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「東京コレクション速報紙 "LE PLI"」/JFWが主催した『’06~’07A/W 東京コレクション評論』
「平川武治のノオトブログ;"The LE PLI" ARCHIVESー13 」です。
今回は、初稿は”2006年5月に行われた、「東京コレクションの速報記」です。
タイトルは、「JFWが主催した『’06~’07A/W 東京コレクション評論』」
初稿/2006-05-28 記。
文責/平川武治:
◯はじめに、「令和参年正月に考えたこと。」
その一つに、『”モードの世界”も「近代」が終焉してしまった。』と言う結論です。
そして、『”モード評論”の世界も終焉を迎え、これからは「イメージ評論」の世界になる。』
そこでは、『”イメージ”と”リアリティ”と言う”二項対峙の世界観”から、それらに新たに、
『”ヴァーチュアル•イメージ”が加えられた、”三位一体の世界観”と言う新しさ。』
これが、今後の『「モードの世界」コンテンツ』である。
このようなことを考え出した今年の僕の始まりでした。
”COVID-19”時世下では、僕たちの”モードの世界”にも”仮想現実/ヴァーチュアル•リアリテ
ィ”が堂々と、土足で上がり込んで来てしまった。その結果、モード•ビジネスの”構造とルール”
が確実に変質してしまった。
これは僕が以前から発言してきた、「”モードの世界”も、「近代」の終焉が始まった。」
と言う視点が実際に現実化したことと読むべきであろう。
”モードの誕生”も「近代」と言う時代の「新興市民階級社会(ブルジョワジー)」=
「資本主義社会」の一つの「資本」価値として、”虚構”と”現実”或いは、”贅沢”と”普段”などと
言う”二項対立”構造によって誕生した「資本の世界」であった。
この「近代」の終焉は確実に、「諸デジタル器機による、”罤3次産業革命”」の結果であり、
ここには、”リアリティ”と”イメージ”と言う二項対立の世界観へ、新たに”ヴァーチュアル•
イメージ”と言うもう一つの世界像が加わったことによる全く新しい時代とその社会の日常が
始まったと読むべきであろう。
例えば、”モード評論”の世界においても、これも僕が随分、以前に発言していた、「これから
は、”モード評論”よりも、”イメージ評論”が面白い時代になる。」と言い切って、これからの若い
人たちが”イメージ評論”と言う新たな評論のジャンルを目指すこと提言していたそれが、現実に
”COVID-19”がもたらし、実体化し始めたとも言える新たな時代の顔つきになってきたとも読める
から面白い。
なぜ、”モード評論”よりもイメージを評論の方が?
その理由の一つは、「着る人間の体系そのものが普遍であることによる、モードの世界の造形に
は、基本的な”新しさ”が芽生え難くなって来たこと。」もう一つは、「日常生活の”豊かさ”その
ものが、普遍化し始めたこと。」という大きな時代変化(?)によって、モードデザインに於け
る”創造性や奇新性”よりも”在るモノ”をどのようにその時代性に感じさせるかというコンテンツ
による、”アーカイブのヴァリエーション”からの「ザッピングやブリ・コラージュそして、リ•
メイク」という手法が、時の「音楽感」ともシンクロし始めて来た事が、”モード評論”そのもの
の”存在価値や意味付け”を希薄なものにし始めたからである。この変化はここ10年近く前から
じわじわと始まった。そして、ここ数シーズンになると、この動きが「サスティナブル」と言う
ある種、”植民地政策主義的”な「富裕層たちの自己満足倫理観」がこのモードの世界にも正面化
し始めて来た。極論すれば、「使われている素材が”サスティナブル”であれば、創造性が皆無で
も優れたモノ」と言う視点の復活である。
