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2020年10月 5日

高田賢三さん、やすらかに! 御冥福をお祈りいたします。

高田賢三さん、やすらかに! 御冥福をお祈りいたします。
 今日の未明に、この悲しいニュースを知った。
また、このモード界の悲しいニュースで在る。
 「賢三様、心から、お悔やみもうしあげます。
どうか、やすらかにご自身の美の世界にたっぷりと戯れてくださいませ。」

 彼は本当に「モードの美しさと素晴らしさ」を求め知りそして、信じ、自らも楽しむ為に
”モード スティリスト”になられた珍しい、尊い人だったのです。
 大好きなモードの世界にどっぷりと浸かるために、’65年、単身自費でパリへ渡り、
’70年にはご自分のブランド" KENZO"とショップを”JANGLE JAP"を立ちる。
 彼はこの街で生活なさり、友を持ち、彼らたちに愛され囲まれて、
その大好きなパリでの生活環境とリアリティに自らが浸ることよって
益々、彼が抱き続けてきた、彼が”夢”としていたその純粋世界が
「モードの美しさと素晴らしさ」へより、自由な感性と優しさと言う美意識を深め
昇華させながら自らのブランド”KENZO"を20数年間世界へ創造発信なさってこられた。
 彼は常に、自分の”わきまえ”を持って、踏み外さず来られた”気骨”ある日本人でもありました。
そして、僕が始めてパリへ行った、’72年には
既に、パリの”プレタポルテ モード界の寵児”でした。

 僕は以前にも書いたことがあるのですが、
日本の現在までの「デザイナー ファッションビジネス」の世界は彼、高田賢三さんが
いらっしゃらなければ、「10年以上は遅れていたであろう。」と認識している一人なのです。
 高田賢三さんが「モードの都、パリ」で活躍なさった事が、その後の日本からの
「ファッションデザイナー」の多くを輩出する多いなるモチベーションになったのです。
イッセイも、トキオ クマガイやヨウジ、CDGも、そして、ファッションメディアとしての新星、
今年、創刊50周年を迎えた雑誌「anan」も誕生していなかったと言うことです。
 例えば、この時期の”CdG川久保玲”は、まだ、当時新たな”シャネルの再来”と騒がれパリを
一世風靡していた女性デザイナー、”SONIA RYKIEL"の猛お勉強でビジネスをしていた時代でしたね。

 彼、高田賢三さんが創り出した世界とは、
ロシアン プリントの花柄を選び、ベッチンプリントやコーデュロイプリント、デニムなどをも
使い、「ロマンティックに、ポエジックに、ファンタジックにそして、シックに、エキゾチック
に纏め上げる世界観」を生み出した。
 即ち、着る女性へ、「夢を着る。」実際に着れる素晴らしい服をあれほどまでに沢山デザイン
してきたデザイナーも少ないであろう。

 70年といえば、このパリでも新たなモードの世界が誕生し始めた時代。
”プレタ ポルテ”という「高級既製服」の黎明期が始まった時代であった。
それまでの「服」のビジネスの世界は、”オート クチュール”/高級仕立て服の世界か、
大量生産による”アパレル”/「吊るし既製服」の世界それに、「制服」と「古着」の世界でしか
なかった。
 この世界に60年代終わりからあの、YSLがDiorから独立して始めた彼らたちの”新らしい
モード・ビジネス”として誕生させた”リヴ・ゴーシュ”の影響によって、70年からはこの
”プレタ•ポルテ”/「高級既製服」という新らしい”小ロット多様式”なファッションデザインの
世界へ多くの若いファッションデザイナーたちがその「夢」と可能性を求めて、挑戦し始めた
時代でもあった。
 この新しさの背景には、「’68年5月」以降、この国の女性たちも「高学歴」を習得して、
社会の”キャリア”の一員としてそれなりの仕事を持つことが「新らしい女性の生き方。」という
改革の時代になり、今で言う、”キャリアレディー”が誕生し始めた。そして、彼女たちをパリの
モードの人たちも”新たな顧客”にしたのがこの登場し始めた”プレタ•ポルテ”だった。
 そして、特筆すべきことはこの時期の”プレタ•ポルテ”デザイナーのその多くが女性デザイナー
たちであったこと。S. リキエル、E.カーン、A.M.レベッタ、M.プレモンビル、S.トーマスなど等
 この様な「時代の変革期」に丁度、彼、高田賢三さんの”パリ登場”がリンクしたことは
その後の彼の活動と活躍には大きな揚力となった。
 
