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倫理観を考えるとき、企業コムデギャルソンと川久保玲の場合は、

『もう少し、ファッションビジネスの倫理観を企業コムデギャルソンから
考えてみよう。』

 ——「例えば、コムデギャルソンはファッションの世界では凄い(?)けれど、
一体、社会の為に、どれだけの事を、何をして来た企業なのか?」
この友人の素朴な質問に、同じ世界に居た僕は考え込んだ。

 前回書いた企業、コムデギャルソンと川久保玲の活動とは、僕の眼差しは、
『結局は、自分の夢への現実から始まりその後は業と会社存続と利潤追求のためだけの
30数年でしかなかった。
 ここに、この『CdGは凄い!!』という根幹があるようだ。
その為に、どれだけの努力ある”虚言”をイメージングした時間とお金と人を
使って来たのだろうか?
 ”人間”としての川久保玲は何処で生きているのであろうか?
どれだけ、日本と言う国の実社会にコミットして来たのだろうか?
この人の実生活のリアリテはもう既に、オープン出来ない構造の元で生きて来てしまっている。
もっと、『倫理観』ある行為が為されてのこの30数年であれば、
晩年、あれほど迄の作品は作らないであろう。と、僕はあの作品群を見て感じる。
 これほど、”富”に恵まれながら、その富をどの様に社会へコミット為さって来たのだろうか?
在るようで無い”家庭”。或いは、”家庭”を必要として来なかった人生。
ただ、自らがイメージングして来た、”世界のトップ-ファッションデザイナー”として
その立ち居場所を堅持するためにのみのこれ迄の人生だったのだろうか?
その為の”企業”であり、“夫”であり、”社員たち”に君臨し続ける努力とがんばり、
その多くは『倫理観』少なき同業者たちからの見られかただけを意識しての今日迄であろうか?
 この様な生き方自体がもう古くなってしまっているのではないだろうか?
今の若い世代に共鳴する生き方だろうか?』
 友人と語り合った普遍なる時間の経過と、その会話だった。———

 この様な発想が出来る。
日本におけるファッションビジネスの世界に於けるクリエーションとはその大半、
約90%以上のデザイナーブランドものは『パクってナンボ』の世界で登場し、
そこで儲け、そこで立場を作り、恰好付けて着た世界でしかない。
彼らはこの世界を『イメージ』だとか『感覚』だとか『うちのデザイナーが言っているから』の
虚業のコンテンツで生きて来た世界であり実業である。
 だから彼ら同業者たちからすると、コムデギャルソンのその全てが『凄い!!』なのである。
『凄い!』と言う言葉がこの世界の挨拶の様なものである事がこれで解ろう。
そう言っておけばこの世界の住民で解っていると思われるからである。
これは編集者は勿論、ジャーナリストと称する人種も皆同じ釜の烏合の衆でしかない。
これでこの日本のファッションの世界が存在するからである。
これは何も、CdGだけではない。
文化勲章を取った一生にしても、耀司にしても他の有名とされるデザイナーの全てであり
彼らたちが吐く「当たり前の”虚言””虚業”」で持っている世界でしかない。
 だから、あの世界観を創造し続けて来た川久保玲、CdGは『凄い!』となって来る。
 僕の立場で言えば、そのフェイクの仕方がどれだけ上手いのか、センスあるのか、
品があるのか、時代感を感じる、人間性を感じさせる迄のものなのかそして、
教養があるのか売れるのかの視点と眼差しで見ていたに過ぎない。
僕が巴里の友人たちに言った言葉、“The fashions always in fake."はその後、僕への距離感が
変った友人が居た事でも理解出来る。 
 余談ながら、あのアントワープのユダヤ人7人組たちも、
’85年に日本へ大使館経由でのショーをしに来たがそのリアクションは散々足るもので
惨めなものでしかなかった。
その時、彼らが学んだのがこの当時の『カラス族』の流行の現実を見せつけられただけだった。
だから、その後のアントワープ派と呼ばれる連中もこの『業におけるMEIZM』が彼らたちの
クリエーションの根幹にもなった。そして、時代性もその様な時代であった。
 そして、ここからの帰国組も『遅れて来た,業によるMEIZM』でしか無いのが
彼らたちの願う世界の根幹である。ここではもう既に時代は先へ動いてしまって、
もう遅れてしまったこゝろの有り様でしかない。
従って、“育ち”とは恐ろしいものである。幾ら『パクって』儲けても、
それなりのブランドに成ればなるほど、結局は“育ち”へ戻り、又、そこからのスタートと言う
繰り返しでしかない。これがこのレベルのファッションビジネスなのである。

