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妄想録ー「古きは 今にある。 "朽ち落ちるミニマリズム"。」あるインターベンションを見る。
妄想録ー「古きは 今にある。 "朽ち落ちるミニマリズム"。」
あれほどまでに世界中の文化を2世紀程を風靡し、その世界の正当な文化・教養として
君臨してきた「西欧近代」が"朽ち落ち"始めたこの21世紀の1/4、2025年。
グローヴァリズムと言う白人至上主義者たちが再構築、構造化した21世紀が始まって以来、
既に、自由民主主義そのものが変質し、崩壊し始めている。
この原因は、それらを守ってきた西欧諸国の弱体化の要因の根幹はやはり、人間そのものの
傲慢さとその強欲がもたらしたものであろう。
具体的にはこの「近代」にも引き継がれ、地球上の何処かで継続している戦争についての
概念の変質とその規模と能力の変貌が考えられる。
国民が参加したくない文脈で、国家間の戦いが戦争になり、国民や民族間のゲームでは
なくなってしまった昨今の"戦争"ゲーム。
そして、ヨオロッパのエリートやエスタブリッシュメントたちがより、合衆国に従属的に
なって国際金融・軍産複合等の多国籍企業に自分たちの富と欲望を委ねてしまって、
本来の姿の"自由民主主義"に戻ろうとは決して、彼らたちは発言していない。
そして、もう一つは「資本主義」という経済構造とその力である資本力の不調和もある。
この不調和によって、西欧で起きている事とは、
一種の"超個人主義の出現"と"社会の細分化"という階級社会です。
結果、これによって「自由民主主義」が失われ、「資本主義」が崩壊し始めている。
そして、「西欧近代」そのものが"朽ち落ち"始めている現代という時代性です。
僕がこのインターベンションを体験して探し当てた言葉が、「朽ち落ちる。」でした。
SHIBUYAと言う街の、その駅から10分も歩かないところに、
「戦後近代」の朽ち落ちた建築物が残されここには、
戦後日本人の見栄や思いや夢までもが見事に放り捨てられ、
「朽ち果てた」その構造体だけがある意味で"残骸"化した空間が佇んでいました。
ここが今回のインターベンション『寒山拾得』で求めた"磁場"であり、
今回の作家、"ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・ マエダ"の二人はこの人間の強欲のために、
遂には有り様にも出来なくなってしまった「朽ち落ちた」空間を
まず、彼らは「ミニマル」空間をセンスよく犯し哄笑した。
これそのものの行為が彼らたちのこのインターベンションのテーマ、「寒山拾得」。
作家である二人、"ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・ マエダと、"朽ち落ちた空間"
そして、生み出された作品が「ミニマリズム」と言うこの3者の関係性。
僕の世代の「ミニマリズム」は1960年初期から70年にかけて活躍した,
N.Y.のミニマリスト作家、"ロバート・モーリス"の70年代初頭の、
物質、工業用資材の"フエルト"を素材にした作品を彷彿した。
平面性を3次元に造形するための手作業、"折り返しと捩り"によって造形化された物質、
フエルトは僕にはとっても懐かしさを与えるまでの"物質"を脱皮した、作品であった。
そのメランコリックな感情を余計に懐かしさにまで感じさせたのが
この「朽ち落ちた空間」としての2階にある8畳ほどの懐かしい"畳の間"だ。
不思議だが、僕はこの畳に「近代」が朽ち落ちても尚、染み込んでしまっている
当時の"昭和"という「近代日本」の"湿り"と"淫靡"を感じた。
ゆったりと、むしろ、穏やかな曲線に仕上げられた"フエルト"は
辛うじて、三つのポジションで壁に留められ、
フェルトの作品には伸びやかな生命が込められている。
そして僕はもう、工業用資材のフェルトではなく、
思い詰めている「近代」のメタモルフォーゼを見る。
そこで、「朽ち落ちる近代」と言う時代を感じつつ、
この作品の前では「朽ち落ちるミニマリズム」までを妄想する。
そうだ「寒山拾得」は今様に言えば、"デゥオ"であり、常に、"二項対峙"が比喩されている。
もう一人はこの「朽ち落ちてゆく建築物」を諦めてしまった輩であろうか、
或いは、無関心なまでに扱い、裏口に鍵をかけ箒を逆さまに立てかけて逃げ去ったのだろうか?
ここでは、「何事もできるだけ単純な方がいい。ただし、単純にしすぎてはならない」と
発言したスイス、ベルンのアインシュタイン博士の笑顔が妄想出来る。
そして、この「ミニマリズム」が訴えたかったある種の、「美術の本質に立ち返る」という
ミニマルアートの精神性を彼らたち、"ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・ マエダ"の二人は
大いに楽しんで、笑い込んで逃げ足はやく、大ぴらにみんなで寄り集まって笑い合う関係性を
作品に託したのだろうか?
思い出して調べたら、ロバート・モーリス曰く、
「アートにおける不条理なゲーム性と深い感動、畏怖と皮肉、悲嘆と嘲り、怒りと思いやり。
これらがこの暗黒の世紀の証言者として残っていくのだ。」と残している。
「近代」が既に、朽ち落ち始めた時代性である以上、
その「近代」の最も自由と民主主義が激しく、潔かった時代に誕生した「ミニマリズム」は
その後のコンセプチュアル・アートを紡ぎ出し、新たなパラダイムをアートの世界に
"インスタレーション"の先駆けとして残した。
が、そんな「ミニマリズム」が朽ちるのが現代なのだろうか?と言う想像というより、
妄想が哄笑に変わって僕を脅迫し、好奇心へまで昇華させる。
「ありがとう、Qくん、チュンさんそして、TENKOちゃん❣️
It's so Cool & Hippy ‼️」
そして、これも時代性なのだろう?
"Robert Morris: Seeing and Space"展が現在、N.Y.のトップギャラリー、
"ギャラリー・カステリーニ"で開催中だ。/ April 3 - June 27, 2025:
参考 /
https://www.castelligallery.com/exhibitions/robert-morris-seeing-and-space
展覧会案内 /『「寒山拾得」ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・ マエダ展』 /
At Galerie Tenko Presents / tenko@tenkopresents.com
投稿者 : editor | 2025年6月 5日 16:14 | comment and transrate this entry (0)