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T.MIYASHITA SOLOIST Collection A/W ‘19 ‘20を感じる。

「こんなにも考え過ぎなくてもいいのに。
こんなにも求め過ぎなくてもいいのに。
もっと、たかが服だから突き放してもいいのに。
でも、優しさが滲み込んでくる服だ。」

T.MIYASHITA SOLOISTのフィレンチェ・ピッチウオモ以降、2年ぶりのコレクションを
パリで見る。彼のコレクションを見ているといつも同じ気分になる。
それはそのまま彼が持っている癖の世界観なのであろう、
それほどまでに彼は自分の世界観を堅持している数少ない頑固なデザイナーである。
「切なく、厳しくだが、優しさが最後には溢れる」服作り職人なのだ。

真面目に、深く考え込み過ぎてしまうほどに、服が好きなのだろう。
“壁紙の上書き”では治らない好奇心が彼のすべてのコレクションである。
多分、“組み立てること”が好きな遊びの少年だったのではないか?
彼のコレクションを見ていると、“組み立てあげる”服を創造している。
従って、建築的にも見えてしまうことがある。人体を、こゝろを大黒柱とした建築である。

その大半の日本人デザイナーが特にそうであるように
例えば、FECETASM落合のように「後出しジャンケン」で「貼り合わせる」事がデザインだと、
思い違いをしてイキがっているタイプでは決してない。即ち、商人ブランドでは無い。
だから余計に興味を覚える。

考え過ぎ、組み立て直し、また組み立てるのが多分、
とっても自分らしい創造性であることを
それが自分にとってのラグジュアリィーだということを
もうこの歳で熟知しているデザイナーでもあろう。

「protectionism」と呼ぼう。
何をプロテクションしたいのか?
何でプロテクションしたいのか?
どうしてプロテクションしたいのか?
プロテクションは自由を求めすぎるゆえの証し。

自分の息使いを、
自分のこゝろの有り様を、
自分の身体を、
そして、今回のコレクションでは
自ずから性までもプロテクションし始めたのか。

一枚のフリースの布が巻きつけられることで
こゝろを癒してくれるモノになることも信じて、切り裂く。

自由に徘徊したい。
自由に癒したい。
自由に、自分らしく自分に委ね生き続けたい人間には
もってこいのユニフォームであろう。
そして、常に、自分らしく自由に生きる概念を持った人間が身に付けたくなる
アーマーでもあろう。

彼の服は着た人間だけを彼の世界観で優しく癒してくれる。
多分、そんな服を作りたかったのだろう。

厚化粧の女に惚れる男は多い。
表層しか読み取れないファッション識者もいる。
いや、本当は大半の輩たちは表層しか見ない。
そのためにフアストロウに座りたがる。
やがて、携帯をスイッチ・ONにする。

そんな輩たちは決まって、「重い、暗い」と嘆く。
その重い、暗き世界の下には
途轍も無い優しさに溢れた自由な世界が仕組まれているというのに。

こんな時代になると、
大きく張り出された壁紙を上書きする輩たちと
厚化粧の女に惚れる男は後をたたない。

だが、「後出しジャンケン」は耐え難い恥じらいだと、
まだ、含羞の念を覚えている育ちで育った人間の頑固さゆえの
これは、彼自身の“ラグジュアリィー”だ。

ありがとう、宮下くん。
平成31年1月20日:巴里ピクパス大通りにて。

投稿者 : editor | 2019年2月 1日 02:20 | comment and transrate this entry (0)

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