« 東京でのコレクションの前に、【日本人デザイナーはどのようなレベルでウケているのか?PARIS 編】 | メイン | 盲目のクチュリエ、Genevieve SEVIN-DOERINGインタヴュー; »
日本人の、日本人たちの価値観を拠りどころにした アイデンティティあるファッションデザインを考える時代が来たようです。
【 日本人の、日本人たちの価値観を拠りどころにした
アイデンティティあるファッションデザインを考える時代が来たようです。
―――巴里入城を目指した兵ども、それぞれのジャポニズム考 】
文責;平川武治/
『彼がいかに大切だったかを振り返り
失うことがどれほどの痛手かを知るのです
ココシャネルは彼を後継者と見なしていました
シャネルは女性に自由を与え
イヴサンローランは女性に力を与えました
男性服を女性服に転換することで女性に力を与えたのです
イヴサンローランと今のデザイナーを比べることはできません
才能ある人はたくさんいますし
すばらしい人が現れ成功することを期待しています
引退の日彼は自ら幕を下ろしたのです
一つのファッション とりわけオートクチュールの幕を』
イヴ サン‐ローランが死んだ。
この原稿を書き始めた矢先だった。
冒頭の文章はP.ベルジェ氏がフランスのあるTV局のインタヴューに答えた言葉です。これがパリのモードの世界の現実でありレベルでありそして、悲しみなのです。
日本人デザイナーのみならず、パリにおいても【プレタポルテ】のデザイナーたちの登場はYSL,彼が存在したから始まったといっても過言ではない。
‘66年に彼が実際には追い立てられるようにC.Diorのメゾンと惜別して自分のブランド YSL Rive Gaucheを当時としてはアヴァンギャルドにその名のごとく『左岸』で立ち上げる。正に,モードのヌーベル・ヴァーグであった。以後、「’68MAY」と言う戦後の『新たなるフランス革命』と称しても、それがもたらしたその後のこの国の現代思想や政治、社会への価値観の変革と変貌を見れば、決して、過言ではない当時の若き学生たちが起こしたただの「’68MAY」学生運動以後、このファッションの世界もYSLの新しいモードに対する考え方、女性の美に対する想い方そして、フランス美学のオーソッドクスさである『エレガンス』をその中心軸としてさらなる新しいモードの形態が誕生した。それが『プレタポルテ/高級既製服』であった。
‘65年、文化服装学院の初めての男子生徒の一人であった高田賢三が卒業後、単身巴里へ向かう、まるで武者修行をしに行くかの如く。’’68年、N.Y。経出かけた三宅一生はその後、迷いながらも当然の如く巴里を訪れる。ちょうどその学生運動のさなかであった。この頃に彼の巴里レポートが当時発売されて間もない雑誌『ハイ・ファッション』誌に連載されているので知ることが出来、面白い。
クチュールではない、新しいカテゴリーである創造のモードの世界『プレタ・ポルテ』の誕生黎明期であった。総て目にするものが新鮮に眩く輝いて見えたであろう。総てが羨望と欲求の眼差しであったことが多感な三宅のコラムからも感じられる。‘70年、ケンゾーはヌーベルバーグの波にサーフし、やっとつかめたチャンスで自分のブチック「Jangle Jap」をやはり左岸で開店する。’71年、彼を慕って大阪のコシノヒロコのブチックで働いていた入江末男が巴里入りをしケンゾーの所に逗留する。東京からはやはり文化の卒業生、熊谷登喜夫がコンクールのご褒美として巴里へ到着。一度帰国した三宅は資金調達に当時の”東レ”と関わり‘72年に巴里のデザイナーになるためにVavinで初陣する。’74年に山本寛斎も既にショーを、’75年、鳥居ユキがそして、森英恵が’77年にクチュールで巴里にいぞむ。
が、やはり、日本人ファッションデザイナーと巴里を考えるとき、高田賢三の存在が大きい。彼がこの時、パリに居なければ彼の存在が無ければ日本のファッションデザインそのものが10年以上は遅れていたであろう。彼の巴里での活躍が夢となり嫉妬となり東京でもインデペンデントなデザイナーブームが『マンションメーカー』誕生として始まる。
この’60年代終わりから’70年代当時の日本人デザイナーたちは当然、『POPカルチュアー』誕生の暑い息吹を被り、サーフした。そして自分たちが異邦人であることを否応にも認めなければ自らのアイデンティティがぶっ飛んでしまうことに気が付いたコレクションを行っている。自分たちが持ちえた『日本人らしさ』をどの様な感性と美意識とアイデアで巴里という怪物に切り込むか?ポジティフな『ハレ』のジャパニズムを、『POP Japonizm』をそれぞれのテイストとレベルで見栄を張った。
