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greeting(39)

『無知が悪いのではなく、無知の自覚のないことが悪いのだ』

 『無知が悪いのではなく、無知の自覚のないことが悪いのだ』
(本書/#103、「新聞テレビは知能を破壊する。」より;)
 デザイナーさん、アーチストさん、先生、評論家と呼ばれていらっしゃる皆さん
そして、ファッション・ヤッピィーの皆様へ、
 3月に発刊されました、単行本「ニホンという滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」。
僕たちの国家、日本とその今後について、現実の日本の状況を
”201”の項目で簡潔、明解に見事に書き下ろされた本が出版されています。
 ぜひ、ご一読ください。
 僕が平常、こゝろ憂いている幾つかが確りとまとめて書かれてあります。
無論、これを読んでそのまま鵜呑みにするのではなく、
「知ってしまったことはもう”無知”ではないのですから、この知ってしまった事に対して
これからこの国で生きてゆく若い人たちや子供達へどのような事が出来るのか?
どのように対処及び、行為をするか?
自分たちが”安心・安全・快適に委ねることだけでいいのだろうか?」
 僕は読後、悲しくなってしまいました。「社会的な個人」としての立ち居場所からでは、
何が出来るか?

 *タイトル/「ニホンという滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」
”ーーー15歳から始める生き残ろための社会学”/響堂雪乃著
白馬社刊/ISBN978-4-907872-14-4/¥1620-
https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_2?__mk_ja_JP=カタカナ&url=search-alias%3Daps&field-keywords=日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ

 また、少し古い本ですが、
 『 13歳は二度あるか?ーーー「現在を生きる自分」を考える。』吉本隆明著;
大和書房刊;2005年9月発行:
 これも合わせて読んでいただけると尚、自分たちが、無知の自覚のなく、
”知らないことを知ったかぶり”をして表層のみで、不誠実に生きてしまって来たかが、
自覚できるでしょう。

 この本など、”13歳、14歳、15歳”の若い世代の人たちへ向けて書かれています。
僕も真剣に、長年の念いである「14歳のためのモード論」を書いてみたくなりました。
 表層の”ファッション・ファッシズム”によって屈折してしまった眼差し、
専門学校という無教養さを教える教育機関、あるいは、解ったふりして
”壁紙ファッション論”を弄んでいるだけの輩たちはもう終わっていますね。
 もっと、素直な、誠実で、楽しい簡潔なモード・根幹論が世界レベルで
これから、ファッションに興味を持ってこの世界へ近づきたいという若い世代のために
ポジティフに書ければ、書いてみたいというこゝろが現れてきました。
 
 僕と一緒に、「14歳のためのモード論」に興味を持って、
”あたらしい自由”さと共に、一緒にやってみたいと思う人を探しています。年代、性別不問。
 関心ある人は、ご一報ください。[taque.hirakawa@gmail.com]まで、宜しく。
合掌。
平成29年5月28日/平川武治:

投稿者 : editor | 2017年05月28日 19:16 | comment and transrate this entry (0)

article(81)

桑沢デザイン研究所/'17年度”昼間部+夜間部”全校生合同講義ノオト;

桑沢デザイン研究所/'17年 合同講義ノオト;
「”あたらしさ”を生み出すためには?」
文責/平川武治(モード・クリニュシュェ)

「我々はみんな携帯電話を内蔵した存在となったが、
そのことは現実生活とそのイメージの過剰接近や時間的/空間的隔たりの無力さを招き、
重大な混信状態という結果が生じている。」

J.ボードリヤール/「世界の自動記述」より:

PART-1; 現代という時代を深読みする。
 はじめに、「あたらしい自由」というこゝろの有り様、;
 僕がこのモードの世界に身を委ねてかれこれ40年が過ぎる。
大衆が「新しい創造」を願望するならば、まず、「あたらしい自由」というこゝろの有り様の
新陳代謝が必須であり、あるいは、「新しい社会」の誕生か、「新しい法律」の発令なども
関係してくる。
 決して、一人の思い上がりな行為やメディアの煽りだけでは「あらたな新しさ」は
生まれてこない現代という時代性がある。そして、「あたらしい不満」が当然、
こゝろの有り様に喚起しなければ、真の「あたらしい自由」は生まれない。
ここには現代の社会へ対する「カウンター・カルチャー」とはなんなのか?という問いがある。

 戦勝国アメリカは、’50年代にはもうすでに「ビートニック・ジェネレーションたち」
J.ケロアックやA.ギンズバーグ、W.バローたちが文学の世界で登場し、当時の”アメリカの
豊かさ”への「カウンター・カルチャー」の芽生えが始まり、昨年「ノーベル平和賞」を
受賞したB.ディランで代表される'60年代に登場したフォークソングからロック
そして、”ヒッピィー”と呼ばれた、当時の社会からドロップアウトしたコミューン集団たちが
思い感じ経験した当時のアメリカ社会と政治に対して彼らたちのピュアーな眼差しを
持ってこの「カウンター・カルチャー」と言う”反抗文化”なるものを路上に産み落とした。
これは当時の戦勝国「アメリカ合衆国」が”自由”を建前にした豊かな国家であったから
誕生したのが、「カウンター・カルチャー」であり、これが以後、60年以上は
いわゆる「若者文化」の根幹として継続されている。
 
 現代、「新しさ」を生み出すための「あらたな自由」は明日でも生まれえると言える、
今とはそんな不確実さの時代だからだ。
 この”不確実さ”や”不誠実さ”あるいは”不自由さ”に対してみなさんのような若者たちは
「あたらしい不満」を抱き、これに対してそれぞれが”憤り”を覚え、それなりの”行為”が
なされる可能性が現代ではあるのだろうか?
 しかし、この「あたらしい自由」による”憤り”がなければ「あたらしいモノ」は
生まれない。即ち、「あたらしい自由」によって、「コトのアヴァンギャルド」が生まれ、
そのコトによって、「モノのアヴァンギャルド」が芽生えその後、モノにデザインがなされて、
一般社会の生活環境にコミットされてゆく。この速度の速さ加減が”流行”を生む。
結果、日本の戦後の70年間とは、日本人の生真面目さと勤勉さと勘の良さや手の器用さ、
従順さによって見事な現在のような高度なる「大衆消費社会」構造を構築した。
よって、そこでは”モノの豊かさ”を追い求める日常生活と社会構造が発展し、
「モノの価値」を知り、「心の豊かさ」や「心の価値」を学ぶことが遅れてしまった
状況をも作り出した。この結果の所謂、”ツケ”が3世代目の若者たちに影響を
落とし始めているのだろうか?
 彼らたちは何かに、”憤り”を感じ、「あたらしい自由」さで、それなりの行為をなすことに
怠惰になった”マイルド”なのだろうか?
 
 僕は「他人とは違った、比べる対象のものを自らが勇気を持って持つ」ことが大切であり、
このために、”学びがあり、経験があり、旅があり、愛があり、出会いがあり、
好奇心が生まれ、自信も生まれ、知識を知り、自分以外の他者への想いが芽生える。”
と、僕の70年ほどの生き様から自分の「価値観」として大事に、考えて生きて来た人間です。
 日本のファッション産業そのものは変わらぬ体質然り、”壁紙産業”です。”右で売れたもの、
あっちで評判のもの”を「右から、左へ」の思い付きとその感度の良さとイメージングの
上手さだけで「日銭」を儲けて来た商売が日本のこれまでのファッションビジネスの歴史です。
 従って、この業界で漂っているいわゆる”業界人”たちの依然、カッコ付けたる年功序列な
”世間”でしかなく、僕にとっては囲われた自由の”村社会”でしかないのです。
 ここには「あたらしい自由」とは程遠い”世間”が漂っているだけで、「あたらしい自由」を
感じ得るために、「時から学び、時代性を読み込まない、勉強しない」業界人達の棲家は
ここ半世紀程、”壁紙”を張り替えるか、塗り替えるだけで”構造体”まで”リ・ビルド”されて
いないという現実でここまで来てしまったのでしょう。
 「ーそう、世界は”真実っぽさ”で溢れかえってしまっています。」/2005年S.コルベア(コメヂィアン)
 「The world is the wall-paper that looks like a truthiness.」
 
 ある時期から政治家が合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に変わって、
むやみに感情や「勘」に訴えるようになってきた現状を評したものです。
現代社会とはこの”真実っぽさ”に寄って全てが構築されてしまている。
最近の安倍内閣の現状もこのレベルで彼らたちの答弁そのものが既に” truthiness.” 
 そして、M.ムーアが発した、「これは終わりだが、始まりでもある」/
"However this ends, that's where we begin."

 このP.トランプ当選後の彼のこの発言では,何が”終わり”、何が”始まった”と
言うのでしょうか? 
 「近代」という時代の終焉とFAD,
 ここに来て、「近代」という時代が終わり、新たな時代が誕生するだろうという視点が
あります。昨年”ル・コルビジュェ”の作品群が世界遺産に登録されたこととは、
”近代”がもう既に、遺産になってしまったという視点が読めますね。
 皆さんの周りのより、現実的な世界を見ていただいて、何か、今までとは違った
”something new"な匂いや段取りの違い、気配などを感じ始めていませんか?
これは、FAD現象と言い、一時的な気まぐれな流行りのことであり、このFADは
トップトゥダウンするもので、ある少数特定集団が起こす癖の強いブームの発端です。
これに対してTRENDは一般大衆のうちで流行るものや現象をメディアが仕掛けたもので、
ボトムトゥアップという動きをする流行そのものを言います。
 実は、ファッションの世界の面白さとは理屈ではなく、この”ファッド”なリアリティを
路上で生み出せることがファッションのスピードであり、凄さと役割なのです。
 音の世界はこのファッドを直感によって最初に感じさせてくれるものであり、
ファッションはその感覚とリアリティをイメージングによってブリコラージュしたところで
生み出せる世界だから面白いのです。この現実の実例は、今では、insta.がまさにこの世界の
代表になっていますね。ファッションの種子はいつも”路上”に蒔かれ、”路上”で育ち
広がってゆくFADなものなのです。だから”街・スナ”がウケるのでしょう。
 
 現代は人と”繋がっても”そこにお互いが直感で直に繋がり合える”感動”がより、具体的に
必要な時代が来ています。彼らたちはPCでの繋がりに限界ともどかしさをやっと感じ始め
たからでしょうか?そしてここには、”便利”と”感動”は自ずから本質的に価値レベルが
違うことがわかり始めた若い大衆たちの誕生があります。
 彼らたちはこのようなファッドなリアリティの一片づつをブリコラージュしてゆけば、
”あたらしい自由”が得られ、”新しい何か”が始まることを触覚的に感じ始めたようです。
このリアリティこそが、僕は「近代」という時代の次なる自由を生む
時代のエッセンスだと感じ始めています。

「ナマ/live感」という”コトのアヴァンギャルド”が産む”Tactility/触覚”,
 時代はまた、「ナマ/live」感を必要とし始めました。
モノの新しさはそのほとんどが”バリエーション”の世界でしか有り得なくなり、
コトを興す事によって身体に直接感じる「ナマ/感」がMDされ始めています。
小劇場、ライヴ、フェス、ダンス、ラップとジョギングそれらに、習い事のヨガやストレッチや
ベリィー、フラなどいろいろな身体そのものから感じる「ナマ感」ですね。
それに”do sports"群。オリンピックを目標にしたアスリートたちが時代の表層になってしまう
時代性も手伝っています。この裏には、バーチュアルなエモーションではなくより、
直感できるナマな皮膚感覚の「エモーション」が激しく恋しくなり始めたということで、
ここでのキーワードは”Tactility/触覚”です。
 今までの過去においても「ナマ/live感」は当然、感動を得るための原手段でした。
そこへ、「ヴァーチュアル・リアリティ」という新たな仮想感動も知ってしまった現代人が、
オプションすべき、感じたい「感動」即ち、皮膚感覚としての”Tactility/触覚”を興奮させる
「ナマ/live感」とは?を感じ吟味することが大切な時代性なのでしょう。
ファッションの世界では、”皮膚感”に優しいという”機能”ある素材を使ったものが
ここ数年来のトレンドで有りすでに、「ヨガ・ファッション」や「アス・レジャー」という
ジャンルが生まれていますね。また、「”コトのMD”としてオケージョンでまとめられた
アイテム・ショップ展開」も増えている。
 従って、このようなFADなリアリティを”触覚”中心にして感じ取ることが現代社会では
かなり、重要な人間個々人の”感性の差異”でしょう。ここには”教養”と”感度ある感性”の
4Kが要求されるからです。ここでは”情報社会”に生きている現代人たちが持ち得た
”ヴァーチュアル・リアリティ”とそこに出現する”真実っぽさ”によって、
”センス オブ ヒューマン”が劣化してしまっているからです。
 すなわち、”時代と寝る”ためにはより、人間的なる「クオリティある繊細さ」を持って、
何を”オプション”するかが重要な時代です。
 このような時代は表層の豊かさのみが”液化現象”を起こし、全てが”真実っぽさ”における
”バリエーションの世界”になってしまったという視点も可能です。

PART-2;世界はどうなるのか?
 「Friendly Fascism」から「安心のファッシズム」へ;
 これからの世界とは確実に、小さな塊の、より強靭なコミュニティを羨望する各国の動きが
活発になるでしょう。すなわち、保守が進展すれば当然のように起き上がってくる
”愛国心”という怪物の登場です。この古き新しさでは、新たなバランスとしての
”ナショナル・アイデンティティ”と”ネイション・アイデンティティ”のセルフ・バランスが
問われる時代性になってゆくでしょう。グローバリズムによって、大きく固まった
その実態構造そのものが不誠実なものであること自体を知り始めた知恵ある諸国と諸民族は、
より確な”塊”へ揺れ戻しの始まりが起こる。
 例えば、英国もEU離脱をオプションし、他のEU諸国においてもそれぞれのネイション
アイデンティティが国別に強くなり始めるでしょう。
 極論ですが、トランプ政権下の合衆国ではもしかしたら”州”が個別にインデペンデントな
構造体になり始める可能性もありますね。
 グローバリズムによって、国/ガヴァメントと企業/ビッグ・ビジネスという”複合企業体”が
地球規模でそれぞれの産業において、それなりの企業形態を成立させてしまったのが
20世紀の最後の役割だったのです。
 ここで参考にするのが、すでに40年は経過してしまっている1980年、
アメリカで出版された「Friendly Fascism」という本です。
(これは、今回のトランプ選挙陣営のネタ本の一部です。)
 「Friendly Fascism」とは、;(
参照/翻訳版「笑顔のファッシズム上・下」B.グロス著;日本放送出版協会刊)
 『新しい独裁政治がアメリカ全土にゆっくりと忍び寄っている。”政府と企業の複合体”が
何十年もかかって、次第に形成され、その複合体の司令部には顔のない独裁者が
座り込んでいるのだ。彼らは自らの権力と特権を拡大しようとして、組織や個人のために
なりふり構わず利益を追求している。さらに、広い意味では、経済的操作や情報活動、
あるいは軍事的侵略による、世界各地における国際政治への介入の拡大等も、
そういう独裁者たちの利益追及の結果生じてくることなのだ。
 こういった自体の全てがすでに、世界的な規模で軍拡を煽り、核兵器及び通常兵器という
殺人のための機械の備蓄を増大させているのだ。(これは現在の安倍内閣以後の日本における
”政治と企業の複合体化”から軍事防衛費予算がだんトツに増大し、戦後以降、具体的なる
今後の”軍産複合体”構造を構築しはじめている現実にも現れている。/筆者)
 アメリカはまず、”軍産複合体”の手に権力が握られ続いて、この複合体に類似したものが
多数存在してしまっているのが現実です。そしてこれらの構造体は”多国籍企業体”構造を
持ってより複雑な存在価値を構造化してしまっている。 
 原子力複合体、科学=工業技術複合体、石油=自動車産業=高速道路複合体、
銀行=証券会社=住宅産業複合体、都市計画=開発産業=不動産業複合体、農産物生産及び、
加工と農機具・肥料・飼料の製造販売までも含まれる農業関連産業複合体そして現在では、
IT=モバイル産業=情報産業=メディア産業複合体などなど。
 これらの複合体に実際の企業名を当てはめればその実態が見える。
彼らたちは公然と貢献したり、秘密裏に援助の手を差し伸べたりして、その経済的基盤や
それを育む環境を備えている公共機関や大学が加わり、これらが複雑に絡み合ってさらに
巨大な複合体を形成しているのが現代の社会構造であり、こういう色々な複合体と同様に
重要なのが、顕在化しているビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携であり、
この現実が今では世界のいたるところで見られ、その根幹は巨大な超国籍企業と様々な
多国籍複合体にある。ここに、新しい独裁主義を成立させている。”新しいファッシズム”は
その国の伝統や文化遺産によって違った色合いを浴びて現れるだろうし、人種構成や宗教の
構成、政治機構、地政学的環境などによってそれぞれが違った様相を呈する。』
 これらが世界にまたがる”自由主義諸国”を一つにまとめ上げたのが21世紀の
”グローバリズム”の根幹です。
 そして、もう一つ、現代日本のファッシズム、「安心のファッシズム」とは?;
 では、日本的な視点でこの現代という時代性を新たな視点で捉え、考えてみると、
僕が、「家で、みんなで安心・安全・快適」というコンセプトを初めて使い始めたのが
90年代も終わりに近い頃で、”保守の中庸化”の兆しが射し始めた頃でした。
 当時、”ヤンキー”と呼ばれていた若者がそれぞれの実家へ”パラサイト”し始め、
彼らたちが”マイルド・ヤンキー”と呼ばれ、”地元”での実家生活が
「家で、みんなで安心・安全・快適」へ向かい始めた。
 また、当時のファッションのコンセプトが”WAPPING"から"PROTECTION"へ
変革し始めた時期でもあり、例えば、世間ではそれまでタブーの一つであった自らの身体に
傷をつける、”tatoo”がクールになりfadな流行となり始める。そして、ファッションは
”ラッピング”から、着る人間の身体と心を「安心・安全・快適」に
”プロテクト”し始めた頃でした。
 その後、インターネットの普及化とケイタイがより多重・多機能化し”スイカ”カードが
生まれ今のような平成の「安心・安全そして、スイスイ」社会へ発展進化し、
日本社会の現実である「安心のファッシズム」構造が構築され始めました。
この平成の「安心・安全そして、スイスイ」ボケの現代社会を切った本に、
「安心のファッシズム」という本があります。
(参考;「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;)
 現在ではこのコンセプトはすでに常識になってしまっていますが、
当時はフード付きの”被り物”はまだ限定されていて、ブラックのストリート・キッズから
発生し、グラフィティとラップによって”プロパガンダ”されそして、流行によって”クール”に
なり、今では当たり前の一つの”生活衣料品”になっている。これがまさに”サブ・カルと
ファッションの液化現象”です。日本のお笑いの世界も、”シソンヌ”のギャグ・コントのネタが
現在の”spa"型のショップの現実をパロディっているというまでの”SPA"ファッションの
”液化現象”も見られます。
 
 考えてみると、「誠実に生きる、真面目に生きる、真剣に生きる」等とは、これらは全て、
与えられた”自分の生”に対しての、自分の自由な生き方への詞です。これらを放棄さえすれば、
みんなと一緒になれば、その社会の人間たちは誰でもが、「みんな、安心・安全そして快適に
スイスイ」と生きてゆけますよ!という社会構造の構築とアプリ等の科学技術の開発によって
素早く現実に至った現代日本社会です。
 ケータイがなければ何もできない、電車にも乗れない、街も歩けない、学校へも行けない、
そして、”みんなと一緒に”世間”で”暮らしてゆけない社会の構築。
 この与えられた、巨大なシステムに操られることが苦痛にならずむしろ、心地よく便利に
スマートに生きて行けると感じさせる時代性がここに、見事に構築されてしまいました。
 これは、物事の根幹を知らなかったら、”知性”や”教養”に関係なく全てに飼いならされて
しまうという時代性とも読めるのです。これが現代日本の「安心のファッシズム」の由来です。
ここには現実としての、「一台のケイタイ電話+各種アプリ+1枚のプリペイドカード
+クレジットカード+キャッシュカード+各種会員カード+マイレージ各種クーポンサービス
+社員証+マンションキー+スイカ等の交通機関乗車券などなど、」
=安心、安全そして、スイスイ快適生活=「安心のファッシズム」という
現代日本社会構造のマニュアルが出来上がってしまっています。
(参照/日経新聞/2004年5月20日付け。)この構造を起業化したのが、
「フィリカネットワークス」という2004年に設立した企業です。ある意味では
たった”1枚のカード”に不動産価値構造を構築し、ケイタイを生身の人間を”ハブ”機能と
させれば”スイスイ・快適”が日常化するという「安心のファッシズム」の発想であり、
これも”グローヴァリズム”以降に打ち上げられたサテライト衛星がもたらした
”新しいフツー”でしょう。
(参考/フィリカネットワークス”=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立:http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html)
 ここでは、地上のすべてがマーケッターたちの”ゲーム版”上と化してしまっています。
「動く商圏」を構成する「息する財布」としか、認識されなくなってしまった人間たち。
大衆達は「操舵の術」としての”マイカード”と繋がるための”ケイタイ”によって、
現代人の肉体そのものをコントロールされていても違和感を感じないように飼い慣らされて
しまっています。ここでは、便宜さ、便利さや煩わしさののために人間が人間らしく生きてゆく
ための何かを代償としてこのような「安心のファッシズム」を選んだのが
現代日本人の99%でしょう。
 ここには、”みんながしているから、”という価値判断に委ねられた世界でしかありません。
これらはすべて、「大国の軍事衛星」を経由して、GPS機能を利用し流される彼らたちの
”都合”に操作されているという”根幹”は果たして、どれだけの利用者たちが認識した上での
”スイスイ効果”なのでしょうか?GOOGLEの大手得意先はNASAでありUSガバメント系です。
ここでは、「自由に生きる」ことそのものが変質、変革され”操作”されてしまっているのです。
現在のサテライト数は世界では76個が打ち上げられています。
(アメリカ32、ロシア24それに、中国16,それにEUが4。この現実が現在の世界の
”発言力”を持っている巨大国家とされています。)
 
 ここで問う、”ファッシズム”とは?本質的に、ファジーな曖昧なものの塊を言います。
全ての根拠が”曖昧さ”で始まっている現代のキーワード、「真実っぽさ/truthiness」の世界
そのものであり、自由でないことの”幸福感”が芽生え始め、支配されたがる人間が主人公/
ヒーローでありる世界。
 そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている都合の良い自由の不自由な社会。
しかし、この世界を誰が作り始めたのでしょうか?そして、どんな人たちが我れ先にと
その世界へ駆け込んだのでしょうか?ここに、ビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの
提携連帯で築かれ作られた”複合体”社会の真意があり、「使われ慣れした、使われやすい、
飼いならされたい”イイヒト”たち」の登場いわゆる、”世間にお利口さん”な世代たちが
登場し、そして、ご主人様になる。
 今年になってより、表層のメディアを騒がせ始めた、”A/I"の登場があります。
”新・移民法”の制定と重なって、今後の「少子高齢化社会」発展という日本の
”新しいフツー”のためのシナリオの読み合わせも始まった。
 そんな僕たちの国の現代社会の表層は更に、ただ、「真実っぽさ」が。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」

