2019年6月30日
UNDER COVER S/S 20: COLLECTION/上質な「覚悟」を見せてくれた高橋盾君。
そろそろ、このようなメンズモードの安直で薄っぺらな表層に嘔吐し始める
デザイナーたちが登場始めた。
まず最初に、この狼煙を上げたのはUNDER COVERの高橋盾だった。
彼の実直で柔軟な自由の眼差しと性格の優しさとそして、持ち得た彼の美意識と自らの
ディシプリンによって、「LUXURY/贅沢度」満タンの今シーズンのUNDER COVERの高橋盾は
それ相当の「覚悟」を決めた“気概と根性”を世界レベルで堂々と見せつけてくれたコレクション
について、僕は書きたくなった。
僕の好きな映画の一つに、香港映画「花陽年華」がある。
2000年、あのW.カーウエーイが監督したこの映画は、英BBCが選んだ「21世紀 最高の映画
100本」で、2位に選ばれてもいる。
参考:http://www.bbc.com/culture/story/20160819-the-21st-centurys-100-greatest-films
今の若い人たちは宮崎駿さんのは絶賛するが、このようなもう既に,20年近くが経っている
名画には残念ながら殆ど、皆無であろう。
男と女の切ない出会いと想いと行為が“微妙な”状況の元で淡々と語られているこの映画が
これほどまでに“せつなさを微妙に“醸し出している大きな要因にこの映画の音楽がある。
“梅林シゲル”氏作曲のものである。僕の好きな音楽家でもある。彼の音楽の好きなところは
人それぞれが持ち得ているこゝろの想いや情景を叙情的に、西洋楽曲では表現し難い余韻を
旋律化させ、その時のこゝろの情景を想い出させるまでの時間の“間”が作曲されているところで
あり、日本人が持っている“湿り”が音楽化されているからである。
今シーズンのUNDER COVER のショーは“こゝろの湿り”を感じさす迄のスローな入り方で
ショーが始まった。これは白人や黒人たちには到底、この“繊細さとビミョーさ”は理解できない
ある種の彼が選曲した「美意識の旋律」であり、ここで聞こえてきたのがこの “梅林シゲル”氏の
「花陽年華」のサウンドトラックでスローに入り込むかのように始まった今シーズンのUNDER
COVERのコレクションはここでも、微妙な無彩色で始まりこの無彩色のまた、微妙なコント
ラストの展開で始終し終わったが、見事にまとまった新たなる「ジョニオ・ワールド」だった。
この今シーズンの彼のショーとは彼が20数年来ファッションに託しそして、服が大好きで
大切に考えて、愛して来た証としての彼にとっては、“次世代型コレクション”になり、その
「勇気と決断」は現時点では世界レベルでも高橋盾、一人しか創造出来得なかった「覚悟ある
コレクション」になった。
「やる時は、やってくれる!!ジョニオ君。」コレクションだった。
巷のメンズファッションも黒人たちが顧客に呼び込まれそのために、黒人ディレクターを
寸時に手配してメディア戦略によってただ、ケバくラップ宜しく騒々しくわかりやすい世界へ
と堕落して行く現実にうつつを抜かしその「上書きデザイナー」たちがいきがり、増えるのみの
退化しだ巴里の現実がより、広がり始めた今シーズンにあっては彼の覚悟の痛快さに僕は脱帽。
24年間が過ぎたストリートスポーティカジュアルのデザイナーとしての高橋盾は遅れている
このストリートカテゴリィーのファッションの世界ではもう既に“レジェント”の域に達している
デザイナーである。なぜかと言えばまず、2000年以後、センスの悪い白人デザイナーたちが
ストリートにビジネスを探し始めた時にその多くが「UNDER COVER」の上書きを行い、
今では新座者「黒人」たちがまた上手に彼の20年ぐらい前の世界からヒントを得て「上書き」を
始めているのがここ数シーズンのメンズの現実でしかない。そんな状況下でのメンズの作り手
である、若いデザイナーたちにはすこぶる興味深いデザイナーとしてその存在を認められている
のも証拠であろう。今回などはショー後のバックステージへ関係のなさそうな黒人たちの
ウロウロ風景が目立ったのも一端である。
「テーラリングへの新たな挑戦」これが彼がこのシーズンに「覚悟」した行為であった。
メンズファッションにおける、“テーラリング”というカテゴリィーは「何時かは通らなければ、
避けて通ることが出来ない」カテゴリィーである。ストリート出身のメンズデザイナーたちは
あえて、自分たちのリアリティからこの“テーラリング”を都合良く逃げて来た。テーラリングが
出来なくても、”ストリート・アイテム“の世界は”T-シャツ&スウエット上下“のバリエーション
の世界。そこにどの様な”プロテクション&アジテーション“が為されているか?そして、
“ユーモア&ペーソス”がセンス良く施されているか?のシナリオがすべての根幹である。
“ストリート・カジュアルウエアー”へこのような兆しを90年代終わりに既に、現実の“路上”
へ落とし始めたのは高橋盾で代表される日本人“ウラハラ系デザイナー”だった。その後、20年
ほどの時間が経過した現在も、メンズにおけるこの“ストリート”というカテゴリィーの世界は
ほとんど不変である。ここで変わったことといえば、“シューズ”がこだわりを付帯させて新たな
アイテムとして登場してきた事である。そして、この世界が今ではモードの世界へ押し上げら
れ、新たな黒人顧客の参入によって実に、分かり易い“ストリート・スタイル”のトレンドとして
“より、騒々しさ、派手さ、安直さ”が加わって再トレンドされているのが巴里の昨今の多くの
「上書き」コレクション。
高橋盾の今シーズンは「ここからどれだけ遠くへ、しかも、どれだけ新たなカッコよさが創造
できるか?」のコレクションだった。しかも、その彼の眼差しは確実に、「日本人の眼差し」で
あった。
当然ながら、この世界観は西洋人が自慢する世界である。軍服の為のテーラリングが
スーティングの世界にも求められ、英国、フランスそして、イタリーなど、それぞれの国を代表
する軍服からのテーラリングテクニックがそれぞれの国のダンディズムを生み、“スーティング
技術” を競うまでになったのがここ100年ほどの白人社会のメンズ・モードの歴史の根幹であ
る。ここに真っ向から向かうと“ドンキホーテ”のサンチョ・パンサになってしまう。が、
この立ち居場所に自ら甘んじて未だに、完全自己満足のために金と時間と労力を使っている日本
人デザイナーたちもいるのが現実である。
今回の高橋盾は自分が持ち得ていたリアリティとしての“ストリート魂”をこの世界へ投げつ
けた。
それらはジャケットでありコートであるバランスの美しく上質にテーラリング(肩入れ )
がなされた上着。ワークスからのアイテムをここでも、手を抜かずテーラリングがなされた
上着へ。施されたS.シャーマンの写真が見事なジャガード技術によって日本の“墨絵”の世界観で
施されている。また、“折り紙”や“ずらし”というジャポニズム手法を施された襯衣(シャツ)群
など等。また、彼の得意な世界の一つとしているスニーカーが1足もなかった、徹底ぶり。
「漆黒から、グレイ・ブルーそれに、プルシアン・ブルー」までのカラー・バリエーションはに
ソフィスティケートされたデニムラインのインディゴが根幹であろうか?
