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LE PLI vol.1-no.02/ NOVEMBER 3rd '05 Published
部数=26部
頁数=10枚
目次=[collection report]CHRIS CELIN PARIS◆RITSUKO SHIRAHAMA◆GARDE COLLECTIVE◆io yukomura Ta◆ato
pp.03〜05
●CHRIS CELIN PARIS
久しぶりの登場であるこのデザイナー。
以前の面影は今回のデヴューコレクションからは遠い彼方。ゲイ・メンズの元祖的な「ルナ・マティーノ」時代を知っている人たちも少なくなって多分、今の若い専門学校生では皆無であろう。
しかし、今回の新たな彼を中心とした、このブランドのデヴューコレクションはそんな以前を知っているいない関係なく、何ひとつマイナス志向へは働かず、むしろ、時代の変化、特に国際的な社会状況の変化に旨くチューニングされた結果のショーであり、作品群であった。寧ろ、これを感じられず、自分たちの日常へ落とし込めない貧しさとクオリティの風俗化が今の東京を中心としたファッション環境であり、状況であろう。多分、ドレ・キャンが若い層をも引き込んで受けている実情はメディア化された20世紀アイコン東京風俗をこのレベルで拡精一杯、背伸びをして自己主張しているファッションDJ的な旨さにあろう。しかし、所詮、比べるもののリアリティの貧しさとクオリティの違いをルーツとした表層化でしかない。
昨年、巴里ではグランパレで大掛かりな「フランスロマン主義」展が開催された。プシュケ、ジョルダン、ワトーたち、18世紀のこの國の成熟し、又爛熟し始めたロマン主義の世界を恋い、愛、裏切りそして、羨望などの心の様とそこに現れた奢侈階級の贅を尽くした風俗としての日常生活や風景が描かれたこの國の文化そのものを産み落としたロマン主義展。(実は、巴里、オートクチュールの源流がここに始まっている。)
当然、先シーズンと今シーズンのファッション・トレンドブックターゲットにもなり、幾人かのデザイナーたちはこの影響を受けたコレクションをやっている。例えば、今シーズンではJ・P・ゴルチェのエルメスはまさにこの世界観と美意識を21世紀のエルメステイストにシンプルにモダンにまとめ上げられた、彼とエルメスらしさが上質なコラボ・コレクションに仕立て上げられ、出来上がったシーズンだった。
朝月がディレクションして出来上がった今回のこのCHRIS CELIN PARISデヴューコレクションも、正にこの「フランスロマン主義」がイメージソースの世界。当然だが、東京では「絵に描いたもち」になってしまうてらいの在るこの手の方法でのコレクションも今回のチームが国際的な構造と環境とそして、資金源を作っての結果が今までの貧弱、悪趣味だけの、「イメージのイメージング」、いわゆる「東京ゴッコ」コレクションに陥らなかった最大の理由であり、ここが僕が感じた新しさを生みえる一つのファッション環境であると。(もし、あのドレ・キャンが次のステップで生き延びれる手段はここに在ろう?)