PART-3;「ファッションの世界」では、
 「安心のファッシズム」と「ファッションの新しさとは?」;
 このような現代社会「安心のファッシズム」下のここ10数年間に現代の日本の
ファッション産業がどれだけ「新しいフツー」を進化させてきたのだろうか?
今の時代における「一番、あたらしいとは?」もちろん、「あたらしい自由」と
そこから培った「文化度あるスキル」を携えて鮮度高き時代を読むことである。
その一つは当然、見たこともない、目新しさとしての「先端」を「JUST NEW」で創造する
ことであり、もう一つの「あたらしさ」とは「最後尾」に位置することでの
「OLDEST NEW」を見つけることのの2つ。その他はすべて”中途半端”でしかない「SOMETHING NEW」で提案するバリエーションの世界です。
 ここには、「先頭か、ビリか」のみが新しさを生む立ち居場所である。
しかし、ほとんどのアパレルのMD担当者たちは自分たちで、感度高く”リアリティ”を
読み込むことができない不勉強があるために結局、彼らたちがオプションするのは
”右で売れたもの、あっちで評判のもの”を「右から、左へ」の「中途半端な新しさ」に
なってしまう。その結果、店頭では「どこでもドアならぬ、どこでも同じ」になり、
”パクって、勝負”という立ち居場所が日本のアパレル産業の特徴となり、それによって
「日銭が稼げる」という貧しさであり、この根幹ゆえ国家がバックアップするまでの
「複合産業構造態」には40年を経ても、日本のファッション産業はもなれない。
その結果が、今では”ホールディング企業が行なっている流行りの「マネーゲーム」の格好の
”コマ”の一つでしか無くなっているのがもう一つの日本の現代アパレル産業の淋しい現実
なのです。
 ファッションビジネスの新しさには、僕のようなものから見ると、”e-コマース”と
そこへ辿り着くまでの”情報発信”としてのアプリ、サイト、ブログ、snsそして、
インスタなどは当然、デジタル技術革新によってもたらされた新しいファッションビジネスの
情報源であり手法であり当然の新しさです。しかし、それ以外、商売の根幹はほとんど、
40年前と変わっていません。例えば、このファッション企業の人たちは未だに、
”FAX”を実務上使用しています。

 むしろ、「安心のファッシズム」で飼いならされ始めた”人間の退化”によって、
チャレンジしない、人が考えつかないことは考えない、自分のことで精一杯、
楽な方がいい人間たちの仕事そのものも”退化”してしまっているかもしれません。
 そこで、今後のファッションの世界の革新を考えると結論は、”ファッションのe-コマースと
その周辺環境が出来ないこととはなんなのだろうか?”という視点でしかありません。
どの様な「文化度」と「感度」で人間的なる自覚の元に顧客を想い、オプションし
チャレンジしてゆくか?を考え、話し合い、実践してゆく”古き手法”に尽きるのが
一案でしょう。
 なぜならば、ファッションとはデザインのカテゴリィーでありリアルな”世間”へどのように
”コミット”するかが倫理上においても問われなければならないリアル・ビジネスの世界だから
です。
 ここでは「ナマ感」マーチャンダイジングとでも呼ぶ発想で、例ば、”MD"や"VMD"などの
ルーチーン仕事をこの眼差しで見直す必要も、「もう一つの新しさ」に気づく発端に
成り得るでしょう。
 例えば、「ファッションが与えれくれるハッピィネスとは?」の根幹を考えることも
ありでしょう。もう、自分たちの商品という”モノ”だけを売っていても顧客たちは
当然ですが、当たり前になりすぎて「ファッションが与えれくれるハッピィネス」を
感じなくなって来ています。
 ”モノ+コト”の複合関係における相乗関係を「文化度」と「感度」によって、
具体的に考えることも一案でしょう。当然、彼ら顧客たちが購入したいモノとは、
「あの人と同じ」「みんなと一緒のもの」という「安心のファッシズム」下における
”ユニフォーミズム”の消費行動でしかなく、それらの”モノ”はもしかしたら、
ネット上も含めて、どこにでも既に在り、売られている”モノ”でしかないというまでの
”液化現象”がここにも観ることができます。
 
 「安心のファッシズム」における”繋がる”=”閉じ込められる”装置としてのインターネット、
ケイタイ、スイカ、SNS他が生み出す世界とは"ヴァーチャル・リアリティ”と
”ヴァーチュアル・イメージ”現象でしかありません。これらを使うことで”モノを買う”という
e-コマースの世界はある意味で、世界規模の各種の「ユニフォーミズム」にとっての
自動販売機です。
 が、そろそろ、この世界の限界も見え始めてきました。
例えば、”デリヴァリィー・プロブラム”あがあり、このIT環境をそれなりの資金を使って
アプリやサイトを構築すればあとは”スイスイ”が定番になってしまった現代の液化現象。
このような日常になってしまったリアリティにおいては、「ファッションを売る」ためには
どのようなナマでしか体感出来ない「ナマ感」現象が考えられるか?
 結局、「人間を喜ばすには人間にしか出来ないソフト」というアナログ発想です。
ショップへわざわざ行って”服”を買うことの楽しみ、喜びそして緊張感や見られることの
快感そして、気に入っている販売員さんとおしゃれな会話をする等など。
 これら従来の「ファッションを売る」という世界では当たり前だった諸「ナマ感」効果が
無くなり始め、ショップへ行って買う行為からの”エモーション”そのものも消え始める。
この「ナマ感」が与える”エモーション”とは?の復活でしょう。
 
 「安心のファッシズム」社会における顧客たちの欲求とは?そして、”ストレス”とは?
あるいは潜在的に欲求している”コトのアヴァンギャルド”とはなんなのだろうか?
ここには 何にに手間暇をかけ、自分たちの手が届く”感動”とは何なのだろうか?
というダイレクトな視点が必要でしょう。
 この「ヴァーチャル⇨リアリティ」化されてしまっている”世間”というコミュニティへ
何を差し出せば”わざわざ感”を”エモーション”へ変換できるのでしょうか?
ここに、今時代が望んでいる関係性のための、”ナマ感”で通じ合える”喜びとプライド”が
あります。
 ”妄想”あるいは、”真実っぽさ”の日常性。;
 それを生み出す現実の、”繋がる”=”閉じ込められる”装置否、”檻/安心フレーム”の中でしか
感じられない「安心・安全そして、スイスイ快適」ボケは完全な一種のファッシズム構造で
あり、その中での関係性とは、「集団と個人の関係性」がメインであり、
個人による「自己確認」という行為も当然ですが、他者を介さないと確認できない
「個人と個人の関係性」であり、まさに、”世間”はその中で可能なヴァーチャルな関係に
漂っているだけでしょう。
 では、「個人と個人の関係性」では、”そこに居た”というまでの実存感から生まれる、
”ナマ感”が望まれ、ここでしか感じられない一回限りの”エモーション/感動・感激”を
どのようにファッションをデザインしたりあるいはファッションを売る際に心するか?
の発想もこれからのファッションビジネスには大切な要因になるでしょう。
 例えば、今、若者たちに人気のラッパーたちが吐き出す”コトバ/詞”は彼らたちの
リアリティから吐き出されたもの。その”ナマ感”が感じられるもの程ウケるのが今の音の世界。
当然、そこから発せられる”エモーション”によって身体は奮い、動き始める、これがダンスの
世界。したがって、若い世代の今におけるファッション・イメージングに於ける
”ソース オブ ザ クリエーション”はやはり「BLACK」の世界観へより近づいてしまっていますね。
(参考/「TV番組/「フリースタイル・ダンジョン」https://ja.wikipedia.org/wiki/フリースタイルダンジョン)

PART-4;「新しいまなざし」
 ファッションはもう”ユニフォーム”になってしまったという視点。
 「自由に生きたいために求める自由。与えられた檻の中で求める自由あるいは、
満喫する自由。」 
 ここにも、”タマゴが先か、ニワトリが先か、”の世界がありますね。
 僕がファッションが好きで、この世界に40年も関わっているのは、
「ファッションとは、自由の裁量である」という僕なりの視点とファッションに抱く
価値観が存在しているからです。
 しかし、現在のファッションとは、”人と同じものを着たい。
同じ世界に生きたいから、”というベクトルに、いつの間にかその世界と価値観が
変化してしまっています。
 「自分らしく自由に生きたいために求める。
あるいは、自由に生きたいためにはどのようなものが着たいか?」から、
「与えられた自由の中でのみんなと同じ自由さを満喫するためのファッション」に
変化してしまった現在。ここにも「自己確認」作業のための”ユニフォーム”ですね。
 ここで見えて来るそのファッションとは、”ユニフォーム”でしかありません。
例えば、”マイルド・ヤンキー”たちのユニフォームや、彼らたちの”パラサイト・自立”化に
よって生まれ構成し始めた「平成のニューファミリィ」たちのユニフォーム。

 ここで、皆さんは少し前に放映されていた「UNIQLOの広告コピー/Life Wear Stories/
新たな日常着の追及」をどのように考えていらっしゃるのだろうか?
 「私たちはなぜ服を着るのだろう。正解はひとつじゃない。生活をよくするための服を
つくろうと、私たちは問い続ける。」
 案外、ここに現在のファッションビジネスが迎えてしまっている”液化現象”の根幹が
見えるように思うのです。 
 今、日本のファッション産業が迎えてしまっている「売れにくくなってきた。」
「ファッションを売ることとは?」などの現状に向かってこの”UNIQLOの広告コピー”を
真剣に考えると、もう一つ、”ファッション”という言葉がより、拡張された”液化現象”状態を
示唆したものであり、その現実世界のリアリティある”生活様式”へコミットする世界があり、
もう一つは彼らたちの「文化度」と「美意識」を探るまでの”ユニフォーム感覚”を
新たなファッション感覚としてこの”液化現象”へオプションすること。
 この2つの発想に、どれだけ対峙したそれぞれの立ち居場所を持つか?
ここにこれからの「あたらしい自由」の根幹があるでしょう。
 「安心のファッシズム」における”UNIQLOイズム”とは、自分たちの”塊”においての
”液化現象”、「みんなといっしょになりたい」というまでの「シン・”衣料品”=CLOSING
+オシャレ感=ファッショナブルなUNIFORMIZM」という図式が知らぬ間に
主流になっているのが現代でしょう。
 例えば、前出のすっかり表層からは姿を消したような”マイルド・ヤンキー”たちも、
液化現象として”パラサイト・家族”している。
 そんな”マイルド・ヤンキーシン・ファミリィー”の「ユニフォーム」ブランドが今は
市場でも主流になり、激戦化していますね。
(SPA系ブランドのファミリィーブランド化、UNIQLOやGLOBAL WORKなど、、、)

PART-5;自分たちの「ブランド・ファッションを作る」とは?
 ファッション・ディレクターの役割とは?;
 もう一つの「あたらしい自由」のためにファッションの関係者たちが考えるべきこととは、
今後の”ブランド・ビジネス”においては、そのブランドが持ちそして、創造し提案すべき
「ブランドの世界観」が大切な「ブランドを創る」ことの根幹になる。
 ここでは今まで、クリエーションだと思い違いをしていた、自己顕示欲のための表層の
ディーテールにおける形骸的なデザインだけではもう、誤魔化すことは出来ない。
この世界は20年ほど前に既に、終わってしまった。
 即ち、「ブランドを創り、売る」とは、ブランドをディレクションしているディレクターや
企画メンバーたちが生み出す「世界観」を構築し、イメージングして売ることが
現代ファッションビジネス必須の根幹。そのためには、ブランドの”文化度”が必需となる。
これを育成してゆくためには、”文化力”+”感度”+”妄想力”によるブリコラージュ的な
創造性が必要になる。ブランドビジネスとは、このブランドの「文化度」によってブランド・
マークをクリエーションし、インデペンデント化することでしかない。
 従来型のファッション流クリエーションビジネス即ち、世界のトレンド情報を主軸とした
”右と同じ”あるいは、”同じらしく”または”パクる”というプロセスだけだでは
継続が至難になろう。
 あるいは、売りたい顧客たちのための「ユニフォーム/ユニフォーミズム」に特化した
「文化度」レベルのブランドに成り下がることでしかないでしょう。
 あのUNIQLOの立ち居場所は自らが質も量もここに”特化”したことによって成功に
至ったのですから。
 では、「文化度」とは?「ブランドの文化力」とは?;
 これは世間で問われる”ブランドアイデンティティ”へ繫がる視点の再認識ですが、
まずは、誰とファッション・キャッチボールがしたいのか?が
この問いの始まりになるでしょう。
 「それぞれのブランドが、どのような女性たちへ向けて発信されているか?
そのそれぞれの女性たちがどのような時代に、どのような考えを持って、
どのような生き方を望んでいるのか?あるいはしている女性たちなのか?」
という視点とその情報を「ユニフォーミズム」発想で認識すること。
 次には、それらの情報量をブランドの作り手たちによってどれだけ確りとした考えと
念いを馳せるか?言い換えれば、ブランドの作り手たちがどのような価値観や時代観そして、
美意識を持って実社会と関わり、作り手自らも、”リアリティ”を持って生活しているか?
というまでのパーソナルな教養とスキルと経験と美意識が当然、根幹となる。
 その上で、「ブランドの文化力」とは、どのような”生活者ユニフォーム”を必要としている
女性をターゲットにしたブランドなのか?その時のターゲットの女性像とは?
その時の時代観とは?その女性たちにどのように着て欲しいか?
そのために顧客たちの女性へどのようなブランドとしての”美意識”と”ステートメント”を
差し出せられるか?
 ここで、僕がいつも発言している、”May I help you?"というこゝろの有り様で、
社会にコミットできるまでのブランドであるか? ないか?
それが「ブランドの文化力」になる。
 これらを実際にブランドに携わっている人たちが感じ、考えそれぞれの共通言語を持って
日常の仕事に携わっているか?そのためのブランドとしての”心”と”眼差し”を持っているか? 
 このような「ブランドの文化力」を向上させ「文化度」をつけるにはブランド全体の
共通言語が存在するか?そのボキャブラリィーでコミュニケーションが取れるチームワークが
出来上がっているかが全てでしょう。
 「文化力」とは、個人的内面の発見であり、自分自身を、自分の生き方を、認識と感性を
改造するという発見なので、「文化度」を豊かに育成させるための自心の ”土壌”に
こゝろ有る世話を忘れないでしてあげてください。
 いまや僕らの住む世界は、画一的な「ノーブラウ(愚か者)」たちを標的にした
「安心のファッシズム」が生み出した”どこでもドア”的なる巨大商業主義の世界でしかなのです。 
 そこで、「何を作ろうかよりは、何を着てもらえるか?」;
 新たなファッションゲームにはこの視点が鋭くそのための関係性と諸情報とその情報処理に
おいて、知的で美意識高ければより、勝者に近づく。
 現在の巴里発の「ラグジュアリィーブランド」ビジネスのその根幹はすでに「SPA」型
ファッションビジネス構造である。そのビジネスの根幹は「ラグジュアリィーブランド・
ビジネス」と「ファストファション・ビジネス」は同類である。違うことは、[イメージング
+広告戦略+VMD+ブランドエクイティ=贅沢な「ラグジュアリィーブランド」]という
差異で、顧客を揺すぶっている現実でしかない。
 これらを誰が統括的にディレクションが出来るかが、この新しいファッションゲームを
担っているゲーマーたちの役割でありそれが、「ファッション・ディレクター」の登場であった。
 再び、「女性たちが経済的・政治力を発揮し始めた時期だ。ところが彼女たちが着る服が
市場にあるの?!」という時代が到来した。ここで、新たなる女性たちのユニフォームが
必要になり始める。
 彼女たちへ与えるべき3つの特徴、「見栄えのよさ、ウィット、センスの良さ」を
働く女性たちはいつも欲している。ここに、「ブランドの文化力」が秘められていることも
認識しておく必要があろう。
 或いは、従来のデザイナーがなすべき仕事を工場に委ねそして、
新たなブランドチームとしての構成を考えることも「ブランドの文化力」の育成化に
つながるだろう。
 現在のファッションビジネスにおけるアトリエ構造は「F.D+M.D.+生産企画+生産管理」
+営業力+e-マーケッター+S.P.+A.D.+プレス=新しいチーム。という公式になった。
 ”あたらしい自由:が生み出す、「あたらしいフツー」;
 今後のファッションにはどのような”ポジティフな新しいクリエイティヴィティ”が
可能なのだろうか?
 このような時代観と”世間”のリアリティを考察し読み込んだ上、今後のファッションには
どのような可能性が考えられるのだろうか。
 ファッションデザインは如何様にして、”世間”に「あたらしさ」をコミットさせるか?
するか?或いは出来得るか?これが産業と結びついているので、難しい世界である。
 例えば、個人の思い付きだけで”アート”ぶっている間はまだ本質的に”デザイン“は
為されていないか、熟されていない。ファッション・ガーメントを作り出して、
社会にコミットさせることでデザインの創造性が完結する世界である。
 従って、「時代を感じさせる良いクリエーションは良いビジネスを生む」を信じることが
必要である。この”時代を感じさせる”というところにそれぞれの”新しさ”があり、
そのための"あたらしい自由”さを感じさせられるか?がデザインクリエーションの
全てであろう。
 
 20世紀から21世紀に入って、PCが新たな機器になり、大いにこれを利用した
ビジネスがこのファッション界でも進化した。が、ファッション・クリエーションの世界では
どうであろうか?
 「ファッション=人間が着る」という公式が変わらないために、その可能性がどんどん
”素材ありき”の世界へ、それらの素材にどのような後加工が出来るかという新たな可能性も
含めたところへ追い込まれてしまったのが現在の”ファッション・クリエーションの新しさ”の
世界であり、ここへ”ネタ元”として、割って入り込んできたのが、
”ARCHIVE"という世界である。
 3年前に僕が提言した、現在のファッションにおけるクリエティビティとは、
既に、”ヴァリエーション オブ アーカイブ”あるいは”ブリコラージュ ドゥ アーカイヴス”が
根幹になってしまった。
 巴里のこの世界を見ていると、”アーカイヴ”を知らな過ぎるあるいは、”モードの歴史”を
知らない若者たちが、より、知らないブロガーたちを騙している世界でしかない。
 例えば、VETMONTなどのデザインはこの世界でしかない。
 ここで、「人間が着ることがファッションの世界。」という根幹から離れることが
できなければ、決して、新しいものは生まれ得ない。
 ここが「あたらしい自由」なる発想である。
着る人間の体つきが変わらない限り、ファッションにおけるクリアティビティは今後も
ますます、”ヴァリエーション オブ アーカイブ”の世界であろう。
 「今後のファッションにおける新しさ」とは2つのコンセプト;
 ここで共通することは、その新しさは全て、新しい素材とその後加工方法によって
「あたらしい自由」が”商品”化されて、社会に新たなコミットすることである。
すなわち、「新しいフツー」あるいは「次のフツー」の提案である。

 一つは、僕が3年前に発言してきた、”WITHOUT SEWING"の世界。
「今更、糸と針とミシンによって作る服」というのが古いというコンセプトで生まれた
”WITHOUT SEWING"の世界。
 ファッションの世界がより「プロテクション」というコンセプトへ”進化”(?)する
この時代性にあって、そのオリジナルは日本の戦国武将たちが装着していた『甲冑」がある。
 現実に、ここにあたらしい”機器”としての”3Dプリンター”が使われその世界がより、
ポジティフな可能性が生まれ、この立ち居場所で活躍し始めたクリエーターたちが誕生している。
 例えば、”CdG ・ノアール”や”中里唯馬”の存在も確実に「あたらしい自由」のもとでの
彼ら自身の世界を作り出している。彼らは”レゴ世代”である。
 そこに、PCを製作機器として使い込むことで彼らの世界観により、美しさと新しさが
すなわち、”スキル”と”美意識”が見事にメチサージュされている。
 PCを使ってこの”WITHOUT SEWING"の世界を探してみると、素晴らしい美の世界へ
挑戦している創造者たちが多く現れていることも知ることができる。
 今後のファッションの立ち居馬車そのものが一つは”ユニフォーム”であり、
もう一つは”コスチューム”という両極端へこれも”進化”(?)してゆく社会性からも、
この”WITHOUT SEWING"の世界は確実に、新たな”ステージコスチューム”から始まり、
2050年までには新たな”ユニフォーム”になるであろう。
 
 ここでは「服を着る」という概念を変えることからこの「あたらしい自由」が始まる。
すなわち、新しい生活あるいは、”新しいフツー”のための共通言語としての
「ボキャブラリィー」を見つけ出すことから始まる。
「着る」という行為から「装着する」というコンテンツで今後のファッションがポジティフな
可能性を持つことができる。ここで大きく変革することは、服で全身を覆い隠すという、
「着る」という行為から、自分が隠したいところすなわち、プロテクトしたいところ
あるいは、見せたいところに「装着する」という新たしいコンテンツを考えれば、
”WITHOUT SEWING"の世界がもう一つのファッションの世界になる。
 実際に3Dプリンターを使っての作品を発表しているオランダのIRISの場合も6つ割りにした
パーツを「装着」させているのだ。従って、この3Dプリンターでの作品例が比較的多い
「シューズ」もここでは「装着」するというコンテンツで履くことになっている。
 昨年の「パラリンピック」を見ていても「ファッションの新しさ」への大きなヒントが
あったのを思い出そう。ここでは身体の一部としての「装着」する世界で競い合っていた。
ここには貪欲な”人間そのものの現れ”としての”強者”の世界でしかなかったことに驚く。
 
 「今後の新しいファッション」を論じるならば、「あたらしい自由」を確認し、
その上で、新たな「ボキャブラリィー」を見つけ出さなければ”新しさ”が生まれる確率は
極低する。
 もう、この現状況でのファッションの世界における”クリアティビティ”は全て、
「ヴァリエーション オブ アーカイブ」でしかありえない。
が、この現状を救うことができるのは「新しい素材」とそれらへの”後加工”に
委ねることでしかない。
 「新しい素材」あるいは、「使われることがなかった素材」を使うこと。
ここには当然、”縫えるか縫えないものか”の根幹が示唆されることによる
「新しさ」の可能性である。
ここにも”WITHOUT SEWING"というコンセプトが浮かび上がる。
 
 では、もう一つの新しさとは、
 これは実に面白いコンセプトのファッションの世界が訪れる可能性がある。
これも、「新たなユニフォーミズム」からの”裏”の発想である。
 もともと、ファッションとは「自身の存在を着る物」によってより、顕著に自己を
表現するために始まったものである。すなわち、”自己のアイデンティティ”を明確にさせ、
確立させそれを自己の表層のコードと化するためのものであったということを思い出そう。
 身分や地位そして育ちなど、諸々の社会で生きてゆくために必要な社会的な”コード”が
現在までのファッションの世界の進化論である。
 しかし、ここで、もう一つの「あたらしい自由」さでこの現実の”世間”を見てみると、
”時代のリアリティ”の一つに、「個人の自由」が街中に張り巡らされてしまっている
監視カメラや携帯やPCによってそう、「安心のファッシズム」状況下、知らぬ間に
「個人の自由」は犯さててしまっている。
 また、昨年の日本は芸能界のスキャンダルが多発化した年でもあったが、
このような状況は今後、個人の生活をも脅かすまでのここでも、”進化”(?)があろう。
そんな新しい時代性を想像しそこからのファッションへのもう一つの
”新しいボキャブラリィー”とは、真逆な発想である、「自分を消去するためのファッション」
すなわち、「カモ・ファッション」である。これは今後の新しい世代たちの一つの
「カウンター・カルチャー」になろう。”世間”で生きてゆくにも”カモフラージュ”によって
身を隠さなければならなくなるまでの”不自由”という「安心のファッシズム」時代への提言。
 しかし、この根幹はすでにユニフォームの一つである、”ミリタリィー”の世界で
当たり前になっている、”カモフラージュ”というコンテンツである。
 この世界の進化は軍需用としてそれ相当の進化をもたらした世界が現存している。
これを日常の”世間”に持ってくることの発想も、そんなに遠いものではなさそうである。
そして、”着ぐるみ”というファッションもこのカテゴリィーとして
「あたらしいフツー」になるであろう。

