2013年7月15日
『倫理』のことをとやかく言うのは時代遅れだろうか? ”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−4”ー
”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−4”
『自然が環境であった人間に於ける環境と、技術が環境となった場合の人間の環境とは
相違しているのではないか?なぜかと言うと、環境は関係を変容するからです。』
『これは結局、従来の倫理学は対面倫理学―顔と顔とを面し合っている倫理学―
であったがその対面倫理の限界が明らかになって、倫理は遠隔操作の及ぶ非知覚的距離に
於ける行為と関わりを持つようになって来たと言う事です。
技術、生産はそれを媒介として不特定と多数の人々との見えざる関係を結ばしめる。』
『エコエティカ―生圏倫理学入門』より、今道友信著/講談社学術文庫刊より;
*
巴里で思った事を少々。
今の巴里は既に、バカンスシーズン。
それは、この街の住民たちが入れ替わるシーズン、近郊のEU諸国の家族連れが目立つ。
それに未だに増える中国人が目立つ。
この街を訪れる外国人観光客が増えるシーズンになると働きがいが出て来る商売に
メトロのスリがある。メトロでのジプシーの子供たちによるかっぱらいやスリ行為である。
彼らたちは4〜6人ほどが集団になってメトロの列車から列車へ、改札出口付近で仕事を行っている。
必ず、子供たちであるという条件がある。捕まっても少年法ですぐに釈放。
それに、彼らたちは巴里市郊外にイミグレーとしているパスポートを持てない連中である。
巴里で仕事を行って、郊外の所轄署でお叱りをうけるという構造が出来上がっていている。
だから当事者たちも然程、犯罪意識が無い。ジプシーの子供たちの通過儀礼的行為である。
結局、観光客が狙われて、観光客がとら取られ損という繰り返しである。最近では形式上、
日本語のアナウンスもメトロの各駅に入るようになった。
今回発見した面白さはそんな彼らたちのファッションである。
もう、そんな彼らたちでさえ”ファッション”しているのである。
嘗ての彼らたちは未だ”フォークロアファッション”であった。
見ると、彼らたちはジプシーだ!という事が雰囲気も含めてすぐ解った集団であった。
ところが、今回は彼らたちに会うと、もうすでに”ファッション”を着ているのだ。
だから、彼らたちはどこから見ても周りから浮いて見える事が無くなった。
彼らたちも“集団の夢”のフレームの中で生活が出来る迄の時代性になったのだ。
このリアリティは僕なんかはもう、金鍍金なキャットウオークを見るよりも痛快。
そのファッションの現実の面白さとして、改めてファッションの機能と役割を愉しく、
面白く、この街の新たなリアリティとして現実に見せてもらった。
これは”豊さ”が日常生活への新たな可能性を生むという現実?そして、ファスト
ファッションの発展化?の現実だろう。きっと、彼らたちはファッションの凄さを、
面白さを、愉しさを実感している事であろう。こんな格好をすればより、仕事が巧くゆく
という事が解ったのだろう。
これに似た事がこの街のリアリティにもう一つある。
ベルビル界隈やサンドニ界隈に“中国人売春婦”が目立つほどに仕事に勤しむ姿を多く、
見かける様になったのも最近である。彼女たちも、その着ているファッションが変化し
始めている。歳に関係なく、いわゆる、“ファッションセンス”がいい娼婦たちは忙しそうに
働いている。ここにも、ファッションの本質と王道が現在の”路上”においても
継続されている。
**
ある、テンプレート、
モードのキャピタル、巴里も20世紀末期の日本人が賑わったこの街が今ではすっかり、
本土から進出して来る中国人たちと入れ替わってしまった。
’85年来からこの街でのモードコレクションを見る為に訪れ、棲み始めた僕にはその後、
この街のモードの人々の多くがユダヤ人たちであり、彼らがどのように自分たちの
ビジネスチャンスを世界レベルへ拡大してゆくかの、その時間と行為の繰り返しに
ある種の”テンプレート”が幾つか読める様になった。
この時期はモードの世界が”新境地”をディスカバーリングし、大いなる富を求め始めた
時代だった。クリエーションとビジネスがバランスよく社会に寄与していた時代でもあった。
結果、余計に現実としてその事実の中で僕もいろいろな体験と彼らユダヤ人たちと関係性を
持ち得ることが出来た。自分たちのビジネス発展への更なる可能性を多くの商才と才気
豊かなユダヤ人が日本人社会に求め、その直接の“OPEN DOOR"の把手に日本人女性たちが
ターゲットになった。折からの時代の風は”キャリアを積み、自立出来る女”の登場であった。
自国のバブル経済と本人の多くは異性問題や仕事関係のノイズから自分を守る為、
キャリアを持つために所謂、新たな人生へのチャレンジを、その為には過去を消去したい、
”リセット”する為にこの街に憧れてやって来て語学学校で3ヶ月から1年ほどの語学を学び
少し、日常会話が出来ると次は、異性友達が出来る。当然だが、彼女たちはこの街の
ファッションに憧れ、学んだ中途半端なフランス語を携えてその周辺をうろうろした。
それが彼女たちにはカッコ良いと思えた時代でもあった。
この様な女性たちはファッションユダヤ人たちの格好のターゲットとなり’90年代以降の
彼らたちのブランドビジネスの発展に、その大いなる日本人の“パワー”?を振る舞った。
