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盲目のクチュリエ、Genevieve SEVIN-DOERINGインタヴュー;

「 まるで、魔法使いに会いに行くような気持ちで、 
―――『自由と人間らしさ、その強さ。服しかないその想い。』 」
インタヴューアー;平川武治/モードクリニュシェ:
於;マルセイユの彼女のアトリエにて、4月30日。

*はじめに;
私が彼女、Genevièveに初めてお会いしたのは
アントワープで行われた「パターン展」のレセプション会場であった。
その後、皆さんと夕食会へご一緒させていただいた。
彼女が私の手を握る。
厚い手のひら、太い指、そこから染み出る熱。
エネルギィーとはこのような熱さか?
生きている、蠢いているそして、感じている。
これが私の彼女への第一触感。
不思議なことだが、
この彼女が与えてくださった、感じさせてくださったあの「熱」は
その後、たびたび想い出すまでの感触になった。
在る時は喜びとともに、在る時は憤りともに。
また、やさしさを想い感じるときに。
私にとっては
それは、時には「女の熱さ」であり
「母の熱さ」でさえあった。
それ以来、私は彼女に再会できる日を
機会を密かに、工作し待ち望んでいた。
私は本心、
まるで、魔法使いに会いに行くような気持ちでいた。
私は薄暗く翳りの多いアトリエの中に
彼女の堂々とした背中を見つけた。
彼女は私の方を向き、
その大きくて熱い、あの熱さで私の手を握った。
その瞬間に時空を超えた私。

*インタヴュー;
私: お元気でしたか。
Geneviève : 元気よ、元気。昼食の後、少し昼寝をしたから元気よ。
私: 早速ですが、あなたにとって”自由”とは何ですか。
G : それは選択。一つの強制。
ほら、それは選択、強制に義務を負わせることよ、当然。
それ以外のものは自由じゃないわ。
例えば、私が16歳だったころ、パリへ出た。
お金は持っていなかったし、辛かったわ。
でも、それは私が望んで選択したこと。私は自由を選択したのよ。
私 : では、あなたは幸せですか。
G : えぇ、私は幸せよ。自分が在る、まだ自分が在ることが。
私は自分が学んだことが続いていくことが嬉しい。
ここに、私の娘や生徒たちがいることが私の喜び。
そして、それが前進するのを見る時、私はとても幸せ。
私 : 以前、何かのインタヴューの中で、”総てが、お金の問題じゃない。”とおっしゃていましたが、それはどういう意味ですか。
G : 創造するということに関しては、富やお金が問題ではないという意味。
それは人々がその上、その向こうを見ないということ。みんな近くばかりを見ている。
今のモードの世界はエゴイズム。
つまらない人々がつまらないものを創っているだけで私には興味がない。
私にとっての自分の仕事は、一つの問題と向き合って答えを見つけること。
創造ではなくて解決策。
もう一つ言えば、洋服というのは身体と洋服の間にある距離、空間が大切なのよ。
ストレッチの濫用を取り除いた体が呼吸する空間、従って空間との釣り合いが大切。
私: まさにそれを伴った『服』が、”どのように身体をcareするか”ということですね。
G:そうとも言えるはね。
私: 洋服を作ろうと思ったきっかけは何ですか。
G : 私は知ってるは、どうして私が洋服を作ろうと思ったのか。
私たちが小さい頃、私の両親にはたくさん子供がいたから、女の人たちが家に私たちの洋服を仕立てに来ていたの。
私は彼女たちにこう言ったの。”こんな風に幅の広いスカートにして欲しいな。” ”だめ!” ”パフスリーブにして欲しいな。” ”だめ!” 全て、彼女たちの好みの洋服だった。
その後、私が大きくなった時、自分で自分の洋服を作り始めた。悪くなかったわ、より自分の好みの洋服に出来たから。それから洋服作りを学ぼうと決めた。
一度、パリのオートクチュールの組合の学校 l'Ecole de la Chambre syndicaleで仕立ての勉強をよくしてから、”ファッションのためではなく、演劇のための衣装を作ろう。”と決めた。
なぜなら演劇のための衣装を作るには、たくさんの異なることを学ぶ必要があったから。
そして、それは私に降りそそいだ。
私は装う人の内側が良く在るようになるために、一片で洋服を作りたいと思った。
既製服の上着を羽織ってもし、あなたがこういう動きをした時(両腕を挙げて)、あなたは車を運転出来ないはずよ。もしあなたが両腕を挙げた時、洋服も一緒に上がってきたら、それは、その洋服が上手くカットされていないということ。
今はいたるところで、このような服が売られている。
人々がこのような洋服しか見ていない。これはとても大きな問題。
それと同時に彼等は悪い洋服を装うことにもう、慣れてしまっている。
だから彼等は着心地が良いと感じる形の無いTシャツやジーンズを着る。
見た目は素敵な格好をしても着心地が悪い、反対に着心地が良い服を着ると素敵じゃない?
私: 以前あなたはインタヴューの中で、”きれい、それは人々がよく望むけれど、美しさは深刻ね。” とおっしゃっていましたが、それはどういう意味ですか。
G : それは私の洋服を試して、今までにない美しい自分の姿を見る女性たちに関して言ったこと。彼女たちが今まで眺めることのなかった彼女たち個人の美は、確かに耐えられない。
きれいさは表面的なもの。美しさ、そうね、それは深刻、もっと深いところにあるもの。
美しい服装であるためには、”ちょうど”でなければならない。
人々が美について話をする時、しばしば審美的なことを話す。とりわけモードの世界において。でもそれは装飾にすぎない。そして、それは変化する。瞬間を素敵に見せるためだけ。
物事が美しい時、それはそれらがちょうどである時。一時だけれども永遠に、バランスが存在する時。
ちょうどで在るというのはとても難しいこと。多過ぎず、十分であること。
私 : 洋服を作る上で一番大切なことは何ですか。
G : ちょうどであること。即ち、バランスが存在すること。着る人と着る服との関係においての接触観? 考えを持つのではなく、答えを感じ見つけなければならない。
私 ; 日常の中で一番大切になさっていることは何ですか。
G : 知的な人々に出会うこと、人と話をすること、料理をすること、ラジオを聞くこと…
たくさんあるわ!
私 : あなたは夢を持っていますか。
G : それは私がやってきたことよ!
とても長く、難しかったけれど。でもそれは私がしてきたことよ。
私 : 小さい頃はどのような夢を持っていましたか。
G : 全然!
小さい頃はパリへ出るということを決めただけよ。
私 : 若い人たちにどんなことを言いたいですか。
G : そうね… 楽しみなさい!
仕事というのはいつも辛いもの。山を登るようにね。
でも一番上まで登る必要はないの。偉大なクリエーターになる必要もない。
自分がしていることを好きになりなさい。
日常の中に小さな幸せを見つけること、それが一番大切。
ほら、今日も美しい一日だったわね。
私 : ありがとうございました。

*あとがき;
初めての夕食会。その後、もう6年近くが経った。
変わらないGenevièveさんは80歳。
ヒールしか履かない彼女。
いつも女の人はエレガンスであるべきだからと。
インタヴューの合間もワイグラスに手が幾度も延びる彼女。
飲まない私が注ぐことが遅れてしまう。
『ちょっと、タバコが吸いたいから休憩しよう。いい、あなた?』
あのアントワープの時もそうだったように、ワインを、タバコを堂々と飲み、吸う。
彼女にとっての自分で得た自由の証だと言わんばかりまでの
堂々とした誇らしげが自然に漂う、その時間。
巴里に出て覚えたことがタバコとワインだとおっしゃる。
それは、自分で、自分の好きなことを学び、それで稼いだお金の
自分らしい自分の自由の象徴。
だから堂々と、
きっと、こんなところにも彼女は自分の自由の裁量を、
それは選択。一つの強制。

――暗くなり始めたアトリエの古壁の幾面にも聖母マリア像が像を残す。
こんなにも緊張と怯えが混ざったインタヴュー前は私には嘗て、無かっただろう。
本当は彼女は『マリア』だった。
インタヴュー/完:

******

―GENEVIEVE SEVIN-DOERINGの歩み、プロフィールに代えて。
『 自由それは選択。一つの強制。』

地方出身者、土のにおいを知っている少女。
フランス北部のトゥルコワンという小さな田舎町で生まれる。
その後、南仏の少し大きい町そして、少し文化がある街、エクスアンプロヴァンスにて幼少期を過ごす。自分の将来を見つけることにときめきを感じた16歳、彼女の早熟さは『華の都、巴里』を選択する。そして、オートクチュール組合学校 (l'Ecole de la Chambre syndicale) にて縫製技術を学び自分の世界を持って、自由なひとり立ちの生活が始まる。
幾つかのクチュリエのサロンで働いた後、モードのためではなく演劇のための衣装を作ることを選択する。与えられた条件の元、自分の自由さを“衣装”という演劇の世界で表現でき、多くの人たちに見てもらえる強制の世界へ憧れる。

1948年第2回フェスティバル エクスアンプロヴァンスでのモーツァルト“DonGiovanni” の初演のための衣装を手掛ける。この時ナディーヌ・カサンドラに出会う。彼女の夫は、先ほど亡くなられたYSLのロゴマークをもデザインしたグラフィックデザイナー。そしてリュシアン・ルロンは彼女の師となる。

以後、 レオノール・フィ二ー、ジャン・ヴィラー、ジョルジュ・ウィルソン、ジャン・ルイバロー、アンドレ・バルサック、クロード・レジー、ジョルジュ・ヴィタリー、ミシェル・フォンタイン、アントワーヌ・ヴィテ、マルセル・マレシャル、ジャック・カルポ、ジョセフ・ラッジーニなど有名、無名を問わず数多くの演劇舞台人たちと仕事を共にする。

夫であるReinhard Ubbelohde-Doeringは染色職人だった。
彼個人の仕事よりも彼女と共に、彼女の仕事の必要不可欠な作業である生地の染色を構想し再現していた良き協力者、共にアトリエで働いた。
結果、二人での作品は1972年ミュンヘンにて開催された職人・クリエーターの国際展覧会 “Exempla 2000”にて金賞を受賞。この衣装はパリ、国立劇場(TNP Chaillot)および、アヴィニョンフェスティバルにて1963年から1968年にかけて演技の演習、本番に使用されたものである。そして、これらの衣装は現在、パリの国立図書館の工芸アート部門にて保管されている。

より、豊かな自由を選択するためにその手法を創造した。
彼女の早熟性からの好奇心や欲求は物事のより、奥底へ向かう。
彼女の経験から発想される必要な思考と主張は衣装にエスプリと表情をさらに加えるために新たなアプローチの技法を展開するまでに至る。洋服を作る上でパターンを平面状にて一片にカットする。この技法の原理は、体の動きとのバランスに基づいた彼女の自由な経験とイズムから生まれたものである。このパターンカットの革命は1967年から始め、主に、洋服よりも舞台衣装に活用させる。

異文化がメチサージュする暑い街へ、
1978年パリからマルセイユへ居を移し、アトリエ活動を始める。
この街の近辺、アヴィニヨンやエキサンス-プロヴァンスそして、マルセイユなどで行われる演劇祭等にも多く参加、その活動の場を広げる。

『 母が視力を失った原因は網膜の退行性の病気の発作で、これは遺伝性の病気で、主に男性から遺伝するものだといわれている。
何年かの経過によって、視野が次第に狭まり、こうして暗闇の世界が母に辛い思いをさせた。
遂に1993年、視力の完全喪失は突発的に起こり、ある1つの舞台衣装に関する計画を止めざる終えなくなった。
でも彼女は未だ仕事を続けている、ただしアシスタントたちと一緒にだけれども。』
(彼女の娘、MIMIの言葉。)

1999年、マルセイユ市は彼女の仕事に対する敬意を表し、マルセイユ モード
美術館にて大規模な展覧会を開催する。
次いで、2000年、カナダ モントリオールにて展覧会が開催される。
そして、2003年、アントワープモード美術館の『パターン展』に招聘され展示。

彼女のもとを訪れ、学んだ多くの生徒たちは彼女の服つくりへの情熱と信念そして、自由な心とエスプリを受け継ぎ、それを知った以上、永続させるべくそれぞれの世界で、自分たちが選択した自由をより豊かなるものへ向けて羽ばたいている。
彼女のアトリエには日本人学生もアントワープやロンドンから訪れたことがあった。
彼らたちは『一つの強制』を得たのだろうか?
プロフィール/完
文責;平川武治:
翻訳;佐藤麻美
出典;雑誌『装苑』平成20年10月号掲載済み:

参考資料/
カタログ: lifting:la revue du muse de la mode,Marseille No.1-1999年版
       アントワープモード美術館「パターン展」カタログ:2003年
本 : ITINERAIRE -Du costume de theatre ・la coupe en un seul morceau
DVD: Dans L’armoire du monde
WEB.: sevindoering.free.fr

投稿者 : take.Hirakawa | 2008年10月10日 05:31 | comment and transrate this entry (0)

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