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変わり始めたモードの新しい環境と風景。

――シリーズ:「過ぎ行かない過去から逃避せよ。」

 「名声は川のようなものであって、軽くて膨らんだものを浮かべ、重くて、がっちりしたものを沈める。」  ベーコン随想集。

 この世界ではもう、少し、古い話になってしまった、5月も終わりに「コムデギャルソンのためのコムデギャルソン展」を川久保流、社員研修のために同社のワンフロアーを使って1週間の開催の初日だけを見て、すぐに恒例のアントワープ・ロイヤルアカデミーの卒業コレクションの審査のために出かけた。
 これが今回の旅の始まりでその後、結局、約2ヶ月をヨーロッパで過ごした。

「アントワープが、何か変?
パリに近着き過ぎたアントワープ。」
 恒例、この街のロイヤルアカデミィの卒業コレクションが今年は6月17,18,19日に行われた。
 結論から言おう。
今年も低調だった。昨年が悪かったので今年は?という気持ちがあったが昨年よりは良かったのだろうが、正直言って、このままでは数年前にあのバーナード・Wやアンジェロ・Fが出て以来、当分彼らのような逸材は輩出されないだろうと言い切れる。歯に衣を被せない、僕なりの言い方をしてしまえば、ドリス・V・Nレベルの学校に成り下がってしまった。と言えようか?
 では、なぜ低調だったか?
コレクションの作品において、生徒たちが迷った挙句のコレクションが多かったと感じたこと。この学校は本当にびっくりさせてくれる、成熟した人間が作る自由な精神の元で創造される作品に出会う、ヨーロッパでも数少ないモード学校のコレクションであったはずなのに昨年と言い、今年も「おや、どうしたんだ?」と言ってしまうような、感動するほどのインテレクチュアルな作品もないし、驚くほどセンスのよいモードな作品も無かった。多分、生徒たちはこの両極の間で迷った挙句のコレクションだったのでは?
 アントワープが巴里、モード界で騒がれるようになったのはやっと、10年そこそこである。‘85年に政府観光局がらみでかの、「アントワープ・シックス」が東京へショーをしに来たことがあった。このときはほとんど騒がれずにそれ以上に、当時の日本人デザイナーの凄さを目の当たりにして帰国し、以後、彼らたちは「コムデギャルソン」をお手本に切磋琢磨した。モノつくりからビジネスそして、プレスコントロールまで。その後、巴里のモード界で現在のような名声を得るためには’88年の10月を待たなければならなかった。先輩O.B.であるあの、マルタン・マルジェラの登場であった。彼はこのアカデミーを卒業後、J・P・ゴルチェで3年半ほどを働き、独立準備に1年半を費やしての登場がこの時。以後、彼の創造性と高度なイメージのつけ方はご存知のとうりである。そして、ロンドンやミラノへ出かけては試行錯誤を繰り返していた「アントワープ・シックス」の5人はやっと、‘90年代からのモードがストリートへランディングし始め、新たな環境と風景を見せ始めた時に巴里へ上陸することが出来たのである。そして、’90年代の殆どがこの巴里でも、彼らたちはアントワープ派とまで呼ばれ彼らたちの時代になった。当然であるが、彼らたちの母校が注目されこの様なモードの学校があったのだと言う驚きと共に多くのジャーナリストを味方につけた。何を言おうこの僕もそんな中の一人であった。
 確かに、今でもこの学校の教育レベルは他国のモード系学校からは抜きん出ている。インテレクチュアルであるし、エモーショナルな表現が巧いし、オリジナリ性も豊かである。やはり、この街の「根っこ」がユダヤ人の町であるために彼らたち独特な感情表現の巧さとビジネス上手を育ちとして持っているのが強みである。この学校とリレーションが出来てから多くのこの街のデザイナーたちと関ってきたが、彼らたちに共通する所は「エゴ」が強いことである。彼らたちのエゴの強さをモードでエヂュケーションして来たのがこのアカデミーであろう。
 このアカデミーがここ1,2年来少しその状況に変化が出てきた。
街が変わり始めた。モードの人たちがこの街をモードによって変革させるパワーを持って実行し、確実に彼らたちのイニシアティブを持ちえた。フランドルファッション研究所が出来、政府と市に掛け合って空きビルを貰ってリノベーションして見事なモードの殿堂を築いたのが2001年。以後、この街のモードの人たちは特別の人たちになり、街が変化し始めたと同じように彼らたちも変化し始める。例えば、日本人学生がブランド志向宜しく、ここ2年来毎年12人ほどが入学をしている。20%を日本人でと言うような枠を作ったのであろうか?それまではよく、僕にまでこの学校の先生は日本人学生を嘆いていたはずなのに、ここに来てなぜ12人も? 調べてみると、この2年来、アジア系の学生には年額費が40万円が加算され、それまでの全生徒、一律60,000円ほどで良かったのが、急に値上がりしてしまっている。これはこの国の政策であろうがこれを請求したのは当事者たち、先生たちであろう。日本人や韓国人をはじめとするアジア系生徒たちは語学の問題も含めて手間暇が掛かるからと言う理由からであろうか?その為、昨年も今年も12人が入学をしている。当然、昨年の5人ほどはもうすでに落ちてしまって2年生へ進級出来ない。東京の新興ファッション大学もアントワープブームにのかって生徒を毎シーズンコレクション時期にこの街へ連れて行き、この学校の先生を窓口に特別講義と称してクラスを設けて先生たちにアルバイトをさせている。僅か数時間の講義を終えた生徒からディプロマを出してほしいと質問されてとんでもないことと慌てふためいた事件もあったほどである。
