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COMME des GARCONS とD. ARBUSそして、L. MODELの’40年代,+C.マカーデル: 2011春夏パリコレクションから;パートー3:

 憶い出すと、’90年代の初めに
’30年代のM.ヴィオネ、’40年代のC.マカーデルそして、’80年代のCDG.
彼女たちの3人展がN.Y.でありましたね。
彼女たちの生き方と仕事への情熱とでも言うのでしょうか?
与えられた生への自心の激しさと強さその為の自我の質の高さ。

ヴィオネとシャネルとの違いもこの自我の質の高さの違いでしょう。
現在では川久保玲とJ.サンダーにも言えますね。
シャネルにしても、Jサンダーにしても”育ちのボキャブリィー”に
或る種の卑しさを感じます。
一方で、ヴィオネにも、マッカ-デルにも
それぞれ彼女たちが生み出したオリジナルな祖型を
布地を服の祖型とした時のバイヤスの発見が
読み取ることが出来ますが、
川久保玲にはそれが見当たり難いです。
その分、自由奔放と言えるのでしょう、
”表層のボキャブラリィー”になった時に訴える
異端さと異形さは2人以上の強さと激しさがあります。
でも、女性が着れる服としてのモノを創り出す基盤、
その祖型そのもののが見つけ難い。
とても、或る意味で日本的な発想による創造のプロセスだと感じてしまいます。

現代に於ける”ケイタイ”を例にとって考えると、
日本のケイタイの機能は沢山あり便宜性で長けて、
使い易くも複雑である。
でも、肝心の、ケイタイの心臓部の発明特許は
今ではサムソン社が殆ど押さえているというケースに似ていると想う。
川久保玲の凄さとは”表層のボキャブラリィー”において
自心のエネルギィーとその純粋さと創造性の上質さ。
そして、それらを継続出来るビジネス構造と
勿論、本人の自分へのがんばりと
社員還元には何をすれば良いかを知った努力が
このデザイナーを支えて居るのでしょう。
結果、それそのものが
この巴里のクチュールをモードのスタンダードとしたステージ上では
変わらぬ”異端と異系”であったことによる価値とその存在が認められた、
残念であるが今後、独りも出て来ない日本人デザイナーであろう。

この様な時代と状況になると、
川久保玲は巴里へ進出し、
結果、名声と地位と財産を作り上げたが、
その巴里から彼女は何を学んだのだろうか?
を質問してみたい。
それが、唯一、
今後のモードを学ぶ若い人たちへの
核心性と必要性。

文責/平川武治:Ile de Farnceにて。

投稿者 : editor | 2010年10月16日 07:14 | comment and transrate this entry (0)

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