッション産業構造はこれを見逃して、
”製品”だけで儲けようとしているに過ぎない産業構造に堕落してしまっているのが
戦後の現実である。
 例えば、戦後日本の”アパレル・ファッション”とは、自分たちの身勝手な儲け主義のために
都合の良い、”粗利”がより、多い構造を構築して、”中抜き構造”化しただけである。
 従って、現在、もっともらしく言われている”日本の生産体制、素材屋さんと工場さん”の
衰退そのものはそんな彼らたち自身が導いて来た現実の一端でしかないことも熟知していない。
 ましてや、ファッションメディアや教育関係で”業界人顔”して、もっともらしい立ち居場所で
イキがっている輩が大半である”壁紙産業”でしかない。
 例えば、この現実を、”業界紙”と称するファッションメディアに関わっている人たちが
どれだけ、世界と日本の現実をバランスよく学習してその彼らたちの役割を
仕事としているのだろうか?
 日本に帰国するたびに感じる”憂”である。

 今シーズンはとても”ハッピー”なクールなコレクションをしたCDG H.P.が
このようなコレクションができる現実の可能性と凄さとは、
”生産業務”そのものの進化と凄さにある。
 この現実の”関係性”を彼らたちは30数年で構築されてきた信頼が、
”川久保玲”を生んでいる実態である。
 彼女が”やってみたい世界”を確実な”ガーメント”へ落とし込めるまでの
”素材”と”縫製技術”の確保とリアリティとクオリティがこのブランドの
本当の”凄さ”なのである。
 
 ファッションは産業である。したがって、”製品”が最後の全てを語る。
いくら、メディアを騒がすだけのデザインをしてもそれが”製品”に落とし込まれなければ、
次なる”継続”へ、可能性へ”は至らない。
ここには現実としての”納期と製品クオリティ”が必然となる世界であるからだ。
 このメゾンは未だに、素材も工場も”MADE IN JAPAN"に全てを委ねている
本当に珍しい貴重なる日本のファッション企業である。
 ここにこの企業の倫理観とその志が読める。
そして、その覚悟がシーズン毎のデザインにも現れてくる。
 展示会を訪れて最近、富にこの感想を強く持つのがこの”生産業務”の素晴らしさである。
このような時代性になると”表層のデザイン”は誰でもがそれなりのことができる、
”ブリコラージュ”の世界になってしまった。
 では、それを客が喜んでくれる”ガーメント”に誰が、どのような関係性の元に、
どのようなディレクションでなされるか? 
 この企業の”凄さ”には、ここにもう一人のCDGの顔がある、田中蕾さんの存在である。
変わらず、僕が好きなモードの世界でリスペクトしている人である。

 だが、最近のパリのラグジュアリィーと称されているメゾンで欠如し始めているのが
この従来からの”アトリエ”と”量産工場”の距離感への責任と倫理観である。
 ”マーク”だけで売れる、という思い上がり。
それを誰がリアリティへ落とし込み、ディレクションできるかの可能性に掛かっているからだ。
 ここに、不協和音が聞こえ始めていると感じる。
(ラフ君がD.社に捨てられたのもこの不協和音が根幹であった?)
合掌。
文責;ひらかわ/巴里にて;

投稿者 : editor | 2017年06月25日 16:38 | comment and transrate this entry (0)

greeting(41)

『無知が悪いのではなく、無知の自覚のないことが悪いのだ』

 『無知が悪いのではなく、無知の自覚のないことが悪いのだ』
(本書/#103、「新聞テレビは知能を破壊する。」より;)
 デザイナーさん、アーチストさん、先生、評論家と呼ばれていらっしゃる皆さん
そして、ファッション・ヤッピィーの皆様へ、
 3月に発刊されました、単行本「ニホンという滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」。
僕たちの国家、日本とその今後について、現実の日本の状況を
”201”の項目で簡潔、明解に見事に書き下ろされた本が出版されています。
 ぜひ、ご一読ください。
 僕が平常、こゝろ憂いている幾つかが確りとまとめて書かれてあります。
無論、これを読んでそのまま鵜呑みにするのではなく、
「知ってしまったことはもう”無知”ではないのですから、この知ってしまった事に対して
これからこの国で生きてゆく若い人たちや子供達へどのような事が出来るのか?
どのように対処及び、行為をするか?
自分たちが”安心・安全・快適に委ねることだけでいいのだろうか?」
 僕は読後、悲しくなってしまいました。「社会的な個人」としての立ち居場所からでは、
何が出来るか?

 *タイトル/「ニホンという滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」
”ーーー15歳から始める生き残ろための社会学”/響堂雪乃著
白馬社刊/ISBN978-4-907872-14-4/¥1620-
https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_2?__mk_ja_JP=カタカナ&url=search-alias%3Daps&field-keywords=日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ

 また、少し古い本ですが、
 『 13歳は二度あるか?ーーー「現在を生きる自分」を考える。』吉本隆明著;
大和書房刊;2005年9月発行:
 これも合わせて読んでいただけると尚、自分たちが、無知の自覚のなく、
”知らないことを知ったかぶり”をして表層のみで、不誠実に生きてしまって来たかが、
自覚できるでしょう。

 この本など、”13歳、14歳、15歳”の若い世代の人たちへ向けて書かれています。
僕も真剣に、長年の念いである「14歳のためのモード論」を書いてみたくなりました。
 表層の”ファッション・ファッシズム”によって屈折してしまった眼差し、
専門学校という無教養さを教える教育機関、あるいは、解ったふりして
”壁紙ファッション論”を弄んでいるだけの輩たちはもう終わっていますね。
 もっと、素直な、誠実で、楽しい簡潔なモード・根幹論が世界レベルで
これから、ファッションに興味を持ってこの世界へ近づきたいという若い世代のために
ポジティフに書ければ、書いてみたいというこゝろが現れてきました。
 
 僕と一緒に、「14歳のためのモード論」に興味を持って、
”あたらしい自由”さと共に、一緒にやってみたいと思う人を探しています。年代、性別不問。
 関心ある人は、ご一報ください。[taque.hirakawa@gmail.com]まで、宜しく。
合掌。
平成29年5月28日/平川武治:

投稿者 : editor | 2017年05月28日 19:16 | comment and transrate this entry (0)

article(94)

桑沢デザイン研究所/'17年度”昼間部+夜間部”全校生合同講義ノオト;

桑沢デザイン研究所/'17年 合同講義ノオト;
「”あたらしさ”を生み出すためには?」
文責/平川武治(モード・クリニュシュェ)

「我々はみんな携帯電話を内蔵した存在となったが、
そのことは現実生活とそのイメージの過剰接近や時間的/空間的隔たりの無力さを招き、
重大な混信状態という結果が生じている。」

J.ボードリヤール/「世界の自動記述」より:

PART-1; 現代という時代を深読みする。
 はじめに、「あたらしい自由」というこゝろの有り様、;
 僕がこのモードの世界に身を委ねてかれこれ40年が過ぎる。
大衆が「新しい創造」を願望するならば、まず、「あたらしい自由」というこゝろの有り様の
新陳代謝が必須であり、あるいは、「新しい社会」の誕生か、「新しい法律」の発令なども
関係してくる。
 決して、一人の思い上がりな行為やメディアの煽りだけでは「あらたな新しさ」は
生まれてこない現代という時代性がある。そして、「あたらしい不満」が当然、
こゝろの有り様に喚起しなければ、真の「あたらしい自由」は生まれない。
ここには現代の社会へ対する「カウンター・カルチャー」とはなんなのか?という問いがある。

 戦勝国アメリカは、’50年代にはもうすでに「ビートニック・ジェネレーションたち」
J.ケロアックやA.ギンズバーグ、W.バローたちが文学の世界で登場し、当時の”アメリカの
豊かさ”への「カウンター・カルチャー」の芽生えが始まり、昨年「ノーベル平和賞」を
受賞したB.ディランで代表される'60年代に登場したフォークソングからロック
そして、”ヒッピィー”と呼ばれた、当時の社会からドロップアウトしたコミューン集団たちが
思い感じ経験した当時のアメリカ社会と政治に対して彼らたちのピュアーな眼差しを
持ってこの「カウンター・カルチャー」と言う”反抗文化”なるものを路上に産み落とした。
これは当時の戦勝国「アメリカ合衆国」が”自由”を建前にした豊かな国家であったから
誕生したのが、「カウンター・カルチャー」であり、これが以後、60年以上は
いわゆる「若者文化」の根幹として継続されている。
 
 現代、「新しさ」を生み出すための「あらたな自由」は明日でも生まれえると言える、
今とはそんな不確実さの時代だからだ。
 この”不確実さ”や”不誠実さ”あるいは”不自由さ”に対してみなさんのような若者たちは
「あたらしい不満」を抱き、これに対してそれぞれが”憤り”を覚え、それなりの”行為”が
なされる可能性が現代ではあるのだろうか?
 しかし、この「あたらしい自由」による”憤り”がなければ「あたらしいモノ」は
生まれない。即ち、「あたらしい自由」によって、「コトのアヴァンギャルド」が生まれ、
そのコトによって、「モノのアヴァンギャルド」が芽生えその後、モノにデザインがなされて、
一般社会の生活環境にコミットされてゆく。この速度の速さ加減が”流行”を生む。
結果、日本の戦後の70年間とは、日本人の生真面目さと勤勉さと勘の良さや手の器用さ、
従順さによって見事な現在のような高度なる「大衆消費社会」構造を構築した。
よって、そこでは”モノの豊かさ”を追い求める日常生活と社会構造が発展し、
「モノの価値」を知り、「心の豊かさ」や「心の価値」を学ぶことが遅れてしまった
状況をも作り出した。この結果の所謂、”ツケ”が3世代目の若者たちに影響を
落とし始めているのだろうか?
 彼らたちは何かに、”憤り”を感じ、「あたらしい自由」さで、それなりの行為をなすことに
怠惰になった”マイルド”なのだろうか?
 
 僕は「他人とは違った、比べる対象のものを自らが勇気を持って持つ」ことが大切であり、
このために、”学びがあり、経験があり、旅があり、愛があり、出会いがあり、
好奇心が生まれ、自信も生まれ、知識を知り、自分以外の他者への想いが芽生える。”
と、僕の70年ほどの生き様から自分の「価値観」として大事に、考えて生きて来た人間です。
 日本のファッション産業そのものは変わらぬ体質然り、”壁紙産業”です。”右で売れたもの、
あっちで評判のもの”を「右から、左へ」の思い付きとその感度の良さとイメージングの
上手さだけで「日銭」を儲けて来た商売が日本のこれまでのファッションビジネスの歴史です。
 従って、この業界で漂っているいわゆる”業界人”たちの依然、カッコ付けたる年功序列な
”世間”でしかなく、僕にとっては囲われた自由の”村社会”でしかないのです。
 ここには「あたらしい自由」とは程遠い”世間”が漂っているだけで、「あたらしい自由」を
感じ得るために、「時から学び、時代性を読み込まない、勉強しない」業界人達の棲家は
ここ半世紀程、”壁紙”を張り替えるか、塗り替えるだけで”構造体”まで”リ・ビルド”されて
いないという現実でここまで来てしまったのでしょう。
 「ーそう、世界は”真実っぽさ”で溢れかえってしまっています。」/2005年S.コルベア(コメヂィアン)
 「The world is the wall-paper that looks like a truthiness.」
 
 ある時期から政治家が合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に変わって、
むやみに感情や「勘」に訴えるようになってきた現状を評したものです。
現代社会とはこの”真実っぽさ”に寄って全てが構築されてしまている。
最近の安倍内閣の現状もこのレベルで彼らたちの答弁そのものが既に” truthiness.” 
 そして、M.ムーアが発した、「これは終わりだが、始まりでもある」/
"However this ends, that's where we begin."

