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2010年05月10日

在る友人への手紙。『物心一如』、『日本印の日本』の為に。

こんにちは  
異変の天候が続きました。
これも、何かの証しでしょう。
その予兆をどのように受け止められるかが生かされている人間としての智慧と理性と感情。
それらをどのように自分らしい行動へ結びつけられるかが責任と勇気と気概。
 より、肥大化して行く『大衆消費社会』構造そのものを今後、変革して行かなければ僕たちの仏教の言葉『物心一如』のバランスが崩壊してしまうでしょう。
あの、『遠州好み』と言われている日本美学の中にも『共棲』思想と『融合』思想が在りました。
 本当に、もう、『アメリカ印の日本』から『日本印の日本』の国体へ。
その根拠性は「個人のエゴ」から日本人が本来、持って生きていた「自然や他者との共棲」思想を再認識し、もっと生かして行こうと。そうすれば、人間味在る想いと行動が謙虚な真こゝろを持ち得るでしょう。

 もう、僕たちが持ち得ている自我を1%、セーブしませんか?

ここからスタートしてください。
このままで行けば、『日本』という国は国体無き国、愛国心薄き国家となって移民が増え、思想無き国体と民の国になってしまいます。
そして、『金権社会』構造のみが肥大化するだけでしょう、もう、既にそうなりつつありますが。
 既に、PCとケイタイ以後の現在では、『大衆消費社会』構造における儲ける方法、目立つ方法は無数に在りますしまた、なんでもありの時代性になってしまっています。そのレベルでのあれこれはもう、新しさや必然性や人間性を生む迄の新らしさへは至らないでしょう。
 かつての日本人豪商、紀伊国屋文左衛門が『不義して富まず。』と言っていましたね。こんな言葉も消えてしまった戦後の「アメリカ印の日本」。
 もっと、今の時代の「本質」として何を考えて行かなければ行けないかを、
『国体』を想うかを、若い世代の人たちへ投げかけて行く事しか僕は今、興味が在りません。
 僕のロジックの原点は物事の『本質』を出来るだけ学ぶ事。
物事にも深層と表層が在ります。
例えば、美しい形と塊に見えている氷山にもその水面下にはそれなりの塊が在っての事。そして、それぞれのバランスが美しさを形創ると言うこと。
見えている表層のみを理屈や他者の事例を持ち出してとやかく言っても、それはそれだけの世界。
本質を学ぶ為の、
本質を知る為の、
本質を行為する為の、
『謙虚心』と『好奇心』
そして、『勇気』と『責任感』を意識しての『気概』が持てる生き方を選んで欲しいと想うのです。
 人生の、生き方の『本質』を知って、持ってしまえば案外と物事は自分らしく、
ポジティフに堂々と生きて行けるのです!!
 造られ与えられた世界で生きて行く為の『マニュアル』人生はもう止めよう。
即ち『本質』と『表層』の関係性を自分らしい価値観と世界観で自分のバランス観を持つ、その自分のバランス観で物事に関わって行く事がこれからは大切な「個人の責任」になる時代性でもあるという事です。例えば、何の為にブログを書く?にも関わって来る時代性が。
 自分らしい価値観と自分の世界観を持ち得るには先ず、自分の内側を覗き込んで自分の内なる心象風景としての幼年期を見直してください。
 自分が何に夢中になって遊んでいたのか?どのような環境で育ったのか?などですね。2番目は、自分の美意識を持ってください。
自分の身近な環境から、自分なりの「文化の領域」を意識して探す事から始まるでしょう。3番目は、自分なりの問題意識を持ってください。
自分の生きている現代とその社会で起き上がっている諸問題に対して関心を持ち、好奇心を豊かに巡らしてください。例えば、将来への不安や絶望がもし、在るならそれを自分の美意識で表現してください。
 右手に“美意識”、左手に“問題意識”そして、こゝろに自分の”世界観”をもって創作エネルギィを産み出してください。
 そこに『三方良し』の想いが行為の本質になればその結果は堂々と自分の世界で生きて行くことが出来るでしょう。
『三方良し』とは江戸時代から多くの豪商たちを輩出した近江商人と呼ばれた人たち彼らの、”商人哲学”です。三方とは、”自分良し”、”相手良し”そして、”社会良し”の三者良しという事です。自分だけが良かっても、自分たちが良かっても駄目だという発想ですね。最後は、社会の為になろうよね、というこゝろの置き所です。
 そんなとき、『共棲資本主義』は一つの想い、日本人として持っていたはずの真こゝろであり、可能性だと信じれば例えば、ここ数年前から僕の眼差しとして提言している、ファッションデザイナーにしても『May I help you?』の真こゝろが必要になるはずです。
  日本のモノ、西洋のモノ、東洋のモノそして、新しいモノ、古いモノ、
自然と環境、民衆のものと作家のものそして、自分と他者など等。物質的な豊かな生活を持ち得た『豊かなる難民』たちが意識しなければならない新たな責任としての『バランス感覚』でしょう。
今の時代現象、エコ運動やリ-メイク製作などにもこの新たなバランス観は必要、不可欠でしょう。
繰り返しますが、だから、自分のエゴを1%をセーブしてください。