これらが見事に、「やる時は、やってくれる!!ジョニオ君。」コレクションになった。
高橋盾がこれほどまでに、これらのテーラリングに魅了されたのは「VALENTINO」との
コラボレーションが始まりイタリーへ招かれて見てしまったことの全てに由来しているという。
長い経験から言わせて頂くと、多くの日本人デザイナー達が「パリ・コレ」デザイナーという
肩書き欲しさにパリへ“ネギ”を背負ってくる。そして、それなりのお金さえ使えば、誰でもが
コレクションには参加できる。これが現実である。そして、現在ではそれなりの現地組「日本人
チーム」が裏方を全てをやってくれる仕組みも出来上がっている。従って、「金次第」で憧れの
「パリ・コレ」デザイナー誕生は簡単にできる。そして、現在ではこの「金次第」の世界も中国
人たちがこの「金」を出してくれるケースが増えている。巴里でショーをやり、日本でそれなり
のメディアに騒がれる。それをもとに彼ら、中国人たちは自国でがっぷりとビジネスに落とし込
み彼ら達は損をしない。「タヌキとキツネの化かし合い」関係が昨今の、日本人デザイナーと
中国人ビジネスマンたちの関係性である。これの化かし合いに乗っかっているデザイナーたち
は、巴里へ来てコレクションをしても「巴里からは何も学ぶ事なく」只、イキがって帰国する。
早く凱旋帰国し、メディアに騒がれたい、“完全自己満足”に浸りたい。そして、“女にモテた
い。” このレベルのデザイナーたちである。折角、巴里へ来ていても、ネット上で「上書き」の
ネタ探しはするがこの街から学ぼうとする心気あるデザイナーは殆ど、皆無である。
高橋盾レベルの経験を積んだデザイナーは既に、現地の外国人たちとの関係性を持ち、
彼らたちから、学べるものは学んでいる。その結果が今回の「覚悟」を感じさせるまでの
UNDER COVERコレクションになった。
人間は、「見てしまわなければ、進化しない。見てしまったことによって、
自分がどのような行為をとるか?これがその人間の人間性に繋がる。
そして、その人間の「人格」を生む。
見てしまっても何もしない人間はやはり、クズである。」
この根幹は僕はやはり、残念な事であるが、その人間の生まれと育ちあるいは、家庭教育に
由来すると感じる。
「VALENTINO」の工場を見る機会を得た事で始まった、「新たなる時代へ、」堂々と、潔く
旅立ち始めたUNCER COVER,高橋盾の懐の深さを感じさせた今シーズンのコレクション。
彼の美的根拠あるいは、審美眼の根幹はもう、決して「トレンド」の範疇では収まらない。
寧ろ、トレンドという「壁紙」から遠く離れて、自らがその経験と関係性で持ち得た、彼自身の
世界観から生み出された彼の「LUXURY/贅沢度」がすべての根幹である。
結果、いぶし銀的なる「ジョニオ・ワールド」コレクションであった。
“梅林シゲル”氏の「花陽年華」のサウンドトラックがフィナーレにまで染み込んできた。
この日本人しか感じられない“湿り感“と共に、高橋盾の「覚悟」が一つのエピローグへと
繋がる。
「 ありがとう、ジョニオ君。」
「 浮ついたトレンディーな世の中に
心底飽き飽きしています。
こうなったら徹底的に抵抗してやろうかなと思っちゃいます笑
自分に足りないものを足していくのはとても大事ですから。
そんな思いです!」/談/高橋盾:
文責/平川武治:巴里ピュクピュス大通り。
2019年6月22日
[速報]COMME des GARCONS H.P. S/S ‘20 “What the camp show?”
6月21日発; 「巴里のF.W.で今日行われた、”コムデギャルソン オム プリュス”
S/S ‘20のコレクションの根幹とは?
「CAMPなショーであり、CAMPなコレクションであり、でも、実はCAMPでない
ガーメントだった。」
そのうえで「上書きされた(?)」“オペラ オーランド”のコスチューム担当デザイナーと言う
シナリオ?