そして、20年近くを経た現在、この様な日本女性たちと現地人の離婚が増加している。
滞在許可の問題、子供の成長そして何よりも、経験等によって外国でも生きてゆく為の
面白さと強かさを備えたからだろう。一方、“リセット”を終え帰国した連中も
当時のバブル経済の流れと共に、巴里留学を云う来歴を携えて”外資系”企業へ再就職を
果たし新たな”キャリアある自立”した生活を強かに生きる。
この数年の巴里ではもうすっかりこの様なテンプレートは日本人に変わって、中国人が
その勢いを定位置にして主人公になってしまった。ファッションユダヤ人たちは
’90年代迄で構造化された日本とのビジネス構造とスキルをまったくの手本として、
もう彼らたちの本心は“中国”に有り始めた。
嘗ての、彼らたちの手法を中国人相手に先ずは試みる。
そして、日本人と中国人の国民的性格とキャパシティの違いや『倫理観』の違いと
スタンダードの複雑さで戸惑い始めたユダヤ人たちも既に現在では現れ始め、
21世紀型のファッションビジネスへと、これからが新たな修整時期へと入ってくる。
デザイナーの立場もそうである。ここ数年来迄、日本人デザイナーたちへの好奇心ある
眼差しは嘗て、あれ程に騒いだはずだったのに、今では皆無である。例えば、昨秋から
若手プレタポルテデザイナーたちを十人ほど集めてサンディカがその大半の費用と
広報をし、始めたサロン展示会「APARTMENT」にも日本人は入れてもらえなかった。
勿論、該当する日本人デザイナーがこの巴里には少ない事は事実である。概ね、ユダヤ人と
中国人で構成されていた。僕が思うこのプロジェクトに該当する日本人デザイナーは
この機会を与えてもらって次なるステージへ行く為のUNDER COVERでしか無いと思った。
が、多分このプロジェクトをプレスがU.C.を推薦する迄に至ったのであろうか?という
初歩的疑問しか無い。例えば、彼らたちはあのCdGがファッションユダヤ人たちの
”仲間企業意識”へ広がっただけで十分なのである。後は、今では“SACAI"の様にどれだけ
儲けさせてくれるジャポン-ブランドがあるか?でしかなくなって来た。
ブランドに“文化”が無いものは、売れる時に売リ、儲けられる時に儲けるブランドの一つで
あればいい。弱肉強食の世界だ。
***
気が付けば、最も”嘗ての、農協的集団としての、
そして、今年のあのイエールコンテストでも中国人新人デザイナーの大歓迎会であった。
言っておくが、一部の世界知らずたちが“IT'S"というコンテストをネタに
郎党を組んでいるが、このコンテストの”育ち”はそのスポンサー企業の広告宣伝の為の
客寄せパンダコンテストでしかない。日本人が受賞する時は本体企業の日本ビジネスの
業績が芳しくない時である。
そんなコンテストに出す為にタダ働きさせられてイキがっている、ここにも日本人特有の
優しく優柔不断で覚悟なき、世界知らずな、馬鹿な学校郎党が出来上がってしまっている。
もう、「個人の夢」の為の時代は終わってしまったのである。
「個人の夢」の成就が社会を豊かにした時代は終わってしまった。
無論、彼らたちやその周辺のリタイア組の大学講師をしているB層的輩たちには
以下の事は殆ど、解らないであろう。
今、なぜ、”モダンデザイン”の誕生期を思い起こさなければならないか?
デザイン”という言葉が一般化し始めたのはいつ頃かも知らない輩たち。
今、なぜ、『uniformizm』なのか?なぜ、”コスチューム”や”舞台衣装”が面白いのか?
今、人気のあるブランドとは?"I.Marant"や”ACNE"そして、“A.P.C."や“KITUNE"が、
あの”PLAY"が売れているのか?
今回のジュンヤのメンズコレクションを見ても解るように、“コラボ-デザイン”の限界は
なぜ今頃来たのか?
そして、巴里のモードは“サンチェ出身-ブランド”/マージュやサンドロやクーポルが
なぜ、そのビジネスを延ばしているのか?
なぜ、“R. Herman"などのライフスタイリングタイプのショップが売れて
今迄のセレクトショップやD.V.S.M.GINZAが終わりかけているのか?
なぜ、あのラルフローレンの売り上げが世界規模であれ程迄に成ったか?等など、、、、、、
これらも解らず、リアリティも持ち合わせていなく、この時代観が感じられず、
このリアリティが読み込めないのなら、彼らたちが大好きな、ご近所芸術ゴッコ作品も
排卵出来ないであろう。また折角、登った教壇でも”昔取った杵ずか”しか語れないであろう。
ファッションは、J.コクトーも言っているように未だに、時代の“逃げ足”が速い。
その持ち得た”早熟さ”で既に、『個人の夢』から『集団の夢』の時代を奔り始めている、
芸術や建築よりも、誰よりも早熟に。
ここがファッションの面白さであり、全てである。
僕が未だ、愉しく楽しんで居られるのもここに根拠がある。
これがずれてしまったら、僕はモード評論廃業である。
ファッションの世界の根幹の一つである「イメージ」が「リアリティ」と逆転してしまった
’90年代末期、イメージがリアリティを産み出せなくなり、反対に持ち得たリアリティが
イメージを産み出す迄に至った時から、この「個人の夢」はもう終わり、
変わって『集団の夢』が多くを語り始めたのだ。
アイロニーであの映画『ZABRISKIE POIT』の有名なエンディングシーンの3分間を
ピンクフロイドのサウンドと共に愉しくクールに思い出そう。
****
既に、”2等国”に?