 この時期の日本国内も、「68年」の学生運動以降、70年の大阪万博後、「大衆消費社会」
構造が誕生し始めた。そして、今まで”百貨店”だったのが”デパート”化され、モダンなイメージを
即ち”横文字”ビジネス、職種そして、商品がこの”元百貨店”に溢れかえるようになり始めた。
そこで、各”デパート”も従来までの「衣料品•おしゃれ服売り場」が”ファッション”売り場に
変わり、ここでそれぞれの”デパート”がこのパリで誕生した当時の新しいファッションとして
”プレタ•ポルテ”ブランドを競って導入した。その後、商社が暗躍して、これらのパリ発”プレタ•
ポルテ”ブランドのライセンスビジネスを日本のアパレルやリテーラーへ売り込んで現在の日本の
ファッションビジネスの基盤が創設された。大丸のジバンシー、高島屋のP.カルダン、西武の
YSL,S.リキエルそして、「KENZO」などはその代表だった。
 この新しい時代の流れに、「パリで活躍する日本人デザイナー高田賢三さん」の存在と彼の
ブランド「KENZO」はやはり、大きな役割と使命のモチベーションになったのも確かであった。

 僕が彼、高田賢三さんを信じた幾つかがある。
その一つは、彼はあれほど、パリで有名な一流ファッションデザイナーの存在になられたが、
生涯、決して、”プレタ•ポルテ”というファッションカテゴリィーからは逸脱なさらなかった。
自分の立ち居い場所に対する”わきまえ”を生涯通されたことである。
 その後、多くの日本人デザイナーたちがパリを訪れ、プレタポルテのカテゴリィーでショーを
するも、「アーティスト振ったり、クチュールデザイナー振ったり」いつの間にか、自分の業欲
によって”勘違い”するデザイナーが多いこの世界を、直接見てきた僕は高田賢三さんを信じる
ことが出来る。
 ということは、彼、高田賢三さんが作る服は全て、女性が「着れる」服であるということ。
即ち「夢を着る」ことが出来るのが「服」の一つの大切さであること。というここには彼の思想
が読み取れる。そして、本心ファッションがお好きな人だったんだと。

 最後に、あのLVMH社による’93年のブランド「KENZO」”売却事件”はもう一つの現実が
明るみに出た転期の結果となりましたね。いくつかの「負」が重なることは人生であることです。
 ”新居の建設と伴侶の死”という天国と地獄もやはり「金次第」が現実を処理します。
この結果、「買収劇」というよりは「乗っ取り劇」だったでしょう。
 この件にしても、本人は決して公言できないような契約条項が課せられた結果の現在です。
ビジネスの世界も戦争と同じですから、「生きるか死ぬか?」です。
 LVMH社は当時、プレタポルテ出身の有名デザイナーブランドが欲しかったのです。
トータルアイテムブランド化し当時、台頭しはじめて来たイミグレーターたち新興成金を標的
とするブランド計画をしそして、見事に達成し現在の「KENZO」ブランドの顔になりました。
 従って、「KENZO」買収後すぐに彼らが行った事は、例によって、「KENZO」香水の発売で
したね。これによって、この企業グループが持っている”DFS"/免税店ビジネスでラグジュアリィ
ビジネスへのイメージングと高級化に成功しています。以後、この「KENZO」ブランドは新興
イミグレーターたちの御用達ブランドに広がる。
 しかし、この企業は以後、「KENZO」ブランドのデザイナーに誰一人、「日本人デザイナー」
を起用していないことに僕はこのLVMH社に好意を持って関われないのです。
 彼らたちは決して、「日本人デザイナー」へのリスペクトが無い、「白人目線」の遅れた企業
だと感じるだけです。しかし、この企業が企画している”LVMHアワード”に諸手を挙げて参加して
いるのも現実の日本人ファッション関係者たちですね。
 
 高田賢三さんの生前、「KENZO」ブランドが全盛時代、自宅などに飾られる投げ花の毎月の
お花代が百万円近く使われていたと言うエピソードを聞いたことがある。自分の好きな世界
あるいは、美意識を自分で現実化するための「コスト」である。もの凄い現実ですね、
これが可能な収入と使える自由さ。やはり、世間で「成功」すると言う事はこう言う事なので
あろう。では、例えば、東京の「御三家デザイナー」と言われる三宅さんや川久保さんや
山本さんは、彼らの成功報酬をどのように、何に使われていらっしゃるのだろうか?
 彼らたちもご高齢デザイナーであるが、全く彼らたちの「私生活」を見せない事も或は、
日本的「成功」の証なのだろうか?

