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<2004年10月版>「変わり始めたモードの新しい環境と風景、その2ー今夏、東京で想ったこと。」
strong>「平川武治のノオトブログ;The Lepli ARCHIVESー09;」です。
今回は、初稿が2004年10月に書かれたもので、「変わり始めたモードの新しい環境と風景、
その2、ー今夏、東京で想ったこと。」がタイトルのアーカイヴです。
初稿/2004-10-27:
文責/平川武治:
1)アテネオリンピックから想うこと;
慌しい、落ち着きの無くなっている[ケイタイ症候群]化した人たちの住んでいるこの街、
東京ではもう、今夏に行われたアテネオリンピックの話は、あれほどにTVにかじりついて一喜
一憂し、深夜まで眼を赤くして見、メダルの数を子供までもが数え覚えてしまっていたのに、
2ヶ月ほどが経た今、もう誰も話さなくなってしまった。
しかし、今年のオリンピックは戦後の日本人が一番活躍し、メダルを多くとった大会であった
ことは確かなる出来事であった。どうして、4年前のシドニー大会からこれほどまで日本人が
メダルを取ることが出来たのだろうか?
これも僕流に言えば、われら戦後の日本人が築き上げた[新たなる環境と風景]の現実の一つ
である。
なぜ、これほどまでの結果を生んだのだろうかと自問してみたり、幾人かの友人たちとも
話し合ってみた。その結果が、①”ワールド・ワイド”で的確なる情報収集が高度に現実的に
なったこと。②その収集した情報の分析が的確であったこと。③その情報を基にして世界の
トップクラスや日本での優れたコーチ陣が英才教育を行ったこと。(たとえば、あの卓球の
愛ちゃんでも、中国の元ベスト上位の選手をコーチにつけていた。)④そして、海外練習を行い
国内でも練習設備が整った環境での猛練習が行われた。⑤日本人の体型が外国人のそれに引けを
取らないほどに発育発達したことと、食糧環境の進化。
これらの新たなる”状況と環境”を持ち得た事によっての結果と、元来の日本人気質としての
”STANDERD”な勤勉と努力それに、この世代特有の”ポジティフさ”がそして、その背景としての
‘90年代以降のわが国の”産業技術”が生んだ先端技術を生かした工業化と商品化による所謂、
情報産業の日常化による我々が持ち得た生活環境の進化と差異化。
この結果の現れが、[新たなる環境と風景]を背景に、明解でわかりやすい最終目的である
スポーツ大会で得ることが出来た結果のオリンピック大会であったと読める。
この「新たなる環境と風景」の結果としてのメダルラッシュは何もスポーツ分野のみならず、
戦後、約60年を経たある意味では現在日本の現実であり、他分野でもこの状況は「現在進行形」
として進化しつつある筈だ。この状況は”モードの世界”でもそうかもしれない。
ここで僕はこれからの[親の役割]や[教育]について想い考えてしまった。
それは20代そこそこの選手たちが持ち得たスポーツ・エヂュケーションの環境である。
卓球の愛ちゃん然り、水泳の北島選手然り、体操選手たちにしてもそうであるが、所謂
[英才教育]が為されている事である。それも子供たちが小さな時から始めている例が多く
なってきた。これには一つの事実がある。このスポーツの世界も、”芸人”や”政治家”の世界と
同じ[親子2代、同じ道を歩む]が、この戦後と言う時間の中でサイクルかされてきたこと。
親の経験を生かして、親が自分の子供を育児しその家庭で自分の子がどのような才能や天分を
持っているか、自分の子供が何に適応しているか、何が得意かなどを早熟な時期に、親の責任と
して見極めた結果の行為でもある。決して、世間がいう[いい進学校]へ進学させても今の時代
の[不確実]な社会に対してはもう、適応性が親の思った答えを出してくれなくなってしまった
時代性と社会性。学校に頼っていても駄目であると言う一つの答えがここにあるかもしれない。
この”親と子”の関係はある種の[家元]制度的な関係でもあろうが、親が子育てを行うことの
中には自分の子供がどのような天分を持ち得ているのか、居ないのか位は親の責任で早期発見が
今後の親の大いなる責任になる可能性があることになろうか?
