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18AW-PARIS・Fashion Weekからモード環境を考察する。/『 ”象徴の貧困”としてのモードの世界とは?』
「モードの環境」と、「ファッション・ビジネスの現場」の新たな時代の関係性を
理解するために。
”象徴の貧困”としてのモード化社会。/18AW-PARIS・Fashion Weekから
「モードのパリ」と言う現場の変革を深読みし、一つの考察をしてみよう。
僕の流儀である、まず結論を先に言ってしまえば、
この様な時代性になってしまった”モードの世界における創造”とは着る人間の身体構造と
生活環境が変革しない限り、「服」における全く新たな造形の創造は”枯渇”してしまった。
この現実をまず、認めるべきである時代性。
次は、このような時代では”創造性”とはどの様なことであるかを認識すべきであること。
では、この様な時代性になった現代の、ファッションにおける「創造」とは過去の創造の
ストック、「FASHION ARCHIVES」を利用する”バリエーション化”あるいは”ブリコラージュ”
と言う手法に取って代わられてしまった「創造的あるいは、装飾的」が現代のモードの
「創造の世界」である。
他方、新たな現実に対応し始めた「ファッショ・ビジネス」の世界は、その”象徴の豊かさ”に
委ねられたモードの世界が”象徴の貧困”化し始める。ここでは「工業製品」である”ファスト・
ファッション”を生み出し、従来のアパレル産業に取って代わり、「SPA型」ファッション・
ビジネスの世界を発展させ、時代の”IT”を味方に付け、”e-コマース”と言う新たな”ヴァーチャル
売り場”を戦力にした世界と生産プロセスにおける多種多様な情報力とその量と速度の高度な進化
によって、”e-プロダクト”と”e-メディア”と言う新たな可能性をも味方にした”象徴の貧困”が
ファッション化されている。
この様な時代性になった時、”作り手否、送り手”であるデザイナーたちはどの様な「価値観」
を携えてこのファッションの世界へ「夢と憧れ」を抱いて来ているのであろうか?
或いは、この”象徴の貧困”のファッションの世界に、どの様な「創造の価値」を心して
デザイナーに成りたいのか?或いは、成っているのか?
ーーー名声、富、ヴァニティーな世界への憧れ、自己満足、自己顕示欲、自己肯定等など???
??? 有名になりたい、金持ちになりたい、デザイナーと呼ばれたい云々、、、、、、、、、
『既に、”新たなる創造なき世界”に何を価値として関わって行きたいのか?』
僕はこの”象徴の貧困”の根幹こそが、そのデザイナーの人間性を問うまでの時代性になったと
感じ始めてしまっています。
*
時代を象徴する一つのプロローグを、
モードを語る前に、既に、”象徴の貧困”としてのモード化社会を認識しよう。
『我々の今日的社会はコントロール社会(管理される社会)と言う調整社会であり、
この様な社会に於いてはバランサーとしての感覚的な武器が必要不可欠である。』
Jeremy Rifkinはこれを『文化資本主義』と論じた。
/参照;「アクセスの時代―Age of Access」/渡辺康雄訳;集英社刊/01年:
例えば、以前読んだもう1冊には、このような一文もあった。
『ハイパーインダストリアル時代には、感受性は執拗なマーケティング戦略攻撃に
晒されているが、その感受性こそが今、紛れもなく起っているあらゆる種類の戦いの争点と
なっていると言う事。その戦いの武器はテクノロジーであり、被害を受けるのは個々のそして、
それぞれの集団つまり、異文化/異民族の特異性であり、今や文化資本主義の下、我々の
消費社会は”象徴の貧困”が果てしなく広がるに至っていると言うことを認識してください。
例えば、武器としてのオーディオヴィジュアルやデジタルと言ったバーチャルな感覚に関わる
技術をコントロールする事が問題なのでありそして、その技術のコントーロールを通じて、
魂とそれが住む身体の意識と無意識の時間までをもコントロールしようとの企てが始っています
ね。それは”フロー”をコントロールする事で”意識と生”の時間を調整する事なのです。』
/参照;“DELA MISERE SYMBOLIQUE 1. L'epoque hyperindustrielle"
By Bernard STIEGLER EDITIONS GALIEE,04/Paris.
