« 『倫理』のことをとやかく言うのは時代遅れだろうか? ”時代性に適合した『倫理』観の再考と提案を。−4”ー | メイン | Pole shiftとChristopher Németh、On 22nd.Sep. at St Peter's Church, »

猛残暑お見舞いと共に、『倫理』観が希薄になってしまったら、-5;

『倫理』観が希薄になってしまったら人間の『品』が損ない始めます。
そして、『國体』が損ない始めます。-5;

 昨日は終戦記念日でした。
何らかのこゝろの有り様を自覚して下さい。
又、あの「FUKUSHIMA」から2年半以上が経ちました。
どちらも、“火”が元での災いです。
その”火元”を”風化”させないで下さい。合掌。
そして、この酷なる残暑をお見舞いもうしあげます。

◉『エコエティカ』という本に出会って;
 『エコエティカ』/生圏倫理学入門:今道友信著;講談社学術文庫刊:
 本書は、’60年代半ばに著者によって提案され、’70年代から国際的に通用する学名と
研究課題となって世界に注目されて来たものです。が、著者は世界共通言語によって
外国語で発表された関係で日本国内でのその後の反響が未だ不十分です。
(ほとんど黙殺されてしまっています。ひらかわ)本書は『エコティカ国際シンポジユウム』
が10年目を迎えた機に講演内容を元に出版計画がなされて’90年に発刊されたものです。

 本書の第4章の”道徳と倫理”の章で「火のミュートス」という項で既に、「原子力と倫理」の
問題が提議されています。20年前にこの書を多くの人たちが知って、読んで居ればという
懺悔の念しきり。
<エコエティカ>よりの引用、
『日本神話で火が出た時にどうなったか?イザナギとイザナミによっていろいろな神を
生むのですが、迦具土の神という火の神を生んだ時にイザナミは火で「ホト」を怪我をして
それが元で死ぬのです。
 火は動物に対して,人間の”象徴”でありました。その火が出て来る時に、何時も、
火をもたらしたものは罰せられたり死んだりしているのです。
 原子力も、大きな電気のエネルギィイでありますが、ものすごい火であります。
そう言う火を扱う人たちは、昔のままのモラルの考えでいれば罰せられるという事を忘れてはなりません。
(プロメーテウスにも同様のことが起こりました。略)

 ですから、私どもは本当に、まったく新しい考え方をしなければ、原子力を使うのを
やめなければならない、ということだと思います。まったく新しい考え方というのは
何なのか。何か企業をするときに、利得や利益のことをまず考えるというのは、
新しい考えではなくて古い考え、何千年も前からあった考えなのです。この力で自分の国を
守ろう、自分の敵を攻めようというのは何千年も前からあった考えです。そういう考え方を
捨てることができるときにのみ、人間は原子力を使っていいと思うのです。
 すなわち、今までよりも遥かに道徳的な人間でなければ、原子力は使えないと思うのです。
私は、原子力のことは何も知りません。しかし、誇り高く、技術者が、この装置ならば
絶対に間違いないと、人間の分際でなぜそういうことが言えるのですか。
壊れるかもしれないときに、どうしたらいいのかということを二重、三重に考えなくては
なりません。災害学と災害処理学がより完全に研究され、充分に整備されなくては、
この恐るべき火は使ってはならないのです。
 しかも、原子力の仕事にあたる人は倫理学を一度も勉強したことがない人がほとんどです。
それでいいのか。遅くてもいい、たんなる理論かもしれない、
しかし倫理学を学ぶことなしに新しい道徳の模索なしに、いや、古いモラルすら学ばずに、
科学技術の力を、ただの常識や法規や工学的知識や企業戦略で扱うというのでしょうか。
日本政府はなぜ哲学や倫理学を高校教育でも軽視するのでしょうか。
 倫理学と言う知識は、倫理学に対する情熱を持った学者たちがつくっていった書物に
込められています。そういう書物の一冊も読むことなしに、そういう仕事をしていて
いいのかということです。まじめに働く原子力関係の人は怒っても結構です。
何を言われても私は言いつづけます。謙虚に、謙虚に、倫理学の書物を一冊でも心をこめて
読んで欲しいということを。たとえばこの私の書物は、つまらない書物かもしれないが、
そこに倫理学の伝統と言う先人の哲学的いとなみと、未来へのエコエティカというわたしの
懸命の哲学的思索があるのです。それをくみとってください。』
『エコエティカ』/生圏倫理学入門:今道友信著;講談社学術文庫刊:第4章/6
          「火のミュートス」より抜粋。


