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2006年8月21日

PARIS HOMME COLLECTION '07春/夏 レポート/平川武治版;

「平川武治のノオトブログ;"The LE PLI" ARCHIVESー15」です。
今回は、”2006年6月に行われた、
「PARIS HOMME COLLECTION/'07春/夏レポート」です。
初稿/2006-08-21記。

文責/平川武治: 

 はじめに;
 面白い現実を体験したこのシーズンの”巴里•オム コレクション”だった。
このシーズンではそろそろ、”パンツのシルエットが変わるだろう。”と予測をしていた僕は、
ある日、近所のバスティーユ広場やコレクション会場になっていた”パレドトキョウ”の広場で、
12,3歳のKIDSたちがお兄ちゃんボーダーたちに混じって、スケートボードで遊び始めた。
 この世代の男の子たちがスケートボードに夢中になって楽しみ、遊んでいる風景を見るのが
僕は好きだし、実際に巴里のチャーミングな日常でもある。
 それに、彼らたち世代は未だウブで、”文句なしに、カッコいい!!”連中であるからだ。
そんな彼らたちのグループのほとんどが”超・細身エラスティックなデニムパンツ”を履いいる
ことに気がつく。この彼らたちの”細さ”が若さを表現するしもちろん、彼らたちのアクティブさ
にも機能的だし、僕の様なモード関係者から見ると、彼ら世代とその”超・細身エラスティックな
デニムパンツ”がとても新鮮に感じた。
 しかし、今シーズンのデザイナーたちのランウエーでは一体も見ることはなかった。
早速、この街での僕の行きつけの古着屋、「ゲリーソルド」のクルージングをしてこの、”超・
細身エラスティックなデニムパンツ”を探し、ゲットして、”気分は彼ら世代!”と楽しみ始めた。
 その後、半年ほどが過ぎた頃、モデルの男の子や女の子たちの間で、この”超・細身エラスティ
ックなデニムパンツ”が流行り始めた。
 あとは、皆さんもご存知のように、”モード”に乗って、世界中の”トレンド”になり、その後は、
デニムパンツの一つのバリエーションになる。
 これは、「ファッド⇨トレンド⇨ヴァリエーション」と言う”モードのサイクル”の分かり易い
現実を僕が実際の”路上”で「感じ、見て、憧れる」と言う体現経験であり、それが見事に現実に
「ファッション•トレンド」誕生に至ったと言うまでのシーズン体験でした。
初稿/令和3年2月15日記:

1)ARCHIVE/「PARIS HOMME COLLECTION/'07春/夏レポート」/
"ランウエーのパリ オム コレクション S/S '07”
 今シーズンのパリのメンズコレクションは、アン、ラフ、リキヱル、ランバン、ギィーヴァス、
ベルンハルトそれにビジネス的に上手なコレクションをした、クリスと淳弥。若手では、
ヴィエナのウーテイ。安心してのエルメス。そして、R.オーエンの中止は惜しい。
 新しい素材としての合繊モノとそれらの機能性をデザインへ落とし込んだものとしての
スポーツ。これはワールドカップの影響も見られるのだろう。それに、ワークスのユニフォーム類
からのデザインソースが今シーズンも多く、もう一つのアイディアは未だ、フォーマルウエアー
のカジュアル化など、今シーズンも変り映えしないこれらの多くは、[PROTECTION]が
コンセプト。
 アンは変らぬテイストとクオリティのヌーボーボヘミアン。楽しく、巧かったのがリキエル・
オム。得意のニットのレジメンタルをパリジャンらしくソフトにコーディネート。
ロングカーディガンやベストとのスタイリングは新しさを生んだ。ベルンハルトのチロリアン・
フォークロアはニットものが新鮮。これは男、女ユニセックスも大丈夫であるし、シーズンが
過ぎてもベーシックなニットとしてもいけるもの。クリスは初めてウイメンズも出し、いわゆる
[ペアー・ルック]、上品さとフレッシュな感覚で、ベーシックなものを主体にちょっとした
所をいらう程度のデザインが返って、新鮮さを感じさせる。前シーズンのベロニックのペアー・
ルックを思い出す。このベロニック、今シーズンはショーも展示会もやらなかった。きっと、
ヴィエナのアカデミーで教鞭をとっていることでの躊躇観がそうしたのであろうか?
 ビジネスを考え、尚且つこのブランドらしさを考え外国マーケットのみではなく国内市場も
リードせねばならないという状況と環境のブランド”淳弥”。この大変な条件の下でも流石見事な
コレクションをするビジネスに徹してしまった淳弥。今シーズンはスポーツ。それもフットボー
ル。最後に恥ずかしそうに出した、[ゴルフ]の新たなコンセプトのものが一番クリエイティブ
であった。それにしてもこのブランドのショーを見て感じたのは見事な「F-1レーサー」デザイナ
ーだ!!と言うこと。かわらず世界のナショナルブランドとのコラボレーションシリーズ。
 いろいろなワッペンをF-1レーサー宜しく貼り付けてのコレクション。
[運転は巧いのですがガソリンを買わなくては!]と言わんばかりのショーデザイナーに感じて
しまった。