当然、親にもそれなりの”知性と教養”が必要である。それ以上に親が子供に情熱と責任を持た
なければいけなくなるのである。唯、[かわいい、かわいい]だけで、後は親の自己満足と自分
たちのエゴを押し付ける子供教育をする時代ではなくなり始めるだろう。
ましてや、出来ちゃった結婚後、子供を[バービー人形症候群]的育児だけではどうかという
疑問をこのオリンピックを通じて再確認した。
親が早熟に子供の天分や才能、何が好きで何が不向きかを[親の絆]における責任を子も親も
共有し合って、お互いが可能である[リスクとコスト]を共に分担し合い、その目標へ向かって
行く。その為に、親が自分の子供をディレクションしてゆくための”感受性と知性と経験”が必要
となる。それらによって、育児と幼児教育することでたとえば、12,3年間程、これを子供と親が
この時間と責任と夢を共有し、突き詰めれば、彼らの人生の残りと言うよりも人生そのものが、
一生その世界か周辺マスコミ界でやって行ける結果の実例を生んだのも今回のオリンピックで
あろう。
と言うのも、僕が今の日本の社会を見ていると、[世間]がばらばらになり始めたと感じて
しまうからである。タダ、その世間の”ばらばら感”の裏側には[金・情報・モノ]だけに偏向求心
した[拝金主義的社会構造]が出来上がってしまっている現代日本を嫌がうえにも感じてしまうの
である。
多分、戦後の日本人が施されてきた教育自体に、そもそも[日本人的なる新たな日本と言う
国を作るためのSTANDARD]教育が施されてこなかったのだろう。例えば、今の日本の多くの二世
政治家たちの解り易過ぎる[アメリカ一辺倒現象]政策はこの後遺症を未だに引きずっている
失礼であるが、もう終わっている人たちなのである。
「グローバリズム」という「新たな植民地政策主義」的な時代性とは???
2)「再び、モードの世界へ、巴里は?」
現在の「モードの世界」をこの眼差しで見ると少しその状況が違って見える。
親がデザイナーであるから子供もデザイナーになると言う実例は、実に世界規模でも少ないし、
その殆どが成功していない。無理やりか政治的に為らされてしまったという例は巷でよくある例
だが、これとて、早熟な英才教育を施されずに促成栽培的が多い。
天分と感覚と美意識がモノをいう世界であるからか、または性的に同性愛者が多い世界である
からでもあろう。それにこの「モードの世界」の現実はデザイナー一人の世界ではなく、所謂
[共同体]化した”アトリエ”をどのように構築してゆくか、そのアトリエをどのように継続して
行くかが必須の実業の世界だからでもあろう。
この結果があらゆる意味での[異種混合]を好む世界になったことは確かであろう。
現代のパリにおけるオートクチュールの世界の内側を見てみれば一目瞭然である。
パリのモードの世界の人たちはここへ来てモードの世界も情報化とグローバリズムによって
[ファッションビジネスはショービジネス]と言う状況をもたらし始めた。それによってより、
ラグジュアリーなブランドビジネスはモードをタダ単に自分たちのブランドのイメージつくりと
そのイメージによってより、ラグジュアリー度をアップさすだけの実態へと移行し始めた。
その現れが、彼らたちは[”モード”でイメージ生み、”コスメと香水”それに”バッグやアクセサ
リー”などで実の売り上げを取り、その儲けで自分たちの屋台骨である老舗ブランド・マークの
クオリティを”金モノ”と言われる”時計”と石モノといわれる”ジュエリィー”をより充実させ、
維持させてゆくと言う方法に去年後半以降、そのほとんどのラグジュアリーブランドメーカーは
彼ら自身で自分たちの価値を移行させ始めた。
その結果がモード誌のイメージ広告合戦へと移行し、広告を貰うためにメディア関係者達は
”パリコレ詣で”をしなければいけなくなり、ここでもファッションジャーナリストたちを大いに
勘違いさせ始めている。
「広告が貰えれば良し」と言う短絡的な見方と、それをプッシュする関係の癒着が紙面にも、
より多く反映し始めてきている。これは何も日本人メディアとジャーナリストだけではないが
一番利用されて、「ビジネス的には日本を制して今後は中国を制したい」と言う彼らたちの
”世界戦略”に大いなる勘違いをしているのも日本人ジャーナリストたちである。
それに、もう一つ新たな”モードの価値”を作り始めたのもパリを中心とするラグジュアリィー
ブランドである。その新たなコンセプトは[誰しもがアーカイヴを持ちえ始めた]という視点で
ある。そのために自分たちのアーカイヴをより価値あるものにしてその価値によって新たな差別
&ステータス化を考え始めたのである。
彼ら達のコレクションがショー・ビジネス化し、始まったことによってこれ見よがしの