ここから読める、今後の企業、”COMME des GARCONS“の行方。
この企業にとっては、ここ数ヶ月に議論され取らざるを得なかった一つの大きな重大な「覚悟」
が為された出来事があった。
それはこの企業の創設以来から“COMME des GARCONS”の存在と継続を共に構築して来た
「影の立役者」或いは「影のボス」とまで言われるほどに企業、「COMME des GARCONS」に
なくてはならない、彼女がいなければ現在の企業、「COMME des GARCONS」は存在し得な
かった貢献者であり、生産担当重役であり、「影のボス」だった、このブランドの初期時代から
素材手配から工場手配と納期管理及び、もちろん「クオリティ管理」までの全て、現在ではこの
役割の部署が一番実際の製品作りには重要になってきている、をディレクションなさって苦労を
共に為さって来られた僕が尊敬する、怖い「田中蕾さん」がご引退なさった。という現実の
「覚悟」の選択がこの企業、「COMME des GARCONS」を洋上の嵐に巻き込んだらしい。
多分、この「覚悟」の話は1年ほど前から双方で持ち上がっていたのだろう。
その結果とも今からでは読める、前々回の昨年秋の「COMME des GARCONS」Fammeからは
「川久保玲の逆襲」と僕は発言していたコレクションが再開され始めたからである。
ここでは、この20数年間、ちょうど現在の夫、エイドリアン氏と「ビジネス婚」後、この
企業の経済問題から「オリジナル素材」が「使えない」情況が始まり以後、川久保玲と田中蕾
に負わされた重責は「オリジナル素材」を一切使わないでこの苦境を乗り切るというミッション
の元にこの二人、川久保玲と田中蕾は企業、「COMME des GARCONS」の為にこの間、25年
近くの時間を、オリジナル素材を使わないで、どのような「あと加工」が出来るかに彼女たちのチャレンジと創造性が懸けられ苦境と辛苦を守ってこられた現実を読んでいた僕の”深読み“が
「川久保玲の逆襲」を感じさせ、先シーズンでは「川久保玲とアマゾンヌ」なコレクションと
なり、例えば、今まで彼女たちが使わなかった、「シリコン・ラバー」素材の成形作品まで
出した激しく、強く、彼女たちの気骨が貫かれた素晴らしいコレクションエネルギィーを浴び
させてくださったコレクションだった。
ブランド「COMME des GARCONS」という世間からの見られ方、そのメゾンでのモノ創りを
する者にとってそして、特にこのような時代性においては、「使いたい素材」、「選べる素材」
そして、「使える素材」が全てのクオリティと創造の勝負である。
この企業、「COMME des GARCONS」がここまで進化成長してきた原因の一つは80年代
後半からのこの企業独自の「オリジナル素材」開発とその素材をよりよく見せるために使って
来た想像力と創造が、そして製品クオリティ力に一番説得力があった時代を経てきたからである。
ここにこのブランドと企業、「COMME des GARCONS」が持ち備えた「差異と力」の根幹があり、これが新たなユダヤ人パートナーと出会って世界におけるファッション業界へ向けての
「差異と力」をユダヤ式システムの投入と再構築されたゆえの現在の世界ブランド企業、「COMME des GARCONS」の全てが継続されて来た根幹であろう。
しかし、新たなビジネスパートナーとして参加した彼は、対外国メディア対応の通訳としての立場と企業パートナーとしてのスポークスマンの二役を買って出ることで、「新たな神話」を
企業、「COMME des GARCONS」を世界へ売り込み始めた。
しかし、この世界版「企業、COMME des GARCONS神話」のシナリオには残念ながら、
「田中蕾」の役割はさほどに語られていないのが現実であり、ここが彼らたちユダヤ人の巧妙さ
でもあり、この世界のファッション業界においては現在これが成功してしまっている。
このような存在だった、田中さんがご引退された。
まだ川久保さんよりもお若い。
いろいろな諸事情が重なり合って、この「覚悟ある状況」とその決断がなされたのであろうが、
僕のように長過ぎるほどこのブランドに外野席で「ぶら下がってきた」者としては、非常に悲し
く、寂しくそれ以上に辛く、ある種の悔しさも感じてしまった。
『田中さま、本当にご苦労様でした。僕のようなものにまで大変長く、とても素晴らしく、強い気骨ある世界と服を見せてくださって、ありがとうございました。』
この田中蕾さんの引退については後日また、書かして頂くことにしよう。
さて、本題へ戻ろう。
ここ1年来、このファッションの世界で語られるべきボキャブラリィーが幾つか在る。
むしろ、語らざるを得ないボキャブラリィーである。このボキャブラリィーによってそれなりの
重みがブランドに付くまでのヴァリューであり、その一つが、「LGBTI」である。もう一つは
「サスティナブル」であり、「シリカル」であろう。
僕が見る限り、これらのボキャブラリィーは残念ながら、先の東京コレクションでは殆どの
デザイナーがその彼らたちのコレクションと称するものの中では「壁紙」を上塗りするだけで、
「語り得なかったボキャブラリィー」であった。
しかし、世界に目を向けると今、ラグジュアリィーなモード界では一番脚光と注目が持たれ
ていて、このボキャブラリィーが “自分たちのボキャブラリィー”として語られなければ、
今後のメゾンの存続にまで関わり、自分たちの立ち居場所が消滅してしまうであろう、そんな
「語るべきボキャブラリィー」として、「LGBTI」があり、「サスティナブル」&「シリカル」
がある。
多分、これらのボキャブラリィーが引き金になって、「近代」が終焉を余儀無くされ、
新しい次なる「近代」の扉が開かれるのだろうとまで考える。
「サスティナブル」&「シリカル」の根幹は、「地球環境保護」であり、この意識は商品と
しての「服」の実際の生産過程で注意深くケアフルに取り込まれなければそのブランドの
「品格」に及ぶと既に、実施している高級ブランドは増えている。
が、CdGは未だにこの「サスティナブル」&「シリカル」には全く手付かずで現在に至ってい
る。
