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今年の衝撃!昨秋の川久保玲、ファム・コレクションの1点。ー”想像の精気“
”想像の精気“/unospirio fantastico
川久保玲の逆襲ー20S/Sコレクションに感じる新たな精気。
ーーー「身体から離脱し、ヴィジョンという形を見た、”あの1点“。」
いつもの僕のだらしなさから、あれほどの衝撃を受けた1点についてまだ書いていなかった
ことに先ず、その作者へ詫びるべきであり、あの1点でまた今後の川久保玲のモードを見続けたく
なった今年の衝撃コレクション。
*今シーズンのコレクションのためのお膳立て、/
今シーズンのCdGファム・コレクションもその先便を発表したこのブランドのオム・
コレクションもそうだったように、ヴィエナ国立オペラ座で公演される歌劇「ORLANDO」の
舞台衣装を依頼されたことからの珍しい、“相乗りコレクション”であると言う。
これは“今年のトレンド”を見事に知的にそして文化度高く表現し、イメージングするには好都合
な策士的方法であって、もってこいのアイディアで手掛けられたかなり特殊なコレクション作り
であった。
この様なある種のコラボレーションが可能であることの強かさと凄さはやはり、既に世界で
認められた創作者としての川久保玲の存在と共に、「ユダヤ・コネクション」の強みであろう。
他の日本人デザイナーのレベルではこの策は不可能に近い“事件”であろう。
先ず何よりも、このVirgínea Woolf/ “ORLANDO”とは、「Gender-Object」がテーマの小説
であること。「伝記文学か、歴史文学か、幻想文学か、滑稽文学か、風刺文学か、頻繁に登場
する伝記作者の狂言回しを挟みなから語られる濃密な文体が急流を下る早さでうねり、逆巻き、
蛇行し、少年のオーランドーから性転換したオーランドを経て結婚、出産したーまで、そして、
エリザベス朝からビクトリア朝を経て、シェクスピアからホープまで滑稽に扱われ、上流階級の
バニティなパーティーがさんざん揶揄された“Gender伝記”である。」
(参照/ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/オーランド)
これは前述したが、このシーズンにはもってこいの「Sauces of the Creations」であり、
今シーズンのトレンド・キーワードとなった、「CAMP」/「衣装」/「性転換」「GENDER」が
見事にブリコラージュされた伝記小説的であるこの“ORLANDO”の舞台衣装を手掛けたと言う、
このデザイナー・ブランドしか生み出せない見事な知的文化的なディレクションが先ず、
フィルターとして掛かって実現化が出来たコレクションだったことを褒めるべきだ。
**一つの言葉、「想像の精気」を探して、或いは、
「川久保玲の未来観を観てしまった、1点。」/
僕が「想像の精気」を感じ取ったのは、昨シーズンのCdGのランウエーの一番最後に登場した
作品である。(もちろん、この作品を生み出すプロセスにある「その前の黒ともう一つ前の黒」
も素晴らしい作品であるが、)
この作品の以下の事、「使われた素材と素材感、その造形性とそして構築性そしで、37年間
以上、現役デザイナーで在り続けるデザイナーにしか出せないバランス観とシルエット」に
僕はイカれてしまった。
そして、これらが見事に新たな「川久保玲」と言うハーモニィーを生み出していた“存在感”
そのものでもあった。
***「想像の精気」:unospirio fantastico/
感覚的な性質から表象像が抽象されないならば、
知性はこの表象像を受け取ることが出来ない。
この限界によって、「想像の精気」が持つヴィジョンとしての能力といわば、知性に対する
その優越性が基礎づけられる。
そして、自らに固有の場と極めて含蓄に富む意味とを見出すのである。
『 目を通して微細な精気が刺激する。
それがこゝろの中に生気を目覚めさせ、
精気が身を動かし、
他のすべてを気高いものにする。
目を通して侵入する繊細な精気は、
”より高く、より微細な“ 視覚の精気である。
目から想像へ、想像から記憶へ、
そして、記憶から身体全体へと流れる
プネウマの循環というまでの経験。
愛は、精気の動きである。
唯一の愛と言う経験とは?