 このP.トランプ当選後の彼のこの発言では,何が”終わり”、何が”始まった”と
言うのでしょうか? 
 「近代」という時代の終焉とFAD,
 ここに来て、「近代」という時代が終わり、新たな時代が誕生するだろうという視点が
あります。昨年”ル・コルビジュェ”の作品群が世界遺産に登録されたこととは、
”近代”がもう既に、遺産になってしまったという視点が読めますね。
 皆さんの周りのより、現実的な世界を見ていただいて、何か、今までとは違った
”something new"な匂いや段取りの違い、気配などを感じ始めていませんか?
これは、FAD現象と言い、一時的な気まぐれな流行りのことであり、このFADは
トップトゥダウンするもので、ある少数特定集団が起こす癖の強いブームの発端です。
これに対してTRENDは一般大衆のうちで流行るものや現象をメディアが仕掛けたもので、
ボトムトゥアップという動きをする流行そのものを言います。
 実は、ファッションの世界の面白さとは理屈ではなく、この”ファッド”なリアリティを
路上で生み出せることがファッションのスピードであり、凄さと役割なのです。
 音の世界はこのファッドを直感によって最初に感じさせてくれるものであり、
ファッションはその感覚とリアリティをイメージングによってブリコラージュしたところで
生み出せる世界だから面白いのです。この現実の実例は、今では、insta.がまさにこの世界の
代表になっていますね。ファッションの種子はいつも”路上”に蒔かれ、”路上”で育ち
広がってゆくFADなものなのです。だから”街・スナ”がウケるのでしょう。
 
 現代は人と”繋がっても”そこにお互いが直感で直に繋がり合える”感動”がより、具体的に
必要な時代が来ています。彼らたちはPCでの繋がりに限界ともどかしさをやっと感じ始め
たからでしょうか?そしてここには、”便利”と”感動”は自ずから本質的に価値レベルが
違うことがわかり始めた若い大衆たちの誕生があります。
 彼らたちはこのようなファッドなリアリティの一片づつをブリコラージュしてゆけば、
”あたらしい自由”が得られ、”新しい何か”が始まることを触覚的に感じ始めたようです。
このリアリティこそが、僕は「近代」という時代の次なる自由を生む
時代のエッセンスだと感じ始めています。

「ナマ/live感」という”コトのアヴァンギャルド”が産む”Tactility/触覚”,
 時代はまた、「ナマ/live」感を必要とし始めました。
モノの新しさはそのほとんどが”バリエーション”の世界でしか有り得なくなり、
コトを興す事によって身体に直接感じる「ナマ/感」がMDされ始めています。
小劇場、ライヴ、フェス、ダンス、ラップとジョギングそれらに、習い事のヨガやストレッチや
ベリィー、フラなどいろいろな身体そのものから感じる「ナマ感」ですね。
それに”do sports"群。オリンピックを目標にしたアスリートたちが時代の表層になってしまう
時代性も手伝っています。この裏には、バーチュアルなエモーションではなくより、
直感できるナマな皮膚感覚の「エモーション」が激しく恋しくなり始めたということで、
ここでのキーワードは”Tactility/触覚”です。
 今までの過去においても「ナマ/live感」は当然、感動を得るための原手段でした。
そこへ、「ヴァーチュアル・リアリティ」という新たな仮想感動も知ってしまった現代人が、
オプションすべき、感じたい「感動」即ち、皮膚感覚としての”Tactility/触覚”を興奮させる
「ナマ/live感」とは?を感じ吟味することが大切な時代性なのでしょう。
ファッションの世界では、”皮膚感”に優しいという”機能”ある素材を使ったものが
ここ数年来のトレンドで有りすでに、「ヨガ・ファッション」や「アス・レジャー」という
ジャンルが生まれていますね。また、「”コトのMD”としてオケージョンでまとめられた
アイテム・ショップ展開」も増えている。
 従って、このようなFADなリアリティを”触覚”中心にして感じ取ることが現代社会では
かなり、重要な人間個々人の”感性の差異”でしょう。ここには”教養”と”感度ある感性”の
4Kが要求されるからです。ここでは”情報社会”に生きている現代人たちが持ち得た
”ヴァーチュアル・リアリティ”とそこに出現する”真実っぽさ”によって、
”センス オブ ヒューマン”が劣化してしまっているからです。
 すなわち、”時代と寝る”ためにはより、人間的なる「クオリティある繊細さ」を持って、
何を”オプション”するかが重要な時代です。
 このような時代は表層の豊かさのみが”液化現象”を起こし、全てが”真実っぽさ”における
”バリエーションの世界”になってしまったという視点も可能です。

PART-2;世界はどうなるのか?
 「Friendly Fascism」から「安心のファッシズム」へ;
 これからの世界とは確実に、小さな塊の、より強靭なコミュニティを羨望する各国の動きが
活発になるでしょう。すなわち、保守が進展すれば当然のように起き上がってくる
”愛国心”という怪物の登場です。この古き新しさでは、新たなバランスとしての
”ナショナル・アイデンティティ”と”ネイション・アイデンティティ”のセルフ・バランスが
問われる時代性になってゆくでしょう。グローバリズムによって、大きく固まった
その実態構造そのものが不誠実なものであること自体を知り始めた知恵ある諸国と諸民族は、
より確な”塊”へ揺れ戻しの始まりが起こる。
 例えば、英国もEU離脱をオプションし、他のEU諸国においてもそれぞれのネイション
アイデンティティが国別に強くなり始めるでしょう。
 極論ですが、トランプ政権下の合衆国ではもしかしたら”州”が個別にインデペンデントな
構造体になり始める可能性もありますね。
 グローバリズムによって、国/ガヴァメントと企業/ビッグ・ビジネスという”複合企業体”が
地球規模でそれぞれの産業において、それなりの企業形態を成立させてしまったのが
20世紀の最後の役割だったのです。
 ここで参考にするのが、すでに40年は経過してしまっている1980年、
アメリカで出版された「Friendly Fascism」という本です。
(これは、今回のトランプ選挙陣営のネタ本の一部です。)
 「Friendly Fascism」とは、;(
参照/翻訳版「笑顔のファッシズム上・下」B.グロス著;日本放送出版協会刊)
 『新しい独裁政治がアメリカ全土にゆっくりと忍び寄っている。”政府と企業の複合体”が
何十年もかかって、次第に形成され、その複合体の司令部には顔のない独裁者が
座り込んでいるのだ。彼らは自らの権力と特権を拡大しようとして、組織や個人のために
なりふり構わず利益を追求している。さらに、広い意味では、経済的操作や情報活動、
あるいは軍事的侵略による、世界各地における国際政治への介入の拡大等も、
そういう独裁者たちの利益追及の結果生じてくることなのだ。
 こういった自体の全てがすでに、世界的な規模で軍拡を煽り、核兵器及び通常兵器という
殺人のための機械の備蓄を増大させているのだ。(これは現在の安倍内閣以後の日本における
”政治と企業の複合体化”から軍事防衛費予算がだんトツに増大し、戦後以降、具体的なる
今後の”軍産複合体”構造を構築しはじめている現実にも現れている。/筆者)
 アメリカはまず、”軍産複合体”の手に権力が握られ続いて、この複合体に類似したものが
多数存在してしまっているのが現実です。そしてこれらの構造体は”多国籍企業体”構造を
持ってより複雑な存在価値を構造化してしまっている。 
 原子力複合体、科学=工業技術複合体、石油=自動車産業=高速道路複合体、
銀行=証券会社=住宅産業複合体、都市計画=開発産業=不動産業複合体、農産物生産及び、
加工と農機具・肥料・飼料の製造販売までも含まれる農業関連産業複合体そして現在では、
IT=モバイル産業=情報産業=メディア産業複合体などなど。
 これらの複合体に実際の企業名を当てはめればその実態が見える。
彼らたちは公然と貢献したり、秘密裏に援助の手を差し伸べたりして、その経済的基盤や
それを育む環境を備えている公共機関や大学が加わり、これらが複雑に絡み合ってさらに
巨大な複合体を形成しているのが現代の社会構造であり、こういう色々な複合体と同様に
重要なのが、顕在化しているビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携であり、
この現実が今では世界のいたるところで見られ、その根幹は巨大な超国籍企業と様々な
多国籍複合体にある。ここに、新しい独裁主義を成立させている。”新しいファッシズム”は
その国の伝統や文化遺産によって違った色合いを浴びて現れるだろうし、人種構成や宗教の
構成、政治機構、地政学的環境などによってそれぞれが違った様相を呈する。』
 これらが世界にまたがる”自由主義諸国”を一つにまとめ上げたのが21世紀の
”グローバリズム”の根幹です。
 そして、もう一つ、現代日本のファッシズム、「安心のファッシズム」とは?;
 では、日本的な視点でこの現代という時代性を新たな視点で捉え、考えてみると、
僕が、「家で、みんなで安心・安全・快適」というコンセプトを初めて使い始めたのが
90年代も終わりに近い頃で、”保守の中庸化”の兆しが射し始めた頃でした。
 当時、”ヤンキー”と呼ばれていた若者がそれぞれの実家へ”パラサイト”し始め、
彼らたちが”マイルド・ヤンキー”と呼ばれ、”地元”での実家生活が
「家で、みんなで安心・安全・快適」へ向かい始めた。
 また、当時のファッションのコンセプトが”WAPPING"から"PROTECTION"へ
変革し始めた時期でもあり、例えば、世間ではそれまでタブーの一つであった自らの身体に
傷をつける、”tatoo”がクールになりfadな流行となり始める。そして、ファッションは
”ラッピング”から、着る人間の身体と心を「安心・安全・快適」に
”プロテクト”し始めた頃でした。
 その後、インターネットの普及化とケイタイがより多重・多機能化し”スイカ”カードが
生まれ今のような平成の「安心・安全そして、スイスイ」社会へ発展進化し、
日本社会の現実である「安心のファッシズム」構造が構築され始めました。
この平成の「安心・安全そして、スイスイ」ボケの現代社会を切った本に、
「安心のファッシズム」という本があります。
(参考;「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;)
 現在ではこのコンセプトはすでに常識になってしまっていますが、
当時はフード付きの”被り物”はまだ限定されていて、ブラックのストリート・キッズから
発生し、グラフィティとラップによって”プロパガンダ”されそして、流行によって”クール”に
なり、今では当たり前の一つの”生活衣料品”になっている。これがまさに”サブ・カルと
ファッションの液化現象”です。日本のお笑いの世界も、”シソンヌ”のギャグ・コントのネタが
現在の”spa"型のショップの現実をパロディっているというまでの”SPA"ファッションの
”液化現象”も見られます。
 
