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総論的、パリ・コレクションが終わって、晩秋の巴里。’06 OCT.

「平川武治のノオトブログ;"The LE PLI" ARCHIVESー17」です。
今回は、『総論的、"パリ・コレクション '07 S/S" が終わって、晩秋の巴里。』です。
初稿/2006-10-16: 記。

文責/平川武治: 

0)はじめに;
 今日は「3.11、津波と東電福島原子力発電所企業災害事故」が迎える、”10年目”です。
「多大なご不幸と悲しみに僕もこゝろより、ご冥福を願います。」 

 「COVID-19」以後、僕はより激しく自分自身の存在も含めて、「脆さと定まらない時代」を
感じてしまっています。
 人間が住み着くところとしての”地球のあり方”、”世界のあり方”に関わるまでの「僕の心配」
が始まっています。
 それは、安定的だと思われてきた土台が実は最も簡単に崩壊しうる”段ボール”ものでしかも、
その崩壊は人間の経験や世間知を支えとする既存の尺度を離れたところで起こってしまうという
現実を認識させられたのがこの「3.11」でした。それにしても、あまりにも大きな心と体と
現実世界の損失でした。
 このアーカイヴ原稿の5年後に「3.11」が起こりました。
巴里で知ったこの現実は、僕のその後の人生に大きく関わり、生きる事への視点も変革し、
自分が日本人であることを痛切にそして、謙虚に意識し今があります。
 戦後日本を安定化させた”消費社会”という文化の中で、「豊かさの中の虚しさ」とでも呼ぶ、
「モノを”買う”と言う行為でしか”自分らしさ”を確信できる方法がない」故の、”消費主義”的な
空虚さは、時が経つに連れてその”厚化粧”が剥げてしまった如く、虚しさや惨めさそれに定めが
見えぬ社会と化てしまった様です。
 もう一方では、自然災害がもたらすあの10年前の惨事と、以後の多くの水害、地震と津波等の
度重なる猛威と気象異常危機への不安。それらによって促され、認識させられた”個人の自我”と
いう欲望の肥大化と新たな”企業公害”等に依って、余りにも地球そのものの”脆さ”までを体感し、
自分の実存感覚さえも定まらなくなり始めた僕の「COVID-19」以後の現実です。

 初稿が15年前の原稿です。ここには”二つの時代の予兆”が提言されていました。
結果、この原稿は確実に、以後の”時代の流れ”を予知したものでした。
 その一つは、「時代の身体つき」や「時代の顔つき」が「着るブランドもの」より、生活の
”ときめき”を生み出すまでの兆しがここには書かれています。
 もっと言ってしまえば、「ブランドものの服」の役割は「時代の身体つきや顔つき」を作り出
す為の”パッケージング”というスタンスの視点がこの時期から誕生し始めましたね。
 そしてもう一つは、ケイタイの普及により「仮想社会」がより、実生活に押し入り始め、その
世界への興味と、現実社会からの逃避というW.バインドで日常生活における”バランス”そのもの
が揺れ動きやすくなり、不均等になり始め、そのために「自分を守る」という思考が強くなり、
「イメージ」そのものも変質しはじめる。
 ここで誕生してきた、最後発の”ファッション•コンセプト”が「PROTECTION/PROTECTS」という、”最も古い”コンセプトが一番”新しく”誕生したという、まさに”時代はオート リバース”
という僕の好きな言葉の現実化でした。
 「ラッピング」、「カバーリング」そして、「プロテクション」という”モードの根幹”の変遷
が感じ読める興味ある時代性でした。
文責/平川武治:
初稿/令和参年3月11日記:
                   
