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大変永い間のご無沙汰です。

「HOME IS NOT A  HOUSE.
---21世紀のカジュアルウエアーとプロテクション;或いは、『距離の消滅』から『距離の消滅の完了』という時代性について。」

  
『人間のこの地上における関心事は全て、ホックやボタンを掛けられ、衣服によってまとめられている。』Thomas Carlyle

 僕たちは、既に21世紀にもう、3年も生きていると言うのに、毎日の生活に於いてこの現実感と意識はどれほど存在しているのだろうか?モードが時代の表層であり続けているとしたらそれらがどのような要因で僕たちの路上へ変化を及ぼし始めたのだろうか?

 ここで、一つの仮説を提言して、モードと現代社会の関係を僕も住んでいる東京という大都市をサンプリングして改めて考えてみよう。
20世紀という時代とその文明はあらゆる意味で『距離の消滅』のためのモノの発見や発明そして、進化のための時代だと仮定出来るだろう。そうした時例えば、新たなるモノとしてのハイ・テク機能を多重化し日本化した『携帯電話』の登場と我が国におけるその発展・進化の速度は本来のコミュニケーション機能をこれもまた、日本的にコンビニ化(コンビニアンスで一元的かつ短絡的なものへ変質)させ、20世紀最後の日本国民の新たな必需品と化してしまった。これによって、20世紀末期の東京では既に、『距離の消滅の完了』が僕たちの生活環境の中で日常化してしまったと言える。(ここで言う『距離』とは、空間、人間、時間、関係、カテゴリィ、クオリチィ、性と国、イデオロギィーそれにグローバル化等までをも含めた『距離』を考える。)これは日本という島国の国土の狭さ、人口の多さそして、階級のない敗戦後の諸コンプレックスを拭い去るために勤勉に働き、思想無き大衆化した基本的には単一民族のハイ・テク中流消費社会構造での『距離の消滅の完了』は他国に比べて顕著に,早々に表層化してしまった。ボードリヤールが既に指摘した『全ては狂宴/オージーの後』化状態が現在の東京の路上であろう。そこには人間本来の楽しみや面白さと共に哀れさや儚ささえもが強かにノイジィーに過敏に同居した虚飾な業の日常化。本来、1世紀を掛けて成されるべき事が戦後の僕たちの国では僅か50年足らずで成された結果が全ての不調和、不自然さをも日常化した。元来、日本人が持っていた価値観や美意識では決して、認められ得なかったはずの大切なこころから安らぎが消えた。結果、精神的な空虚さとこころの寂しさを背負い込んだ僕たちは既に、10年程以前に『オタク』と言う新しい言葉を探し出し、手探りもしないままで他者との距離感を無理やり作った。そして、与えられたあらゆる過剰な情報を元にして各人が背負い込んだ『寂しさ』を共有する事で得られる一時的な安らぎを「消費」という行動に求めた。あらゆる世代の日本人が以外とポジチィフに自分たちが求める安心を社会の最表層を漂って、誰でもがすぐに手を出し易いモードの世界即ち、『流行』の『記号/ブランド・マーク』に委ね、癒す事の虚飾も含めたあらゆる心地よさを憶え、味わい続けているのが現実の東京であろう。

