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あの日から丸2年そして、CdG'13/'14A/Wコレクションについて。
今日はあの日から丸2年が経った。
あの日から始まったそれぞれの”こゝろの有り様の変化”は
どのような進展をもたらしたのであろうか?
政権の変化から始まってその実情はさほどの変化が生まれないままに
今日と云う日を迎えてしまった政治の実態。
変わらずの、自分たちの戦後のコンプレックスをそのまま未だ、僕たちの國日本を
”アメリカのポチ”化へより、それぞれの笑顔でいざない顕現化しているだけの政治家たち。
もう残念だが、僕たちの國は“アジアの二流國家”化でしかない。
世界の一流国家でもなく、今後もただ、アメリカのポチ化させられてしまう”日出ずる國”。
ファッションの世界もこの巴里ではもはや、どうしてであろうか、
二流国に成り下がってしまった。
あの日以来再び、僕たちの國の事を、”未来”を考えるいい動機となったはずが、
“未来”とは、僕たちのためでは無い。
“未来”を考え行動すると云う事はとは、
僕たちの子供たちや、赤子たちの事を、その母たちの事を思う事である。
そして、彼らたちが本来の豊かさを持って堂々と生きて行ける國の事を思う事である。
どうか、今日と云う日を”風化”させないで下さい。
あの恐怖と惨めさを、自心のこゝろの有り様として忘れないで下さい。
*
今シーズンのCdGのコレクションは
ある意味で、このデザイナーの世界のアーカイブからの"zapping"。
基本ソースは、今シーズンのトレンド-キーワードの一つである” MASCULINE FEMININE"を
”FEMININE MASCULINE "の世界へ。
そこでこのデザイナーが自分世界のコンテキストとしたのが、”TAILORING"。
そのコンセプトが”INFINITY OF TAILORING/テイラリングの無限性" というもの。
もう、然程先シーズンやその前のシーズンに比べると感動もなく、驚きも減り、
考える事の方が多いものであった。
ジェンダーアイデンティティにはその振幅がある事が歴然としてしまったリアリティへの
挑戦だけだったのだろうか?果たしてそれが実戦となったのだろうか?
若者たちの世界では既に、このリアリティへ自らを委ねてしまって
ポジティフに大いに、楽しみ心地よさを享受していると云うのに、
結果的には“TAILORING"と云う完成された服の世界への新たなる可能性若しくは暴挙。
可能性となるのはファッション学生たちの課題への新たなサンプリングそして、
暴挙となるのはこの”TAILORING"スーツの完成の裏に染込んだ“マナー/モラル”
そして、それぞれの時代が産み落とした立ち居振る舞い”の世界へだけか?
これを寧ろ、このデザイナーはテーマ性と念い込んだのであろうか?
当然、使われた素材はメンズ素材しかもこのデザイナーの特徴の一つでもある合繊の世界。
ショーで見るところでは、
後半に登場したインクジェットで施された”サイケ”の再来と感じたプリントものは
綿ベルベット。後は、シルクウールのカルゼが1アイテム。
これだけの装飾をこれでもか、これでもかと素材で施した前半の白、黒、中間色の世界では
その使われた素材の分量も半端ではないだろう。従って合繊使用は納得か?
若しくは、このブランドの特徴である”粗利の稼げる”デザインの一端か?
読み込もうとする、装飾過剰の世界の前半はその殆どが今迄のアーカイブからの形状装飾。
切り込まれたテーラリングへカードの様に重ねる素材生地片群若しくは、
縛る、巻く、捻る、摘む、丸めるそして、切り裂く行為の形状が華であり、蕾であり、
皺である、嘗て見た事のある形状の集積と云う装飾性。
これらによって装飾され誇張された”肩”と”袖”はテイラリングが持っている
端的な美しさそもそものを消去させる。
変わって現れるのが“女性の強さ。
”女性はただ強いだけでなく“威風堂々”としかも”上品”に生きている。
これは自分人生への肯定からのコンテキストなのだろうか?
