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ブルータスSTYLEBOOK 2018 S/S向け原稿草案。『モードにしがみついてきた男の供述書。』

本原稿は、「ブルータスSTYLEBOOK 2018 S/S向け原稿草案」として書き下ろされたものの
全稿であり、私書版「14歳のためのモード論」のプロローグの一章でもある。

『モードにしがみついてきた男の供述書。』
ーーーーーー終戦の気配が漂い始めた頃に生まれたものが、
あの戦後の荒廃期の中から不謹慎さと共に変わらず、「装うことが好き」と言う事を
自分の中に見出して、幾通りもの好奇心と衝動に揺れ動かされながらも、
それにしがみついて来た者の追憶記否、供述書。

「今だから言えることなのでしょうが、
結果、それが何であれ、私の中に何か、「輝くもの」を感じ触れ、触れればそれは、
まず、第1のしあわせだと思いました。
次にはその見つけ出した、私の中の「輝きそうなもの」を恥ずかしさうにつかみ出して、
私らしく輝くようにその想いと共に、磨く事。
そして、時間と想いを掛け、磨きをかける事。
すなわち、感じる事、学ぶ事、喜ぶ事、愉しむこと。
そして、自分の価値観を築くことに費やした私でした。

そうすれば、仲間を見つけられ、時には競い合うこともありました。
私はこれを感じ、これにしがみついて来た事の結果として、今があります。」

“しがみつけた理由の根幹とは?”

「それは、まず何よりも、母の存在でしょう。
私事ですが、彼女はとても上品でおしゃれで自分の人柄を漂わせるお洒落をしていた人でした。
敗戦後の“母独り、子独り”と言う特殊な家庭(?)環境でどのように育てられたかと言えば、
母が装う姿を荒廃した社会の日々に、日常として目にしていたことでした。
今ではそれが当たり前の日常ですが、その当時では寧ろ、異常な非日常の光景でした。
その母の姿は、優しさと共に、喜びや勇気、プライドや責任感、楽しさや嬉しさそれに、
ある時は悔しさや悲しみさえも私は当時の母の粧姿からすでに、子供こゝろに感じ取っていた
のでしょう。そんな母の姿を見かける多くの人たちは決まって、「君のお母さんかい?
綺麗な人だね。」「上品な方だね。」「美しい人だね。」「優しそうなお母さんだね」と
声を掛けてくださっていました。まだ幼かった私にはそれが自慢でもあったのでした。
そして、この感覚はすでに小学校の頃には私の装いの感覚になっていました。
自分が産んだ子供なのに、自分が付けた名前で呼べない母と子。
この母との距離感と関係性が、いまの私と装いにはあります。
だから、私は今の「装い」を評論する立ち居場所を探したのでしょう。
そんな母が選んで着せてくれた私の装いは当然、当時の周りの友達や近所の目からは
浮いてしまっていました。
しかし、私は当時、すでにその目線が与える心地よさや楽しさや嬉しさときには、
ときめきさえも知ってしまっていました。
私の小学生時分はお兄ちゃんたちのお古の“国民服”が一般的でしたが、
私は一度もその様な服を着せてもらったことが無く、私が中学へ上がった時に始めて着たのが
常襟の学生服でした。私はこの学生服を学校から着せられることによって、自分の心までもが
社会の制約の中へ閉じ込められる想いと感覚を今でも覚えています。
私が私らしく装うことを躾けてくれたのが母の存在とその母が自分の体験から選んで
着せてくれた装いだったのです。それは、それしか出来なかった母のリアリティであり、
彼女が出来得た「愛」の一つだったのです。
これにしがみついて来たのが私です。
或いは、この頃では私はこれにしがみつくしかなかった時代と環境だったのでしょう。」

