« <2004年6月>[コムデギャルソンのためのコムデギャルソン展]企画・解説に参画して。 | メイン | <2004年10月版>「変わり始めたモードの新しい環境と風景、その2ー今夏、東京で想ったこと。」 »

<2004年09月版>「変わり始めたモードの新しい環境と風景。」+<臨時特別ニュース>「あのアントワープ王立アカデミィーモード科主任教授の リンダ ロッパ先生が”POLI MODA校”へ移籍!!」

strong>「平川武治のノオトブログ;The Lepli ARCHIVESー08;」です。  <臨時特別ニュース>「あのアントワープ王立アカデミィーモード科主任教授の
リンダ ロッパ先生が”POLI MODA校”へ移籍!!」strong>
 今回のアーカイヴでは、あの”アントワープ・王立アカデミー”校の変貌について二編です。
”2004-09”初稿版「変わり始めたモードの新しい環境と風景、アントワープ編」と
”2006-09”初稿版、<臨時特別ニュース>「あのアントワープ王立アカデミィーモード科主任教授の
リンダ ロッパ先生が”POLI MODA校”へ移籍!!」の二編をアーカイヴとして取り上げます。
 時代が変わろうとしている兆候はやはり、人心にその根拠があるのでしょう。

文責/平川武治:

「変わり始めたモードの新しい環境と風景、アントワープ編」
初稿/2004-09-24;
―「過ぎ行かない過去から逃避せよ。」
 あれほどまでに華やかで創造性に溢れていた筈のこの街のモードも淀みが始まった様です。

 「名声は川のようなものであって、軽くて膨らんだものを浮かべ、
重くて、がっちりしたものを沈める。」/ベーコン随想集。
 
 この世界ではもう、少し古い話になってしまった、5月も終わりに「コムデギャルソンのための
コムデギャルソン展」を川久保流、社員研修のために同社のワンフロアーを使って1週間の開催の
初日だけを見て、すぐに恒例のアントワープ・ロイヤルアカデミーの卒業コレクションの審査の
ために出かけた。これが今回の旅の始まりでその後、結局、約2ヶ月をヨーロッパで過ごした。