1)【リアリテ】も、そして【ネオ・リアリテ】も、総てが変化し過ぎてしまった後に
来たのがこの21世紀です。

 シーズンが終わったばかりのこの街の白々しさは好きです。
あれ程までに、会場を埋め尽くす為に「群衆」化してしまうほどの人たちが何処に行ったのか、
突然に居なくなってしまうこの街のマジックもまた、魅力の一つ。
 気が付いてみると’85年来この時期になると僕もこの街のこんな魅力や友人たちに会いたくて
通い続けてしまった一人。正直言って、少し、永過ぎるようです。なぜかと言うと、モード、
そのものが、もう既に、以前のモードとは違ってきてしまっています。
 当然ですが、モードを育む環境としての社会やそこに住む人々たちの生活意識や様式がその
実体としての【リアリテ】も、そして【ネオ・リアリテ】も、総てが変化し過ぎてしまった後に
来たのがこの21世紀です。
 ある意味では、もう一度、総ての環境も社会も「人間」が中心の「人間」の速度による
「人間」の心の在り方を軸とした社会と生活様式を、その中での「デザイン」をもう一度、考え
始める時期に少し、近づきかけているようにも感じられる時代性を予感出来たシーズンでした。
 生きている人間の「実体」としての又、自分自らの「リアリテ」としての「身体」を一番大切
だと感じ始め、その身体へ自らが投資し始め、健康や安心と同じレベルで自らの身体の美しさを
バランスを想い始めた事。これらへ気が付いてみると「服」よりも既に多く投資している事実。
 今の社会でのこの傾向は決して、時代が貧しかった時期には「夢」であり、「願望」であった
はず。社会が豊かになり始めてここまでの余裕が出来たことによる、今までに無かった新しさと
しての社会現象の一つが、社会の表層としての「モード」が持っていた役割へと新たなスタンス
で近づき始めたと読んだシーズンでもありました。
 
 かつてのモードは階級社会のイニシアティブを持っていた人たちによる「FAMME OBJECT」
でスタートした世界。そのための男の身嗜みとしての「HOMME」はダンディズムと言う思想の
ルールの中での楽しみ。
 その後、’80年代はじめより、男が男を想うことも社会の表層の一部となり始め「HOMME
OBJECT」 がこのモードの世界のもう一方のコンセプトになる。以後、’80年代後半から’90年代
はこの「HOMME OBJECT」に翻弄されてそれなりの女はより、見られることのみへ、
又、ちょっと違う所にいた女性たちは自分たち自身の生き方や思想までもを探し始め、
「モード」の世界へまでも辿りつき、「モード」で感じようと試み新たな可能性を探し始める。
 そして21世紀になり生活の豊かさが一応に手中に入ると今度は自分にとっての「リアリティ」
を想い始め、不安になり始める。
 ここで「モード」はこの時期か「PROTECTION/PROTECTS」という最も古いコンセプトが
再燃され始める。ここでは『イメージ』から『リアリテ』へ、モードの主体も変化したと読る。
 この「最も古い、」というのは、嘗ては、「戦う為のユニフォーム」としての、甲冑があり、
やがて、軍服になり、その工場が作業服を生産しやがて、これらの”工場”が戦後の既製服メーカー
になるのが世界のメンズ既製服の世界の歴史の一端であったからだ。
 このコンセプトで新たにモードに加わったのが「SPORTS」「UNDER WEAR」そして、僕流に
言う所の「SEX」。これらが今世紀に入ってからの「豊かさ」とその裏側の「不安」との不調和
から生まれた新たな「モード」カテゴリィーと読める。
 これらは僕の視点ではみんな「PROTECTION/PROTECTS」がコンセプト。
”身体の機能”と”心のヒーリング”そして”性差と性そのもの”とを「モード」によってプロテクト
し始めたのがこの21世紀の新たな「モード」の入り口と読んでいます。
 今シーズンではこの「性」を考え、女性が持つ「リアリテ」として投資した「身体」の美しさ
をバランス化し始めたデザイナー達がランウエーで先を走った。
 
 着ているブランドやデザイナーモノの「服」で楽しみ、見せびらかしたり遊んだ時代から、
着ている服ではなく、着た服によってより、「身体」(=「リアリテ―生活」)を楽しみ、
見せびらかし、安心して営むために着る時代性が今。ここに来て、大きく変った「服」と
「身体」の関係のパラドックス化とも言えるだろう。
 もう一つには、”ファッション フォト”の世界も斬新なものが少なくなり、変化少なくなった、
「イメージ」ばかりで遊ぶことに飽き始めて来たともいえるでしょう。
イメージは所詮イメージのみ。そこで、「リアリテ」を作れなくなってしまってバーチャルな
世界に逃げ込もうと、ここでも新しさを求める。そして、「エモーショナル」なるものも所詮、
”疑似体験”としてのエモーションが主流になりはじめる。
 現代の「モードの当事者たち」彼らたちは、「サランラップ世代」になってしまった。
そして、TVやTVゲーム、まんが、MTVなどからの感動は総て、”疑似体験感”と”妄想”が「創造
の源流」になる。
 