 考えてみると、「誠実に生きる、真面目に生きる、真剣に生きる」等とは、これらは全て、
与えられた”自分の生”に対しての、自分の自由な生き方への詞です。これらを放棄さえすれば、
みんなと一緒になれば、その社会の人間たちは誰でもが、「みんな、安心・安全そして快適に
スイスイ」と生きてゆけますよ!という社会構造の構築とアプリ等の科学技術の開発によって
素早く現実に至った現代日本社会です。
 ケータイがなければ何もできない、電車にも乗れない、街も歩けない、学校へも行けない、
そして、”みんなと一緒に”世間”で”暮らしてゆけない社会の構築。
 この与えられた、巨大なシステムに操られることが苦痛にならずむしろ、心地よく便利に
スマートに生きて行けると感じさせる時代性がここに、見事に構築されてしまいました。
 これは、物事の根幹を知らなかったら、”知性”や”教養”に関係なく全てに飼いならされて
しまうという時代性とも読めるのです。これが現代日本の「安心のファッシズム」の由来です。
ここには現実としての、「一台のケイタイ電話+各種アプリ+1枚のプリペイドカード
+クレジットカード+キャッシュカード+各種会員カード+マイレージ各種クーポンサービス
+社員証+マンションキー+スイカ等の交通機関乗車券などなど、」
=安心、安全そして、スイスイ快適生活=「安心のファッシズム」という
現代日本社会構造のマニュアルが出来上がってしまっています。
(参照/日経新聞/2004年5月20日付け。)この構造を起業化したのが、
「フィリカネットワークス」という2004年に設立した企業です。ある意味では
たった”1枚のカード”に不動産価値構造を構築し、ケイタイを生身の人間を”ハブ”機能と
させれば”スイスイ・快適”が日常化するという「安心のファッシズム」の発想であり、
これも”グローヴァリズム”以降に打ち上げられたサテライト衛星がもたらした
”新しいフツー”でしょう。
(参考/フィリカネットワークス”=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立:http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html)
 ここでは、地上のすべてがマーケッターたちの”ゲーム版”上と化してしまっています。
「動く商圏」を構成する「息する財布」としか、認識されなくなってしまった人間たち。
大衆達は「操舵の術」としての”マイカード”と繋がるための”ケイタイ”によって、
現代人の肉体そのものをコントロールされていても違和感を感じないように飼い慣らされて
しまっています。ここでは、便宜さ、便利さや煩わしさののために人間が人間らしく生きてゆく
ための何かを代償としてこのような「安心のファッシズム」を選んだのが
現代日本人の99%でしょう。
 ここには、”みんながしているから、”という価値判断に委ねられた世界でしかありません。
これらはすべて、「大国の軍事衛星」を経由して、GPS機能を利用し流される彼らたちの
”都合”に操作されているという”根幹”は果たして、どれだけの利用者たちが認識した上での
”スイスイ効果”なのでしょうか?GOOGLEの大手得意先はNASAでありUSガバメント系です。
ここでは、「自由に生きる」ことそのものが変質、変革され”操作”されてしまっているのです。
現在のサテライト数は世界では76個が打ち上げられています。
(アメリカ32、ロシア24それに、中国16,それにEUが4。この現実が現在の世界の
”発言力”を持っている巨大国家とされています。)
 
 ここで問う、”ファッシズム”とは?本質的に、ファジーな曖昧なものの塊を言います。
全ての根拠が”曖昧さ”で始まっている現代のキーワード、「真実っぽさ/truthiness」の世界
そのものであり、自由でないことの”幸福感”が芽生え始め、支配されたがる人間が主人公/
ヒーローでありる世界。
 そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている都合の良い自由の不自由な社会。
しかし、この世界を誰が作り始めたのでしょうか?そして、どんな人たちが我れ先にと
その世界へ駆け込んだのでしょうか?ここに、ビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの
提携連帯で築かれ作られた”複合体”社会の真意があり、「使われ慣れした、使われやすい、
飼いならされたい”イイヒト”たち」の登場いわゆる、”世間にお利口さん”な世代たちが
登場し、そして、ご主人様になる。
 今年になってより、表層のメディアを騒がせ始めた、”A/I"の登場があります。
”新・移民法”の制定と重なって、今後の「少子高齢化社会」発展という日本の
”新しいフツー”のためのシナリオの読み合わせも始まった。
 そんな僕たちの国の現代社会の表層は更に、ただ、「真実っぽさ」が。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」

PART-3;「ファッションの世界」では、
 「安心のファッシズム」と「ファッションの新しさとは?」;
 このような現代社会「安心のファッシズム」下のここ10数年間に現代の日本の
ファッション産業がどれだけ「新しいフツー」を進化させてきたのだろうか?
今の時代における「一番、あたらしいとは?」もちろん、「あたらしい自由」と
そこから培った「文化度あるスキル」を携えて鮮度高き時代を読むことである。
その一つは当然、見たこともない、目新しさとしての「先端」を「JUST NEW」で創造する
ことであり、もう一つの「あたらしさ」とは「最後尾」に位置することでの
「OLDEST NEW」を見つけることのの2つ。その他はすべて”中途半端”でしかない「SOMETHING NEW」で提案するバリエーションの世界です。
 ここには、「先頭か、ビリか」のみが新しさを生む立ち居場所である。
しかし、ほとんどのアパレルのMD担当者たちは自分たちで、感度高く”リアリティ”を
読み込むことができない不勉強があるために結局、彼らたちがオプションするのは
”右で売れたもの、あっちで評判のもの”を「右から、左へ」の「中途半端な新しさ」に
なってしまう。その結果、店頭では「どこでもドアならぬ、どこでも同じ」になり、
”パクって、勝負”という立ち居場所が日本のアパレル産業の特徴となり、それによって
「日銭が稼げる」という貧しさであり、この根幹ゆえ国家がバックアップするまでの
「複合産業構造態」には40年を経ても、日本のファッション産業はもなれない。
その結果が、今では”ホールディング企業が行なっている流行りの「マネーゲーム」の格好の
”コマ”の一つでしか無くなっているのがもう一つの日本の現代アパレル産業の淋しい現実
なのです。
 ファッションビジネスの新しさには、僕のようなものから見ると、”e-コマース”と
そこへ辿り着くまでの”情報発信”としてのアプリ、サイト、ブログ、snsそして、
インスタなどは当然、デジタル技術革新によってもたらされた新しいファッションビジネスの
情報源であり手法であり当然の新しさです。しかし、それ以外、商売の根幹はほとんど、
40年前と変わっていません。例えば、このファッション企業の人たちは未だに、
”FAX”を実務上使用しています。

 むしろ、「安心のファッシズム」で飼いならされ始めた”人間の退化”によって、
チャレンジしない、人が考えつかないことは考えない、自分のことで精一杯、
楽な方がいい人間たちの仕事そのものも”退化”してしまっているかもしれません。
 そこで、今後のファッションの世界の革新を考えると結論は、”ファッションのe-コマースと
その周辺環境が出来ないこととはなんなのだろうか?”という視点でしかありません。
どの様な「文化度」と「感度」で人間的なる自覚の元に顧客を想い、オプションし
チャレンジしてゆくか?を考え、話し合い、実践してゆく”古き手法”に尽きるのが
一案でしょう。
 なぜならば、ファッションとはデザインのカテゴリィーでありリアルな”世間”へどのように
”コミット”するかが倫理上においても問われなければならないリアル・ビジネスの世界だから
です。
 ここでは「ナマ感」マーチャンダイジングとでも呼ぶ発想で、例ば、”MD"や"VMD"などの
ルーチーン仕事をこの眼差しで見直す必要も、「もう一つの新しさ」に気づく発端に
成り得るでしょう。
 例えば、「ファッションが与えれくれるハッピィネスとは?」の根幹を考えることも
ありでしょう。もう、自分たちの商品という”モノ”だけを売っていても顧客たちは
当然ですが、当たり前になりすぎて「ファッションが与えれくれるハッピィネス」を
感じなくなって来ています。
 ”モノ+コト”の複合関係における相乗関係を「文化度」と「感度」によって、
具体的に考えることも一案でしょう。当然、彼ら顧客たちが購入したいモノとは、
「あの人と同じ」「みんなと一緒のもの」という「安心のファッシズム」下における
”ユニフォーミズム”の消費行動でしかなく、それらの”モノ”はもしかしたら、
ネット上も含めて、どこにでも既に在り、売られている”モノ”でしかないというまでの
”液化現象”がここにも観ることができます。
 
 「安心のファッシズム」における”繋がる”=”閉じ込められる”装置としてのインターネット、
ケイタイ、スイカ、SNS他が生み出す世界とは"ヴァーチャル・リアリティ”と
”ヴァーチュアル・イメージ”現象でしかありません。これらを使うことで”モノを買う”という
e-コマースの世界はある意味で、世界規模の各種の「ユニフォーミズム」にとっての
自動販売機です。
 が、そろそろ、この世界の限界も見え始めてきました。
例えば、”デリヴァリィー・プロブラム”あがあり、このIT環境をそれなりの資金を使って
アプリやサイトを構築すればあとは”スイスイ”が定番になってしまった現代の液化現象。
このような日常になってしまったリアリティにおいては、「ファッションを売る」ためには
どのようなナマでしか体感出来ない「ナマ感」現象が考えられるか?
 結局、「人間を喜ばすには人間にしか出来ないソフト」というアナログ発想です。
ショップへわざわざ行って”服”を買うことの楽しみ、喜びそして緊張感や見られることの
快感そして、気に入っている販売員さんとおしゃれな会話をする等など。
 これら従来の「ファッションを売る」という世界では当たり前だった諸「ナマ感」効果が
無くなり始め、ショップへ行って買う行為からの”エモーション”そのものも消え始める。
この「ナマ感」が与える”エモーション”とは?の復活でしょう。
 
 「安心のファッシズム」社会における顧客たちの欲求とは?そして、”ストレス”とは?
あるいは潜在的に欲求している”コトのアヴァンギャルド”とはなんなのだろうか?
ここには 何にに手間暇をかけ、自分たちの手が届く”感動”とは何なのだろうか?
というダイレクトな視点が必要でしょう。
 この「ヴァーチャル⇨リアリティ」化されてしまっている”世間”というコミュニティへ
何を差し出せば”わざわざ感”を”エモーション”へ変換できるのでしょうか?
ここに、今時代が望んでいる関係性のための、”ナマ感”で通じ合える”喜びとプライド”が
あります。
 ”妄想”あるいは、”真実っぽさ”の日常性。;
 それを生み出す現実の、”繋がる”=”閉じ込められる”装置否、”檻/安心フレーム”の中でしか
感じられない「安心・安全そして、スイスイ快適」ボケは完全な一種のファッシズム構造で
あり、その中での関係性とは、「集団と個人の関係性」がメインであり、
個人による「自己確認」という行為も当然ですが、他者を介さないと確認できない
「個人と個人の関係性」であり、まさに、”世間”はその中で可能なヴァーチャルな関係に
漂っているだけでしょう。
 では、「個人と個人の関係性」では、”そこに居た”というまでの実存感から生まれる、
”ナマ感”が望まれ、ここでしか感じられない一回限りの”エモーション/感動・感激”を
どのようにファッションをデザインしたりあるいはファッションを売る際に心するか?
の発想もこれからのファッションビジネスには大切な要因になるでしょう。
 例えば、今、若者たちに人気のラッパーたちが吐き出す”コトバ/詞”は彼らたちの
リアリティから吐き出されたもの。その”ナマ感”が感じられるもの程ウケるのが今の音の世界。
当然、そこから発せられる”エモーション”によって身体は奮い、動き始める、これがダンスの
世界。したがって、若い世代の今におけるファッション・イメージングに於ける
”ソース オブ ザ クリエーション”はやはり「BLACK」の世界観へより近づいてしまっていますね。
(参考/「TV番組/「フリースタイル・ダンジョン」https://ja.wikipedia.org/wiki/フリースタイルダンジョン)