そして、世界は確実にある一つの流れの方向へ導かれている。
世界規模での地デジ変換の目的の一つもこの範疇であった、インターネットを介したTVとPCの
統合により、明日の『テレヴィジョン』端末は『テレアクション』端末へと、モバイルになり
小型化、大量情報そして、速度というファクターによって変革してしまった。
この現実とは、文化資本主義の下に文化産業が産業全般そして、今後の情報社会の基幹産業と
なりつつある事だ。現代日本の「安心のファッシズム」に漂っている多くの消費社会の国民は
この「テレアクション」=映画+TV+ゲーム+音楽+フットボール+ショッピング+金融+保険
に現実時間の多くを委ね切った安心という願望の日常リアリティでしかない。
世界は21世紀以来、文化資本主義の下、文化産業をビジネス構造化するための”文化価値”と
感覚的武器の一つである芸術の価値即ち、”美-美意識”の“価値判断”の唯一統合化に依って、
”特異なモノが特殊なモノに”変えられてしまう。そして、彼らたちにとって変わらぬ世界とは、
コントロール社会(管理される社会)が”金融―価値観―武器”の新たな調整戦略によって
より高度な技術による、「コントロール社会(管理される社会)」へと進化,革新している。
これが今と今後の、世界の”グローバリゼーション”の本意本質である。
嘗ての20世紀初頭、政治の根幹は自分たちの国家が富める国家であろうとするために、
「植民地政策主義」によって利権化構造とともに白人資本主義社会が帝国主義化を競い合い、
黄色人種としての日本も加わって、結果、2つの世界大戦をもたらしてしまった近い20世紀の過去
を忘れないでおこう。そして、21世紀を迎えた我々は新たな技術を持って、新たな武器
とした「グローヴァリゼーション」の時代を手中にした。この新たな技術が「インターネット」
であり、この新たな技術を利用した「コントロール社会」の構築化と進化が現在の21世紀の
初頭であろう。ここには古いシステムに、新たな技術を加え、構造化された根幹が読める。
即ち、資本主義とは、『力と差異をどのようにシステム化』することで可能なシナリオであり
これは依然、変わらない白人社会が生み出した根幹である。ここに、新たな進歩としての技術
革新が加わっただけが「文明の進歩」と読むことが現代をシンプルで理解しやすいであろう。
**
さて、こうして”未来”を読んだ場合、
ファッションの世界にも“象徴の貧困”が染み込み始め、表層化されるだけであろう。
そこに“表層のボキャブラリィー”がより、フォーカスされ”特異な文化が特殊な世界に”消費社会
のために変えられてしまう。ここに僕が発言している「壁紙デザイナー」や「庭先デザイナー」
の登場とその立ち居場所が可能になったファッションの世界が現代である。
ある時期まではこのモードの世界も、”象徴の豊かさ”故に存在価値があった時代があった。
メゾン、M.M.がこのモードの世界へ彼らたちの「創造の発想」によって一つの時代性を創造した
根幹は、それまで存在していた”象徴の豊かさ”を解体し、“象徴の貧困”と言うリアリティを
”落ち穂拾い”即ち、再構築したことであろう。
そして、現代のファッションに於ける“象徴の貧困”とは、ヌーボー・リッシュ(新興成金)に
よるラグジュアリィ・ファッションの金メッキ化されたヴァニティな世界そのものの存在で
あり、他方、“流行/トレンド”とはグローヴァリゼーションを背景に新たなパワーとして
の大量生産可能な「工業化製品」としてのフアスト-ファッションの登場とその差異化のための
コードが“象徴の貧困”である。
もうひとつ、それらのブリッジとしての役割を与えられていたプレタ・ポルテの現実とは