この現実は既に、ファッションの巴里でも僕たちの國日本は“2等国”に成り下がって
しまった風景の一つとしてこの様な中国人の進出が有る。
今、それなりの彼らたちの思いは”願わくば、中国に於けるCdG”のようなブランドを
見つけられるか?育てられるか?自分たちが組めるか?がある。中国デザイン、中国生産
そして、ワールドワイドなビジネスが可能なデザイナー若しくは、資金力とブランド力ある
クオリティ高き企業を捜せ!!が現実なのだ。(現実は蜃気楼の如きであろう、
CdGはCdGで終わりであるからだ。)
これが現在のユダヤ人たちと中国人たちのファッションビジネスを通じての経済的
絡み合いの一つの解り易い現実である。そしてその後ろに、ポリテカルなそれぞれの下心が
見える。『文化は武器』というスキルを持っての”世界規模”という発展である。
その本心は嘗ての『植民地政策時代』を彷彿させ、殆ど変わっていない。
国政が前に出てくるか、民力によるかの相違でしかない。嘗て、日本をある種の
『ファッション自由居留地』とする為に構造化されスキル化したこの手の“テンプレート”は
もはや、中国人専用に入れ替わってしまっているという現実が今の巴里である。
この“テンプレート”のキーワードは“フランス語という外国語によるコミュニケーション
ツール”と”外国人コンプレックス”という古いものでしかなかった。
そして“中国”の次に待ち受けている大きいターゲットは“AFRICAN BLACK"の社会”である。
嘗て、ファッションが持っていたファッションの夢としての「個人の夢」の時代は
もう遠のき、この様な世界迄に、「集団の夢」として広がって来た、
『イミグレーターたちがターゲット』と言うこの国のリアリティ。
*****
そして、もう一度、「個人の夢」と「集団の夢」について、
今、ファッションに関わりたい人が考え思い悩む事とは、「集団の夢」に対しての
個人の関わり方である。どのように自分が学びもち得たスキルと価値観を持って
”実社会にコミット”するか?そして、産業に寄与出来るかである。
いわゆる、”恩返し”思想である。そして、國を想うこゝろが有るか?の責任感である。
その為のこゝろの有り様が必要である。
その場合の”覚悟”が、”勇気”がどれだけ有るかでしかない時代性である。
そんな現代と言う時代性に未だ、「個人の夢」に逃げ込んでむやみにデザイナーぶっている
覚悟無き輩たちの哀れな自慰行為そのものと自己肯定。
そこには自心のリアリティ、経験から生まれ持ち得た『倫理』も感じられない
大半の輩たちである。大いなるズレからの自己肯定による“他人のプライドに縋り付く
自惚れ”集団化、ここでは所謂、“礼節”と思いやりが欠如してしまっている。
家庭教育がなっていなかったのであろうか。それ以上の、自分たちのコンプレックスな
下心の為の気骨なき、”米つきバッタ”ばかりである。
こんな”馬鹿の学校集団”を一緒になって煽る一部メディアや教育関係者の貧しさは
もう、今更ではない。
ここでも『FUKUSHIMA』を忘れてはならないはずだ。
もし、ファッションをこれからも論じるならば、「個人の夢」を弄くり回しても
終わっている。現実離れをしてしまった時代遅れであり、論じる側の良くある、
インテリ-マスターベーションでしかない。
あのオウム事件のインテリと呼ばれた輩たちを、
宗教本を読んで宗教を解ったと思い込んでいた教養ある彼らたちを思い出してしまう。
ファッション論を報道された見え透いた虚実/如何様/イメージを元にして、
リスクを持たぬ自己肯定論説は所詮、そのレベルでしかない。
この実社会の現実、”リアリティ”即ち、「集団の夢」を自らの立ち居場所によって実感し、
スキルと眼差しでコレクションと読み合わせをすると言う持つべき”リスク”を持たなければ
もう、逃げ足が速いファッションは論じられない。
即ち、東京に居て、巴里のモードは論じられないという事である。極論すれば、
東京の生活というリアリティがあれば東京のファッションは論じられるという事である。
そんな時代が今である。与えられた、求めた”情報”を手段として自分のリアリティを
進化させてゆく。若しくは、与えられた”情報”を鵜呑みにしてそこで論じる。
この違いであろう。
3年目になる日本人はあの『FUKUSHIMA』から何を学んだのだろうか?
「集団の夢」が余りにもお粗末であり、如何様ばかりだった事を学んではないのだろうか?
これをこれからの若い世代が立て直してゆかなければならない。
彼らたちはもう、行動をし始めている、彼らたちの本能で既に!
ここに、新たな『倫理観』や『エコエティカ』思想が勇気と力を与えてくれる。
「個人の夢」でファッションを論じても所詮それは既に、通過してしまった絵空事、
子供の書いた絵本。自分たちの生-生活場所である「集団の夢」からファッションを
論じ始めなくては、もうそのような時代なのである。
******
巴里でのもう一つ、
もう『PUNK』は起こり得ないのである。
あのS.メンケス女史も、メトロポリタン美術館で行われている”PUNK展”についての論評は、
”全てがゴッコ”になってしまたのだ。それは『生社会』が不在であるからだろう。
今シーズンのCdG,H.P.のショーにしてもそれが云えた。
ファッション誌的カッコを付けて言ってしまえば、
「ソフュスケーテトされてしまったパンキィッシュコレクション。」
巧いこなし方であり、まとめ方である。が、PUNKでは無い。
やはり、"Just variation of the Punk Collection"でしか無い。
だから、売れるコレクションである。
という事は、時代性を狙った、“PUNK"というフレームにおけるビジネスの為の
”PUNKゴッコ”である。
”それでいいのだ!!”バカボンの親父ではないが、これが売れるという味付けである。
もう、「個人の夢」が消滅し始め、それが「集団の夢」、「大衆の夢」へ広がった時間は
逆行してしまったのだから仕方ないであろう。
あの、V.ウエストウッドのキングスロードの店頭にある大時計は時間を今だに、逆走しる。
それが彼女であるからだ。
ここでは、『ブルジョアのプロレタリア化』と『プロレタリアのブルジョア化』という
公式が読める迄の時間の退化へ。
もう一つ、このブランドのコレクション後に考えてしまったのが、
作り手とリアリティの距離間である。
この川久保玲というデザイナーにおいては、創造とリアリティに距離がある。
その彼女が持ち得た距離間をコンセプトとして創造がなされて来た。
しかし、これはもう古くないだろうか?という疑問だ。
例えば、決して、彼女の実生活ではいまだ、“ブルジョア指向”の実生活である。
慶応幼稚舎、朝日新聞、日本航空、 紀伊国屋、Hôtel Ritz, 18Place Vendôme,などなどいろいろ、
PUNKとは程遠い寧ろ、一流志向のコンサヴァティブな生活様式である。
決して、彼女は自分のリアリティからのファッションは最近でも作っていない。
”観光旅行”というある種の仕組まれたブルジョア-リアリティからでしか今迄も、
作品を創作してこなかった。ここにも「個人の夢」からの創作という視点が読める。
それに引き換え、今の若いデザイナーたちは彼ら自身が持ち得た実生活としての
リアリティから創作を産み出す。それだけ、彼らたちのリアリティは豊富さと豊かさが
既に、あるからであろう。ここには、創造とリアリティに距離が無い。
あるのは彼らたちの選択肢多い、リアリティである。
「集団の夢」が創造の為の発想と成っている世代にこの世界は変革してしまった。
ここでもこのデザイナーの在り方の時代観が読めるし、もう古くなってしまったと
感じる原因であろう。特に、このブランドのメンズはデザイナーが女性であるから余計に
無理がひび割れして来ている。
でも、”それでいいのだ!!CdGH.P.だから!”
