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UNDER COVER PARIS COLLECTION, IT WAS A GREAT SURPRISE!!
コレクション前には小雪が散らつく朝を迎える事が多かった先週も
やっと平常の巴里の寒さになった。
UNDER COVERが巴里へ帰って来た。
この街でやるために、この街の観衆へ観てもらうために帰って来たUNDER COVEは
“GREAT SURPRISE!!"なコレクションを見せてくれた。
この会場もGOOD SELECTIONの会場であった。
以前、CdGがその切っ掛けを作り以後も数少ないコレクションしか行われてこなかった
閉鎖的なソルボンヌのボールルームが今回のU.C.の会場。
200人も入ればという躾と知性で構築された会場、
今回のU.C.のコレクション世界の雰囲気を作るにもこのボールルームの雰囲気は
最適であり賢明な選定であった。
最近のメゾンはいろいろな場所でコレクションをやるのが当たり前になっているが、
案外、コレクションのコンセプトやアトモスフェールを空間化するために
選んでいる事は少ない。
あの、CdGでさえ、最近の会場の選定とコレクションとは
以前ほどの強い関係性を感じさす迄のものではなくなって来て、
それなりの理由があるとは思えない会場選びである。
多分、現在の多くのメゾンの会場選びとは、
ただ演出的に使い易い又は、多数が入るという理由からの会場選定であろう。
以前よりはコレクションに賭けるイメージング経費も節約が
当たり前の時代性なのであろう。
’80年代後期からのCdGやM.M.M.のコレクション会場の選定とそれに賭けた神経の凄さ、
実際の会場へ委ねる時の興奮がパリコレの凄さの一つでもあったはずだし、
その後に続いたアントワープ系たちがこの手法をも真似る事で
当時、一世風靡した事もあった。
今夜のU.C.のコレクションにはこの様な嘗ての時代の巧さと暖かみが在った。
このデザイナーと演出家の良いチームワークの元で丁寧に神経を使って
コレクションが必要とする雰囲気を巧く環境によって演出したと云えるだろう。
当然、このメゾンのもう一つの凄さである音楽の素晴らしい事も申し分ない役割を
担っていた。という事で、この久し振りの巴里でのU.C.コレクションは
日本人が特徴とする、細かい神経使いとチームワークの良さと音楽センスの良さを
十二分に使っての結果の“GREAT SURPRISE!!"だった。
巴里のデザイナー、JEAN COLLONAのコレクション後の感想が“VERY SURPRISE!!"
友人のVESTOJという良いモード誌の編集長のANJAも“心地よいコレクション”と。
音楽も好きだと言っていた。/ www.vestoj.com
僕が付けたタイトルは”CHILDHOOD"&”SEXY"。
僕の好きな世界だから余計に、好きなコレクションだった。
この“世界観”へ挑戦したジョニオ君に乾杯である。
”CHILDHOOD"&”SEXY"、この儚い微妙なる差異を彼は今回のコレクションテーマにした。
決して、これ迄彼が関わらなかった世界観を創造し、自分自身をも昇華させた。
シルエットで見せるバーニィー。そして、それがレインウエアーなのであろうか?
子供が雨の中をこれを着ると飛び跳ねたくなるような眼が、見る眼と観られる眼が
いっぱい附いた早熟なレインウエアーから始まったこの世界。
それらと交差する”フェッティッシュなボンテージの世界”、被り物とマスクも良い。
ここにもチームワークの良さが見事な世界を生み出した。
後半の猫に変わり、ゴールディーなマスクとネックレスで最高潮の世界まで。
今シーズンのコレクションは先シーズンの自らのコレクションを反芻いし、
良くお勉強し刷り込んで出来上がったものである。
ここにも彼の素晴らしさ、忍耐力が生まれた。
先シーズンがなければ、今シーズンのこの世界が生まれなかった。
案外、ファッションデザイナーぶる連中のコレクションほど、
自分の先シーズンのコレクションを自分から進んでお勉強するデザイナーは少ない。
むしろ、殆どがしない。
その理由は、そのレベルのデザイナーたちは俗な“トレンド”が総てであり、
その為にコレクションを作っているのがデザイナーだと思い込んでいるからだ。
剥ぎ取られたトレンチやボンパーの後ろ見頃がニット、シャツの胸元は心臓が
プリントされ後ろがシースルー、アンビギューティなバランスと
それらに使われた素材、ラバー、レザー、レース、ニット等の本物観を
子どもごころで遊び、ブリ-コラージュして行く。
日本のプリント技術の進化した愉しみも使いこなし、
時にはパンキッシュにさえ、
圧巻は、剥ぎ取られたシャツカラーを、引き裂かれたコルセットを、
有機系形態の詰め物たち、それらもCHILDHOODな遊びこゝろで切り刻み剥ぎ取り
自らのアーカイブを幾重にもブリコラージュし、
着る女たちをより、自由な身体へフェッティシュにボンテージする。
現代の若者たちが持ち得た自由が選択した不自由さがこの根幹には存在する。
“縛る”“縛られる”事への願望と不自由という安心に恋いこがれる同一性。
何も知らない時の自由と知りすぎてからの自由の差異とは?
きっと、今のジョニオ君の新たな出発がここに所在するのであろう。
彼の”こゝろの有り様”がここ迄熟し始めた。
文責/平川武治:巴里ソルボンヌでのUNDER COVERのコレクションを観て、’13/02/27:
投稿者 : editor | 2013年2月28日 07:25 | comment and transrate this entry (0)