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そして、話をモードの世界へ

 『思想なきラディカルは名声を得る事で自己防衛へ廻るだけだ。』

 『その美は人間の欲望、奢侈、快楽、快適さを満足させてくれるものとしてのそれであった
と言えた。つまり、現実的欲求の範囲内のものであった。
 それに対し『自由』と結びついた『美』は現実の欲望を超越し、それとは無縁の地平で
求められるべきものであった。』
『芸術崇拝の思想ー政教分離とヨオロッパの新しい神』/松宮秀治著/2008年/白水社刊より。

 前回は、『アートとデザインの根幹の差異とは?』について述べた。
端的に言ってしまえば人間もそうである様にただ、“生まれ育ちが違う”事である。
どれだけ深く、自心のこゝろの有り様と言うカオスに自由に、本能ある美意識を持って
作品制作の為の“A source of the inspiration”を持ち得るか、その深度であり、そこにどれだけの
”倫理観”が介在しているか?でしか無い。結果、”パクる、パクらない”の世界は倫理であり、
大衆資本経済主義における”広告産業”との関係性が大いにこの“育ち”の違いを露にする。
 だから、また、『アートとデザイン』における造型の違いがそれぞれの世界観を面白く
”作品”として表層化しているのも戦後日本の育ちの悪さであり、特質でもあろう。
 
*そして、話をモードの世界へ
 本来、モードのコレクションとは、個別性としての「個性ある好きなデザイナーの作品」
時代の流行感としての「シーズンのトレンド/流行モノのシュルエットと色と素材」
そして、時代の空気感として、「愉しく、気分軽やかにカッコ良く」あと現代では
時代の特化性として「着てみたい素材が気に入った手法で使われている」。
即ち、モードとはいつの時代に於いてもこれら『個別性』+『流行性』+『空気感』+
『特化性』が根幹であり、それぞれのシーズンへ向けての作品世界を発表する。
ここにデザイナーたちが競いあうべき才能が彼らたちの美意識によって昇華され、
調和ある美しさや快適さを感じさせる服に仕立てられているかを問う世界でもある。
 2000年代迄に多様多感であった、ファッションの世界に於ける「作り手の思想概念」は
対象が”人体”と言う限定と、“豊かさ”というリアリテが肥満化し、
イメージがバーチュアルなデューンへ吸い込まれ、『距離の消滅』が完了。
 以来、その造型性の限界が即ち、此処でも20世紀のコンテンツの一つであった
『あり得るべき距離』が消滅した事により「モードの普遍化」を招き、
もう一方では「モードのグローバリズム」によってその資本主義経済の
ポリテカルパワーにこのモードも殆どが飲み込まれ、気が付くと
『ファストファッション』と言う新たな了解の登場。
 そして、少しづつモードは”過去”そのものが新しさを感じさせる“スロー”な時代感に
チューニングされてゆく。
その現実はただの“Variation of the Archives"が広告産業と化し、コマーシャリズムを
喜ばせるだけの世界になった。これが2010年以降のモードの現在点である。
 従って、ある時期まで存在したモードの世界の根幹の一つであった“新しさ”と
そのための”クリアティビティ”、その一つとしての造型性は“豊かさ”と言うリアリティの中で
孵化された情報量の過剰さによって埋没或いは消滅し辛うじて、その新しさのコードは
使われる素材とその質感そして、それらを処理するべき手技法性に残されてしまっているのが
現在のモードのクリアティビティでしかない。
 故に、モードの世界に於ける行為、”デザインする”と言う事はより、”服”であり、
”消費財”であり得る様になる。
即ち、それなりの”豊さ”を所有した大衆にとっての”ファッション”とは、
『服』=『身体』+『機能』+『時代の空気感』+『ブランドの世界観』+
『ブランドが提案する美意識=イメージング』=『豊かさの満足感』であり、
同時代に豊かにみんなで生きていると言う迄の共有イメージングの集合体コードでしかない。

**もう一つの側面であるビジネスは
 このファッションのもう一つの側面であるビジネスは故に、近年のデザイナーブランドと
称するカテゴリィーの世界も再び素材産業企業が情報発信した『トレンド』と言う
フレームがファッションビジネスの”安全パイ”と再度、なり始めている。
昨今の巴里-プレタポルテコレクションに於いても参加デザイナーの90%程が
この”安全パイ”としての「トレンド」のフレーム内でのデザイン活動である。
コレクションデザイナーでは、I.マラン、ACNE等を始めとする日本的に言えば、
大手資本のデザイナーブランドと巴里サンチェ発(フランスのデパート向けアパレルの俗称)の既製服のブランド、
マージュ、サンドロほか”キャラクターブランド”とそれらのコピーものである
”ファストファッション”の世界が売り上げを延ばしているだけだ。
 では、なぜ、シーズントレンドを素材産業界が発信しているのか?
答えは1年先のビジネスの正に、”安全パイ”としてである。
僕たちが未だ、創造性豊かなブランドだと思い込んでいる多くの世界レベルのブランドも
今、売れていると言われているSACAIもこの素材業界が発信した「トレンド」という
安全パイの中でそれぞれが築いて来た”世界観”をこなしているから売れるのである。
よって、メディアも取り上げるのである。
この現実はファッション産業そのものが何らは世紀前と変っていないという事実でしかなく、
この産業界で誰が一番儲けているのか?の根拠ともなっている。
 僕たちは、その表層の華やかなメデイアに煽られたコレクション=ランウエーの表情に
理屈を付けて、一喜一憂するのがファッション評論と信じているが実は、彼らたち
デザイナーを後で支えているのが素材産業であり、素材メーカーと付属部材メーカーが
一番儲けており次に、デザイナーとそのブランド企業が儲けている世界である。
現在でも、縫製工場は発展途上国に多くあって、双方の利幅の調整機構にもなっている。
此処にも”グローバリズム”故の必然的なるポリテカルな構造の根幹が見られる。
 という事は、やはり此処にユダヤ人世界が俯瞰視されるのだ。
どれだけ、”巴里”でイメージ気高く、ラグジュアリィーにプレゼンテーションを行ない、
レッドカーペットを利用し、広告メディア産業とブロガーたちとの駆け引きそして、
どれだけ”巴里”から遠くで生産してその“距離”性によって新たな儲けある世界を
構造化するかが現在のファッションビジネスのレアリズムである。
 ここには既に、彼らユダヤ人世界が構造化した、開発途上国との関係性が
「21世紀版コロニアリズム/新たなる植民地主義」化されているだけでしかない。
実際この構造によって”ファストファッションが新たに、登場出来たのである。
この現実は近刊書、『ファストファッション-クローゼットの中の憂鬱』を熟読すれば
もう一つのファッションの世界を知ることが出来る。
『ファストファッション』/エリザベス-L.クライン著:’14年7月/(株)春秋社刊;
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2014年9月 7日 04:22 | comment and transrate this entry (0)

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