モードの世界での‘90年代後半以降より現実になった[距離の消滅]はTVやインテーネットそれにPCとそれを使っての印刷メデイアとイメージングの高度な発達によってシーズントレンドを発信するコレクションとその分析情報が即座に、同時に世界規模で見たい人たち、必要とする人たちへ(アマチュア・プロフェッショナルの区別無く)確実に届くまでになった。一方では、コレクションデザイナーたちによって発信されるクリエイチィビチィ‐にも差異が無くなり、ビジネスのために発信されるトレンド中心に毎シーズンが過去のノスタルジアにもとずいた幾つかの小さな塊が投げかけられるだけの現実になった。モードの世界もここでは既に[ポストモダン]状況を現実と化して、かつてのような[大きな塊]としての、眼を見張り心躍るようなマジシャンよろしく、知的に大胆かつ繊細なクリエーションを見せてくれたかつての80年代からの偉大なファッション・クリエーターたちの存在が殆んどと言って良いほどに少なくなり[ポスト・モダン]社会特有の[大きな物語]に変わって[小さな物語のモード化現象]を生んだ。それらは既に、時代の気分や雰囲気、心の情景を大切なキーワードにノスタルジアという[過ぎてゆかない過去]をアーカイブとしてそれらをサンプリングし、リ・ミックスやリ・メイクという音楽的な発想と手法それに、ヴィジュアリテイーにのみ委ねた服つくりを行う30歳代前半で、[ポスト・モダン以降]の新たな作り手が多く登場した。その結果、路上での若者達の日常着としてのスポーチィ‐カジュアルウエアーは[スポーテイー・ミュージュックカジュアル]ウエアーと化しコレクションデザイナーたちとの在るべきはずだった距離が無くなった。この結果、最近ではこのような音楽的発想とサンプリング手法によってヴィジュアリテイ―のみをイメージングするデザイナーたち、[ファッションDJ]もコレクションを行う時代にもなった。

[距離の消滅]は[未来]をも消滅させたかのように彼ら世代にとって未来は不毛化し[今日]だけが残り続けている。かつてのモードの世界のアヴァンギャルドなる言葉も消滅して久しい。その結果、『イメージとリアリチィ』の距離も消滅した。
例えば、この新たな現実を即座に嗅ぎ取ってビジネスチャンスとして登場したのがモードにおけるグローバリゼイション。発信されたトレンドはこのグローバル化によってより特化したデーテルデザインか、ベーシックに純化されたクロージングの世界で路上に登場する。所謂、クロージングのモード化がスポーチィ‐カジュアルウエアーを進化させた。そして、モードが時代の気分や奮囲気そして心の情景や安心を新たな表現価値とし始めた時、モードの機能は変質し始め、『より、心地よいか』『より豊かな感情でいられるか』『より、素直な自分らしさの心や気分で居られるか』そして『安心』が得られるか等の現代的なる『プロテクション』が新しい意味の拡がりを持った大切な『モードのヒューマニズム』化現象。これらはスポーチィカジュアルウエアーともシンクロしながらその距離を消滅させながら進化してきた。
当然、このプロテクションはデイテールのデザインのみに求めずむしろ、「色」「模様」「分量」とバランス観から生まれる[調和]そして、「素材感」「手作り感」「和み感」などより、エモ‐ショナルな要素を重要視し始める。そして、これらはスポーチィ‐カジュアルウエアーの世界を含めた新たなモードの世界全般の『共通言語』となる。

東京の路上での若者達のモードはイラク戦争を待つまでも無く、『ケイタイ』の登場と共に彼らたちの日常着としてノスポーテイ―カジュアルウエアーの分野で既に、あらゆる意味でポスト・モダン社会の『プロテクション』化 は始まっている。

