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UNDER COVER S/S 20: COLLECTION/上質な「覚悟」を見せてくれた高橋盾君。

そろそろ、このようなメンズモードの安直で薄っぺらな表層に嘔吐し始める
デザイナーたちが登場始めた。

まず最初に、この狼煙を上げたのはUNDER COVERの高橋盾だった。
彼の実直で柔軟な自由の眼差しと性格の優しさとそして、持ち得た彼の美意識と自らの
ディシプリンによって、「LUXURY/贅沢度」満タンの今シーズンのUNDER COVERの高橋盾は
それ相当の「覚悟」を決めた“気概と根性”を世界レベルで堂々と見せつけてくれたコレクション
について、僕は書きたくなった。

僕の好きな映画の一つに、香港映画「花陽年華」がある。
2000年、あのW.カーウエーイが監督したこの映画は、英BBCが選んだ「21世紀 最高の映画
100本」で、2位に選ばれてもいる。
参考:http://www.bbc.com/culture/story/20160819-the-21st-centurys-100-greatest-films
今の若い人たちは宮崎駿さんのは絶賛するが、このようなもう既に,20年近くが経っている
名画には残念ながら殆ど、皆無であろう。
男と女の切ない出会いと想いと行為が“微妙な”状況の元で淡々と語られているこの映画が
これほどまでに“せつなさを微妙に“醸し出している大きな要因にこの映画の音楽がある。
“梅林シゲル”氏作曲のものである。僕の好きな音楽家でもある。彼の音楽の好きなところは
人それぞれが持ち得ているこゝろの想いや情景を叙情的に、西洋楽曲では表現し難い余韻を
旋律化させ、その時のこゝろの情景を想い出させるまでの時間の“間”が作曲されているところで
あり、日本人が持っている“湿り”が音楽化されているからである。
今シーズンのUNDER COVER のショーは“こゝろの湿り”を感じさす迄のスローな入り方で
ショーが始まった。これは白人や黒人たちには到底、この“繊細さとビミョーさ”は理解できない
ある種の彼が選曲した「美意識の旋律」であり、ここで聞こえてきたのがこの “梅林シゲル”氏の
「花陽年華」のサウンドトラックでスローに入り込むかのように始まった今シーズンのUNDER
COVERのコレクションはここでも、微妙な無彩色で始まりこの無彩色のまた、微妙なコント
ラストの展開で始終し終わったが、見事にまとまった新たなる「ジョニオ・ワールド」だった。

この今シーズンの彼のショーとは彼が20数年来ファッションに託しそして、服が大好きで
大切に考えて、愛して来た証としての彼にとっては、“次世代型コレクション”になり、その
「勇気と決断」は現時点では世界レベルでも高橋盾、一人しか創造出来得なかった「覚悟ある
コレクション」になった。
「やる時は、やってくれる!!ジョニオ君。」コレクションだった。

巷のメンズファッションも黒人たちが顧客に呼び込まれそのために、黒人ディレクターを
寸時に手配してメディア戦略によってただ、ケバくラップ宜しく騒々しくわかりやすい世界へ
と堕落して行く現実にうつつを抜かしその「上書きデザイナー」たちがいきがり、増えるのみの
退化しだ巴里の現実がより、広がり始めた今シーズンにあっては彼の覚悟の痛快さに僕は脱帽。

24年間が過ぎたストリートスポーティカジュアルのデザイナーとしての高橋盾は遅れている
このストリートカテゴリィーのファッションの世界ではもう既に“レジェント”の域に達している
デザイナーである。なぜかと言えばまず、2000年以後、センスの悪い白人デザイナーたちが
ストリートにビジネスを探し始めた時にその多くが「UNDER COVER」の上書きを行い、
今では新座者「黒人」たちがまた上手に彼の20年ぐらい前の世界からヒントを得て「上書き」を
始めているのがここ数シーズンのメンズの現実でしかない。そんな状況下でのメンズの作り手
である、若いデザイナーたちにはすこぶる興味深いデザイナーとしてその存在を認められている
のも証拠であろう。今回などはショー後のバックステージへ関係のなさそうな黒人たちの
ウロウロ風景が目立ったのも一端である。

「テーラリングへの新たな挑戦」これが彼がこのシーズンに「覚悟」した行為であった。
メンズファッションにおける、“テーラリング”というカテゴリィーは「何時かは通らなければ、
避けて通ることが出来ない」カテゴリィーである。ストリート出身のメンズデザイナーたちは
あえて、自分たちのリアリティからこの“テーラリング”を都合良く逃げて来た。テーラリングが
出来なくても、”ストリート・アイテム“の世界は”T-シャツ&スウエット上下“のバリエーション
の世界。そこにどの様な”プロテクション&アジテーション“が為されているか?そして、
“ユーモア&ペーソス”がセンス良く施されているか?のシナリオがすべての根幹である。
“ストリート・カジュアルウエアー”へこのような兆しを90年代終わりに既に、現実の“路上”
へ落とし始めたのは高橋盾で代表される日本人“ウラハラ系デザイナー”だった。その後、20年
ほどの時間が経過した現在も、メンズにおけるこの“ストリート”というカテゴリィーの世界は
ほとんど不変である。ここで変わったことといえば、“シューズ”がこだわりを付帯させて新たな
アイテムとして登場してきた事である。そして、この世界が今ではモードの世界へ押し上げら
れ、新たな黒人顧客の参入によって実に、分かり易い“ストリート・スタイル”のトレンドとして
“より、騒々しさ、派手さ、安直さ”が加わって再トレンドされているのが巴里の昨今の多くの
「上書き」コレクション。