ショー的なる衣装造形服を、これ見よがしに見せて後は、”デッドストック”と言う縮図から、
これらを同じストックしておくならば、自社のストック置き場で保管していても”仕掛かり
在庫”として、課税対象になってしまうだけである。そこで、違った場所へおいておけば
違った、”新たな価値”が生まれると言う構図を考え出したのである。
その違った場所とは[美術館]である。ここへ寄贈すれば、税金対象にもならず、唯、時間が
経てゆけば、それだけ”新たな価値”が生まれると言う骨董的価値をこのモードの世界へ持ち込み
始めたのである。
これも、総てのブランドがアーカイヴを持ちえても、これをやれるのはやはり、選ばれた
ブランド、デザイナーの質ある個性豊かな仕事のみに限られるのは当然である。
今後この影響は多々出てくるであろうしそれによって、[ファッション・エキビジション]が
増えてくることも明らかに読める[新たな環境と風景]の一つである。
去年からでもJ・アルマーニ、S・フェラガモ、スキャパレリ、V・ウエストウッド、V & L、
etc.の展覧会が開催されたことでも読めるであろう。
この”新たな価値”についてゆけないのが現在の「東コレデザイナーたち。」だろう。
現在と言う時代性からとその「ブランド名」によって、辛うじて[ファイナルホーム]は海外の
関係者達には人気があるブランドだ。他の大半は[時代の悪趣味化]路線でTV芸能人頼りの
ビジネスへ走ってしまうであろう。
もう一つ、ここに来てパリのモードの人々は「オートクチュールのための人材」としての
デザイナーを、若き才能ある"新人デザイナー"を発掘し始た。そして、彼らたちにより、多くの
チャンスを与える方向へとシフトし始めたことである。
たとえば、この11月20日にパリから8人のデザイナーたちが選ばれてサンディカ主催のショウ
を北京で開催するのだが、この8人のうち、4人が僕も審査をしにその後、毎年呼んでもらって
参加している[フェスティヴァル・イエール]の受賞デザイナーであり、また重なるがフランス
文化庁が毎年有望な新人デザイナーたちへ[ANDAM]賞を与えているのだが、このANDAM賞を
うち4人が受賞している現実。(実はこのイエールも、ANDAMもY・S・L、LVMH、ロレアル
グループが実際の賞金をバックアップしている。)
彼ら、有望な新人デザイナーを選りすぐって中国へ連れてゆくということは彼らたちに将来の
ビジネスをこの国で委ねたい為でもあり、当面ではやはり、彼らたちの生産国として
[新たな環境]を新人達へあてがう為でもある。
結局、この国の”モードの世界”は[オートクチュールが大黒柱]と言う論理が今も歴然として
この国のモードを牽引し世界に於ける、[モードのショーケース]化を担っているのである。
そして現在のように経済のインフレ状態が長く続き、新たな階級(ヌーボーリッシュ)が誕生
し始め貧富の差が大きくなろうとしている時代性にはこの[保守性]は[新たなる革新の為の
保守]としてその役割を果たすという視点だ。
3)「そして、再び東京」へ、
今回、東京へ戻ってきて一番驚いたことはこの東京にも[新たなる金持ち階級]が登場し始め
ていること。しかも彼らたちの年齢が若い。30代前半から45歳ぐらいの年代層にこの新たなる
成金層が形成され始めている。彼らたちはIT関連産業での成功者であり、ゲーム産業、音楽産業
それに、飲食産業となって今年の高額所得納税者リストを賑わせている。結果、彼らたちは
”新しい階級”を形成し始めたといえる。なぜならば、戦後の日本社会における金持ち層は大体に
高年代層から順序的になっていたものがここに来て所謂、[飛び年代の金持ち]が彼らたちに
よって構成され始めたことである。
(別紙参照)
これに気が付いたのはある日新聞を読んでいたら、あの焼肉屋で若い人たちに人気のある
チェーン店[牛角]の社長が35歳ほど、その彼が社長を辞めて会長になり新たな社長が31歳。
会長になった彼はその後、コンビニのチェーン店[AM/PM]を買収してそこの社長を兼任する
と言う記事であった。これは凄いぞ!!新たな日本の階級社会を形成する原動力になる。
という視点と興味を僕が持ったことからである。
多くの彼らたちは10年ほど前までは単なる[オタク]。しかも、ゲームやIT関係の大半が
ネクラなオタクであったはずだ。学生起業家として登場し、そのまま時代を猛烈なスピードで
走り始め、この10年ほどで時代の寵児になり資産をも持ってしまった。そんな彼らたちがどの
ようなお金の使い方をするかと考えれば面白くなってきた。先ず、住空間、オフィス空間は
ウオーターフロントの高層マンションの最上階。これ見よがしのインテリア空間。次が車。
これも彼らなりのこれ見よがしの外車を幾台も。そうなると彼らたちのファッションは?
