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ルプリ by 平川武治 JFW 東京コレクション‘07 S/S評論速報

07/Sep.;
Le Pli Diary  TOKYO Collections‘07 S/S by Take.Hirakawa 

POTTO
山本哲也
『エモーショナル。雲のように、風のように、』

 驚きを感じた。
今回、この様な手の内でコレクションを展開して来たとは。
静けさと安心と安らぎを着る女性たちへ、MY I HELP YOU?
自分の世界にチャレンジして、新たな自分の世界を見せてくれた。

その多くがメディア受けを狙ったド派手とノリのコレクションが主流の、
誰に向けて、何のためにが不明なスタイリスト受けを狙ったコレクションで粋がっている輩たちを向こうに廻して、堂々と自分がしたい事、出来る事を自分のこころの在り様として見せた今シーズンのPOTTO。
そこにはエモーションがデザインされている。

商売上手なメディアに出たがり無教養デザイナーと言うや輩たちはいつの時代もノリで勝負、口が巧い。奴らたちはそれを決まって、作品と称す。
ファッション業界に今、『元ヤンキー』が増えたのも一種、この風潮の現れなのか?
自分が持っているべき筈の自信がない、『服』が作れない、格好はつけられる。
こんなデザイナーたちはいつの時代からか都合よく『服』の心をも忘れてしまった。
当然であるが、『布とハサミ』が自分たちの商売道具である事を忘れてしまった。

『布とハサミ』が商売道具のファッション・デザイナーはその自分が扱う『布』を大切に扱いたい、
その『布』をこんな風にあの人に使ってあげたい、そのため自分が学び習得した技術でこんな感じの、この様な着心地のモノを、風合いのものを作れないだろうか?
こんな感じの時代にあった上質な『服』を仕立てられないだろうか?
ファッション・デザイナーと称する職業人たちの心意気さとはこの様なところから発してしまう
『MY I HELP YOU?』がその心。
決して、見せびらかしのためだけのお絵かきが『服』つくりではない。
『装い』のため。
どのような人に自分の作った服を喜んで『装う』ってもらえるかを密かに想い感じ喜びとするところに作り手としてのやまとこころが存在する。
POTTOの今シーズンのコレクションを見ていて改めて考えさせられた即ち、僕の感想がこれだ。

着る女性の『身体つき』を想う。即ち、肉体の存在を感じる。
その上で、『分量』を感じ、読む。
これが今の時代では一番直感的に時代観を感じさす行為である。
そして、トワレを組み、『布』と遊ぶ。
自分でいろいろな条件やルールを探り、求め、委ねて『1枚の布から』に辿りつく。
COVERINGとWRAPPING
その心の在り様は「心と身体をプロテクト」。
道元禅で言えば、『自心を自心で自由にする』が自然体。
花や鳥も樹も雲も風もこうして存在してこそが『自然』

今シーズンのPOTTOはこれを試みた。
彼自身の自らが修練し、習得して経験した時間と気持ちと体力を持って
自心で。
だから、堂々と潔く。

そのために、結果、少し体数が出すぎた感もした。
最後のプロセスとして、自分との距離感を持ってコレクションの全体像を再度見る必要さを憶えればいいこと。
当事者の持つ直感から、傍観者にもなりその距離感を持つこと、冷静さを持つこと。
『分量』の付け方に強弱をつけることも可能になる。
これによってコレクションの全体像は感じ、読めるそして、絞められる。
そこにエモーションのバランスが生まれる。
このプロセスはビジネスへ繋がる要因でもある。

ショー構成では『光』を自然と考える演出の配慮とセンスが感じにくかった。
陽の移ろいもまた自然。心を優しくする今の時代の大きなファクタ-


40年ほど前までは世界中に『型紙』と呼ばれたものが在って、それを拠りどころとして『布とハサミ』があれば縫いものを経験した人であれば誰でもが『服』を作れるという時代があったのだ。
この『型紙』がいつの時代からか消滅してしまった。
この『型紙』を商品として売っていたのが今のファッション雑誌のルーツ。
型紙作品のイメージとビジュアルをハンドブックとして始まったのがモード誌。
この『型紙』の作る事を教えていたのが洋裁学校。
いつの間にか洋裁学校は型紙を作り売らずにデザイナーを作る構造へと。
POTTOのスタンダードに対する自信の表れが、遊び心が『型紙』を付録につけたこと。
『型紙』=パターン。
もう、パターンは決して、『企業秘密』ではない。
先日まで行われた『コムデギャルソンのためのコムデギャルソン展ーパターン編』をみれば一目瞭然。
新たな時代はもうここまで。
パターンを企業秘密としているデザイナーほど、彼らたちが実際に使っているパターンはパックって来た物が多い。世間と言うものはこんな程度。

『布とハサミと型紙』
改めて、POTTOの痛快さを感じた。
文責;平川武治

Ne-net
高島一精
『フリ-ダ・カ-ロ、又はAn An、かつての自由市民ルックと呼ばれて、』
 
 このデザイナーも成長している。
なかなかの自信が見える。ビジネスも出来始めてきたのだろうか?
若しくはビジネスを考えた所でのショーと言う課題を与えられているのだろうか?
又は、新たデザイナーメイトが加わったためのプレッシャーもあるのだろうか?

