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"The LE PLI" ARCHIVESー14 」/「消費社会と言う微温湯」文化?あるいは、低温火傷状態? (『DISCIPLINE会/8.11』のデジュメ-Ⅰより。)

「平川武治のノオトブログ;"The LE PLI" ARCHIVESー14 」です。
今回は、初稿は”2006年8月11日に行われた、「The Le PLI 会」のデジュメです。
タイトルは、評論「君たちは自由かい? そのための自らの、スタンダードは持っているかい?!”」
ー戦後60年と言う、「消費社会と言う微温湯」文化?あるいは、”低温火傷”状態?
初稿/2006-08-17記。

文責/平川武治:

  0)はじめに;
       『こんにちは、君の体調のその後は、そして、ご機嫌は?
 不条理に訪れた,「COVID-19」によるこの現実世界も1年が経った。
決して、刻を戻すことができないが如く、「元の社会」へは戻れない。
ゆえに、ポジティフな可能性が満ち溢れている今年であろう。
 特に、若い世代の人たちにとっては、叶ってもない好機な1年になるでしょう。
「リアリティ」+「イメージ」+「ヴァーチュアル イメージ」と言う今までにはなかった
「三位一体」と言う新たなコンテンツによって、「新しい日常」が求められる時代性になった
からです。
 「モノで世界は出来ていない。」と言う根幹意識に目覚めれば、戦後の「消費社会文化」から
抜け出せ、それぞれの「新しい日常」に生きることが可能なのも「COVID-19」後の、これからの
新たな可能性でしょう。
 本評論が書かれた、2006年と言う、15年前とは、やはり、戦後の「大衆消費社会」構造が
グローヴァリズムと共に、より拡大化し、現実に反映した時期でもあったでしょう。
 モードの世界も当然、この時代観が反映される。
俗にに言われ始めた、ワールド ワイドな”ラグジュアリィ ブランド"と言う「資本の力」を余す
なく見せつけ始めた時代でもあったでしょう。
 現在のモードの状況と比較して一読ください。
 
 1)「君たちは自由かい? そのための自らの、スタンダードは持っているかい?!”」;
 ――今回の巴里や、アントワープでのモードを見る限り、今後のモードの世界もやはり、
[総てが権力と金次第]と言う傾向が読めてしまって、本来の精神的な高揚もパッションも感じ
られないままに[これでいいのだろうか?]と言う思いの儘が残ったのみ。

 エモーションと言う言葉だけが独り歩きしてしまう。
クリエーションと言う言葉もただ、既に”記号化”されてしまったように、

 やはり、時代が変ってしまったのでしょう。
その時代が変ったとは? 社会の物質的豊かさの終わりなき蔓延化と一方でのハイ・テクの社会
環境化それに、新しさの不透明さと人間が生活するための本意とその心の在り方の傲慢化が時代
を変えてしまった。そして、モードの世界も時代の変化後、この状況を一層、表層のみの、競争
経済のための合理化へと導くただの消費財でしかなくなってきているのでしょう。その消費財に
消費力をつけるためのショーはちょっとうがった比喩でドラッグに例えて言ってしまえば、
「クラック」か「スピード」のレベル。決して、その余韻が長く何時までも残るような上質なもの
ではなくなってしまったまでの観。
 丁度、1シーズンと言う時間とその間にどれだけメディアを騒がせるイメージに委ね、その勢い
に乗ってのビジネス効果を計算してしまったものづくり。そのための表層的な「ZAPPING/
ザッピング」の勢いある”パッと”さしか感じられない。それを派手さと凄さと速度で料理。
 そこには残念ながら本当に僕たちが乞い始めた「エモ-ション」は不在。
たぶん現代社会にかつての「ロマンチィック・イデオロギー」が消滅し、これらさえもただの
バーチャルな世界での『ロマンチック』になってしまった現代の日常観も原因でしょう。
 
 今まで可能であった、モードに於ける芸術的作品についてもその表層の物質的価値だけを見る
ような眼差しに変革してしまい、目に見ない例えば、氷山の水面下の”形態言語”など鼻から考慮
しない。益々、眼に見えない高度の審美性は概念的になりそれが証明出来なくてもただ、消費化
されビジネスへと反映されれば良いというまでの方法論としての手段が一般化したのみ。
 当然であるが、芸術的価値はその物質的なるものに在るのではなく、精神的な高度な審美性に
基づいた美意識によって、人々の共感により、その存在価値が見出されるものであるはず。
 もちろん芸術的な作品では作品そのものは物質であるがそれに対する審美性あるいは、美意識
は人間の情動による全機的な価値評価に基づいて存在している筈だからだ。

 たぶん、現代人の大きな欠如していることとは、各人が持つべきはずの、又は探さなければ
ならないはずのあるいは、学ばなければならないはずの”自心”を自由に存在して行くための自ら
の早熟かつ成熟した「スタンダード」であろう。
 この「スタンダード」を鼻っからぶら下げられ、与えて貰い、得られ易いメディアの末梢的諸
情報に多くを又は、総てを委ねてしまった結果の現実化であろうか? 
 したがって、個人のモラル観の不在と不自由さそして、未熟さが現在と言う時代をより、不自由
な没個性な時代にしてしまったのではないだろうか? 
 従って、自信ある経験を回避して自信と勇気なき責任意識不在の中での漂い観でイージーに
(お気軽に)生きていけるだけの「豊かさ」を国家が産み落とし、技術と環境が新たな風土と
しての現代社会を構築し、それに囲われた方がいわゆる「ラク/楽」と。多くがより、多くを
享受してしまった結果なのでしょう。これが多分、僕たちが選択してしまった戦後の60年間の
『微温湯』だったのでしょう。 
 これは、この間のワールドカップ戦の日本人チームの現実やボクシングのタイトルマッチを
見ていると読めてしまった日本メディアによってご都合よく仕組まれてしまっているシナリが
読める、現代日本人が築き上げて委ねている社会構造なのでしょう?

 ここで、皆さんは本当に『自由』を享受して、自分らしく生きることを選択したのでしょうか?
 
 2)おわりに;
 「自心を自心が自由にする。」
好きな言葉です。
 そのために自心は何を? 
人間の存在価値とはこのレベルで考え行動して行きたいものです。
 どうか、ご自愛ください。
合掌。』 
文責/平川武治:モード・クリニュシュェ
(注-①)「自心を自心で自由にする」/
 他と対立せず、自己の独立を意味する”自受用三昧”と言う道元禅の本意の一つ。
初稿/2006-08-17 記:

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年8月17日 22:44 | comment and transrate this entry (0)

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