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「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のSS20/コレクションを深読みしてみよう。
僕はここ1、2年来のパリで見るコレクションに対しては、真から「かっこいい!!」
”It was so Super Cool!!”と思うようなものに、出逢い難い時代になったとしか感じられまないの
は僕だけだろうか?
これは自分でも判るのですが、僕は以前のように、書けなくなって来たのです。
これは自分が歳をとったと思っていたのですが、そうではなく、書きたくなるようなショーが
ほとんど、無くなって来たのだからでしょう。
僕が今までの30数年間、見続けて来た巴里・メンズコレクションの流れから言えることは、
その殆どが、「書くほどのものでない。或いは、書きたくなる程のコレクションではない。」
多くの若手デザイナーたちは表層のトレンドと称される「壁紙」を上塗りする「小手先」や
「要領の良さ」だけのレベルのショーでしか無く、メディアはそのレベルではしゃぎ回り、
おべんちゃら・御用記事で広告を取ろうとする魂胆がその総ての世界になってしまった?
そう感じてしまっています。
解りやすく言って仕舞えば、そんな彼らたちからは「欲の涎」しか見えないのです。
海外の今、世間を騒がしているブランドディレクターたちは在る時期に、思ひ切り騒がれること
をする事が“仕事”だと割り切って(?)のレベルでの“役割”しかしていませんね。
彼らたちはそれが自分たちが“有名”になる根幹だとスネてしまって、知っているからです。
ここには残念ですが、「服」が好きで、「服」を愛し、「服」を創造する人たちが、例えば、
川久保玲や彼女の頑張りにクールさを感じ自分たちのクールさを持ち続ける為に戦っている
高橋盾君や宮下君の“FORCE”がそして、その「こゝろと想い」が感じられるコレクションが
多くの「壁紙デザイナー」たちによって、ほとんど皆無になってしまった為でしょうか?
しかし、一度積を切ってしまった濁流は止まる事なく新たな黒人ファッショングルービーたち
の夢と強欲を飲み込むかのようにノイズを撒き散らす、そんな実情と表層の元で“Men’ s F.W.
Paris”が始まりましたね。
そんな気分の僕が初日の「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のコレクションは書きたく
論じたくなったのです。 原因はいまのこの様な時代で「全てが濃い」コレクションへ挑戦し
続ける彼のFORCEに魅了されたからです。
少し前に入った巴里、6月の巴里は二番目に好きな季節。
そして、今日も快晴。気温も風も心地よさだけを感じさせてくれている。
そんな穏やかさに委ねて読み始めた手じかに残っている本、
幾度も読んでいたはずなのに、昨日見つけたボードレールの一文が巴里の僕のこゝろに
ミラージュをおこす。
「女性が妖麗かつ超自然的な姿に見えようとするのは、全く正当な権利だし、一種の義務を
果たすことでさえある。女性は人を驚かし、魅惑する必要がある。偶像として、崇拝される
ために身を金粉で覆わなければならないのだ。だから女性は.......自然の上方に登る手段を、
あらゆる芸術から借りてくるべきだ。......そうした手段を数え立てれば限りもないだろう。
しかし、私たちの時代が俗に、メイキャップと呼んでいるものに、話を限るとしても、
おめでたい哲学者たちが愚かしくも排斥の対象としている白粉の使用というものは、狼藉者の
自然が顔色の上にまき散らしたありとあらゆる汚点を消し去り、皮膚の木目と色のうちに一つの
抽象的な統一を作り出すことを、目的ともし結果ともしており、この統一こそは、肉襦袢
(タイツ)によって作り出される統一と同じ様に、人間をたちまち彫像に近づける、すなわち、
神的で一段上の存在に近づける。......」
/「ボードレール全集#4/阿部良雄訳:“現代生活の画家”から。
「TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist」のコレクションを見ていて頭に浮かび始めた
幾つかのシーンに混ざって、このボードレールの文章を思い出した。
彼が描いたこの文章はちょうど、150年前に書かれたものであるが古さを与えず、このように
”メーキャップ“について語られた文章としては珍しく僕は大切に感じている文章である。
このデザイナー宮下は日本人デザイナーに珍しく、壊れそうな繊細さを強靭に持ち、その繊細
さゆえに自分が生み出す服の世界では彼の饒舌さをデザインに込めたものである。
この宮下の繊細さがゆえの饒舌なデザインによる今シーズンのコレクションを僕は
「ニュアンスのユニフォーム」というシーズンだと発し感じた。
“ニュアンス”の意味は「微妙な雰囲気」と簡単に捉えるとわかりやすいかもしれません。
はっきりとわかることではないが、わかる人にはわかる微妙な雰囲気のことです。
ほとんどの日本人を含めたデザイナーたちが今シーズンのトレンドとしての“ユニフォーム”に
引っかかって、単純に機能あるものが“ユニフォーム”だと大いなる勘違いをしたコレクションが
殆どだったが、このデザイナーの宮下の思考能力は決して、そんなに浅くなかった。
むしろ、強かでアイディアと感覚を纏い付くまでに、考え解きながらそれを紐解いて行く
プロセスを自身が楽しみながらあるのデザイナーへの畏敬の念をも込めて構築して行く。
それが今シーズンは亡くなったK.L氏だ。彼の癖の一つである“Neck fetch.”へのオマージュが
見て取れる。
しかし、彼も今シーズンのトレンド・フレームである「Gender」のサークルに参加する。
それをロマンティクに彼の癖の一端でもでもあろうか、「フェッティシスト」に纏め上げた。
そこでは、僕は少年臭さの恥じらいとともに隠そうと漂わせたマヌカンのメイキャップに
気がとられた。そして思い出したのが前述のボードレールのメイキャップに関する一文だった。
ユニフォームであってユニフォームの意味を喪失させてしまうまでのミッキーマウスたちの
使い方は自己の欲望の道を欲しながらも、同時に遮断するダブルバインドの状態も感じられ、
註釈し、同時に隠蔽する役割をこのミッキーマウスは担っている。
彼が作り出す今シーズンの世界はもはや身体や欲望や感情から切り離された表層の認識の源泉
としての視覚ではなく、それらとそれぞれが結びつく事で視覚や視覚的イメージ(ファンタス
マ)が彼の想像力の中で豊饒されている。例えば、彼にとってのこのミッキーマウスは実は、
一種の”カモフラージュ・プリント“なのである。ここでも、「ミッキーが持っている意味を
喪失させる」までのグラフィックな使い方というか、遊び方が痛快である。
それによって、今回の彼の“ジェンダー”なるファンタスマは現実の物質的な存在あるいは精気
とも合体する事で着た人間の身体中を駆け巡るだろう。そして、時には心の病に、フェッティ
シズムにおとしいれたりするかもしれない。
ここでは、「どんな物も、使用対象である事なしには、価値ではあり得ない。」という
マルクスの商品の物神性に関する言葉を思い出そう。
そして、「モノの救済はモノになることによってのみ可能であり、服は服になることが
服なのだと言おう。」
或いは、「意味が消滅されたユニフォーム」に異質な意味をカモフラージュすることによって
「Gender/Lgbti」へ何かを差し出したのだろう。
文責/平川武治:巴里ピクピシュ大通りにて、6月27日:
投稿者 : editor | 2019年6月19日 22:53 | comment and transrate this entry (0)