 高田賢三さん、ごくろうさまでした。
どうか、やすらかに「夢の中へ」
 ご冥福をお祈りいたします。
合掌:

文責/ひらかわたけじ:
初稿/令和2年10月05日:

 
 

投稿者 editor : 11:45 | コメント (0)

2020年10月 1日

新しく、「The ARCHIVES Le Pli」/この”平川武治のノート-ブログ”に新たに、今までの掲載分から選択したアーカイブ集を始めました。「The ARCHIVES Le Pli」

 「時の流れは実に早く、しかも我々は時の中を後ろ向きにしか進めないのです。」
P.ヴァレリー: 

「いつも拝読、ありがとう。このような時世です、
思うように進まぬ”明日”を考えるために、過ぎ去った”昨日”へ、後ろ向きに進んでゆく。
P.ヴァレリィーの言葉を想い出して。」
 
 その始まりが、2002年だったでしょう。
ほぼ、20年近くの時間が既に、このブログにも堆積してしまっています。
 そこで、この機を利用し、以前に書いた僕のこのブログ集から、改めて僕が自薦し、
少し校正を入れた”拙筆文集”を作りました。
 これがこの、”平川武治のノート-ブログ”/「The ARCHIVES Le Pli」”です。
変わらず、ご一読くだされば、嬉しい限りです。
合掌。

 はじめに; 
 このユダヤ人たちのファッションビジネスの世界で言い伝えられている、
「”トレンド”についての定説があります。」
 その一つが、「トレンドは20年サイクル説」です。
単純に、「20年前には、何がファッション以外でも、”トレンド”になったか?」と言う
視点です。
 20年前に流行った、展覧会は?音楽は?映画は?芝居は?バレーは?
あるいは、バカンス地は?インテリア・カラーは?そして、ファッションでは?等、などを
思い出すことです。
 これはこのような汎デジタル時代になった今でもこの世界では確かな定説になっています。
例えば、ここ1、2年前では、20年前にヒットした、映画「レオン」がストリート
ファッションの”センス オブ トレンド”になりました。
 「レオン」の主人公の少女確か、A.ジョリィーのデビュー作だったでしょう。
この映画での彼女が、”アイコン モチーフ”です。
 この映画を二十歳代で見て、好きだった人たちはぜひ、思い出してください。
そして、この映画を知らない世代の人たちは、一度見てください。
その詳細は述べるよりも「一見、必須!」です。 

 さて、今回からのこの僕の、”平川武治のノート-ブログ”/「The ARCHIVES Le Pli」”を
始めますが、このブログの”ミッション”の一つが、
”ユダヤ人たちのファッション トレンド、20年周期説”のために色々その当時を思い出すための
参考情報になればと言う念いを込めて。
ひらかわ:

 「The ARCHIVES Le Pli」/01;
 まずは、「ブログを始めるにあたって、」と言うご挨拶から始めましょう。
投稿日/2002-10-16 :再校正/2020-09-18:
 ***
 はじめに、
 遅まきながら、”平川武治のノート・ブログ/The Le Pli”を
周りの友人たちのお陰で立ち上げました。今後、よろしく御付き合いください。

 永年、ファッションジャーナリストという立場をインデペンデントに活動して来ましたが、
やはり、我が国のジャーナリズムが気骨無き「御用ジャーナリズム」と化してしまっていること
に微力ではあるが抵抗したくこれを立ち上げました。
 ジャーナリズムが本来持ちえている「第4の権力」的立場の復活と、ジャーナリズムがある種
の「社会教育」を担っていると言う視点からこのホームページを始めます。
 そして、この”LE PLI”を媒体にして、多くの人たちと好きなモードの世界を中心に 
コミュニケーションが持てればうれしいです。

 この初回は日記風に、僕がパリを軸にしてどのような行動をしているかも交えて書き始めます。
 8月の終わりから東京を離れて先ずはこの街、巴里へ。
そして、アントワープ、巴里、アントワープ、チューリッヒ、アントワープそして、コレクション
のために再び巴里へ。これが今回の現在までの僕の行動。