 『プライバシーの範疇にかかわらず、近未来のファッションは存在そのものを
”プロテクト”する何か、新しさを提供します。』
/
https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
 『私たちの個人情報と財務情報がインターネットのオンラインにおいて公共の時代には、
個人の存在が見えなくなることはない。
 しかし、オフラインでは、少なくとも、世界中の多くのファッションデザイナーは、
個人の曖昧さを払うことができるような世界を準備し始めている。
 ハイファッションを通して不可視の側面を達成するという概念は、未来的なものでは
なくなってきた。実際にはすでに可能です。
 一般人であれば、自分の写真を雑誌やsnsのページに入れることができます。
例えば、有名人または逃亡者でない限り、日々の生活の中でどのように監視されているかに
ついてはあまり考えないかもしれません。 
 が、現実には不条理なしかし、人間の感情を解釈することができる顔認識、
高精細サーベイランス、AIを含む感情技術が絶えず進化する分野では、家外に出た自分が
あらゆる高度な装置によって、自分の存在がトレース & ディスプレーされてしまいます。』
 そんな「安心のファッシズム」の社会においての究極のプライバシーを守るための
頭からつま先までの、自己を消去するためのファッション・ドレッシングのガイド/メニューが
すでにアメリカのサイトでも紹介されている。
 参考/アイデンティティを消すためのファッションに関してのサイト;
*https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
*「感情的な医学:感情的知性を持つ技術」/http://hd.media.mit.edu/tech-reports/TR-537.pdf
*顔検出からのカモフラージュ。「CV Dazzleは/https://cvdazzle.com
*幻想的な迷彩/https://en.wikipedia.org/wiki/Dazzle_camouflage
*最初のアンチフラッシュ衣料品コレクションの紹介/ https://theishu.com
*https://www.amazon.com/Kreinik-R25-Reflective-Thread-25-Meters/dp/B00CB396DQ
*ステルスウエア;ステルスウエア「アンチドローン」ファッション
/https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
*コープ・ヒンメルブラウ
/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%
BB%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%
A9%E3%82%A6
*CHBLジャマーコート;COOP HIMMELB
/http://www.coop-himmelblau.at/architecture/projects/chbl-jammer-coat
*ファラデーケージ/https://en.wikipedia.org/wiki/Faraday_cage
*ファラデーバッグ;技術を外部干渉から遮蔽する最先端のソリューション
/https://www.disklabs.com/faraday-bags/
 
 最後に、”カジノIR法案”が可決され、;
 より、リアリティな発想になりますがこれによって、現在の日本のファッション産業界は
大いなる”追い風”を再び迎えることができ、新たなビジネスの拡張へつながる
可能性が生まれるでしょう。
 かつて、90年代も半ば、都心部の「キャバクラ」が「地方都市」へ拡張され、
地方にも新たなオケージョンが生まれそれらと共に”AEON”や"駅ビル”といった
新しいディストリビューターの開発と新たな”顧客”、パラサイトし始めた
”マイルドヤンキー”との”三位一体化”によって「SPA型」が発展したあの時代性と
同様の”新たなモチベーション”がここでも「20年周期」というジンクスによって生まれる。
 東京オリンピックとカップリンなされ首都市に”カジノ”が出来るとそれがTVや雑誌メディア
また、SNSでよりパーソナルに拡張されより、ヴァニティなファッションの世界が
プレゼンテーションされ、次なるは2020年以後、カジノ・インフレンスは”大阪万博”
(立候補中)へ引火されその後、地方都市、駅前の”パチンコ館”が総合ギャンブル館”に、
”地元VIP"御用達”のカジノが生まれる機を読み込むことでもう一度、”神風”は吹くだろう。
 ここに、もう一つの「あたらしい自由」が創生され、ファッションのニュー・シーンの
誕生が読める。
 ”地方カジノ”+”路面店/ディストリビューター+新たな”顧客”の”三位一体化”
が現実になれば日本でも本格的な新たな”ドレス”マーケットが誕生する。
 が、ここでは決して、”ストリート・カジュアル”ではない。
 ここでのキーワードとは、「真実っぽさ」。
”真実っぽい”関係性による”シン・男女消費”が新たに生み出す”真実っぽさ”という名の
”ラグジュアリィー・ファッション”あるいは、ヴァニティという名の”ご利益・ファッション”
いわゆる”モテ・服”や”キメ・服”というドレス中心の”ユニフォーミズムであろう。
 あるいは、「109の逆襲」???
 エピローグ;今の日本の政治は落ち着きが有りません。気になる色々、
 北朝鮮からの”煽り”をアメリカ、ロシア、中国がそれぞれの巨大帝国主義的なる
国家エゴのすり合わせ。
 国内の憲法問題と軍事戦略を軸にした、”アメリカのポチ”化の激化。
 日本はいつのまにか、このような”軍事評論家”という人たちが存在していたのだろうか?
 「共謀罪」復活。かつての戦前の大国主義へ妄想した時代へのリバイバル。
 日本メディアは気骨をなくしてしまった。”時間売り”ビジネスに特化したための荒廃化。
 ここにも”金儲け”主義しかない現状のメディア。
 ”不動産売り”へ逆行し初めて業績が再び低迷し始めた”デパートビジネス”
 政策+国家予算の使い方+行政の動き+利権+専門スキル+工業技術+メディアの煽り
=新しいビジネスの誕生。
 国家企業規模の企業の倒産が続く。
 少子高齢化の激化。新移民法と新たな倫理観。
 A.I.という新しい人間の”エゴ”産業化が急進化。
 戦後日本で初めて誕生する新たな産業。軍事産業とカジノ産業。
 e-コマースと宅配のアンバランス化現象。
 ITテクノロジーとヒューマンテクノロジーのアンバランス化が始まる。
 水産業のオープン世界マーケット化が始まる。
 LGBT,マイノリティの表層化と社会の現実のずれ。
 築地、オリンピックそして、カジノ産業。
 ”one-box car"の色が白系から黒系へ変化始めたのだろうか?
「新たなるフツー」のための新たあるディストリビューションとは?
 そして、
これらの現実の日本の状況を”201”の項目で見事に書き下ろされた本が出版された。
 「日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」−15歳から始める生き残ろための社会学。
 響堂雪乃著/白馬社刊:
みなさん、是非、ご一読ください。
合掌:
文責/平川武治:平成29年5月15日:

本稿のオリジナルは、雑誌「FREE MAGAZINE−5」掲載原稿に手を入れました。
 *キーワード;
「Friendly Fascism」
「安心のファッシズム」
「ユニフォーム/ユニフォーミズム」
「ナマ感」/皮膚感覚
「TACTILITY/触覚」
「文化度/文化力」
「コンセプトをブリコラージュ」
「モノのアヴァンギャルド」よりも「コトのアヴァンギャルド」
「液化現象」
*参照/
「日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」
 −15歳から始める生き残ろための社会学。響堂雪乃著/白馬社刊:
「笑顔のファッシズム」B.グロス著;日本放送出版協会刊:
「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;
「リキッド化する世界の文化論」ほか、Z・バウマンの著作いろいろ。
「ヴォーグで見たヴォーグ」ー元アメリカンヴォーグ編集長/G.ミラベラの言葉;G.ミラベラ著;2,000年刊より;
「フィリカネットワークス」=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立/http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html
「面白いコント;”シソンヌ”」このお笑いコントが醸し出す世界に”ユニフォーム”を感じます。
/https://www.youtube.com/watch?v=S5CTb9HUwRQ
中里唯馬/ http://www.yuimanakazato.com
 

投稿者 : editor | 2017年05月23日 21:47 | comment and transrate this entry (0)

article(81)

決して、語られなかった”コトの次第”を、「一つの展覧会を読む。」 /”M.MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展

 私事であるが、あれほど通っていたアントワープへ今回、なんと13年振りで訪れた。
 友人であった人が”公金横領”の罪を犯してしまいこの街から逃げてしまって以来、
この街へは一度も訪れなくなった。
この街のファッション学校の形骸的なデザイン性が強いカリキュラムも
時代に遅れを取り始め魅力を感じなくなってしまったこともあった。
もう一方、この時期に卒業したという日本人学生たちが帰国して、自分たちが”小さな嘘”の
上塗りでメディアに取り上げられ、セルフプレゼンテーションを器用にやり始めたことも
この街への厭気に重なった。
 そんな以前を熟知している僕の今回のこの街への眼差しは完全に冷めきった”傍観者”で
あり、ただ、日本レストランが増え、SPA系ファッションブランドショップが目につき、
”ユダヤ人ビジネス”が堂々と表通りへ出てきてしまった街の風情にもなってしまっていた。
 では、なぜこの機にそんな街を訪れたかというと、
最近、お世話になり始めた「日経新聞 日曜版」の取材のため、僕がいる頃に準備されて
出来上がったモード美術館の展覧会のためのインタヴューが目的だった。
友人が構想して設立出来たこのモード美術館も当時、面接試験を受けて友人に採用された
女性がチーフ・ディレクターになって今回の僕のインタヴューを待っていた。
 やはり、何かおかしい気持ちでの仕事になった。
終わってみて感じたことはこの若いディレクターの喋り方が”公金横領”をした
僕の古い友人の喋り方とそっくりであったということ。またそのインタヴューテープを
繰り返し聞きながら余計に、恐ろしくも感じてしまったことだった。
 ただ一人の友人と出会いディナーに招かれ、よく行き着けていたカフェへ立ち寄っただけで
僕は隣町のゲントへ幾度目かの一人旅を気取った。
この理由は、今シーズンのパリのコレクションに影響を与えていた一つ、
”フランドル・イメージ”に再び、触れたいとの思いもあったからだ。

 僕と入れ違いに、この展覧会の当事者であるマルタン・マルジェラはアントワープへ来た。が、
彼はオープニングレセプションへは参加しなかった。
中で騒いでいる輩たちは彼の偉業で金儲けをしている連中だという現実。
ここでも、”世間”とはこんなものなのであろう。

 今回の幾人かの取材で、今まで、決して語られなかった、
「THE HERMÈS とMARTIN MARGIELAの関係性が
どのようにして現実になったのだろうか?」を
この展覧会を機に始めて明かしてみました。
 ”水と油”のようなそれぞれの当時のモード界における立ち居場所の
新旧、2つのメゾンが、それぞれの思惑を持って、
どのようにこの現実へ至ったのか?

  <この原稿を”日経新聞 日曜版STYLE”、太田亜矢子さまへ感謝を。>

  ”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展/MoMu in Antwerp;
開催期間/31.03.'17 > 27.08.'17
https://www.momu.be/en/tentoonstelling/margiela-de-hermes-jaren.html

 『ファッションの定義は人によっても違う。私にとってのファッションとは、
女性をめぐる問題であり、女性がどのように生き、どう戦いそして、どのような安らぎを
表現するのが、ファッションだ。』
/参照;「ヴォーグで見たヴォーグ」
/G.ミラベラ著:実川元子訳:文春文庫刊1997年:
 このような成熟した眼差しでファッションを捉えるには
この ”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”でデザインディレクションを請け負った
Martin Margielaの1997年から2003年の彼らたちの仕事ぶりを知ることは
近年のモード界に於いては最上質な機会であり、
モードとクラフトマンシップの関係性の総てが封じられ、創造されたベストな
”エルメスーマルタンシリーズ”である。この再見機会を与えたのが今、MoMuで行われている
展覧会である。
 筆者は’97年からのこのシリーズのショーをリアルタイムで観ているのでその経験を主軸に
展覧会を読んでみよう。

「なぜ、M.マルジェラは凄いのか?」
 ’88年にデヴューした彼のオリジナルブランド,"M.M.M.は”ジェンダー”をメイン・
コンセプトに斬新で異端でさえある”創造の発想”をヴィンテージというリアリティを素材に
かつ、ロジックに繋げ展開した14年間。ディレクターであるM.マルジェラを中心に、
このブランドが呼吸する総てが強烈なパワーとスピードで20世紀のモードへ
全く新しい、現代アートとまで言える視点を持ち込み、アヴァンギャルドからその頂点に
14年で達した過去に類を見ないブランドであった。
 このブランドが提案したカウンター・モードの凄さとカッコ良さに
一番早く犯されたのが我ら、日本の消費者であり当時、世界で一番売ったのは
仙台のブチック”レボリューション”。そして、最初のショップが出来たのも
日本であったことを証拠として特記しておこう。世界で”ストリートファッション”に
一番敏感で繊細な我ら日本のファッションカルトたちの肥満的病的欲望を充足させるには
このブランドのコンセプトとロジックに裏付けされた彼のクリエーション&イメージングは
総て「凄かった」のである。

 「なぜ、”エルメスーマルタン”がすごいのか?」
 これを述べるには最適な書籍*がある。
現代ファッションの新たな創造手法でもあるブリコラージュを真似て、
この本からブリコラージュして「なぜ、”エルメスーマルタン”がすごいのか?」を論じてみよう。
*「ヴォーグで見たヴォーグ」/G.ミラベラ著:実川元子訳:文春文庫刊1997年:
『私にとってファッションとは、女性たちが生活を楽しみ、喜びを見つけるのを
助ける手段の一つである。魅力的で、時には贅沢な道具といっても良い。』

 1997年から2003年の間、マルタン・チームが手がけ情熱を傾けてきたメゾン・エルメスの
女性服は彼たちによる「スタイル・エルメス」の追求にあり、このスタイルそのものが
”凄かった”のだろう。
『ファッションにおける”スタイル”とは女性が自分をどう表現するか?
世界とどのように接してゆくかの姿勢そのものである。服をどう着こなすかであり、
それ以上のもっと深い意味それがつまり、女性が生きる姿勢である。
このスタイルは金額も流行も「小綺麗に装う」ことも超えたところにある』

 これをマルタンはメゾン・エルメスという王道を手管にとって
エルメス哲学&クオリティを根幹に、自身が一度は試みてみたかった理想の女性の世界観、
「スタイル・エルメス」をこれ以上、出来るであろうかというまでの領域の創造に
挑戦したことの結果が”エルメスーマルタン”の「凄い」を生んだ。
 マルタンが求めた「スタイル・エルメス」は勿論、このメゾン・エルメスが哲学とし、
価値と考えているクラフトマン・シップという”職人仕事の愛情と情熱”に委ねられ
また、このメゾンが持ち得ている”価格は品質への障壁ではない”という経営倫理学に
育まれた”スタイル”に徹した仕事をマルタン自身も職人的に関わった結果であろう。
 『女性が仕事をする世界でより知的に競い合うためには、
よいスタイルを学ぶ必要がある。服は機能的でなくてはならない。
だが機能的なだけではだめだ。もう一つ素敵に上品に見せてくれなくてはならない。
現代女性は便利でかっこいい手帳や携帯電話やPCを欲しがるのと同じ次元で、
機能的に満足でき、素材によって自分をエレガントに見せてくれる服を求めている。』

 そこで、マルタンは洗練された慎重な服をプレゼンテーションするショー・モデルの
キャスティングによっても多くの新しい「スタイル・エルメス」を定義した。
40代と50代の魅力的な女性たちは、アン・ロハートのような元モデルの多くが、
チョコレート・アンクル長さのノースリーブのドレスに時代を超越した、
ざらつきのあるサイドジッパー付きパンツの上にでドレスを強調し、
過度の軽快なエアリー・レインコート、静かに深く切り込まれたVネックと
柔らかいテーラード・ショルダーでチュニックに似たベール・ウール・ジャケットと
パンツ、そしてしばしばネックのないコートの下で滑り落ちる広いカシミア・ローブは、
「スタイル・エルメス」を基盤からはずしたくないという明確な意図を語った
提案でもあった。 
 ここで、古くからパリの友人である、S.ヴァルニュェ氏**の証言を,
「マルタンは、エルメスのアイデンティティを定義するために、
幾つかのボキャブラリィを作り手たちであるクラフトマンたちへの
共通言語として投げかけました。(細部、心配、明度、などへの注意のような)
彼のアプローチは真に思想家の一人であり、ブランドをそのような深さで理解して、
エルメス自身よりもエルメスになったのです。彼はエルメスに何も追加しなかった。
逆にエルメス以外のものは差し引いた。
 彼はブランドを明確にし、それを劇的に特別にしました。
だから彼の作品のどれもがとにかく老化していないのです。
彼らは本当に時代を超越していました。」
**S.ヴァルニュェ氏/Stéphane Wargnier;元エルメス広報戦略担当談。

 「メゾン・エルメスとM.マルジェラの関係性あるいは、イメージの新陳代謝」
 「陰と陽の交わりから第3の”気”が生まれる。
陰と陽に印つけられた事物は、それぞれ特権的な対応関係で結ばれた相手を持ち、
それぞれの独自性を尊重しながら、互いの特質をより深めてゆく。
そして、第3の”気”は陰と陽が自らの最良の部分を抽出することによって、
より高い次元での完成に向かって変容を遂げるように促すのだ。」
F.Cheng/「すべてうつくしいものは、かけがえがない」

/phebus社刊”陰陽と第三の”気”」から。
 このメゾン・エルメスとM.マルジェラの関係性とはこのような陰と陽から生まれた
第三の気に例えられるだろう。
 この時期を思い起こすと、”ラグジュアリィー”という新たなファッションビジネスの
ステータスが再構築され始めた時期であった。これ以後、グローバリズムに乗って
このモードの世界は上は”ラグジュアリィー”、下は”ファスト・ファッション”という構造を
特化し始めた時代性でもあり、当時のファッションメディアも多くを語った。
LVMHグループは、LVブランドにM.ジェイコブをやっと採用して’98年からスタートしている。
しかし、当時のメディア評は新たな新しさとエネルギィイ補充、というニュアンスが多く
故に、ブランドとデザイナーの関係は”結婚”とまではいかず、がさつな表現をすれば、
”同棲”時代として始まったようだ。
 ではこの”水と油”的なるメゾン・エルメスとM.マルジェラの関係は
それぞれがどのような発端で誕生したのであろうか?
 マルタン側の証言、今回の展覧会の会場構成をディレクションしたアントワープの旧友、
Bob Verhelst*の証言。
 彼はM.M.M.の数少ない確か4人ほどで始まったオリジナルメンバーでもあった。
その彼が思い出して語ってくれたこと、
 「ある時、マルタンの夢をともに現実化したこのメゾンの社長であるマダム ジェニーと
マルタンの3人で食事をしていた時、マルタンがジェニーさんに、
”全てが完璧なるハイ・モードをデザインしてみたい。”
と熱く語り始めたという。そして、この話の後しばらくしてからジェニィーさんが
”エルメスから話が打診された”という知らせが来たと言う。」
Bob Verhelst*/ scenographer /http://www.fashioninantwerp.be/designer/bob-verhelst
 エルメス側の証言はもう一度、S.ヴァルニュェ氏、
「Jean-Louis Dumas前社長は、Claude Brouet(仏Elle誌とMarie-Claire誌の前編集長)を
相談役として、今後のエルメスについて多くのことを長い時間を掛けて話あっていました。
そして、以前はMartin Margielaのショーでモデリングもした経験がある
Dumas氏の娘、Sandrineとも話し合い、この二人がメゾン・エルメスには強力で
斬新なモード・スピリッツな視点を持って新たなエルメスに
熱きエネルギィイを注入できる才能として、
マルタン・マルジェラの名前を彼、ジャン=ルイに提言した。
 そのマルタンは職人技とデザインに対する概念的アプローチそして、
匿名のままにしたいというアルチザン的な欲求に焦点を絞っていたので、
このすべてが彼を完全な候補者にし、ジャン=ルイはこの彼の挑戦を愛し、
受けて現実となったのです。」
 結果、ジャン=ルイ・デュマ社長の主張であるマルタン雇用は、エルメスにその本質的な
根本主義を実証する機会を与えた。マルタンのアイデアは、個人的な裁量と、個人的な喜びに
根ざした”生活に根ざした贅沢”がコンセプトでした。
 パリ・エルメスの店でのデヴューコレクションは、カシミヤとディースキンと
ハイテク・シンセティックのレイヤーが特色。また、カシミア・ラップコートは
”ファッションレス・ファッション・ジャンパー”として特徴付けられファッション評論家は、
それを贅沢のルールの思慮深い放棄と賞賛した。そして、全体的な印象は、
エルメスとマルタンとの珍しい結婚が理にかなっていることが証明された。

 「なぜ今この展覧会なのか?」
 その一つは、「20年目」という記念。パリモードの世界では”20年周期”という言葉が
未だに信じられ、使われこれが”トレンド”の源流にもなっている。
 このアントワープMoMu美術館での今回の”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展も
このプロジェクトが今年で20年目という節目で行われている所以でもある。
 もう一つは、モードの世界も実ビジネスの現在状況は”ファスト・ファッション”によって
完全に征服されてしまっている。ラグジュアリィーブランドもショーピース以外の
ワンポイントもののビジネス形態はすでに、「SPA構造」によって賄われているのが
現実である。そんな現実において、このメゾン・エルメスは変わらず、
”クラフトマン・シップ”にこだわったヒューマニティ豊かなモノつくりに委ねている。
したがって、この「老舗精神」を時折、アッピールすること自体がメゾン文化と
アイデンティティを刷新するには総てであること。
すなわちフランス国の国策でもある、「文化は武器である」というラグジュアリィー・
コンセプトが強く継続されている 一端でもあり、
「この時代の、このデザインそのものが今では、また新しいものである」という
”時代とはリバーシブル”だという眼差しもある。
 そして、クリエーションの観点からでは、
[グローバリズム="SPA"=フアスト・ファッション=アイテム売り。]というこのような現実の
流れがファッションビジネスのそのものになってしまっているのが昨今である。
したがって、この"エルメスーマルタンプロジェクト"でクリエーションされ提案された
”着回しができる服”が今、一度新しさを持って、”モード”へ戻ってくる。
 このような時代になれば、マルタンが自身のブランド、M.M.M.で行ってきた
”脱構築”がより、ラグジュアリィーブランドを任された若手デザイナーに学習され、
この”エルメスーマルタン・ライン”がサンプリングされて、再来するのは当然である。
 現代のファッションクリエーションそのものに新しさがなくなり、
全てが”ブリコラージュドゥアーカイヴ”の手法になった現在では、
この「着回し」ができる服がこれからまた新しさを呼び始めるという
視点の時代性でもあるだろう。
 今の若いデザイナーや着る側の世代たちにとっては全く、未知なる、
”新しく、新鮮な気分”なのだから。