”その後、何に影響を強く、受けましたか?“

「敗戦真近に生まれた私がその後、自分の世界観と価値観らしきものを感じ始めた時
あるいは、自己主張を装いによって生意気にそして、異性を意識するまでに育った頃に、
世間では大いなる味方が誕生していました。それが「VAN Jac.」でした。
そして、「JUN」も知りました。
私は大阪で生まれ育ちましたから、そのあとに「Edward」を知り、そのテイストの違いに
かなりの衝撃を覚えました。だから私は「VAN Jac.」で当時流行した“アメリカン スポーティ
カジュアル”なる装いの洗礼を確実に受けた世代の一人です。
当時は心斎橋そごうの1階に在った、「VAN Jac.」コーナーや梅田に出来た、「Men’sShop」
難波に在った「トラヤ帽子店」の「JUNコーナー」そして、神戸三宮の高架下にあった
「ボンド商会」に友人たちと通ったことも記憶に残っています。この「ボンド商会」の親父さん
からは自分だけの「装い」とはのいろいろなことを教わり一方、「VAN Jac.」の創業者であった
石津謙介氏の大阪時代に母が知り合いだったことから母もこの装いには味方をしてくれました。
もう一つ、私は母の影響でB.クロスビーやF.シナトラ、メルトーメ、S.デイヴィス Jr.等の洋楽
スタンダードを聞いていたのですが、この頃には私は「モダンジャズ」を聞く様になりました。
当時、戎橋と梅田にあった「バンビ喫茶店」や心斎橋の橋詰めにあった「オグラ」に通い始め、
友達も出来“装い談義とジャズ談義“に明け暮れていました。O.ピーターソン,S.ロリンズ、
M.デイヴィスやC.アダレー、J.コルトレーンのコンサートを当時の大阪フェスティバルホールへ
勿論、「装い」を決め込んで、友人たちと押しかけていました。」

”覚えている自分のかっこよさとは?“

「私が「VAN Jac.」を通じて知ってしまった、”装う“事のその楽しさと生意気さは年齢と
時代と共に変化し始めました。アメリカでDacronが発明されて当時の新しい素材が登場した頃、
私も「銀座ヤジマテーラー」でラペルをジャズメンたちに見られたシングルラウンドにした
黒のスーツを仕立てて頂いたことも憶えています。今でも時折、私が着ているものに、
「エドワード」のエポーレット付きのキャメルジャケットがあります。
もう、半世紀以上のヴィンテージものなので、縫い糸がほころびてきていますが、好きで、
かっこいいジャケットだと信じて未だに大切にしています。
私は歳を取っても体型が変わらなかったので、これらのとてもお気に入りのスーツや
ジャケットで好きなもの、良いもの、気に入ったものは大切に、大事に随分長く着ています。
だから、当時、母に買って貰った「VAN Jac.」のジャケットも今も着ています。余談ですが、
私はこの「テーラーヤジマ」のジャケットは当時交際していた女の下宿に忘れてしまったことを
今も覚えているぐらいです。それも、既に20年ほど昔の話ですが。
「好きなもの、大切なものはそのこゝろの想いの分だけ大切に着てあげなさい。」と、これも
母から躾けられた”装いこゝろ“の一つで、”お洒落“とはの根幹を躾けられたと
私は自負しています。」

