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東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』−2 & 傍観者の眼差し−2

 
「 東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』-2」
『金ですべてを解決しようとしたオリガルヒ*の存在』/この一文は、最近のロシアでのある事件に対するロシア最高検察庁検事総長の言葉である。

 『21_21』展の最初のアイディアは僕が彼らたちへ与えたものである。
mikio,taro,yoshiたちをはじめとした7人ほどが鎌倉へ来て僕の話を聞きその後、彼らたちが行動を起こして今回の展示会として出来上がった経緯が在った。
 彼らたちは思い切り、不安定なるコンプレックスの固まり集団である。
そのコンプレックスだけがみんなの共通項でありそれ以外の目的や目標それに誰のために、何のために自分が服を作る事を学んで来たかも見事にすべて、バラバラな集団である。
だから面白いとも思った。何も、服作りそのものの想いや実際に”着てもらえる服”を作る事を学んで来た訳でもなく、ただ、彼らたちが思っているかっこいいデザイナーに成りたくて親の金を湯水のように使って、ブランド学校で、外国でそのレベルでは何不自由無く学んできましたから特別に見てくださいという甘えの構造を持ったコンプレクッス集団でしかない。そこにはただ、焦った、小賢しい目的がそれも、それぞれが勘違いして持ち得てしまった結果が言いだっしっぺとしての筆者からすれば、残念だが、この程度にまとまったと言える展示会だろう。
(”writtenafterwards”はこれが判明した時点で自分たちの立場との大いなる異差とギャップを知り、理解しそれが今回の彼らたちとは当然ながら、誰が見ても理解出来る差異ある結果としての作品製作へと、大いに可能性ある方向性を感じ始めた、一種のトラウマ現象からスタートしたブランドであろうし、今後を注目。)
ここにも、日本メディアの表層のみの教養亡き、『虚飾の上塗り』を只、ただ煽る浅はかなる行動が読めるし、日本メディアの外国かぶれをうまく手玉に取った連中の、彼らなりの強かさも読める。彼らたちのエヂュケーションにはそれら以外には何も感じられないものが大半の展示会。海外からの参加したデザイナーと称する連中も何にも”着て頂ける服”など作った事も無い、当然であるが『馬子にも衣装』とでも言えようかなる存在として集められた輩たち。彼らたちも類友でしかないコンプレックスの固まりの連中がこの企画に飛び乗ったまでのウラ現実がある。

 実際にアントワープのアカデミィーはレベルが低下してしまっている。
これは既に以前のサイトでも書いたのでそれを参考に、現在はそれよりもひどくなっている。
 先生たちが21世紀に入って以降、パリの向こうを張って大いなる勘違いしてしまった事と、最近では日本人学生の親たちの金に翻弄されて、勘違いさせられてしまった結果であろうか。それに、この街は決して、モードのキャピタルには成れない田舎町でしか無い事が理解できなかったこと。パリとの距離が存在してこそアントワープがアントワープであり得るという事が忘れられてしまった。すなわち、この街には”エレガンス”が生まれ得ず、現在ではロシヤ系資本が大いに幅を聞かせ始めた狭き街。今度のヨウジのこの街のショップオープンも『オリガルヒ』が新たなバッカーとして一役を。教える側の先生たちの金銭感覚の不透明さが退職者を出し、変わった先生も残っている先生の幾人かもどこかでアルバイトをして現実を勘違いしている様と性。その受け口が『SCAPA』であり幾人かの日本人学生の親の弱みである。
 その証拠とも言える一つとして、ここ2年間のこのアカデミーのトップ点数で卒業した生徒たちが他のファッションコンテストに出展してもメインの賞が貰えなかったという現実。Taroのアントワープでの4年間もモードにおける『オリガルヒ』学生だった。先輩が独自で開拓した工場を金で使い、生地屋も自分で探さずに誰かが使っていいものをこれも金で使った結果の卒コレ。”金さえ有れば”の世界観が既に、ここにもというアカデミーの一部としての今年の卒コレであった。
 反面、今年の学生でもトップを取った学生よりも実力、センス技量と性格の良い生徒が3年生にも幾人かいた。彼らの実力はやはりすごいものが在り決して、『表層』だけで作品としての服を作っているのではなく、彼らなりに持ち得た美意識による『深層』が全体のバランスと合い成ってのある種の超越した『美』を生み出していたもの、セルカン。先の、T'Sで大賞を貰ったエックそれにヘヴェンやロマン。彼らたちもエトランジェ、トルコ人でありタイ人やフランス人。筆者は今年では特に、セルカンとヘヴェンの造形美への執然には脱帽。これは流石アントワープと、いにしえの僕が審査員をさせてもらっていた頃の、アンジェロ時代を彷彿させてくれた。彼らはウオルターとその一派を超越した美意識と感性と造形スキルがSo-high, So-modern &So-Elegance!!! そして、So- Emotion'!!!!!!に、彼らたちは確実にその工芸的センスとスキルが学校的プロパガンダ作品よりも本質そのものの美と明日という未来を造形していた事がすばらしく感じた。ウオルターがモード科の主任教授に成った事はこの学校がより、エレガンスから距離を、即ち、パリから、距離を再び持ってしまったと言う現実に終わらないでほしい。
 
