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LE PLI vol.0-no.01/ APRIL 7th '05 Published
部数=19部
頁数=11枚
目次=[collection report]THEATER PRODUCTS「It’s the Classic.」◆HISUI「崩れゆく人体? モードは螺旋階段。」
[diary]巴里は今、
p.02
●東京コレクション速報紙「Le Pli」再発行の趣意
10年ほど以前に、この「Le Pli」紙を東京コレクションの私的眼差しの速報紙として発行した経験を再度、今シーズンの東コレより再発刊しようと考えました。
ファッションを取り囲んでいた時代と環境の全てがまったく変化し始めた現在です。経済、社会、生活と政治さえも、それらがもたらした「戦後の豊かさ」が一様に「新・中間大衆」たちに享受されたという時代性。
当然、この現実の裏側に存在している価値観も、戦後日本を現在のような社会性、経済性へと導いてきた「将来志向、効率志向、仕事中心という『道具的手段主義 Insturumentalism』の価値は衰退し、それに代わって、現在中心、情緒志向、快楽志向、私生活中心的な『即時的快楽主義 Consummatorism』の価値が現在の私たちの新たな日常性を支配し始めています。(*1)
この様な新たな「豊かさの日常性」はグローバリズムの高度な全世界的構造化によってより、進化をもたらしいわゆる「21世紀のリアリティ」がやっと、現実的に僕たちの日常生活環境で始動し始めたという機・気を大切に、ここでもう一度、東京におけるファッション・デザイナーの世界へ、何のしがらみもなく、持ちえた情熱と感情と学習してきた経験を本質とした「21世紀スタンダード」を基盤に考えながら、永年からの低温火傷状態の現状・東コレへ新たなる一石を投じようと決心しました。
そこで、この東京コレクション速報紙『Le Pli』は、
編集テーマ:「なぜ、東京のモードは文化の領域へ達し得ないのか?」
編集コンセプト:「ラジカルな読むジャーナリズム」
編集視点:「クリエーション、エステティック、インテレクチュアル、エモーショナル
そして、ウエアラブル」
再発行の意義:「独創性、現実性、辛辣性そして、速報性と人間味」
これらを基盤に今シーズンの東京コレクションを平川の私的レベルと方法によって発行いたします。
この一石を投じることによって、願わくは東京のモードが文化の領域へ一歩でも近ずけばの大いなる思いを込めて。
責任編集;平川武治 平成17年03月
(*1) 出典:「倫理としてのナショナリズム」 佐伯啓思著・発行NTT出版。
pp.03-04
●collection report THEATER PRODUCTS
It’s the Classic. What's the means Classic ?
世界で2台しかない、BMW製 MINI XXL車がもしかしたら主役だった?
終わってみるとどうしても、思い出すのはこのMINI XXL。
コレクション全体からエモーションが強く感じられなかったからだろうか?
アトラクション的存在となったMINI XXL。
このためにこの会場を借り、この演出をした?今回のテーマ、Alpenglowとどの様な関係式がコンセプトとしてショー・イメージを演出したのだろうか?
音楽も退屈であった。
僕の隣の席にこのBMWの関係者が座っていた。
彼らはショーが始まる寸前に、「コインを入れてこの音楽を変えようよ!」というジョークを勿論英語で会話していた。
僕もこのジョークに乗って彼らに、「このコインは日本製のロング・ライフものでしょ?」
といって彼らたちと会話が始まった。
クラッシカルな雰囲気の服がたくさん出てきた。
当然、クラッシックな服ではない。クラッシック的服である。
知的冒険も感覚的はったりもない。
使われている素材はもう既に何処かのショップで見たことのあるテクスチユアーのものが多かった。
多分、他の日本人ブランドのものよりもこのブランドは「肩もの」即ち、テーラドタイプのジャケットを多く出していた。これは東京では勇気あることである。
今の時代における「新しさをクリエーション」するには『クラッシクな技術、手法をどの様な新しいコンセプトで使うか』にある。今シーズンの巴里でもそれなりのデザイナーたちはこの発想でコレクションを作っている。そこには完成度が現れてくるし、それが、先ず、観るものへエモーションを与える。デザイナーの世界観とテイストが感じられる。これがデザイナーとしての作品にオリジナリティとしての格と品位を与える。それが最後にはプライスとなってビジネスに関係してくる。
コレクションはこのブランドもメンズとレディースでの展開。自分が着ることを意識すれば、メンズの方が楽しいと思ってしまった。自由があった。
商売をするためのイメージを、着こなしを、時代の雰囲気をこのデザイナーはどう感じているかそして、究極はブランド全体のイメージ観を展開するために自分たちの知性と感性と度胸でプレゼンテーションする。そのためにお金を使ってやるものがショーである。リアリティとしてのビジネスが在ってこそ、イメージとしてのショーも継続が可能である。『鶏が先か?卵が先か?』の世界であるが、その比重バランスの重要性をどの様にアートディレクションしてやってゆくかがデザイナーの器量と力量と感性になるはずである。
僕は彼らたちが今と言う時代に、自分たちのリアルな日常において何を感じ問題意識を持って、学んできた知識、技術そしてセンスと人間性として、どの様な人たちに着て頂きたいのかを含めてプレゼンテーションしているかをショーから読んでいる。
今年で4年目を迎えたという。リアリティとしてのビジネスがどの程度なのかをこのメゾンのプレスに聞いてみた。当然、言いたがらなかったが最後に説明してくださったのは直営店1店舗を中心にしての昨シーズンの売り上げが約五千万(上代価格)あるということがわかった。ある意味ではたいしたものである。海外の若手デザイナーたち例えば、ハイダー・アッカーマンが聞いたら驚くであろうしジェラシーを持つであろう。
となりのMr.BMWに聞いてみた。
「Is it a classic? Whatユs a means classic?」
「It's a nice combinations」
今夜は余り美しい夕映えではなかったのが残念。
文責:平川武治
開催日:04月06日
ブランド名:THEATER PRODUCTS
デザイナー:武内 昭 / 中西妙佳
テーマ:Alpenglow
会場:国立霧ヶ峰競技場
pp.05-06
●collection report HISUI
崩れゆく人体? モードは螺旋階段。
3シーズン振りで見せていただくこのブランドのショー。
このデザイナーとは僕が彼女のコレクションを見なかった時期にはよく巴里のコレクション会場で顔をあわせていた。いろいろ彼女なりに勉強をしていた時期なのだろうか?