 1)「アントワープが、何か変?パリに近着き過ぎたアントワープ。」;
 恒例、この街のロイヤルアカデミィの卒業コレクションが今年は6月17,18,&19日に行われた。
 結論から言おう。
今年も低調だった。昨年が悪かったので今年は?という気持ちがあったが昨年よりは良かったの
だろうが、正直言って、このままでは数年前にあのバーナード・Wやアンジェロ・Fが出て以来、
当分,彼らのような逸材は輩出されないだろうと言い切れる。歯に衣を被せない、僕なりの言い方
をしてしまえば、ドリス・V・Nレベルの学校に成り下がってしまった。(デザインの根幹の違い)
と言えようか?
 では、なぜ低調だったか?
コレクションの作品において、生徒たちが迷った挙句のコレクションが多かったと感じたこと。
この学校は本当にびっくりさせてくれる、成熟した人間が作る自由な精神の元で創造される作品
に出会う、ヨーロッパでも数少ないモード学校のコレクションであったはずなのに昨年と言い、
今年も「おや、どうしたんだ?」と言ってしまうような、感動するほどの知的な作品もないし、
驚くほどセンスのよいモードな作品も無かった。多分、生徒たちはこの両極の間で迷った挙句の
コレクションだったのでは?
 アントワープが巴里、モード界で騒がれるようになったのはやっと、10年そこそこである。
‘85年に政府観光局がらみで、かの「アントワープ・シックス」が東京へショーをしに来たことが
あった。この時はほとんど騒がれず、それ以上に当時の日本人デザイナー(この時期の山本耀司と
川久保玲の”黒の旋風”)の凄さを目の当たりにして帰国し、以後、彼らたちはこの「ヨウジ」と
「コムデギャルソン」をお手本に”モノつくり”から”ビジネス”そして、”プレスコントロール”
までをも切磋琢磨した。その後、巴里のモード界で現在のような名声を得るためには’88年の10月
を待たなければならなかった。先輩O.B.であるあの、マルタン・マルジェラの登場であった。
 彼はこのアカデミーを卒業後、J・P・ゴルチェで3年半ほどを働き、独立準備に1年半を費やし
ての登場がこの時。以後、彼の創造性と高度なイメージのつけ方はご存知のとうりである。
 そして、ロンドンやミラノへ出かけては試行錯誤を繰り返していた”アントワープ・シックス”
の5人はやっと、‘90年代からのモードが”ストリート”へランディングし始め、新たな環境と風景
を見せ始めた時に巴里へ上陸することが出来たのである。
 そして、’90年代の殆どがこの巴里でも、彼らたちはアントワープ派とまで呼ばれ、彼らたちの
うねりの時代になった。当然であるが、彼らたちの母校が注目されこの様なモードの学校が在っ
たのだと言う驚きと共に多くのジャーナリストを味方につけた。何を言おう、この僕もそんな中
の一人であった。
 確かに、今でもこの学校の教育レベルは他国のモード系学校からは抜きん出ている。
インテレクチュアルであるし、エモーショナルな表現が巧いし、オリジナリ性も豊かである。
 やはり、この街の「根っこ」がユダヤ人の町であるために彼らたち独特な感情表現の巧さと
ビジネス上手を育ちとして持っているのが強みである。僕はこの学校とリレーションが出来て
から多くのこの街が輩出したデザイナーたちと関ってきたが、彼らたちに共通する所は「エゴ」
が強いことである。彼らたちの”エゴ”の強さをモードの世界で教育して来たのがこのアカデミー
であろう。
 このアカデミーがここ1,2年来、少しその状況に変化が出てきた。
街が変わり始めた。モードの関係者たちがこの街をモードによって変革させるパワーを持って
実行し、確実に彼らたちのイニシアティブを持ちえた。「フランドルファッション研究所」が
出来、政府と市に掛け合って空きビルを貰ってリノベーションして見事な"モードの殿堂"を
築いたのが2001年。以後、この街のモードの人たちは特別の人たちになり、街が変化し始めたと
同じように彼らたちも変化し始める。例えば、日本人学生が"ブランド志向"宜しく、ここ2年来
毎年12人ほどが入学をしている。20%を"日本人"でと言うような枠を作ったのであろうか?
 それまではよく、僕にまでこの学校の先生は日本人学生を嘆いていたはずなのに、ここに来て
なぜ12人も? 
 調べてみると、この2年来アジア系の学生には年額費が40万円が加算された。
それまでの全生徒、一律60,000円ほどで良かったのが、急に値上がりしてしまっている。
これはこの国の政策であろうがこれを請求したのは当事者たち、アカデミーの先生たちである。
 日本人や韓国人をはじめとするアジア系生徒たちは語学の問題も含めて手間暇が掛かるからと
言う理由からの”値上げ”であろうか?
 その為、昨年も今年も日本からは12人が入学をしている。当然、昨年の5人ほどはもうすでに
落ちてしまって2年生へ進級出来ない。東京の新興ファッション大学もアントワープブームに
のかって、生徒を毎シーズンコレクション時期にこの街へ連れて行き、この学校の先生を窓口に
特別講義と称してクラスを設けて先生たちにアルバイトをさせている。
 僅か数時間の講義を終えた生徒からディプロマを出してほしいと質問されてとんでもないこと
と慌てふためいた事件もあったほどである。
 このような様変わりはかつての、ロンドンのセントマーチン校を思い出す。
以後、この学校も実質のレベルが下がったほどであった。今まで、静かで小さな田舎町が、質素
倹約でつつしみやかに生活していたこの街がモードによって都市そのものが変革したことで確実
