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『L'Orient des femmes vu par Christian Lacroix 』展を見る。

 25日、M.John Gallianoが顰蹙を買った日、
僕は夕刻までMusee du Quai Branlyでこの2月の初めに掛かった展覧会
『L'Orient des femmes vu par Christian Lacroix 』展を見て興奮をしていた。
 
J.ヌーベルの建築で巴里では一番新しいミュージアム。
しかし、新築当時の評判はいったて悪かったこのミュゼも
その後、2年足らずで改装をしてより、見やすい導線と展示方法に代わり好評になる。
所謂、民族博物館である。常設展はアフリカ、オセアニア、南米、東南アジアの
民族学的な立場からの収集品の展示。“クンストカマー”
そして、強く言えば、ポストーコロニアリズムの威光。
しかし、その収集量と展示方法が優れていて大変いい。
ゆっくりと廻ると面白い発見と好奇心が湧くところ。(是非、お勧めである。)

 このミュゼでM.Christian Lacroixがキュレーション役を引き受けて
オリエント-シナイ半島と北アフリカの各國の女性たちが身につけていた
民族衣裳のカフタン展が特別展として掛かった。
今、一番ニュースな地域のそれぞれの國の古いものは16世紀から19世紀末、
20世紀初頭と現代のものまでが展示されている。
僕たちのような異邦人が見る機会としてはとても貴重な展覧会であった。
それらの民族衣裳はやはり、アジアのイエローが掛かったものであるが
ヨオロッパでもなくアジアでもない面白さと特異性が勉強になった。
民族衣裳であるからシンプルに、シンボリックに
そして、気候や働く動作,立居振舞の為の機能性が考慮された上に、
適度に高度な装飾が民族色豊かに,自分たちの民族の誇りとクラスを
表すまでのそれぞれ民衆のこゝろは入った器用な細工と
ゆったりとした時間の流れの中で縫製され成し遂げられた衣裳である。
現代と言うこのような時代に在ってはとても新鮮であり、モダンでもあり
何よりも、着るものであるから着る人のこゝろをまでも
心温めてくれる世界が感じられるものばかりで幸せにもなった。

 中世以降後のキリスト教の教義からも、自然を信じなかったヨオロッパ人たちの衣裳とは
極論すれば、”肉で着る服”である。
即ち、身を総て覆い隠し自然から身体を守るというまでの
発端と発想で出来上がった服の出発点。
又,白人たちは狩猟民族が祖先であった事から或る意味で、
いつでも戦えるまでのものとして身に付けるという発想も読める。
 しかし、アジアやこの地域の人たちの自然との関わり方はそれぞれの宗教観も在るが、
出来るだけ自然に添って生きて行くと言う根源的な発想の違いが在る。
今的な言葉を使えば、自然環境とどうして共存、共棲して行くか?
そこに生活の根幹が在りその為の着るものであり、纏うものである。
僕流に言えば『育ちのボキャブラリィー』が西洋社会の白人たちと自ずと真っ向から違う。
従って、日本やアジア圏の民族とその昔、オスマントルコが大帝国だった
オリエント地域の民族たちが着る服は“骨で着る服”である。
即ち、肩骨と腰骨で着る出来る。(この事は以前も書いた事がある)
着物も、中国服もチベットの服もそして、カフタン系もみんな同じように、肩で着、腰骨で縛る。
オリエントの民族衣裳はその宗教も同じように、基本形はトルコ生まれのカフタン。

 強いて、デザインと呼べるものはその時代の階級者たちを表す為の布地の選択と
職人たちによる技巧在る細工仕事の事である。
即ち、袖の形状と長さ、首周りの大きさと形状、そして、胴回りの大きさと形状
それにそれぞれの箇所に施された各種の装飾性の事である。
この装飾も総ては、織り、染め、刺しそして縫い付けると言う行為で施されているものだけである。
後は分量のバランスがデザインされている。この分量、ボリューム感の違いは
大変に面白く感じたし、それぞれの國の女性たちがその地域の風土に合わせて
分量の取り方がデザインされている。又、この分量の違いによって、
着方が違ってくるのだ。例えば、分量ある大きな袖へ袖を通してから
今度はその袖布を頭からフードのように廻して被り、着ると言う
あのTHINK-BIGがウリのヴィヴィアンおばさんでさえびっくりする程の
素晴らしい、自由な発想のカフタンも在る。
もう一方で大事なのはどの素材を使うか?
絹、サマーウール、綿、麻の自ずとベーッシック天然素材である。
これらが基本定形であり、最小でありかつ、最大のシンプルさである。
是、即ち、ミニマリズムである。
しかし、それぞれのお國がらと自然環境と日常生活の違いによって
上記の分類のデザインが施され、変化と特異性を即ち、人間性を構築している。

 ”民族衣裳もユニフォームである。

 今回のこの展覧会でこれだけの展示を見せて頂いた2時間程は、
僕は又、新たな事を学び、感じ好奇心が豊かになった。

 来週からコレクションが始まるこの街で繰り広げられるモードとは
去勢された人間たちの間違ったバニティな饗宴でしかないのだろうか?

 だからあんなにも才能豊かだったJohnが、人の何十倍ものエネルギィイを20年間もすり減らしてくれば、
挙動不審な男にしか見えなくなってしまうのかも知れない。
恐ろしい業の世界でしかないのは変わらないであろう。

 ありがとう、M.Christian Lacroix:

 記/
 Musee du Quai Branly
 『L'Orient des femmes vu par Christian Lacroix 』展
 〜5月15日まで。
 併せて、
 『La Fabrique des Images』展も是非見るといい。
 〜7月17日まで。
 http://www.quaibranly.fr/

  
 『人類は全体として、どうも間違った尺度で物事を計っているのではないだろうか?
権力、成功、富等を求め、それを獲得した人を賛嘆する一方では、
人生において本物の価値があるものを
過小評価しているのではないかと言う印象を持たざるをえない。
ただしこうした一般的な判断では、人間そのものの多様性と、
人間の精神的な生活の多様性を忘れてしまう危険が在る。』

 これは晩年のS.フロイドの著書、『文化への不満』からの引用です。
彼がこの著書を書いたのが1930年でした。
以後、80年間で何が変わったのでしょうか?
人間性は進化したのでしょうか?
 僕はこのミュゼヘ出掛けて、改めてこのフロイトの言葉を思い出した。

 そして、『僕たちはイエローです。』
ありがとう、
相安相忘。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2011年02月28日 04:10 | comment and transrate this entry (0)

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