PART-4;「新しいまなざし」
 ファッションはもう”ユニフォーム”になってしまったという視点。
 「自由に生きたいために求める自由。与えられた檻の中で求める自由あるいは、
満喫する自由。」 
 ここにも、”タマゴが先か、ニワトリが先か、”の世界がありますね。
 僕がファッションが好きで、この世界に40年も関わっているのは、
「ファッションとは、自由の裁量である」という僕なりの視点とファッションに抱く
価値観が存在しているからです。
 しかし、現在のファッションとは、”人と同じものを着たい。
同じ世界に生きたいから、”というベクトルに、いつの間にかその世界と価値観が
変化してしまっています。
 「自分らしく自由に生きたいために求める。
あるいは、自由に生きたいためにはどのようなものが着たいか?」から、
「与えられた自由の中でのみんなと同じ自由さを満喫するためのファッション」に
変化してしまった現在。ここにも「自己確認」作業のための”ユニフォーム”ですね。
 ここで見えて来るそのファッションとは、”ユニフォーム”でしかありません。
例えば、”マイルド・ヤンキー”たちのユニフォームや、彼らたちの”パラサイト・自立”化に
よって生まれ構成し始めた「平成のニューファミリィ」たちのユニフォーム。

 ここで、皆さんは少し前に放映されていた「UNIQLOの広告コピー/Life Wear Stories/
新たな日常着の追及」をどのように考えていらっしゃるのだろうか?
 「私たちはなぜ服を着るのだろう。正解はひとつじゃない。生活をよくするための服を
つくろうと、私たちは問い続ける。」
 案外、ここに現在のファッションビジネスが迎えてしまっている”液化現象”の根幹が
見えるように思うのです。 
 今、日本のファッション産業が迎えてしまっている「売れにくくなってきた。」
「ファッションを売ることとは?」などの現状に向かってこの”UNIQLOの広告コピー”を
真剣に考えると、もう一つ、”ファッション”という言葉がより、拡張された”液化現象”状態を
示唆したものであり、その現実世界のリアリティある”生活様式”へコミットする世界があり、
もう一つは彼らたちの「文化度」と「美意識」を探るまでの”ユニフォーム感覚”を
新たなファッション感覚としてこの”液化現象”へオプションすること。
 この2つの発想に、どれだけ対峙したそれぞれの立ち居場所を持つか?
ここにこれからの「あたらしい自由」の根幹があるでしょう。
 「安心のファッシズム」における”UNIQLOイズム”とは、自分たちの”塊”においての
”液化現象”、「みんなといっしょになりたい」というまでの「シン・”衣料品”=CLOSING
+オシャレ感=ファッショナブルなUNIFORMIZM」という図式が知らぬ間に
主流になっているのが現代でしょう。
 例えば、前出のすっかり表層からは姿を消したような”マイルド・ヤンキー”たちも、
液化現象として”パラサイト・家族”している。
 そんな”マイルド・ヤンキーシン・ファミリィー”の「ユニフォーム」ブランドが今は
市場でも主流になり、激戦化していますね。
(SPA系ブランドのファミリィーブランド化、UNIQLOやGLOBAL WORKなど、、、)

PART-5;自分たちの「ブランド・ファッションを作る」とは?
 ファッション・ディレクターの役割とは?;
 もう一つの「あたらしい自由」のためにファッションの関係者たちが考えるべきこととは、
今後の”ブランド・ビジネス”においては、そのブランドが持ちそして、創造し提案すべき
「ブランドの世界観」が大切な「ブランドを創る」ことの根幹になる。
 ここでは今まで、クリエーションだと思い違いをしていた、自己顕示欲のための表層の
ディーテールにおける形骸的なデザインだけではもう、誤魔化すことは出来ない。
この世界は20年ほど前に既に、終わってしまった。
 即ち、「ブランドを創り、売る」とは、ブランドをディレクションしているディレクターや
企画メンバーたちが生み出す「世界観」を構築し、イメージングして売ることが
現代ファッションビジネス必須の根幹。そのためには、ブランドの”文化度”が必需となる。
これを育成してゆくためには、”文化力”+”感度”+”妄想力”によるブリコラージュ的な
創造性が必要になる。ブランドビジネスとは、このブランドの「文化度」によってブランド・
マークをクリエーションし、インデペンデント化することでしかない。
 従来型のファッション流クリエーションビジネス即ち、世界のトレンド情報を主軸とした
”右と同じ”あるいは、”同じらしく”または”パクる”というプロセスだけだでは
継続が至難になろう。
 あるいは、売りたい顧客たちのための「ユニフォーム/ユニフォーミズム」に特化した
「文化度」レベルのブランドに成り下がることでしかないでしょう。
 あのUNIQLOの立ち居場所は自らが質も量もここに”特化”したことによって成功に
至ったのですから。
 では、「文化度」とは?「ブランドの文化力」とは?;
 これは世間で問われる”ブランドアイデンティティ”へ繫がる視点の再認識ですが、
まずは、誰とファッション・キャッチボールがしたいのか?が
この問いの始まりになるでしょう。
 「それぞれのブランドが、どのような女性たちへ向けて発信されているか?
そのそれぞれの女性たちがどのような時代に、どのような考えを持って、
どのような生き方を望んでいるのか?あるいはしている女性たちなのか?」
という視点とその情報を「ユニフォーミズム」発想で認識すること。
 次には、それらの情報量をブランドの作り手たちによってどれだけ確りとした考えと
念いを馳せるか?言い換えれば、ブランドの作り手たちがどのような価値観や時代観そして、
美意識を持って実社会と関わり、作り手自らも、”リアリティ”を持って生活しているか?
というまでのパーソナルな教養とスキルと経験と美意識が当然、根幹となる。
 その上で、「ブランドの文化力」とは、どのような”生活者ユニフォーム”を必要としている
女性をターゲットにしたブランドなのか?その時のターゲットの女性像とは?
その時の時代観とは?その女性たちにどのように着て欲しいか?
そのために顧客たちの女性へどのようなブランドとしての”美意識”と”ステートメント”を
差し出せられるか?
 ここで、僕がいつも発言している、”May I help you?"というこゝろの有り様で、
社会にコミットできるまでのブランドであるか? ないか?
それが「ブランドの文化力」になる。
 これらを実際にブランドに携わっている人たちが感じ、考えそれぞれの共通言語を持って
日常の仕事に携わっているか?そのためのブランドとしての”心”と”眼差し”を持っているか? 
 このような「ブランドの文化力」を向上させ「文化度」をつけるにはブランド全体の
共通言語が存在するか?そのボキャブラリィーでコミュニケーションが取れるチームワークが
出来上がっているかが全てでしょう。
 「文化力」とは、個人的内面の発見であり、自分自身を、自分の生き方を、認識と感性を
改造するという発見なので、「文化度」を豊かに育成させるための自心の ”土壌”に
こゝろ有る世話を忘れないでしてあげてください。
 いまや僕らの住む世界は、画一的な「ノーブラウ(愚か者)」たちを標的にした
「安心のファッシズム」が生み出した”どこでもドア”的なる巨大商業主義の世界でしかなのです。 
 そこで、「何を作ろうかよりは、何を着てもらえるか?」;
 新たなファッションゲームにはこの視点が鋭くそのための関係性と諸情報とその情報処理に
おいて、知的で美意識高ければより、勝者に近づく。
 現在の巴里発の「ラグジュアリィーブランド」ビジネスのその根幹はすでに「SPA」型
ファッションビジネス構造である。そのビジネスの根幹は「ラグジュアリィーブランド・
ビジネス」と「ファストファション・ビジネス」は同類である。違うことは、[イメージング
+広告戦略+VMD+ブランドエクイティ=贅沢な「ラグジュアリィーブランド」]という
差異で、顧客を揺すぶっている現実でしかない。
 これらを誰が統括的にディレクションが出来るかが、この新しいファッションゲームを
担っているゲーマーたちの役割でありそれが、「ファッション・ディレクター」の登場であった。
 再び、「女性たちが経済的・政治力を発揮し始めた時期だ。ところが彼女たちが着る服が
市場にあるの?!」という時代が到来した。ここで、新たなる女性たちのユニフォームが
必要になり始める。
 彼女たちへ与えるべき3つの特徴、「見栄えのよさ、ウィット、センスの良さ」を
働く女性たちはいつも欲している。ここに、「ブランドの文化力」が秘められていることも
認識しておく必要があろう。
 或いは、従来のデザイナーがなすべき仕事を工場に委ねそして、
新たなブランドチームとしての構成を考えることも「ブランドの文化力」の育成化に
つながるだろう。
 現在のファッションビジネスにおけるアトリエ構造は「F.D+M.D.+生産企画+生産管理」
+営業力+e-マーケッター+S.P.+A.D.+プレス=新しいチーム。という公式になった。
 ”あたらしい自由:が生み出す、「あたらしいフツー」;
 今後のファッションにはどのような”ポジティフな新しいクリエイティヴィティ”が
可能なのだろうか?
 このような時代観と”世間”のリアリティを考察し読み込んだ上、今後のファッションには
どのような可能性が考えられるのだろうか。
 ファッションデザインは如何様にして、”世間”に「あたらしさ」をコミットさせるか?
するか?或いは出来得るか?これが産業と結びついているので、難しい世界である。
 例えば、個人の思い付きだけで”アート”ぶっている間はまだ本質的に”デザイン“は
為されていないか、熟されていない。ファッション・ガーメントを作り出して、
社会にコミットさせることでデザインの創造性が完結する世界である。
 従って、「時代を感じさせる良いクリエーションは良いビジネスを生む」を信じることが
必要である。この”時代を感じさせる”というところにそれぞれの”新しさ”があり、
そのための"あたらしい自由”さを感じさせられるか?がデザインクリエーションの
全てであろう。
 
 20世紀から21世紀に入って、PCが新たな機器になり、大いにこれを利用した
ビジネスがこのファッション界でも進化した。が、ファッション・クリエーションの世界では
どうであろうか?
 「ファッション=人間が着る」という公式が変わらないために、その可能性がどんどん
”素材ありき”の世界へ、それらの素材にどのような後加工が出来るかという新たな可能性も
含めたところへ追い込まれてしまったのが現在の”ファッション・クリエーションの新しさ”の
世界であり、ここへ”ネタ元”として、割って入り込んできたのが、
”ARCHIVE"という世界である。
 3年前に僕が提言した、現在のファッションにおけるクリエティビティとは、
既に、”ヴァリエーション オブ アーカイブ”あるいは”ブリコラージュ ドゥ アーカイヴス”が
根幹になってしまった。
 巴里のこの世界を見ていると、”アーカイヴ”を知らな過ぎるあるいは、”モードの歴史”を
知らない若者たちが、より、知らないブロガーたちを騙している世界でしかない。
 例えば、VETMONTなどのデザインはこの世界でしかない。
 ここで、「人間が着ることがファッションの世界。」という根幹から離れることが
できなければ、決して、新しいものは生まれ得ない。
 ここが「あたらしい自由」なる発想である。
着る人間の体つきが変わらない限り、ファッションにおけるクリアティビティは今後も
ますます、”ヴァリエーション オブ アーカイブ”の世界であろう。
 「今後のファッションにおける新しさ」とは2つのコンセプト;
 ここで共通することは、その新しさは全て、新しい素材とその後加工方法によって
「あたらしい自由」が”商品”化されて、社会に新たなコミットすることである。
すなわち、「新しいフツー」あるいは「次のフツー」の提案である。