 「”MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”での彼のクリエーションとは?」
 マルタンはメゾン・エルメスという王道の中で彼が挑戦したくなった、
”マルタン流これがラグジュアリィーの極め”であるための重要なこと、
大切にするべきとこは選ばれた素材の贅沢と色の贅沢そして、優雅な着こなしが
着た女性たちを快適にできることを、エルメスのアトリエの人たちと関わることによって
大いに深く学んだ結果がこのシリーズのクリエーションの根幹になっている。
したがって先述、ステファンが語ったように、
「エルメス自身よりもエルメスになったのです。」という言葉になるのだろう。
 ディレクターのカート・デボのインタビューは
始終、マルタンの残したエルメスコレクションを着る女性の眼差しでマルタンの凄さを語る。
 まず、前社長であるJ.L.デュマ氏が語ったという彼らたちの関係性のリスペクトしあった
1点は、「マルタンは確実に、クラフトマン・シップを理解している。もしかしたら、
自分たち以上にだ。」に現れていたという。
 そして、マルタンのこのブランドにかけた”創造のための発想”とは、
彼は自分たちがやってきた脱構築やビンテージから学んだものをより、コンセプトに
ロジックにエルメスコレクションに用いて、多くのアイディアを
イノベーションさせた結果だという。 そこでは、着る女性たちの個人的な枠組みと
そのためのフレームワークが大いなるコンセプトであり、
ディテールそのものは大切であるが、見た目だけのものではなく
彼のコンセプトはもっと深いところにあった。
それはデザインの全ての要素が着る女性のために考えられたもので、
女性の体つきをより、美しく見せるため、楽しみとして、あるいは遊びとしての
コーディネートがなされるまでに考えられ、これがトータル14シーズンのコレクションが
全て”ワードローブ”となるまでのコンセプトでもあった。
それは着る女性の身体をリスペクトした、女性のボディのためにどのようなコンセプトで
プレゼンテーションが可能か?というまでに着る女性のためが考えられたデザインであった。
 そして、これらの14シーズンのスポーティレジャーウエアーには3つのベーシックな
エレメント、タイムレス、カンファタブルそして、タクティリティが考えられている。
例えば、楽しんでいろいろな着回しができるようにデザインがなされているレインコート。
これは着た女性がどのように快適に着こなせるかが大切に考えられている。
基本的には、ナチュラルシルエットであり、アンコンストラクションな素材。
ノーショルダー、ノーネックそして、羽織るもの。
これらが着る女性を快適に心地よさを与えるデザインの根幹であり、
プリントを使わず、派手な色も用いず、アクセサリーも使わず、
しかも色は、白、黒、茶色とベージュに絞り、 女性を快適に心地よさを与える
ラグジュアリーファッションの着こなしとそのあり方を提案した。
 もう一方では使う素材の素晴らしさと素材の開発にも心を配った。
それはただ高級素材のカシミヤだけを使うのではない。
例えば、6種類のセーターも彼の素材へのラグジュアリィー感がデザインされている。
彼は、「糸は思い出を抱いている。」という。
カシミヤのように見せるシェトランドウール、実際のシェットランドは直接肌に着ると
痒いものそこで、また、フラネルのように見せるカシミヤやキャメルの扱い方など、
これらの素材の使い方とアイディアそのものが”ラグジュアリー”でした。
 また、マルタンは 今までのヴィジュアルなエルメスらしさとしての
カレやプリントや派手な色は決して使わず、ラグジュアリィーとは何かを
新たな切り口でディレクションをした。
ニューダイレクションとはこのようなリアルラグジュアリィであり、
マルタン以後、”ラグジュアリィーとは”どうディレクションすれば良いかを
決して、”ロゴ”だけを用いることがそれではないと世間は知ることになる先駆けでもあった。
これらに寄って、マルタンは 確かに、エルメスに何かをもたらし、革命を起こした。
一方、彼らたちのオリジナルブランド、M.M.M.で行って来たいわゆる、
「レトロアイディア」、インサイドアウトやパッチワークなどのアイディアそのものも
エルメスの例えば、ムートンジャケットなどにも使いまわした。
 また、マルタンは自分たちのエルメスを誰に、どのような女性に来てもらいたいかまでを
熟知していた。
 今回の展覧会のための服はほとんどがエルメスが持っているアーカイヴであり、
足らないものは個人的な人たちから集めた。マルタンはこれらのアーカイヴは持っていない。
しかし、彼のチームの女性たちは当然このコレクションに大いなる興味を持って色々な
アイディアを提言してまとめられて作られたという。
 例えば、彼のコオトはノーボタンであり、ノーポケットである。
多くのものを取り去ってミニマムなところでの身体と服の関係性をも追求した。
ここで、マルタンは日本の着物を学び 通じてその哲学的で静的なシルエットを見つける。
これは着る女性の身体とのヴォリュームのバランスであり、多くを日本から学んだ。
着物は肩骨と腰骨、骨で着る平面構成の衣類であり、
洋服は肉、バストとヒップで着る3D.もの。したがってパターンメイキングが必要である。
また、マルタンのオリジナルラインには肩をポイントとした一群のデザインがある。
ショルダーの変化をパーツ化し、それぞれのアイテムを生み出したが、
このアイディアもエルメスで使われた。
肩とそこに掛ける上質な素材によって生まれる生地の流れ、
そのシルエットはゆったりとした快適さを生む。
これは着こなしの変化が着る女性の気分の変化へ通じ結果的には
シンプルな穏やかさを与える服になるという。
ここにはクラフトマンシップと人間工学的な組み合わせによる
女性のためのデザインが考えられていた。
 マルタンのデザインとは90年代のコンセプトが強いデザインであるが,
そのコンセプトが”ジェンダー”というロジックでどのような女性たちの日常性にどのように、
最終的には女性たちがそれぞれ持っている個性とそのパーソナリティへ,
”MAY I HELP YOU?”です。
 そして、タイムレス・デザイン、時代を超越できるデザインが理想だという。
 Jean-Louis Dumas氏はマルタンが「アルチザンシップ、テーラリングそして、
クラフトマンシップを熟知していて、どのようなものがよく売れるものなのかも知っている。
この結果、エルメスへ ”新しいさ”をもたらした。
そして、僕たち以上にヘルメスを知ってしまった。」と彼をリスペクトし、賛美していた。
文責/平川武治:
3月10日/Antwerp MoMuにて、Kaat Deboとインタヴュー。
(この原稿は日経新聞 日曜版執筆原稿のためのエスキース原稿です。)


 



投稿者 : editor | 2017年05月10日 22:24 | comment and transrate this entry (0)

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Paris Haute Couture Fashion Week/中里唯馬コレクション;

Paris Haute Couture Fashion Week/
 Yuma Nakasato;
 「愉しみにしていた。」 
このクチュリエの先シーズンに引き続いて、第2回目のパリ・オートクチュールコレクションウイークでのデフィレである。
 巴里の”モードの大黒柱”であるクチュールコレクションに参加する或いは、出来得る日本人デザイナーは数が少ない。プレタポルテのデザイナーは自分たちがその掛かる資金を準備すればなんとかなる世界である。だが、この街の”モードの懐”はそんなに実際は広くない。特に、”クチュール”の世界は別世界であった。例えば、なんでもそうであるが”2nd.ライン”はそれなりのその立場での役割がある。この構造をそのまま、ビジネスにもしてしまっているのがこの街の”モードの世界”そのものでもある。クチュールに対するセカンドラインとしてのプレタポルテ。
 だから少し、以前まではこの街のモードの人たちもこのクチュールの世界とそのテリトリィーを頑なに堅持してきたがやはり、時代が”変革”したために、そのガードが緩み始めた。
 例えば、この街に僕の好きなカルチェェ、”サンマルタン運河”がある。これを最近のモードの世界に委ねてみよう。それは運河に新しい流れを作ることでその水面のレベルが上昇して船の川上への運行が可能になるという迄の構造手法によってすでに16世紀にはこの街で作られていたという。この手法が最近のモード組合(サンディカ)の戦略として読める。当然であるが、まだ古い手法としての「金次第」というのも残っているが。
 従って、この街のクチュリエたちとその周辺たちを刺激する迄の「あたらしい自由」によっての、「新しさ」を創造できる若いクリエーターたちがウエルカムされる構造になり始めた。
例えば、もう一方で評判が高まってきたオランダ人、IRS VAN H.嬢もその一人である。因みに、彼女は合衆国の3Dプリンターメーカーの企業力によって現在の立ち居場所が生まれた。

 「継続することもクリエーション。」
だから、唯馬君がこのクチュールコレクションを継続することそのものがまず、創造の世界につながる素晴らしいさである。
 多くのこの街に住んでいる?日本人の若い人たちが集まってきて見ていたが、彼らたちはまず巴里でこのコレクションが継続できることの大変さ。そして、それ自体の産業構造自体に対して無知であろう。このレベルは日本から取材に訪れているジャーナリストたちもほとんど勉強していないだろう。ただ、日本人がやるというレベルの次元で見にきている人たちが大半であった。  
 これが、僕が言う、そもそもの”壁紙”の始まりである。表層の変化のみを追っかけるが、「壁紙」の裏には「構造体」があり、”壁紙”は構造体の上に貼られるもの。
 継続させること自体に”創造性”がないとこの街ではすぐに外される。
ただ続けるには「金次第」の世界がすぐに”お手伝いしましょう”と、どこからか寄り集まってくる。

 「全てに、よく頑張った。」
 前回は僕が浅はかに見間違えてしまったので今回はどれだけ”進化”させたのかあるいは、”エボリュート”させたのか?それを感じ、見れることが楽しみだった。
 しかし、デフィレだけは又もや、どのように今回の彼の世界観がエボリュートされたのかほとんど不明である。暗闇の中から浮かび上がる全体の佇まいが美しすぎるからだ。
 翌日、展示会へ行ってまたもや、話を伺う。
確実に基本となる”エレメント”が幾つか増えている。そのために、それぞれを結合させるためのいわゆる”結界”部分を構造化する”部品”も新たに作られている。このパーツの開発によって確実に彼の”レゴ”の組み合わせにバリエーションと構築性が生まれた。ということはこの彼のアイディアと創造により、幅と深みと変化が出せるまでにエボリュートさせたのが今シーズンであった。
 やはり、彼は”レゴ・ジェネレーション”だ。そして、彼が創り出す世界とは「数学」の世界から生み出される。それぞれの”エレメント”が”数字”である。”エレメント”を並べ替えるだけでそのヴァリエーションは”無数”という世界である。

 「キャスティングが良かった。」
もう一つ、僕が彼の「あたらしい自由」さを感じ取ったことの一つに、今回のキャスティングがあった。このような時代性になると、モデルのキャスティングは大事であり、彼女たちによってコレクションの世界観までもが伝わるからだ。ただ美しいだけ、が大半を占めすキャスティング。唯馬君はここから遠ざかって、自分の”世界観”をその「あたらしい自由」さでまとめた。
彼のキャスティングにおいても”ジェンダー・ミックス”がなされていた。
 「あたらしい酒はあたらしい革袋に」のコンセプトがここにも使われていた。
あたらしい手法による新たなモードを平凡な、当たり前の”美しいさ”に着てもらうのではなく、”あたらしい女性”(ジェンダーミックス)に委ねたことが僕にはとても、新鮮に感じられた。
 ここで彼の今回の作品からは数年前にも好きで訪れた、ヴィエナの美術館の薄暗い一室に飾られていたG.クリムトの1枚のタブローをその色彩の美しさからイマジネーションした。
 次回も楽しみにさせてください。
ありがとう、唯馬君。

 前回の彼についてのブログです。
参照/http://lepli.org/discipline/articles/2016/09/post_160.html

投稿者 : editor | 2017年01月28日 23:03 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-6/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 22日//JULIAN DAVIED;
 このブランドコレクションにも「アンビギュティな性」が描かれていた。
「性」に教戒があるとすれば、現代社会のようにその「性」に「真実ぽっさ」を委ねると、
”世間”はどのような様を見せるのであろうか?

 その時代のモードにおけるオリジナル”アイコン”で在った創られたマダムCOCO−シャネルの
存在とその後の立ち居場所も考慮すると、女性モード史における「アイコン/ミューズたち」の
そのほとんどが、彼女たちの”生き方”、それぞれの時代に「あたらしい自由さ」を持ってその
時代の社会に堂々と生きる女性たちであった。
 このシナリオは戦後も続く。また新たな戦後という時代に平和が訪れてき始めた’67年頃には
あのYSLが自分たちの立ち居場所に対峙するターゲットとして、「あたらしい自由」を持って生き抜こうとしている女性たちから自分たちの好みにあったミューズを探し出し、彼女たちをその「あたらしい時代」の”アイコン”に仕立て上げてきた。これがこの街のモードの一種の戦略的
手法であり、シナリオだった。

 ここで、それぞれの時代の女性たちが時代に対して持ち得た「あたらしい自由」とは何だったのか?を改めて考える。
 ”ウーマン・レボリューション”に始まって、”フェミニズム”へ発展しそして、”ジェンダー”論
までへも駆け上って、”ポスト・ジェンダー”へ至ってきたのが戦後の女性の新しい生き方の
全てであった。この表層はどのように社会に関わるか?どのような生き方を行なって子供を育てるか?そして、伴侶の人と家庭を守ってゆくか?これらのための価値観であり、具体的な方法としての生き方でありそして、そのための努力であった。
 が、そんな彼女たちのもう一つの「あたらしい自由」は「性」へも当然向けられた。
その解り易い現実は女性たちにも”同性愛者”というゾーンが生まれ始める。
ここでも根幹は人間世界は「男」と「女」だけの性差の世界であったはずが、「もう一つの性」が誕生したことである。
 しかし、表層はあらたな新しさを生み出すが、現実と現存の”世間”における「男」と「女」の間にもこの「あたらしい自由」は染み込み始め、従来からの”関係性”にも色々な影響が生まれ始め、それらが及ぼす表層は”離婚”や”家庭崩壊””片親家族”などの現実をクラッチし始め、生み出す”関係性”に対してのこゝろの不安や不信と不誠実などが生む”ストレス”を多く被るまでの社会性にもなった。
 僕が言いたいのは従来の古い”世間”を維持してきた宗教モラルに依って構築され一つの価値観にまでなってしまった”性モラル”がここにきて彼女たちや彼らたちの「あたらしい自由」に依って変革し始めているという見方である。
 この表層に、2004年に語り始められた、「ポリアモリー」がある。
しかし、この「ポリアモリー」の立ち居場所の現在は肩身の狭い状況に置かれてしまっている。”世間”の古い性モラルから大いにヘイトされ、”同性愛者”たちからもその一線を引かれてしまった立ち居場所のようである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%BC
 「あたらしい自由」を”性モラル”の中へ持ち込んだことによってその”関係性”が大きく揺れたのだろうか?この「ポリアモリー」も実は「真実っぽさ」の中で産み落とされてしっまた「新しさ」なのだろう。

 JULIANのコレクションは好きである。
東京のストリートを彼のたち居場所とそこからの眼差しで気持ちのいい”距離感”を持ってその世界を僕たちに見せてくれていたからである。彼のリアリティが持ち得たネイション・アイデンティティからの"差異”がセンス良く細やかさとともに爽やかにまとめられた上質なコレクションだからだった。それに、彼が”オプション”する素材は時代感を触れさしてくれるまでの日本素材が多いことも気に入っていた理由だった。
 その多くは変わらないであろうが、ここ数シーズン来この”差異感”が少し変化したように感じる。外国人が長く異国に住むと経験する”距離感”は変わらないが、それに対する”差異感”は変化し始める。多分、自心の中に存在している”ネイション・アイデンティティ”が蠢き、より働きかけ始まるのだろう。これは僕のようなものがこの巴里へ来だして、住みだしてそこで現れた変化でもある。
 彼のコレクションで言えばやはり、ウイメンズへの彼が持っていた”差異感”が変わった。
ということは彼の「女性観」が成長したのだろう。ここに彼の”リアリティ”も関係しているだろう。

 このメンズコレクションでは、1993年には日本でも公開された映画、「Empire of the Sun/太陽の帝国」をなぜか思い出した。
 原作がJ.G.バラード、監督がS.スティルバーグ。音楽がJ.ウイリアムスという豪華な顔ぶれによって制作されたいい映画だった。僕の好きなJ.マルコヴィッチが変わらぬうまい演技をして少年を助けていた。上海に残されてしまったイギリス人戦争孤児の少年とアメリカ兵が出会ってめばえる友情物語だったように記憶している。元”キッドブラザース”の男優だったロンドン時代の友人も出ていたので記憶していた。
 廃棄になった戦闘機を遊び場所にして、そこに残された落下傘や帽子や制服という帝国軍国
主義の象徴が残骸化されてコード化され、少年たちの”あたらしい自由”のための遊び道具になって登場したからであろうか?
 コレクションのトータルな視点はやはり、今シーズンのキーワードである「ゆるさ」でまとめられた、現代の若者たちの”ストリート・ユニフォーム”+”ヘビィー・ドゥティー”の足し算のデザイン。そこへ、”山岳スポーツ”を足元でアクセントに加える。
 
 この”ゆるさ””と”アンビギュティな性”いうクオリティに委ねられた”GENDER MIX"。
JULIANが手がけたコレクションから感じた心優しい熟しがこの映画を僕に久し振りに思い出させてくれた。
 ありがとう。
文責/平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2017年01月23日 21:26 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-5/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 21日//White Mountaineering ;
 噂に聞いていたブランドをパリで初めて見せていただく。
始めに、プロ意識を強く感じた。それは全てに、”プロ”であることとは確りとした”プロダクト”によってちゃんとした”ガーメント”になっていることである。

 大半の若いデザイナーがこの街へやってくるとき、自分たちが持ち得た”夢”への挑戦であり、その結果が”自己満”になってしまうことが多い。
 自分たちの”リスクとコスト”でこの街にやって来てそれが”継続”される可能性は非常に難しい。それなりに日本で儲けてこなければ出来得ない現実であるので、器用に”他人の褌”をかき集めて”カッコつけに”来るデザイナーが増えた。そんな連中は、ほとんどが僕が言うところの
”壁紙デザイナー”であり、コレクションも”スタイリング”コレクションに偏っている。
したがって、見せかけのデザインが多く、ガーメントとプライスが合わない。そこで、アルバイトをして資金をかき集めてとりあえずは自分の”夢”=”自己満”のレベルで”パリ・コレ参加”をプロパガンダする。そうしたら、自分も一端のデザイナーになった気分で、わずかな経験とその周辺から聞こえてくる業界話を語ってしまい、余計に”カッコつける”。この大いなる勘違いをさせるのが、雑誌メディアや今では素人に近いブロガーたちがこのレベルをインタヴューと称して聞いてしまう、この悪影響でしかない。この手の連中は”小さな嘘”を平気でつくことからファッション業界人になってゆく。これを始めると、彼らたちのその後の人生は”小さな嘘”の”上塗り”人生となる。
 この手の連中は、アンデルセンの「裸の王様」をどのように読み込むか?理解していないであろう。あるいは、ちゃんと読んでないかもしれない。
 30年以上もこの街のコレクションを見続けてきた僕の経験からの判断ははっきりしている。
このような「豚もおだてりゃ、木に登る」のデザイナーさんが変わらず、この街へやって来ている。

 このブランドの”プロ”さとは、”プロ”感とは?
当たり前であるが、冒頭にも言ったが、ちゃんとした”商品”をデザインして製品にしていること。デザインとはアートではなく、産業製品であり、それがそれ相当の機能を持ち、そのための素材選びが為されていて、その上での後加工とディーテールデザインがあり結果、ブランドとしての”世界観”を生み出していることである。”世界観”とはそのデザイナーとそのチームが持ち得た「文化度」である。この「文化度」は、スキルであり、経験であり教養でありそして、技術で構成されたものと、持ち得た”美意識”によって齎されるものである。ここから”商品”としてのクオリティが生まれ、商品としての”テイスト”がつけられるまでの結果を僕は”プロ”という。
 ショーで見たこのブランドの”商品”は、選ばれた”色”にハーモニィーがあり、そこへ加えられた柄やプリントにポジティフな神経が施され、選ばれた素材は冷静に吟味され、着る人へ優しさを与える心使いを感じるものであり、それらをどのように使ってやれば美しいシルエットが生まれ、それらをどのようなアイテムに落とし込んでやればそれらの素材が”成仏”し、どのようなコーディネートを提案してあげると着る人にその”商品”の雰囲気が与えられるか?ここまでを考えて心使って細部にまで凝ったデザインが為されている、だから”プロ”だと言い切れるのだ。

 ”プロテクション・カジュアル”と呼ぼう。
かなり、コアなる”プロテクション”がデザインなされている。これらはそれぞれの機能性を持ったパーツとしてデザインされてもいる。堂々としている。不安げなおどおどさはない。なので、”クール”なのだ!!
 このブランドの”プロ”さは僕にとっては戦国武将たちの”甲冑”を思い浮かべた。
着る武将たちの身分と位を表し、そのための素材を使いこなし、装飾されそして、身を守る機能を備えたものが”甲冑”である。
 現代日本社会の「安心のファッシズム」の中でこそ、このような”プロ”意識深い服を着込むこと、そのものが多分、着る若い人たちにとってのアイデンティティを生み与えるのだろう。
 ”プロ”とは”職人肌”がその身上でもある。
文責/ 平川武治;巴里11区:

投稿者 : editor | 2017年01月22日 07:47 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-4/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 20日//CdG H.P.
 今シーズンのトレンド・コンセプトの一つに”ジェンダー・ミックス”がある。
アンビギューティなテーマだ。これそのものが”Truthiness"であり、現代の時代感を捉えた
シーズンコンセプトであり、今年の僕の新年のグリーティングに作った言葉、
「The world is the wall-paper that looks like a truthiness.」でもある。
 我らが世界へ誇る”ファッション・クリエーター”としてのCdGのデザイナー川久保玲はこの
テーマにこゝろ寄せそして、謳いあげた。
 果たして、ファッションゲットーの人たちにはその”真実っぽさ”だけでいいがだが、
どれだけのファッショングルーピーたちには共鳴しただろうか?