そう、彼らが学生で[オタク]だった頃はポロシャツにチノパン。続いてT-シャツにジーンズ。
先ず、ファッション感覚はないに等しい世代。彼らたちはエンタテ―メントの世界をそれぞれの
分野で目指した世代であるがために基本的なお金の使い方は派手になりそれも周りからどのよう
に見てもらいたいかと言うある種の[見せびらかしの消費]行動が主になってしまっている。
そこで海外有名ブランドモノを買い漁る。その情報ソースとしてのファッション雑誌が売れる
それがイタリア男の成金モードを扱った[LEONE]で代表される。そこで従来であればこの手の
客はデパートでは西武へと流れたのであるが、今は伊勢丹が一人勝ち的存在として、タイミング
よきリ・ニュアルで余計に成功しているのが現在の東京メンズ・マーケット。
伊勢丹のバイヤー、高田氏に聞いたところやはりこれらの新・成金階層がしっかりと伊勢丹の
顧客であり高価なシューズが難なくしっかりと売れてゆくと言う。セレクトであれば、U.A. で
あり、ブランドでいえば、芸能人に人気の”ディオール・オム”であり、”グッチ”であり”ドル・
ガバ”であり”LV” となる。
総てが[見せびらかしの消費]的発想で芸能人ご用達ものしか受けない。彼ら達はもう、
”裏原”ではなく、”ストリート”でもない、今やこれらの層をどの様に手なずけるかが勝負どころ
従って、スーツも美味しいアイテムになってきているのもこの新たな社会環境の変化によるも
のであろう。したがって、今は女物よりも男物の方がそれ相当の高額物スーツやシャツなどと
靴、ブルーミングや化粧品類までもがセットで売れている現実もここに在る。
では、彼らたちはどの様な女性たちに金を使うかと考えてみよう。
ここでも[見せびらかし]というキーワードは生きる。見た目の派手でセクシーなセレブな
女性、芸能人的な女性、自分がよく行くクラブやキャバクラのホステス的な女性へ。
ここでの女性モノがどの様なものが売れるかも想像が付く。
やっぱり、海外有名ラグジュアリーモノ。「派手」「セクシー」そして「高モノ」。これではあの
ひと時代前の[バブル期]と変わりは無いのでは?と言うことになろう。が、彼らたちの消費
行動を考えればやはりそのような[見せびらかしの消費]になってしまうであろう。
従って、この層は[ネオ・バブル期]を迎えているのが現在であろうし、[保守化]へと
向かうことも明らかである。
ここで話を伊勢丹のメンズフロアーに戻してみたい。
この3階フロアーの”ヨウジ”、”一生”そして”CdG”のコーナーを見てみると、如何に前者の2ブラ
ンドが古く感じてしまっても仕方がない状況を見せている。こんなにスペースを貰っているのに
これでは商売をする気があるのですか?と言いたくなる。
それほどに”CdG”がすばらしいのである。その気でもって商売を楽しんでがんばって、大いに
売り上げを取っているからである。所謂、「独り勝ち」というやつだ。ここでは、あの"M.M.
マルジェラ"さえも落ちてしまい始めている。例えば、一つのアイディアとして、このブランドは
レディスでの新しいブランド「#04」のメンズ版を現在の日本の新たな社会状況の中で、MD化
された手法も面白いのにと想うのだが?
それにしても、彼らたちの「見せびらかしの消費」は日本社会の「悪趣味化」とシンクロして
彼らたちを頂点にしてそれ以下の東コレ・ブランドの多くはその趣味の悪さをうりにし始めて
いることもこの機の東京の現実である。
バービー化現象や芸能人ご用達現象でだけがファッションでもない。ここにはセンスや知性が
感じられない。むしろ、表層的であり、一時的な刹那的なモードしかファッションでないような
状況をも作り出しているのがスタイリストやファッションライターと称する連中であろう。
メディアも受けさえすればいいとこれらを歓迎する。ますます、増長した悪趣味風景を
「セレブ」とメディアで騒ぎ、”東京化”してゆく。ここには何ら知性や教養が感じられない。
「躾」と「恥じらい」を喪失させる。「ボン・グゥ」を知らないことをもってデザイナーぶって
いる当人たちの”確実性”とは???
やはり、東京のデザイナー達は「STREET MUSUC CASUAL」+「古着+リメイク」に
特化するしかないのだろう。
前回の「DISCIPLINE会」ではここまでをお話したかったのですが、
体調が優れずに、済みませんでした。
次回をお楽しみに。
文責/平川武治:
初稿/2004-10-27 :
投稿者 : take.Hirakawa | 2004年10月27日 00:34