したがって、「モードの創造性」を論じる評論はもうほとんど”ナンセンス”となり、
ここに来て、”COVID-19”によって、従来の”モードのプレゼンテーション”としての「ショー」
形式が変革されてしまった事で確実に、この「近代」によって誕生した「モードの世界」もその
終焉を迎え、新たな時代へ無理やり、押し閉じ込められてしまった。
変わって登場し始めたのが、「仮想空間とヴァーチュアルイメージ」による”プレゼンテーショ
ンの手法”である。そして、そのビジネスの手法も当然ながら、この「第3次産業革命」の諸技術
に委ねられた”ビジネス手法”が、”e-コマース”として主選択された。
ここでは、「近代」と言う時代の「”リアリティ”と”イメージ”の2項な関係性」から、
この”COVID-19”による直接影響として、「”リアリティ”、”イメージ”そして、”ヴァーチュアル•
イメージ”と言う”三位一体”と言う新たな関係性が誕生したことを熟知しよう。
ここでも既に、「近代」は終焉してしまった。
そこで、今後の「仮想空間とヴァーチュアルイメージ」による”プレゼンテーションの手法”から
どのように”イメージ”を読み取り、それらの読み取った、”イメージ”をどのような”リアリティ”
と関係性を意味つけるか、コードかするかが、今後の「モード評論家」が、その立居場所が未だ
あるとすれば、行うべきことの根幹になろう。
従って、僕の発言である『「モード評論」は「イメージ評論」すべきである。』になるので
ある。
しかし、もう既に、日本のファッションメディアにおける「モード評論」の立居場所は無くな
ってしまっているのも現実である。理由は、このような時代になってインデペンデントな思想
あるファッションメディアやサブ•カルチュアー誌が皆無になり、代わって”資本の力”による
”メディア化”の傘下に参入した状況が一つある。従って、「純広」や「タイアップ」次第の御用
記事で盛り付けられた”出版メディアの台所”である。この現実は「ネット上の”ファッション•
サイト”になると余計である。
もう一つは元々、日本における「モード評論」とは?と言う世界でしかなかったことも認めな
いといけない。その多くが、「モード」とその立居場所である”リアリティ”との時代性と関係性
が希薄で論じられていない。持ち得た自らの教養を「モード」と言う記号を使って放言する世界
は決して”評論”とは言わない。
そして、この世界も、”イメージ”を”評論する”と言う、「実態なきものを論じる」と言う
ある意味では従来からの”ユダヤ人”たちが秀た得意とする世界の一つでしかないが、やはり、
「”イメージ”と言う”実態なきもの”を論じ、その結果、”ビジネス”の成果につなげる」と言う
実態構造ともう一つは、「モードの世界」そのものがこの新たな「三位一体」の具現化であり、
”リアリティの一つの記号”そのものになる時代或いは、「NEW NORMAR/新しい普通」である
とも読むべきであろう。
結果、時代が変わろうと、「モードの世界」とは、ヴァーチュアルと言う世界をも含めた、
「虚像の世界」である。だから、現代では「オートクチュールの世界」の方が面白いのである。
そして、" The Fashion is an always in the fake."と言う僕の「モード評論」の根幹に通じる。
文責/平川武治:
初稿/令和3年正月21日記:
今回の”Le Pli ARCHIVES”は15年前に行われた「東京コレクション評論記」です。
再読はただの、ノスタルジアだけではない何かが感じられるでしょう。ぜひ、ご一読ください。
◯ARCHIVE版「東京コレクションレポート By LePli:
はじめに;<”東・コレ”、今シーズン、’06~’07A/Wの”Le Pli”的眼差しは?>
一つの東京的ポイントとして、「カワイイ!!」の進化であろうか?