 8月27日:成田発巴里へヴィエンナ経由で出発。
未だ、バカンスから戻っていない閑散とした巴里も一つの顔。8月も第4週の週末になると流石
この街のバカンス好きな巴里ッ子達もこの街へ戻って来始める。彼らたちを直接的に巴里へ呼び
戻すのがこの街に多くあるアートギャラリィーである。彼らたちが売り出したい作家たちの新作
展覧会のオープニングレセプションである。残念ながら、ファッションは2の次だ。
 今年からちょっと洒落た趣向を凝らしてのオープニングはアート好きな若者たちを喜ばせた。
多くのギャラリィーがあるマレ地区の一角で、ご近所のギャラリィーが共同でオールナイト・
オープニングレセプションを催したことだ。僕も30,31日の週末にはこの催しへ顔を出す。
中でも面白かったのは『BINGO』展。幾人かの若手アーチストたちのポップでガゼットな作品を
同じテーマで界隈のギャラリィー数軒が共同企画での展覧会。古くからの友人で、日本にも幾度
かコレクション写真を撮りに来た事があるフォトグラファー、クリストファー君が全く、新しい
作品で、アートの世界へ登場し、今回の新人展で見事にデビュー。写真とコンピューターを
使って微妙な皮膚感を人工的に合成した写真は医学写真の新しさの様で面白く興味を持った。
 この後、彼はヨーロッパ写真家美術館でアービング・ペンの新作展と共に、ニュー・ジェネレ
ーションの世界をここでも披露している。彼に話しを聞いてみると、彼の作品に興味を持った
この美術館が制作費用を持ってくれて今回の展覧会になったという。よいものを見る眼とその
よい作家を誕生させる公共の構造がこの街には確りと出来ていて、新人であろうが彼らたちの
眼に止れば今回のクリストファーのようにデビューが出来る仕組みが結局、この国の文化の新陳
代謝になっているのだろう。

 「マルタン・マルジェラ・ブランドがイタリーのヂィーゼルへ身売り。」
 コレクションを1ヶ月後ほどに控えた9月の始めにこの意外なニュースが、この街のファッシ
ョン雀たちの口角を賑わせた。今、モードの世界はクリエーションよりビジネスのほうが面白い
と言う典型なニュースである。
 今、我が国では海外デザイナーブランド物ではバッグのLVには及ばないが、服ではこの
『M.マルタン・マルジェラ』が一番良く売れている、人気度の高いブランドが身売りをした。
しかも、あの、イタリーのデニムメーカーの『ヂィーゼル』にである。発表されたのはこちらの
ファッションビジネス紙の『ジャーナルド・テキスタイル』紙。それをニュースソースとした
日本的なが報道が「センケン」紙と「WWDJapan」紙に発表された。当然だが、これらの記事は
余りにも表層しか書かれていない。勿論、当事者たちも余り多くを喋りたくない。しかし、
面白い事件である。結果、こうなってしまったかと言う感じが僕にはした。
 なぜかと言うと、ここ3シーズン来、彼のクリエーションは今、一つだった。
一時の覇気が無くなっていた。丁度、東京にやっとの事で世界での1番店の直営店がオープンし
た頃から、その感じが匂い始めた。そして、多くの彼とそのチームの友人たちにそれとなく話を
いろいろ聞き始めていた結果が、コレだったのかと。