 従って、現代の女性たちもゲイたちも自分たちの唯一の「リアリテ」としての「身体つき」を
いとほしくも大切に想い始め、それらに気が付くと服以上に既に、投資している現実性。
 これは今までに無かった「新しさ」の社会化。当然「モード」はこの先端に委ね、我がもの顔
をすることによって”消費”されてゆく世界。
 ディーテール・デザインやプリントそのものが主役ではなく、もっと堂々と着る人の「身体」
と「性」そのものを美しく或いは、上品に見せるための”プロポーション”をバランス感でどの
ようにデザインしてあげられるかまでがこれからのデザイナーの役割へと変化。
 だから今シーズンのコレクションでは、シルエットは「ボディー・コンシャス」。
身体のシェープさと動きに委ねた「オプティカル・プリント」、ショートミニのための「ハイ•
ウエスト」、そのための「ショルダー・ポイント」の色々。そして、「トランスパーレンス」な
素材の「ジョーゼット」「シフォン」。そしてやはり、時代は「保守化の進展」のみへと。
クラッシク、オーセンティック、べーッシク、トラディショナルなどというコード。そして、
ロマンティック&エレガンスはエモーショナルとともに。
 しかし、実はその裏側には若者たちの新しい彼らたちらしい『STREET』が潜みはじめる。
その異相は『身体で遊ぶ』事。そのための「服」には、「My I Help You?」の心が必要。
 即ち、「愛」と「ロマン」が。
 それに蛇足であろうが、もう一方では「たるみ」始めた身体をどの様に美しく見せられ続ける
かの為のここでも、「PROTECT/PROTECTION」が「縛る」(フェティズム)までの表現も続く
であろう今後の眼差し。』

2)さて、この『時代の身体つき』の変化に気をつけよう。
 先ず、服を買う以前から、それ以上にもう、既に自分たちの身体つきに投資をし始めてきた
ご婦人たち。自分たちの身体つきの変化に対してあらゆる可能性で既に、それ相当のお金を使い
始めてしまっている彼女たち。頭髪は染める植える付け足す,もう自由自在。顔は基礎化粧品を
塗りたくってプチ整形から小じわ取り身体の付き過ぎた脂肪をエステ、フィットネッスへ通い
つめ、ダイエットをして矯正補整まで。そして、足、腕うんぬん。勿論、ピアス&ボルトそれに
タトゥウとシャドウまでの直接的装飾までも施す現代という時代。
 ここまで自分の身体を触りいじくった時代があっただだろうか?
当然だろうがここまでの、身体をどのように見せるかまでの『時代の身体つき』がときめきを
持って生きることの大切な為すべき事という時代性。
 そこで現れてくるのが『ボディーコンシャス』。これは日本の「ボディ・コン」とは総ての
クオリティが違うはず。ただ、単純に体の線を見せることよりもその線がどれだけ金が掛かって
いるかまでの贅沢さをより、リアルにエモーショナルに見せるまでの「ボディーコンシャス」。
これからの”コスメティックス”の世界にも目が離せられないという時代でもあろう。
 そのため選ばれた身体に纏いつくまでの感触ある素材と色とプリント。
だから「オプチカルプリント」も新しい。そして、それらが感じられるまでのスタイリング。
身体をプロテクトしたスポーツユニフォームのデザイン化によるアウター化とカジュアル化で
今世紀が幕を開け、心と気分をプロテクトした下着のアウター化が続きそして最後が、
性をプロテクトするまでのフェティシュな「ボンテージ」モノとその週辺としてのウエアラブル
なボディーコンシャス。
 男が男らしさをモードの中に再び引入れたことによって、女は女らしさを自分たちが磨き上げ
投資して来た身体で勝負の時代がここに。
 その時の性はいつも変わらぬ性差のシンボル。
これも、時代が「保守の進展」をもたらした新しさの一つ。
 ダンス、現代舞踏それにバレーが面白くなってきたことも忘れてはいけない。  
文責;平川武治:
初稿/2006-10-16 記:再校/2021−03−11:

投稿者 : take.Hirakawa | 2006年10月16日 03:14 | comment and transrate this entry (0)

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