この思い起こし、考えてみる必要がある、『カワイイ!!』という形容詞が現在のように、
これ程までに日本人の日常語、尋常語となったのはいつ頃からだろうと。
ファッションの目線から思い起こすと、確か、‘92年に宝島社から『CUTE』が創刊。
その1,2年前から、コムデギャルソンの”トリコ”が『カワイイ』のパイオニアたちを産み落とし
その後、『CUTE』と共にこのような新しさを感じさせ始めた、二十歳前のトウキョウ娘たちへ
”ZUCCA”は時代のボキャブラリーになり始め、この『カワイイ』をデザインしブランド化した。
多分、これで『カワイイ』は完全にカッコいい響きとニュアンスを持った流行語として市民権
を持った。そんな、『カワイイ』は僕たちの日常生活の気分感を感じ解く、依然重要な
『キーワード』なのだと再感する。外国で生活していると日本から訪れるその殆どの人たちが
唯一、『カワイイ!』だけで殆どの感情表現を済ませていることが不可思議に、奇妙にさえ感じ
てしまう経験が多い。
彼らたちの感情を表現する手段としての言語は、コミュニケーションの時代なのにその実態と
してのコミュニケーション・ボキャブラリーそのものが単一化し始めているという現実。
あるいは『言語のユニフォーム』化現象の始まりなのか?
今シーズンの”LE PLI”の眼差しは、この「『カワイイ』が日本のモードにどの様に影響を与え
ているのかまた、与えられているのか?」そして、「どの様な感情表現のためのボキャブラリー
として使っているのか又は、その時、感情は存在しているのか?」という『カワイイ!観』を
今シーズンの”東コレ”で感じ、読んでみたい。/”Le Pli” 編集責任:平川武治:
1)「確実に、この東コレも新たな“主役”交代のシーズンを予測させた。」
「もう、これ見よがしなノリと派手、悪趣味・オミズ嗜好な、オツム空っぽファッション
ブランドは“二流”へ!!」
15年程が過ぎたこの国民的「カワイイ!!」も時代と共に変質変貌し始めた今シーズン。
等身大的人間のおおらかさを伸びやかに謳歌し始めた新たな[カワイイ!!]の登場。
これは今シーズンの東コレの本質的な新しさの一つでしょう。
結論を言ってしまえば、『その大半が、ニュアンスの表現が幼稚で大味な作り手に成り下がっ
てしまった。』
具体的には、細部のディーテールのデザイン・バランスが大味で無意味に取って付けた程度の
バランス・デザインそして、固まりとしてのアイディアに頼った無粋な表現または、成金悪趣味
的な所謂、デザイナーたち個人の”お水っぽい”感情表現の日常化が、彼らのレベルでの美意識
(?)での”着せ替え人形ゴッコ”即ち、”それぞれの「バービー人形」化”しただけの表層的なる
デザイン・コレクションが大半であった。
これは”メディア-ウケ”を狙い、メディアに左右された所でのそれらに対する形容詞がお決まり
の全て、『カワイイ!!』語で処理してしまえるまでのある種、無責任なデザインと観客。
いつの間にか、個人の大切な感情表現を「カワイイ」の一言で済ませてしまっている我々、
日本人の多くがもしかしたら、それぞれが持ち得た感情のニュアンスを表現出来ずに、又は感じ
ることに億劫さと複雑さそして、無表情さや臆病ささえを持ちえてしまった国民性の現代なので
はないだろうか?