そして、もう一つの「LGBTI」も新しい社会人文的シンボルであり、リアリティとして既に、
“新たな顧客”として組み込まれ、じわじわとデザインワークに溶解し始めて来た。
例えば、あのセリーヌのディレクターに招かれたエディ・スリマンは彼の生き方を語るまでの
身体拡張(?)として、“薄化粧”を日常に持ち込み、生き方そのものを“メタモルフォーゼ”
し始めている。彼は、きっとモード界のR.メープルソープを目指しているのだろう。
モードの世界も、110年ほどが経って、気がついてみると「女性」と「男性」と言う性別
カテゴリィーだった世界に“Camp”なカテゴリィー・ゾーンが誕生し始め,この対峙する二極構造
そのものがすでに、「ナフタリンの匂い」が香る「近代」となり、遺跡化されてしまったという
までの時代性が今シーズンは読める。
多分このような時代性を素早く感じ取っての今回の川久保玲が「覚悟」を決めて見せてくれた
コレクションと僕は読んだ。
元々、この街パリで“Mens Fashion Collections” のいまのような形式で誕生したのは、‘85年
からだった。それ以前は、この国も紳士服組合が主催して行われていた紳士服見本市(SEM)の
会場内でのアトラクション的に行われていたシステムが‘85年からこの形式を”Famme
Collections”と同様な形態と手法に進化され、現在に至っている。
この時、現実社会には既に、「同性愛者」たちはこのモードの世界へ“送り手と受け手”という
“関係性”でかなりの人口が増えつつあった時代性を丁度、この年に巴里へ来た僕は覚えている。
特に、この数年前からこの街のモードの既成事実を次々に打ち破る美意識を携えて感性と感度
豊かな世界観を創造し、メディアに登場し始めていたJ.P.ゴルチェの存在と活躍も大きかった
であろう。当時、彼の存在と自由度がなければ、この街のメンズモードも現在のような危なげな
華やかさの魅力は誕生していなかっただろう。
従って、モードビジネスの関係者たちが新たな「モードの入口」とした“Homme
Collections”のビジネスシステムがこの機にこの街で誕生されたと読める。
僕自身の経験では、‘72年にこの街に演劇の仕事で訪れた時の経験では既に、「同性愛者」
たちは存在していたが、当時の彼らたちは’66年にS.ソンタグが著述した、『非定住のキャンプや
仮設テントによって自分自身を仮設のインスタレーションとして表現する「キャンパー」にも
通じる』態度と環境でそれぞれのプライド観とともに生活をしていた現実を体験した記憶は未だ
に残っている。「同性愛者」たちが集まる場所では彼らたちは意気高揚と振る舞い会話をして
いるが、周りにノーマルな男性を意識した公衆の場では途端に「ヒソヒソ声で語り合い、行動」
していた彼らたち「同性愛者」の存在であった。
独りの人間が、自由を拠り所とし、「個人の生き様」の一つとして自分が選んだ生き方には
すべて、その個人が持たなければならない「覚悟」と「責任」が付帯すると言う「当たり前さ」
は昔も今もそして、男も女も普遍である。その根幹に「自由」を求めれば、尚更のことである。
当時であれば、「同性愛者」たちが自分たちの持ち得た才能が活かせ、心地よく生きて行く
世界、「CAMP」の一つに「ファッションの世界」が既に、成立していた事も事実だった。
そして、この35年程の時間の流れの元、現在では気がつくとファッションの世界のみならず、
多くの「同性愛者」たちが一つの社会的カテゴリィーを持ち得るまでにこの「自由の裁量」は
進化、拡張され昨今の「LGBTI」と言う広がりへ至っている。特に、このファッションの世界で
は「同性愛者」でなければ、超越した自由さと大胆かつ、繊細さによった豊かな創造性が生み出
せないと言うまでの“常識”が既成事実を生み出した。
したがって、この世界で今日現在、「同性愛者」を語る事そのものは、既に新しくない世界で
ある。
このような時代感を読み込んだ(?)今更と思うまでのコレクションを行なったのが、
今日の「コムデ ギャルソン オム・プリュス」のショーだった。
昨日のショーでは「LGBTI」をそのクリエイティブ・コンセプトの根幹に据えて、見せた
『CAMPなショーであり、CAMPなコレクション。』だった。これに上書きされたのが、歌劇、
「オーランド」の衣装を手がけると言うシナリオ。
「LGBTI」をどのように伝える為のショーのボキャブラリィーに使うか?
そこで採られた手法(?)、その一番わかりやすいコンテンツとして選ばれたのが「CAMP」。
そして「歌劇、オーランド」の衣装担当。
僕が思うに、これは最もファッション的でまた、最もトレンドな処方であり、最も表層的な
手法を選択したこのメゾンの旨さでもあり結果、世間を、メディアを驚かすだけ(?)が
いつものこのメゾンのミッションだったのか?と感じてしまうまでのコレクションでした。
実際、日本のファッションジャーナリストがどれだけこの「CAMP」を理解しているか?
あるいは、「歌劇、オーランド」をかつてに観たことがあるか、(自分でお金を支払って、)
まず、若い世代は教養不足で知らないであろう。
知っているとしたら、今年のN.Y.メトロポリタン美術館のファッション展示のテーマとしての
「CAMP」と言う理解度であろう。また、その展覧会のガラ・パーティーのドレスコードが
「CAMP」で、よりファッションピープルたちには理解(?)されているだろう。
しかし、このファッションイベントはやはり、女性が中心になった「CAMP」とはどのような
“衣装”を身につけてゆけばいいのか?が現実のレベルであり、これだけのヴァニティが揃っての
情報はすでに、メディアでも報道されてしまっている。なのに、何故、わざわざこの「CAMP」
を今回のコレクション手法として使ったのだろうか?
多分、僕なりの“深読み”をすれば、「あえて、メンズの世界だから、」と言う発想。そして、
「歌劇、オーランド」と言う上書き。そして、CdG H.P.版「LGBTI」=「CAMP」を表現して
みたかった。或いは、意表を突くと言う分かり易いいつものこのメゾンの“ミッション”によって
反響を求めたいがために?
