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『モードを語るとは,モードを評論するとは?』

『モードを語るとは,モードを評論するとは?』
その-壱;”成熟”を拒否し始めた日本人たちへ。

 先日、友人から一つの詩を送って頂いた。

『 ぱさぱさに乾いてゆく心を 
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが  ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ 』

 既に、ご存知の方も多くいらっしゃるだろう。
これは茨木のり子さんの詩,「自分の感性ぐらい」である。

 僕の経験から、自分が為す行為とは
すべての事は自分のこゝろの有り様から誕生,甦生する。
従って、自らの行為の総ての起承転結とは
自分から始って自分へ帰する事である。
と言う事は、
自心の質の深さと自心の器量が自分自らの行為の本質であり、
その責任所在が実態であり
総てに、この”調和”が必要必然となる。

 物事には総て目的が有り、それに一番適した方法が有るはず。
それを捜してやる事が人間が出来ること、それを”行為”という。
そのために頭を使う事が出来るのも人間。
そのために習性だけで行なうのが畜生。
しかし、考えてみると、どちらも大切。
習性には知恵が働いているからである。
この二つの”調和”が必要、大切であり、こゝろの有り様の姿。
この自分らしい調和を豊かさと言われ、個性と言われる。
人間が為せる行為とは自分のこゝろの有り様から発せられた
この目的に見合った”調和”でしかない。
この調和には自由と勇気それに、決断心が必然でもある。(つづく、)

 茨木のり子/http://ja.wikipedia.org/wiki/茨木のり子
夏の終わりの兆しを運ぶ雨の彷徨いを聞き乍ら、
合掌。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2011年09月02日 21:59 | comment and transrate this entry (0)

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