*******
今後のモードとファッションの行方は、
嘗て、M.-フーコーが講義し論じた、『生政治』論はこのファッションの世界にも
顕在化し始めた。
これからは益々、“ファッションにおける創造とは只単に、
“VARIATION OF ARCHIVES"でしか無くなり、
その全てが消費社会へ放り出されるとすぐさま、”単に,モノのバリエーション”の世界
に成ってしまう迄の『生-社会』の誕生である。
それが、『BIG-DATE & ARCHIVES』の関係性であり、
『FASHION ARCHIVIST』という新職種の登場であろう。
ここでは、デザイナーという「個人の夢」と一般消費者という「集団の夢」の
パラレル化が起り、誰でもがデザイナーに成れるというシナリオである。
これによって、『ファッションビジネス』と他方で、『モードビジネス』が確立されて、
これらが対峙する新たな産業構造が誕生し、進化してゆくのが、
今後の巴里の強かさであろう。ファッション産業の継続化の為の未来構造であり、
これがこれからのファッションビジネスの大いなるコンテンツともなる。
これは次回に論じよう。
リアリティ知らずして、ファッション学生たちにファッションの未来も語れない、
昔取った杵ずかばかりを喋っている人たちの為と
ファッションが好きでこれからのファッションがどのようになってゆくかに
大いなる関心とそれに負けない位の不安を持っている学生諸君の為に。
『云うまでもなく、個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、
集団にとっては内的なものである。
個人の内側には臓器感覚、詰まり病気だとか健康だという感じがあるように、
集団の内側には建築やモード、いやそれどころか、空模様さえも含まれている』
[k1,5]:W.ベンヤミン/『パサージュ論−1』より:岩波書店刊:
長文の拝読、ありがとう。
相案相忘。
文責/平川武治:巴里ードバイー鎌倉にて、
2013年7月12日
“倫理”という事に意識を持った事がありますか?”時代性に適合した『倫理』観について、−3
”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−3”
『エコエティカと文明』
東京大学名誉教授/哲学美学比較研究国際センター所長/今道友信
論文/http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/42imamichi.pdf
森永フォーラム/http://www.angel-zaidan.org/dante_miniforum_2008/
「今、世界の人々は、世界を戦場化する方向に向かいつつありますが、それをやめて、
世界を美しくするように考えていかなければなりません。安倍首相が言った「美しい国」の
ような標語的なものではなく、真の意味において内面的に美しくする事が大事です。
「美」という字は「羊」と「大」からできていますが、羊は中国では古来犠牲の獣です。
犠牲が大きくなるとき美が輝き出てきます。犠牲というのは自分を何かに捧げることです。
しかし命をそんなに簡単に捧げる必要はなく、時間や労力を捧げればよいでしょうが、
そのようにして世界を美しくしていくことを、私は「実践美学」と呼んでいます。
この「実践美学」がエコエティカの一つの行動原理になるのではないかと思います。」
◉
さて、人間が生きて行く上で持たなければならない『倫理観』を欠如させて迄も、
個人の小さな“夢”、それも今のような日常生活の豊かな時代性になっては泡沫的でしか
無くなってしまった、殆ど自我のみの”夢”を追い求めていてもその結果が
どれだけ社会や他者に役立つ事なのだろうか?“夢”を成就した者のみが、
そう”選ばれた者”が捧げられる“GIFT"があるのだろうかということを考えてしまう。
ここにも戦後日本の主流となった”表層主義”うわべ良ければそれでいい的なる根幹から
現代教育の視点のズレまでを感じるが、そんな彼らたちが好きなファッションの世界で
がんばっているのだろうか?という疑問ばかりが、変わらず、東コレやその周辺の
海外帰国集団デザイナーたちを見ていると一番、”時代遅れ”で”終わっている”と
感じてしまう。そして、彼らたちの作る服の世界よりも遥かに深く
僕には心地悪い彼らたちの下心な”ノイズ”になって聴こえて来るのだが、
それは僕だけなのだろうか?
彼らたちが作っているモノの大半が、それが人間らしく生きようと思っている人たちの
”着るもの”であれば、もう少し、人間の暖かみなこゝろを感じられるもの、
穏やかさを覚える迄のもの、おおらかさを着込める迄の根幹を感じさせてくれるもの
そんな、今の時代のこゝろの豊かさへの“OPEN WINDOW"を与えてくれるデザインを、
素材の選択とそれらの調和あるものを望んでしまうのだが、間違っているだろうか?
