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高田賢三さん、やすらかに! 御冥福をお祈りいたします。
高田賢三さん、やすらかに! 御冥福をお祈りいたします。
今日の未明に、この悲しいニュースを知った。
また、このモード界の悲しいニュースで在る。
「賢三様、心から、お悔やみもうしあげます。
どうか、やすらかにご自身の美の世界にたっぷりと戯れてくださいませ。」
彼は本当に「モードの美しさと素晴らしさ」を求め知りそして、信じ、自らも楽しむ為に
”モード スティリスト”になられた珍しい、尊い人だったのです。
大好きなモードの世界にどっぷりと浸かるために、’65年、単身自費でパリへ渡り、
’70年にはご自分のブランド" KENZO"とショップを”JANGLE JAP"を立ちる。
彼はこの街で生活なさり、友を持ち、彼らたちに愛され囲まれて、
その大好きなパリでの生活環境とリアリティに自らが浸ることよって
益々、彼が抱き続けてきた、彼が”夢”としていたその純粋世界が
「モードの美しさと素晴らしさ」へより、自由な感性と優しさと言う美意識を深め
昇華させながら自らのブランド”KENZO"を20数年間世界へ創造発信なさってこられた。
彼は常に、自分の”わきまえ”を持って、踏み外さず来られた”気骨”ある日本人でもありました。
そして、僕が始めてパリへ行った、’72年には
既に、パリの”プレタポルテ モード界の寵児”でした。
僕は以前にも書いたことがあるのですが、
日本の現在までの「デザイナー ファッションビジネス」の世界は彼、高田賢三さんが
いらっしゃらなければ、「10年以上は遅れていたであろう。」と認識している一人なのです。
高田賢三さんが「モードの都、パリ」で活躍なさった事が、その後の日本からの
「ファッションデザイナー」の多くを輩出する多いなるモチベーションになったのです。
イッセイも、トキオ クマガイやヨウジ、CDGも、そして、ファッションメディアとしての新星、
今年、創刊50周年を迎えた雑誌「anan」も誕生していなかったと言うことです。
例えば、この時期の”CdG川久保玲”は、まだ、当時新たな”シャネルの再来”と騒がれパリを
一世風靡していた女性デザイナー、”SONIA RYKIEL"の猛お勉強でビジネスをしていた時代でしたね。
彼、高田賢三さんが創り出した世界とは、
ロシアン プリントの花柄を選び、ベッチンプリントやコーデュロイプリント、デニムなどをも
使い、「ロマンティックに、ポエジックに、ファンタジックにそして、シックに、エキゾチック
に纏め上げる世界観」を生み出した。
即ち、着る女性へ、「夢を着る。」実際に着れる素晴らしい服をあれほどまでに沢山デザイン
してきたデザイナーも少ないであろう。
70年といえば、このパリでも新たなモードの世界が誕生し始めた時代。
”プレタ ポルテ”という「高級既製服」の黎明期が始まった時代であった。
それまでの「服」のビジネスの世界は、”オート クチュール”/高級仕立て服の世界か、
大量生産による”アパレル”/「吊るし既製服」の世界それに、「制服」と「古着」の世界でしか
なかった。
この世界に60年代終わりからあの、YSLがDiorから独立して始めた彼らたちの”新らしい
モード・ビジネス”として誕生させた”リヴ・ゴーシュ”の影響によって、70年からはこの
”プレタ•ポルテ”/「高級既製服」という新らしい”小ロット多様式”なファッションデザインの
世界へ多くの若いファッションデザイナーたちがその「夢」と可能性を求めて、挑戦し始めた
時代でもあった。
この新しさの背景には、「’68年5月」以降、この国の女性たちも「高学歴」を習得して、
社会の”キャリア”の一員としてそれなりの仕事を持つことが「新らしい女性の生き方。」という
改革の時代になり、今で言う、”キャリアレディー”が誕生し始めた。そして、彼女たちをパリの
モードの人たちも”新たな顧客”にしたのがこの登場し始めた”プレタ•ポルテ”だった。
そして、特筆すべきことはこの時期の”プレタ•ポルテ”デザイナーのその多くが女性デザイナー
たちであったこと。S. リキエル、E.カーン、A.M.レベッタ、M.プレモンビル、S.トーマスなど等
この様な「時代の変革期」に丁度、彼、高田賢三さんの”パリ登場”がリンクしたことは
その後の彼の活動と活躍には大きな揚力となった。
この時期の日本国内も、「68年」の学生運動以降、70年の大阪万博後、「大衆消費社会」
構造が誕生し始めた。そして、今まで”百貨店”だったのが”デパート”化され、モダンなイメージを