◉こんな事を見始める; 
  僕にとって東京へ出掛ける機会とはかなりの時間、乗り物としての電車を乗る事です。
そんな、折に目にする光景で最近、気になり始めたのが車内のシートに座るという行為です。
 嘗て、僕たちが親や学校の先生そして、目上の人たちから教わった事は、
「乗り物に乗れば出来るだけ、子供たちは立っていること。空いた席に座っていてもお年寄や
産婦や躯の不自由な人たちが乗って来れたら席を譲って上げなさいね。」でした。
そして、これが出来ていなければ叱られもしましたし、席を無理矢理立たされたという経験は当たり前でした。
 ここ1年来、帰国する度に僕の経験とその眼差しからですが、停まった駅事に空席を
目指して乗り込んで座る人たちのその殆どが若者たちになってしまったようです。
彼らたちにとっては“席とりゲーム”感覚なのでしょうか?車内に乗り込んで空席を目指し、
座り、すぐに、ケイタイを取り出してというパターンがその殆どです。
周りの乗客の状況には多分、無関係で座るそして、自分のケイタイ世界に入る。
(その大半がメール確認かゲームをしているのですが、)お年寄りが乗ってこられても
関係ない。最近のお年寄りはその姿格好では判断出来ずらいから余計なのでしょうか、
ケイタイを始めるともうシャッターが下りてしまうのだろうか?そこが、”優先座席”で
あっても容赦なしなのです。又、プッシュチェアー離れが始まった幼子たちも一席を貰って
お母さんの横に座り、その親たちは子供たちがはしゃぎ廻る事には注意をしても譲席には
無頓着さ。
 僕は確実に高齢化した。だから、利用する車中のこのような、ケイタイ-ゲーム社会以降の
光景が気になってしまう。彼ら、彼女たちの親とはおおまか、僕の子供世代たちであろう。
このジェネレーションギャップによって失われたものは大きい。少し前迄であれば、寧ろ、
若者たちは立つ。座る事そのものがカッコ悪いと言う風潮があったはずだが。無論、
現代の高齢者たちは余程の高齢でないと座りたいと思わなくなっている事も確かではある。
が、ここにも『倫理』観が風化している光景が読める。
そして、新たな科学技術とモノと人間との関係における『倫理』を考える必要性も読める。
ここには、何も”原発”だけではなくもっと身近かなモノとの新たな関係性の再確認がある。

**
◉プロローグとしての現実なることを一つ;
事実から予知出来るこれからの時代とその社会性;

  幾つかの事実としての人口推移を見てみよう。
事実-1)2025年には65歳以上の、所謂高齢者と呼ばれる人たちが日本人人口の    
    65%以上になる。
事実-2)2050年以降は日本人総人口は現在より、9500万人に減少する。そし 
    て、労働人口は4228万人に減少する。
参考;人口推移/厚生労働省/www.stat.go.jp
 結果、高齢化社会の拡大化と少子化現象により僕たちの國そのものがこれから”虚弱体質”
国家になる。それに加えて、自民党が政権を取った現在、今後の政治は彼らリーダー世代の
ファミリィーメンツ政治が行われ、国内の時代性は『虚弱体質国家のより保守化の進展』と
言うコンサヴァティブで囲われた自由を望む時代が高齢者たちを軸性として継続するという
読みしか出来ない。
 今後の日本國は対外交にしても、世界では発言権無く大国化を余儀なくされ、もう既に、
アジアでのイニシティアティブも取れない。嘗ての、大東亜経済圏の夢は勿論砂上の夢、
そして、TPP交渉加盟によって今後の経済基盤のその大半は外国企業が美味しいところを
持ってゆくと言う気骨無き国家状況を迎えるしかない。
 例えば、『憲法改定』という表層とアメリカの軍事産業への寄与という裏層、
この表裏一体構想の根幹も何ら政治家が執るべき『倫理観』無き責任不在。
嘗ての郵政の時と同じく、自分たちの立場を利用した”ファミリィー利権”と
”ファミリィーメンツ”の為の政略政治。
 国家という環境内部がこのような「個人の夢」で抗争化されればされるほどに
善良で勤勉である内側に置かれた国民の動きは「集団の夢」へ託する。
新たな国民としての若い世代人たちは自然にこのベクトルへ彼らたちの『気概』を求めて
向かうであろう。