 証言その1、
 彼女が銀座のDSMに使っている彼女のアート・コレクション、”シンディーシャーマン”の写真が一つのコード化されておぼっちゃまたちの頭にのっかている。むしろ、彼らたちの脳みそは
”シンディー”と同じなのですよと言わんばかりに。
 2年ほど前に、僕はベルリンのギャラリィーでの”シンディー・シャーマン”展を訪れた。
新旧取り混ざったキューレーションの展覧会であったが、彼女がどのような写真に対する距離感からこの世界へ入ってきたかが判明した1枚を見たのが面白かった。それとは彼女自身の”ヴァギナ”を撮ったものである。
 この写真家も”自己顕示欲”が正常ではないレベルのフェロモンを持ち、放っている人間であり
女である。”世間”でアーチストと呼ばれている”女性芸術家”には不思議ではない性格と人格であり、そのほとんどが”アーチスト”願望と自己顕示欲が重なったタイプである。例えば、年老いて帰国後、有名芸術家になってしまったY.草間も然りである。ここに、生きることへの自分が出し得る”執着心”と”ガンバリ”の全てを読む。
 ここで僕が認識したこととは、彼女と写真に対する距離感、アーチストと作品の距離感である。

 証言ー2、
 僕はダイアン・アーヴァスの写真が好きだった。
1945年、彼女が身ごもった折にセルフポートレートを撮ったのが始まりで彼女は”写真”の世界に魅せられて、自分が居るべき世界であると信じ込んで1971年、自ら自宅バスタブで手首を切って自殺するまでの26年間をその多くはフリークスたちを撮り続けた。
 彼女は’20年代のN.Y.で毛皮商人から財を成した裕福なロシア系ユダヤ人の娘で18歳には
すでに結婚した。そして、自らが身ごもったその姿を鏡て見てしまったことから以前から興味を持っていた写真を自分でも写真機を持って街を徘徊し、見慣れない、見たくない、見れない人たちの存在と自分の距離感を友人のエスクワイー誌の編集者からプレスパスを借りて撮りまくった。当時では、家が裕福であることで可能な職業の一つ、”写真家”になり、いいカメラ機材をいつも新機種が出るたびに購入し、湯水のようにフィルムを使って自分の好奇心に触れる人たちを撮りまくっていた。その写すという彼女の根幹はかなり屈折していた。
 そんな彼女があるところへ招待されたことによってその2週間後にはN.Y.の自宅のバスタブで手首を切って自殺した。

 3年ほど前にこのパリの美術館で久しぶりに大規模のD.アーヴァスの展覧会を見た。
この写真家には全てに恵まれた生による、”自己愛からの醜さへの逃避”という”覗き見的”な距離感を彼女の写真から感じている。しかし、その撮り方は不躾さが感じられる被写体をいつも正面から強いストロボを使ってライティングするというかなりの自己欲求の冷酷な演出によって写されていた。
 そんな性格の彼女が以前、いつもの好奇心からニュージャージーの養護施設を訪れて作品を残していた。師匠であった、R.モデルからは良い批評が得られなかった作品でしたが、彼女の作品群ではいいポジションを占めたものになっている。
 そして、彼女はかつて訪れたこの養護施設から慈善バザーの招待を受けて再度訪れます。
ここで本当に”笑顔”がどれだけ幸せを表現するか?養護施設という”世間”の中に入って知った
初めての”笑顔”。この養護施設という”世間”の幼子たちの屈託のない、自由な心から生まれる美しい”笑顔”とその”生”の無垢さを知ってしまったことによって、ダイアンは自分の今までとは何を撮っていたのだっただろうか?フリークスを撮る”覗き見的な根幹とそれとは裏腹に、被写体が自分をどのように見ているか?までの自己意識との距離感で撮っていたことに気づき、思い知り
そして、持病の鬱と重なり苦悩の末、その2週間後に自殺を行なった。

 川久保玲はこのダイアン・アーヴァスにも大いなる影響を受けまた、彼女自身の育ちの中にも自分を重ねて見ていることによってのコレクションを例えば、飽くなき”黒”という素材や”ツインズ”を使うことなどの過去に幾つかあった。

 証言ー3、
 「彼女自身、”ジェンダー”とはをどれほど熟知しているのだろうか?」
自分自身の生き方が”ジェンダーフリー”だと思っているのだろうか?あるいは、思わせてしまっているのだろうか?または、思わされてしまっているのだろうか?
 今回のコレクションでは彼女自身がかなり欲求不満な眼差しを持ってコレクションを構築してしまったと感じた。
ここでは、僕は昔から彼女が手掛けた”オムプリュス特有のバランス感”がある時から消えてしまったことも思い出してしまった。今回そのバランス感をジャケットとパンツで出そうと試みているのだが、元には戻れていない。いや、戻らなかった。以前の、肩幅がゆったり目で、着丈が短いプリュス特有のかつての優しいオムプリュスのバランスが見られない。
 それを出したかったのだろうが、ここでは彼女のリアリティから生まれているはずの”ジェンダー”が感じられない。あるいは、彼女の実際の生は“ジェンダー”とは対峙したところにその根幹があったのではないか?あるいは、そうでありたいという思いからの生き方だったのか?
 それがあのバランス感になり、あの美しいタッグ・プリーツになり、コーディネートによる
”ジェンダー・ミックス”なのだろうか?それらは、余りにも「真実っぽい」だけである。
 美しいさに憧れるこゝろの有り様と、それを拒否するこゝろの有り様の対比によって生まれたとしか言いようも無い、背負い込んでしまった、フエルト(?)によるビーズ細工と”機関車”
と”自動車”。そして、シューズ。
 「シンディ、どうして機関車を車を背負ってしまったの?」トーマスは聞いただろうか?
ここにも川久保玲流の、一つのメタファーとしての”ジェンダー・ミックス”がコード化されていたのでしょうか?
 ここに彼女の「あたらしい自由」を感じ取るべきなのでしょうね。
きっと、展示会へ伺えば、思い切り着たくなるアイテムがちゃんと準備されているシーズンでしょうね。
文責/ 平川武治;巴里11区:
 


 

投稿者 : editor | 2017年01月21日 18:20 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-3/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 20日//JUNYA-MAN:
 僕の小さな頃は少し郊外へ自転車で出るとまだ、小川があった。
その小川が本流と合流するところが面白くここに集まってくるただ浮かんだもの、浮かびながら彷徨っているもの、今にも沈みそうなもの、これら達をただ眺めているだけにたくさんの時間と雲とともに遊んだことを思い出した。
 なぜ、JUNYAのコレクションを見せて頂きながらこんなことを考えてしまったか?
ここに共通することは”浮遊物”あるいは、”ゴミ”である。
 僕の昭和30年代の思い出であるから60年も昔の記憶でしかない。
今、目前に次から次えと青年達が着せられてしまった今シーズンのコレクションを見ていると
乗ってしまった流れには逆らえない。ただ流されないように流れるだけだ。これは言葉にすると
簡単なようで実際には難しい。多分、その乗ってしまった流れから逸脱するにはまず、”自心の新しい自由”がそして、覚悟とコストと必要であろう。

 近年、”コラボ”というプロダクト手法が習慣になってしまた時代性がある。これは”デザイン手法”ではない。飽く迄も、合理性を元にした”プロダクト手法”でしかない。
 「”オリジナル”で生まれたモノ。それが”模倣”され始めその後には”習慣”になってしまう。」
これは僕の好きなG.ガルドが1911年に書いた「模倣の法則」から学んだことで、ファッションの世界の人間にはより、具体的に理解できることだろう。
 たしか、このブランドがウイメンズでこの処方”コラボレーション”を本格的に行った記憶がある。以後、世界レベルで可能なる世界のブランドは”習慣”になってしまった。
プロダクトにおける技術とスキルと情報と販路の共有化ビジネスである。
日本人ブランドだけのパワーでは不可能である。これも、いわゆる、ユダヤコミニティの関係性と「グローバリズム」の恩恵である。しかし、この発端を考えて行ったのは僕たちの「横丁のブランド」出身のUNDER COVERだったはずだ。
 
 さて、思い出を本流に戻そう。
その1、「流れに乗ってしまった以上、流れは変えられないのか?」
ここまで、”コラボ”におけるビジネスの”安全パイ”を考慮してのデザインディレクションは
少し、食傷気味になってしまったようだ。彼が乗ってしまったこの流れはこのデザイナー本人にとってハッピーなのだろうか? 自心の自由さが歓喜してのデザイン行為なのだろうか?
 彼のコレクションからこのデザイナー本人が見えてこないのである。すなわち、彼の真実であるリアリティが見えず、”真実っぽさ”が流されているだけと言う十数分。
 ここにも僕は「安心のファッシズム」を見てしまったようなのだ。
 その2、「昨日、書いたことが当たった。」そして、驚いた。
戦後、日本のメンズファッションのルーツであり、この企業のメンズラインの根幹でもある 
”VAN"がアメリカンスポーティ・カジュアルウエアーのメモリアルコードとして登場した。
 コレクションの中身は、「アメリカンスポーティ・カジュアルウエアー+ヘビィードウティ=RAP+SNOWBOARD=BLACK+WHITE」と読めるマーチャンダイジングの考えられた公式。
 ここでは、これほどまでに進化した(?)メンズファッションに与えられた名誉としてのコード「VAN」であろうか?あるいは、オリジナル回帰への”銘板”あるいは、沈みそうで、沈まないレッテル付きの”ゴミ”のようなものなのだろうか?
 その3、「流されてくる”重いゴミ”はこれからどこへ辿り着くのだろうか?途中で沈んでしまうのだろうか?誰かが掬い上げるのだろうか?」
 ショーの後半からはこれらのコラボ商品が重く感じられてきた。それなりの重素材とレザーが組み合わされたミックス・マテリアル、今シーズン売れっ子の”スタジャン”もある。多分、”ゴミ”と化した時には相当重たい”ゴミ”であろう。
 いつの時代かに、「もうゴミを出すことは考えない、なるべき出さないように!」と言う時代性の”壁紙”が一斉を風靡したこともあった。企業倫理が問われ、労働時間や問われる昨今当然、「出した”ゴミ”は自分たちで持って帰りましょう。」と小学校の低学年で教え込まれる。
それが、大人社会になると忘れられてしまう。いや、「都合の悪いことは”忘れる”ことで儲かるんだよ」。この響きは戦後荒廃した焼土の”世間”にはよく耳にした言葉であった。
 ここに日本人が大好きな「星の王子さま」の一文を思い出そう。
「かつて、子供だった頃を思っている大人は少ない。」

 ということで、僕のこのショーを見させていただき「かつて、子供だったことを思い出しました。」ありがとうございました。

 Junyaが大好きなファッションピープルにはこのブランドらしさが満載のコレクション。
新たなコラボメーカーも加わり、リーヴァイスデニムの新しさもあっの”RAP+SNOWBOARD"。これをどのように街で、横丁で着こなすか?メディアの煽り方も楽しみ。
文責/平川武治;巴里11区:

 
 

投稿者 : editor | 2017年01月21日 17:52 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-2/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 19日//KOLOR :
 久しぶりに見せて頂いた。このブランドは当然だが、メンズがいい。
このブランドの世界観がすでに確率しているからだ。
 以前は、「もう、ウイメンズは止したほうがいい、勿体無い。」と直接、彼に不躾に提言したこともあった。が、辞めないで今日も見せて頂いた。
 こうして一つのショーの中で見るウイメンズはそのデザインポリシーとコンテンツにメンズとの連続性が見られ、展示会で見るウイメンズだけの時よりは”Kolor"らしさに理屈がつけられ、
まとめられていたので少し、安心した。当然であろう、メンズよりも気を使って細かなところまでオトコこゝろでデザインされているからだ。このデザイナーが女性を見るときにそのオトコ目線が何処から始まるかが、分かりやすいデザインが為されているという意味でもある。
 僕が感じるのは、このブランドのデザイン・コンテンツは正に、「This is the Tokyo-Design」そのものであり、そして、20数年、変わらないことが誠実でもある。
 素材の吟味から始まって、オリジナル素材のミックス・メディア化。それを如何に”料理”するかがこのブランドの巧さであり絶妙なバランス感と、器用さのブリコラージュ。
そして、”the Tokyo-Design”の極上とはパッチワークや裏使いの感覚の良さと、「ちょっとしたディーテールあるいは、ワンポイント・デザイン」のセンスの巧さとオマケ感覚であろう。
この”ちょっとしたディーテール”の巧さは日本人ブランドの巧さにもなっていて海外バイヤーたちが喜ぶ、”ウリ”に直接つながるデザインポイントである。
 この機会に「This is the Tokyo-Design」とはを考えてみると、
戦後日本のメンズファッションの根幹は、「アイビー」から始まる、ブランドではご存知であろうあの「VAN」でしかない。従って、「This is the Tokyo-Design」の根幹がここにある。
そして、日本発のメンズファッションのオリジナルマップとは、テーラードのスーチングか、「VAN」のアメリカンスポーツカジュアルか、古着屋御用達、ファッションDJの登場による
「横丁のカジュアル」すなわち「ストリートカジュアル」へと、この3部構成のミルフィーユ構造で出来上がってきた歴史がある。そこへ、パリ・コレ情報とそのデザインの影響が具体的に加わり、”ゲイ御用達”デザインが進化し始めたのが’90年台半ばから。これは”コムデギャルソンH.P.”をロンドン・クルーがディレクションし始めた時期と重なっている。例えば、それまでの川久保玲の”CdG Hオム”のその育ちは「VAN」であり、これを引き継いで進化系になったのが
”CdG.H.P."。ゆえに、ある意味で、元祖「TOKYO-IVY」ブランドであった。ここがY.Y.P.Hとの違いであり、"JUNYA-MAN"との違いでもある。
 因みに、”Y.Y.P.H"は懐かしくなってしまった日本のメンズ・ファッションの黎明期を構成した「TD6」時代の菊池武夫や松田光弘から遠く離れた自己顕示な「前衛」が根幹。
そして、"JUNYA-MAN"のこの企業内での棲み分けは、”ストリートカジュアル+ヘビーデゥーティ”に委ねているはずだ。
 なぜ、このような事を言うかと言えば、このデザイナー、阿部くんのキャリアの根幹がここに存在したからである。そして、彼の独立後のキャリア(PPCM)もこのカテゴリィーから始まり現在のKolorに至っていることが”This is the Tokyo-Design”と呼ぶに由来している僕の根拠である。
 視点をKOLORコレクションに戻そう。
今シーズンのコレクションに感じる、この”ゆるさ”がなんとも絶妙の”ゆるさ”加減。スーチングも無く、フード付きも無い”ゆるさ”そして、全編、”ファー付きパッチワークサンダル”。
 これが出来るようになったこのブランドの巧さと強かさに拍手。ここには経験と自信の裏付けがある。それにやはりメンズではより、パターンメイキングの上手さが表層の構築感を出す。
この時にこの”ゆるみ”感はより、パターンメイキングと素材のオプションとのコンビネーションでしか生まれないからだ。ショー後、バックステージに行って実際にサンプルを触ってみる。
僕が好きだった、ライトグレーのワークスからインスパイアーされて出来上がったセット・アップ。この素材も見た目はフランネルかと思ったが触ってみるとより、腰のある織りのいい素材で
料理されたもの。裏地のこなし方、ヘムの”ゆるみ”の出汁加減。パンツの”ちょっとしたディーテール”であるステッチ装飾等など、ありがとうがざいました。
 そして、このメゾンでも”ネクタイ”が現れなかった。
この”ゆるさ”感と”ノーネクタイ”が「安心のファッシズム」という時代性のアイローニなのだろうか?あるいは、”ユニフォーム”なのだろうか???
文責/ 平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2017年01月20日 05:26 | comment and transrate this entry (0)

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速報/#Paris Fashion Week Homme-1/18th.Jan~22nd.'17;

速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
 18日//FACETASM:
 「若さゆえ」という言葉がこの街にもあったことを思い出した。
この街の人間よりも日本人の方に知られていたあのJ.コクトーの作品に「アンファン テリブル」という小説があったことを思い出した。
 「若さゆえ」とは、迸るエネルギィイがあり、生意気さがある。それに、未熟さがある。
だがもう一つ、無知さもある。
 今朝のこのブランドのデフィレを見て感じた言葉がこの言葉だった。
”分量”というトレンドを意識しすぎた、”オーバー・コーディ”なショー。
 その反面、後ろでディレクションしている本人の不安げさと落ち着きのなさ、
そこから生まれる”おどおどさ”が感じ取れるまでのショーだった。
決して、肝が座って作られたものではない。
 「若さゆえ」、廻りを気にし、いい顔をしたい、させたいためにまとめられた、カッコつけて頑張った”東京ストリート ブリコラージュ”な壁紙だった。なので、音で助かっていた。
 しかし、時折その姿を現すウイメンズはいい。まるで、性格も、イマジネーションもが対峙するユニット・ブランドである。
 デザインすることの巧さは確実にこのウイメンズ・ラインには存在している。
それに女性特有の思い切りの良さが伺える、その良さが着る女性たちを”若さゆえ”心地よく感じさせるまでの大胆なデザインとコーディネートに落とされ着る女性に委ねられている。
 したがって、確実の”彼女”が手がけるウイメンズの方が才能を伺わせているし、実際にあるユニット・ブランドだ。
 例えば、学校でちゃんと勉強をしてこなかったものと、学ぶための時代には確りと学んできたものとの差異あるいは歪みがここに現れている。
 例えば、このブランドのデフィレからウイメンズ・デザインを抜いてしまうとまるで、
朝の繁華街、厚化粧がゆえに剥がれかかっているただ、大きいポスターすなわち、「壁紙」が「安心のファッシズム」の中で周りをキョロキョロ手揉みしているだけのイメージ。 
 その結果、オムに関しては”分量”を何のために意識したのか?見せられたコーディート群は「隠しききれなかった自我あるいはアイデンティティー」若しくは、「思い切り委ねたいエゴシエーションあるいは甘え」でしかなかった。
 それともう一つ大事なところは、オムの”分量のコーディ”はただ、”重さのブリコラージュ”でしかなく、ウイメンズではこれらとともに、”軽さのブリコラージュ”も使う異素材感によって
バランス良くなされていた。この大胆さによって形作られた服には東京的な色気を生み出している。ここに僕は彼女のデザイン力を褒めるのです。
 彼が”good morning"で書いているように”定義なんか存在しないのだから”という嘗ての
マイルド・ヤンキーの「若さゆえ」の無知なる開き直り、なんでも有りでショウー。

 嘗てのマイルド・ヤンキーたちの多くの今は、パラサイトし既に、姿を消してしまった。
そして今や、「マイルド・ヤンキー ニュー・ファミリィー」たちのご登場ですからね!!

 そうそう、彼はJ.コクトーの「アンファン テリブル」を読んだのだろうか?
文責/平川武治:1月18日、巴里11区:

投稿者 : editor | 2017年01月18日 21:33 | comment and transrate this entry (0)

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”今、ファッションが人に与える「HAPPINESS(幸福感)」とは何だろうか?”

 2017-シリーズー1/"However this ends, that's where we begin."  
「ファッションと幸せ感」、このような時代、”今、ファッションが人に与える
「HAPPINESS(幸福感)」とは何だろうか?” を考えてみるのもいいかもしれません。

 これを考える前に、まず、「生きることとは?」は大切な根幹です。
 ”夢を持って生きている人、希望を抱き、
あるいは、運命を抱いて生きている人や覚悟を持って生きている人。
目的があって生きている人そして、なんとなく生きている人。
コンプレックスを隠して生きている人そして、不安げに生きている人。”
いろんな人がいますね。

 この根幹によってもそれぞれの「HAPPINESS」観が違いますね。
また、それぞれの「生まれと育ち」という持ち得た「風土」によってもその幸せ感は違います。

 そして、
生きることのHAPPINESSとは?
人間が人間らしく生きるためのHAPPINESSとは?
生活することのHAPPINESSとは?
この根幹を自分の人生の中で既に、十分に考えている人たちにとっては
ファッションそのものには単純な「HAPPINESS(幸福感)」しか求めないでしょう。

 ”ファッション”が叶えてくれる”HAPPY"とは生活の「潤滑油」
或いは、「文章における”鍵・カッコ」ぐらいのものでしょうか。
或いは”ラッピング・ペーパー”あるいは、”壁紙”。

 もっと、現実的な”リアリティ”に目線を向けると、
所詮、”物欲”の世界が生み出すあらゆる”狩人的目線”としての、
”そうありたい/願望”が”HAPPY"へ通じる「壁紙」でしかないでしょう。

 もう、他人と違いたいがためにその願望をファッションへ委ねていた時代は終焉しましたね。
人間みんながそれぞれ持ち得た「幸せ感」は当然違っているものであるという自覚が
ファッションを楽しく、そこに”ファッションが与えてくれるHAPPINESS(幸福感)”が
在ったはずですね。

 現代のファッションの世界ではこの「幸せ感」は無くなってしまったのでしょうか?
”他者との差異感。”をファッションに求めていたリアリティもある種の”豊かさ”によって
「”他者たちと同化”するためにファッションがある」という迄の”習慣”を持ってしまった
世代たち。
ここには「模倣」から「習慣」という”差異”から”普遍”と言うベクトルが既に、
環境化されてしまった時代性。

 しかも、この「壁紙・HAPPINESS(幸福感)」はすぐに効力がなくなるのが昨今の特徴。
いつも”張り替え”作業が必然なリアリティであり、隣の「壁紙」を気にしながらの
単サイクルな行為になってしまった。

 したがって、ファッションによる「HAPPINESS(幸福感)」の一つは
その昔から変わらぬ、「狙った獲物を手にする」醍醐味のみになる。
即ち、「買う」こと或いは「手元に置く」こと、
自分のものにすると言う「所有欲」の日常化と習慣化がファッション・リアリティ。

 それが、ショップからネットそして、ネット・オークションというプロセスの変革によって
もたらされる「束の間の快感」の不連続な連続性に委ねてしまってる。
いわゆる、「持続可能な、快感」を諦め始めた世代たち。

「もう、ファッションで幸福感は得られない。つかの間の”妄想”。」???
 では、”HAPPINESS"そのものとは、何ですか?

 「近代」が生活の”豊かさ”と言うリアリティを持ち得たことによって、
時代「近代」の根幹であった「価値観」が変貌してしまった。
このズレが現代社会の表層へ”習慣”として大衆化し液化状況を生み出した。

 新たな時代としての近代の次なる時代としての”始まり”それが、「超・近代」なのか
「脱・近代」なの「ブリコラージュ・近代」かは別として、新たな時代を築くための、
「新たな価値観」が必要になろう。

 変わってしまった、”自然”と”環境”や”人間の欲望”と行くへ不明になってしまった”倫理観”。
”為すべき行為”への新たある価値観とその基準。
ここには、”豊かさ”なるゆえの「新しい倫理観」を求める叡智が必要であろう。

 その根幹は「人間性」であり、「宗教心」でありそして、「民族心」かもしれません。
「ナショナル・アイデンティティ」と「ネイション・アイデンティティ」の区別理解と
そのバランス化。
そこに生まれるのが「文化力」。
この新しい時代の始まりとこれからのあるべき時代の「価値観」の元で、
ファッションがどのように”ファッションを愛する人たち”に何が与えられるのだろうか?
 ここに、新たなファッションとHAPPINESSの関係性が生まれるだろう。

 より、人間が持ち得る「業・欲」に輝く”金メッキ”なラッピング・ペーパーでしかありえないのだろうか?
或いは、持ちえた日常のストレスへの”癒し”の一つ?

そこで考えられる一つのアイディア、「ユニフォーミズム」を超えたところに見えてくる
「Sophisticated Fashion」が考えられますね。

 いつでも、当たり前に、安心して何処ででも着られる身だしなみ豊かなファッションに感じさせられる文化力が生み出す着る人の「文化度」と”ずれ”を愉しむ「こゝろの有り様」。
あとは、イメージのボヤジナリィーが愉しみ。

 これが僕が感じる「Sophisticated Fashion」の根幹。
そして、新たなファッションとHAPPINESSのブリコラージュな関係性。
 そのこゝろは、"May I help you?"