‘77年に音楽の世界では既に『PUNK』が生まれたように、東京ではYMOがデビューしたように、’80年代に入ってからの時代観は少し変化の兆しを見せ始める。その新たな時代観にモードの世界で匕首を突きつけたのが山本耀司とコムデギャルソンの’81年、’82年の巴里入城であった。
特に、CdGは20世紀の巴里モード界の伝説となったコレクション『黒の衝撃』を持って、総ての価値観を塗り替えた。その後、多くの日本人デザイナーたちが、巴里デザイナーたちをターゲットに目指さず、巴里という場所を必要として、自分たちの国のデザイナー即ち、『コムデ』『ヨウジ』を彼ら自らのターゲットとして巴里に関わり始めた。
『’68MAY』の当事者であった女子学生たちが社会への進出を果たした結果、いわゆる、この国でも『高学歴』を持った女性たちの活躍そのものが社会化された時代となり、この新たな価値の元で大いに追い風を受けて巴里のモード界を闊歩し始めたのが
コムデギャルソン、川久保玲が生み出し続けた執拗なまでのアヴァンギャルド性を生命とした創造の世界であった。しかし、現在というモードの螺旋階段の踊り場に立ってしまった僕たちが、沸きあがったあの『コムデ』らしさとは?を思う時やはり、ジャポニズムを感じてしまう。巴里の玄人たちが『ZEN』を口にし始めたことからもそれは理解出来る。『墨黒』をベースに『黒の彩色』化、コーディネートファッション、素材美、無表情さなど等。自分たちが自分たちの国でブームを誕生させビジネス的にも余裕ある状態で巴里入城を始めたこの’80年代の日本人デザイナーの代表者たちも自分たちのアイデンティティはやはり彼ら流のジャポニズムであった。日本の美意識のもう一つ『わび・さび』を歪ました所の『NEGATIV Japonizm』。先の10年前の日本人デザイナーたちがポジティフな『POP Japonizm』であれば、彼らたちは堂々とペシミズムを軸とした『NEGATIV Japonizm』を持って、異種混合を文化創造の大切な糧、教養としている彼らたち巴里っ子たちの度肝を抜いた。
‘90年代に入っての日本人デザイナーたちが何を巴里入城の武器としたのか?
それは『UNDER COVER』で代表される『STREET Japonizm』であった。
‘89年小野塚秋良、‘92年荒川新一郎、93年渡辺淳也、’99年高橋盾。巴里のモードの世界も’89年のマルタンマルジェらの登場によってまた、新たな価値観が世に問われ始めた。天上に在ったモードが地上に落ちてしまった時代、音楽ではヒップホップが全盛を極め始める。石油問題で金持ち層が変わり、「創造」が「解体」に繋がると言うまでのパラドックスが始り、地上に落ちたモードのピース(古着)の落穂拾いが始まる。
『裏ハラ』で生まれ育った高橋盾の『UNDER COVER』は自分たちのもう一つの武器である『パンク音楽』を変わらない心意気としてむしろ、気概として、この時ばかりと自分たちの横丁をアイデンティティとして、自由にエゴセントリックにサンプリングし『STREET Japonizm』を世界へ発信させ巴里凱旋したいさぎよさ。
そして、21世紀の日本人デザイナーたちが巴里入城を目指したとき、彼らたちはどのような自らが美と定めた武器を持参すればよいのだろうか?
例えば、その答えの参考となるのが、一昨シーズン、巴里でデビューコレクションを行った、インド人デザイナー、マニッシュ・アローラの2度目のコレクションに読めるであろう。’70年代のヤマモトカンサイを髣髴させるポジティフで楽しくすべてがSO SPECIALなコレクションで評判を得た。その裏読みをすれば、自分の国インドの産業インフラの幾つかを自分の世界、大好きなモードの世界で突き刺したコレクションと読めた。インドの素材の面白さと良さ。インド人のクラフト感覚の良さと器用さ細やかさ。それにマサラ・ムービーと呼ばれるインド映画の世界とインド音楽。これら、インドではのものを自分のモードの世界のために使った強烈なコレクション。ここには自分の国を想うこころが読める。国をプロパガンダする意気込みが感じられる。巴里絶対主義的に反抗する楽しさと痛快さが見事であった。巴里にないもの、新鮮なものを投げかけた。これによって彼、マニッシュ・アローラは異国のジャーナリストやファッションピープルたちから『スタンディングポジション』が与えられた。
今、残念ながら、日本人若手デザイナーたちからこの知恵と教養とセンスの良い感性が感じられない。今回の『東京コレクション』でも皆無。自分たちの国を想うこころからの自分たちのアイデンティティを考えたアイディアや創造性それにプロパガンダ精神は無く多分、考えもしないで作ってしまっているであろう。彼らの賞味期限切れに近い価値観『トレンド』を未だ最高の拠りどころとしたもの作りはこの辺で考えなければ?!