多くの21世紀版、マダム マリーアントワネットやマダム ポンパードールが登場。
プリントの図柄も、素材も、シルエットとその分量の取り方も、ディテールのこなし方もその殆どが奢侈階級の人たちが安心して望むクラシカルでオーセンティカルなことばかりである。その結果が「フレンチ・テイスト」「フレンチ・エレガンス」がシックさを生む。だが、これが昔もそして、今の日本人デザイナーには皆目、出来ないものばかりなのである。(せいぜい、出来ても素材の選びとプリントの選びでストリート的なコーディネートしか出来ない。) たとえば、時代のトレンドが「クチュール」という記号的言葉でメディアが簡単に使うと、自らの経験として持ちえたことのない若手デザイナーたちもこぞって、「クチュール、云々」を大声で発言する短絡な環境があるだけ。この東京では出来るだけ、大声で、その時だけの俄かクチユリヱ的なる発言をこれも同じレベルだから仕方ないだろうが、無教養な、何でも「カワイイ」連発雑誌編集者たちへ向かっての作業の繰り返しが結果、有名デザイナーになってしまうというこれも、東京的構造の一つ。
このCHRIS CELIN PARIS、資金は香港のそれなりの階級華僑、アトリエは巴里とインドのデリー。そしてディレクションを日本人の朝月が行い、それぞれのアトリエが持ち得た「リアリティ」としての経験とスキル即ち、ここで働く職人さんたちのデシプリンされた手を使って仕上げられるという構造から生まれた作品群であろう。
もしかしたら、この方法は「クチュールのローカリズム」と呼べるかもしれない、新しさを持ったアトリエ構造である。
今、巴里の若手デザイナーたちは再び、「アトリエ回帰」志向を持ち始めた。
その証拠に、若手デザイナーが受け継いでいる老舗メゾンが元気がよい。ニコラ率いるバレンシガアを筆頭として、エルバスのランバンも、O.タシュケンのロシャスそれに新たにその世界へ編入できたV.ルロアのレオナード等がそうであろう。
ここには彼らたちが築き上げた「新しいアトリエ構造と形態」が功を奏し始めてきた結果でしかないのだ。古くからのアトリエが持っている多くの諸アーカイヴと職人さんをどの様に上手に旨くディレクションして、彼らたちが持っている伝統的な技術とスキルを自分たちのセンスある感覚でディレクションして行くかという、「オートクチュールを利用しながら、オートクチュールを活かし続けてゆく」という強かな方法である。
一方では「モードのグローバリズム」が登場して以来、古いアトリエ・タイプのメゾンが無造作に、無残にアメリカン・グローヴァリズムの大手拝金主義的な企業構造へ転換を余儀なくされている。売れるものをより、作ってゆくタイプか又は、売れるモノを作るよりも見せるものを、彼らのメゾンイメージの継続化のためにイメージ効果のあるものだけをコレクションで発表させ、後はバッグや靴、アクセサリージュエリーと時計それにコスメとパルファンで儲ければよい主義のファッション企業構造が氾濫し始めた結果の、リアクションであり、この国のモードを愛する人間が、若手デザイナーが選んだ活路である。(例えば、イタリーの工場、ジボ社を利用したプレタポルテデザイナーは、誰が成功したか?その後、どの様な進化を成し得たかを調べてみても一目瞭然である。儲けたのは工場アパレルだけという構造は日本の現アパレル構造と極似しているはずだ。それは、ジボ社の親会社は日本のアパレルであることからも、)
従って、本当にモードを愛し服を作ることが好きな若者たちは自分たちがあこがれた老舗メゾンへの思い込みをも含めて、自分たちがそのアトリエの歴史とアーカイヴを使えるチャンスがあればそれが最高に幸せな服つくりの構造だという新しい潮流がここに来て生まれ、やっと、数年後の現在に功を奏し始めてきたというのが今の「モードのキャピタル、巴里」の現実である。若いデザイナーたちが老舗アトリエ構造へ憧れを持って彼らたちへ以前よりもより強く、アプローチすることが自分たちのコレクションの目的であるというまでにもなってきた現実である。だから彼らたちの新しい「アトリエ回帰」志向が今一番新しい動きだ。
当然、この動きを後でディレクションし、この新陳代謝構造を仕掛けているのは巴里モードオーガナイザーのトップの連中である。