 3年前にクリストファー、(卒業後、先輩、バーナードの紹介でロンドンのヴィヴィアンのアトリエでご主人のアンドレアのアシスタントをしていた。)と一緒に最高得点を取って卒業した瀬尾英樹君は今、パリのアズジン-アライアのアトリエで日本人で初めてのアシスタントとして、今ではビザも取ってもらってがんばリ、アズジンに大切にしてもらってとても生き生きと働いている。在校時代には彼もやはり日本人学生タイプの典型であり、ストリート系のウオルターに憧れて入学した生徒。事実、ウオルターの店用のT-SHIRTのプリントデザインをして彼の店に協力していた。が、今ではアズジンのところで働くというチャンスを得てから、モードの世界が全く違うところ、対峙したところに本来の服を作ると言う本意の軸性と意義性と両義性が在る事を学び、知ったと僕に話してくれた事が印象的であった。アズジンが今でも自分でパターンを引きトワレを組み、アトリエの誰よりも仕事をしている時間が長いと言う現実のさなかで働ける事に感謝している瀬尾君のこれからに心が引き締まる。

 アントワープアカデミーもグローバリズムの構造をいち早く手中にしてしまった結果がこの現実であろうか?
それがこの東京へまでも、ここに彼らたちのコンプレックスと焦りが。

注/『オリガルヒ』新興成金財閥;(ロシア語)
 
/文責;平川武治: 

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「 東コレ雑感ー『TOKYIOーCOMPLEX』ー傍観者の眼差し-2」
  ”ヨーロッパで出会った新人たち@21_21”


 外国人勢について思ったこと。総じて感じるのは、「なぜ日本で?」ということ。この東京という都市に彼らが思っているような「入口」はない。彼らを育てるようなジャーナリズムも存在しない。そしてそれゆえ、東京コレクションは完全に機能不全に陥っている。東京という都市にいる限り、彼らはただ消費される存在である ということになぜ気づかないのか?現に今回の展覧会、そしてそれに付随するデパート.ファッションショーによって、彼らはもはや「使い古された」感は否めない。彼らは一体何の目的で、何をお土産にしようと思ってはるばる極東の都市にきたのか?