だからといって、自分たちが不勉強な世界を珍しいと思いつき、和モノや着物を出せばの単純思考、これもいただけない。このレベルのデザイナーは『骨で着る服』を考えるべきである。例えば、巴里ではグスタフ・リンというデザイナーがいる。彼の作品を見るがいい、学べばいいそして、着てみればよい。もう、このような時代になれば、僕たちの国を想うこころが感じられる服つくりを試みる時期に来たのではないだろうか?外国カブレ、外国コンプレックスからのモードは自分たちの存在と立場をなくし、自分たちの民族性を否定するまでのものでしかないことに気が付かないのであろうか? 日本でうけているからそれを持って行ってもダメ。これでは単純なシングル・スタンダードな発想。エトランジェとしての日本人はこの21世紀、どのようにわれわれのアイデンティティあるモードを武器にすればいいのであるかをもっと、教育面からも考えなければならない。
ファッションとは『自由』の産物でしかありえない。自由さが生命である。これを感じさしてくれる作品を生み出せる人間だけが『クリエーター』と称されるはずだ。本質的なる自由さに敏感に反応できる人間。これは共通言語。自由さとは本来、『カオス』の揺らぎ。先輩の、’70年代、’80年代、そして、’90年代の先輩諸デザイナーたちが偉大であったのは、根本は彼らたちが持ち出せたあの時代の自由さ。それがその後の彼らたちの気概へと繋がり、それによって持ちえた異国での関係性を継続してゆく努力と勤勉さが彼らたちの存在そのもの。これを真剣に学び、考えたことがあるのだろうか?デザイナーたちも、ジャーナリストといわれる人たちも。唯、外国ファッション有名校を出たからというだけで表層を見ての評価、デザイナー扱いをしてしまうジャーナリストたち。外国にいても外国人世界へ入りきれず、日本人の取り囲みを金で作ってそこでヒエラルキーを作って自己満の世界でエゴのものつくりしかしてこなかっただけなのに、日本に帰るともうデザイナーに。まるで、『豚もおだてりゃ木に登る』現象が続くのみ。
もうこんな哀れな世界観で、シングル・スタンダードでモードを語ったりいきがったりするのはよしましょう。日本人はこんなモードを提案できる!!というまでの国を想う心もそこへ入れることを忘れずに自分の世界観を堂々と、武器にしませんか?
エディー・スリマンが頼まれてモード誌のために刀を振り回すジャポニズムをやれば、カッコいいの唯の表層の世界もいただけませんね。僕たちは自分の国なのですからもっと深く優しく楽しく日本を思いませんか?そこで一番強いものをモードでパラサイとしてゆくことも、先のインド人マニッシュのように一つの健全でポジティフなアイディアでしょう。そうしたら、今他方には、日本のサブ・カルとしての『オタク』がありますね。これは確実に世界の新世代と彼らたちが構成し始める『新・大衆』のサブ・カルの共通コンテンツなのです。日本人の日本人たちの価値観を拠りどころにしたファッションデザインを考える時期が来たようです。
ずばり、『オタク・ジャポニズム』を考えることもこれからの手段です。もう一つは原点回帰であり、昔取った杵柄。そして、『腐っても鯛』という諺がここに来て案外、大切な価値観。時代が進行発展している保守化の社会性。新たな消費者層としての『新・大衆』である『New Generation』たちの共通のコンテンツは『漫画、アニメ、TVゲームそして、MTVとデジ・カメ』。老いも若きもセルフ・ヴィジュアル化へ走る。再び、『オプティズム』そして、ポジティフな『オタク・ジャポニズム』をどれだけ「So Special」にアッセンブリッジが出来るかが彼らたちの新たな武器となるのでは。現在の日本の文化であるサブ・カル即ち「オタク・カルチュアー」と手先の器用さと素材の新しさそして、エコな心意気を持って『オタク・ジャポニズム』もしくは『アキバ・ジャポニズム』を武器に世界へ特出、特化出来ませんか?
東京コレクションで見ることが出来なかった、感じることが出来なかった
アイデンティティを感じさすまでの、国を想うまでの服つくり。
もう、ここまで来たのだから、自分の国の心感じる服作りもありでしょう。
価値観を変えてみましょう。
賞味期限切れ真近なトレンドに振り回されなで
僕たちの『ジャポネズム』を真剣に、堂々と。
今がチャンスです。
【 これからのファッションにも、
日本人としてのアイデンティティを。
そのためには、『それぞれのジャポニズム』を探し求めること
そのために国を想うこころを持ちませんか?
そのための『MIX STANDARD』が必要。
そして、『EVERYTHING SO SPECIAL』!!
自分にとっての『SO SPECIAL』を。 】
文責/平川武治 モードクリニシェ:巴里モントロユィ街にて。晩夏‘08