にこの街の経済効果も上がり社会環境も、そこで生活している当事者たちも変化したのが現実
であり、今では騒々しい小都市化へと移行、”小巴里”になろうとしているように感じられる。 
 ここに問題の一つが在ろう。アントワープが巴里化しても始まらないのである。
すでに、世界レベルでファッション情報が飛び交いメディアがひしめき合ってそれらの差異を
イメージの世界で均一化し始めているので余計に、この街の生徒たちはこれらのイメージに翻弄
されて彼らたちがこの街で学ぶアイデンティティが無くなって来ている事もこのアカデミーに
多少の変化与えているであろう。ここにも、モードのイメージによる「グローバリズム」と言う
”新しい環境と風景”が現れ、現実化してきていることが感じられる。
 EUになったことも大きな要因であろう。EUにおける都市間の差異がちじまり始め余りにパリへ
近ずいために学生が中央集中型になってしまうと言う変化が現れ始めたと僕は読んでいる。
今ではこのアカデミ-もベルギー人は少なく、ユーゴスラビアをはじめとする東欧、オーストリ
アとドイツ系が多くそれにフランスやイスラエル、中東と先のアジア系で占められるように
なってしまった。
 この学校が今、本当にしなければならないことは生産背景を自国または自分たちの手が届く
ところで拡大することである。卒業生は毎年出て来るが彼らのコレクションの生産を引き受けて
くれる工場が不足している現実を解決しないでこの街もイタリーへ逃げている(?)
 先生と言う役割を考えてみると、生徒を”迷える羊”と思って、彼らたちにあった「囲い」を
作ってやって、「さあ、ここでやりたいことをやりなさい」方式で行くか、生徒たちの個人能力
を認めて、彼たちを飛び立てる鳥という発想で、彼らたちにあった「窓」を開けて「さあ、大きな
青い空へ、」と飛び立つことをすすめることも先生の役割であろう。
 当然、これは生徒個人の才能にも学年にも依るであろうが、その判断がシャープだったこの
学校の先生たちが鈍くなってきたのか?と言う判断も僕は考えてしまう。
 今年の審査員を選ぶところで面白いことがこの学校で起こった。
学校側は最初あの、”トム・フオード”へ先ず、依頼した。が、勿論「No!」。次にプラダへ、
これも「No!」。そして、最後にA・アライアへ。彼も「No!」。
 結局は地元のパターンも出来ない卒業生デザイナーP.ブルーノとパリからプレスのKUKIと
ブティック、マリアルイザのマリアがメインジュリーとなったと言うお粗末なことが起こった。
 なぜ、トムなのかが僕にはわからない。生徒のためなのか、先生達の為なのかと言う問題に
思われてくる。多分、卒業生のことを思い就職先拡大化のためなのだろうか。インデペンデンな
デザイナーが誕生しにくくなったことを予感しての行為?とも考えられる。
 最後に、なぜ、僕がD・V・ノッテン止まりかと言うと、ここ数年来、この学校からのデザイナ
ーが殆どと言っていいほど独立出てきていない。これは、新人がデヴューし難くなったと一言で
言ってしまっているが、これは先にも挙げたが、現実の問題がある。
 この国、地方での生産環境が狭くなり始めたこと。
もう満杯で新たな新人デザイナーのものを生産できる工場のキャパに余裕が無くなり始めた。
 従って、この街のデザイナーのモノがそれなりの物であるのに売値が高くなり始めたり、
デリヴァリーも悪くなってきたデザイナーもあり、折角、独立しても落ちてしまうケースが多く
なってきたことが一番の原因であろう。そこで、卒業生でもビジネスが優秀なデザイナーが、
この街1番の稼ぎ頭で、彼は既に、この街の郊外に城もどきの邸宅を買って住んでいるこの街の
”ファッション・エンペラー”であり、そのドリスの元へ一旦、卒業生たちも就職してしまう
ケースが増えているのである。結果的にはドリスがいつも若くて才能ある卒業生を自分のアトリ
エへ迎えられると言う美味しい状況を作っているのも現実である。
 この例では、あのアンジェロ・Fとの間に、イタリーでは珍しくもないが、この街では珍しい
[ファッション・マフィア的な]出来事が起こっている。
アンジェロの非凡なる才能に大いなる興味を示したドリスは彼の事実上のデヴューコレクション
を後ろから支えいろいろな面倒を、たとえば、展示会場のスペースを貸してやったりして所謂、
面倒を見てきていたのだ。が、結果、最近になって判明したことに、このドリスの会社が、
”アンジェロ F."のブランド名の”登記”を彼に内緒で数十年間もドリスの会社がホウルディング
する内容の契約を交わしてしまっていた。従って、当のアンジェロはこの契約期間中には自分の
名前なのに”ブランド名”として自分の名前が勝手には使えないと言う隠された事件まで起き上が
っている。
 アンジェロはイタリア人という現実も手伝ってか、誰もこの件に対しては手が出せない。
これがこの変わったこの街のある現実の一コマで在る。
 従って、この学校からしばらくは大物デザイナーが登場するのは至難の状況になってきたと
言える。これがモード都市へと成長を遂げている現実のアントワープの新たな環境と風景の一部
の昨今である。
 結論を言えば、[巴里は巴里一つでいいのである。アントワープが巴里化する必要はないので
ある。]
 ”巴里”に近つきすぎ、差異が見えなくなり始めたのだろうか?
或いは、アカデミーに君臨するファッショングルービー達の”ドンキホーテ現象”であろうか?
文責/平川武治:
  *
 2)そして、このブログから二年後に次の様な出来事が起こった。
実際に、この”ファッショングルーピィー”の賑わうアントワープが狂い始める。

