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お釈迦様のお誕生日に、 『関係性』と『根拠性』を想う。-1-

今日はお釈迦様のお誕生日です。
『花祭り』の日です。

僕にも思い出があり、
小学生に上がる前だったころ、近くの四天王寺さんの境内に
花で飾られた子供時代のお釈迦様の像にお水を掛けに行き、
その帰りに甘酒を貰って帰ってきました。

これが子供の頃にはうれしく楽しい春の訪れを知る行事でした。
その後は、小学校へ行くようになると始業式がいつも、この日か、もう一日前の7日なので
『お釈迦様のお誕生日』は僕には忘れられない日になっていました。

キリストの誕生日にはあんなにはしゃぎ回る日本人になってしまったのに、
お釈迦様のお誕生日は忘れている人も多いでしょう。

これが、今の日本人の心の根拠性の原点の一風景かもしれません。
『残念ですね。』
『悔しいくも想いますね。』

日本人の心の中に宗教心がなくなり始めてどれぐらい経ってしまったのでしょうか?
その宗教心がなくなって、僕たちの国はどのように変わってしまったのだろうか?
「気骨」や「気概」とか、「羞恥」や「含羞」という言葉が
「謙虚さ」や「思いやり」というこころの在り様が
実社会から完全に近い形で忘れ去ってしまうほどの、
現代社会になってしまったのでしょうか?

代わって、
消費社会を肯定する方法としての「消費文化」とそれをいじくり回す肯定論。
自分自身を唯、唯この消費社会へプロパガンダすることのみに
安価に、身近になった情報と「時間と自由とこころ」が使われ
今にウケたいと言う行為としての自己宣伝のための生き方。
そのこころは?
その「根拠性」とは?

モノにも、人にも生まれと育ちがあります。
それらが持ち得た「根拠性」を確りと学び知ることが大切です。
それが教養であり知識であり教育であり、経験です。

有り余るほどの物と行為。
これらを選び選りすぐって
自分にとって必要なものや事そして人を選ぶためにも「根拠性」はその根源でしょう。

以前に「もっと深層を」。
『表層のみにとらわれる』のではなく物には必ず見えていることがあれば
そのものには見えないものがある。
だから、もう少しゆっくりとこころと時間と自由を賭けて
物の「深層」を見るようにしましょう。
それが大切だと。
「深層」を知ることとは
それぞれの「根拠性」を知ることです。

以前に、『いらないものは捨てましょう』を書きました。
『いらないものを捨てる』ためにも「根拠性」が必要になり、必然性を持つのです。
その時に『宗教心』が必要になるのです。

いいですか?
自分の持ち得た『エゴ』を捨てることが
これからの時代を救うことへ通じる
唯一の、
誰でもが出来うる大切な人間としての『行為』なのです。

この人間としての行為の内なるに『宗教心』が。


今日は4月8日。
お釈迦様のお誕生日です。
『お花祭り』の日です。

お祝いをしたい人は近くのお寺へ出掛けて御覧なさい。
掌を合わせてください。
自分の心の前で。

ここに真こころが在ります。

『合掌』

ありがとう。

投稿者 : take.Hirakawa | 2009年04月08日 00:55 | comment and transrate this entry (0)

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