 一つは、僕が3年前に発言してきた、”WITHOUT SEWING"の世界。
「今更、糸と針とミシンによって作る服」というのが古いというコンセプトで生まれた
”WITHOUT SEWING"の世界。
 ファッションの世界がより「プロテクション」というコンセプトへ”進化”(?)する
この時代性にあって、そのオリジナルは日本の戦国武将たちが装着していた『甲冑」がある。
 現実に、ここにあたらしい”機器”としての”3Dプリンター”が使われその世界がより、
ポジティフな可能性が生まれ、この立ち居場所で活躍し始めたクリエーターたちが誕生している。
 例えば、”CdG ・ノアール”や”中里唯馬”の存在も確実に「あたらしい自由」のもとでの
彼ら自身の世界を作り出している。彼らは”レゴ世代”である。
 そこに、PCを製作機器として使い込むことで彼らの世界観により、美しさと新しさが
すなわち、”スキル”と”美意識”が見事にメチサージュされている。
 PCを使ってこの”WITHOUT SEWING"の世界を探してみると、素晴らしい美の世界へ
挑戦している創造者たちが多く現れていることも知ることができる。
 今後のファッションの立ち居馬車そのものが一つは”ユニフォーム”であり、
もう一つは”コスチューム”という両極端へこれも”進化”(?)してゆく社会性からも、
この”WITHOUT SEWING"の世界は確実に、新たな”ステージコスチューム”から始まり、
2050年までには新たな”ユニフォーム”になるであろう。
 
 ここでは「服を着る」という概念を変えることからこの「あたらしい自由」が始まる。
すなわち、新しい生活あるいは、”新しいフツー”のための共通言語としての
「ボキャブラリィー」を見つけ出すことから始まる。
「着る」という行為から「装着する」というコンテンツで今後のファッションがポジティフな
可能性を持つことができる。ここで大きく変革することは、服で全身を覆い隠すという、
「着る」という行為から、自分が隠したいところすなわち、プロテクトしたいところ
あるいは、見せたいところに「装着する」という新たしいコンテンツを考えれば、
”WITHOUT SEWING"の世界がもう一つのファッションの世界になる。
 実際に3Dプリンターを使っての作品を発表しているオランダのIRISの場合も6つ割りにした
パーツを「装着」させているのだ。従って、この3Dプリンターでの作品例が比較的多い
「シューズ」もここでは「装着」するというコンテンツで履くことになっている。
 昨年の「パラリンピック」を見ていても「ファッションの新しさ」への大きなヒントが
あったのを思い出そう。ここでは身体の一部としての「装着」する世界で競い合っていた。
ここには貪欲な”人間そのものの現れ”としての”強者”の世界でしかなかったことに驚く。
 
 「今後の新しいファッション」を論じるならば、「あたらしい自由」を確認し、
その上で、新たな「ボキャブラリィー」を見つけ出さなければ”新しさ”が生まれる確率は
極低する。
 もう、この現状況でのファッションの世界における”クリアティビティ”は全て、
「ヴァリエーション オブ アーカイブ」でしかありえない。
が、この現状を救うことができるのは「新しい素材」とそれらへの”後加工”に
委ねることでしかない。
 「新しい素材」あるいは、「使われることがなかった素材」を使うこと。
ここには当然、”縫えるか縫えないものか”の根幹が示唆されることによる
「新しさ」の可能性である。
ここにも”WITHOUT SEWING"というコンセプトが浮かび上がる。
 
 では、もう一つの新しさとは、
 これは実に面白いコンセプトのファッションの世界が訪れる可能性がある。
これも、「新たなユニフォーミズム」からの”裏”の発想である。
 もともと、ファッションとは「自身の存在を着る物」によってより、顕著に自己を
表現するために始まったものである。すなわち、”自己のアイデンティティ”を明確にさせ、
確立させそれを自己の表層のコードと化するためのものであったということを思い出そう。
 身分や地位そして育ちなど、諸々の社会で生きてゆくために必要な社会的な”コード”が
現在までのファッションの世界の進化論である。
 しかし、ここで、もう一つの「あたらしい自由」さでこの現実の”世間”を見てみると、
”時代のリアリティ”の一つに、「個人の自由」が街中に張り巡らされてしまっている
監視カメラや携帯やPCによってそう、「安心のファッシズム」状況下、知らぬ間に
「個人の自由」は犯さててしまっている。
 また、昨年の日本は芸能界のスキャンダルが多発化した年でもあったが、
このような状況は今後、個人の生活をも脅かすまでのここでも、”進化”(?)があろう。
そんな新しい時代性を想像しそこからのファッションへのもう一つの
”新しいボキャブラリィー”とは、真逆な発想である、「自分を消去するためのファッション」
すなわち、「カモ・ファッション」である。これは今後の新しい世代たちの一つの
「カウンター・カルチャー」になろう。”世間”で生きてゆくにも”カモフラージュ”によって
身を隠さなければならなくなるまでの”不自由”という「安心のファッシズム」時代への提言。
 しかし、この根幹はすでにユニフォームの一つである、”ミリタリィー”の世界で
当たり前になっている、”カモフラージュ”というコンテンツである。
 この世界の進化は軍需用としてそれ相当の進化をもたらした世界が現存している。
これを日常の”世間”に持ってくることの発想も、そんなに遠いものではなさそうである。
そして、”着ぐるみ”というファッションもこのカテゴリィーとして
「あたらしいフツー」になるであろう。

 『プライバシーの範疇にかかわらず、近未来のファッションは存在そのものを
”プロテクト”する何か、新しさを提供します。』
/
https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
 『私たちの個人情報と財務情報がインターネットのオンラインにおいて公共の時代には、
個人の存在が見えなくなることはない。
 しかし、オフラインでは、少なくとも、世界中の多くのファッションデザイナーは、
個人の曖昧さを払うことができるような世界を準備し始めている。
 ハイファッションを通して不可視の側面を達成するという概念は、未来的なものでは
なくなってきた。実際にはすでに可能です。
 一般人であれば、自分の写真を雑誌やsnsのページに入れることができます。
例えば、有名人または逃亡者でない限り、日々の生活の中でどのように監視されているかに
ついてはあまり考えないかもしれません。 
 が、現実には不条理なしかし、人間の感情を解釈することができる顔認識、
高精細サーベイランス、AIを含む感情技術が絶えず進化する分野では、家外に出た自分が
あらゆる高度な装置によって、自分の存在がトレース & ディスプレーされてしまいます。』
 そんな「安心のファッシズム」の社会においての究極のプライバシーを守るための
頭からつま先までの、自己を消去するためのファッション・ドレッシングのガイド/メニューが
すでにアメリカのサイトでも紹介されている。
 参考/アイデンティティを消すためのファッションに関してのサイト;
*https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
*「感情的な医学:感情的知性を持つ技術」/http://hd.media.mit.edu/tech-reports/TR-537.pdf
*顔検出からのカモフラージュ。「CV Dazzleは/https://cvdazzle.com
*幻想的な迷彩/https://en.wikipedia.org/wiki/Dazzle_camouflage
*最初のアンチフラッシュ衣料品コレクションの紹介/ https://theishu.com
*https://www.amazon.com/Kreinik-R25-Reflective-Thread-25-Meters/dp/B00CB396DQ
*ステルスウエア;ステルスウエア「アンチドローン」ファッション
/https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
*コープ・ヒンメルブラウ
/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%
BB%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%
A9%E3%82%A6
*CHBLジャマーコート;COOP HIMMELB
/http://www.coop-himmelblau.at/architecture/projects/chbl-jammer-coat
*ファラデーケージ/https://en.wikipedia.org/wiki/Faraday_cage
*ファラデーバッグ;技術を外部干渉から遮蔽する最先端のソリューション
/https://www.disklabs.com/faraday-bags/
 
 最後に、”カジノIR法案”が可決され、;
 より、リアリティな発想になりますがこれによって、現在の日本のファッション産業界は
大いなる”追い風”を再び迎えることができ、新たなビジネスの拡張へつながる
可能性が生まれるでしょう。
 かつて、90年代も半ば、都心部の「キャバクラ」が「地方都市」へ拡張され、
地方にも新たなオケージョンが生まれそれらと共に”AEON”や"駅ビル”といった
新しいディストリビューターの開発と新たな”顧客”、パラサイトし始めた
”マイルドヤンキー”との”三位一体化”によって「SPA型」が発展したあの時代性と
同様の”新たなモチベーション”がここでも「20年周期」というジンクスによって生まれる。
 東京オリンピックとカップリンなされ首都市に”カジノ”が出来るとそれがTVや雑誌メディア
また、SNSでよりパーソナルに拡張されより、ヴァニティなファッションの世界が
プレゼンテーションされ、次なるは2020年以後、カジノ・インフレンスは”大阪万博”
(立候補中)へ引火されその後、地方都市、駅前の”パチンコ館”が総合ギャンブル館”に、
”地元VIP"御用達”のカジノが生まれる機を読み込むことでもう一度、”神風”は吹くだろう。
 ここに、もう一つの「あたらしい自由」が創生され、ファッションのニュー・シーンの
誕生が読める。
 ”地方カジノ”+”路面店/ディストリビューター+新たな”顧客”の”三位一体化”
が現実になれば日本でも本格的な新たな”ドレス”マーケットが誕生する。
 が、ここでは決して、”ストリート・カジュアル”ではない。
 ここでのキーワードとは、「真実っぽさ」。
”真実っぽい”関係性による”シン・男女消費”が新たに生み出す”真実っぽさ”という名の
”ラグジュアリィー・ファッション”あるいは、ヴァニティという名の”ご利益・ファッション”
いわゆる”モテ・服”や”キメ・服”というドレス中心の”ユニフォーミズムであろう。
 あるいは、「109の逆襲」???
 エピローグ;今の日本の政治は落ち着きが有りません。気になる色々、
 北朝鮮からの”煽り”をアメリカ、ロシア、中国がそれぞれの巨大帝国主義的なる
国家エゴのすり合わせ。
 国内の憲法問題と軍事戦略を軸にした、”アメリカのポチ”化の激化。
 日本はいつのまにか、このような”軍事評論家”という人たちが存在していたのだろうか?
 「共謀罪」復活。かつての戦前の大国主義へ妄想した時代へのリバイバル。
 日本メディアは気骨をなくしてしまった。”時間売り”ビジネスに特化したための荒廃化。
 ここにも”金儲け”主義しかない現状のメディア。
 ”不動産売り”へ逆行し初めて業績が再び低迷し始めた”デパートビジネス”
 政策+国家予算の使い方+行政の動き+利権+専門スキル+工業技術+メディアの煽り
=新しいビジネスの誕生。
 国家企業規模の企業の倒産が続く。
 少子高齢化の激化。新移民法と新たな倫理観。
 A.I.という新しい人間の”エゴ”産業化が急進化。
 戦後日本で初めて誕生する新たな産業。軍事産業とカジノ産業。
 e-コマースと宅配のアンバランス化現象。
 ITテクノロジーとヒューマンテクノロジーのアンバランス化が始まる。
 水産業のオープン世界マーケット化が始まる。
 LGBT,マイノリティの表層化と社会の現実のずれ。
 築地、オリンピックそして、カジノ産業。
 ”one-box car"の色が白系から黒系へ変化始めたのだろうか?
「新たなるフツー」のための新たあるディストリビューションとは?
 そして、
これらの現実の日本の状況を”201”の項目で見事に書き下ろされた本が出版された。
 「日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」−15歳から始める生き残ろための社会学。
 響堂雪乃著/白馬社刊:
みなさん、是非、ご一読ください。
合掌:
文責/平川武治:平成29年5月15日:

本稿のオリジナルは、雑誌「FREE MAGAZINE−5」掲載原稿に手を入れました。
 *キーワード;
「Friendly Fascism」
「安心のファッシズム」
「ユニフォーム/ユニフォーミズム」
「ナマ感」/皮膚感覚
「TACTILITY/触覚」
「文化度/文化力」
「コンセプトをブリコラージュ」
「モノのアヴァンギャルド」よりも「コトのアヴァンギャルド」
「液化現象」
*参照/
「日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」
 −15歳から始める生き残ろための社会学。響堂雪乃著/白馬社刊:
「笑顔のファッシズム」B.グロス著;日本放送出版協会刊:
「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;
「リキッド化する世界の文化論」ほか、Z・バウマンの著作いろいろ。
「ヴォーグで見たヴォーグ」ー元アメリカンヴォーグ編集長/G.ミラベラの言葉;G.ミラベラ著;2,000年刊より;
「フィリカネットワークス」=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立/http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html
「面白いコント;”シソンヌ”」このお笑いコントが醸し出す世界に”ユニフォーム”を感じます。
/https://www.youtube.com/watch?v=S5CTb9HUwRQ
中里唯馬/ http://www.yuimanakazato.com
 

投稿者 : editor | 2017年05月23日 21:47 | comment and transrate this entry (0)

article(94)

決して、語られなかった”コトの次第”を、「一つの展覧会を読む。」 /”M.MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展

 私事であるが、あれほど通っていたアントワープへ今回、なんと13年振りで訪れた。
 友人であった人が”公金横領”の罪を犯してしまいこの街から逃げてしまって以来、
この街へは一度も訪れなくなった。
この街のファッション学校の形骸的なデザイン性が強いカリキュラムも
時代に遅れを取り始め魅力を感じなくなってしまったこともあった。
もう一方、この時期に卒業したという日本人学生たちが帰国して、自分たちが”小さな嘘”の
上塗りでメディアに取り上げられ、セルフプレゼンテーションを器用にやり始めたことも
この街への厭気に重なった。
 そんな以前を熟知している僕の今回のこの街への眼差しは完全に冷めきった”傍観者”で
あり、ただ、日本レストランが増え、SPA系ファッションブランドショップが目につき、
”ユダヤ人ビジネス”が堂々と表通りへ出てきてしまった街の風情にもなってしまっていた。
 では、なぜこの機にそんな街を訪れたかというと、
最近、お世話になり始めた「日経新聞 日曜版」の取材のため、僕がいる頃に準備されて
出来上がったモード美術館の展覧会のためのインタヴューが目的だった。
友人が構想して設立出来たこのモード美術館も当時、面接試験を受けて友人に採用された
女性がチーフ・ディレクターになって今回の僕のインタヴューを待っていた。
 やはり、何かおかしい気持ちでの仕事になった。
終わってみて感じたことはこの若いディレクターの喋り方が”公金横領”をした
僕の古い友人の喋り方とそっくりであったということ。またそのインタヴューテープを
繰り返し聞きながら余計に、恐ろしくも感じてしまったことだった。
 ただ一人の友人と出会いディナーに招かれ、よく行き着けていたカフェへ立ち寄っただけで
僕は隣町のゲントへ幾度目かの一人旅を気取った。
この理由は、今シーズンのパリのコレクションに影響を与えていた一つ、
”フランドル・イメージ”に再び、触れたいとの思いもあったからだ。

 僕と入れ違いに、この展覧会の当事者であるマルタン・マルジェラはアントワープへ来た。が、
彼はオープニングレセプションへは参加しなかった。
中で騒いでいる輩たちは彼の偉業で金儲けをしている連中だという現実。
ここでも、”世間”とはこんなものなのであろう。

 今回の幾人かの取材で、今まで、決して語られなかった、
「THE HERMÈS とMARTIN MARGIELAの関係性が
どのようにして現実になったのだろうか?」を
この展覧会を機に始めて明かしてみました。
 ”水と油”のようなそれぞれの当時のモード界における立ち居場所の
新旧、2つのメゾンが、それぞれの思惑を持って、
どのようにこの現実へ至ったのか?

  <この原稿を”日経新聞 日曜版STYLE”、太田亜矢子さまへ感謝を。>

  ”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展/MoMu in Antwerp;
開催期間/31.03.'17 > 27.08.'17
https://www.momu.be/en/tentoonstelling/margiela-de-hermes-jaren.html

 『ファッションの定義は人によっても違う。私にとってのファッションとは、
女性をめぐる問題であり、女性がどのように生き、どう戦いそして、どのような安らぎを
表現するのが、ファッションだ。』
/参照;「ヴォーグで見たヴォーグ」
/G.ミラベラ著:実川元子訳:文春文庫刊1997年:
 このような成熟した眼差しでファッションを捉えるには
この ”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”でデザインディレクションを請け負った
Martin Margielaの1997年から2003年の彼らたちの仕事ぶりを知ることは
近年のモード界に於いては最上質な機会であり、
モードとクラフトマンシップの関係性の総てが封じられ、創造されたベストな
”エルメスーマルタンシリーズ”である。この再見機会を与えたのが今、MoMuで行われている
展覧会である。
 筆者は’97年からのこのシリーズのショーをリアルタイムで観ているのでその経験を主軸に
展覧会を読んでみよう。

「なぜ、M.マルジェラは凄いのか?」
 ’88年にデヴューした彼のオリジナルブランド,"M.M.M.は”ジェンダー”をメイン・
コンセプトに斬新で異端でさえある”創造の発想”をヴィンテージというリアリティを素材に
かつ、ロジックに繋げ展開した14年間。ディレクターであるM.マルジェラを中心に、
このブランドが呼吸する総てが強烈なパワーとスピードで20世紀のモードへ
全く新しい、現代アートとまで言える視点を持ち込み、アヴァンギャルドからその頂点に
14年で達した過去に類を見ないブランドであった。
 このブランドが提案したカウンター・モードの凄さとカッコ良さに
一番早く犯されたのが我ら、日本の消費者であり当時、世界で一番売ったのは
仙台のブチック”レボリューション”。そして、最初のショップが出来たのも
日本であったことを証拠として特記しておこう。世界で”ストリートファッション”に
一番敏感で繊細な我ら日本のファッションカルトたちの肥満的病的欲望を充足させるには
このブランドのコンセプトとロジックに裏付けされた彼のクリエーション&イメージングは
総て「凄かった」のである。

 「なぜ、”エルメスーマルタン”がすごいのか?」
 これを述べるには最適な書籍*がある。
現代ファッションの新たな創造手法でもあるブリコラージュを真似て、
この本からブリコラージュして「なぜ、”エルメスーマルタン”がすごいのか?」を論じてみよう。
*「ヴォーグで見たヴォーグ」/G.ミラベラ著:実川元子訳:文春文庫刊1997年:
『私にとってファッションとは、女性たちが生活を楽しみ、喜びを見つけるのを
助ける手段の一つである。魅力的で、時には贅沢な道具といっても良い。』

 1997年から2003年の間、マルタン・チームが手がけ情熱を傾けてきたメゾン・エルメスの
女性服は彼たちによる「スタイル・エルメス」の追求にあり、このスタイルそのものが
”凄かった”のだろう。
『ファッションにおける”スタイル”とは女性が自分をどう表現するか?
世界とどのように接してゆくかの姿勢そのものである。服をどう着こなすかであり、
それ以上のもっと深い意味それがつまり、女性が生きる姿勢である。
このスタイルは金額も流行も「小綺麗に装う」ことも超えたところにある』

 これをマルタンはメゾン・エルメスという王道を手管にとって
エルメス哲学&クオリティを根幹に、自身が一度は試みてみたかった理想の女性の世界観、
「スタイル・エルメス」をこれ以上、出来るであろうかというまでの領域の創造に
挑戦したことの結果が”エルメスーマルタン”の「凄い」を生んだ。
 マルタンが求めた「スタイル・エルメス」は勿論、このメゾン・エルメスが哲学とし、
価値と考えているクラフトマン・シップという”職人仕事の愛情と情熱”に委ねられ
また、このメゾンが持ち得ている”価格は品質への障壁ではない”という経営倫理学に
育まれた”スタイル”に徹した仕事をマルタン自身も職人的に関わった結果であろう。
 『女性が仕事をする世界でより知的に競い合うためには、
よいスタイルを学ぶ必要がある。服は機能的でなくてはならない。
だが機能的なだけではだめだ。もう一つ素敵に上品に見せてくれなくてはならない。
現代女性は便利でかっこいい手帳や携帯電話やPCを欲しがるのと同じ次元で、
機能的に満足でき、素材によって自分をエレガントに見せてくれる服を求めている。』

 そこで、マルタンは洗練された慎重な服をプレゼンテーションするショー・モデルの
キャスティングによっても多くの新しい「スタイル・エルメス」を定義した。
40代と50代の魅力的な女性たちは、アン・ロハートのような元モデルの多くが、
チョコレート・アンクル長さのノースリーブのドレスに時代を超越した、
ざらつきのあるサイドジッパー付きパンツの上にでドレスを強調し、
過度の軽快なエアリー・レインコート、静かに深く切り込まれたVネックと
柔らかいテーラード・ショルダーでチュニックに似たベール・ウール・ジャケットと
パンツ、そしてしばしばネックのないコートの下で滑り落ちる広いカシミア・ローブは、
「スタイル・エルメス」を基盤からはずしたくないという明確な意図を語った
提案でもあった。 
 ここで、古くからパリの友人である、S.ヴァルニュェ氏**の証言を,
「マルタンは、エルメスのアイデンティティを定義するために、
幾つかのボキャブラリィを作り手たちであるクラフトマンたちへの
共通言語として投げかけました。(細部、心配、明度、などへの注意のような)
彼のアプローチは真に思想家の一人であり、ブランドをそのような深さで理解して、
エルメス自身よりもエルメスになったのです。彼はエルメスに何も追加しなかった。
逆にエルメス以外のものは差し引いた。
 彼はブランドを明確にし、それを劇的に特別にしました。
だから彼の作品のどれもがとにかく老化していないのです。
彼らは本当に時代を超越していました。」
**S.ヴァルニュェ氏/Stéphane Wargnier;元エルメス広報戦略担当談。

 「メゾン・エルメスとM.マルジェラの関係性あるいは、イメージの新陳代謝」
 「陰と陽の交わりから第3の”気”が生まれる。
陰と陽に印つけられた事物は、それぞれ特権的な対応関係で結ばれた相手を持ち、
それぞれの独自性を尊重しながら、互いの特質をより深めてゆく。
そして、第3の”気”は陰と陽が自らの最良の部分を抽出することによって、
より高い次元での完成に向かって変容を遂げるように促すのだ。」
F.Cheng/「すべてうつくしいものは、かけがえがない」