想像を産む。
思いめぐらしとしての瞑想と同時に、
欲望としての愛、
想像とは、欲望に全く等しい。
つまり、目を通して刺激し、
こゝろの中に精気を呼び起こす
微細な精気に対応するのは、
一つの欲望であり、
女性の顔から発して、想像の中に
その姿を刻印するイメージであり、
次々と続く精気たちの繋がりに対応するのは、
「新しい美」のイメージの絶えまない生成である。
僕が見たものは、
モードの中には存在しないものが、
モードとなった一つだった。
「精気の動き」
すなわち、愛や怒り、欲望、喜び
それに、悲しみ哀れみ、恐れあるいはその他の情動ように
言わば、心臓の拡張や収縮に応じての動き。
感覚的であれ可知的であれ、
受動的な能力に対して対象が刻印する形相が、
ある意味で情動と呼ばれる。
ちょうど、目にみえる対象が、
ある情動を感覚に与えたり、
可知的なものが、ある情動を知性に与えたりすることがあるように。
また、別の意味では、
霊魂の動きが情動と呼ばれるまでに。
「意味すること」を「表現すること」
もしくは「隠蔽すること」とみなさなければならない
必然性を探し求めてここまで来てしまったのだろう。
際限のない思いめぐらし、
鏡を見ると言う行為と想像力とは、
同一視されて良いだろう。
ならば、その向こう側
或いは、その内側とはを思いめぐらす。
そして、目に向かられる精気は、
より高くより微細になるまで、
僕の想像の中に
彼女がやってくるのは、
いつも彼女に寄せる想いとしてである。
僕はそれから逃れることはできないで
30数年を費やしてきた。
自らの不幸にしがみつく愚かな魂は
いかに彼女が美しいけれどもすげないかを
思い描き、その苦悩を作り出す。
それからこの魂は、この苦悩を見守り、
大きな欲望に満たされて、
夢からもそれが出てくるようになると、
自分自身に対して腹を立て、
苦悩が悲しみを燃えあがらせる
火種をつくるのだ。
やはり、
僕が見たものは、
モードの中には存在しないものが、
精気となったモードだった。』
[image:F57BA59A-5DA2-4740-AAAB-73A1A9688DFF-453-0000004A044B9386/写真 20191016 134804.jpg]
****それは“建築”と読める、オールインワンという繋ぎ或いは、建築的構造体。/
ここには、「川久保玲の未来観を観てしまった、1点。」が在った。
此処にはまだ、明日を見つめるその潔い深い眼差しがあった事だった。
最近では使われるのが珍しく、しっかりと打ち込みが為されたむしろ、メンズ用に使われる
べき綿100%素材を使って創作された「服」(?)である。
何故、このように言葉では表現出来ないかと言えば、見た目では、コオトにも見えるし、
ドレスにもみえる「服」だからだ。
実際に現物の作品を触って確かめると、
「二重構造的な造形であり、表層はコオトのようであり、その内側は“オーヴァーオール”でも
ある建築的構造に構築された作品」とでも言おうか。
これは全く、新しいクチュール作品である。
この打ち込みの強い綿素材のみを使用しての「あの1点」には今までからの込められた多くの
ものを感じるまでの「黒の造形」でした。
「過去ー現在までの継続ー現在ーこれからの未来への想い」迄が、モダニズムを超えた建築
であり、モダニズムを捨てた造形物でありそして、「服」であり、「オールイン・ワン」(?)
僕が使いたくない“芸術”という言葉を超えた新たな否、彼女だけ立ち向かうことが出来る世界
への挑戦であり、自分探しでもあろう「あの1点」でした。
僕も「あの1点」によって、自分が為さなければならない世界への入り口に初めて立つことを
見つけられました。
また、コレクション全体からは、
『ヴァージニアウルフー「オーランド」ー男ー女ージェンダーそして、人間。』と言う、
「個人主義+自由主義=人間主義」と言う「近代」と言う時代そのものの根幹が、
コレクションの中から「自由という名のメビウスの輪」を思い巡らせることができ、
決して、これらには独りの人間の際はなく「人間の世界」の「未完なる繋がり」であると言う
「絶対自由」への道程を「オーランド」と共に感じたことも。
究極、これは一人の人間、川久保玲の生き様の自由な眼差しと覚悟であると感受した
コレクションでした。
「ありがとうございました。」
合掌。
文責/平川武治:
令和元年十二月二十五日記:
投稿者 : editor | 2019年12月21日 20:34 | comment and transrate this entry (0)