 アントワープのロイヤルアカデミィーを卒業し、J.P.ゴルチェの元で3年半、働きその後、
独立したのがマルタン・マルジェらである。彼が未だ、ゴルチェの所にいた時には幾度か会って
いる。体格がよくいつもキャスケットを被っている物静かなで、ナイーフな青年だった事が印象
にあった。‘87年の3月コレクションを最後にゴルチェのアトリエを去り1年半の期間をその
準備期間として自らのブランド「M.マルタン・マルジェラ」を発表したのが’88年の10月の
コレクション。このコレクションはよく今でも憶えている。
 彼のデビュー・コレクションを見た事によって、僕はこの仕事をしていて良かった、幸せだと
感じたからだ。僕が、マガジンハウスの春原さんを誘って友人のフランス人ジャーナリストに
教えてもらって行ったその会場には日本人ジャーナリストはいなかった。ポンピドウーの裏に
今でもある小さなライブハウス的なところ、「ラ・ガラージュ」が彼の歴史的なデビューをする
場となった。屋外で既に、小1時間は待たされた事、その時あのJ.P.ゴルチェもみんなと同じよう
に待っていた姿が印象深く記憶にある。
 M.M.マルジェラはこのコレクションを機に、僅か5年間で高イメージを築き上げるまでの見事
なクリエーションとショーを僕たちに見せてくれた。デビューコレクションは当然、資金が無い
ため素材はコットンのみ。永く待たされた後に登場したのがトップレスのマヌカンたち。
胸を抑えて出て来た彼女たちが穿いているのがロングのタイトスカート。それから、次々に
上ものがコーディネートされ、スーツになってタイトでスリムな、健康な若い女性の肩がまるで
はじけ出るのではないかと思わせるようなタイトなコットン・スーツそして、僕たち日本人に
見覚えのある地下足袋を改造したシューズ。
 彼が近年に無いデザイナーだと知ったのは僅か5年間で彼自らのパーマネントコレクションを
古着を使ってクリエートしてしまった事だ。これは近年のデザイナーにはいなかったことだ。
そして、次の5年間で自らのクリエーションを定番化しコマーシャルラインの#6、#10など
を完成させた。このコマーシャルラインが売れた。イメージもどんどん昇華した。そして、
第3期の5年目で、エルメスのデザイナーと東京に直営店第1号を持ち、ブリュッセルと6月に
はこの街巴里にも直営店を出店した。この、僅か13年足らずで彼、マルタン・マルジェラは
巴里のプレタポルテ、クリエイチィブデザイナーの頂点に達した。多くのデザイナーや学生たちが
彼の影響を受けた。モードの流れを完全にストリートへ引き落としたのも彼だった。
 ショーイングのアイデイアや会場選択にも彼が新しい流れを創った。そして、14年目を迎え
ようとした時にこの事件(?)である。

 「ディーゼル社、社長がマルタン・マルジェラの株式の過半を取得。」
このタイトルはセンケン新聞のものであるが現実はこうである。
 話は約1年半前ぐらいから起きた。当時、マルタンの生産を請負っていた「スタッフ・インタ
ーナショナル社」が2年前に倒産し、その後デーゼル社が買収した。ここで先ず、マルタンと
ヂィーゼル社の関係が出来た。東京1号店の直営店が出来た頃からお互いのビジネス戦略上で話
し合いが持たれ始めた。店舗を拡張しビジネスを拡大してゆくには「資金」「生産背景」そして
「物流」の充実が必要になる。ここで、「生産背景」はヂィーゼル社の小会社が請負っているの
だから「資金」も「物流」もこのヂィーゼル社が望むのならこの組み合わせが一番明解な組み合
わせである。その結果がこうだとはちょっとおかしくないだろうか?
 「この"M.M.M."自身がブランド拡大を本心から希望したのだろうか?」という疑問から
僕はこれが『真意』ではないという発想から調べまくった。あんなにも確実に5年単位で自らの
クリエーションとイメージングを昇華しながら地に足を着けたビジネス戦略をキャフルに展開し
てきたこのメゾンの本当の問題は何なのだろうか?その結果がこのような状況を創るのが一番の
方法だったのか?誰が一番儲けたのか?エルメスはどのような態度をとったのか?

 確か、昨年の12月頃にかなり多くのスタッフ、7人ほどが辞めた。この中には事実上、
コレクションラインをデザインしていた女性もいた。彼女の場合も、円満退社ではなかった。
一方、マルタン自身は旅行に凝っていて、多くの時間を好きな旅行に費やしていると聞いた。
ここ3シーズンほど、コレクションラインがコマーシャル化し始めてきた。一方、相変わらず、
コマーシャルラインの#2、#6、#10等の売上は伸びていた。ショップが出来てからかなり
店頭MDが入たものが店頭にはまってきた。最初から大好きで見て来ている僕にとってはこの変化
を感じるのは易しい事だった。何か、このメゾンの内部でも”変化”が起こっていると思い始めた
のが7月だった。