それ以外の”ファッションな服”は今はもう、至る所で容易に手に入る時代ですからね。
例えば、“鮮生食料品”としての“人参”を買う場合と同じでしょう。
人参を買うには何処へ行けば欲しい人参が買えるか?
買い手のいろいろな都合で、今ではいろんなところで買えますね。
紀伊国屋で買うか、デパ地下で買うか、ピーコックや東急ストアで買うか、
地元の食料品屋さんで買うか、地場の市場で買うか、コンビニで買うか、
又は、ネットで買うか?
これもリアリティの“豊かさ”の一つでしょう。
では、この場合の差異のファクターは?
自然の土がついているもの、見た目が揃っているもの、安いもの等など、
作り手の覚悟あるこゝろと、倫理と、努力によって持ち得たリアリティと
そこから生まれた”文化度”。それが、”ヒューマンカルチュアー”、
これだけでしょう。
“鮮生食料品”としての“人参”を作り売っていても、
今では、自分で種を蒔かない決して、畑へ出掛け土を耕さない、自分で水もやらない
出来上がって来たものを送ってもらって、ブランドと称して”ラッピングペーパー”で
イメージングしてデザイナーぶって並べる、ここ迄でしょう。
従って、最後の”商品”に成った時には殆どが,“OEM"レベルのクオリティ商品。
これって、21世紀にもウケる事なのでしょうかね?
ある友人から頂いたメールに、
『服はつくって手が覚えて、それに目が慣れて技術がついてくるんだから、
自分の才能を過信して、学歴を見せびらかすだけで、努力しないなんてもの作りには
ありえません。ソフトに頼った(フォトショップ、だとか)作り方だったらべつだろうけど。』
今の時代のインデペンデントなファッションデザイナーとは
自分という個人銘を売り物にしているのですから、作るモノと世界観に
どのような”文化”が存在するか、どれだけの”ブランドカルチャー”が染込むまでに
し見込んでいるか?を根幹に考えなければなりません。
言っておきますが、所謂“個性”と言われているものは今の時代、誰もが持っています。
そんな時代性に成っていますから、ここにはその自分という個人が持ったコンプレックスや
趣味性や志向性や癖迄もが必須必然となるでしょう。
“新鮮人参”は何処でも買える時代です。
デザインを売るとは、”自分文化/ブランド文化”をどれだけ”GIFT"として差し出せるかが
これからも生き残れるブランドなのです。
◉
『自分が社会や国家へ差し出せる“GIFT"があるか?
家族や友人そして、自分への“GIFT"は在っても。』
(つづく)
文責/平川武治:巴里市マルテル街。
2013年7月11日
“倫理”という事に考えた事がありますか?”時代性に適合した『倫理』観について、−2
”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−2”
そうですね、”医者”には人命を救うという職務から国家試験が必要です。
その為の教養やスキルや経験やそれなりの技術が人命を救うという目的から必要である事と、
もう一つは人の人生にも関わる職業だからというところでの規範や倫理観が教養にも
必要になる極めて、普遍的なる人道的な立ち居場所での職業です。
『エコエティカ』には今の時代性に適合した『倫理』が必要であることを筆者が学んだ
教養と経験とから堂々と述べている書です。
『倫理学』とは関係性の為の”関わり学”であるとし、
それが”対人との関わり”だけでよかった時代から今では”対自然”と”対技術”との関わりへ
広げた『倫理』と『倫理観』が必要な時代性であると解いている本です。
今、エコロジーを発言して商売をしている輩たちには是非、必読の書です。
多くの書物を読んでいると気ずくのですが、日本人の教養ある人とは、
”書物の世界から書物を書いている”人がウケる世界です、特に西洋の書物から書物を書く。
今ではその書物が”電脳ボックス”に変わっただけ依然、変わらずの”明治時代の教養主義”が
蔓延ったままです。ここには“経験”は殆ど欠如され、経験無くとも学んだ知識をより子細に
広げる事が教養とされて来た古い時代の刷り込みでしかありません。
例えば、ファッションの世界の哲学書と言えば、最近の鷲田氏迄の軽さがウケる原因は
今の若者たちの保守性とこの旧さと覚悟の欠如にあるでしょう。
この著者、今道氏の場合は東大哲学科から巴里で学びその後、その学校、
パリ大学で教壇にも立ちそこからの彼の経験と関係性を根幹に彼の哲学が生まれ
それが『エコエティカ』なのです。
◉
多くの“如何様、なんちゃってデザイナー”諸君たちもきっと、
”ファッション”が好きなのでしょう。“服”が好きなのかどうかは解りませんが、
ファッションには所謂“国家試験”がありません。
例えば、パターンメイキングや今では、カラーコーディネートなどの職種に携わる人たちの
職業、職域では試験のような資格範囲はありますが、
“デザイナー”に成るには何もいりません。
極論すれば今では、”明日から僕デザイナーになる。”と言ってそう慣れる世界です。
そんな世界なのです、現実は。まったくのフリーな職業です。ですから、ファッションが
”自由の産物である”事の証かもしれません。
又、ファッションは資本主義社会から生まれ落ちた消費産業の一つだからでしょう。
その後ろには“金権”という大きな囲みがありますね。
又、そこへ辿り着くには“OZのエメラルドの塔”(これが解らない人は、“OZの魔法使い”か、
あのM.ジャクソンも出演している映画“WIZ"を是非見て下さい。http://movie.walkerplus.com/mv870/)
に辿り着き、”選ばれて”入れてもらわなければなりません。
多分、“如何様、なんちゃってデザイナー”たちもここへ行き着きたくて結果、
出来ない事や、やっていない事知らない事も知っているように度胸やカネやコネを使って
下心いっぱいにして、その結果がメディアに登場出来る”有名人”に成れるからでしょうか?
