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東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』ー1 & 傍観者の眼差し
先シーズンは見る機会を逸した東コレ。
始まった、今シーズンを幾つか見始めてみると、案外見なかった事が”健全”である事に気がついた、変わらぬ東コレ。
何が変わらぬかと言ってしまえば、これが結論になってしまう東コレの実態。
招待された外国人ジャーナリストと称される人たち、(この招待レベルも年々レベルが低下した人材しか来なくなっている。)そんな幾人かの現地仲間たちと会話しても彼らたちが一同にして本音を言う事は
『「No originality & something」「No intellectual」&「No emotional」But 「So interesting material」That's all !! 』
これが毎年続いているのだから見なかった方が”健全”と言えてしまうまでの東コレ。しかし、当事者たちとそれを傍観しているメディア関係者たちの『大い なる勘違い』もここまで国家予算を使ってしまって、そのレベルでやってしまえる環境そのものに当たり前感と義務感を持ってしまっての継続のみは誰のため に何のためにが年々希薄になってゆくのみ。いわゆる、『マンネリ化』『便秘』状態の『ゲットー(囲われた)イベント』でしかないのが残念だが現実。はっきり言って、この程度のレベルのファッションデザイナー人材であればいつになっても世界に通用する創造性を発信出来うるレベルの人材は生まれてこない。『東京という生簀の中での彼らレベルでのいわゆる、『虚飾の上塗り』作業でしかない。地元の東京でさえも、『誰が着たくなる服なのか?』『誰に着て いただきたい服なのか』『誰が財布を緩めて買ってまでも着たい服が何着ショーで見る事が在るのか?』『店頭に並べられた時のプライス感は?』など等、、、
実際、東京を面白いと感じ来日する外国人たちは決して、間違ってもこのレベルを楽しんでいるのではない。この事にも目覚めなければいけないのは誰なのだろうか。自分たちのお金を使って興味ある事を楽しみにくる彼らたちは時代を感じて、未来を探り、ビジネスを考えた時、『アキバ』であり『ウラ原宿』であり『109』で在り『オタク』という新しさと伝説となった『JAPANESE AVANT-GARDE』それに、東京の『夜』でしかない。決して、現在のこのレベルの『東コレ』ではない。彼らたちは第2、第3の『UNDERCOVERやJUNYA』を探しに来ているだけである。
/文責;平川武治:
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「 東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』ー傍観者の眼差し」
”ヨーロッパで出会った新人たち@21_21”
ヨーロッパのファッション学校を卒業した若手たちを紹介する展覧会「ヨーロッパで出会った新人たち」について、この小規模な展覧会の構成は大きく分けて3つ。まず、窓際のコーナーに彼らそれぞれの作った服が人台に載せられてまとめて展示。中くらいの部屋では彼らが自分たちの服をスタイリングして撮ったイメージ・ヴ ィジュアルの展示。大部屋では、2×4で作ったホワイトキューブが5個ジグザグに仮設されていて、 1チームにつき一つの部屋でインスタレーション。外壁にはそれぞれが作った映像が投影されていた。おそらく、卒業審査でも同じような展示形式がとられていると思う。展示全体の雰囲気としては、「若手デザイナー」というよりも美大・芸大の卒展のような雰囲気がした。そこで、個別の感想については講評風に書く。評価は、秀、優、良、可、不可の5段階。
まず、MIKIOSAKABE。等身大フィギュアのアキバ風ディスプレイ。彼は日本人だが、外国人観光客が一見でトキオ・マイクロポップに飛びついたような趣き。完全な消化不良。表面的というより表面も見えていない。何かへのまなざしというより、葛藤、圧倒。彼自身のブログを読むと、東京での発表、東京という環境に戸惑い、東京におもねっているのがよくわかる。なぜ、自分のルーツを信じ、それを貫き通さないのか?それこそが僕たちの希求するところなのに?外国に留学してきて日本に戻ってきた時、ある意味で浦島太郎的な存在となってしまい、日本の構造の中に溶け込むことができないコンプレックスから二次元の世界に逃げ込んでしまっているようだ。彼がオタク的な題材を選び取ったというよりは、彼自身オタクなのだとはいえまいか?(彼だけでない。僕はこの展覧会の参加者は皆、浦島太郎である。)
たった数週間東京で過ごすだけでそこから何らかのリアリティ=その場所が持つインディジャナスな空気感、時代感、身体感、記憶、欠落、ユーモアetcを読み取り、咀嚼して自分なりのアウトプットをするというのはそれなりの実力が必要だ。しかし、彼にその実力がないのは明らかだ。彼自身、自分にその実力があると思うがゆえに今回のテーマ設定をしたわけではないだろう。自信の欠如、迷走の結果であることは言うまでもない。自らを取り巻く環境や背景への洞察、分析、そしてそれを自分なりのやり方でどう構築していくか。自らのルーツ=眼差しを読み解いていくこと。それこそアントワープのファッション教育の主眼であったと僕は思うのだが。申し訳ないが、僕の感想は『不可』。彼はまだデザイナーとしての準備ができていない。
次は、WRITTENAFERWARDS。すべてオフホワイトの服、白い部屋。彼らの部屋の印象はある意味、「普通」。強烈な匂いやこちらに問いかけてくるような何かが明確に伝わってくるわけではない。インスタレーション全体としてもそこまで密度=世界観があるわけではない。しかし、見えにくいが確実に「中身」はある。特に、 人台に載せられた服を見るとそれがよくわかる。服は全体としての素材と量感のバランスがあり、細部まで意識がいっていて、全体的な密度、空気感がある。素朴だが、彼らなりの時代観に「品」が感じられる。そこに、彼らが考え、服を作ることに対して試行錯誤した痕跡が垣間見える。
今回展示した作家の中で唯一、自分たちにとっての「服」を感じさせてくれたチーム。しかし、表現としての「強さ」はまだはっきりと表れていないので「良」をつける。ただ、この点の未熟さについては作家二人ともはっきりと気づいていて、自分達なりの課題を見つけていたようだ。まだ芽は出ていないが確実に種は蒔けた様子 。
TAROHORIUCHI。彼の作品は悪い意味で優等生。ある意味で早熟なのだと思う。しかし早熟が悪くしか作用していない。彼は最終的なスタイリングの部分、つまり出来上がった作品を見栄えよく見せる方法を少なからず知っている。そして、その部分に多くの労力を費やしている。しかし、もっとも肝心な部分、彼のオリジナリティ=クリエイションの核心はあっけないほど何もない。本当に何もないというよりも、どうやら、彼自身無自覚にそこから逃げてきたままここまで来てしまったようだ。彼は早熟で賢いが故に、それらしき「完成」「成功」を最初から求めすぎている。あとは彼のイメージするそれらをトレースしているだけ。彼がしたいことは本当に「服を作ること」なのか。否。彼が本当に服を作りたいと思っているならば、最低のクオリティでもよい、自分の足で立って、転びながら自らのクリエイションをしていくべきだ。クリエイションというのは文字通り、頭でなくフィジカルな部分でのアクション=身体性からのみ生まれると僕は思う。彼はいつ自らの根本的な「過ち」に気がつくのか。難しいと思う。「不可」をつけさせてもらう。
傍観者;Josh Matsuzaki