  **
Part-2/<臨時特別ニュース>
「あのアントワープ王立アカデミィーモード科主任教授のリンダ ロッパ先生が”フィレンチェの
POLI MODA校”へ移籍!!」
初稿/2006-09-14:
 日本でも既に、ブランド的モード教育機関になってしまった、アントワープ王立アカデミィー
のモード科を代表する主任教授、LINDA LOPPA氏が突然辞職。
 『 2006年09月13日、アントワープ発;
 本日、王立アカデミィーのモード科、主任教授であり、彼女自らが提唱者の一人であった、
”FLAMAN FASHION INS.”(FFI)/フラマンファッション研究所”及び、新設されて間もない、
「国立アントワープ服飾美術館」館長をも兼務していた LINDA LOPPA女史が突然、総ての職を
辞任した。』
 今年2月に地元ベルギィーの新聞で”公金横領”のスキャンダルを巻き起こした彼女の、その半年
程後の”アントワープ脱出事件”である。
 即ち、彼女が携わって来たこの街、アントワープにおける総てのモード関係の職を辞任した。
 その彼女の新しい職場は、イタリーのフレンチェに在る、「ポリ・モ-ダ」校へ移籍。
この「ポリ・モーダ」校とは、この国、イタリィーのファッションを代表するS.フェラガモ社が
創設した教育ならびにモードをプロパガンがする研究機関である。彼女、LINDA LOPPA女史の
ルーツはイタリア人。ここ数年来、フィレンチェの「ピッツァ・ウオモウ」関係でアントワープ
のデザイナーたち、RAF SIMONS,ANGERO F.等を送り込んでイベント企画等を行ってきた事も
この経過での新たな動きと見ることが出来る。
 彼女自身も今後、フレンチェに家を買って住み、多くの若いアントワープ卒業デザイナーに
成長した教え子たちのためにイタリアの工場を紹介するとまでの公言。
 これは彼ら、アントワープの若手デザイナーたちや今後の卒業生たちにとって本質的に大切な
事がらであり必然性と大いに可能性を含んだ視点である。
 だが、この移籍の根幹と本意はもっとどろどろしたものがありそうだ。
この一件によって、アントワープのモード科も今後どのような方向性へ向いた教育機関になるか?
彼女の後の”主任教授”を受け持つことになったのは、今までこのアカデミィーの3年生の担任教授
であったあの「6人組」の一人のデザイナー、”WALTER VAN BEIRENDONCK”がモード主任へ
昇進という。
 ”Poli moda(ポリモーダ)校” ;フィレンツェ市内 にあるポリモーダは1986 年創設、
ニューヨークのファッション・インスティテュート・テクノロジー(FIT ) との提携のもと、
イタリア・ファッションをグローバルに学ぶ場所として地元フィレンツェ市やS . フェラガモ社
などの協力で創立されたイタリィーを代表するファッション・スクール。
 デザイン、創造性、技術革新を重視し、 デッサン教室、テクノロジー・センター、デザイン・
ラボラトリー、テキスタイル・ラボラトリー、 図書館等を備えている。
 1986 年の創業以来、世界中から集まってくる生徒数は700人を越え、卒業生の7割が実際の
ファッション産業で働いている。イタリーファッション業界と密接な関係を保持しているのが
大きな特色。ファッションを 基礎から学びたい人、すでに学歴・職歴ある人たちの能力開発及び
文化的教養を高めたい人に向けての応用・専門コースを各種開講しており、夏期講座では日本語
コースも可能らしい。
 <参考サイト>
http://www.vrtnieuws.net/nieuwsnet_master/versie2/english/details/060912_lindaloppa/index.shtml
文責;平川武治:
初稿/<2004-09-24>+<2006-09-14>


投稿者 : take.Hirakawa | 2004年09月24日 19:17