その結果が、”儲かる”からなのでしょう。
こんな育ちをこの現代でも堂々と受け継いで構築されているのが変わらぬ、
国家もお金を出して祭り上げている日本のファッションの世界なのですね。
未だに、あの名作童話”裸の王様”がここでは真に生きている世界です。
『王様は何も着ていない!!』
そう論じられる人種も不必要な時代性と共に皆無になってしまった為でもありますね。
僕が長年のこの世界での経験出会った沢山のファッションに関わっている人たちには、
共通して3つの根幹タイプがあります。
一つは“服が好き、作るのが好きだから創りたい”。もう一つは、“ファッションの世界が好き”
そして最後は、“お金が好き”。に尽きるでしょう。
(もう一方では、女が好き、男が好きバニティが好き、もありますね。)
僕たちは“服が好きで、創る事が好きな人”がファッションデザイナーになると
教えられ、そこに”夢がありますよ”と刷り込まれて来た世代でしょう。
今でもこの根幹を持ってデザイナーになっている人たちも居ますがかなり狭軌な
より、コアな世界です。大変な覚悟とその為の努力が必要な世界です。
現代のファッションの世界では“ファッションの世界が好き”と“お金が好き”な人たちが
当然ですが、お金を儲けていますね。有名人になっていますね。
そんな彼らたちを請け負って商売をしているのが”広告産業”です。
いつの間にかこの”モードのキャピタル、巴里”のファッションの世界も完全に、
”広告産業”化構造になってしまいました。
どれだけ資金を使って、それ以上、数倍のお金を確実に儲けられるかの世界です。
その為に機能するのが広告産業です。彼らたちの美徳は“美しすぎる嘘を思わせぶるか”です。
この構造の中に“有名デザイナー”たちの誰それがと、飼われているだけの世界です。
今シーズンのクチュールコレクションでは、
呼び寄せたジャーナリストと称される人種たちに例の、大きな瓶のオーデトワレNo.5を、
(決して、パルファンではなく)撒き配ったメゾン-シャネルのパフォーマンス。
貰い物で着飾る事に慣れてしまっている人種たちを手なずける順当なる手段。
その結果はどう出るか?カール君もリタイア時期でしょうか?
ラグジュアリィーブランドの総合売り上げでは
依然、このメゾンがトップを行っているのですからね。
此の古き手法は日本では“付録つき女性誌”の手段です。
そう言う意味では、社会構造の違いから日本のファッション誌の方が大衆消費社会に
直接、接点を持った”リアリティ”を生む迄の戦略ですね、流石です。
思い出しますね、僕たちが少年の頃、やはり、沢山の”付録つき”冒険王や少年画報を
毎月の発行日を待ちかねて買いに行った事を、、、、、、
(つづく)
文責/平川武治/チューリッヒ市にて:
考えてみませんか?”時代性に適合した『倫理』とはを。−1”
”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−1”
この様な小難しいことを考えようと思い始めたのが最近の日本社会で起った
大小の事件の殆どが”倫理”観喪失若しくは、鼻っから”倫理”なんて持っていない程度の
人間たちのしでかした粗相事でしかないと感じてしまった。
そこで出会ったのが’90年の11月に発行されてその後、なぜか、フタをされてしまった
『エコエティカ』という本だった。
読後、最初に思った事は、この本をもっと早くに確りと読んでおけば、
あのような福島原発企業事故の一端の責任がある”原子力ムラ”にももっと、強い
それこそ、時代に見合った”倫理”観ある眼差しが向けられたであろうと
悔やんでしまったからである。
*エコエティカ /講談社学術文庫刊/ 今道 友信著:
http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1589466
◉
今回、日本を発つ前の6月初めであっただろうか?
ラジオで聞いたニュースが面白かった。
そのニュースとは時折在る話しなのだが、無免許で医者をしていたというものである。
所謂、如何様で医者をして何年も生活をしていた人物のそのバックグラウンドが
バレてしまったという“偽医者”もの。
そのバレ方が面白かった。彼が執刀していた手術後の縫い糸の始末が”おかしいぞ?”と言う
発端からバレてしまったのである。
その後、このニュースをテレヴィジョンで見る機会があった。
手術後の縫い糸の始末を彼自身のその性格からであろうか?若しくは、
警戒心がここ迄来たのだろうかというまでに几帳面に”蝶結び”をしてしまっていたのである。
嘗ての時代に、手塚治虫の作に『ブラックジャック』という名作があった。
確か、’73年頃から始まった漫画であったと記憶しているがこの時期は日本経済が
高度成長期へ入った、戦後の倫理観の歪みが激しくなり始めた頃であって、
ああいう一つの倫理観の現れとしての”正義”が必要であった時代だったのであろう。
が、現在という時代性に於けるこのような行為はそれが人間の生命を扱う職業人としての
”医者”という立ち居場所での“倫理観”喪失事であるからこのような事件として
メディアでも騒がれたのであろう。多分、当人は自心でそう思い込んだ上で”医者”に
成りきっていたのであろう。
そこで見破られてしまった手術後の処理に於ける“蝶結び”。
結果、大いに笑える事件になってしまった。
僕はこの事件を現代日本社会の在る意味では一つの象徴的事件とも読み込んでしまった。
なぜかと言うと、これが僕の立ち居場所である”ファッションの世界”に置き換えて
考えてみるとそう不思議に思わない事件なのであるからだ。
というのは、この日本だけに限らないファションの世界では縫えない、
パターンメイキングも出来ない、素材のスキルも無い、工場も捜さない、出向かない