とまで言えるような疑問をやはり、この東コレのデザイナーたちの発表コレクションからも
伺えてしまう。当然、なんでも『カワイイ!』環境の基に生活しているのは何も消費者だけでは
なく、作り手でもある、デザイナーと称される側の人たちの環境と日常性も同じである。結果、
かれら達が『それぞれのバービー人形』での着せ替えゴッコとして表現した今シーズン。
そして、幾つかの大きなブロックに分かれてしまった所詮、彼らたちのレベルでの『バービー
人形』志向の『カワイイ!』観の現われでしかなかった”東コレ”。
イメージの上塗り作業、CADによって誰でもが作れる(?)美意識の低い過剰意識における
成金的品性なき装飾性の『カワイイ!』と自己満足によるアイディアだけで先走ってしまった、
ちょっと捻った『カワイイ!』。それに、まるっきり無節操にマーケットのみを意識した日本の
上得意であるO.L向けは「デパ・コレ」派『カワイイ!』。そして、流行としてのリメイクもので
カッコいいと煽っている『カワイイ!』元ウラ原系から古着屋系まで。
今後、注目されてくるだろう”ポジティフ・オタク”な、ちょっと文化系な「カワイイ!!」。
そんな幾つかの『カワイイ!』を素材にスタイリストが加わっての、これを見て下さいと言わん
ばかりの時代への問題意識たるや希薄なスタイリング・ショーが今シーズンの東コレの結論。
結果、”東コレ、9つの原罪”は先シーズンと殆ど変らず、
「時代先取り観なし。知的さは殆どなく、アート観なく、エモーション少なく、従って、自由さ
が感じられず,文化の香りは間違っても感じられず、現実味が無く従って、全体が面白味も無く、
それでいて上代が高すぎる。」
これらの幾つかを既に、スタンダードとして持ってしまっている育ちしか見えなかったメゾン
が多かったに過ぎないこのシーズンの「東京コレクション」でした。
結果、確実に、この東コレも新たな“主役”交代のシーズンを予測させた。
2)「東コレを所見してしまった、世界のトップジャーナリストの目線とは?」
これは今シーズン主催者側が招待してインターナショナル・ヘラルドトレビューン紙の世界の
トップファッション記者、スージー・メンケス女史に見てもらったら良い評論を書いてもらえる
かもという悲しい性の元にJFWサイドが今シーズンのトリに据えたドレスキャンプの彼女のレポ
ートに的確に見られたから面白い。この短い文をご紹介しておこう。
「Dress camp's wild show followed in John Galliano's footprints.」
「本物」を見て知ってしまった人、何がモードかを知っている人たちにとっては所詮、
”いかさまゴッコはいかさまゴッコ”。これが現在、東コレの世界レベルの眼差しでしょう。
彼女も精一杯に旨くそつない単語を使って書いています。”日本メディアが騒ぐ、無理な集客力
があるでも、やはりコピーはコピーの世界。”と言うモードを見る彼女の気骨。
ジョン・ガリアーノは知的センスと途方も無い自由さの発想力による創造性が彼の先ず、
スタンダードに在っての彼の世界。表層を追っかける所謂、日本的オカ•サーファー(時代に乗っ
かるだけ)。ファッションD.J.レベルでは教養も品ある贅沢さも感じられない、全くの桁違い。
『スージーさん、今シーズンはジョン・ガリだったかもしれませんが、先シーズンはヴェルサー
チェだといっていたフランス人が居ましたよ。その前にはサン・ローランもやった事が在ります
よ!!古い、器用なデザイナーなのでしょうね。』
この彼女の3月28日付けのインターナショナルヘラルド・トレビューン紙では今までの彼女の
経験と関係事実から”一生グループ”のA・ポックとCdGの新人ブランドのTAOを大きく取り上げ、
コレクション関係では”YAM YAM”はパトリックがロンドン出身のためもあってだろうか、
あとは”THEATER PRODUCTS”を評論記事的に書いたのみ。さすがにこの英国人モード評論家
の冒険心と反骨精神と問題意識を美的に刺激するまでの東コレ・ブランドは皆無だったのだろう