ここ3年来、毎年、南仏で行われる「フェスティバル・イエール」に登場するクチュールテイストの強い、こなしの旨い若手デザイナー志望の連中、(例えば、F.O.バプティスタ、R.レネ、など、)をこのコンテストを利用してメインステージとしての巴里へ送り込んできた。そして、彼らたちを一つのプレスエージェントが受け持って彼らたちを大事に育て上げてきている。この現実もその本心は、「モードのキャピタル」としての巴里の存続を、モードのグローバリズムからプロテクトし、守る事も含めて自分たちにはモードの中心軸としての「オートクチュール」が、「オートクチュール文化」が存続する継続していることを、新たな時代へ向けての革新の為の手法として近年富みに強く前へ出し、使い始めてきた。自分たちしか持ちえていない、「老舗アトリエのリアリティ」を持って新陳代謝を図るという方法で今までからも、そして、これからも「モードのキャピタル、巴里」を強かに、しなやかに継続、維持してゆくために。
残念ながら、この構造は日本にはない。
従って、所詮「モードの日本」の役割とその可能性とが決まってくるのは当然である。
が、今回のこのブランド、CHRIS CELIN PARISと朝月真次郎が挑戦したビジネス構造はもしかしたら、世界規模での、新たな日本人ファッションディレクターの誕生、アジアンマーケットをベースとした、可能性が大いに感じられる。
ここで大事なことは、資金を出す側とディレクションする側、双方に奢侈クオリティとテイストを『リアリティ』としてリスクとコストを張って持っていることを自負出来る事である。そして、作る構造として当然ながら品ある、よいクオリティな技術とスキルを持ち得た『アトリエ』と出会い、どの様にキャスティング出来るかに掛かっている。
たとえば、今、僕が出来うる状況を持ったならば、日本人ではあの、志村雅久氏でこの構造をディレクションやってみたい。
以前に、志村氏の布の裁き方に、もうそこにエレガンスそのものが在ったコレクションを記憶しているからだ。
そして、今後の日本にこのレベルとクオリティ在る世界規模で活躍できるファッションビジネスディレクターを育てることを本気で考えてゆかなければ『アジアの日本』にもなり得ない時代がもうそこに来ていそうだ。
朝月が旨かったディレクションの一つに、素材の選び方とミックスの仕方、分量/ボリューム感はその上質さをとエレガンスとはを知っているものに任せたこと。今の時代の『身体つき』をどの様な装飾で施すことが時代観なのかをディレクション出来たこと。そして、ショー・イメージにポエジーを与えられたこと。
「バレエの世界とオペラの世界」をリアリティとして持ち得ていない、又は、わからないデザイナーはフレンチテイストは出せないと極論できる。
所詮、TVの世界とその裏側としての風俗、そこでタレントとして孵化された育ちの知れない人たちが日本ファッションのテイスト源であり、アイコンという現実。
朝早くのコレクションには当然なのだろうか?学生が少なくない。
少し、残念。特に、今朝のコレクションは学生が見ても、もう一つのモードが見えて、参考になるとと思った。
学生は夕方に行われるメディアで刷り込まれたデザイナーのもの、その見せ方として"ノリ"で見せるもののみに集まる。
集客数とノリでメディアが騒ぐ。これが、東京トレンド?!。
文責:平川武治
デザイナー:朝月真次郎
開催日:11月01日 会場:KURENAI
PP.06
●RITSUKO SHIRAHAMA
久しぶりで見たコレクション。
1年程前には巴里の僕の友人がこのデザイナーのために働いていた。
彼女はスタイリスト。
今はフレンチヴォーグの編集長になった元スタイリストのアシスタントをしていた彼女が東京へ行くようになったと聞いたのが数年前。
東京へ来るたびに楽しんで仕事をして、いっぱい遊んで帰っていった。
先シーズンでその契約も切れたという。
「作風が変った。」と、このブランドを知っている関係者は話してくれた。
当然だろうと思う。
日本人デザイナーの特徴として、豪華な素材、高価な素材が使える。
トレンドブックに忠実な素材が簡単に手に入る。
それらをそれなりのクオリティでまとめ上げられる生産背景と技術がある。
そして、今ではデパートという売り場を持っていて自分のブティックが在ればビジネスも旨くいく。
ではなぜ、巴里の友人が解雇されたのか判るような気がした。
巴里のサロンに参加して、売り上げも出来ている。
特殊ないい、顧客もいる。
それなりに見事に、まとまったそのレベルのコレクションだった。
文責:平川武治
デザイナー:白浜利司子
開催日:11月01日 会場:TOKIWA
●GARDE COLLECTIVE
白を軸とした所が今回の新しさなのだろうか?