そして、自分でやってない事迄、やったような顔つきをする“ナンチャってデザイナー”や
”如何様デザイナー”がより、多くなりつつある。
そのような産業構造化が進んだからでもあろうが、彼らたちに共通する事は
”出来る事より、下心の方が多い”事だ。そして、彼らたちは必ず、当たり前のように
先ず、放言をし、目立ちメディアウケを狙う。
次には、その周辺の人間たちがそれらに食らい付き”デザイナー振っている”輩たちを
それなりのデザイナーだと”嘘も方便”なる古い手法と彼らの”下心”を読み込み、商売を、
カネを絡ませて”メディア”を使い、煽ってはしゃいでいるだけのムラ世界でもあるからだ。
長い間、日本とヨーロッパで生活環境を持ってファッションの世界を生業として来た僕は
世界のファッションの現実がどのようなもので、ファッション-デザイナーという人種が
どのように企業とそのユダヤ人ファッションピープルたちに育成されて来たか。
若しくは、厚顔に自分自身から”僕はファッションデザイナーです”と
カネと度胸と嘘と下心で登場して来た多くのデザイナーたちを熟知し、生活体験として
27年間も関わり見て来た者にとっては、本当に創造性豊かなファッションクリエーターや
人間的にも“リスペクト”出来る“倫理観”を感じる迄の誠実な人たちが極少である事も
僕のこのファッション人生で知ってしまったからこの“偽医者”事件は
”ファッションの世界”では当たり前に近い事と受け止めてしまった。
これを”現実社会”と悟り、解った顔をして生きて行ける迄の自己自信あるいは
自己肯定はこの歳になっても僕は持てない。
ここに僕なりの『倫理観』が作用する。
寧ろ、知り始めると余計に恥ずかしくなり、もうこれ以上このファッション世界の
OZのエメラルドの城、『金メッキなバニティーな世界』からどれだけ遠くへと
考え込んでしまう。
その為には、これからの新たなファッションの世界に変わらぬ好奇心と可能性を持って
出来れば、いまだ、青年としてこゝろ馳せたい。
この戦後の日本人がなぜ、”イエローモンキー”と呼ばれていたのか?
ファッションの世界だけでもないだろう、多くの表層的なるカタカナ職業の世界では
これ以上に「なんちゃって、如何様家業」―パクって、カッコ付けて―”大きな顔をして
儲けて、今では腹が出てしまっている人種たち。
即ち、『倫理』観乏しき若しくは、無き日本国民になってしまったのが
戦後からの現代日本の一面にあるのではないだろうか?
従って、僕はこの『偽医者、蝶結びで発覚』という事件を現代日本社会をある在意味では
象徴する迄の事件とも読み込んでしまった。(つづく)
文責/平川武治:チューリッヒ市にて:
2013年7月 9日
砂山健さんのことを想いだそう、7月8日。
これを久し振りで乗るParis-Zurich間の車中で書いている。
僕はこの電車が好きだ。車窓からの風景が美しい。
田園風景をこよなく飽きもさせずに時折、小さな可愛い街風情が過ぎ
又、広大な田園が広がろ。四季それぞれにそれらの田園にまた違った風景が現れる。
今は緑と枯れ草の調和がアブストラクトに美しいところへ
運河の水路がのどかさをたよわせている。
太った羊が群れを作って静かに干し草の周りを動いている。
その田園には広がった空が栄え雲が穏やかに遊んでいる。
これがフランスという国の農業国である証拠をじゅっくりと美しく見せつけてくれる
7時間程の旅。
もう幾度もこの線を利用した。今ではこの線は従来線になってしまって、
一般客は新しく早いTGVに乗らされてしまう。
丁度、日本で言えば快速を利用した”青春18切符”旅行である。
もうすぐ、ル-コルビジュェのロンシャン教会の白い、雲のような塔と上屋根が
それも殆ど一瞬にであるが見える。これが見えると“LUCKY!!".見過ごしてしまうと
何か大切なものを落としてしまった時の気持ちになって、そのままZurichまで行ってしまう。
この教会へも小さな駅で途中下車して長い坂道を上りその突然の、
目前に広がる見慣れない姿を見たい為に幾度も通った。
完全にここには彼の世界が生き就いている、躾けあるがおおらかな空間世界である。
今日書きたかったことは、確か、故砂山健のご命日であるという事を
昨夜から思い出していたのだが、今朝又、再び、巴里東駅でこの思いにおそわれるように
彼に恋しさを覚えたからだ。
そうだ、砂山さんの事をいっぱい想いだそう。
彼が選んだ選択肢からもう20数年が経った。
その日の1日の時間という流れがどのように流れたのかを今でも良く覚えている。
朝に始まる1日はこの日も変わらず始まった。そして、1本の電話。
そこからその日があのように悲しい特別の日になり始めてしまった。
今という時勢に成ると彼、故砂山健を知る人も少なくなったであろう。
お元気でいらっしゃれば僕よりも10歳ほど年長であったからもうかれこれ80歳近い。
僕にとっては“師”であり続けた人だった。彼の耽美主義的でありながら、
アイロニカルな審美眼とその言葉の選び方の小粋さと巧さに僕は憧れ彼から多くを学ぼうと
幾度か尋ねたことがあったのを思い出す。
一時、彼の文を幾度も読んでその文章を手本に試みた。
とっても、お洒落な人だった。
お洒落に煩かった。所謂、戦後の”モダンボーイ”であり、
その若さの時は“美少年”でいらした。
僕が彼と出会ったのは確か、’69年か’70年の始まりだったであろう。
彼が熱心に、その当時の『週刊平凡パンチ』誌で所謂、元祖”街頭スナップ”を仕事として
大阪へ居らした時であろう。
当時はメンズファッションがどっと、巴里から堰押すように僕たちの街へ大きなうねりを
持って流れ出した、その堰を切ったのが高田賢三さんの巴里での存在とあのYSLであった頃、