ランウエーを交差するマヌカンが触れ合う袖を譲り合って歩く姿は新しかった。
もう一つの新しさは、“AIR BAG"よろしくドーナツ状に詰め込まれ連鎖されて施されていた
無意味なる装飾を拒否するための装飾。
総てがトレンドの範疇に成ってしまった”分量とシルエット”の再バランス化への挑戦。
前半が素材による”装飾”によっての表現と後半はその色彩によっての”装飾”に委ねる
潔さはこのデザイナーの巧さでありここで新たなもう一つの”女の世界”をも表現した。
顕微鏡の中の世界か?花園における昆虫の眼差しか?
このインクジェットによるプリントは今シーズンの新しさであり、
”Psychedelic/サイケ”を知らない世代への”サイケ”の逆襲か?
“装飾を拒否した装飾性”と”装飾を膨張させた装飾性”
素材で同化させた装飾性と色彩によって増殖された装飾性。
このアンビギュウトなるコンセプト。
この対比によって、初めて今シーズンのCdGコレクションの女性への強さと優しさ、
或いは、脆さと新鮮さの在り方がメッセージとして感じ読めるのだが、、、、、、
これとは、変わらぬ自分自身の”立ち居場所”のためのアイデンティティ、
即、ブランドビジネスへの念い。
或いは、変わらぬ、”特意性”若しくは、”プロパガンダ”???
もう一方で、これをやってしまえるこのデザイナーの”強さとがんばり”と云う自我と
企業構造の凄さ!!
故に、『コムデは凄い!』と云う所以になるのであろう。
**
このデザイナーはどんな現実に生きているのだろうか?
という疑問がショー後に、改めて考え始めた。
このデザイナー程に有名になり、“凄い!デザイナー”という役柄の人間は
“雲の上”に住んでいるのか?或いは、僕たちと同じ地上に住んでいるのか?
どの様な眼差しを持って社会とリンクしているのだろうか?
このデザイナーはどのような”日常”を生活しているのだろうか?
どの様な日常性を感じて”生活”しているのだろうか?
或いは、ここでも何らかに”拒否”した日常性?
このデザイナーの”日常生活”とは、どの様なものなのであろうか?
例えば、モノを作る人間も一人の市民で在り国民意識も
市民感覚もそして、仕事柄の時代感覚も持ち合わせているはずだ。
その上に立っての“モノ造り”であり、それが可能な限り人間であるところに
その作り手としての人間の”世界観”が見えるであろうと思っている。
だが、今回のコレクションを観ていてこれが見えなくなった。
そんな事は余り関係ないと云う迄のコレクションだったからだ。
”世間知らず”なのであろうか、若しくは、実際に“世間で生きていない”のか、
又は、もう”世間と共に”生きていかなくてもいい境遇と環境と年代になったからなのか?
街を、地元を歩いているのだろうか?
以前、良くその姿に出会ったように犬を散歩させながら地元を歩いているのだろうか?
紀伊国屋へお買い物に行っているのだろうか?
この様なある意味で虚飾な職業人は自分たちの性格観やそこから生まれる日常観が
決して表層化かしない方が未だ、カッコいいとされた世界なのであろうか?
僕のもう一つの立ち居場所としての巴里で出会うデザイナーたちには
そのカッコ良さは無い。寧ろ、当たり前の人間としての彼らたちの日常生活や
時としてのバニティさがそして、生業観が感じられる。
だから又、彼らたちが創造する世界観に感動したり、
共感を覚えたり人間的なかわいらしさをも観てしまう。
日本人デザイナーの代表とされて来た”御三家”の周辺や、JUNYAとか最近のSACAIにも
この所謂、“匂い”が全く感じられない。
又、夜毎、バニティな世界にいざなっているとも感じられない。
寧ろ、未だに、作られた情報環境と密閉された構造の中で創造が為されている。
僕は、今の時代にはもうこのような作り手の生活感や彼らたちが持ち得た思想が
その作り手の”自分文化”に成る迄のリアリティが匂って来て当たり前だと信じている。
UNDER COVERにはこれを感じるから何処かで信じられるものを共感出来る強さがある。
ここにも僕が主張している時代観、
“The image,no more making a reality. The reality are making imaginations."の
根幹が存在する。
このコンテキストは決して、作られたモノだけからではなく、
その作り手であるデザイナーたちのリアルな生き方が
それらを創造する“The sauce of the creations."の源泉である時代になってしまったからである。
もうそのような現実の豊かさが時代性の現代である。
これは、僕だけの知覚への現象なのだろうか?