 『物心一如』
新たな時代への、新たな責任としての日本人のバランス観。

少しでもいいですから、
僕たちのこれからの日本、理想の『日本印の日本』を考え、想い、学んで行こうとしている
若者たちに元気付けられれば僕の役割です。

"Keep on touch,Please. And, May I help you?"
ありがとう。
ひらかわ:

投稿者 editor : 22:21 | コメント (0)

ひらかわの”東コレ’10/'11A/W 批評-1”『例えば、Anrealageはおもろい、』を例に、;

 "Anrealageはおもろい、ちょっと、他のデザイナーと違って
頭を使った展開をしていたデザイナーというレベル。"

 彼の何かやりたい、脅かせたいの好奇心強気のデザインが
今の東京では稀なので貴重だった事。
だから、「おもろかった!!」のレベル。

 しかし、もうそろそろ、それだけのデザインから”内側”を考えた、
即ち、本質を見極めるためのデザインへレベルアップして欲しい。
きつい事を言えば、やはり、表層のデザイン。

 ジャコメッティ迄の延長線が引けないのは無論であるが、
彼がそのジャコメッティのあの”歩く男”が史上最高値でオークションで落札された事が
頭にあったのか? そこに発端が在ったのか? 
なかったであろう。(間違っていれば、失礼。)
 思い起すと彼の数シーズンのものつくりのアイディアはかなり、表層的は形態論的でしかない。
彼にとってのファッションとは、或は服を作るとは、なんなのだろうか?が究極の疑問と浅さと古さ。
所詮は、変わり種の"WRAPPING"コンセプトでしかない。
"PROTECTION"でもなく"CARE/CURE"にも届かない古さでがんばったもの。

 しかし、今の様な大半の東京コレクションのデザイナーたちが、
"Big Mouth!"と"Presuming fellow!!”そして、”自己マン”レベルなので
彼のあの好奇心溢れる創作エネルギィーは面白いし好感が持てた。

 もし、君が彼の作った服に興味を持ったのなら、感動した(?)のなら、
会場で、彼の展示物としての服を1点でも着てみましたか?
 服は着て見せるもの、見てもらうものそして、着て生活行為をしてもらうものですよね!!


**
 そう、20世紀の始りに”FAMME OBJECTS" から始まり、
’80年代に来てやっと、“HOMME OBJECTS"が加わり,
それらのための“WRAPPING"がモードの本質であり根拠性。
これは現在も継続しているモードの本質です。
 しかし、身体の変わらぬ不変な形態構造によって
その"WRAPPING"における”新しさ”の造形的創造に限界の翳りが見え出した。
’97年以降はその"WRAPPING"というグランドコンセプトから
当時の”第3次世界戦争”的なる中東紛争による時代観や社会状況
そして、生活環境の変化によっての虚無感、絶望感、不安感から
モードの世界も只の"WRAPPING"だけでは物足らなくなりはじめ、
"PROTECT/PROTECTION"というコンセプトが強く求められる。
 時にはハードに、時にはソフトに、身体をこゝろをそして性を
プロテクトする迄のコンセプトがモードの新たな役割となり
現在迄、引き継がれているのが現実。
これは、業界が発表する各シーズンのトレンドの中にもこれらが顕著に読める。
 
 同じ時期に、服以外でも世界の多くの若者たちは身体の変わらぬ形態構造を
自らが”身体改造”と”身体装飾”へと、エステ、筋トレ、整形、プチ整形
それに、Tattoo,Bolt,ピアスからヘヤーやネイル迄に積極的なる改造と装飾の行動を始める。