 僕が思うコムデギャルソンにおける『倫理観』を考えるとき、
海外のこのレベルのユダヤ系企業であればどのような事を為してその自分たちが置かれた
立ち居場所へコミットするか?である。
この違いの根幹は日本のファッションビジネスと海外のファッションビジネス界の相違でもある、
『宗教倫理』があるか、無いかのレベルの大いなる相違である。
これは戦後の日本人が失ってしまった若しくは、取り上げられてしまった現実と、
この時期の在日系の人たちの新たな社会環境への適合手段として、手のひらを返した
彼らたちのがんばりにも在った結果によるものでもあろう。
 彼らユダヤ系ファッション企業はやはり、『飴と鞭』を上手にスマートに使い分ける。
その為のお金の使い方が『上手なお金の使い方』になり、即ち、自分たちが関係する世界社会へ
どのようにコミットするか、そのセンスと行動と目的が彼らたち世界での”格付け”にもなる。
歴史を持ったラグジュアリィー系ファッション企業も美術館を持ったり、いろいろな催事イベントへ
チャリティ協賛し、エイズ基金や多種に及ぶ基金救済への参加、学校やファッション研究所、
ファウンデーション設立等への資金援助等々を行なっている。
ここに、世界のファッション産業が『文化』の領域へ入れてもらえる根拠がある。
その内容と成果にはいろいろな意見があるが、この根幹はやはり『宗教倫理』へ繋がった行為でしかない。

 では、年商トータル220億円企業であり、2/3日本企業、1/3はユダヤ企業であるところの、
今では世界企業になったこの企業、(株)コムデギャルソンはどのようなこゝろの有り様とセンスで
社会へコミットして来たのだろうか?ご存知であろう、コムデギャルソンは非上場企業である。
所謂“ファミリィービジネス”系態である。
 三宅一生も山本耀司も嘗て、”御三家”と称されたこれら企業も未だに、非上場企業でしかない。
例えば、広島の青果店の息子がその後の事故による障害が被爆であるとされているにも関わらず、
被爆都市広島に何を為されたのだろうか?自衛隊の音楽隊の制服のデザインは為さったと言うのに。
一方では、倒産当時の自己資産が倒産額と同額であったのに、自分の傲慢と怠慢で会社を潰す迄の行為等々。
これらの同業企業に比べればコムデギャルソンは潔い企業である。
だが、その潔さは結局は”自分を守る”事のために、自我と企業存続とのために潔いだけである。
だから“コムデギャルソンは凄い!!”のだ。
 
 以前、僕はこの様な提言をした。
 海外企業の様に、『ファンデーションコムデギャルソン』なりを設立為さって、
今後の日本のファッション産業のモノ作り、素材開発、人材開発と関係開発および、ライブラリィー等を
機能としたファウンデーションを設立為さっては如何なものでしょうか?と。
 これからファッションの世界に”夢と希望と憧れ”を持っている若い人たちのため、
現役デザイナーやファッション学を学びたい人たちのために役立つ知識の集積としてのライブラリィー等の
機関を設立して下さい。そうすれば、今後の企業コムデギャルソンの存続にも一役も二役も
その利用価値と存在価値はあるはずでしょうと。ここには、彼女が好きな、
“人と違った事、誰かがやらないこと”の日本初が誕生する。
そして当然、今後の日本人が世界のファッション界で大いなる可能性と自信が学べる迄の
”イメージ、テクノロジー&スキル”構造のファッション文化機関になり、世界のファウンデーションになろう。
これが今後の日本のファッション産業には必然である。
彼女が収集して来られた本だけでもそれを一般公開する様なライブラリィーだけでもかまわない。
 この発想は『文化は武器だ』を実感して経験し熟知している人間にのみ限られた選ばれた行為でしかない。
そして、今現在の日本人ファッション関係者でこれが現実化出来るのは川久保玲しか居ないと僕は思っている。
 年商の1割程がオーナーデザイナー社長の年収とすれば、川久保玲はかなりの富豪である。
彼女の日常生活が見えない分、彼女は儲けたお金をどのように使って来られたのだろうか?
下世話なレベルで考えて仕舞うといろいろ膨らんで来る。
多分、”自分を守る”=”自我高揚と企業存続”のためと、最近では世間並みに、”健康と美容”のために
その殆どが使われて来ているのであろう。
 独りの人間が当たり前の生活を、彼女が望む様に”潔く“暮らすためには
そんなに多額の生活費は必要ないであろう。
で在るとすれば、どの様に、今後日本社会へコミットするかを
或いは、しないのかはもうそろそろ考える時であろう。
 多くの『コムデギャルソン症候群』なるファッション人間が誕生した。
彼らたちは未だに『コムデギャルソンは凄い!』病に掛かってしまっている。
彼らたち若者に又、コムデギャルソン、川久保玲の辛苦を苦受させるのは可哀想である。
もう既に、そんな時代は終わっている。
 『コムデギャルソン症候群』の若者たちが彼女の様な世界のデザイナーになりたいと望むならば
やはり、ユダヤ人と組まなければならない事は現実である。彼らたちとの関係性を作る事である。
僕でも彼らたちとの関係性を持つことが出来たからこのような立ち居場所が持てたのである。
彼らたちとどの様な”手持ちのカード”で勝負するかである。才能、教養、センス或いはお金、育ち。
 彼女がユダヤ人と組んだ事によって、その後の彼女の世界は全て変革した。
彼女が創り出すとされている服作りにも、そしてそれを売る構造と目的も即ち、
クリエーションもビジネスもそして、メディア対応も変化してしまった。
で在るならば、今後、お金の使い方にも変化が在るだろう。
今後の、ユダヤ系企業としての次なるランクを目指すためにも。
ここ迄、潔き決断をしなければこの様な世界企業へのオープンドアは難しい現実が
この世界のファッション界である。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2014年9月17日 22:41 | comment and transrate this entry (0)

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