若しくは、多くの人たちがもうかなり以前からこのような眼差しを持っていたのだろうか?
又は、このようなことを感じないところでファッションを、デザイナーの在り方を
そうであるべきだと信じて観ているのだろうか?或いは、見せられているのだろうか?
そんなにデザイナーとは凄い、立派な人間であるのだろうか?
否、僕が見、接して来た多くのデザイナーとはそんなに立派で凄くない人がほとんどである。
多くは“お金”が好きな人種である。
好きなお金をカッコ良く儲けたい、そこで好きな世界でがんばって、カッコ付けたい。
だから、作られたものにそれなりの凄さは感じられるが、“人間に対する愛”を
感じられるものが少ない。究極はここが彼らたちの根幹である。
従って、巴里を軸にして多くのデザイナーたちと出会って来た僕の人生に於いて
”尊敬出来る”デザイナーたちが本当に数少ないのも
僕にとってはとても残念であるが現実なのだ。
僕の30年来の経験によると、
自ら”創造”したと思うものを、自らが創造したと”売る”職業。
これが”ファッションデザイナー”ビジネスの根幹である。
考えようによると実に奇妙な職業であろう。
人が作ったモノを売る。これは商売/商人という職業。
しかし、自ら”創造”したと思うものを、自らが創造したと”売る”職業とは
実に、まやかし商売だとも考えられる。
ここにユダヤ人ビジネスとしてのファッションビジネスの根幹が存在する。
自らが創造したと思うものと、人が作ったモノを混ぜ合わせて売るパーケージングビジネス。
今では、これが現実のファッションビジネスという世界であろう。
時代がもたらした”豊さ”によって、
“The Fashion is always in the fake."の世界から、
“The Fashion is always in the real."の世界へ。
***
女の強さとは男に勝つ事も大事な要素なのか?
女と男の性差を認識し、その肉体的特徴の差異も熟知した上でそれぞれが出来得る特徴を
お互いが出来る行為として助け合い、交換しあう、共有しあうそして共棲し、調和し
生きて行く。多分、女の、男の”強さ”とはここに帰する事であろう。
この最小の関係性が恋人であり続き、家族でありそして会社社会であり、
コミュニティであり社会であろう。
という事はそれぞれの”強さ”とは男と女の関係が存在しての、それぞれを思い遣る、
認めあう事から初めて生まれる”男有り気”、”女有り気”から生まれるのもであろう。
当然であるが、僕自身も自分独りががんばって来たからここ迄来れたでもあるまい。
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しかし、日本の現実社会には歴然として”男女格差社会”が構造化されている。
<参考>
『それは、男女格差の数字だ。ダボス会議という名で知られる世界経済フォーラムが
発表した2012年のGlobal Gender Gap Indexつまり世界の男女格差のランキングでは、
日本は、世界135カ国の中で、101位と惨憺たる有様だ。
そもそも日本は、3年前の2010年でも94位と、多くの先進国や発展途上国の後塵を
拝していたのだが、状況はさらに悪化して、2011年の98位、
そして'12年の101位とこの三年間、降下を続けている。
このランキングは、経済、教育、健康、そして政治の4つの部門の総合評価なのだが、
対象としているのは、女性進出のレベルではなく、男女間の格差である。
過去4年間、総合評価で一位に輝いているのはアイスランドで、2位から5位まで、
フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、アイルランドと北欧の国々が占めている。
米国は22位、中国は69位、同じく世界経済フォーラムによる国際競争力評価で一位の
スイスは10位。アジアでの最高位はフィリピンの9位だ。
ちなみに女性格差の少ない北欧諸国は、国際競争力でも上位を占めている。』
松信章子のブログから、
http://careercafe-perspective.blogspot.fr/
合掌。
文責/平川武治:巴里市アルレット街にて。
投稿者 : editor | 2013年3月 6日 05:21 | comment and transrate this entry (0)