 今年もよろしく、ご指導とご鞭撻がいただければ幸せです。
皆様も、知的感度豊かに、好奇心溢れる誠実な1年でありますように、
"Keep your the Force!!"
合掌。
文責/平川武治:巴里11区にて、

投稿者 : editor | 2016年12月30日 07:20 | comment and transrate this entry (0)

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ファッションはもう”ユニフォーム”になってしまったという視点。

 『新年が穏やかに、おおらかなる年の初めをお迎えになられたことでしょう。
今年は”29/フクの年”。僕も老いて、ますます辛辣な意見と好奇心を
今年もモードの世界へ向けます。
変わらぬご鞭撻をよろしく。合掌。平川武治:

「これは終わりだが、始まりでもある」という時代観とは?;
 "However this ends, that's where we begin." とは、; 
 このP.トランプ当選後のM.ムーアの発言では,何が”終わり”、何が”始まる”というのでしょうか?僕が最近発言している、「近代」という時代が終わり、新たな時代性が誕生するだろうと
いう視点があります。これは皆さんの周りのより、現実的な世界を見ていただいて、何か、
今までとは違った”something new"な匂いや段取りの違い、気配などを感じ始めていませんか?これがすでに、”新しい何か”が始まっているファッドなリアリティでしょう。
 このファッドなリアリティの一辺づつをブリコラージュしてゆけば、”あたらしい自由”のみが生み出せるあらたな時代の”始まり”でしょう。
 例えば、『時代はまた、「ナマ/live」モノ感を必要とし始めました。
小劇場、ライヴ、フェス、ダンス、ラップ、スポーツ、それらに、習い事のヨガや色々。
 この裏には、バーチュアルなエモーションではなくより、直感できるナマな「エモーション」が恋しくなり始めたということでしょう。
 人と”繋がっても”そこにお互いが直感で直に繋がり合える”感動”がより、具体的に必要な時代が来ています。PCでの繋がりに限界ともどかしさをやっと感じ始めたからでしょうか?
 ここには、”便利”と”感動”は自ずから本質的に価値のレベルが違うことがわかり始めた新たな大衆たちの誕生があるでしょう。このリアリティこそが、僕は「近代」という時代の次なるチャプターが必要になってきた時代だと感じ始めています。
 今までの過去においてもこの「ナマ/live感」は当然、感動を得るための陣頭手段でした。
感動とはそんな「生」の、”リアリティ+リアリティ”の経験や体験からしか生まれ得ないものであるという常識の時代から、現代ではすでに「ヴァーチュアル・リアリティ」という新たな感動も知ってしまった人類が、オプションすべき、感じたい「感動」即ち、「ナマ/live感」とは、を感じ吟味することが大切な時代性なのでしょう。
 このようなファッドなリアリティを感じ取ることが現代社会ではかなり、重要な人間個人としての"差異”でしょう。ここには”教養”と”感度ある感性”の4Kが要求されるからです。ほとんどの現代人と称される”情報社会”に生きている人たちが持ち得た”ヴァーチュアル・リアリティ”とそこに表された”真実っぽさ”の社会によって、”センス オブ ヒューマン”が劣化してしまった。
 すなわち、”時代と寝る”ためにはより、人間的なる「クオリティある繊細さ」が必要な時代になってしまったからでしょう。この要因は表層の豊かさのみが液化状態になり始めたからです。
 では、僕が感じるこの「近代」の終焉から、新しさの始まりでもある今後の「近代」の次に
来る時代観を少し、お話をしましょう。
 これからの数年間で起こりうる世界情勢は、確実に、小さな塊の、より強靭なコミュニティを羨望する各国の動きがあるでしょう。すなわち、保守が進展すれば当然のように起き上がってくる”愛国心”という怪物の登場でしょう。この古き新しさでは、新たなバランスとしての
”ナショナル・アイデンティティ”と”ネイション・アイデンティティ”のセルフ・バランスが
問われる時代性になってゆくでしょう。グローバリズムによって、大きく固まったその実態構造そのものが不誠実なものであること自体を知り始めた知恵ある諸国と人民は、より確実な”塊”へ揺れ戻しの始まりがあるでしょう。例えば、合衆国ももしかしたら、”州”が個別にインデペンデントな構造体になり始める可能性もありますし、英国もそうですし、EU諸国においてもそれぞれのネイションアイデンティティが国別に強くなり始めるでしょう。
 グローバリズムによって、国/ガヴァメントと企業/ビッグ・ビジネスという”複合企業体”が
地球規模でそれぞれの産業において、それなりの企業形態を成立させてしまったのが20世紀の最後の役割だったのですから。
 ここで参考にするのが、すでに40年は経過してしまっている、1980年、アメリカで出版された
「Friendly Fascism」という本です。(これは、今回のトランプ選挙陣営のネタ本の一部です。)

 「Friendly Fascism」とは、;
 参照/翻訳版「笑顔のファッシズム上・下」B.グロス著;日本放送出版協会刊:
 『新しい独裁政治がアメリカ全土にゆっくりと忍び寄っている。”政府と企業の複合体”が
何十年もかかって、次第に形成され、その複合体の司令部には顔のない独裁者が座り込んでいるのだ。彼らは自らの権力と特権を拡大しようとして、組織や個人のためになりふり構わず利益を追求している。さらに、広い意味では、経済的操作や情報活動、あるいは軍事的侵略による、
世界各地における国際政治への介入の拡大等も、そういう独裁者たちの利益追及の結果生じて
くることなのだ。こういった自体の全てがすでに、世界的な規模で軍拡を煽り、核兵器及び通常兵器という殺人のための機械の備蓄を増大させているのだ。 
 (これは現在の安倍内閣以後の日本における”政治と企業の複合体化”から軍事防衛費予算がだんトツに増大し、戦後時以降、具体的なる今後の”軍産複合体”構造を構築しはじめている現実にも現れている。/筆者)
 アメリカはまず、”軍産複合体”の手に権力が握られ続いて、この複合体に類似したものが多数
存在してしまっているのが現実です。そしてこれらの構造体は”多国籍企業体”構造を持ってより
複雑な存在価値を構造化してしまっている。原子力複合体、科学=工業技術複合体、石油=自動車産業=高速道路複合体、銀行=証券会社=住宅産業複合体、都市計画=開発産業=不動産業複合体、農産物生産及び、加工と農機具・肥料・飼料の製造販売までも含まれる農業関連産業複合体そして、IT=モバイル産業=情報産業=メディア産業複合体などなど。
 これらの複合体に実際の企業名を当てはめればその実態が見える。彼らたちは公然と貢献したり、秘密裏に援助の手を差し伸べたりして、その経済的基盤やそれを育む環境を備えている公共機関や大学が加わり、これらが複雑に絡み合ってさらに巨大な複合体を形成しているのが現代であり、こういう色々な複合体と同様に重要なのが、顕在化しているビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携であり、この現実が今では世界のいたるところで見られ、その根幹は巨大な超国籍企業と様々な多国籍複合体にあり、これらが世界にまたがる”自由主義諸国”を一つにまとめ上げたのが”グローバリズム”であり、ここに、新しい独裁主義を成立させている。”新しいファッシズム”はその国の伝統や文化遺産によって違った色合いを浴びて現れるだろうし、人種構成や
宗教の構成、政治機構、地政学的環境などによってそれぞれが違った様相を呈する。』
 
 そして、もう一つ、現代日本のファッシズム、「安心のファッシズム」とは?;
 では、日本的な視点でこの現代という時代性を新たな視点で捉え、考えてみると、僕が、
「みんなで安心・安全・快適」というコンセプトを初めて使い始めたのが90年代の終わりに
近い頃であった。これはファッションのコンセプが”WAPPING"から"PROTECTION"へ変革し
始めた時期であり例えば、世間では”tatoo”がクールになり一般化し始めたので覚えています。
 着る人間の身体と心を”モード”によってプロテクトし始めた新しさだったのです。
現在ではこのコンセプトはすでに常識になってしまっていますが当時はフード付きの”被り物”はまだ限定されていて、ブラックのストリート・キッズから発生し、ラップによってプロパガンダされそして、流行によって”クール”になり、今では当たり前の一つの生活衣料品になっている。これがまさに”サブ・カルとファッションによる液化現象”ですね。
 例えば、お笑い系でも、”シソンヌ”のギャグ・コントが現在の”spa"型のショップの現実を
パロディっているというまでの日常の”液化現象”です。
 その後、インターネットの普及化と携帯がより多重・多機能化しスイカが生まれ今のような
平成の「安心・安全そして、スイスイ」社会にこの「安心のファッシズム」は発展した。
 この平成の「安心・安全そして、スイスイ」ボケの現代社会を切った「安心のファッシズム」という本があります。
 参考;「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;

 考えてみると、「誠実に生きる、真面目に生きる、真剣に生きる」等とは、これらは全て、
与えられた”自分の生”に対しての、自分の自由な生き方への詞です。これらを放棄さえすれば、
みんなと一緒になれば、その社会の人間たちは誰でもが、「みんな、安心・安全そして快適に
スイスイ」と生きてゆけますよ!という社会構造の構築と科学技術の開発によって素早く現実に至った現代日本社会です。ケータイがなければ何もできない、電車にも乗れない、街も歩けない
暮らしてゆけない社会の構築。
 巨大なシステムに操られることが苦痛にならずむしろ、心地よく便利にスマートに生きて行けると感じさせる時代性がここに、見事に構築されてしまいました。これは、物事の根幹を知らなかったら、”知性”や”教養”に関係なく全てに飼いならされてしまうという時代性とも読めるのです。これが現代日本における「安心のファッシズム」の由来です。
 一台の携帯電話+各種アプリ+1枚のプリペイドカード+クレジットカード+キャッシュカード+各種会員カード+マイレージ各種クーポンサービス+社員証+マンションキー+スイカ等の交通機関乗車券などなど、=安心、安全そして、スイスイ快適生活=「安心のファッシズム」
という現代日本社会構造。(参照/日経新聞/2004年5月20日付け。)この構造を起業化したのが、
「フィリカネットワークス」という2004年に設立した企業です。
ある意味ではたった”1枚のカード”に不動産価値構造を構築し、携帯を”ハブ”機能とさせれば
”スイスイ・快適”が日常化するという、「安心のファッシズム」の発想でしょう。 
 参考/フィリカネットワークス”=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立:
http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html
 ここでは、地上のすべてがマーケッターたちの”ゲーム版”上と化してしまっています。
「動く商圏」を構成する「息する財布」としてしか、認識されなくなってしまった人間たち。
大衆達は「操舵の術」としての”マイカード”と繋がるための”ケイタイ”によって、現代人の肉体
そのものをコントロールされていても違和感を感じないように飼い慣らされてしまっています。
だが、これらはすべて、「アメリカの軍事衛星」を経由して流されてくる提案に操作されているという”根幹”は果たして、どれだけの利用者たちが認識した上での”スイスイ効果”なのでしょうか?ここでは、「自由に生きる」ことそのものが変革され”操作”されてしまっていることなのですが。
 ここで、”ファッシズム”とは、本質的に、ファジーな曖昧なものの塊をいうのです。
全ての根拠が”曖昧さ”で始まっている現代のキーワード、「真実っぽさ/truthiness」の世界
そのものであり、自由でないことの”幸福感”が芽生え始め、支配されたがる人間が主人公/ヒーローでありる世界。そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている不自由な社会。
 しかし、この世界を誰が作り始めたのでしょうか?そして、どんな人たちが我れ先にとその世界へ駆け込んだのでしょうか?ここに、ビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携連帯で
築かれ作られた”複合体”社会の真意があり、「使われ慣れした、使われやすい、飼いならされたい人間たち」の登場いわゆる、”世間にお利口さん”な世代たち、彼らが登場し、そして主役。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」
第1部終わり:後半があります、お楽しみに!!
文責/  平川武治:

投稿者 : editor | 2016年12月26日 07:00 | comment and transrate this entry (0)

greeting(39)

Hello President Mr.Trump!! "The world is the wall-paper that only the truthiness."

「The world is the wall-paper that only the truthiness.」
 「ーそう、世界は”真実っぽさ”で溢れかえってしまっています。」

/2005年S.コルベア(コメヂィアン)
 ある時期から政治家が合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に変わって、むやみに感情や「勘」に訴えるようになってきた現状を評したもの。現代社会とはこの”真実っぽさ”に寄って全てが構築されてしまている。

 「保守とリベラルの違いは、リベラルの方が合理的だとか、物事を考え抜くことに熱心とかいうのではない。リベラルの方が自己欺瞞に陥っているだけである。彼らたちは自分たちが合理的であると思っているが、その実、他の誰かと同じように感情的で直感に頼っている。このような思い込みはともすると驕りにつながってゆく。彼らは世界を予知し、支配し、変える自らの能力を過信する。このため、リベラルは人間の条件を改善すべく莫大な費用を要するのに無益な計画に従事し、みんなの暮らしを以前よりも悪化させるのが常である。人間行動の深遠な根幹を無意識の領域である直感的・非合理的な思考形態を素直に受け入れることは自己欺瞞に陥ることを防ぐであろう。」D.ブルックス/N.Y.Timesコラムニスト「人生の科学」(The Social Animal)
 参照/「啓蒙思想2.0ー政治・経済・生活を正気に戻すために」NTT出版刊/J.ヒース著:

 今回の President Mr.Trump陣営の一つの”ネタ本”、
 "Friendly Fascism"という本が1984年に出版されています。
参考文献/"Friendly Fascism"/「優しいファッシズム」by Bertram Gross/1984/01刊
http://www.thirdworldtraveler.com/Fascism/Friendly_Fascism_BGross.html
https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://en.wikipedia.org/wiki/Friendly_Fascism&prev=search
 ベトナム戦争後に再び戦争に向かうアメリカ社会の内情を描いたものです。
グロスは、米国は依然として世界で最も裕福な国であると述べ、 資本主義は、まだ大衆のための快適さを作り出していました。安全安心を求める市民の欲求が政治的に利用され、いつの間にか自由を奪われた社会に向かっていく、というもの。当時は軍国主義は強権的政治が生み出すものと考えられていましたが、グロスは普通の市民が抱く感情がマスコミによって誘導されることで、容易にファシズムが実現できると警告したのです。

 ここでも「ナショナル・アイデンティティ」と「ネーション・アイデ ンティティ」のバランス化と言う「文化力」の根幹と本質が新たな「シン・人間性」を生み出すでしょう。
民族がもちえている「NATION IDENTITY」をどのように、マーケティングしてゆくか?
ここに「NATIONAL IDENTITY」と「NATION IDENTITY」のバランス力が
新たな”文明”そして、”国力”になる時代性の到来でしょう。
 この行為が「保守的」な関係性を生み出すか、あるいは「革新的」な関係性を生み出すか?
はただの方法論でしかなく、根幹はここに今後の合衆国の「賭け」があるでしょう。
 彼、President Mr.Trumpは不動産業とカジノ産業で儲けていましたね。
これら、「賭け」には「掛け金」が必要です。彼のこの「掛け金」の動かせ方が今後の
「経済」となる、やはり日本経済にとっても厄介なPresident でしょう。
日本の戦後の政治と社会とは”リスクとコスト”を回避することで成長してきたのですからね。
 しかし、このPresident Mr.Trumpの元においてはあるいは、「カウンター・カルチャー」
そのものが”リ・モデル化”され、芽生え激しい新しさを欲求する新たなコミュニティー運動の
可能性が見えるかもしれないし、その一端としての”州”の独立運動もありうる時代へ至るかも?

 M.ムーア曰く、
"However this ends, that's where we begin." /「これは終わりだが、始まりでもある」
 
 「トランプ大統領の誕生。」
”現実”とはこのようなものです。
この新たな”現実”によって、
今後のリアリティが生み出されてゆくのですね。
アメリカ国民の大きな賭けの時代が始まるでしょう。
賭けには「金」がつきものです。

そして、確実に「近代」は終わるでしょう。
その次なるのためのカードは?
そのカードとしての「価値観」とは?
その価値観を育む「プログラミングとシステム」

「保守」の時代性も変革が起こるでしょう。
これからのアメリカ人たちは「何が変わることに期待をしているのでしょうか?」
金の世界が生み出すヴァニティな世界は”薄っぺらなヒューマニズム/truthiness”を救うか?
これが彼流の”ファッシズム”あるいは、"Friendly Fascism"という名のナショナリズム”。

”0 or 1”の決断には金だけだはなく、経験そして、「勘」と「感情」が必須でしょう。
”ヤルか、ヤラナイか?”の世界が広がるでしょう。
今後のこの世界に決断できるのはもしかしたら、案外”エトランジェ”たちか
あるいは「黒人」たちもしれませんね。

リベラルを装う白人たちの”ヨオロピアン・コンプレックス”に変わって、
彼らたちの勘と経験からの価値観が決断を産めば、
その新しさは一つの時代を生み出す可能性があるでしょう。
例えば、彼らたちが吐き出すボキャブラリィーである
「ラップ」を聞けば理解できるでしょう。

彼らたちが選択する「近代」の次なるは、「脱・近代」なのか、「超・近代」なのか、
あるいは「シン・キンダイ」なのか?それが、「超・保守」なのか???
問題は「幸せ」という真実が蜃気楼であり、
ただの”真実っぽさ/truthiness”でしかなかったこと。
世界は「壁紙ワールド」。

しかし、President Trumpは「近代」と言う1頁を彼の"教養"/レベルで完全にめくるでしょう。
彼の武器はなんなのだろう?
そして、目指すは古き良き時代の「いにしえの帝国」と言う名の集合集団。
憂国の孤独から生まれる"Friendly Fascism。

今日までに既に、綻びかけていた「近代」は
グローヴァリズムによって全く”新しいルールとシステム”の必然性を知る。
ここに来て「金の力」で新たな「近代」が押し出されるでしょう。
そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている不自由な社会。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2016年11月18日 14:15 | comment and transrate this entry (0)

article(81)

大切な蛇足、「あたらしい酒もふるい皮袋へ、」変わらぬ”猿山軍団”の惨めさ。

 「新しい酒は、新しい革袋に」/『新約聖書』マタイ伝第九章の一節。

 僕はこの言葉が好きで、「モードとその社会」が変革する時にいつも使ってきた言葉です。
思い出すと、80年代始めと80年代終わりそして、90年代半ばと21世紀へ入って間もない頃使いましたね。
 そこで、相変わらず、「ふるい革袋」で粋がっている若い「自称アーチスト・デザイナー」たちへ蛇足な一言。

 ”自称アーチスト”デザイナーや「古い自由」で権力や集団性にしがみ付いて、「壁紙デザイナー」振っている僕的には、自分のコレクションにおいて、”世界観”が出せなく踠いている帰国組デザイナー達が二宮君のショーへも見に来ていた。CdGメゾンのショーを見に来ることで自分達が出せない何かを”パクリ”に来たのか?”バカの学校”のネタにし、自分たちが彼ら達と同類に見られたいという「古い自由」による行動なのか?
 メディアに媚びを売るだけの「古い皮袋」発想の輩達のここ数シーズンの行動。

 誰もが、”よちよち歩きの時は自信はハナからないので心配でたまらない。誰かに頼る。そして、それなりに自分たちの目的に近くなるともう彼ら達はさも、「自分たちの実力でこのようになりました」と日本人の”徳”の一つである、”礼節”を欠いた「忘恩の徒」と成って、顔と態度が
変貌する。ここには彼ら達のこの世界の小賢しさと”生まれと育ち”としての「風土」がある。
 昨今の日本社会に見られる、敗戦後の生き方の一つである「倫理観の欠如」の”2代目”たちであろう。

 彼ら達は何を見に来たのだろうか?服を見に来たのか、なんのために、どのような目線でこれらのショーを見たのか?展示会へも行ったのだろうか?
そう、ケイタイで写真を撮っていたものもいたね。コレクション後、お礼を言っていないね、、、、、
 
 集団で僕の鎌倉へ”泣き”に来た。
彼ら達セント・マやアントワープ帰国組の連中男、7人が帰国後2年程もしない時もう、待てなかったのだろう。焦り始めていた時であった。結果、彼ら達は集団で僕の鎌倉へ”泣き”に来た。
ここでも彼ら達は”集団行”しか取れなかった。
 「僕たちは海外の有名校を出たのに、どうしたら僕たちは有名になれるのでしょうか?」という切羽詰まった質問の答えが僕から欲しくって来た彼ら達。
「僕たちは海外の有名校で学んだのに、どうしたら独り立ちできるのでしょうか?」
 僕のその時の彼ら7人への答えは、「一人で何もできないのなら、”海外組”ですよという”集団”で行為するしかないだろう。」であった。
 即ち、最も日本人的な行為である、”赤信号、みんなで渡れば怖くない”方式を授けた。
 その結果が、”コルク・ルーム”、”エスペランサ”そして、”バカの学校”へ、まるで、”猿山のボス”構造を日本のファッションメディアを丸め込み、構築した「使い古された自由」の行使でしかなかった。
 僕の経験から言わせてもらえば、彼ら達の売りは”海外の学校を出た”とDIESEL社の”客寄せパンダ・コンテスト、IT'S"での受賞でしかなかった。が、これらにまんまと引っかかったのが”外国人”や”海外校”にコンプレックスしか持っていなかった当時の文化系ファッションメディアとそのリタイア組みおばさん達そして、専門学校と、アートとデザイン関係性やそれらのたち居場所が社会にどのようにコミットしなければならないかを教える側が理解していない”雰囲気美術学校”、これらが加わっての”猿山構造”。この”猿山のアントワープ組”で言えば、彼ら達が在校中、どんな事をして来たか?、何を学んだか?彼ら達の親が卒業時にどのように”上手にカネ”を使ったか?ほとんど熟知している。
 そんな彼ら達もすでに「小さな嘘」の連続によって、その立ち居場所を設けてしまったが故に、今後の活躍となると大変!!変わらず”イカサマ”社会でやってゆくしかないであろう。
しかし、現代日本社会の表層とはそして、日本のファッション界も同様、このような小さな”イカサマ”で成り立ってしまっている世界でしかないから彼ら達は今後も、旨く立ち回るだろう。

 彼ら達を冷ややかな眼差しを持って、心地よい距離感を持って自分の”世界観”を生み出しているのが、巴里のA.アライアさんのところで頑張ってアシスタントを続けながら自分の「世界観」を作品に世界で発表し続けている瀬尾英樹君がいる。http://www.hidekiseo.net
 そして、東京で彼ら達から”つかず、離れず”、自分のたち居場所をしっかり持って活躍し始めたのが中里唯馬君であろう。自分が持ち得た「風土」から健全に、もうすでに自分のコレクションに「あたらしい自由」による自分の「世界観」を持ち得始めた”海外組”のデザイナーであろう。http://www.yuimanakazato.com
 この二人は「新しい酒であり、新しい皮袋」を自分達で探し出した僕が認めるアントワープ王立の卒業生である。
 
 自分のブランド・コレクションを世界で、巴里で行うということとは、「自分の持ち得た経験とスキルそれらに文化度と美意識を振りかけ、これらに人間性を加味し尚、”自心のこゝろの有り様”に正直に、自分の「世界観」を「あたらしい自由」とともに構築していくことである。
ここに現在では「素材」の新しさと人間性としての”ヒューマン・テクノロジー”が一つの時代の新しさ感を表す”言語”となっているのが今の時代感でしかない。
 何故ならば「自由」とは自分のこゝろの有り様に正直に行為することであるからだ。
よく言われる”自分らしさ”とはこの自分の「あたらしい自由」の表現にあり、それが一つの”世界観”をも構築していることに対して、自分の「ブランド・ネーム」をつけることが自分のブランドになる。
 そして、このブランドが発信する”世界観”が着る女性たちを魅了し、エモーションを与え、
彼女たちを時代の「あたらしい自由」に耀かせなければいけない”使命”までも考えるところに
現実モードの世界の素晴らしさがあり、凄さと大変な苦労が存在し、そこに面白さと愉しみと
カッコ良さが存在する世界である。そして、この”世界観”の塊のシーズンシーズンが”コレクション”と言われるものである。

 しかし、昨今の巴里でも日本と同様な「SPA」型のデザイナー・メゾン・ブランドが増えたために、彼らたちの”世界観”とはビジネス優先の”世界観”であり、これが多くなり、ここに”トレンド”が新たな「世界基準」として、より、世界の共通言語化し始めてきた。
 このような時代では経験豊かなそして企業規模があるブランド・デザイナー達は自分達の”世界観”によって「世界基準のトレンド」を編集していることである。ここには「自称アーチスト」ぶったCdGチルドレン達のお母さんブランドも現在ではこの手法で”自分世界”を継続するための
コレクションを行なっているに過ぎない。
 だが、自ら達が社会に”コミット”することを怖がってきた、実社会の経験未熟な”猿山軍団”たちが持ち得た、「風土」による”人間性”と”文化力”では到底”お母さんブランド”の”質”と”品”は
生み出せないし、そこから生まれるブランドの”世界観”が未だにない。当然、「品格」は皆無だ。

 これらを熟知しないで、「ふるい自由」な価値観と「ふるい皮袋」の中で、自分の自己満足のため、自己顕示のために”自称アーチスト”ぶったレベルで、大いなる勘違いの経験乏しい輩の郎党が”バカの学校”生み出した。そこへ、これまたより未熟な連中が「自由」とは何かの根幹さえ知らず、「赤信号、みんなで」方式で、勘違いしている仲間がいるので怖くない”セフティーネット”上でたむろする。結果、東京の「壁紙デザイナー」養成所レベルに至る。
 何故ならば、「自称アーチスト」たちが今では”デザインの世界”でどのように自分たちだけが”金儲け”をして”巴里詣”に行くかを算段し始めたからでしかない。

 さて、どのようにブロガーと称する”宣伝集団”たちを自分達の”小さな嘘”の上塗りでペテンして、今シーズンはどんな「壁紙」を貼り付けるのだろうか?これからも見せてもらおう、
 あの時、鎌倉へやって来た男7人たち「猿山軍団」のシリアスな惨めさを!
文責/平川武治:Morocco、Tanger市にて;

投稿者 : editor | 2016年10月22日 17:11 | comment and transrate this entry (0)

article(81)

”NOIR”/二宮啓君のミニ・コレクション。

 僕が好きで、気にかけている二宮君の巴里でのミニ・コレクションが、
やっと見ることができた。

「エレガンス」は立ち居振る舞いから生まれる”しぐさ”を美しく調和感のある様のことである。

 最後発隊のこのメゾン・ブランドのオリジンは90年代初めに作った”CdG NOIR"。
ソワレや婚礼を意識して当時作られたブランドだったが、当然であるが、そのほとんどがメディアへのイメージング・サーヴィスで終わり、在庫となり、その多くは京都服飾財団へ寄贈された。しかし、ここにも川久保玲の”夢”を僕は見てしまっていたし、その後、ここで行われた
”THINK BIG"なこなしやディーテールは現在の川久保玲のコレクションへも引き継がれている。