今シーズンのコンセプトなのか?テーマなのか?解らないが僕は好きなアイディアである。しかし、これでコレクションを作るとほぼ、1,2シーズン遅い。
多分、今市場へ出ているとビジネスとしてもタイムリーな発想であろう。
2年前に僕はもう、この80年代トレンドが下火になって、これからは90年代初めの、2、3年が復活すると言い切っていた。
湾岸戦争時とイラク戦争、不確実性の肥大化、社会不安の増大。街ではジワジワト厚底靴の再来、ヴィンテージもの、リメイクものがジーンズを中心に再来。アフリカンの匂い、ジュリー・ベッツの再登場などがその発端。そして、時代の主役たちは既にもう世代が交代し始めて彼らたちはそのオリジナルを知らない。MTVによるブラックビューティーへの憧れ。それ以上に、自分たちの身体のラインを美しく見せたい。80年代のビッグ・シルエットへの飽き。モードの世界の人たちは飽き性である。
このデザイナーも肩ものが不慣れである。
そこがこのデザイナーがこの手のコレクションをしたときのルーツとしての欠陥である。
最後はスタイリング・ショーになってしまう落とし穴が待っているからだ。
乾いたごみをパーツとして人体までも崩し始めればもっと、面白かっただろう。
そうしたら「新たなる'90年代」が創造できたであろう。
実際に服を着る女性の身体つきはもう、既に崩れ始めている方向へと向かっているからである。これも僕の今年の眼差しである「豊かさとは?」の人体影響化であるからだ。
分量のある服がその下にある身体つきをも分量を付け始めた現実。
余りにも、快適さとしての「プロテクション」を「ヒーリング」を望んだがために油断した女の身体つきは豊かさの象徴。
癒しのために、自らの身体つきをどの様に崩しきれるか?又は、「矯正」「補整」化してまでも自分たちがセレブリティを夢見るのか?
この決断はこのデザイナーには未だ不必要なのだろうか?
又は、このデザイナーはMTVを見ないようにしているのか?
「時代の読み」をもう少し深読みして見ることも必要ではないだろうか?
そこから周りに豊富にある情報をサンプリングしてみればもっと、興味深いものが発想出来るのではないだろうか?