“おしゃれこゝろの大切さとはなんでしょうか?“

「私の次なる新しい装いのシーンの舞台は倫敦に移りました。
’73年から数年間、機会があって住み始めた都市、倫敦は私の装いの価値観をもう一つ広げて
くれました。私はこの街で「自由さ」という精神が接ぎ木されました。
当時の倫敦は未だ、“ロックとカーナビー”の残り火が燻っていましたし、キングスロードも
輝きと騒がしいさを溢れせせていました。それらの輝きは当時の体制に対する自由の裁量から
発せられたものでした。
「装い」とは一つの才能であること、その才能は自由なこゝろから生まれ、持ち得たバランス
感覚で如何様にもなり得ることを私はこの街で体感しました。
私は気ずくとその輝きの中で新たな自由とは、何であるか、どの様にすれば感じられるか?を
現実の中で体感し、自分のリアリティとして学んで来たようです。
そして、私は本当の「自由」とは現実の中に生まれたものでしかあり得ないという根幹を知り、
それを価値観として身に付け始めました。
もう一つ、当時は未だ、「質素、倹約」がこの国の美徳であった時代でしたから、自ずから、
「古くても好きなものは大切にする。」という心の有様も学び、私の「装い」こころに新たに
「古着」という“宝の山”を発見したのがこの街からでした。
この街での4年近くの実生活の後半はHIGH STREET KENGINGTONにあったマーケットと
その裏にあったアトリエでの「陶芸と古着屋」で生活費を稼ぎそして、スクーリングと音楽と
育児が生活の全てでした。

”あなたが「装い」にしがみ付くことの大切さとは何ですか?“

「結論から申し上げます。私が、私らしく生きてゆくことの一つの証です。
私の中で輝くものが何なのか?それを感じ、それが好きになれば、
その好きなものを現実で探し、見つかれば、それにしがみ付くしかなかったのが私の時代、
私の育ちそのものだったのです。私がこんなに長い間、しがみつけたのも苦しいものより、
楽しい幸せなものの方が、醜いものより、美しいものがその根幹にあったからでしょう。
そして、私以外の人たちにも共有していただけるものの方が良かったのです。

その後、日本社会も豊かさが生まれ始めて、消費社会が誕生した後はこの「装い」も
新たな世代へ広がり、装うだけではなく自分たちが着たいものを作り出す世界が多く誕生し
始めました。私が倫敦から帰国し、上京した時には気がつくと私自身もそんな作る世界の側に
足を入れ始め、しがみつき始めていました。しかし、この時期とはあの「VAN Jac.」が倒産した
時期でもあり、その後、数年で母も他界いたしました。

世間では、「酒の上の過ち」と言う言葉がまかり通っていますが、
私の場合は母が幼い頃から気を使ってくれた「自由な装いの過ち」が勇気と覚悟を与えてくれ、
今の私の立ち居場所を決断させてくれ、私の人生をこのような幸せな流れに導いてくれたと
たいへん感謝しております。」

”最後に、14歳の若い人たちへ「装い」についての一言を、“

「 私のこれまでの経験から申し上げますが、誰のために「装う」のか?
という問いへの答えは、まず、自分自身のため。自身の存在を自分で自由に表現できること。
そして次には、自分が愛する人のため。それが恋人だけではなく、家族や友人たちも含まれま
す。ここには自分が愛する人への想いが存在するからです。そして、出来れば、社会のために
なればもう最高でしょう。この根幹は「装う」ことが持っている自由さと幾つかの価値観、
立ち居振る舞いや身だしなみ、躾などですね。それに、“コミュニケーション”と言う機能が
ある為です。
ここまでお話しすればもうお判りでしょう。私の「装い」には所謂、ブランドやデザイナー
モノへの薀蓄や願望等は殆んど、介在しませんでした。それより寧ろ、「モノが持ち得た
リアリティ」に魅力を感じていたのでしょう。だから私の装いのほとんど全てが自分の古着と
それぞれ訪れたことのある街の古着屋から目に留まった「リアリティが詰め込まれた古着」が
私のワードローブの全てであり、それらと自由に遊ぶと言う感覚での着こなしを楽しむ
「装い」でしかありません。

最後の最後に、私の好きな、第14世ダライ・ラマの言葉に、
“Approach love and cooking with reckless abandon.” というのがあります。
私はここにもう一つ、「装い」を付け加えたいです。
“Approach love, cooking & fashion with reckless abandon.”
ありがとうございました。」
文責/平川武治:私書版「14歳のためのモード論」からのある1章より。

投稿者 : editor | 2018年3月28日 04:01 | comment and transrate this entry (0)

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