無知、無教養な輩が多い日本のメンズファッションジャーナリストたちや業界人たちへ
向かって“吠える。”川久保玲の魂と姿を先ず、彼ら達が自認してほしい。
今や、多くのファッションジャーナリストと称する群衆は僕的な見方で言わせて貰えば、ただの
「ファッション・レポーター」の輩でしかないだろう。
もちろん、この世界を評論することができるレベルのクリエーションも少なくなり、それを
評論したくなるようなコレクションもほとんどなくなったのも、もう一つのこの世界の現実で
あろう。
しかし、「良い評論が出るからまた、優れたデザイナーが登場する。」と言うお互いの
関係性がいつから損なわれてしまった世界になってしまったのだろうか?
この現実状況をも目論んだ川久保玲の戦略は今回もまた、彼女に軍配が上がるであろう。
今回の川久保玲のコレクションを見て、彼女は自分で批評家、スーザン・ソンタグ
(Susan Sontag)のこの60年代の異端著作であった、「キャンプについての覚書」(『反解釈』
1966/所収)を読んだのだろうか?
或いは、自身の身近かな同性愛者からの単なるファッションビジネス的アドバイスによって
アートディレクションしたのだろうか?
そして、時代は「同性愛者」たちがより、細分化され(?)た現在の「LGBTI」たちへ、
何かを差し出したかったのだろうか?
或いは、これは彼女の「心の涎」なのだろうか?
僕には、ここにも変わらないこのデザイナーの何時もの立ち居場所が見えてしまう。
それは、「決して、当事者ではない、傍観者としての覚悟しか見えない。」それである。
「CdGとPUNKな関係」も同様である。「モードとしてのパンク」をこの世界で長生きさせて
いる張本人であるからだ。
女性モノの世界で散々見せられ、見慣れたディテールとエレメントが「同性愛者」ではない
若者たちも混じって、スタイリングされ、着さされて、「モダンダンサー」よろしく狭い薄暗い
会場を“舞う”仕草。ここまで来ると僕はやはり今シーズンのトレンドである、「ユニフォーム」
の世界をも感じてしまった。
それは僕流のボキャブラリィーで言ってしまえは、「ニュアンスなユニフォーム」の世界で
しかない。と言うことは、「同性愛者」たちのユニフォームという拡大解釈までが可能な現実的
世界だと言うことでもある。
このレベルに驚き、「凄い!!」と発するオーディエンス、フロントロウに座らされた輩たち
見る側の教養不足と世間知らずを上手に手玉に獲ったコレクションとも読めた僕である。
ユダヤ人的発想からいえば、「一つのことで三つ以上をミッションにする。」であろう。
参考までに、「CAMP」について下記のいくつかの情報をご一読くださればもっと、
これからの「LGBTI」の根幹が、そして、今回のCdG H.P.のコレクションが、
「CAMPなショーであり、CAMPなコレクションであり、でも、実はCAMPでないガーメント
だった。」が理解出来るでしょう。
「参考/ CAMPについて;」ー1:
「批評家のスーザン・ソンタグSusan Sontagは、「キャンプについての覚書」
(『反解釈』1966 所収)で、キャンプを「不十分な深刻さ、経験の劇場化の感性」「感覚の
自然なあり方よりも、それを人工的に誇張するような感性」だといっている。
「高級文化」の倫理的な深刻さや格式、「前衛」のもつ葛藤への極限的な表現と区別して、
彼女は三つめの文化的な価値基準としてキャンプを位置づけている。世界への徹底的に肯定的で
審美的な態度でありながら、その態度を滑稽であると自認し、みずからを面白がる皮肉な視線を
伴った生き方、そのようなキャンプの感性は、自分らの異質さをパフォーマンス化して、
そうすることで逆に、現実や周囲の世界、社会的な制度を異化していくことができる。
それはソンタグが、ゲイの美学や世界戦略を、60年代ポップカルチャー時代におけるダンディ
ズムの可能性として評価したものであったが、今や、ポストモダン的な感性としては一般化した
ともいえる。つまり、自己への再帰的な言及を欠かすことなく、同時に自己のアイデンティティ
を、受け入れつつも、その生成それ自体を軽やかに問題化していく感性である。
「キャンプ」な作家は、愛するものや表現しようとするものには誠実であるが、同時に、
「真面目さ」を窮屈だとして笑い飛ばしていく。それは、定住による登録と分類を空間の
ポリティックスとする資本主義システムにあって、非定住のキャンプや仮設テントによって
自分自身を仮設のインスタレーションとして表現する「キャンパー」にも通じる態度では
なかろうか。」
・参考文献/松井みどり/2002:『アート:”藝術”が終わった後の”アート”』/朝日出版社
P.ブルッカー/2003:『文化理論用語集』/新曜社
暮沢剛巳/2002:『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』/フィルムアート社
https://keiofieldwork.jimdo.com/field-work-shop/%E7%9F%A5%E3%81%A8%E5%AD%A6%E3%81%B3%E3%81%AE%
E5%86%8D%E7%B7%A8%E6%88%90/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83
%B3%E3%83%97/
「参考/ CAMPについて;」ー2:
「2019年『METガラ』のテーマは「キャンプ」 ソンタグが提唱した美学」
2019年のテーマは「ファッションの中のキャンプ」。スーザン・ソンタグの論文に依拠
大きな人気を博した「ファッションと宗教」に続く、2019年のテーマは「ファッションの中の
キャンプ」だ。
この「キャンプ」の概念は、スーザン・ソンタグが1964年に発表した論文『「キャンプ」に
ついてのノート』に依拠している。ソンタグはこの中でキャンプについて「不自然なもの、
人工的で誇張されたもの」を愛好する感性、美学であるとした。