/phebus社刊”陰陽と第三の”気”」から。
 このメゾン・エルメスとM.マルジェラの関係性とはこのような陰と陽から生まれた
第三の気に例えられるだろう。
 この時期を思い起こすと、”ラグジュアリィー”という新たなファッションビジネスの
ステータスが再構築され始めた時期であった。これ以後、グローバリズムに乗って
このモードの世界は上は”ラグジュアリィー”、下は”ファスト・ファッション”という構造を
特化し始めた時代性でもあり、当時のファッションメディアも多くを語った。
LVMHグループは、LVブランドにM.ジェイコブをやっと採用して’98年からスタートしている。
しかし、当時のメディア評は新たな新しさとエネルギィイ補充、というニュアンスが多く
故に、ブランドとデザイナーの関係は”結婚”とまではいかず、がさつな表現をすれば、
”同棲”時代として始まったようだ。
 ではこの”水と油”的なるメゾン・エルメスとM.マルジェラの関係は
それぞれがどのような発端で誕生したのであろうか?
 マルタン側の証言、今回の展覧会の会場構成をディレクションしたアントワープの旧友、
Bob Verhelst*の証言。
 彼はM.M.M.の数少ない確か4人ほどで始まったオリジナルメンバーでもあった。
その彼が思い出して語ってくれたこと、
 「ある時、マルタンの夢をともに現実化したこのメゾンの社長であるマダム ジェニーと
マルタンの3人で食事をしていた時、マルタンがジェニーさんに、
”全てが完璧なるハイ・モードをデザインしてみたい。”
と熱く語り始めたという。そして、この話の後しばらくしてからジェニィーさんが
”エルメスから話が打診された”という知らせが来たと言う。」
Bob Verhelst*/ scenographer /http://www.fashioninantwerp.be/designer/bob-verhelst
 エルメス側の証言はもう一度、S.ヴァルニュェ氏、
「Jean-Louis Dumas前社長は、Claude Brouet(仏Elle誌とMarie-Claire誌の前編集長)を
相談役として、今後のエルメスについて多くのことを長い時間を掛けて話あっていました。
そして、以前はMartin Margielaのショーでモデリングもした経験がある
Dumas氏の娘、Sandrineとも話し合い、この二人がメゾン・エルメスには強力で
斬新なモード・スピリッツな視点を持って新たなエルメスに
熱きエネルギィイを注入できる才能として、
マルタン・マルジェラの名前を彼、ジャン=ルイに提言した。
 そのマルタンは職人技とデザインに対する概念的アプローチそして、
匿名のままにしたいというアルチザン的な欲求に焦点を絞っていたので、
このすべてが彼を完全な候補者にし、ジャン=ルイはこの彼の挑戦を愛し、
受けて現実となったのです。」
 結果、ジャン=ルイ・デュマ社長の主張であるマルタン雇用は、エルメスにその本質的な
根本主義を実証する機会を与えた。マルタンのアイデアは、個人的な裁量と、個人的な喜びに
根ざした”生活に根ざした贅沢”がコンセプトでした。
 パリ・エルメスの店でのデヴューコレクションは、カシミヤとディースキンと
ハイテク・シンセティックのレイヤーが特色。また、カシミア・ラップコートは
”ファッションレス・ファッション・ジャンパー”として特徴付けられファッション評論家は、
それを贅沢のルールの思慮深い放棄と賞賛した。そして、全体的な印象は、
エルメスとマルタンとの珍しい結婚が理にかなっていることが証明された。

 「なぜ今この展覧会なのか?」
 その一つは、「20年目」という記念。パリモードの世界では”20年周期”という言葉が
未だに信じられ、使われこれが”トレンド”の源流にもなっている。
 このアントワープMoMu美術館での今回の”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展も
このプロジェクトが今年で20年目という節目で行われている所以でもある。
 もう一つは、モードの世界も実ビジネスの現在状況は”ファスト・ファッション”によって
完全に征服されてしまっている。ラグジュアリィーブランドもショーピース以外の
ワンポイントもののビジネス形態はすでに、「SPA構造」によって賄われているのが
現実である。そんな現実において、このメゾン・エルメスは変わらず、
”クラフトマン・シップ”にこだわったヒューマニティ豊かなモノつくりに委ねている。
したがって、この「老舗精神」を時折、アッピールすること自体がメゾン文化と
アイデンティティを刷新するには総てであること。
すなわちフランス国の国策でもある、「文化は武器である」というラグジュアリィー・
コンセプトが強く継続されている 一端でもあり、
「この時代の、このデザインそのものが今では、また新しいものである」という
”時代とはリバーシブル”だという眼差しもある。
 そして、クリエーションの観点からでは、
[グローバリズム="SPA"=フアスト・ファッション=アイテム売り。]というこのような現実の
流れがファッションビジネスのそのものになってしまっているのが昨今である。
したがって、この"エルメスーマルタンプロジェクト"でクリエーションされ提案された
”着回しができる服”が今、一度新しさを持って、”モード”へ戻ってくる。
 このような時代になれば、マルタンが自身のブランド、M.M.M.で行ってきた
”脱構築”がより、ラグジュアリィーブランドを任された若手デザイナーに学習され、
この”エルメスーマルタン・ライン”がサンプリングされて、再来するのは当然である。
 現代のファッションクリエーションそのものに新しさがなくなり、
全てが”ブリコラージュドゥアーカイヴ”の手法になった現在では、
この「着回し」ができる服がこれからまた新しさを呼び始めるという
視点の時代性でもあるだろう。
 今の若いデザイナーや着る側の世代たちにとっては全く、未知なる、
”新しく、新鮮な気分”なのだから。

 「”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”での彼のクリエーションとは?」
 マルタンはメゾン・エルメスという王道の中で彼が挑戦したくなった、
”マルタン流これがラグジュアリィーの極め”であるための重要なこと、
大切にするべきとこは選ばれた素材の贅沢と色の贅沢そして、優雅な着こなしが
着た女性たちを快適にできることを、エルメスのアトリエの人たちと関わることによって
大いに深く学んだ結果がこのシリーズのクリエーションの根幹になっている。
したがって先述、ステファンが語ったように、
「エルメス自身よりもエルメスになったのです。」という言葉になるのだろう。
 ディレクターのカート・デボのインタビューは
始終、マルタンの残したエルメスコレクションを着る女性の眼差しでマルタンの凄さを語る。
 まず、前社長であるJ.L.デュマ氏が語ったという彼らたちの関係性のリスペクトしあった
1点は、「マルタンは確実に、クラフトマン・シップを理解している。もしかしたら、
自分たち以上にだ。」に現れていたという。
 そして、マルタンのこのブランドにかけた”創造のための発想”とは、
彼は自分たちがやってきた脱構築やビンテージから学んだものをより、コンセプトに
ロジックにエルメスコレクションに用いて、多くのアイディアを
イノベーションさせた結果だという。 そこでは、着る女性たちの個人的な枠組みと
そのためのフレームワークが大いなるコンセプトであり、
ディテールそのものは大切であるが、見た目だけのものではなく
彼のコンセプトはもっと深いところにあった。
それはデザインの全ての要素が着る女性のために考えられたもので、
女性の体つきをより、美しく見せるため、楽しみとして、あるいは遊びとしての
コーディネートがなされるまでに考えられ、これがトータル14シーズンのコレクションが
全て”ワードローブ”となるまでのコンセプトでもあった。
それは着る女性の身体をリスペクトした、女性のボディのためにどのようなコンセプトで
プレゼンテーションが可能か?というまでに着る女性のためが考えられたデザインであった。
 そして、これらの14シーズンのスポーティレジャーウエアーには3つのベーシックな
エレメント、タイムレス、カンファタブルそして、タクティリティが考えられている。
例えば、楽しんでいろいろな着回しができるようにデザインがなされているレインコート。
これは着た女性がどのように快適に着こなせるかが大切に考えられている。
基本的には、ナチュラルシルエットであり、アンコンストラクションな素材。
ノーショルダー、ノーネックそして、羽織るもの。
これらが着る女性を快適に心地よさを与えるデザインの根幹であり、
プリントを使わず、派手な色も用いず、アクセサリーも使わず、
しかも色は、白、黒、茶色とベージュに絞り、 女性を快適に心地よさを与える
ラグジュアリーファッションの着こなしとそのあり方を提案した。
 もう一方では使う素材の素晴らしさと素材の開発にも心を配った。
それはただ高級素材のカシミヤだけを使うのではない。
例えば、6種類のセーターも彼の素材へのラグジュアリィー感がデザインされている。
彼は、「糸は思い出を抱いている。」という。
カシミヤのように見せるシェトランドウール、実際のシェットランドは直接肌に着ると
痒いものそこで、また、フラネルのように見せるカシミヤやキャメルの扱い方など、
これらの素材の使い方とアイディアそのものが”ラグジュアリー”でした。
 また、マルタンは 今までのヴィジュアルなエルメスらしさとしての
カレやプリントや派手な色は決して使わず、ラグジュアリィーとは何かを
新たな切り口でディレクションをした。
ニューダイレクションとはこのようなリアルラグジュアリィであり、
マルタン以後、”ラグジュアリィーとは”どうディレクションすれば良いかを
決して、”ロゴ”だけを用いることがそれではないと世間は知ることになる先駆けでもあった。
これらに寄って、マルタンは 確かに、エルメスに何かをもたらし、革命を起こした。
一方、彼らたちのオリジナルブランド、M.M.M.で行って来たいわゆる、
「レトロアイディア」、インサイドアウトやパッチワークなどのアイディアそのものも
エルメスの例えば、ムートンジャケットなどにも使いまわした。
 また、マルタンは自分たちのエルメスを誰に、どのような女性に来てもらいたいかまでを
熟知していた。
 今回の展覧会のための服はほとんどがエルメスが持っているアーカイヴであり、
足らないものは個人的な人たちから集めた。マルタンはこれらのアーカイヴは持っていない。
しかし、彼のチームの女性たちは当然このコレクションに大いなる興味を持って色々な
アイディアを提言してまとめられて作られたという。
 例えば、彼のコオトはノーボタンであり、ノーポケットである。
多くのものを取り去ってミニマムなところでの身体と服の関係性をも追求した。
ここで、マルタンは日本の着物を学び 通じてその哲学的で静的なシルエットを見つける。
これは着る女性の身体とのヴォリュームのバランスであり、多くを日本から学んだ。
着物は肩骨と腰骨、骨で着る平面構成の衣類であり、
洋服は肉、バストとヒップで着る3D.もの。したがってパターンメイキングが必要である。
また、マルタンのオリジナルラインには肩をポイントとした一群のデザインがある。
ショルダーの変化をパーツ化し、それぞれのアイテムを生み出したが、
このアイディアもエルメスで使われた。
肩とそこに掛ける上質な素材によって生まれる生地の流れ、
そのシルエットはゆったりとした快適さを生む。
これは着こなしの変化が着る女性の気分の変化へ通じ結果的には
シンプルな穏やかさを与える服になるという。
ここにはクラフトマンシップと人間工学的な組み合わせによる
女性のためのデザインが考えられていた。
 マルタンのデザインとは90年代のコンセプトが強いデザインであるが,
そのコンセプトが”ジェンダー”というロジックでどのような女性たちの日常性にどのように、
最終的には女性たちがそれぞれ持っている個性とそのパーソナリティへ,
”MAY I HELP YOU?”です。
 そして、タイムレス・デザイン、時代を超越できるデザインが理想だという。
 Jean-Louis Dumas氏はマルタンが「アルチザンシップ、テーラリングそして、
クラフトマンシップを熟知していて、どのようなものがよく売れるものなのかも知っている。
この結果、エルメスへ ”新しいさ”をもたらした。
そして、僕たち以上にヘルメスを知ってしまった。」と彼をリスペクトし、賛美していた。
文責/平川武治:
3月10日/Antwerp MoMuにて、Kaat Deboとインタヴュー。
(この原稿は日経新聞 日曜版執筆原稿のためのエスキース原稿です。)


