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“倫理”という事に意識を持った事がありますか?”時代性に適合した『倫理』観について、−3
”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−3”
『エコエティカと文明』
東京大学名誉教授/哲学美学比較研究国際センター所長/今道友信
論文/http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/42imamichi.pdf
森永フォーラム/http://www.angel-zaidan.org/dante_miniforum_2008/
「今、世界の人々は、世界を戦場化する方向に向かいつつありますが、それをやめて、
世界を美しくするように考えていかなければなりません。安倍首相が言った「美しい国」の
ような標語的なものではなく、真の意味において内面的に美しくする事が大事です。
「美」という字は「羊」と「大」からできていますが、羊は中国では古来犠牲の獣です。
犠牲が大きくなるとき美が輝き出てきます。犠牲というのは自分を何かに捧げることです。
しかし命をそんなに簡単に捧げる必要はなく、時間や労力を捧げればよいでしょうが、
そのようにして世界を美しくしていくことを、私は「実践美学」と呼んでいます。
この「実践美学」がエコエティカの一つの行動原理になるのではないかと思います。」
◉
さて、人間が生きて行く上で持たなければならない『倫理観』を欠如させて迄も、
個人の小さな“夢”、それも今のような日常生活の豊かな時代性になっては泡沫的でしか
無くなってしまった、殆ど自我のみの”夢”を追い求めていてもその結果が
どれだけ社会や他者に役立つ事なのだろうか?“夢”を成就した者のみが、
そう”選ばれた者”が捧げられる“GIFT"があるのだろうかということを考えてしまう。
ここにも戦後日本の主流となった”表層主義”うわべ良ければそれでいい的なる根幹から
現代教育の視点のズレまでを感じるが、そんな彼らたちが好きなファッションの世界で
がんばっているのだろうか?という疑問ばかりが、変わらず、東コレやその周辺の
海外帰国集団デザイナーたちを見ていると一番、”時代遅れ”で”終わっている”と
感じてしまう。そして、彼らたちの作る服の世界よりも遥かに深く
僕には心地悪い彼らたちの下心な”ノイズ”になって聴こえて来るのだが、
それは僕だけなのだろうか?
彼らたちが作っているモノの大半が、それが人間らしく生きようと思っている人たちの
”着るもの”であれば、もう少し、人間の暖かみなこゝろを感じられるもの、
穏やかさを覚える迄のもの、おおらかさを着込める迄の根幹を感じさせてくれるもの
そんな、今の時代のこゝろの豊かさへの“OPEN WINDOW"を与えてくれるデザインを、
素材の選択とそれらの調和あるものを望んでしまうのだが、間違っているだろうか?
それ以外の”ファッションな服”は今はもう、至る所で容易に手に入る時代ですからね。
例えば、“鮮生食料品”としての“人参”を買う場合と同じでしょう。
人参を買うには何処へ行けば欲しい人参が買えるか?
買い手のいろいろな都合で、今ではいろんなところで買えますね。
紀伊国屋で買うか、デパ地下で買うか、ピーコックや東急ストアで買うか、
地元の食料品屋さんで買うか、地場の市場で買うか、コンビニで買うか、
又は、ネットで買うか?
これもリアリティの“豊かさ”の一つでしょう。
では、この場合の差異のファクターは?
自然の土がついているもの、見た目が揃っているもの、安いもの等など、
作り手の覚悟あるこゝろと、倫理と、努力によって持ち得たリアリティと
そこから生まれた”文化度”。それが、”ヒューマンカルチュアー”、
これだけでしょう。
“鮮生食料品”としての“人参”を作り売っていても、
今では、自分で種を蒔かない決して、畑へ出掛け土を耕さない、自分で水もやらない
出来上がって来たものを送ってもらって、ブランドと称して”ラッピングペーパー”で
イメージングしてデザイナーぶって並べる、ここ迄でしょう。
従って、最後の”商品”に成った時には殆どが,“OEM"レベルのクオリティ商品。
これって、21世紀にもウケる事なのでしょうかね?
ある友人から頂いたメールに、
『服はつくって手が覚えて、それに目が慣れて技術がついてくるんだから、
自分の才能を過信して、学歴を見せびらかすだけで、努力しないなんてもの作りには
ありえません。ソフトに頼った(フォトショップ、だとか)作り方だったらべつだろうけど。』
今の時代のインデペンデントなファッションデザイナーとは
自分という個人銘を売り物にしているのですから、作るモノと世界観に
どのような”文化”が存在するか、どれだけの”ブランドカルチャー”が染込むまでに
し見込んでいるか?を根幹に考えなければなりません。
言っておきますが、所謂“個性”と言われているものは今の時代、誰もが持っています。
そんな時代性に成っていますから、ここにはその自分という個人が持ったコンプレックスや
趣味性や志向性や癖迄もが必須必然となるでしょう。
“新鮮人参”は何処でも買える時代です。
デザインを売るとは、”自分文化/ブランド文化”をどれだけ”GIFT"として差し出せるかが
これからも生き残れるブランドなのです。
◉
『自分が社会や国家へ差し出せる“GIFT"があるか?
家族や友人そして、自分への“GIFT"は在っても。』
(つづく)
文責/平川武治:巴里市マルテル街。
投稿者 : editor | 2013年7月12日 07:23 | comment and transrate this entry (0)