 HUI-HUI。コンセプトは「コミューン」。彼女たちはファッション学校を卒業したのか?美大の学生がファッションを作ったような印象。服作りの部分もアートとしての視点、切り口としての部分も中途半端。コンセプトの「コミューン」について、服のデザインコンセプトとしてだけではなく、持続的なプロジェクトとして何か意 識しているのかと聞いてみたがそういう訳ではないようだ。彼女たちの「コミューン」はただのおままごとに過ぎない。ヨーロッパ人として歴史的にも「コミューン」の持つ意義、背景について皮膚感覚として知り得るはずのドイツ人達がなぜこれほど表層的な捉え方しかできていないのか不思議でならない。一体何を学んできたの か?「不可」をつけたい。
 イスラエル人とグルジア人のペア、STEREOTYPE。部屋内部の四方の壁にはロッカーが並べられ一つ一つのロッカーに服が吊られている。これらはステレオタイプな人々について彼らなりに考え、再構築されたものだ。ロッカーにはそのステレオタイプについての写真と説明文があった。服自体をしっかりと見せる工夫はされておらず、コンセプトありきなのかなという印象。
しかし、そもそも「ステレオタイプ」というのはそれ自体何らかの切り口というよりも概念に過ぎないのでは?「ステレオタイプ」といえば数年前に日本のサラリーマンをモチーフにしてイェールの賞を獲った学生がいたが、この展示でされていることとその学生とは比較にならない。この展示でされていることは、例えば「中国人 労働者」や「未亡人」に対する自分たちの「ステレオタイプ」な印象について一問一答しただけに過ぎない。単にイメージをザッピングしてそれらを先入観でもってカテゴライズしてみただけでは?「ステレオタイプ」に対しての考察やそこに基づいた再評価はされていない。例えば、彼らがイスラエル人やグルジア人であるならば 思うこと、マイノリティとマジョリティの境界の危うさ、両概念の相互逆転の恐ろしさや儚さ(マイノリティはいつの間にかマジョリティを形成し、マジョリティは一瞬にしてマイノリティへと押しやられることの恐怖、無常、そしてその悲劇、もしくはユーモア)のようなものを切り口に「ステレオタイプ」という物語を表現する という選択肢も考えられよう。彼らがやろうとしていることはソシオロジーもどきのザッピングにすぎない。他の作品の写真を見ると服にはユーモアが感じられそれなりのまとまりもあるのに残念。彼らはあまり政治的なコンセプトのたて方が得意でないにもかかわらず好き好んでそれをやっていると思う。執行猶予で「可」。
 POESIEについて僕は何も読みとれなかった。写真やインスタレーションもある一定の完成度はあるような感じもしたが、心に残るものはなかった。写真はイメージ紙の切り抜きのようで、インスタレーションはどこかで見たウィンドーディスプレーのようだった。他の人の感想があったら聞いてみたい。評価は「可」、というより「可もなく不可もなく」。

 総評すると、アントワープアカデミーとはこんなものなのかということに尽きる。奇しくも展覧会は一時期バブル的な評価を受けていたアカデミーの凋落ぶりを知らしめるものになろう。彼らはファッションデザイナーと名乗りながら服作りそれ自体を見つめていない。ファッションに付随、派生するものに興味があるか、それらに捕われすぎている。
 アカデミーのカリキュラムは決して民族衣装、歴史衣装のイメージ・ザッピング、リ・スタイリングを学ぶためのものではない。ソシオロジーやポリティクスのファッションへの安易な援用を奨励するためのものではない。すべては「服作り」への眼差し、のみならず自らを取り巻く「世界」への眼差しの基本的な考え方を身につけさせるためのものであったはずだ。服というものの意味性、境界を疑うこと。ものごとを常に歴史の中で相対化して捉えること。ものごとを地政学的な視点 から捉えること、のみならず、ものごとの発生、変容、消滅というものはすべて「場」の力学によるが故に、場所性というものを軸にしてものごとを捉えること。そして、場の位相が変われば時間の位相が変わることを知ること。これらを知らなければ現在にいながら未来を見つめることなどできないが故に、ある一定の水準以上の アートスクールやファッション学校は似たような教育手法を採っているだと思う。アントワープでこの教育システムが機能しなくなったのは学生の持つ文化的素養の質の低下もあるだろうが、それをカバーするだけの教員の質も下がったことによることが大きいだろう。カリキュラムの主眼とすることは経験やある種の「姿勢」でしか教えることができない。これは「躾」の問題である。アカデミーがある種のオーソリティとなってから服作り、そしてファッ ション産業というものに対する本質的な問いかけをやめてしまった以上、新たな展開は望むべくもないだろう。そしてこれはアカデミーがファッション産業の一機構として内部化されたことの当然の帰結でもある。外野としては、ここ10数年でのヨーロッパのファッション学校そしてこれらの学校の卒業生のファッション産業におけ る一連の流れについて検証をすべき時が来ているようだ。

傍観者;Josh Matsuzaki

投稿者 : editor | 2007年09月11日 23:48 | comment and transrate this entry (0)

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