ファッシズムな調和のための創造的ゲームであり、“フェッチ&キッチュ”か或いは、
“ユニフォーム”へと流れ始めている。ここでは、 救われる唯一の身体の意識と無意識の時間の
ための”武器”は“過去”の使い方である。この過去とは集積された”アーカイブ”であり、
“共有したノスタルジア”の不連続な連続における集合体として甦る。
ここでの価値は”未来のイメージ”ではなく過去へのイメージであり、それ以上に共有し得る
”エピソード”のヴィジュアル化と“コスチューム”化が“象徴の貧困”社会の新たな”武器”だ。
象徴が貧困化すればするほど、嘗ての”カッコ良さ”がノスタルジー化され,美化され語り
続けられる”エピソード”になる。そして、これによってモードの世界も「美術館ビジネス」と
言う新たなビジネス構造が誕生し確立される。
この発端を直接的に構造化したのはCdG川久保玲の”作品展覧会”が動機である。
売れなくてもいい。それなりの場所に置いておくだけで価値が生まれると言うビジネスシステム
をランウェーで実行したのが川久保玲だ。ここにこれ以後の新たな彼女の新しい立ち居場所を
アヴァンギャルドに自らが創造したのであるからやはり彼女の気迫と根性はすごい。
以後、世界のラグジュアリィー・ブランド企業はこぞって、「ファンデーション機能」を
設立し始めたのも現実になった。ここでは自分たちのアーカイヴを使っての未来への”創造性”と
それらのアーカイヴにより、文化資本主義の下、文化産業をビジネス構造化するための
企業自らがデレクションした”文化価値”を育成するためである。
もう一方の側の若手デザイナーたちの立ち居場所では、固定されない立ち居場所を見出し
始めている。考えようによると「自分のブランドとはインターネットのプラウザである。」
と言う視点だ。「いいね!」を押し合って彼ら世代のバーチャルな関係性を構築し、そこで
「コラボレーション」と言う手法を味方につける。この手法も見方を変えれば、
「アートビジネス」の構造に類似している。「コラボ」することによって自分たちのブランドの
「来歴」を造ると言うシナリオだ。この「来歴」即ち、「コラボ」の話題性が凄いほど
そのデザイナーの立ち居場所がメディアによってシナリオ化され拡散され、ブランドと
デザイナーの「知名度」へ繋がる構造がここには見られる現代である。
ここではコラボの相手先がインターナショナル・ブランドであればあるほどに、自分たちが
求めている”立ち居場所”を約束してくれると言うシステムになりつつある。これは彼らたちの
関係性の拡散手法に『”成熟”を拒否し始めた世代』の表層が実は見える。
この根幹は「競い合う」対象の変革化とでも言える新しいビジネス構造の一環になり始める。
”創造性”で競い合うことよりも”話題つくり”と”ヴァリエーション作りあるいは、
”ブリコラージュ”によって競い合う「選曲・編曲」と言う時代性であり、変わらぬ
”ファッションと音楽”の関係性が尚、ハネムーンであるし、そこに新たに”アートビジネス”の
システムが加わりファッションビジネスも本格的な「モノ資本主義」から「文化資本主義」の
元、文化産業としての新時代が到来したのが今である。
***
このような時代観を自らの”形態言語”の日常環境とした時、モードを語る人たちは
何を語れば良いのか?
『誰が』『いつ』『誰に向けて』『何のため』それらを作ったのかという事をどのような
”立ち居場所”で、どのような”眼差し”で、どのような”ボケブラリィー”で、どのような”素材”と
“手法”によって、”未来の貧困”へ向けて語られているのだろか?
あるいは、”過去の豊かさ”へ向けて持ち得たそれぞれの「文化度」によって語りかけるだけの
ものなのであろうか?