 僕が初めて彼の展示会で見た少数の作品は全て、”手仕事”でまとめられた見事な”職人根性”で
作られていた。その名の通り、”黒”を使っての新たなブランドも3年目を迎える。
 このメゾン・ブランドでは出し得なかった何にか、”人間的な温かみ”を感じさせるまでの作品を、その最初の技法としての装飾は”刺繍”によってこの恵まれた若きデザイナーは生み出していた。
 幾シーズンかをこの技法を主としたのち、彼も僕的には”WITHOUT SEWING"プロジェクトのカテゴリィーに入る作品をレザーを使って手がけるようになった。僕はこの当時の彼の作品に 
”鎧”を感じ取っていた。
 
 僕は日本人の歴史において、戦国時代の”戦国武将”たちが身につけた”鎧”とは、その武将の
”地位と権力と強さ”をそして、矢や刃からも身を守る”機能”も考えられた”装身具”であり、見事に当時の”日本美意識”によってデザインされ作られた優れものであり、世界に類を見ないものとして色々な資料を漁っていた時期があった。西洋でも勿論、”鎧/ARMER"はあったが、実践的で
あり、機能優先がそのほとんどで装飾性における”美しさ”では、日本の鎧が見事に勝っていた。
 その後の、”江戸時代”に目を向けると”商人文化”が芽生え始め、利休による茶文化で生まれた美意識を根幹にいわゆる、”旦那趣味”へと、彼らたちは当時の金に糸目をつけず、茶道を軸に
花道、香道から、日常の生活美に至るまで日本美が何たるであるかを誇示するまでの”手工芸品”
を別注しその収集に勤しんだ。しかし、僕はこの江戸文化の美意識の根幹にあの戦国武将たちの
”鎧・兜”の美の世界があると感じている。
 江戸の町民文化が現実に求めたものは”兜・鎧”で使われていた素材と表面加工のバリエーションでしかなかった。”鎧”は竹であり、革・毛皮であり、金・銀であり、銅板・真鍮・鉄板であり和紙であり布とそして、漆加工や鞣し加工、象嵌から印伝加工や打ち出し加工、刺し子などと、
”組紐”や”マクラメ”によって全体を組み合わせていた。これらの素材と加工技術が江戸時代には当時の豪商たちの”生活工芸品”へと進化発展した。
 この時代による”美意識”の進展化を考えると今後のモードの世界にも「ミシンと糸と針」で
縫うだけの世界ではない”衣装”の世界が可能であること。しかもこの世界はほとんどが、1点制作であり、これは日本版元祖”クチュール”の世界であり、現代においては”コスチューム”の世界であるという視点が働き、”WITHOUT SEWING"プロジェクトを思いついたのである。
 当然この裏には、”ユダヤ人たち”がすでに制覇してしまっている世界のモード界そのものである"ファッション・ゲットー”から、出来るだけ遠く離れ、新たな世界そのものを構築しないと
これからのモードを目指す才能多き、ユダヤ人以外の若者たちの”たち居場所”はすでに限られてしまっているという僕の経験からの発想と思惑もあった。できれば、このアイディアを東京と上海でヴィエンナーレ方式で世界中の「あたらしい自由」をモードの世界に求める人種を超えた、今後の”カラード・クリエーター”たちが大いに活躍出来るチャンスを提案したいとまで考えていたプロジェクトである。

 話は少し、飛んでしまった、二宮啓君のミニ・コレクションへ戻そう。
彼のコレクションをこうして”ショー”形式で見せていただくとそこには「黒のバリエーション」という彼独特の世界が見えてくる。”黒”が色々な色に見えてくるのだ。
 この世界は、今では残念ながら見えなくなってしまった、かつてのCdGが挑戦した世界。
そこに彼の持ち得た”美意識”と”文化度”が、”手の器用さ”と”頑固さ”が彼、二宮啓の
「あたらしい自由」の世界を生み出している。
 そして、僕が彼を信じるところは日本人デザイナーがこの若さですでに「エレガンス」を
デザインできるまでのもう一つの才能を持ち合わせているからだ。
それらはショーで垣間見ることもできるが、展示会へ行き、バイヤーたちが実際のサンプルを
試着している折に最もよく判ることであった。「軽み」と「重み」のバランスを生み出すために造形していると感じるまでの世界がここにはある。パンチング、テーピング、モチーフ、ドット、メッシュ、工業用素材などを使い組み合わせられた世界は”パーツ オブ ボディ”の世界でもある。当然だがこれらの素材による小物の世界もいい。

 この彼の実力は、外国で勉強しました猿軍団、東京「壁紙デザイナー」たちとの歴然とした、謙虚さと気骨が違う恵まれた環境から生まれる”差異”である。
 クチュールの仕立てが素晴らしいこととは、仕立て上げる過程で着る女性の”肉つき”を
パターンへ落とし込む回数が多いことがその価値の根幹である。 
 この”しぐさ”による「エレガンスな”様”」を生み出すにはパターンがうまくないと生まれない。パターンが出来ないデザイナーたちのものは平面的なデザインであり、薄っぺらい服になってしまう。いわゆる、”平面的な服”と言われてしまう世界でしかない。ここが僕が言うところの「壁紙デザイナー」の所以の一つである。
 このタイプのデザイナーに共通するところは”表層の装飾”が過剰になる。あるいは、テキスタイルに凝り、デザインに凝る世界、手工芸的な熟しだけに拘ってしまうものである。
 そして、着ると美しさがその着た人の立ち居振る舞いに現れない。最近のようにPCが発達してしまったこの世界でも、その結果はより表層的なるデザインがインジェクション・プリントや
異素材の組み合わせに依って成される傾向と、ショーがインターネットで見れることの功罰の
一つとして”正面”のデザインにのみ凝る。
 しかし、やはり、いい服とは「着た女性がどれだけ、癒された”エレガンス”な女性へ変身
出来るか?」でしかなく、”どれだけ目立つ”かではない。
 パターンが上手なブランドの服は動きを作り、着た”女性のしぐさ”を美しくするのだ。
すなわち、「エレガンス」が生み出せる世界を構築できることである。

 例えば、かつての”アパレル”ブランド、最近では”SPA"ブランドやフアスト・ファッションの
商品はこの”付加価値”が生み出せない。
 そこで、”プレタ・ポルテ”のデザイナー達はこのクチュールと既製服の距離感から
そのビジネスにおける”立ち居場所”を持ち得ることができたことがそもそもこの街で誕生した
”プレタ・ポルテ”の世界であった。巴里において60年代も終わりに近い頃、この世界を初めて提案したデザイナーが誰であるか?勿論、YSLであった。
 ここに彼の、この世界の「あたらしい自由」が生み出した素晴らしさと功績が潜んでいたはずだ。
 そして、未だにこの”クチュリエ・メゾン”が出す”プレタ・ライン”が、”ラグジュアリィー・
ブランド”と称してその商品価値を”金メッキ”に変換させてビジネスをしている状況もここに
由来している。現在の大半の”ラグジュアリィー・ブランド”の商品の生産工程も既に、”SPA"と
同じ環境で生産しているのがファッションの”グローバリズム”と言われる所以である。
 ここでのデザイナーの役割とは、”広告宣伝”のためのイメージングと話題つくりでしかない。そう、ラフ君や最近では、ヴェットモンたちのように。

 僕が好きな”NOIR”二宮啓くんの”世界には確実に、このメゾンにおける「あたらしい自由」が溢れている。
 今までにはこのメゾンでは少なかったであろう、”手が器用な”デザイナーであり、自分でコツコツ手仕事をするのが好きなデザイナーであろう。そのほとんどが当然であるが、川久保玲に
憧れてこのメゾンの戸を叩くであろう。が、このレベルでこのメゾンへ入るともう、
”負け”である。良くも悪くも”使われる”だけである。これは企業の倫理でもある。
 自分にあって、その環境には無いものあるいは、少ないものの世界へ挑むことによって、
そこに初めて、自分の”たち居場所”が生まれる可能性があるはずだ。
ここには「覚悟」と「勇気」が必要になる。
 例えば、帰国子女達の多くが、”外資系”なる企業へ就職したがる。
それがステータスであると言わんばかりに。しかし、この世界での語学はここで働く外国人達にとってのネイションランゲージである。したがって、少しばかりの語学力も彼ら達に
”扱き使われる”ためのものでしか無いレベルとなる。その世界そのものが外国語が当たり前な
世界でしかないからだ。
 ならば、外国語が最も程遠い世界でその喋れる外国語を使うことの方が価値があるし、
次なる可能性が生まれる。この考え方が現代日本人には少ない。
 
 彼の”Golden Hand"は次なるはどのような世界を目指すのであろうか?
もう”刺繍の世界”へは近づかないのだろうか?
この”刺繍の世界”は世界共通言語であり、人に、感動を与えられる世界であるはずだが。
 ”鎧”の世界と”刺繍”の世界のコラボ?に僕は彼の”Golden Hand"による
「あたらしい自由」を夢見てしまっているのだが、
文責/平川武治:Morocco、Tangerにて。

投稿者 : editor | 2016年10月19日 21:36 | comment and transrate this entry (0)

article(81)

JUNYA WATANABE/パリ・コレクション’17 S/S ”モダン・テクノロジーとヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュ

 ”モダン・テクノロジーとヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュ
”パンキー& ニユー・エレガンス”コレクション。
 一つの判り易いコレクション・パターンを見せてくれた今シーズンのジュンヤ・ワタナベ。
彼はここ数シーズン、自分の世界をこれからの時代へチューニングするためのトライアルを新しさとしてコレクションに残してきた。僕は彼のこの姿勢が好きであったし、この彼のトライアルに勇気と覚悟が伺えるまでのとても素晴らしい、いいコレクションだったことを覚えている。
彼の”軽さと重さ”、”エレガンスと激しさ”が絶妙なバランスでまとめられていたからだ。
 それらは、僕が数年前から提案していた「WITHOUT SEWING」プロジェクトの一環に値する視点での新たな発想に基づいたコレクションに挑戦してきた。これは”モダン・テクノロジーと
ヒューマン・テクノロジー”のブリコラージュであり、”I.D"との”ラップ”。
時代の新しい自由さを感じさせるまでの美しさにまとめられ、着る女性を生き生きと伸びやかな姿にするマジックをこのデザイナーは既に、持っている。

 今シーズンの彼のコレクションもその延長上であった。
もともと平面である素材を彼も”3D"構造のメイン・エレメント・パーツに仕立て、
その3D.エレメントの連続性で”服”を仕立てるというマティマティックスな手法はここ3シーズンの継続コレクション。
 前々回のコレクションで、それまでの3シーズンほどを塩ビ素材を使ってエナメル加工したものも含めてそれらを平面のラウンドなパターン・ピースを作り、このピースを一欠片づつつなぎとめる手法で”服”を仕立て上げて来た。僕はこのシリーズは”ポリーマグー”的なイメージと新しさ、晴れやかさと爽やかさをエレガントに感じた。
 その後、彼は2シーズン、3D.のエレメントで”新しい自由”を提案した。
トライアングル・グリットによる”折り紙”あるいは、”ペーパークラフト”的発想で3D.エレメントを構成し、これらを使った世界をこれらも見事な、彼らしいい端正さと几帳面さが作品の品を表すまでの軽やかなコレクションを行なった。安い合繊素材そのものを先ず、”加工ー部品”化するすなわち、”I.D"の手法によって、この世界の延長、バリエーションが今シーズンだった。

 しかし、今シーズンはコマーシャルを意識したバリエーション。
この発想の初回のコレクションは、こんなアイディアでこれほどのコレクションが出来ますよという力の入ったシリーズー1。そして、2回目の先シーズンはこの発想をここまで広げられ
尚且つ、力を抜いて軽妙にまとめられますと言う迄の充実したエレガントなコレクション。
結果的には、このシリーズのコレクションとしては一番いいコレクション。
 今回はこの3D.エレメントを使い、売ることを考えられたところでまとめたコレクション。
”ナイン・インチ”の激しいリズムがコレクション中鳴り響くなか、颯爽と”パンキー& ニユー・
エレガンス”コレクション。
 このような発想のコレクションは、僕が提案していた”WITHOUT SEWING"でもそうであるが、これらの根幹には、”モード”と”インダストリアル・デザイン”のコラボ的発想の新しさが存在している。もっと、わかりやすく言ってしまえば、”レゴ・ブロック”世代へ共感する発想のオリジナリティがある。まず、パーツとしての”エレメント”を作る。次にそれらを組み合わせて人体に”装着”させるという発想だ。ここでは、”縫わない”で”組み立てる”という手法を”モード”の世界へ持ち込むという”新しい自由”の一つである。
 したがって、この”エレメント”を作る場合、機械加工に委ねるためそれなりのロットが発生しそこに”リスク”が生じる。そのため、それらの”エレメント”である”部品”を使いまわし、このコストを下げなければビジネスに繋がりにくい。
 新しいことをするために生じる”リスク”と”コスト”はいつの時代にもそれなりに派生する。
その”リスク”と”コスト”を工場が持った上での製品化が”インダストリアル・デザイン”の世界である。その結果、この世界は、その後の量産によって、売れれば売れるほどに”儲け”が生まれる。この現実は、かつての”I.MIYAKE"のプリーツシリーズが現在の”I.MIYAKE"ブランドを経済的に救ったことでも理解できる。
 
 今回3シーズン目の、この世界に挑戦した結果となったジュンヤ ワタナベのコレクションは
彼のセンスとまとめ方という”モード”の世界での経験とスキルが十分に生かされてまとめられたコレクションだった。
 ”軽さと雰囲気”を大切にしたコレクション・テーマでの彼が考えた”創造のための発想”は”パーツ オブ ボディ”であった。着たい女性の全身を”ラッピング”するのではなく、彼女たちの姿態の部分にこの”エレメント”を使って”装着”するというアイディア。その結果が、”エプロン”や”肩掛け”といったアイテムに見事に落とし込まれて彼、特有の世界観を生み出した見事に、心地よいコレクションだった。ここには”センスの良さと頭の良さ”が伺えるまでのコレクション。
 インナーは分かり易いBIG・メッセージT-シャツ。時代性としての”ストリート感覚”をベルリンの今では、”グラフィテー・アーチスト”に成り上がった連中とここでも”コラボ”。売るための時代感覚がここに織り込まれたコレクション。日本のストリート・ブランドの今ではこの感覚は若き”書道家”の登場になっているが、どちらが世界ウケするのだろうか?
彼ぐらいのデザイナーになれば、”ネイション・アイデンティティ”に堂々と挑戦することも
”義務”かもしれない。いつまでも白人たちへの眼差しを気にした目線から生まれる”PUNKY"
イメージはすでに、「カウンターカルチャー」では無く、寧ろ「ヤッピィー・カルチャー」でしかない。
 あの僕たち世代へ強烈なカウンターを放った、「B.ディラン」さんもノーベル平和賞の時代なのだから。
文責/平川武治:モロッコ、ティツアン市にて。

投稿者 : editor | 2016年10月19日 15:41 | comment and transrate this entry (0)

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<追加編 >巴里’17S/S CdGコレクション展示会から、

CdGコレクション/追加編; 
 CdGショーで大切なことを付け加えるのを忘れた。
それは、今シーズンのこの世界観で、なくてはならないもの、時代感を感じさせ、新しさと
爽快感を与えたものがあった。それが、”ヘヤー”デザインである。
 ここで使われた素材は、”塩ビの透明チューブ”。
この素材が彼、ジュリアンのデザインによって見事に時代の顔つきにまでショー全体を高揚させたのである。
 今シーズンではこのヘヤー・アクセサリーが僕には一番のカッコいい、センス良いクリエーションであった。
ありがとう、ジュリアン!!

 そして、展示会で見せていただいた今シーズンのCdGのビジネス・コレクションは時代性と
いうより、今のビジネス状況を大いに加味して構成された巧いコレクション。
 基本的なデザインエレメントは、かつて見たことのあるもの。その根拠はショー・コレクションの”エレメント”そのものが使い回しのものが多いため、これらのショー・コレクションを
実際に着用できるまでにまとめた優れたものが今回のビジネス・コレクション ピース群。
 すなわち、ショー・コレクションの”プレタ”版と言う構造で構成されたもの。
従って、その殆どがいつか見たことのある素材と”アイテム”群。それらがプリント処理等の
後加工によって新しい顔つきを生み出した「CdGらしい」ビジネス・コレクション。
このブランドの崇拝者達にはやはり、日常で着て見たくなるもの。いくつかのアイテムとニットに今シーズンの”ソフト・グランジ”の施しがさりげになされているから売る側からも売りやすいシーズンであろう。
 特出ではショーにも出されていた”シューズ”。ナイキとのコラボによるソールを剥がすというアイディアによる”別注品”。
 この規模のワールドメーカーと、堂々とコラボができるこの企業の強さと立ち居場所を改めて知らされた1品。軽い、売れるであろう。
 今の若い人たちがモードへ入ってくるとき、
「おしゃれなものを買う」という行為は”シューズ”からである。
センスにうるさい連中は決して、上物やボトムから入ってこない。
 まず、”シューズ”である。シューズを決めてからそれに合う、”上物”となる。
この今流のファッション・プロセスを知っていなければ、今の時代、もう、カッコ悪い、
センスのないただの「壁紙デザイナー」でしかない。
 ということで、このCdGのビジネス・コレクションは全く、「コムデらしい」無難にまとめ
上げられたものだった。
文責/ 平川武治:巴里市ピクパス大通りにて。

投稿者 : editor | 2016年10月12日 21:49 | comment and transrate this entry (0)

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変われないだが、堂々と胸を張った!!コム デ ギャルソン パリ・コレクション-2017/春・夏。

 「大衆は”モンスター”が好き。」
”The Century of the Self”より ; https://www.youtube.com/watch?v=eJ3RzGoQC4s

 K.ブロスフェルト曰く、「植物は、単なるつまらない機能主義に決して陥らず、論理と適合性に一致し、
その原始の力で最高の芸術的な形を達成する。」
『芸術の原型』/Urformen der Kunst,1928年より:

 『「戦う女」⇨「甲冑」⇨「ソフィスティケーティッド」⇨「シンク・ビッグ」⇨
「サンボリック」⇨「心を守る女」⇨「繭玉」⇨「輝きのもと、なお、蕾。」
⇨⇨「ジェンダー」又は「ソフト・プロテクション」』

 今シーズンのCdG、川久保玲のコレクションの結論的ロジック・コンテキストを僕はこのように読んだ。当然だが、僕にはこのシリーズにおける「創造のための発想」は変わらず、
”川久保玲”本人に重なって見えてしまう。
 このシリーズを始めてもう、10シーズン目を超えたであろう。
今シーズンは作品の造形度とまとめ方がソフィスティケートされその分、川久保玲の
「潔さと端正」が完成されたイメージを残したシーズンだった。
 使われた素材や色目はある意味では”CdGらしい世界”でまとめられていた。
過去のこのデザイナーのコレクションによく使われてきた色目と素材と読める。
若くは、”原反在庫”を利用したのだろうか?素材の上からの刷毛目染めによってのオリジナルも出しているし、ハート型のフロッキー・プリントもある。
 コレクションに於ける作品の80%ほどのエレメントは従来から使ったことのあるエレメントの登場であり、これらを素材とモジュール違いでまとめられている。
 ここまで続けるとこれによって、余計に”CdGらしさ”がこのシリーズで感じられるまでになった。ということはこのブランドの根幹である「特異性」という立ち居場所がより、明確になるがその「特異性」そのものは弱まった。
 ディテールのまとめ方は「シンク・ビッグ」という手法である。結果、堂々としているし、「サンボリズム」を感じる。この手法は80年後半のV.ウエストウッドが好んで使い、
先シーズンのUNDER COVERが使った手法である。
 個々のディーテールでは、このデザイナーが昔、よくブルーゾンの襟に使っていた、大好きな襟のラインを白であしらい、「シンク・ビッグ」によって「シンボリック」に構成されている。この辺りのディーテールの使い方と構成力はさすが彼女の好きな世界であり、働く女性としての「戦士」を美しく清楚にバランスよくまとめているのも見事だ。

 今回のコレクションの”ソース オブ イマジネーション”も「曾ての、ラ カンブル校の
クリフトル君」そして定番、「K.ブロスフェルト」などのお馴染みがラインアップ。 そして、
なぜか、「BORO,東北地方の貧農家の布団ドテラ」(?)までも。
 特に、この新即物主義写真家のパイオニアと言われる、19世紀末のドイツ人 K.ブロスフェルトからは川久保玲は以前から過大な影響を受けている。自分のファッション・デザイナーとしての立ち居場所を死守する方法論の師ともしている。
 彼も、植物だけを取り続けて35年。よく似てますね、このデザイナーの生き方と。 
 K.ブロスフェルト曰く、「植物は、単なるつまらない機能主義に決して陥らず、
論理と適合性に一致し、その原始の力で最高の芸術的な形を達成する。」と述べている。
そして、彼は30年以上に渡り同じ写真の技術を使い、植物写真のガラスのスライドを作った。が、それは全て「学生」のための教材としてでであった。彼の35年に渡る仕事としての
作品群からは、「機能性」を越えた「奇妙さ」という美が感じられるが、ここには川久保玲の
このシリーズ全体の根幹がある。
 そして、「彼は自らの写真は芸術的業績とは考えていなかった。」というK.ブロスフェルト
自身の心情も川久保玲にも共通するところであろう。
 5年前にこのシリーズを始めたこのデザイナーも決して、自分が創り出す世界は
”芸術”ではないという立ち居場所で始めたはずであろう。
 このモードの世界で、しかも”パリ”というただ、若い頃の”憧れ”であり、”夢”となった
このパリへ実際に上陸した自分。その後、”継続”することを願望し始めた以後に感じ始めた
ある種の孤独感とその恐怖。しかし、立ち向かわなければならない。
 自分自身が「戦士」の如く、潔く立ち向かわなければ”継続”は不可能。
そして、”二人三脚”だと信じていたパートナーの裏切り。頼っていた小指敦子さんの死。
その小指さんが残していった「SIX・マガジン」に既に使われていた、K.ブロスフェルトの写真群。ここに以後の彼女の「ソース オブ ザ クリエーション & イマジネーション」があるのも
当然であろう。

”Over thirty years, he used the same photographic technique. From his negatives he made glass slide to give his students an understanding of nature's forms and structures.”
"He did not consider his photo an artistic achievement."/Urformen der Kunst,1928
https://ja.wikipedia.org/wiki/カール・ブロスフェルト
 
 現代社会における”モードの世界”で「新しさ」へ挑戦することとは、「服」の形態や形状
すなわち、デザインとしての造形の範疇で次なる新しさを探しても、もう見当たらない。
 この時代で「新しさ」を探すには、先ず「あたらしい自由」を持ち得なければならない。
これがよく言われる「見方を変えましょう。」発言です。
 しかし、もう見方を変えただけでは”バリエーション”の世界しか生まれ得ません。
それがこのモノに溢れてしまった資本主義・消費社会時代の現実でありますね。
 このブランドそして、川久保玲のコレクションの後、それなりの人種たちが一様に発する
「凄いでしたね!」とは、その根幹はなんなのでしょう? 何が「凄い?」のだろうか?
 この5年間ほどのシリーズを彼女の「あらたな自由」の発見と考えると、僕は川久保玲の
「凄さ」とは、4つある。
 『いつも彼女自身の「ボキャブラリィー」を持ち続けていることそして、その持ち得た
”ボキャブラリィー”によって、自分の「立ち居場所」を変えないこと。
この”立ち居場所”を変えないための「ビジネス」をしっかりと考えていること。
そのための自分の”ボキャブラリィー”が通じる「人材」を周りに置いていること。』
 これらの4つに加えて、このシリーズへ変革した発端とは「このモードの世界の従来の
”ボキャブラリィー”を彼女自身が自ら変えて、常に、”川久保玲のボキャブラリィー”によって
自らの世界観を変革させ、「語り始めた」こと。
 そこに、彼女の「あたらしい自由」が生まれることを熟知している「凄さ」がもう一つの
「凄さ」であると言い切れる。
 パリ30数年で、自らが体験し、身につけた”ボキャブラリィー”によって、
自らの”リスクとコスト”を背負い込んで「覚悟」ある新たな自分のモードの世界を語り始めた。
 このことそのものが川久保玲の「凄さ」でしかない。 
 彼女は、彼女自身で、「モードのボキャブラリィー」を新たな自由で語り始めたことが
「凄い!」のである。
 作品とはその結果でしかない。作品を生み出し、残すことが目的ではなく、常に、
「自分のあたらしい自由」を見つけ出したいデザイナーでしかない気骨ある稀なる
デザイナーである。ここが、昨今の「自称アーチスト」や「壁紙デザイナー」たち輩との
人格と品格の違いである。