 始まって、しばらくしてくるとこのカラフルでポジティフなコレクションが僕たちの若い時代の匂いを発していることに気が付き始めた。
『An An』 、そう、あの日本のファション雑誌の元祖、現在の東京モード・リアリティの祖形を提案した雑誌が1970年3月に創刊された。その時にこの雑誌が提案した当時の日本人向けのシルエットやコーディネートがまさに、『レヤード・ルック』と呼ばれ『トータル・ファション』を主張した『自由市民ルック』であった。このとしは『大阪万博』も開催された年。世間全体が新しい価値観で戦後の日本が動き始めたいわゆる、『改革の年』でもあった。

こんにち当たり前になってしまった日本的コーディネートファッションのスタイル化はここから誕生し、「ノーブラ」が流行し、下着のアウトウエアー化へと。そして、アメリカンヒッピーたちの「T-シャツ」が登場したのもこの時期。自然を意識し、「バックトーザネイチャー」のスローガンがモード化され、フォークロアファッションがそして、当然のようにジーンズ・パンツがニューアイテムとして当時の流行の先端を担った。
丁度、現在の社会性が「グローバリズム」をコンテンツとした同一世界の時代性を持ち始めるとそれに対抗するかのように、若さのシンボル、新しさのヱネルギィーを「ローカリズム」へ求めるように。
それと同じように、この時代の若者たちは画一化された「モノ」へのカウンターカルチユーとして新しさを
民族衣装や手作りもの、エキゾティックさへ求め始めた時代。

もう一方で、ファッションの産業コンテンツがこの年から現在のような価値観を売るビジネスへと
革新された、「繊維産業からファッション産業へ」の時代の幕開け。これが35年ほどの昔話。
しかし、現在のJFW が仕切るこの最近の東京コレクションを見ているといまだにこの確執を彼らたちの発想と運営手段に感じてしまうのは痛快である。
総てが解った振りをして国家予算を使いながら決して、お互いが理解されない、出来ないところでやっている術が見て取れるからだ。
ファッション・ブティックが誕生し、原宿が現在のようなファッションの街・界隈性を持ち始め、マックも登場したこの時代。ファッションの総ての変化はこの雑誌、「アン アン」とその後の「ノン ノン」と言うファッションメディアの誕生による所が多い。

思わず、このコレクションを見ていて現代のような日本のファッションの黎明期を彷彿させてくれて、楽しくも懐かしくも面白くも。これが僕たちの持ち得た、その当時持った「未来」はこの程度だったのかと挫折感も。

最初から全体の2/3ほどのコレクションはビジネスを考えた所でのコレクションと読める。
今的に言えば、「洋品」になってしまった定番アイテムのトレンド的こなしのバリエーッション。これは今のファッションビジネスの売り上げを稼ぐ一番のおいしい所。色、素材感、カット-ソ、プリント、こなし方、質感、手つくり感、優しさ、暖かさ、インザホーム感、エキゾチックさ、モダンさ感、ポジティフな総て。きっと、このデザイナーの中にある前回もそうであった、等身大的「ポジティフ・オタク」が今シーズンはリバイバル、「アンアン」をたたき台にしての展開。
これはその昔を知らない若者たちには新しさと驚きと楽しさへ。今も続くBIGIやMILKそれにPINK HOUSEの初期を彷彿するまでのコレクションを現在の衣料品化してしまったアイテム群に落とし込むまでの「腹八分メ」のデザインは旨い。この歳と経験でこれが出来る事はかなりMD発想も豊かな頭の良いデザイナー。

後半以降から登場してきたのがBRASIL,UTOPIAと書かれたブラジルカラーをベースにしT-シャツ群。
そして、日傘をモチーフにしたオブジェとそれに似合うロンググドレス。パッチワークあり、エスカルゴあり、段々あり。分量も決して、チープには見せない程度に程がいい。
何処かで見たイメージだと考えるとそこにはあの「フリ-ダ・カ-ロ」が。
‘80年代後半にはフェミニストたちのシンボルンとなり映画も出来たあのエキセントリックな生涯を持つ彼女、フリーダの登場。実は、昨年の巴里では彼女が再ブームとなりモードの表層へ出てきた。’90年代を通じて、あのフェミニズム運動の実際はどうしたのかと言う総括的時期に入りいろいろな所で展覧会やイベントが催されていた。
ステージのマネキンの足。天井から吊るされたボディー。
このデザイナーの中には本当に変わらぬ共通するものがあって毎シーズン、彼はそれを自分のショーのクリエイティビティへ委ねて楽しんでいるのだろうか?
自分の中の狂気を発見すればどうするか?
もう、この歳で見てしまっているのだろうか?

僕にとってはとても面白い、興味深いデザイナーである以前に彼が持っているその深みとしての知的さと静けさが頼もしくも虚ろにさえ感じる。
『こんな男の子がいたんだ!!』
コンセプトの建て方、時代の感じ方、読み方そしてそれらのこなし方としてのイメージングと最後には商品つくりに至るまで、かなりレベルの高さを持っていると読める、数少ない現代日本人若手デザイナー。
チームメイトたちも良いのだろう。
文責;平川武治

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年09月08日 15:10