 そして、もう一方では変わらぬ"WRAPPING"をコンセプトにするデザイナーたちは
せめてもの表層として、"Wrapping Paper"よろしく素材へ趣きを置き換える。
そして、ハイヒールを履かせて(これも一種の身体改造である。)
着丈、全体のバランス観の組み替えを行っているのだ。

 豊かさの中で生まれ、育って来た連中たちの若者たちの中でも
感受性豊かな自然体で生活している人たちはもうすでに
この"PROTECT/PROTECTION"に閉塞感を感じ、結局は自分自身を狭義な世界観に
拘束しておく事だけだという事に気付きはじめる。

 自分一人では生きて行けない。
“分かち合い”が必要。助け合って行く事が大切。想い合って生きて行く事が必要。
そのために自分が出来る事で,自分以外の他者へ、
"MAY I HELP YOU?"
地球を、自然を、水をそして、時間とモノを慈しみはじめる。

 ここに気が付き始めた若い人たちのモードは
"CARE/CURE"が新たなコンセプトになる。
身体とこゝろと性をどのように着る服で"CARE/CURE"出来るか迄の
想いと心ある自分の手による服作りが新しいと。

 しばらくは、このような服作りへの考えと想いが
新らたな情熱として、魅力としてそして、感情として
今後の、若い人たちの創作意欲をかき立てるであろう事を望んでいる。

また、この"CARE/CURE"というコンセプトは人間味ある好奇心として
新たな関係性を生み出すまでのアヴァンギャルドであろう。

 もしかしたら、ここがアートとの接点となるエッジ!であろう。
文責/平川武治:

投稿者 editor : 07:31 | コメント (0)

2010年05月06日

今日読んだ本から、これも、『共棲資本主義』的なる大事な視点。

 今読んでいる本の中から。(少し、長いですが、)

” スエーデン語に「オムソーリ』という言葉が在る。
本来的意味は、「悲しみの分ち合い」である。
人間は悲しみや優しさを『分ち合い』ながら生きて行く動物である。
つまりは、人間は『分ち合う動物』である。
『分ち合い』によって、他者の生も可能となり、自己の生も可能となるのである。
しかも、『分ち合い』は他者の生を可能にする事が、自己の生の喜びでもあることを教えている。
人間の生き甲斐は他者にとって自己の存在が必要不可欠だと実感できた時である。
『悲しみの分ち合い』は他者にとって自己が必要だという生き甲斐を付与することになる。

共同体のように、社会を組織化するという思想。
つまり、共同体の中では共同体の構成員に任務が配分されるように、
社会の構成員にも任務が配分されなければならない。
 共同体に在っては、すべての共同体の構成員が共同体に参加して任務を果たしたいと願っている。
高齢者であろうと、障害者であろうと、誰でもがかけがえのない能力を持っている。
しかも、そうした能力を共同体のために発揮したいという欲求も持っている。
そうした欲求が充足された時に、人間は自分自身の存在価値を認識し、幸福を実感できるからである。
これが『分ち合い』の思想である。

もう一つ、スエーデン語のラーゴムという言葉がある。
意味は『ほどほど』と言うか、超過も不足も悪徳とする倫理を表す。
が、この言葉、「ほどよいバランス」という意味で『分ち合い』と根底で結びついている。
極端に豊かになることも、極端に貧しくなることも嫌うラーゴムは、
社会の構成員が人間らしい生活を営むように、『分ち合う』ということを意味するからである。”
『「分ち合い」の経済学』/岩波新書/神野直彦著:から抜粋と編集。

 日本の本来の生活の中には此の様な共同体で生きて行くための『分ち合い』のこゝろがありました。
真こゝろ、謙虚さ、思いやり、弁え、腹八分目、そして、不義にして富まず。など等。

 自我を拡大しきる。
そして、自我を自分の世界観、価値観の元に無にする迄に、
そこに『分ち合い』のこゝろが。

 共同体の中では共同体の構成員に任務が配分されるように、
社会の構成員にも任務が配分されなければならない。
例えば、この任務が自分の好きな服を作ることであれば、
先ず、自分自身が幸せである。
その幸せを誰と『分ち合い』うことが出来るか?

 唯、『分ち合い』の真こゝろと勇気があればいい。
それだけです。

 服が作れないのに作れる振りをしている人たちは何を他者と分ち合えば良いのでしょうね?
文責/平川武治:

投稿者 editor : 01:49 | コメント (0)