 マルタンがJ.P.ゴルチェの元から独立してバッカーを捜して約1年半後に出会ったのがマダム 
ジェニィー・メイレン。それまでの彼女はブリュッセルでかなり大きな洋品店を2店舗を経営して
いた。ギャルソンも売っていたし、ヨウジも扱っていた。彼と出会った彼女は今までの成功して
いた洋品店を処分して彼、マルタンに掛けた。
 いつか,彼女はインタビューで、『彼が私の夢を持って来てくれたのです』と語っていた。
そして、‘88年10月のあの衝撃的なデビューコレクションとなる。以後、彼らたちは2人3脚
でがむしゃらに働いた。特に最初の5年間は20年分以上のエネルギーを使ってチームワーク良
くやって来たから現在があるのだろう。コマーシャルラインのレデイースを見るとその殆んどが
マダムジェニィーが似合う服ばかりである。だからこのブランドがその後、彼女のような多くの
キャリアウーマンに人気があったことが伺える根拠がここにあった。

 一番儲けたのはヂィーゼル社の社長、レンゾー・ロッソ氏である。
彼らたちの約70%の株を買い占めたからである。これからこのようなブランドを新たに造ると
したら、当然、造ろうとしても不可能ではあるが、これ以上の資金と才能とセンスが必要になる
からだ。マダム ジェニィーとマルタンはデザインコンサルタントとして年契約をした。
結果、いつでも辞めたい時に辞められると言う立場を、やっと得た。

 エルメスが買ったら良かったのにと言ったのは僕と元ジャルダンデモード誌のマダムアリス・
モーガンだけだったと後でエルメスのスタッフから聞いたが、何故そうならなかったのだろう?
この一件はここにも一つの鍵があったように思った。エルメスとの契約は後数年残っている。

 当然であろうが、物凄く時期、タイミングを計算した結果の出来事であった。
"M.マルタンマルジェラ・ジャパン"の「ここのえ」はマルタン側と三菱商事との合弁での会社で
あるが、これがこのように整理されるまでこのM&A契約は発表されなかった。
 当初の『ここのえ』はマルタンと三菱そしてオリゾンチィ社との3社間で始まった。その後、
直営店プロジェクトが始まるとこのオリゾンチィ社に力が無い事が解り、オリゾンチィ社を
外そうと持ち株の分担を減らした。が、そうこうしている間にやはり、このオリゾンチィ社が
倒産という行き着く結果を迎えた。その後、このオリゾンチィ社の親会社W系もこの放蕩会社を
手放した。その先が、ライセンスビジネスの伊藤忠。
 従って、三菱はこの数10%ほどの株を伊藤忠から 買い戻さなければならない羽目になった。
そして、それがちゃんと終わった段階でこの買収契約が発表されている。
それに、仙台の最初からの大口取引先である『レボリューション』がマルタンのオンリィー
ショップをオープニングした後での、事の次第でもある。
 全て、計算された結果の行動である。これは当然であるがこれ程迄に計算された結果の本意
には裏が、何かがあるはずだ?

 3ヶ月前には既に、それなりの社員たちには話があったという。
では、M.M.M.ジャパンの『ここのえ』には同じように話があったのだろうか?

 このブランドも然りである、多くの巴里発の海外ブランドの企業成長に我々日本人は
どの国よりも貢献し、愛し、尽くしてきた。
 彼ら、M.M.M.の14年間のサクセス・ストーリィーも同様である、日本は最大の理解者で
あった筈なのに。本当に今後の企業発展のための結果でこうなったのなら、何故、日本企業にも
アテンドが無かったのだろうか?また、エルメスと組まなかったのか?
 その最大の原因は? 

 しかし、彼らたち、M.マルジェラとマダム ジェニーをリーダーとした、彼らチームの見事な
”仕事”である。やはり、彼らたちはプロ中のプロであった。
 スマートでクレバーなファッションピープルたちが駆け抜けた14年間だった。
当然である、マダム ジェニィーとマルタン マルジェラは膨大なお金を手に入れた。
 「輝きそうな石。きっと、輝くと思って一生懸命磨き上げれば、
それはダイヤモンドになった」というアントワープらしいお話。
 彼らたちは、「M M.マルジェラ」と言う”ファッション・キブツ”を構築し、そこから無限の
可能性を育て上げた。
 その後、この”ファッション・キブツ”で働いていたと言う連中の多くが、他のブランドへ
侵食して行った事だろうか?
 
 「あんなにも彼らたちの売上に貢献した日本人たちは、マルタン自身が誰であるかも
知らないままだ。ーFashion is always in fake.」
文責/平川武治:
投稿日/2002-10-16 :


 

 
 

投稿者 editor : 15:22 | コメント (0)