即ち”横文字”ビジネス、職種そして、商品がこの”元百貨店”に溢れかえるようになり始めた。
そこで、各”デパート”も従来までの「衣料品•おしゃれ服売り場」が”ファッション”売り場に
変わり、ここでそれぞれの”デパート”がこのパリで誕生した当時の新しいファッションとして
”プレタ•ポルテ”ブランドを競って導入した。その後、商社が暗躍して、これらのパリ発”プレタ•
ポルテ”ブランドのライセンスビジネスを日本のアパレルやリテーラーへ売り込んで現在の日本の
ファッションビジネスの基盤が創設された。大丸のジバンシー、高島屋のP.カルダン、西武の
YSL,S.リキエルそして、「KENZO」などはその代表だった。
この新しい時代の流れに、「パリで活躍する日本人デザイナー高田賢三さん」の存在と彼の
ブランド「KENZO」はやはり、大きな役割と使命のモチベーションになったのも確かであった。
僕が彼、高田賢三さんを信じた幾つかがある。
その一つは、彼はあれほど、パリで有名な一流ファッションデザイナーの存在になられたが、
生涯、決して、”プレタ•ポルテ”というファッションカテゴリィーからは逸脱なさらなかった。
自分の立ち居い場所に対する”わきまえ”を生涯通されたことである。
その後、多くの日本人デザイナーたちがパリを訪れ、プレタポルテのカテゴリィーでショーを
するも、「アーティスト振ったり、クチュールデザイナー振ったり」いつの間にか、自分の業欲
によって”勘違い”するデザイナーが多いこの世界を、直接見てきた僕は高田賢三さんを信じる
ことが出来る。
ということは、彼、高田賢三さんが作る服は全て、女性が「着れる」服であるということ。
即ち「夢を着る」ことが出来るのが「服」の一つの大切さであること。というここには彼の思想
が読み取れる。そして、本心ファッションがお好きな人だったんだと。
最後に、あのLVMH社による’93年のブランド「KENZO」”売却事件”はもう一つの現実が
明るみに出た転期の結果となりましたね。いくつかの「負」が重なることは人生であることです。
”新居の建設と伴侶の死”という天国と地獄もやはり「金次第」が現実を処理します。
この結果、「買収劇」というよりは「乗っ取り劇」だったでしょう。
この件にしても、本人は決して公言できないような契約条項が課せられた結果の現在です。
ビジネスの世界も戦争と同じですから、「生きるか死ぬか?」です。
LVMH社は当時、プレタポルテ出身の有名デザイナーブランドが欲しかったのです。
トータルアイテムブランド化し当時、台頭しはじめて来たイミグレーターたち新興成金を標的
とするブランド計画をしそして、見事に達成し現在の「KENZO」ブランドの顔になりました。
従って、「KENZO」買収後すぐに彼らが行った事は、例によって、「KENZO」香水の発売で
したね。これによって、この企業グループが持っている”DFS"/免税店ビジネスでラグジュアリィ
ビジネスへのイメージングと高級化に成功しています。以後、この「KENZO」ブランドは新興
イミグレーターたちの御用達ブランドに広がる。
しかし、この企業は以後、「KENZO」ブランドのデザイナーに誰一人、「日本人デザイナー」
を起用していないことに僕はこのLVMH社に好意を持って関われないのです。
彼らたちは決して、「日本人デザイナー」へのリスペクトが無い、「白人目線」の遅れた企業
だと感じるだけです。しかし、この企業が企画している”LVMHアワード”に諸手を挙げて参加して
いるのも現実の日本人ファッション関係者たちですね。
高田賢三さんの生前、「KENZO」ブランドが全盛時代、自宅などに飾られる投げ花の毎月の
お花代が百万円近く使われていたと言うエピソードを聞いたことがある。自分の好きな世界
あるいは、美意識を自分で現実化するための「コスト」である。もの凄い現実ですね、
これが可能な収入と使える自由さ。やはり、世間で「成功」すると言う事はこう言う事なので
あろう。では、例えば、東京の「御三家デザイナー」と言われる三宅さんや川久保さんや
山本さんは、彼らの成功報酬をどのように、何に使われていらっしゃるのだろうか?
彼らたちもご高齢デザイナーであるが、全く彼らたちの「私生活」を見せない事も或は、
日本的「成功」の証なのだろうか?
高田賢三さん、ごくろうさまでした。
どうか、やすらかに「夢の中へ」
ご冥福をお祈りいたします。
合掌:
文責/ひらかわたけじ:
初稿/令和2年10月05日:
投稿者 : editor | 2020年10月 5日 11:45 | comment and transrate this entry (0)