 



投稿者 : editor | 2017年05月10日 22:24 | comment and transrate this entry (0)

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Paris Haute Couture Fashion Week/中里唯馬コレクション;

Paris Haute Couture Fashion Week/
 Yuma Nakasato;
 「愉しみにしていた。」 
このクチュリエの先シーズンに引き続いて、第2回目のパリ・オートクチュールコレクションウイークでのデフィレである。
 巴里の”モードの大黒柱”であるクチュールコレクションに参加する或いは、出来得る日本人デザイナーは数が少ない。プレタポルテのデザイナーは自分たちがその掛かる資金を準備すればなんとかなる世界である。だが、この街の”モードの懐”はそんなに実際は広くない。特に、”クチュール”の世界は別世界であった。例えば、なんでもそうであるが”2nd.ライン”はそれなりのその立場での役割がある。この構造をそのまま、ビジネスにもしてしまっているのがこの街の”モードの世界”そのものでもある。クチュールに対するセカンドラインとしてのプレタポルテ。
 だから少し、以前まではこの街のモードの人たちもこのクチュールの世界とそのテリトリィーを頑なに堅持してきたがやはり、時代が”変革”したために、そのガードが緩み始めた。
 例えば、この街に僕の好きなカルチェェ、”サンマルタン運河”がある。これを最近のモードの世界に委ねてみよう。それは運河に新しい流れを作ることでその水面のレベルが上昇して船の川上への運行が可能になるという迄の構造手法によってすでに16世紀にはこの街で作られていたという。この手法が最近のモード組合(サンディカ)の戦略として読める。当然であるが、まだ古い手法としての「金次第」というのも残っているが。
 従って、この街のクチュリエたちとその周辺たちを刺激する迄の「あたらしい自由」によっての、「新しさ」を創造できる若いクリエーターたちがウエルカムされる構造になり始めた。
例えば、もう一方で評判が高まってきたオランダ人、IRS VAN H.嬢もその一人である。因みに、彼女は合衆国の3Dプリンターメーカーの企業力によって現在の立ち居場所が生まれた。

 「継続することもクリエーション。」
だから、唯馬君がこのクチュールコレクションを継続することそのものがまず、創造の世界につながる素晴らしいさである。
 多くのこの街に住んでいる?日本人の若い人たちが集まってきて見ていたが、彼らたちはまず巴里でこのコレクションが継続できることの大変さ。そして、それ自体の産業構造自体に対して無知であろう。このレベルは日本から取材に訪れているジャーナリストたちもほとんど勉強していないだろう。ただ、日本人がやるというレベルの次元で見にきている人たちが大半であった。  
 これが、僕が言う、そもそもの”壁紙”の始まりである。表層の変化のみを追っかけるが、「壁紙」の裏には「構造体」があり、”壁紙”は構造体の上に貼られるもの。
 継続させること自体に”創造性”がないとこの街ではすぐに外される。
ただ続けるには「金次第」の世界がすぐに”お手伝いしましょう”と、どこからか寄り集まってくる。

 「全てに、よく頑張った。」
 前回は僕が浅はかに見間違えてしまったので今回はどれだけ”進化”させたのかあるいは、”エボリュート”させたのか?それを感じ、見れることが楽しみだった。
 しかし、デフィレだけは又もや、どのように今回の彼の世界観がエボリュートされたのかほとんど不明である。暗闇の中から浮かび上がる全体の佇まいが美しすぎるからだ。
 翌日、展示会へ行ってまたもや、話を伺う。
確実に基本となる”エレメント”が幾つか増えている。そのために、それぞれを結合させるためのいわゆる”結界”部分を構造化する”部品”も新たに作られている。このパーツの開発によって確実に彼の”レゴ”の組み合わせにバリエーションと構築性が生まれた。ということはこの彼のアイディアと創造により、幅と深みと変化が出せるまでにエボリュートさせたのが今シーズンであった。
 やはり、彼は”レゴ・ジェネレーション”だ。そして、彼が創り出す世界とは「数学」の世界から生み出される。それぞれの”エレメント”が”数字”である。”エレメント”を並べ替えるだけでそのヴァリエーションは”無数”という世界である。

 「キャスティングが良かった。」
もう一つ、僕が彼の「あたらしい自由」さを感じ取ったことの一つに、今回のキャスティングがあった。このような時代性になると、モデルのキャスティングは大事であり、彼女たちによってコレクションの世界観までもが伝わるからだ。ただ美しいだけ、が大半を占めすキャスティング。唯馬君はここから遠ざかって、自分の”世界観”をその「あたらしい自由」さでまとめた。
彼のキャスティングにおいても”ジェンダー・ミックス”がなされていた。
 「あたらしい酒はあたらしい革袋に」のコンセプトがここにも使われていた。
あたらしい手法による新たなモードを平凡な、当たり前の”美しいさ”に着てもらうのではなく、”あたらしい女性”(ジェンダーミックス)に委ねたことが僕にはとても、新鮮に感じられた。
 ここで彼の今回の作品からは数年前にも好きで訪れた、ヴィエナの美術館の薄暗い一室に飾られていたG.クリムトの1枚のタブローをその色彩の美しさからイマジネーションした。
 次回も楽しみにさせてください。
ありがとう、唯馬君。

 前回の彼についてのブログです。
参照/http://lepli.org/discipline/articles/2016/09/post_160.html

投稿者 : editor | 2017年01月28日 23:03 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-6/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 22日//JULIAN DAVIED;
 このブランドコレクションにも「アンビギュティな性」が描かれていた。
「性」に教戒があるとすれば、現代社会のようにその「性」に「真実ぽっさ」を委ねると、
”世間”はどのような様を見せるのであろうか?

 その時代のモードにおけるオリジナル”アイコン”で在った創られたマダムCOCO−シャネルの
存在とその後の立ち居場所も考慮すると、女性モード史における「アイコン/ミューズたち」の
そのほとんどが、彼女たちの”生き方”、それぞれの時代に「あたらしい自由さ」を持ってその
時代の社会に堂々と生きる女性たちであった。
 このシナリオは戦後も続く。また新たな戦後という時代に平和が訪れてき始めた’67年頃には
あのYSLが自分たちの立ち居場所に対峙するターゲットとして、「あたらしい自由」を持って生き抜こうとしている女性たちから自分たちの好みにあったミューズを探し出し、彼女たちをその「あたらしい時代」の”アイコン”に仕立て上げてきた。これがこの街のモードの一種の戦略的
手法であり、シナリオだった。

 ここで、それぞれの時代の女性たちが時代に対して持ち得た「あたらしい自由」とは何だったのか?を改めて考える。
 ”ウーマン・レボリューション”に始まって、”フェミニズム”へ発展しそして、”ジェンダー”論
までへも駆け上って、”ポスト・ジェンダー”へ至ってきたのが戦後の女性の新しい生き方の
全てであった。この表層はどのように社会に関わるか?どのような生き方を行なって子供を育てるか?そして、伴侶の人と家庭を守ってゆくか?これらのための価値観であり、具体的な方法としての生き方でありそして、そのための努力であった。
 が、そんな彼女たちのもう一つの「あたらしい自由」は「性」へも当然向けられた。
その解り易い現実は女性たちにも”同性愛者”というゾーンが生まれ始める。
ここでも根幹は人間世界は「男」と「女」だけの性差の世界であったはずが、「もう一つの性」が誕生したことである。
 しかし、表層はあらたな新しさを生み出すが、現実と現存の”世間”における「男」と「女」の間にもこの「あたらしい自由」は染み込み始め、従来からの”関係性”にも色々な影響が生まれ始め、それらが及ぼす表層は”離婚”や”家庭崩壊””片親家族”などの現実をクラッチし始め、生み出す”関係性”に対してのこゝろの不安や不信と不誠実などが生む”ストレス”を多く被るまでの社会性にもなった。
 僕が言いたいのは従来の古い”世間”を維持してきた宗教モラルに依って構築され一つの価値観にまでなってしまった”性モラル”がここにきて彼女たちや彼らたちの「あたらしい自由」に依って変革し始めているという見方である。
 この表層に、2004年に語り始められた、「ポリアモリー」がある。
しかし、この「ポリアモリー」の立ち居場所の現在は肩身の狭い状況に置かれてしまっている。”世間”の古い性モラルから大いにヘイトされ、”同性愛者”たちからもその一線を引かれてしまった立ち居場所のようである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%BC
 「あたらしい自由」を”性モラル”の中へ持ち込んだことによってその”関係性”が大きく揺れたのだろうか?この「ポリアモリー」も実は「真実っぽさ」の中で産み落とされてしっまた「新しさ」なのだろう。

 JULIANのコレクションは好きである。
東京のストリートを彼のたち居場所とそこからの眼差しで気持ちのいい”距離感”を持ってその世界を僕たちに見せてくれていたからである。彼のリアリティが持ち得たネイション・アイデンティティからの"差異”がセンス良く細やかさとともに爽やかにまとめられた上質なコレクションだからだった。それに、彼が”オプション”する素材は時代感を触れさしてくれるまでの日本素材が多いことも気に入っていた理由だった。
 その多くは変わらないであろうが、ここ数シーズン来この”差異感”が少し変化したように感じる。外国人が長く異国に住むと経験する”距離感”は変わらないが、それに対する”差異感”は変化し始める。多分、自心の中に存在している”ネイション・アイデンティティ”が蠢き、より働きかけ始まるのだろう。これは僕のようなものがこの巴里へ来だして、住みだしてそこで現れた変化でもある。
 彼のコレクションで言えばやはり、ウイメンズへの彼が持っていた”差異感”が変わった。
ということは彼の「女性観」が成長したのだろう。ここに彼の”リアリティ”も関係しているだろう。

 このメンズコレクションでは、1993年には日本でも公開された映画、「Empire of the Sun/太陽の帝国」をなぜか思い出した。
 原作がJ.G.バラード、監督がS.スティルバーグ。音楽がJ.ウイリアムスという豪華な顔ぶれによって制作されたいい映画だった。僕の好きなJ.マルコヴィッチが変わらぬうまい演技をして少年を助けていた。上海に残されてしまったイギリス人戦争孤児の少年とアメリカ兵が出会ってめばえる友情物語だったように記憶している。元”キッドブラザース”の男優だったロンドン時代の友人も出ていたので記憶していた。
 廃棄になった戦闘機を遊び場所にして、そこに残された落下傘や帽子や制服という帝国軍国
主義の象徴が残骸化されてコード化され、少年たちの”あたらしい自由”のための遊び道具になって登場したからであろうか?
 コレクションのトータルな視点はやはり、今シーズンのキーワードである「ゆるさ」でまとめられた、現代の若者たちの”ストリート・ユニフォーム”+”ヘビィー・ドゥティー”の足し算のデザイン。そこへ、”山岳スポーツ”を足元でアクセントに加える。
 
 この”ゆるさ””と”アンビギュティな性”いうクオリティに委ねられた”GENDER MIX"。
JULIANが手がけたコレクションから感じた心優しい熟しがこの映画を僕に久し振りに思い出させてくれた。
 ありがとう。
文責/平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2017年01月23日 21:26 | comment and transrate this entry (0)