『METガラ』の2017年のテーマは「川久保玲とコム デ ギャルソン」だったが、
今回の『Camp: Notes on Fashion』展にも出品が予定されている川久保玲は、
コム デ ギャルソンの2018/19年秋冬コレクションのショーが『「キャンプ」についての
ノート』からインスピレーションを受けたことを明かしている。
「キャンプ」の美学の起源と、ファッションへの影響を探る展覧会『Camp: Notes on
Fashion』では、この「キャンプ」の美学の起源を探求し、いかにしてメインストリームの
カルチャーにも大きな影響を与える存在になったのかを考察する。
メトロポリタン美術館コスチューム・インスティチュートのキュレーターであるアンドリュ
・ボルトンは「ソンタグの『「キャンプ」についてのノート』を効果的に例示しながら、
現在進行形で変わり続ける『キャンプ』のファッションへの影響に関するクリエイティブで
批評的な対話を進める」と展覧会の内容を説明する。
また「ハイアートとポップカルチャー双方へのキャンプの大きな影響を紐解く展覧会になる」
と語るメトロポリタン美術館ディレクターのマックス・ホラインは、「本展はキャンプの変化を
辿り、重要な要素に光を当てることで、この大胆なスタイルが持つアイロニックな感覚を体現
し、美や審美眼に関する従来の考え方に挑むと共に、美術史・ファッション史上でこの重要な
ジャンルが果たしてきた決定的な役割を確証する」と明かしている。
「衣装や彫刻、絵画など約175点が出展」
展示作品は、女性服、男性服に加えて彫刻、絵画、ドローイングなど約175点を予定。
作品の年代は17世紀から現在まで幅広い。取り上げられるデザイナーには、クリストバル・
バレンシアガ、トム・ブラウン、ジョン・ガリアーノ、ジャン=ポール・ゴルチエ、
マーク・ジェイコブス、クリスチャン・ラクロワ、カール・ラガーフェルド、ミウッチャ・
プラダ、イヴ・サンローラン、ジェレミー・スコット、アナ・スイ、フィリップ・トレーシー、
ジャンニ・ヴェルサーチ、ドナテラ・ヴェルサーチ、ヴィヴィアン・ウエストウッドらが名を
連ねる。展覧会はグッチのサポートによって行なわれる。
『METガラ』の共同主催にはレディー・ガガ、ハリー・スタイルズ、テニス選手のセリーナ・
ウィリアムズら参加。
展覧会『Camp: Notes on Fashion』は2019年5月9日から9月9日まで開催。
オープニングを記念する『METガラ』は5月6日に行なわれる。アメリカ版『VOGUE』編集長
のアナ・ウィンターと共にホストを務めるのは、レディー・ガガ、ハリー・スタイルズ、
グッチのクリエイティブディレクターであるアレッサンドロ・ミケーレ、そしてテニスプレイヤ
ーのセリーナ・ウィリアムズである。レディー・ガガの過激で驚きを伴うファッションは、
「不自然なもの、人工的で誇張されたもの」を愛好する感性、というキャンプの定義と相性が
良さそうだ。グッチのキャンペーンモデルも務めるハリー・スタイルズ、そして「女王」
セリーナ・ウィリアムズがこのテーマをどのように解釈するのかも注目が集まる。
#MetCamp
・参考サイト;https://www.cinra.net/column/201810-campmet
「参考/ CAMPについて;」ー3:
2019年のメットガラはCampy(Campっぽいもの)ではあれど、Campではなかった。
スーザン・ソンタグの『キャンプについてのノート』をテーマにしながら、Campの解釈が、
そして,ガラでオープニングを飾った展覧会の内容にしても、多くの疑問が湧く。
それはソンタグの伝記作家として指名された作家ベンジャミン・モーゼーも同じだった。
本人とも交流があった彼は、今回のメットガラを巡る議論に加わり、「タウン&カントリー」で
このように疑問を呈している。
スーザン・ソンタグはメットガラを愛していたであろうと思う(今回、私自身は憎まざるを
得ないけれど)。
今年のメットガラはソンタグから(少なくともその一部を)インスパイアされたものである。
メトロポリタン美術館の衣装芸術研究所の資金集めイベントとして開催され、毎年異なるテーマ
にスポットライトを当てて祝うこの夜は、ファッションカレンダーにおいて最もパパラッチされ
るガライベントだと言える。今年のメットガラはソンタグによる『キャンプについてのノート』
にオマージュを捧げている。
1964年に伝説的な文学と政治を扱う季刊誌、『パルティザン・レビュー』に発表された
こちらの作品は、ソンタグを一躍有名にしてみせた大胆不敵なものだ。「世界に存在する数多く
の物事は未だ名付けられてさえいない」と書いた彼女は、「そして多くの物事は、名付けられて
はいるものの、それが何であるか述べられることもない」と語った。
ソンタグと当時の彼女の周りのまがい物軍団たちはそういった名付けられていない物事に
名を付け、真剣な人間なら書くはずもなかったことについて ―あるいはこれまで真剣に書かれた
こともなかった数々の主題について書きまくり、図書館を埋め尽くそうと決心していたようだ。
「キャンプのエッセンスは不自然さへの愛、つまり偽物と誇張である」
そういった主題のひとつが、ホモセクシュアルでの指向における一種独特の雰囲気をまとう
‟キャンプ”と言われるものだった。初期の草稿段階では『ホモセクシュアリティについての
ノート』と呼ばれていた。その後『反解釈』の一部として出版されると、ゲイの各種テイストに
対する公式論拠のようにも読まれるようになった。「キャンプのエッセンスは不自然さへの愛、
つまり偽物と誇張である」とソンタグは書いている。「そしてキャンプとは密教的なもの(一子
相伝的な内密なもの)であり、小さな都会の一派閥におけるプライベートなコードやアンデンテ
ィティのしるしでありさえする。
ソンタグは忍耐強く、なぜ(ジャン・)コクトーは‟キャンプ”で(アンドレ・)ジィドは
そうでないのか、シュトラウスはそうでワグナーは違って、カラヴァッジョと「モーツァルトの