或いは、それ以上に「作り手」と言うよりも既に、唯の「送り手」になってしまった
ニュー・ジェネ・ファッションディレクターたちが認識し、持たなければならない根幹がある。
それはこの時代性だから持たなければならない「創造のための価値」観である。
「創造のための価値」とは簡単に言ってしまえば、時代が進化することによって生まれる
「豊かさ」によって、「作り手=送り手」たちも、「なぜ好きな服を作るのか?」どうして、
「ブランド・デザイナー」になりたかったのか?と言うまでの自身の心の有様の根拠性と
自らが求めた”立ち居場所”のためのアイデンティティそのものでもある。そして、持ち得た
自らの「夢」の根幹でもある。
この現代の作り手としての根幹である「創造のための価値」の発想の由来と根拠が本来は
そのデザイナーやブランドの「クオリティ」や「品格」となり、自らが求めた「立ち居場所」の
存在意義の確認に大切な根幹になる。
なぜ、今この根幹が大切な時代であるかと言えば、ファッションの世界に「純創造」と言う
世界がいまだに存在するのであればその「創造」に挑戦することが自分が持ち得た自由の根幹
になりそれが創造へ賭ける心のエネルギィーになり得た時代があった。
嘗て未だ、ファッションの世界に”新たな創造”と云う領域が芳醇に存在していた時代であれば
「作り手」は「創造のための発想」のみを深く考えて行為し、概念を発言すれば良かったのだが
今はこのシーンはすでに過去のものになってしまったからである。
僕が最近のコレクションを見て評価する根拠は、このデザイナーはどのような
「創造のための価値」を持ってコレクションを作ったのか?と言う眼差しで見始めている。
誰のために、どのような人達のためのためのコレクションなのか?
或いは、コレクションを行なっているのか? を感じ、読むことがとっても大切な「共有感覚」
を創造する根幹であることだと信じて見ている。
しかし、その多くは「自己中心」に始まり、「自己満足」「有名になりたい」「儲けたい」
それに、ラグジュアリィーブランドのデザイナーに登用されたいと言う“象徴の貧困”を
上塗りするだけの「壁紙デザイナー」や「庭先デザイナー」が賑わいを作っている世界でしか
無くなって来たと読めるまでの先月の『Paris・Fashion Week,18A/W』だった。
合掌:
文責/平川武治:
<参考>
*今回、パリで見た展覧会;
『M.M.M. 20周年回顧展』/於;モードガリエラ、
『Y.S.L.展』/於;ファデーションYSL,
『FUJITA展』/ 於;マイヨール美術館、
『RAOUL HAUSMANN写真展』他/於;JEU DE PAUME: 1918年のベルリン・ダダに関わり、
2つの大戦を経験したその作品群は眼差しの向こう側にあるものを捉えていたウイーン生まれ。
『IMAGES EN LUTTE展』/ 於;Palais des Beaux-Arts : 今年で50年を迎えた「’68MAY」の
オマージュ展。当時のグラフィック、フリーペーパーなどとその後、続出したキューバ、チェコ、
インドシナ等の「革命」のプロパガンダ・イメージ & グラフィックス展。
日本おける「安保'68」展は何処かでやるのだろうか?
『MUSEE CONDE』/ 於;CHATILLY, 久しぶりにシャンティイ城と街全体を16世紀の佇まいを
残したサンリスへ出かけた。サンリスの夕刻がメラコリックでいい。
*読書;
『都市と娯楽』/ 加藤秀俊著:鹿島出版会刊:
『柳宗悦』/ MUJIBOOKS刊:
『暴政』/ T.スナイダー著:慶應義塾大学出版会刊:御一読を進めます。
『日本二千六百年史』/ 大川周明著;毎日ワンズ刊:
ありがとう。
投稿者 : editor | 2018年3月28日 17:12 | comment and transrate this entry (0)