 このような様変わりはかつての、ロンドンのセントマーチン校を思い出す。以後、この学校も実質のレベルが下がったほどである。今まで、静かで小さな田舎町が、質素倹約でつつしみやかに生活していたこの街がモードによって都市そのものが変革したことで確実にこの街の経済効果も上がり社会環境も、そこで生活している当事者たちも変化したのが現実であり、今では騒々しい小都市化へと移行して、小巴里になろうとしているように感じられる。ここに問題の一つが在ろう。アントワープが巴里化しても始まらないのである。
すでに、世界レベルでファッション情報が飛び交いメディアがひしめき合ってそれらの差異をイメージの世界で均一化し始めているので余計に、この街の生徒たちはこれらのイメージに翻弄されて彼らたちがこの街で学ぶアイデンティティが無くなって来ている事もこのアカデミーに多少、変化与えているであろう。ここにも、モードのイメージによる「グローバリズム」と言う新しい環境と風景が現れ、現実化してきている。EUになったことも大きな要因であろう。EUにおける都市間の差異がちじまり始め余りにパリへ近ずいために学生が中央集中型になってしまうと言う変化が現れ始めたと僕は読んでいる。今ではこのアカデミ-もベルギー人は少なく、ユーゴスラビアをはじめとする東欧、オーストリアとドイツ系が多くそれにフランスやイスラエル、中東と先のアジア系で占められるようになってしまった。この学校が今、本当にしなければならないことは生産背景を自国または自分たちの手が届くところで拡大することである。卒業生は毎年出て来るが彼らのコレクションの生産を引き受けてくれる工場が不足している現実を解決しないでこの街もイタリーへ逃げている(?)
 先生と言う役割を考えてみると、生徒を迷える羊と思って、彼らたちにあった「囲い」を作ってやって、「さあ、ここでやりたいことをやりなさい」方式で行くか、生徒たちの個人能力を認めて、彼たちを飛び立てる鳥という発想で、彼らたちにあった「窓」を開けて「さあ、大きな青い空へ、」と飛び立つことをすすめることも先生の役割であろう。
当然、これは生徒個人の才能にも,学年にも依るであろうが、その判断がシャープだったこの学校が鈍くなってきたのか?と言う判断も僕は考えてしまう。
 今年の審査員を選ぶところで面白いことがこの学校で起こった。学校側は最初、あの、トム・フオードへ先ず、依頼した。が、勿論「No!」次にプラダへ、これも「No!」そして、最後にA・アライアへ。彼も「No!」。結局は地元のパターンも出来ない卒業生デザイナーP.ブルーノとパリからプレスのKUKIとブティック、マリアルイザのマリアがメインジュリーとなったと言うお粗末なことが起こった。なぜ、トムなのかが僕にはわからない。生徒のためなのか、先生達の為なのかと言う問題に思われてくる。多分、卒業生のことを思い就職先拡大化のためなのだろうか。インデペンデンなデザイナーが誕生しにくくなったことを予感しての行為?とも考えられる。
 最後に、なぜ、僕がD・V・ノッテン止まりかと言うと、ここ数年来、この学校からのデザイナーが殆どと言っていいほど独立して出てきていない。これは、新人が出にくくなったと一言で言ってしまっているが、これは先にも挙げたが、現実の問題がある。この国、地方での生産環境が狭くなり始めたこと。もう満杯で新たな新人デザイナーのものを生産できる工場のキャパに余裕が無く、従って、この街のデザイナーのものがそれなりの物であるのに売値が高くなり始めたり、デリヴァリーも悪くなってきたデザイナーもあり、独立しても落ちてしまうケースが多くなってきたことが一番の原因であろう。そこで、卒業生の優秀なものが、この街1番の稼ぎ頭で、彼は既に、この街の郊外に城もどきの邸宅を買って住んでいるファッション・エンペラーであり、そのドリスの元へ一旦、就職してしまうケースが増えているのである。結果的にはドリスがいつも若くて才能ある卒業生を自分のアトリエへ迎えられると言う美味しい状況を作っている。
この例では、あのアンジェロ・Fとの間に、イタリーでは珍しくもないが、この街では珍しい[ファッション・マフィア的な]出来事が起こっている。アンジェロの非凡なる才能に大いなる興味を示したドリスは彼の事実上のデヴューコレクションを後ろから支えいろいろな面倒を、たとえば、展示会場のスペースを貸してやったりして所謂、面倒を見てきていたのだ。が、結果、最近になって判明したことに、ドリスの会社が、アンジェロのブランド名登記を彼に内緒で数十年間もドリスの会社がホウルディングできる内容の契約を交わしてしまっていた。従って、当のアンジェロはこの契約期間中には自分の名前なのにブランド名として自分の名前が勝手には使えないと言う隠された事件まで起き上がっている。アンジェロはイタリア人という現実も手伝ってか、誰もこの件に対しては手が出せない。これがこの変わったこの街のある現実のひとコマで在る。
従って、この学校からしばらくは大物デザイナーが登場するのは至難の状況になってきたと言える。
 これがモード都市へと成長を遂げている現実のアントワープの新たな環境と風景の一部の昨今である。結論を言えば、[巴里は巴里一つでいいのである。アントワープがパリ化する必要はないのである。]パリに近つきすぎ、差異が見えなくなり始めたのだろうか?

投稿者 : take.Hirakawa | 2004年09月24日 19:17