ほとんど」がグループ化できるのか説明している。彼女はジェーン・マンスフィールドと
ベティ・デイヴィス、ジョン・ラスキンをさりげなくメイ・ウエストと同じに位置づけている。
真の「趣味の貴族」と彼女が書く人々はホモセクシュアルであり、彼らの「耽美主義と皮肉」
それとともに「ユダヤ人的なモラルに対する真剣さ」今日における現代的な繊細さを形作ったと
される。
キャンプとはレジスタンスだった。
ソンタグのおかげで、‟キャンプ”は、今私達が1960年台と結びつけるような新しくリベラルな
セクシュアリティやポリティクスに対するアティチュードを象徴するものとなった。
今日『キャンプについてのノート』を読むと楽しそうで面白おかしく ―そして、ちっとも
色あせていないことが分かる。だが、出版された当時は多くの人々からの激高を受けた。
当時は経口避妊薬が男性優位を脅かす存在であり、黒人市民権運動が白人至上主義を脅かして
いた。『キャンプについてのノート』はヘテロセクシュアリティ至上主義を脅かすものだった。
『キャンプについてのノート』は確立されたヒエラルキーを覆すための幅広い動きの一部で
あったのだ。
ホモセクシュアル的なテイストは常に芸術の底流にあった。ただ、名付けられるようなもので
あったことは稀である。もし名付けるようなことがあれば、ゲットーの中に投げ込まれていた
はずだし、そこの住人たちは病んでいて、倒錯している変態性欲の持ち主だとされていたこと
だろう。ソンタグはそういったアウトサイダーたちの繊細さがメトロポリタン美術館のような
エスタブリッシュメントの殿堂のような場所を包み混んでいるのを見るのを大変に愛したはず
である。
スーザン・ソンタグは同時に、メットガラを嫌っていただろう。
「私はキャンプという概念に強く引き込まれている」と彼女は書いている。「そしてそれと同じ
ほど強く、気分を害されてもいる」とも。
ソンタグはヒエラルキーに対する批評を展開し過ぎることで、それがより一層強力な
ヒエラルキーに置き換わること、お金だけが人間の価値を決めるような人たちによるヒエラルキ
ーになることの危険性を充分に承知していたのだ。
ソンタグは生涯に渡って難解な芸術におけるチャンピオンだった。それも長年の忍耐強い研究
活用によってのみ報われ、華美で派手なことが賞賛される社会に常に脅かされるような芸術に
おいて。彼女はセレブリティという概念に対してかなりの不快さを感じていた。ある人物の価値
がその人のイメージによって上下してしまうような ―または 皮肉でさえないタブロイド紙に
よってもたらされる薄っぺらな名声のために祝われるようなイベントで(名声を気にして)
怯える、そんな概念に。
ゲイの美学において、ソンタグは「社会への批判」「ブルジョワの期待に反する抵抗」を
見た。
ゲイの人たちが毎日殺害されてしまうようなこの世界で、ソンタグがもし健在ならば、
ゲイの人たちを除外するインサイダーの領域を象徴するようなイベントを賞賛し、深遠な批評を
展開するメインストリームの社会を見て、大きな警戒心を抱くだろう。そしてクレイグスリスト
(交流サイト)で人々がインシュリンを乞うようなこの国で、生涯をかけた社会的正義の活動家
であったソンタグが、ひとり3万ドル(約330万円)もするようなチケットが必要なイベントを、
そして、来場者が衣装やジュエリーに費やす法外な額を嫌悪したに違いない。
ゲイの美学において、ソンタグは「社会への批判」「ブルジョワの期待に反する抵抗」を見た
だからこそ、ソンタグはこの最も格式高い場所で開催される最もブルジョワ的イベントにおいて
闘い、真似してみせ、ウィンクしながら参加する、アウトサイダーたちの精神である
‟キャンプ”に対して、真実であり続けるパーティーゴーワーたちに興奮を覚えていたに
相違ないのだ。
(from Town & Country "Why Susan Sontag Would Have Hated a Camp-Themed Met Gala")
哲学的テーマをなんとかファッションとして表現することは、否定されるべきことではない。
しかし、その背後に様々な人たちの犠牲や思いがあるものを、マジョリティがファッションと
して消費し、本来いるべきである人たちを置き去りにしてしまうことは危険だとする、モーゼ―
の言葉にファッションで真剣に働く人であれば耳を傾けたいもの。」
(Translation : Oh Ryoko)
・参考サイト/ https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a22055094/
susan-sontag-met-gala-2019-camp-theme-190507/
ご一読、ありがとう。
文責;平川武治:令和元年6月22日;巴里ピクピュス大通り街にて。
2019年6月19日
「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のSS20/コレクションを深読みしてみよう。
僕はここ1、2年来のパリで見るコレクションに対しては、真から「かっこいい!!」
”It was so Super Cool!!”と思うようなものに、出逢い難い時代になったとしか感じられまないの
は僕だけだろうか?
これは自分でも判るのですが、僕は以前のように、書けなくなって来たのです。
これは自分が歳をとったと思っていたのですが、そうではなく、書きたくなるようなショーが
ほとんど、無くなって来たのだからでしょう。
僕が今までの30数年間、見続けて来た巴里・メンズコレクションの流れから言えることは、
その殆どが、「書くほどのものでない。或いは、書きたくなる程のコレクションではない。」
多くの若手デザイナーたちは表層のトレンドと称される「壁紙」を上塗りする「小手先」や
「要領の良さ」だけのレベルのショーでしか無く、メディアはそのレベルではしゃぎ回り、
おべんちゃら・御用記事で広告を取ろうとする魂胆がその総ての世界になってしまった?