 アイテムでは今シーズンもオーバーオール、カーディガン、ベストそれに、靴では[タッセル]
が新鮮。ゴルフ シューズからか、ドーミュールのみが出していたがこれは来シーズンも引くで
あろう? そして、今シーズン余り出ていなかったのが、エラスティック素材による細身のデニム
パンツ。もう、そろそろ、パンツのシルエットが変る。(ルージーなロー・ヒップパンツはもう
そろそろ終わるだろう。)この時期、巴里の街角では12,3歳のKIDSたちがスケートボードで
遊び始めた。そんな彼らたちがこの超・細身エラスティックなデニムパンツが一番カッコいい。
(しかし、今シーズンのデザイナーレベルではまだ出していない。)
 一方では、より『マスキュリム・ダンディズム』が続く。
このシーンでは、上質な素材と美しい縫製、そのためのしっかりとしたパターンが大切。
 特に,ジャッケトは要。短くなった上着丈で正方形方への上着と細身のパンツ。
ソフィスティケートされたメンズの世界が新しい。バタフライやアスコットタイにフリルシャツ
も。帽子ではハンチングが登場。

 そして、ショーでは『キャスティング』が大切。時代の雰囲気を醸し出せる顔がデザインより
も新鮮に映える。いい男が出ていたのがCdG. とアンは格別。
 CdG HOMME PLUSは「GOLD MEN」。本当にそこまでするのかと言う感じの「ゴールド・
ラッシュ」。ここ2年来、このブランドもすっかり、作り方が変ってしまったのだろうか?
『ピンクパンサーに始まって、ローリングストーンそれに今シーズンのゴールデンボーイ』、
基本的にはアイディアでの勝負モノ即ち、色物。思い切り派手なアイディアでの勝負。
 コレクションを見ている時は驚きもし、凄いと唸ってしまうまでのもの。しかし、その驚きが
後に引かない。即ち、ショックは感じるが余韻は残らないまでのコレクションになってしまう。
 ワンシーズンのメディア受けを狙ってのアイディアで勝負。それがビジネスへ反響を与えれば
それで良しとも読めてしまえるまでのコレクションになってしまった?
 展示会へ行くと成る程と言うアイテムとインナー、ニットものに着てみたくなるのもが多く
あるのだが、ショーだけを見てしまうとそのインパクトだけで勝負している感じが強くなって
来た。多分、『創造のための発想』にかける時間の配分が変って来たのだろうか。
或いは、「売れる」モノ作りへ移行?

 DIOR・HOMMEの来シーズンからはエディ・スリマンが契約切れ。
クリスにも話が来たが彼は今、自分のブランドが好調でその気なし。
結局は、もう一度エディが? これも総てメディア戦略としてのシナリオ???
文責;平川武治:
初稿/2006-08-21記:

投稿者 take.Hirakawa : 00:36 | コメント (0)

2006年8月17日

"The LE PLI" ARCHIVESー14 」/「消費社会と言う微温湯」文化?あるいは、低温火傷状態? (『DISCIPLINE会/8.11』のデジュメ-Ⅰより。)

「平川武治のノオトブログ;"The LE PLI" ARCHIVESー14 」です。
今回は、初稿は”2006年8月11日に行われた、「The Le PLI 会」のデジュメです。
タイトルは、評論「君たちは自由かい? そのための自らの、スタンダードは持っているかい?!”」
ー戦後60年と言う、「消費社会と言う微温湯」文化?あるいは、”低温火傷”状態?
初稿/2006-08-17記。

文責/平川武治:

  0)はじめに;
       『こんにちは、君の体調のその後は、そして、ご機嫌は?
 不条理に訪れた,「COVID-19」によるこの現実世界も1年が経った。
決して、刻を戻すことができないが如く、「元の社会」へは戻れない。
ゆえに、ポジティフな可能性が満ち溢れている今年であろう。
 特に、若い世代の人たちにとっては、叶ってもない好機な1年になるでしょう。
「リアリティ」+「イメージ」+「ヴァーチュアル イメージ」と言う今までにはなかった
「三位一体」と言う新たなコンテンツによって、「新しい日常」が求められる時代性になった
からです。
 「モノで世界は出来ていない。」と言う根幹意識に目覚めれば、戦後の「消費社会文化」から
抜け出せ、それぞれの「新しい日常」に生きることが可能なのも「COVID-19」後の、これからの
新たな可能性でしょう。
 本評論が書かれた、2006年と言う、15年前とは、やはり、戦後の「大衆消費社会」構造が
グローヴァリズムと共に、より拡大化し、現実に反映した時期でもあったでしょう。
 モードの世界も当然、この時代観が反映される。
俗にに言われ始めた、ワールド ワイドな”ラグジュアリィ ブランド"と言う「資本の力」を余す
なく見せつけ始めた時代でもあったでしょう。
 現在のモードの状況と比較して一読ください。
 