当時のお洒落な若者たちは”VAN”のアメリカンIVYの流れに乗るか、
やっと情報が流れてき始めた巴里を中心にした”ヨーロピアンエレガンス”の流れに乗るかの
選択そのものが”お洒落”を意味した時代だった。
これは東京以外では未だ、”EDWARD"を着ていた人は少なく、
未だその殆どがアイビー族“VAN"の時代であり少し、“JUN"が流行っていたころの話しだ。
僕が覚えている当時の砂山健さんはYSLの最新のサファリジャケットにロングブーツ。
大阪と言う地方者の僕はこんなカッコいいお洒落を東京の人は
もう、やっているんだという印象だった。
それ以後、彼は殆どを男性ファッション誌の編集者として関わる人生を送られた。
あの『NOW』誌の創刊にも関わりその後、『Men's Hi-Fashion』の立ち上げを始め
多くのメンズファッション誌のファッションエディターとしてまた、『銀河』誌にも
関わりその後、流行通信社が『X-MEN』という今でも決して見劣りのしない新しいタイプの
メンズ誌の編集長を任されて3年間、猛スピードでこの初めての編集長と言う立場を
愉しく、カッコ良く猛烈なエネルギィイで駆け抜けた人だった。
当時、彼のアシスタントをしていた2人は今はもう、メンズ誌編集者としては
それぞれがそれぞれの道を立派に歩んでいらっしゃる。
僕は彼が当時のファッション業界誌の一つ『ファッションヴィレッジ』誌に
彼がデビューし当時のY'SとCdGのショーを論じている文章が好きで今も残してある。
その当時の彼のY'SとCdGへの眼差しは的を得た今へ通じる論評であった。
早い時期からの同性愛者であった。
今でこそこのファッションの世界では“ゲイ”が堂々とした市民権を持ち得て
それが在る意味大きなステータスにまでなってしまっているが、
彼が編集長として最後に関わった『x-men』誌当時の’80年代初めでも
未だ、この業界でさえ偏見が強く、その詰まらない、まったくの狭軌な資質の人間性の
眼差しが世間一般の同性愛者へのそれであった。
その結果が、彼が一つの世界観を出していた『X-MEN』誌の編集長を辞させられる
大きな原因に迄に追い込まれてしまったのだ。
ポジティフで教養もエロスも存在したメンズ雑誌だった。
これは当時のメンズ雑誌にしては革命であった。今でもその大半がそうであるように、
『女に持てる為のお洒落』誌がカッコを付けていた全盛期だった。
例えば、巴里のピエール&ジルたちを日本で最初に取り上げたのも彼であった。
敢えて、”白人モデル”という時代にあって、東南アジアへ出掛けて当地のカワイイ少年を
キャスティングしたフォトページも彼が最初。
「GOLD」や「PARADISE」という特集を組、兎に角、編集長自らがスタイリング迄に
口を出して自分でやってしまっていたほど、この当時にしては画期的な愉しく巧い
スタイリングコーディネートだったことを覚えている。
今では若い頃にスーツを着たことの無いスタイリストが流行だからと突然に、
ブランドものスーツを安くしてもらって着込んでスタイリングしているような
おちゃらけな世界ではなかった。そんな連中も今ではそろそろ禿げ掛かって来たから
余計に面白いギャグにもならない漫画世界が今も続いている。
故砂山健が生きていたらどう嫌みを言うだろうか?と時折考える事もある。
流行通信社が当時、新たに市ヶ谷に新社屋を建てた。
その空間を利用して、彼は『X-MEN』誌のパーティをディレクションし開催した。
題して、その名も『PINK-PARTY』。大勢のPINKを着た男たちが集まった。
いい女たちも集まった。愉しく艶っぽいパーティだったことを今でも良く覚えている。
その後、僕がPINKを着るようになった動機はここからである。
今でこそ、CdGHPが当たり前のようにピンクを使っているがその当時のCdGHは
VANの裏返しか、継ぎ接ぎでしかなかった。
金子国義氏や高橋睦郎氏たちも集まった。
懐かしさがその想い出を余計に大きく膨らませる。
金子国義氏がカバーの絵を1年ほど手掛けていた。贅沢なイメージングだった。
’80年代を艶やかなファッションシーンとして描いたアントニオ ロペスやペーター佐藤氏も
登場した。僕が当時は未だ、アパレルに居た時代だったので、良く来られては愉しい、
面白いお話を残して帰られていた。中でも、ヴィスコンティ映画をよく語った事が印象深い。
その朝、文化出版局の美濃田編集長から電話が入った。
『健ちゃんに連絡を取りたいのだけど繋がらないの、あなた知ってる?』
そして、その日の午後再び、文化出版局から、秋元さんから電話が入った。
『砂山さまがお亡くなりになられたそうです。』
当時、『x-men』誌を辞められてから鶴岡市で一人住まいのお母様を危惧為さって
東京を離れられた砂山健さんの電話の取り次ぎを僕の青山の事務所のようなところで
させて頂いていた。
まめにご連絡を下さっていた彼からの連絡が暫く無い事に気を病んでいたので
僕もそれ迄も幾度かの電話とfaxをしていたのだが、
その後、お母様からの悲報を受け取った。
その春、3ヶ月ほど前の、"TAKEO KIKUCHI"のコレクションが西麻布であり、
ご一緒したのが彼に会った最後となった。
横断歩道を歩きながらショーについての幾回か交わした会話が最後だった。
今でもその内容を覚えている、不思議なものである。
彼は”青色”がお好きだった。
彼の鶴岡に残されてしまったあの“青い部屋”は今も僕の記憶に彼の声高々な笑顔と共に
鮮明に残っている。
3度ほど墓参をした。
久しく訪れていないので帰国したら鶴岡へ行こう。
月山へも足を伸ばそう。
その後、残された、お母様の事が気に掛かるが、
”どうか、健さん、おおらかにおやすみください。ご冥福をお祈りいたします。”
文責/平川武治:ZURICH市にて、