ここで現代社会に於ける[新たな環境]の眼差しを試行してみよう。新しいモノの日常化によって僕たちの生活そのものや生活様式、環境が変革する。それらの中での人間の立居振舞やルールとしての躾などまでもが変化する。当然、生活者としての当事者である人間の心の在り方までもが変質してしまう可能性が在る。例えば、先の『ケイタイ』の日常化によって[HOME] と言う概念が全くと言って良いほどに変化しはじめ、若者たちは路上へあふれ始めた。
そこで、『HOME IS NOT A HOUSE』と言うコンセプトが考えられる。単純に『ケイタイ』の出現によって何処でもが[HOME]化してしまうと言うまでの発想である。このコンセプトを元にモードを考えると、『新たなプロテクションを考えたホームウエアー』が最新のモードに為り得る。考えられる事は可能なプロテクションをデザインコンセプトとして、『楽、派手、ベーシック』に時代の雰囲気をミュージュックDJ感覚とスポーツ感それにヴィンテージ・テイストをベースに味付けし色感、素材感と分量感によってプロテクションがデザインされたニュー・ホームウエアー。これが、僕が試行するケイタイ以後の東京発信の路上に於けるスポーツウエアー観である。事実、東京でのストリートカジュアルウエアーでビジネス的に成功しているブランド例えば、[ハリウッドランチマーケット]や[コムデギャルソン・シャツ]等と[アンダーカヴァー]で代表されるいわゆる[裏原系]はこのカテゴリー・ブランドと僕は想っている。
従来の『PROTECTION 』は人間が人間らしく安全に生活を営む為のあらゆる『機能』に対するプロテクトであった。例えば、対自然環境や自然現象としての天候までも含めたプロテクションから対社会環境、制度やモラルに対してまでの『機能』であった。しかし、現代の新たな『PROTECTION』はより豊かに人間らしい内面を優しく優雅に生きるための『心的、精神的かつ、健康的』意味を強く持ち始めた事だ。それに『性的』意味までも含まれるのが現代の『PROTECTION 』であろう。従来のそれは[殻]をイメージ出来るクローズドな発想で物理的側面が強かったが、新たなプロテクションは[羊水]がイメージであり、よりオープンでエモーショナルな五感的発想へと移行し始めている。現代の路上ではウオークマンにヘッドホーンで自分たちの好きなファッションで音楽を聴くことそのものが[PROTECTION]行為である。

このようなハイ・テクノロジーをベースとしたニュー・メデア社会に於ける最近の東京発のスポーチィ‐カジュアル・ストリートウエアーはここ一年ほどで今までモードの先進国だった所のロンドンや巴里を始めとする路上のKIDSたちへアニメと漫画を携えて大きな影響を与えた。そして、この東京のストリートファッションが即ち、スポーチィカジュアルが今、面白いとこの街を訪れる外国人デザイナーたちも多い。

それはこの東京が既に、[距離の消滅の完了]が成され、従来在った筈の他者との距離が在るようで、消えてしまったことからの[あらゆる不安]が彼らたちの日常着としてのスポチィ‐カジュアルウエアーにより多くの要素とデイテールに[プロテクト]を必要とし始めた。彼らたちの遊び道具もウオークマン以後、ゲームボーイ、ポケットカメラ、スケートボード、ローラーブレード、キックスケートそして、デジカメ、ケイタイなどの全てがパーソナル・ギア化し日常生活の中へ世界に先駆けて、リアリチィ‐を持ったことでも理解出来る。
そんな東京は一足先に20世紀状態から抜き出て、路上に全てが在り、それらがバランス観不在の多くは悪趣味に満たされた何でもあり状態であるリアリテイーそのものが21世紀化している。元来、宗教観によって[躾と恥]を守り、ハーモニーにプライオリチィを置いて歴史を作ってきた国々の人たちはこの先駆けた東京の現実に興味を覚る。それは『全てが、狂宴/オージーの後』であるが為に業を燃やし、『距離の消滅の完了』の兆しを実際に感じるが為に未来観をこの都市環境から体感出来るからであろう。

ファッションの面白さとは全てに差異を感じたときの興奮度であろうか?

全ての『差異』が資本主義経済を構築化している筈だったのが、『距離の消滅の完了』によって、あらゆる表層的な差異も消滅し始めたために、一つは資本主義経済構造そのもののパラドックス化ともう一つは、消費構造そのものが今後、より差異化のベクトルを求め階級消費社会構造化が始まる。これが現在の『ラグジュアリィー』化の本意であろう。

最後に、ファッションは約100年という時間を費やして『WRAPPINGからCOVERINGそして、PROTECTING』へと21世紀化して行くのだろうか?
/平川武治

投稿者 : take.Hirakawa | 2003年08月07日 04:25