 1)「君たちは自由かい? そのための自らの、スタンダードは持っているかい?!”」;
 ――今回の巴里や、アントワープでのモードを見る限り、今後のモードの世界もやはり、
[総てが権力と金次第]と言う傾向が読めてしまって、本来の精神的な高揚もパッションも感じ
られないままに[これでいいのだろうか?]と言う思いの儘が残ったのみ。

 エモーションと言う言葉だけが独り歩きしてしまう。
クリエーションと言う言葉もただ、既に”記号化”されてしまったように、

 やはり、時代が変ってしまったのでしょう。
その時代が変ったとは? 社会の物質的豊かさの終わりなき蔓延化と一方でのハイ・テクの社会
環境化それに、新しさの不透明さと人間が生活するための本意とその心の在り方の傲慢化が時代
を変えてしまった。そして、モードの世界も時代の変化後、この状況を一層、表層のみの、競争
経済のための合理化へと導くただの消費財でしかなくなってきているのでしょう。その消費財に
消費力をつけるためのショーはちょっとうがった比喩でドラッグに例えて言ってしまえば、
「クラック」か「スピード」のレベル。決して、その余韻が長く何時までも残るような上質なもの
ではなくなってしまったまでの観。
 丁度、1シーズンと言う時間とその間にどれだけメディアを騒がせるイメージに委ね、その勢い
に乗ってのビジネス効果を計算してしまったものづくり。そのための表層的な「ZAPPING/
ザッピング」の勢いある”パッと”さしか感じられない。それを派手さと凄さと速度で料理。
 そこには残念ながら本当に僕たちが乞い始めた「エモ-ション」は不在。
たぶん現代社会にかつての「ロマンチィック・イデオロギー」が消滅し、これらさえもただの
バーチャルな世界での『ロマンチック』になってしまった現代の日常観も原因でしょう。
 
 今まで可能であった、モードに於ける芸術的作品についてもその表層の物質的価値だけを見る
ような眼差しに変革してしまい、目に見ない例えば、氷山の水面下の”形態言語”など鼻から考慮
しない。益々、眼に見えない高度の審美性は概念的になりそれが証明出来なくてもただ、消費化
されビジネスへと反映されれば良いというまでの方法論としての手段が一般化したのみ。
 当然であるが、芸術的価値はその物質的なるものに在るのではなく、精神的な高度な審美性に
基づいた美意識によって、人々の共感により、その存在価値が見出されるものであるはず。
 もちろん芸術的な作品では作品そのものは物質であるがそれに対する審美性あるいは、美意識
は人間の情動による全機的な価値評価に基づいて存在している筈だからだ。

 たぶん、現代人の大きな欠如していることとは、各人が持つべきはずの、又は探さなければ
ならないはずのあるいは、学ばなければならないはずの”自心”を自由に存在して行くための自ら
の早熟かつ成熟した「スタンダード」であろう。
 この「スタンダード」を鼻っからぶら下げられ、与えて貰い、得られ易いメディアの末梢的諸
情報に多くを又は、総てを委ねてしまった結果の現実化であろうか? 
 したがって、個人のモラル観の不在と不自由さそして、未熟さが現在と言う時代をより、不自由
な没個性な時代にしてしまったのではないだろうか? 
 従って、自信ある経験を回避して自信と勇気なき責任意識不在の中での漂い観でイージーに
(お気軽に)生きていけるだけの「豊かさ」を国家が産み落とし、技術と環境が新たな風土と
しての現代社会を構築し、それに囲われた方がいわゆる「ラク/楽」と。多くがより、多くを
享受してしまった結果なのでしょう。これが多分、僕たちが選択してしまった戦後の60年間の
『微温湯』だったのでしょう。 
 これは、この間のワールドカップ戦の日本人チームの現実やボクシングのタイトルマッチを
見ていると読めてしまった日本メディアによってご都合よく仕組まれてしまっているシナリが
読める、現代日本人が築き上げて委ねている社会構造なのでしょう?

 ここで、皆さんは本当に『自由』を享受して、自分らしく生きることを選択したのでしょうか?
 
 2)おわりに;
 「自心を自心が自由にする。」
好きな言葉です。
 そのために自心は何を? 
人間の存在価値とはこのレベルで考え行動して行きたいものです。
 どうか、ご自愛ください。
合掌。』 
文責/平川武治:モード・クリニュシュェ
(注-①)「自心を自心で自由にする」/
 他と対立せず、自己の独立を意味する”自受用三昧”と言う道元禅の本意の一つ。
初稿/2006-08-17 記:

投稿者 take.Hirakawa : 22:44 | コメント (0)