か? (いずれも、ロンドンからみ、”St.Martin校に関係あるデザイナーが選ばれると言うそつの
無さと強かさ。)もう、彼女が好きなあのUNDERCOVERがパリコレで見せているレベルの魅力
的挑発的反骨精神を持ち備えた後発デザイナーは見つけられなかったのだろう。
バイヤーたちは売れるものを嗅ぎ付けて買うのが仕事だから其れなりの物を探しに何処へでも
行くし、来たとしても当たり前。
海外のジャーナリストたちはわざわざ自分たちのコストを使ってまでも”この地へ”、この
コレクションを見には来ないであろう。見に来る必然性や興味が、余りにも「Far East」 過ぎる
からである。招待されてこれだけのリアクションしかないのが現実のレベル。
3)「”東コレ的ブランド”とは?あるいは、”東京デザインとは?”」
===”客入りがいいから、ノリがいい、オミズ系とその筋の芸能人が来る”だけで今シーズンの
トリになってしまう”ブランド???。
「東コレ的ブランド」とは、客入りがいいから、ノリがいい、オミズ系とその筋の芸能人が
来るだけで今シーズンのトリになってしまった”DC” が余計に惨めにも見えてしまう。
誘うほうの思惑もそのレベルなら、誘われる方も大いなる勘違いとケチな下心だけでやって
しまうまでの品格の無さはこれも現在の東コレを象徴しているだけ。
彼らを大いなる勘違いへ、”豚もおだてられれば木に登る”までに勘違いをさせたのは2年前の
『毎日ファッション新人賞』であろう。この年ではこのブランドが貰っていい賞は”モネシャンド
ン賞”で十分だったはず。
自分たちの本業である、プリント素材をプロパガンダする為のある種の不純さとヒネ具合を
持ってスタートしたテキスタイルデザイナー、10年来のブランド暦であり既に、其れなりの企業
形態になってしまっていたこのブランドはこの”新人賞”受賞後、すぐに三井物産との資本提携を
もくろみ見事に成功してしまったこの世界での一つの”サクセスストーリーブランド”と化した。
他に、苦労して小さな未企業形態で1枚のカラーコピーも思うままにならないで自分たちの世界
観を丁寧に上質に創造しようと励んでいたインテレクチュアルな小規模なブランドも多々あった
はずであろうが???
ここでは、日本の「ファッションメディア」と称する人種たちの未熟さとでも言おうか、
センスのなさしか窺えないお粗末さであろうか。
例えば、この審査をした女性審査関係者たちは実際にこのD.C.の服を試着して審査をしたので
あろうか?
何故かと言うと、このブランドはこの時期まで完全に着る女性たちを美しく見せるための
「分量のデザイン」即ち、「バランスをデザイン」する事が殆ど皆無であったはず。
このデザイナーの育ちが90年代初めに文化服装のメンズ科を卒業。従って、パターンメイキン
グが出来ない。卒業後、同窓生6人で合同ショーをしている。当時、呼んで貰って行った僕の目
では彼の作品は只のスタイリストショーに過ぎなかったのを憶えている。
以後、プリントデザイナー、即ち平面CADデザイナーでしかなかったこと。従って、いつも
ヴィジュアル的な発想でしか服が作れて居なかった。自社のプリント素材とフリルと厚手素材の
足し算でバランスを逃げた見た目のデザイン。だから、ショー時がこのブランドレベルの最高表層
イメージの世界。(その多くは芸能人向け御手軽撮影にそのレベルのスタイリストたちが”派手・
見栄えする”が故に、使ってメディアうけしただけ。)
実際に、このデザイナーの服を買って女性が試着すると”品あるバランス”が取れたデザインが
出来ていなかった。これが僕の理由である。
又、現状ではこの賞、『毎日ファッション新人賞』自体も今後、継続して行くのならその在り
方を再考しなければ、今後余計に、かなりの無理があるだろう。
ここから確実に、日本の現実の”東コレ・レベル”が「ノリと観客動員数とオミズ的芸能界志向
へ。」そう、水の流れと同じように、『高きから、低くきへ流れるまま』になってしまった現実
を感じてしまうのは筆者のみか?