そう感じてしまっています。
解りやすく言って仕舞えば、そんな彼らたちからは「欲の涎」しか見えないのです。
海外の今、世間を騒がしているブランドディレクターたちは在る時期に、思ひ切り騒がれること
をする事が“仕事”だと割り切って(?)のレベルでの“役割”しかしていませんね。
彼らたちはそれが自分たちが“有名”になる根幹だとスネてしまって、知っているからです。
ここには残念ですが、「服」が好きで、「服」を愛し、「服」を創造する人たちが、例えば、
川久保玲や彼女の頑張りにクールさを感じ自分たちのクールさを持ち続ける為に戦っている
高橋盾君や宮下君の“FORCE”がそして、その「こゝろと想い」が感じられるコレクションが
多くの「壁紙デザイナー」たちによって、ほとんど皆無になってしまった為でしょうか?
しかし、一度積を切ってしまった濁流は止まる事なく新たな黒人ファッショングルービーたち
の夢と強欲を飲み込むかのようにノイズを撒き散らす、そんな実情と表層の元で“Men’ s F.W.
Paris”が始まりましたね。
そんな気分の僕が初日の「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のコレクションは書きたく
論じたくなったのです。 原因はいまのこの様な時代で「全てが濃い」コレクションへ挑戦し
続ける彼のFORCEに魅了されたからです。
少し前に入った巴里、6月の巴里は二番目に好きな季節。
そして、今日も快晴。気温も風も心地よさだけを感じさせてくれている。
そんな穏やかさに委ねて読み始めた手じかに残っている本、
幾度も読んでいたはずなのに、昨日見つけたボードレールの一文が巴里の僕のこゝろに
ミラージュをおこす。
「女性が妖麗かつ超自然的な姿に見えようとするのは、全く正当な権利だし、一種の義務を
果たすことでさえある。女性は人を驚かし、魅惑する必要がある。偶像として、崇拝される
ために身を金粉で覆わなければならないのだ。だから女性は.......自然の上方に登る手段を、
あらゆる芸術から借りてくるべきだ。......そうした手段を数え立てれば限りもないだろう。
しかし、私たちの時代が俗に、メイキャップと呼んでいるものに、話を限るとしても、
おめでたい哲学者たちが愚かしくも排斥の対象としている白粉の使用というものは、狼藉者の
自然が顔色の上にまき散らしたありとあらゆる汚点を消し去り、皮膚の木目と色のうちに一つの
抽象的な統一を作り出すことを、目的ともし結果ともしており、この統一こそは、肉襦袢
(タイツ)によって作り出される統一と同じ様に、人間をたちまち彫像に近づける、すなわち、
神的で一段上の存在に近づける。......」
/「ボードレール全集#4/阿部良雄訳:“現代生活の画家”から。
「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のコレクションを見ていて頭に浮かび始めた
幾つかのシーンに混ざって、このボードレールの文章を思い出した。
彼が描いたこの文章はちょうど、150年前に書かれたものであるが古さを与えず、このように
”メーキャップ“について語られた文章としては珍しく僕は大切に感じている文章である。
このデザイナー宮下は日本人デザイナーに珍しく、壊れそうな繊細さを強靭に持ち、その繊細
さゆえに自分が生み出す服の世界では彼の饒舌さをデザインに込めたものである。
この宮下の繊細さがゆえの饒舌なデザインによる今シーズンのコレクションを僕は
「ニュアンスのユニフォーム」というシーズンだと発し感じた。
“ニュアンス”の意味は「微妙な雰囲気」と簡単に捉えるとわかりやすいかもしれません。
はっきりとわかることではないが、わかる人にはわかる微妙な雰囲気のことです。
ほとんどの日本人を含めたデザイナーたちが今シーズンのトレンドとしての“ユニフォーム”に
引っかかって、単純に機能あるものが“ユニフォーム”だと大いなる勘違いをしたコレクションが
殆どだったが、このデザイナーの宮下の思考能力は決して、そんなに浅くなかった。
むしろ、強かでアイディアと感覚を纏い付くまでに、考え解きながらそれを紐解いて行く
プロセスを自身が楽しみながらあるのデザイナーへの畏敬の念をも込めて構築して行く。
それが今シーズンは亡くなったK.L氏だ。彼の癖の一つである“Neck fetch.”へのオマージュが
見て取れる。
しかし、彼も今シーズンのトレンド・フレームである「Gender」のサークルに参加する。
それをロマンティクに彼の癖の一端でもでもあろうか、「フェッティシスト」に纏め上げた。
そこでは、僕は少年臭さの恥じらいとともに隠そうと漂わせたマヌカンのメイキャップに
気がとられた。そして思い出したのが前述のボードレールのメイキャップに関する一文だった。
ユニフォームであってユニフォームの意味を喪失させてしまうまでのミッキーマウスたちの
使い方は自己の欲望の道を欲しながらも、同時に遮断するダブルバインドの状態も感じられ、
註釈し、同時に隠蔽する役割をこのミッキーマウスは担っている。
彼が作り出す今シーズンの世界はもはや身体や欲望や感情から切り離された表層の認識の源泉
としての視覚ではなく、それらとそれぞれが結びつく事で視覚や視覚的イメージ(ファンタス
マ)が彼の想像力の中で豊饒されている。例えば、彼にとってのこのミッキーマウスは実は、
一種の”カモフラージュ・プリント“なのである。ここでも、「ミッキーが持っている意味を
喪失させる」までのグラフィックな使い方というか、遊び方が痛快である。
それによって、今回の彼の“ジェンダー”なるファンタスマは現実の物質的な存在あるいは精気
とも合体する事で着た人間の身体中を駆け巡るだろう。そして、時には心の病に、フェッティ
シズムにおとしいれたりするかもしれない。
ここでは、「どんな物も、使用対象である事なしには、価値ではあり得ない。」という
マルクスの商品の物神性に関する言葉を思い出そう。
そして、「モノの救済はモノになることによってのみ可能であり、服は服になることが
服なのだと言おう。」
或いは、「意味が消滅されたユニフォーム」に異質な意味をカモフラージュすることによって
「Gender/Lgbti」へ何かを差し出したのだろう。
文責/平川武治:巴里ピクピシュ大通りにて、6月27日: