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「21世紀のカジュアルウエアーとプロテクション」或いは、『距離の消滅』から『距離の消滅の完了』という時代性について。」

 「新版「The ARCHIVES Le Pli」/03;
「21世紀のカジュアルウエアーとプロテクション」或いは、
『距離の消滅』から『距離の消滅の完了』という時代性について。」

 これは、ノオトブログ Le Pliの2003年のアーカイヴ原稿です。
初稿/2003-08-07:再校正を9月13日;
 ***
 今回の僕の眼差しは、
<「距離の消滅」を御和算或いは、リセットした「新型コロナ」>という試論です。
 この原稿のように、”『距離の消滅』から『距離の消滅の完了』”でしたが、
今回の「新型コロナ」以降のバンデミックによって、世界は「三密」という、「新型コロナ」が
齎した”新たな普通/New Normal”のコンセプトは、再び「距離」を設定し、なくなり始めた
「差異」あるいは、「距離」が、再び生活環境と空間に再必需。
 しかし、今回の「新しい距離」とは”実距離”では無く、”バーチュアル”な「距離」が、
これからの「新しい普通/New Normal」の生活における”距離”となるのだろう。
 ここでは、確実に「時間観」が変革する。
そこでは、「自由」も”バーチュアル”化する。
 では、この”バーチュアル”な「距離」は再び、新たな「差異」をも生み出すのであろうか?
この「”バーチュアル”な”差異”」によって、モードの界も新たな価値を生みださるのだろうか?
 
 ***
「”HOME IS NOT A  HOUSE.”
---21世紀のカジュアルウエアーとプロテクション。
或いは、『距離の消滅』から『距離の消滅の完了』という時代性について。」

初稿/2003-08-07:
文責/平川武治: 

 『人間のこの地上における関心事は全て、ホックやボタンを掛けられ、
衣服によってまとめられている。』
Thomas Carlyle:

はじめに;
 僕たちは既に、21世紀にもう、3年も生きていると言うのに、毎日の生活に於いてこの現実
感と意識はどれほど存在しているのだろうか?
 モードが時代の表層であり続けているとしたらそれらがどのような要因で僕たちの路上へ変化
を及ぼし始めたのだろうか?

仮説『距離の消滅』と『距離の消滅の完了』;
 ここで、一つの仮説を提言して、モードと現代社会の関係を僕も住んでいる東京という大都市を
サンプリングして改めて考えてみよう。
 20世紀という時代とその文明はあらゆる意味で『距離の消滅』のためのモノの発見や発明
そして、進化のための時代だと仮定出来るだろう。そうした時、例えば新たなるモノとしての
ハイ・テク機能を多重化し日本化した”携帯電話”の登場と我が国におけるその、"ケイタイ”の
発展・進化の速度は本来のコミュニケーション機能をこれもまた、日本的にコンビニアンスで
一元的かつ短絡的なものへ変質させ、20世紀最後の日本国民の新たな必需品と化してしまった
 これによって、20世紀末期の東京では既に、『距離の消滅の完了』が僕たちの生活環境の中
で日常化してしまったと言える。
 ここで言う『距離』とは、空間、人間、時間、関係、カテゴリィ、クオリチィ、性と国、
イデオロギィーそれにグローバル化等までをも含めた『距離』を考える。これらは日本という
島国の国土の狭さ、人口の多さそして、階級のない敗戦後の諸コンプレックスを拭い去るために
勤勉に働き、その多くは思想無き大衆化した表層的には単一民族のハイ・テク中流消費社会構造
での『距離の消滅の完了』であり、この状況は他国に比べて顕著に,早々に表層に具現化してし
まった。
 ボードリヤールが既に指摘した『全ては狂宴/オージーの後』化状態が現在の東京の路上で
あろう。そこには人間本来の楽しみや面白さと共に哀れさや儚ささえもが強かに、単一的に、
ノイジィーに過敏に同居した虚飾な業の日常化でしかない。本来、1世紀を掛けて成されるべき
事が戦後の僕たちの国では僅か50年足らずで成された結果が全ての不調和、不自然さをも日常
化してしまったからだろう。元来、日本人が持っていた価値観や美意識では決して、認められ
得なかったはずの大切なこゝろから安らぎが消えた。結果、精神的な空虚さとこゝろの寂しさを
背負い込んだ僕たちは既に、10年程以前に『オタク』と言う新しい言葉を探し出し、手探りも
しないままで他者との距離感を無理やり作った。そして、与えられたあらゆる過剰な情報を元に
して各人が背負い込んだ『寂しさ』を共有する事で得られる一時的な安らぎを「消費」という
現実行動に求めた。あらゆる世代の日本人が以外とポジチィフに自分たちが求める安心を社会の
最表層を漂って、誰でもがすぐに手を出し易いモードの世界即ち、『流行』の『記号』=
『/ブランド・マーク』に委ね、癒す事の虚飾も含めたあらゆる心地よさを憶え、味わい続けて
いるのが現実の大衆消費社会の東京であろう。

「モードとポスト モダン」そして、「ファッションDJ」;
 モードの世界での‘90年代後半以降、より現実になった「距離の消滅」はTVやインターネット
それにPCとそれを使っての印刷メデイアとイメージングの高度な発達によって、”シーズントレン
ド”を発信するコレクションとその分析情報が即座に、同時に世界規模で見たい人たち、必要と
する人たちへ、アマチュア/プロフェッショナルの区別無く、確実に届くまでの速度と言う時代
になった。一方では、コレクションデザイナーたちによって発信されるクリエイティビティにも
それなりに、”在るべき差異”が無くなり、ビジネスのために発信される”トレンド”を中心に
毎シーズンが過去のノスタルジアに基いた幾つかの”小さな塊”が投げかけられるだけの現実と
なってしまった。
 モードの世界もここでは既に、「ポストモダン」状況が現実と化して、かつてのような
「大きな塊」としての、眼を見張り心躍るようなマジシャンよろしく、知的に大胆かつ繊細な
クリエーションを見せてくれた、80年代からの偉大なファッション・クリエーターたちの存在
が殆んどと言って良いほどに少なくなり、「ポスト・モダン」社会特有の「大きな物語」に変わ
って、「小さな物語」のモード化現象を生んでしまった。
 それらは既に、時代の”気分”や”雰囲気”、”心の情景”を大切なキーワードにノスタルジアと
いう「過ぎてゆかない過去」をアーカイブとしてそれらをサンプリングし、リ・ミックスや
リ・メイクという音楽的な発想と手法それに、ヴィジュアリテイーにのみ委ねた服つくりを行う
30歳代前半の、「ポスト・モダン以降」の新たな作り手が多く登場し始めた。
 その結果、路上での若者達の日常着としてのスポーティ‐カジュアルウエアーは「スポーテイ
ー・ミュージュック カジュアルウエアー」と化し、コレクションデザイナーたちとの在るべき
はずだった距離が無くなり始める。
 この結果、最近ではこのような音楽的発想とサンプリング手法によってヴィジュアリテイのみ
をイメージングするデザイナーたち、「ファッションDJ」もコレクションを行う時代にもなった。

モードにおける「距離の消滅」と「プロテクション」;
 「距離の消滅」は「未来」をも消滅させたかのように彼ら世代にとって未来は不毛化し
「今日」だけが残り続けている。かつてのモードの世界のアヴァンギャルドなる言葉も消滅して
久しい。その結果、『イメージとリアリティー』の距離も消滅した。
 例えば、この新たな現実を即座に嗅ぎ取ってビジネスチャンスとして登場したのがモードにお
けるグローバリゼイション。発信されたトレンドはこのグローバル化によってより特化したデーテ
ルデザインか、ベーシックに純化されたクロージングの世界で路上に登場し「クロージング/
衣料品」のモード化が「SPA」と言う手法によって、スポーティカジュアルウエアーを進化させた
 そして、モードが時代の気分や奮囲気そして心の情景や安心を新たな表現価値とし始めた時、
モードの機能は変質し始め、『より、心地よいか』『より豊かな感情でいられるか』『より、
素直な自分らしさの心や気分で居られるか』そして『安心』が得られるか迄の現代的なる
『プロテクション』が新しい意味の拡がりを持った大切な『モードのヒューマニズム』現象。と
なる。これらはスポーティカジュアルウエアーともシンクロしながらその距離をうつろい、消滅
させながら、新たな「SPA」と言う工業化で進化してきた。
 当然、この『プロテクション』はデイテールのデザインのみに求めずむしろ、「色」「模様」
「分量」との”バランス観”から生まれる「調和」そして、「素材感」「手作り感」「和み感」等
より、エモ‐ショナルな要素を重要視し始める。
 そして、これらは以後、スポーティ‐カジュアルウエアーの世界を含めた新たなモードの世界、
全般の『共通言語』となり始めた。

モードの新たなコンセプト、「プロテクション」;
 東京の路上での若者達のモードはイラク戦争を待つまでも無く、”ケイタイ”の登場と共に彼ら
たちの日常着としてのスポーテイ―カジュアルウエアーの分野で既に、あらゆる意味でポスト・
モダン社会への『プロテクション』化が始まっている。
 ここで現代社会に於ける「新たな環境」の眼差しを試行してみよう。
新しいモノの日常化によって僕たちの生活そのものや生活様式、環境が変革した。それらの中で
の人間の立居振舞やルールとしての躾などまでもが変化した。当然、生活者としての当事者であ
る人間の心の在り方までもが変質してしまう可能性が在る。例えば、先の『ケイタイ』の日常化
によって「HOME」と言う概念が全くと言って良いほどに変化しはじめ、若者たちは路上へ溢れ
始めた。そこでは、『HOME IS NOT A HOUSE』と言うコンセプトが考えられる。
 これは単純に『ケイタイ』の出現によって何処でもが「HOME」化してしまうと言うまでの
発想である。このコンセプトを元にモードを考えると、「新たなプロテクションを考えたホーム
ウエアー」が最新のモードに為り得る。考えられる事は可能なプロテクションをデザイン概念
として、『楽、派手、ベーシック』に時代の雰囲気をミュージュックDJ感覚とスポーツ感それに
ヴィンテージ・テイストをベースに味付けし色感、素材感と分量感によってプロテクションが
デザインされたニュー・ホームウエアーの世界である。
 これが僕の、ケイタイ以後の東京発信の路上に於ける眼差しであり、スポーツウエアー観で
ある。事実、東京でのストリートカジュアルウエアーでビジネス的に成功しているブランド、
例えば、”ハリウッドランチマーケット”や”コムデギャルソン・シャツ”等と”アンダーカヴァー”
で代表されるいわゆる”裏原系”はこのカテゴリー・ブランドと僕は分類している。
 従来の『PROTECTION』は人間が人間らしく安全に生活を営む為のあらゆる『機能』に対する
プロテクトであった。例えば、対自然環境や自然現象としての天候までも含めた従来のプロテク
ションから次には、「対社会環境、制度やモラル」に対してまでの機能とてのプロテクションで
あった。しかし、現在では、”より豊かに人間らしい内面”を優しく穏やかに生きるための新たな
プロテクションである。従って、『心的、精神的かつ、健康的』な意味を強く持ち始めた事だ。
それに勿論、『性的』なプロテクションまでも含まれるのが現代の『PROTECTION』であろう。
 従来のそれは”殻”をイメージ出来るクローズドな発想で物理的側面が強かったが、新たなプロ
テクションは”羊水”がイメージであり、よりオープンでエモーショナルな五感的発想へと移行し
始めている。現代の路上ではヘッドホンで自分たちの好きなファッションで、好きな音楽を聴く
ことそのものが”PROTECTION”行為である。

都市、東京と「距離の消滅の完了」;
 このようなハイ・テクノロジーを実生活に取り込んだニュー・メディア社会に於ける最近の
東京発のストリートウエアーはここ一年ほどで今までモード先進国だったロンドンや巴里を始め
とする路上のKIDSたちへ、”アニメと漫画”をも携えて現代の”新たなジャポニズム”として、
大きな影響を与え始めた。そして、この東京のストリートファッションが即ち、”スポーティ
カジュアルが今、面白い”とこの街を訪れる外国人デザイナーたちも多く増えた。
 それはこの東京が既に、「距離の消滅の完了」が成され、従来在った筈の他者との距離が、
在るようで、消えてしまったことからの”あらゆる不安”が彼らたちの日常着としてのスポティ‐
カジュアルウエアーにより多くの要素とそして、デイテールに”プロテクト”を必要とし始めた。
 彼らたちの遊び道具もウオークマン以後、ゲームボーイ、ポケットカメラ、スケートボード、
ローラーブレード、キックスケートそして、デジカメ、ケイタイなどの全てがパーソナル・ギア化
し、日常生活の中へ世界に先駆けて、サイバー・リアリティを新たな環境にしたことでも理解
出来る。従って、この東京の若者たちの多くは一足先に、20世紀状態から抜き出て”路上が
全て”と言う、嘗ての「ヤンキー」がマイルド化された。しかし、その根幹の多くが「ヤンキー
的」である事によっての”知性と豊かさ”のバランス観不在、多くは悪趣味に満たされた”何でも
あり状態”と言うリアリテイーそのものが東京を外国人を驚かす21世紀にしている。
 それは彼らたちにとっては、『全てが、狂宴/オージーの後』であるが為に、『距離の消滅の
完了』の兆しを実際に感じるが為に、一つの”未来観”をこの東京と言う都市環境から体感出来る
からであろう。

「差異という距離」はモード世界からなくなるのか?;
 現代ファッションの面白さとは、全てに”差異”を感じたときの興奮度であっただろう。
すなわち、「他人と違う」という感覚が生む”差異”であった。しかし、最近では、「他人と同じ
ようなモノ」、をチョイスすることが、”ファッション”的になってしまった。
 全ての”差異”によって、「近代」が生み出した資本主義経済が構築化されている筈だったのが
この最近の『距離の消滅の完了』の加速によって、あらゆる表層的な”差異”が消滅し始めたため
であろうか、今後は二つの大きな流れが生まれるだろう。
 一つは資本主義経済構造そのものの「パラドックス化」と、もう一つは、消費構造そのものが
今後、より差異化のベクトルを求め「階級消費社会構造化」が始まる。
 これが現在進行中のモードにおける『ラグジュアリィー・ビジネス』化の本意であろう。

 最後に、ファッションは約100年という時間を費やして『WRAPPINGからCOVERING
そして、PROTECTING』へと21世紀の実社会とパラレルに進化して行くのだろうか?

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おわりに; 
 このアーカイブ原稿から、わずか20年足らずで、僕たちの実時間の流れが、「新型コロナ・
ウイルス」によって突然変異してしまった。
 結果、「距離の消滅の完了」が、再び、「在るべき、距離」を意識する実生活が始まった。
一方で、「新たな資本主義社会」構造を考えるべき事態と、その実生活においては、従来にも
なかった、「三密」と言うコンセプトによって、極めて、”保守的な”「距離」を要求し始めると
言う、この時代性とは??????
 大いに、新たな可能性が見え隠れする”New Normal”ですが、いかがでしょうか?
文責/平川武治:

投稿者 : take.Hirakawa | 2003年8月 7日 04:25