高橋盾の今シーズンは「ここからどれだけ遠くへ、しかも、どれだけ新たなカッコよさが創造
できるか?」のコレクションだった。しかも、その彼の眼差しは確実に、「日本人の眼差し」で
あった。
当然ながら、この世界観は西洋人が自慢する世界である。軍服の為のテーラリングが
スーティングの世界にも求められ、英国、フランスそして、イタリーなど、それぞれの国を代表
する軍服からのテーラリングテクニックがそれぞれの国のダンディズムを生み、“スーティング
技術” を競うまでになったのがここ100年ほどの白人社会のメンズ・モードの歴史の根幹であ
る。ここに真っ向から向かうと“ドンキホーテ”のサンチョ・パンサになってしまう。が、
この立ち居場所に自ら甘んじて未だに、完全自己満足のために金と時間と労力を使っている日本
人デザイナーたちもいるのが現実である。
今回の高橋盾は自分が持ち得ていたリアリティとしての“ストリート魂”をこの世界へ投げつ
けた。
それらはジャケットでありコートであるバランスの美しく上質にテーラリング(肩入れ )
がなされた上着。ワークスからのアイテムをここでも、手を抜かずテーラリングがなされた
上着へ。施されたS.シャーマンの写真が見事なジャガード技術によって日本の“墨絵”の世界観で
施されている。また、“折り紙”や“ずらし”というジャポニズム手法を施された襯衣(シャツ)群
など等。また、彼の得意な世界の一つとしているスニーカーが1足もなかった、徹底ぶり。
「漆黒から、グレイ・ブルーそれに、プルシアン・ブルー」までのカラー・バリエーションはに
ソフィスティケートされたデニムラインのインディゴが根幹であろうか?
これらが見事に、「やる時は、やってくれる!!ジョニオ君。」コレクションになった。

高橋盾がこれほどまでに、これらのテーラリングに魅了されたのは「VALENTINO」との
コラボレーションが始まりイタリーへ招かれて見てしまったことの全てに由来しているという。
長い経験から言わせて頂くと、多くの日本人デザイナー達が「パリ・コレ」デザイナーという
肩書き欲しさにパリへ“ネギ”を背負ってくる。そして、それなりのお金さえ使えば、誰でもが
コレクションには参加できる。これが現実である。そして、現在ではそれなりの現地組「日本人
チーム」が裏方を全てをやってくれる仕組みも出来上がっている。従って、「金次第」で憧れの
「パリ・コレ」デザイナー誕生は簡単にできる。そして、現在ではこの「金次第」の世界も中国
人たちがこの「金」を出してくれるケースが増えている。巴里でショーをやり、日本でそれなり
のメディアに騒がれる。それをもとに彼ら、中国人たちは自国でがっぷりとビジネスに落とし込
み彼ら達は損をしない。「タヌキとキツネの化かし合い」関係が昨今の、日本人デザイナーと
中国人ビジネスマンたちの関係性である。これの化かし合いに乗っかっているデザイナーたち
は、巴里へ来てコレクションをしても「巴里からは何も学ぶ事なく」只、イキがって帰国する。
早く凱旋帰国し、メディアに騒がれたい、“完全自己満足”に浸りたい。そして、“女にモテた
い。” このレベルのデザイナーたちである。折角、巴里へ来ていても、ネット上で「上書き」の
ネタ探しはするがこの街から学ぼうとする心気あるデザイナーは殆ど、皆無である。

高橋盾レベルの経験を積んだデザイナーは既に、現地の外国人たちとの関係性を持ち、
彼らたちから、学べるものは学んでいる。その結果が今回の「覚悟」を感じさせるまでの
UNDER COVERコレクションになった。

人間は、「見てしまわなければ、進化しない。見てしまったことによって、
自分がどのような行為をとるか?これがその人間の人間性に繋がる。
そして、その人間の「人格」を生む。
見てしまっても何もしない人間はやはり、クズである。」
この根幹は僕はやはり、残念な事であるが、その人間の生まれと育ちあるいは、家庭教育に
由来すると感じる。

「VALENTINO」の工場を見る機会を得た事で始まった、「新たなる時代へ、」堂々と、潔く
旅立ち始めたUNCER COVER,高橋盾の懐の深さを感じさせた今シーズンのコレクション。
彼の美的根拠あるいは、審美眼の根幹はもう、決して「トレンド」の範疇では収まらない。
寧ろ、トレンドという「壁紙」から遠く離れて、自らがその経験と関係性で持ち得た、彼自身の
世界観から生み出された彼の「LUXURY/贅沢度」がすべての根幹である。
結果、いぶし銀的なる「ジョニオ・ワールド」コレクションであった。

“梅林シゲル”氏の「花陽年華」のサウンドトラックがフィナーレにまで染み込んできた。
この日本人しか感じられない“湿り感“と共に、高橋盾の「覚悟」が一つのエピローグへと
繋がる。
「 ありがとう、ジョニオ君。」

「 浮ついたトレンディーな世の中に
心底飽き飽きしています。
こうなったら徹底的に抵抗してやろうかなと思っちゃいます笑
自分に足りないものを足していくのはとても大事ですから。
そんな思いです!」/談/高橋盾:

文責/平川武治:巴里ピュクピュス大通り。



投稿者 : editor | 2019年6月30日 23:37 | comment and transrate this entry (0)

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