4)「東コレで見る”カワイイ!”の進化とは?」
最後に結果、ニュアンスのデザインが大雑把になってしまったデザイナーたちや、彼らたちが
作りましたと見せる東コレでの新しさはやはり、この時代になっての[カワイイ!!]が新陳代
謝し始めて来ている事である。多分、15年程が過ぎたこの[カワイイ!!]も時代と共に変質
変貌し始めたのも今シーズンの東コレの本質的な新しさでもあろう。
”POTTO”,”mercibeaucoup”,”Ne-net”,”MINTdesigns”それに、”myein”などがこの
「トウキョウ・新・カワイイ!!」ムーブメントの起爆ブランドだろう。
彼らたちのデザインの中から読み取れるコードは、[スタンダードが備わった人間としての、
自由さ、おおらかさ、それに、ナイーフさも忘れてはいけないし、ユーモア、アイロニーそれに、
周りに振り回されないつよい自我と自分たちらしいリアリティとゆとり、それらをポジティフに
組み立て構築して行くデザイナーの等身大的知的さとニュアンスでデザインされているポジティ
フ・オタクなコーディネートファッション]である。
”TRICO”,”ZUCCA”,”JUNYA”,”TUMORI”,”I.S.”、”TOGA”,”MINA”等の先輩デザイナーたち
のルーツがここにあることを忘れてはいけない。
5)「東京の路上に花咲く”自由さ”と言う”カワイイ!”が凄い。そのリアリティを感じろ!!」
終わりに、デザイナーと称する人たちによって作られた服が大味になってくれば、路上を闊歩
する彼女たち所謂、”年頃の眼差し”、真剣なおしゃれに対する心と自由さのニュアンスが
「カワイイ!」着こなしに伺えるのが多分、一番の「トウキョウ・ファッション・リアリティ」
であろう。
彼女たちは日本発のファッションカタログ誌で毎日、毎日学習して来た賜物であろうかまた、
10数年前に初めて、この彼女たちの学習結果を堂々と紙面に組み込み「街・スナ」という造語を
生み出すまでの、ストリートでのナマのおしゃれ感度をページ化し編集し紙面化した[CUTIE]
誌以降のトウキョウ・ファッション・メディアが敢行した独自性の”マチ・スナップ”と称される
「功」も忘れてはいけない。街角で出会う、重ね着を一生懸命、上手に自分流にスタイリングし
コーディネートして十分に楽しんでいる彼女たちの等身大的リアリティを東コレ・デザイナーた
ちはどの様に学んでいるのだろうか?
実際には、いつも東コレ・デザイナーの先を走っているのが彼女たちの”トウキョウ・リアリテ
ィ”でしかない。
この現実を読み、学び、謙虚さが見られないデザイナーたちはもう、既に終っているだろう。
6)「そんな東京の”路上”を魅力とせず、海外へ飛び出した連中は?」
今シーズン、気が付いたことは海外で好きなファッションを学んだ人たち、帰国デザイナー
の幾人かは地味だが、確実な彼らたちの世界の進歩は今後の日本のモードをどの様に本当の意味
での『インターナショナル』なレベルへと進化さすか迄の面白みを持っていた。
彼らたちはコンセプトが作れる。それを然りとした自分の作品に3Dデザインできそして、
そのコンセプトからのイメージングでインテレクチュアルで、よりエモーショナルなプレゼンテ
ーションが出来ていることが彼らの強み、後はどれだけ”着てもらえる服”がデザイン出来るか?
本来の創造性には「東京的なる芸能界的小さな嘘の上塗り」は不要な世界を目指して、彼ら
例えば、アントワープからの瀬尾英樹君(現在、日本人初のA・アライアの所でスタージュ)
セントマーチンそして、イェール フエスティバルからの”インダストリアル・カテゴリー”の
横塚和幸君そして、10年住み慣れた巴里より帰国して群馬県の実家でデザイン活動を始め、
自分たちのルーツを再確認し始めた、”TAGO”などは気をつけよう。
文責;平川武治:
これは『Le Pli 2006春号』より抜粋。今回のLe Pliは5月末発売予定。
各メゾンのコレクション時評は本誌でお楽しみください。
初稿/2006-05-28記:一部追記/2021-01:
投稿者 : take.Hirakawa | 2006年5月28日 02:59