好奇心が強いならばもっと、より強い女性になって螺旋階段を自分のペースで上るべきである。
自分が息切れするまで。
文責;平川武治
開催日:04月06日
ブランド名:HISUI
デザイナー:伊藤弘子
テーマ:乾いたごみ
会場:NTT東日本 エスコルテ青山
pp.07-09
●巴里は今、
今回の巴里での約6週間はいろいろな展覧会を各地で見る機会を持った。
まず、コレクションが始まる前に、巴里ではH.ブレッソン財団での「ジャコメティとブレッソン」展。これはよかった。企画が面白かったのと、このブレッソンの住居のインテリアと空間レイアウトがよく、この空間には久振りにジェラシーを覚えるまでだった。3階から屋根裏部屋までを傾斜をつけて打ち抜きにして空間全てを白で纏め上げている。従って、2階の階段テラスからその斜めに切ってある吹き抜けが見え、3階には事務机が、4階には書棚がそして、屋根がテンパーライトときている。こんなモダンな発想がこのフォトグラファーの本質だということに気が付き、彼の写真を改めてみることが出来たのも再発見であった。展覧会はこの写真家と彫刻家のいわゆるセッション作品群を対比させながら、彼らの友情と信頼感がじわーと感じられるまでの温かみあふれるまとめ方であった。写真家が取ったポートレートと彫刻家が描いたデッサンやクロッキー群。この関係で彼らがどのような関係と信頼で仕事をし合っていたのかまた、写真の持っているリアリズムとデッサンやクロッキーで表現されている人間味が、あるものは写真よりもデッサンのほうに感じられたり、眼を確りと捕らえた写真の迫力感はやはり、写真の強味とも思えた。
そして、その帰りにカルチェ財団の「杉本博司」展も観る。
この作家らしく知的にユ−モアいっぱいに考えられた結果の知的遊びの証しとしての写真作品は彼の作品にしては余りにも物質的なものとして感じてしまったため、頭で感じようとした分だけエモーションが少なかった。
R. リンドナー、戦後、ドイツからN.Y. へ渡り '60年代からはN.Y.POPの旗手の一人となったこの画家の個展は始めてみる機会だったので興味いっぱいであった。この美術館、ロマンティック美術館と言って元々この街の19世紀後半の典型的な当時のロマンテズム画家のアトリエが現在では美術館になってもう既に4,5年経っている所なのだが、余り、競って観光客が行く所でもなく、中庭もあり当時のアトリエが、この時代のこの程度の画家でもこんなにすばらしい環境として持ち得たと言う事実が僕には感心された。
作品群はちょうど、F. レジェ後期からの延長であろうか、機械主義の影響を受けての作品。珍しくこの画家は男のスーツ姿をデザイン化した作品も多く書き残している。当時の未だこの國も男社会観が残っていた証し的な誇張した男のスーツ姿は今見るとノスタルジアを感じさせた。イラストから画家へ転向した彼の各作品はそのほとんどが平面構成から成り立っている抽象画前夜。同時期のA. ウオホールのそれらと対比して感じるとなかなかの興味であった。
コレクションが終わった巴里ではC. クリムトの裸婦デッサン展を見る。
この展観は以前も少し小規模ながらこのまちで観た覚えがあって興味深く再度訪れる。今回の方が作品数も多く時代が1910年代までと'20年代からの作品では彼の裸婦を描く眼差しが違って面白かった。
コレクション後、アントワープの友人たちが、今度のMOMUはいいとの言葉を信じてアントワープへ。結果は、大変に興味のあるもので、その内容も時代を感じさせるものがいっぱいと言うほどの良いものだった。「BEYOND DESIRE」展、今、一番興味と関心が持たれているのが「アフリカ」であり、彼らたちのBRUT的初源イメージとしてのアフリカ文化がどのように白人社会へ影響を与え、また消費されて行ったかをテキスタイル、民族服シルエット、写真、スタイリング、音楽、レコード、アニマルプリント、ヘヤー・スタイル、バッティックプリント、映画そして、アフリカンデザイナーとしてのジュリー・ベッツのブティックが設えてあると言うまでのサービスを知的に仕込んだ展覧会で久しぶりにこのモード美術館での好い展観を見ることが出来た。ここで上映されていたアフリカンミュージシャンが巴里公演を行うまでのドキュメントフィルムはとても面白くファッション人間,アフリカ人がとてもえぐく描かれていてより興味を持つまでのフィルム。さすが,製作がユ04年BBCドキュメント。ここにはCdG オムプリュスもジュンヤも彼らたちが自慢に着ているブランド名として登場するから楽しい。(タイトル;The Important of Being Elegant.)これはファッション好きも音楽好きにも受けるものだ。
(同じように、今、ロンドンのニューテイトでも「アフリカ」展が催されているという。)
この週末にはバーゼルへ行き、この街の工科大学のファッション科の3年生のコレクションの審査をさせてもらっての帰りに「ベイヤー財団美術館」へ出向き「花」展を見る。ゴッホからJ.クーン迄とのサブタイトルで花をテーマにしたタブローから写真、オブッジェに至る作品群がいっぱい。常設ではこの美術館のピカソと対比させてのアフリカンコレクションはいいものであるし、M.ロスコーは逸品が多くコレクションされているのでも有名である。バーゼル氏の少し郊外にあるこの美術館の建築と環境としての庭がのどかな風景を作っていて丁度、春が訪れ始めた時期柄もあってとても穏やかに時間を過ごすことが出来た。
巴里へ戻って、ロンドンからの友人とはジュー ドゥ ポム美術館での写真展そして、最後にロッテルダムでの「ダリ」展。
最後にN.Y.へ渡った彼は当時、N.Y.で誕生したの商業美術界でアメリカ的に消費される時期の作品群を新しいメディア映像を使って見せていた。舞台装置、ハリウッド、舞台衣装、スキャパレリとのセッション、オブジェ、写真それに、なんとCF 迄。このCFのクライアントにダットサンがあったのは面白かった。この美術館で以前M.マルジェらがあの「カビ」の展覧会をやり、W<がこの美術館で作品として自分のブティックを展開したのもここ。しかし、この美術館「ダリ」展の前が2年前に催した「H.ボッシュ」展、2年に1度の大型展覧会だけでよい環境はその文化度の豊かさを感じさせる。
行き損ねたものとしては、アムステルダムでの「エゴン・シーレ」展だったが、久しぶりに多くの展覧会を見たハッピーな今回の巴里滞在だった。
投稿者 : editor | 2005年04月07日 10:56 | comment and transrate this entry (0)