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LEE BUL展を見て、
久しぶりに盛り美術館で開催されている展覧会,LEE BUL展を見せて頂く。
その前に、”アーチストトーク”と言うイベントにも参加させて頂き
この作家自身の作品説明も聴く機会を持った。
そして,この展覧会を見ている途中から,
川久保玲との比較感が僕の眼差しに取り憑きはじめた。
’64年生まれ。韓国においては未だ”朝鮮戦争”の残り火が始末されていない時期,
作家自身がご自分の生い立ちを何よりも彼女の創作活動の基幹に置いていることを
話されてその深みが理解出来る。
自分が捜し求めた”立ち居場所”が“育ち”とその”時代状況”が祖型である事の強みを彼女の作品群から感じる。
この”立ち居場所”ヘの育ちは,ファッションの世界のデザイナーたちとは違う育ちである。
やはり,所詮ファッションの世界は言って見れば,下世話な”業界”の世界である。
従って作品の創造に於いてもその最終目的は金権資本主義のルールに基づく。
現在のあの,力強い創造性豊かな川久保玲の世界と存在も然りであり、
”企業コムデギャルソン”に発して,帰するしかない。
従って,”ファッションはアートではない。”と言う,自説の確認的行為としての展観でもあった。
自国でもやっていない,20年間のこの作家始めての回顧展である。
この間の作品群に当然であるが,確りとしたポリティカルな彼女のこゝろの有り様が
その時、その時の彼女が生きているリアリティと時代から感じたものに振れて作品に煉り込まれていること。
その時にからなず、自分の育ちと国家と言う関係性からインテレクチュアルなコンセプトを導き出して、
そこから、造形の姿としての創意工夫が深く為され、
次に、必要なまでの女性的なるこだわりで、マテリアルにこだわっている事
そして、常に、”作品”をいつも、如何なる方向からも見つめ直しつつ
次の作品へ昇華させる集中力と努力の集大成がそれぞれの作品になっている。
このリアルで,インテレクチュアルなポリッテクコンセプトが
決して、ネガティフなイメージを造形化せずに、
寧ろ、ポジティフな造形への創意工夫の深みとマテリアルにこだわる執拗さと
彼女自らが見つめ直す眼差し、それを次なる作品への連続性へと展開して行く行為に
凄いものを感じる。と言う事は作品から受けるパッションがそれなりの深度を持っていると言う事である。
その深度によってそれぞれの作品からの感動の振幅も違って来る。
唯、単に、フェミニズムという表層の流れ以前の彼女自身の育ちと、
彼女の國に対する非常にピユアーな愛国心から生まれた正義感が、
ポリティカルなこゝろの有り様となって強さを生んで出来る作品群。
中でも,”Cybersex"、”Cyborg”と”Monster”の発想と捉え方に興味を持った。
決して表層的に所謂“アキバ”的時代感を捉えているのではなく
自分の作品にしてしまう強力なコンセプトとその情報量を持っている。
見られ方としての空間に落とし込む際の集中力とバランス感も空間創造と照明も含めてまとまっている。
“しろやかさ”と言う言葉は無いが,そんなニュアンスで表現したくなる様な“白”い空間、
悲しみと喜びの両義性を感じる此れも韓国と言う“NATION IDENTITY" を感じるまでの”白”であろうか。
綺羅め,煌めく生命の破片、生き様の破片、自心のこゝろの有り様の移ろいの破片群が
無数に散らばっていたと言う感想そして,深く厳しい優しさを洋々と感じもした。
もう30年以上も昔の事になるが,
当時の初期のコムデギャルソンのフロムファースト店の新しいショップ、
白いタイルと整然と列んだ目地による空間を思い出させる様な作品と出逢った。
作品は古くなったタイルと割れが入った目地の床,浴槽に面々とはってある黒い液体、
或る意味で僕には不気味さを呼び起こした作品だったが。
川久保さんはこの展覧会ヘ行かれるのであろうか?
見に来るときっと,疲れ,苛つかれるであろう。
だから来ないであろう。
この苛つきがきっと,彼女の”カルマ”であろう。
相安相忘。
文責/平川武治:平成二十四年二月六日。
投稿者 : editor | 2012年02月16日 14:11 | comment and transrate this entry (0)