そして、少し驚くブルーが出てくる。
着て出てくるモデルたちが着こなしていたことが案外うれしかった。
スポーツやランジェリーからのアイディアが伺える。
どうかしたら、SFモノの劇画の主人公をもうかがわせるソフトな、パンキッシュなそれで何処かヒッピーがかかっている。
レースやメッシュも使われている。
とてもカジュアルな素材のコンビネーションと染が優しさとあたたか味を感じさす。
面白く感じたのは、はみ出し始めた肉体の一部がコケティッシュに感じられた。
文責:平川武治
デザイナー:真木喜久子
開催日:11月01日 会場:KURENAI
PP.07
●io yukomura Ta
初めて見るコレクション。
スタイリストが客として多く見られた。
ショーそのものも、スタイリスト・ショー。
シーズンテーマの『バレエ』
ロマンチックな白と手細工で施されたレースものの繊細さを強調しながら、スキンカラーでのトレンド性を混ぜて見せる。
デニムをコーディネート。
そして、日本的なスタイリングで面白かったのはルーズソックスとのミスマッチ。
幾つかのこれらもスタイリングから考えられたオーバーラップのロングスカート。
ファッションスタイリングDJ. コレクション。
ドレ・キャンを始め、テイスト、こなし方見せ方には様々あれど、東京の大半がこのレベルになってしまった今の東コレデザイナー?
文責:平川武治
デザイナー:村田有子
開催日:11月01日 会場:青山ベルコモンズ 9F クレイドホール
●ato
少し遅れたために入れずに屋外のスクリーンで見たコレクション。
きっと、この場所での時間延長、特に夜の延長はその筋からうるさいのであろう。
大型スクリーンから感じられた今シーズンのコレクションはどこがatoなのかと思うまでのオーソドックス、コンサヴァティブな服が次から次へと出てきた。
きっと、実物を見れば、素材感やちょっとしたこなしに未だ、このブランドらしさがあるのだろうかとも思いながら、結局は最後までデパ・コレ。
画面から感じられるイメージは決めきれないモダニズム。
こういう見方もかえってコレクションの本質を感じ見せてくれるかもしれないと思った、ノーエモーショナルなコレクション。
イメージとして見せてしまったとたんに、そのイメージは消費してしまうまでの東京の怖さ。
文責:平川武治
デザイナー:松本 与
開催日:11月01日 会場:KURENAI
pp.08
●番外編
ドレスキャンプは興味なし。むしろ嫌悪感。
『風俗、吉本そしてケイタイ』でこの東京で生活していないものには余りにも、特殊な世界。
大いなる勘違いもこの東京の怖さ。
昨日、ゴージさんの歌を聴く機会があった友人がいた。
ゲイ・バーで有名だった渋谷エスカーダが閉店した。
彼の伊太利亜屋が銀座のホステスたちに一精風靡した時代は70年代も後半から80年代半ば。
丁度、日本の新たな高度成長期。
社用族が登場して飲み屋がトリス・バーからクラブ化し始める。
そんないわゆる、一流クラブで働く女性の身に付けていた物、その店のインテリア物が日本的ブルジョア志向の流行を生むまでの社会構造がこの社会にあったことが懐かしい。
伊太利亜屋、アルファーキュービック、ALFLEX,そして、有名スイス腕時計と宝石ピアジェなど手元カルチャーも。
いわゆる、戦後、水商売文化(?)の黎明期。
ぷんぷん匂う古臭い日本的戦後文化(?)
何も新しくないコンテンツのDC.
何も変わっていない地方の洋装店ブティックのここ30年。
豊かさが享受されて、時代が廻っているだけ。
文責:平川武治
投稿者 : editor | 2005年11月06日 06:38 | comment and transrate this entry (0)