 
「ありがとうございました、川久保さま」:
文責/平川武治:巴里市ピクパス大通り:

投稿者 : editor | 2016年10月11日 02:52 | comment and transrate this entry (0)

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パリ・コレクション-ここ3シーズン、成長し続けるUNDER COVER/2017/春・夏コレクション。

「モードのキャピタルは”RAP・WORLD"に色目を使い始めなければならない。」
 景気の悪さがストレートに見えてしまうのが、巴里のファッション・ウイークの怖い
ところだ。ジャーナリストたちはプロが少なく、バイヤーたちは古参が多い。
その中で、ブロガーと称する若者たちが”すきあらば”と言わんまでのセルフ・プロパガンダで
会場の前だけは異様な空気と盛り上がりを見せる。が、”ゲットー”の中は変わらずのこの世界
独特な淀みしか感じられない。当然だが、この空気感はその後、始まるランウエーのコレクションの表情と顔つきにも漂う。

 街の顔つきも当然だが30年前とはすっかり、変貌した。
判りやすく街の表層は”綺麗になった。”だが、昔の否、本当の「巴里」を生きてきた人たちに
とってはその全てが本当に”遠い、いにしえ”の風景になってしまったと嘆く。
 これは何も巴里という街の変化だけに限ってはいない、この街のモードを同じように30年も
見続けている僕のようなものには”モードのキャピタル”も同じベクトルで変化し始めなければならないと感じ始め、一つの時代を脱皮しようと、変わり始めたシーズンだった。

 「誰が、新しい顧客なのか?」「誰に売れば、モードとして輝きが廃れないか?」
「誰が金持ち新興スノッブ人種なのか?」「誰がパリ・モードを美しく着こなせるのか?」

 
 そんなこの街のメタフォルモォゼの近い過去として一番、ノスタルジックにメランコリックに思い起こさせてくれるのが’60年代半ばの”ジャズ イン サン・ジェルマン”だろう。
 例えば、既に、YSLが亡くなり、つい先月もS.リキエルも亡くなった。彼れらたちの時代が
どんどん遠ざかってゆく。それはオーディエンスも然りである。
 こんな懐かしい時代のアトモスフェールとジャズをテーマ・コンセプトにとてもハッピーな
コレクションだったのが、UNDER COVER、高橋盾が見せてくれた世界だ。
 素材が勝負の時代にジョニオ君が選んだのは”ニールド・パンチング”による異素材の組み合わせという、こちらのデザイナーにはまだ高価でこの手法が一般化されていない世界。
ここで、白人デザイナーたちから1歩リードを取った。
 ローブやトップスにこの手法で”JAZZ AGE"なるモチーフで彼のポジティフな世界を見せてくれた。ここに漂っていたのは「メランコリー」「ノスタルジア」そして重なる、「ロマンティック」や「ポエジック」が表層に転写によってデコされてた世界。極め付けのアイテムはこのデザイナーの凝り性な性分がレザーブルーゾンに現れる。あのM.レイの写真に見られる音符記号などが嵌め込み手法で丁寧に、豪華にブルーゾンになる。全体的には”ストリート・テイスト”をラグジュアリィーにまとめたシーズン。そこにも彼が提案する”ストリート・エレガンス”が溢れる
うまさ。このうまさは、彼のコレクションが年々、評判を呼ぶまでの上手さの証であろう。
 彼が上手いもう一つはいわゆる、”小物類”のデザインセンスとそのまとめ方である。これらによって、より、「UNDER COVERの世界」が耀く。
 フィナーレはこのメゾンも「トランス・ジェンダー」、メイクもすっかり変え、スーツの素材も打ち込みのしっかりしたメンズ素材で仕立てられたボディーフィットしたスリムなボーイッシュ・スーツ。カッコいい!!
ありがとう、ジョニオ君。
文責/平川武治:巴里、ピクパス大通り。

投稿者 : editor | 2016年10月11日 02:15 | comment and transrate this entry (0)

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’16/’17・ 秋冬のコムデギャルソンのコレクションと「裸の王様」

 実は、この原稿は先シーズンのCdG,川久保玲のコレクションを見た後の、後味の悪さと心のざわめきによって書いたものでした。
 その後、しばらくまとめることができず放置しておいたのですが、先シーズンのオム・コレクションで、再びこのCdG・HPがやってくれたのがこの童話「裸の王様」を一つのコンテンツとしたコレクションだったので驚いた。

 
 <今回、彼女の自身のコレクションがもうすぐ、ここパリで行われるので再読し、
まとめたものです。>

 皆さんは童話「裸の王様」を読んだことはありますね。
 デンマークの童話作家、アンデルセンが1837年に発表。原題 "Kejserens nye klæder"であり、日本語に直訳すると「皇帝の新しい服」となるいわゆる、二人の服飾ペテン師の話です。
 アンデルセン自身もユダヤ人でしたからこの童話は多くの比喩がなされていますね。
この童話の幾つかの比喩が現在のファッション・ビジネスの世界を構築している根幹の全てです。
 この童話が世に出たヨオがロッパ世界の1837年には、あのモールスが有線信号を実用化し、「産業革命」という言葉が初めて使われ始めたのもこの年からであり、ヨオロッパで新たな市民社会が躍動し始めた時期だったのです。「衣装品」の世界も手工芸の機織りから機械生産が、そして1840年にはミシンが誕生しいわゆる、量産が可能になり始めた時代でもあったのです。
 だから、僕が見てしまった40年間ほどのファッションの世界も未だに、この童話「裸の王様」の世界であり、社会環境というよりは”技術”の発達と進化によって齎された生活環境が変化しただけであって物事の”善悪”と人間の”業欲”の根幹はほとんどこの時代によって構築されたもので、以後、これらは”普遍的”でしかありません。

 *
 "The fashion is always in fake."と僕はよく発言します。
が、この発端は僕なりのこの「裸の王様」の読後感とその後の経験からの言葉で、この”FAKE”で成り立っている世界そのものがやはりファッションの世界なのでしょう。
 これは作り手であるデザイナーや売り手であるセールスマンそして、作られた作品としての服がこの”FAKE”で成り立っている世界だということです。
 そのファッションの世界が今では、広告産業と化してしまったということもこれで納得がいくでしょう。広告産業の根幹もこの”FAKE”ですからね。”FAKE”をイメージやクリエーションと訳せば事は簡単です。
 そうすれば、「アート」の世界をこのファッションの”FAKE”側に立っている人たちが渇望することも理解できますね。現代美術とはユダヤ人たちが作り上げた”芸術”という構造の上に立った20世紀最後の一番、知的で教養あるそして、巧妙な”FAKE”ビジネスの世界だからでしょう。
 その世界を見習ったファッションの世界の作り手であるデザイナーたち自身の立ち居場所とその”来歴”には多くの ”FAKE”が見つけられます。
 これは僕のパリモード30年の経験で言える事です。当然ですが、日本人デザイナーたちの多くもこの部類の人たちです。何かしら、自分の経歴や来歴それに、育ちや環境について、学んでいないのに学んだようにまた、自分が作っていないのに自分の創造のように発言したりと平気で偽りの厚塗りを行ってその立ち居場所を虚構している人たちです。
 僕が自分の立ち居場所であるこの”ファッションの世界”の人たちとの関係性を世界レベルで30年以上見てきた経験と体験からやはり、「この世界の人たちで、”尊敬”できる人たちが少ない。」と言い切っている根幹はここにあります。あまりにも彼らたちの多くが”小さな嘘”を当たり前のように吐く。
 そして、彼らたちのセンスと教養をより、上塗りしなければならないために、解ったふりして
”持ち上げている”人種たち、ファッションメディアとその周辺での傍観者たちがファッション・ジャーナリストと呼ばれている殆ど、”パラサイト”な人種たちです。
 この虚構構造を企業構造として”カネと小さな嘘”でジグソウパズル・ゲームよろしく”上書き”
を絶えずしながら「壁紙」を堂々と強かに且つ、楽しみ、カッコつけが厚顔に出来る現在の立ち居場所に君臨してしまっているデザイナーたちが”巨匠”的存在になるのもこの世界の特徴でしょう。ここには「純金の輝きから、鍍金の輝き」になってしまったビジネス社会の表層と現実があります。
 この多くの事実の根幹は周りから「自由な発想でカッコよく、出来れば少し、知的に見られればいい。」のレベルでの”FAKE”です。だから罪にもならないのでしょう。例えば、このFAKE構造のためのシナリオを書いたり、自分たちのデザイナーをより、”鍍金の輝き”にするためにプロテクトする立場の人たちが”プレス”という職域の人たちと彼らたちに”パラサイト”している先述のファッション・ジャーナリストたちで構成されているのがこの「裸の王様」をコンテンツとした世界であると実体験してきたのが僕のモードとの関わりの30年でしょう。
 もうひとつの世界とは、この「裸の王様」では”イカサマ”をした彼らたちが関わらなかった、実際に「服」というモノ=消費財を生み出す世界、”生地屋さんと縫製工場”の世界があります。
しかし、多くのジャーナリストと呼ばれる側の人たちもこの実世界には立ち入らないしまた、
入れない。この世界では”作る”ことが勝負の世界ですからどれだけの”モノ”を作れるかという
”実世界”なのです。だから、この世界へ立ち入るのは”業界”メディアとされている、より専門的な視点とスキルと経験を持った殆ど、”職人的”なあるいは、より専門的な職域なのです。
現実には”素材”や”縫製技術”を語れる経験と教養とスキルを持ったジャーナリストという立場の人たちが少数でありまた、”メディアという広告産業+e-コマース”の発達でほとんど必要なない世界になってしまっていますね。
 したがって、この世界はデザイナーたちがどれだけの”金の卵”を生み続けられるかによって、
この構造の規模が違ってくるだけであって、”ピン”は世界のラグジュアリー・ブランドのデザイナーたちから、”キリ”は東コレ構造にパラサイトしているデザイナーたちの現実状況でしょう。従って、プレス業務とはそのためにどのようなメディアとお付き合いをするか?あるいは、どのようなジャーナリストたちとお友達関係を築くか?が具体的なお仕事ですね。
 この現実も世界に出てみるとファッション産業の世界はほとんどがユダヤ人民族で構成されているという事実に関係しているでしょう。彼らたち民族の秀でた特性の一つに”美意識”が高い事と”無いものを在るように見せることが上手く”そして、白人にしては”手先も器用”です。この彼らの特性は「アート」の世界やファッションの世界に特出した特性なのです。
 例えば、「付加価値」という言葉、確か’80年代のマーケティングの世界で言い尽くされてきましたが、彼らたちはこの広告業界の根幹コンテンツ、「付加価値」の創造が秀でて上手いこと
でしょう。そして、「ユダヤ人世界」という普遍的なる”関係性”を堂々と使いこなせるもう一つの強みを持っている民族だからでしょう。
 例えば、この歴史的現実を学ぶには、二十世紀の当時の新しい学問であった”精神分析”と”心理学”から大衆と少衆たちをどのようにマインドコントロールしてきたかのプロセスとその結果、広告産業を生み、政治へ利用し、中産消費社会構造を誕生させたプロセス。この二十世紀における資本主義社会に何が重要な課題であったかとともに、これらをドキュメントフィルムにまとめられた素晴らしい、力作があります。
 原題は"The Century of the Self"、「自我の世紀」という訳されたもので、G.フロイトから戦後の”消費資本主義世界”がどのように彼らたちによって、コントロールされて二十世紀という時代が生み出されてきたのか?約3時間以上に上る英国のBBC放送局が制作したこの世界のドキュメントフィルムの素晴らしいものが現在でもユーチューブで見ることができます。
(興味深い英國BBC制作のドキュメントフィルム:参考/"The Century of the Self":
https://www.youtube.com/watch?v=eJ3RzGoQC4s
 ここでみなさんは理解されたでしょう、「実際に、服が作れなくても、作らなくても、さも自分が作ったような顔つきを上手に、したたかに素早く権力者にあるいは、お金持ちたちに取り入れば、関係性を構築すれば、自分たちは美味しいものと女たちにありつける環境が手に入る。」この実際の世界を比喩したのがアンデルセンの"Kejserens nye klæder"「裸の王様」という”童話”ですね。ここには、それなりの人たちがファッションの世界に憧れる根幹がすでに、コンテンツ化され、学び、深読みできる童話になっていますね。

 **
 昨年来、敗戦後の日本が根幹の「倫理観無き世界」が原因の不祥事が続々と表層化し、メディアが面白がって過敏に、過熱報道し始めています。現在ではその渦中にいるのが「舛添東京都知事の倫理観無き行為」でしょう。(早いものですね、今では、もう誰も語らなくなりましたね、わずか10ヶ月前の不祥事ですが、)彼の場合も”世代”と”育ち”にありますね。”世代”は戦後の荒廃期そして、”育ち”は自分から「在日」をカミングアウトをしてその立ち居場所を両義性あるものにする。ここには「ユダヤ人」たちの手法と同類性を見てしまいます。
 敗戦後のあの瓦礫の世界から1日も早く生え抜け出すためには「倫理観」ほど無力、無益なものはなかったのが現実でした。これは”敗戦後”を実体験して生き抜いてきた世代の人たちの現実/リアリティでした。従って、”戦後日本”の”中産階級”構造を現在のような「B層」構造に構築化してしまった元凶は「取り合えづは、、、」という言葉と「倫理観無き世界」の「根性論」構造が産み出したもの。この世界で多くの彼らたちは自分たち家族のための「ガンバリ」を、戦前の日本にはあったはずの含羞を捨て去り、根性で生き抜いてきた人たち”育ち”の賜物でしょう。それが70年を経た今、「舛添東京都知事の倫理観なき、反省なき行為」でしょう。
 戦後日本のファッションの世界を省みても彼らたちの戦後の功績は実業界と芸能界やプロスポーツ界のみならず、案外とファッションの世界にも多いのです。彼らたちの「ガンバリ」と「根性」によって、自らの”立ち居場所”を「革新」できるという敗戦後の「自由」の社会が存在し、その「自由」を謳歌した人たちが60年代後半に生まれた世界、”マンション・メーカー”から始まりその後の、東京デザイナーたちへ引き継がれていますね。次なるは、彼らたちのこの世界へ当時の”カウンターカルチュアー”を読み込み、”カッコイイ”と憧れてやってきた「団塊の世代」たちによって事実上、模倣されたファッション・ヤッピーたちのもう一つの現実が日本のファッションの二つの構造世界を構築してきました。

***
 コムデギャルソンのデザイナーである川久保玲の先シーズンは彼女の高齢化とその立ち居場所を死守するというこの世代のデザイナーが誰しも向かう”最後の困難”へ挑戦した。この至難な困難さは前シーズンに既に、その兆候が見られた。
 その大きな一つは、もう彼女が作り出す”創造の世界”のエレメントが使い古され始めたこと。8シーズン程も続けたこの彼女の変わらぬチャレンジ・シリーズもある種の、マンネリ化をもたらし始め、見る者に新たで強烈な時代感が感じられるまでには至らなくなった。使いまわされ始めた”エレメント”をファッショントレンドで出された素材でまとめ上げられるという手法に陥ってしまった。かわらづ続けて見せていただいている僕にはここにエネルギィイの欠如感とソースオブザクリエーションが新しくなくなってしまたと感じる。
 ここにはこのシリーズになってから常に変わらずに登場する一つのパターンがあった。2008年にアメリカで行われた展覧会で刊行された「MASK」は彼女のコレクションのソースブックであったろう。また、2012年にドイツで発行された、C. Fregerがまとめた東ヨオロッパにおける民族サイトその衣装写真集、「Wilder Mann」からも最近では影響が見られ始めた。この「MASK」からの1体は前シーズンまで使う素材をそのトレンド性に合わせながら引き継がれ使われているし、多くのインスピレーションを「Wilder Mann」からも感じ取れるコレクションが多くなってきた。
 確か3シーズン目では、僕はこのデザイナーは自分の「自伝」を作品によって語り始めたのであろうか?と言う迄のかなり、辛く、苦しいピアーなエレメントをメタファーすることが出来たが、次なる前シーズンはその激痛はなく、先シーズンはでは、どのようになるのだろうか?が僕の一番の関心であった。
 そして、先シーズンの彼女のコレクションはより、蛇足的になり、わかりやすい”ファッショントレンド・アート的コレクション”でしかなかった。使われたエレメントも時代との関係性からは、全く創造的な価値観は無くなり、今シーズンの新たな新しさとして若手デザイナーたちからぼつぼつ登場し始めた、「without sewing」の世界観までをも感じられた。
 僕的なる視点では彼女の制作チームが変わり、この制作チーム力が”弱い”あるいは、”若い”もしくは、彼女がやりたいことが十分に伝わりきれずに”発車”してしまった。なので、「このままでいいもですか?」という気持ちが後に残ってしまったのが先シーズン。
 「CdGの川久保玲で在り続ける」こととは、これが今の彼女の”こゝろの有り様”であろう。
実際に彼女が取り始めた戦略とは、「特異性」の維持であろう。
 当時、このブランド名からしても、”巴里大好き!”な、憧れであったモードの街、巴里へ進出して以来のブランド・デザイナー川久保玲の見られ方は、決して、この街の”ファッション体制”
に媚びない。という一点であっただろう。そのためにどのような服作りとイメージ作りをして行けば良いか?そのための”資金”も必要。この時に彼女が採った立ち居場所は「パリに居て、巴里から遠く離れて、」というまでの「特異性」を構築することであったはず。
 その結果と、延長が現在の彼女の最近の作品群と方法になってその”立ち居場所”を今も堅持している。この「凄さ」は凄い。先シーズンの作られている作品を見る限り、一つの見方は”リアリティ”がなくなり始めた。という視点である。このデザイナーが持ち得た”リアリティ”と実際の作品との関係性が普遍性になってきているからだ。この根拠はやはり、彼女の最近の「特異性」にもファッショントレンドが重なり始めているからであり、その「創造のための発想」の拠り所が
”机上”からのものが多くなってきていると感じられるからである。
 以前のこのブランドの「凄さ」とは「リアリティ」に所在していた。時代に対してのリアリティ、着る女性が感じたいリアリティとしての「リアリティある」あるいは、「リアリティを感じさせる」までのフェミニズムを軸にした「特異性」があったが、それがなくなってしまったという見え方である。ヨオロッパの多くのファッション・スクールの審査をやらせて頂いて来た強かな経験の僕にはしたがって、コレクションのクオリティが下がるとその見え方は「スクール・コレクション」の域になってしまう。ここ2シーズンの彼女の「特異性」は残念ながらこのように見えてしまった。
 彼女の”実生活”からどのような時代観やそれに対する「カウンター」を持ち得ているのか?
が見えないし、感じられない。しかし、僕がこのブランドのコレクションを'85年来の長い間見せていただいている限りでは、川久保玲というデザイナーは以前からこのような”自身のボキャブラリィー”での「カウンター・カルチャー」は持っていなかったのが現実だ。寧ろ、周りのメディアによって意味付けされてきたものを良い処取りする手法を使ってきた。例えば、「寡黙なデザイナー」で代表している風潮がこれを物語っている。多くのデザイナーたちがメディアに映り出されることが大好きで、喋らなくてもいい事を喋ってしまう現実からの距離感を持つこと。それが「特異性」という手法でしかなく、ここには彼女自身のボキャブラリーによる発言は存在していない。ここで、「彼女の作品が全てを語っています。」方式のプレス対応が可能で有効打であった。彼女がメディアへ語ることは”時代の優柔不断さ”や自身の立ち居場所における不満足な状況を嘆く程度でしかない。
 しかしながら、今の若い世代のコレクションに共通する不足分も、彼ら世代が現実の社会や時代性にどのような、どれだけの「対抗意識と感覚」を持っているのだろうか?ということである。彼ら世代からも、使い回され、もう古くなったかつての「カウンター・カルチャー」から、自身のボキャブラリィーによる「カウンター」を感じることが少ない。ほとんどが時代に”サーフする”ことあるいは時代の”壁紙”であることに始終しているレベルのコレクションである。
 この現実ではやはり、現存、活躍するデザイナーではやはり、CdGの川久保玲の仕事は異色であり、狙いの「特異性」を大いに感じさせられるまでの「自我」がある。それが、殆どのオーディエンスがショー後の嘆きにも感じられる「凄いですね。」が全てとなる。どの様に、なぜ「凄い」のかは不明のまま。そして、この「凄い!」は結局は彼女の「特異性」への”頑張り”に至ってしまう。
 今、この彼女の「特異性」に何の意味があるのだろうか?
そして、この彼女の”ガンバリ”とは極論、自分のため、自分たちのためのそして、このデザイナーを崇拝する人たちへの「頑張り」でしかない。だが、ここにこのデザイナー個人の「風土」としての時代観を感じてしまうのは僕だけであろうか? 
 当然、日本人がこの街で、この世界でこの”立ち居場所”を堅持し続けるには彼女が為すこと、全てが至難なことである。大変な「リスクとコスト」を払わなければならない。従って、ここで、現在のこの計算し尽くされた”企業形態と構造とその構成”が大いに世界の「ファッション・シンジケート」においては役立っていることも確かである。現在、若いデザイナーたちが見習うべきこととは、このCdGというファッション企業のビジネス形態とその構成とそれから生まれる「関係性」そのものが必須である。
 しかしながら、未だにこのCdGの表層に影響された「コムデギャルソン・チルドレン症候群」を持った遅れてきた若者たちの「自己満足世代」がこのパリを訪れてくる。

 僕はこの2シーズンのコレクションでは同じようにある種の「コムデギャルソン・チルドレン症候群」を持って訪れたはずの”UNDER COVER”の高橋盾のこの2シーズンのコレクションに大いなる拍手を送り、軍配をあげたい。特に先シーズンは見事にあるレベルを超えてしまった彼のピジティフな「凄さ」と「リアリティ」を体感した。デザイナーのジョニオくんが持ち得た若い頃からの”リアリティ”がうまくコンバインされ、ブリコラージュされ始めたことが一つの素晴らしさを生み出す大きな要因になっているところが、CdGの現在と違うところであろう。彼自身に大好きなものへの「癖」と「嗜好」が詰まっているからだ。
 見せていただき、感動と幸せ感がいっぱいだった。ありがとう。

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 そして、先の6月のシーズンのCdG・H.P.のコレクションに現れた童話「裸の王様」。
いや、参りましたね。このロジックがここに現れたかというまでの見事さ、新鮮さと可愛らしさ、ある種の”マジック”。アイディアは以前、'96年頃だったかと思うのですが、A.P.C.のジャンが既に行ったシリーズ。ここで彼は既に、大胆に”塩ビ”を素材にブルーゾンなどを発表していた。(その実物を僕は大好きな服の一つとしてコレクションしている。)
 これの同じブランドの”オムコレクション”を見てしまうと、このブランドの女性物と男性物は誰がいったいデザインしているのか?という、また僕らしい、いやらしいく、穿った考えが横切ってしまう。

 では、明日のショーでは、どのような世界で「特異性」を見せてくださるのだろうか?
招待状が未だ、届かないパリピクパス大通りにて、平成28年9月30日:
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2016年09月30日 18:13 | comment and transrate this entry (0)