***
◉新たな世紀の違いの確認を;
  「『新しさ』は近い将来の人々の生活環境に新たな可能性をもたらすものである。
一方、『変種、変型所謂、バリエーション』は時代の欲望をより、末梢的にまやかし
細分化するものでしかなく、両者の間にはその“根幹”が在るモノと無いモノの相違でしか
無い。」

  もう既に、21世紀は13年と7ヶ月が過ぎました。
地球上ではそして、日本でも今世紀になってからたくさんの想像を絶する想定外な出来事が
まるで、何かを警告するように自然界を軸に起っています。
 そこで、もう一度、20世紀と21世紀の相違点をそれぞれの根幹から憶い興し、考え、
この相違性から今後の時代性とはを再考してみようと。そこでのランディングポイントは、
先ず、W.べンヤミンの『パサージュ論』です。

◉「個人の夢」から「集団の夢」へ;
 モードとはその存在そのものが資本主義であリ、資本主義の産物である。
プロレタリア社会におけるモードは考えられないとされていた。
その社会においては、各種のユニフォームであればいい社会性である。
フーリエもこのモードについては充分に彼のユートピア思想の中では論じていない。
 しかし、21世紀、新たなる”中国”の登場によって、彼らたちの生活状況や環境は如何で
あろうか?ここにはもはや、”プロレタリア社会”におけるモードの存在が認められるまでの
現実である。ここでは、もう既に、モードはプロレタリア社会を新しさとして味方に
つけ始めた時代性と読む。

◉イメージからリアリティへ即ち、「個人の夢」から「集団の夢」へ;
  それなりの物質的なる豊かさと高度なるイメージングを情報社会がもたらした広告産業
によって享受してしまった現在の中流階級者たち。
 そんな彼らたちは先ず、価値観が変化した。所謂、「モノの価値」から「行為の価値」や
「プライドへの価値」へ即ち、『気概』を求める価値観が一般化し始めた。
もう、イメージよりも持ち得たリアリティの方が愉しいという迄の時代。従って、この様な
時代では、個人が持った「夢」は最早、嘗ての様に国家や社会をより、豊かに出来ない。
國力が弱って来た時代性では持ち得た自分の世界観や技術やスキルを持ってどのように
社会にコミットするか?又より、産業に寄与するかが必要な時代性となる。
そこでは「個人の夢」は既に、「集団の夢」の方向へ委ね始めている。
 「個人の夢」を持ち続け、それに挑戦するのであれば、その夢が時代を動かすまでの
クオリティとキャパシティとエネルギィイそして、その為の覚悟と責任所在としての
『倫理』観も必然となる。個人レベルのアートコンプレックスがその「個人の夢」であれば、
そんな夢は所詮、「自己満足な遅れて来た夢」でしか無い。
 近代デザインを提唱し教育において確立した、『バウハウスとその運動』が’30年以降
当時の新大陸、アメリカ合衆国の時の”ニューディール政策”との絡みによって工業化国家を
目指し、新たな中産階級を生み、国力を増す為にデザインの役割と成果が国家に大きく寄与
した時代を思い出さなければならない。1935年に行われた“N.Y.世界万国博によって見事に
20世紀の『インダストリアルデザインの時代』がプレゼンテーションとプロパガンダされ、
ここに始めて”近代デザイン”が確立された。以後、デザインの効力とデザイナーの存在が
大きく影響し、一人歩きし始めた。(日本においてもデザイナーという単語が一人歩き
し始めたのは’60年代終わりを待たなければならなかった。)
 時代の読み方の一つとして、新たな國力を育む為に興したあの”ニューディール政策”の
工業化時代と重なり始めた現代という時代性。即ち、『集団の夢』が新たな生活に可能性を
もたらすと言う迄の認識。
 今、巴里で新たな流れになり、この流れが日本にも来始めている。
それが、“ACNE"などで代表される、『トレンドコレクション』であり、
“サンチェ出身-ブランド”/マージュやサンドロやクーポルが好調なビジネスをしているのか。
EUのモード学校の優秀な卒業生たちが近年は大手メゾンで働きたくその競争率が凄いことも
由来した時代性である。
 そして、ここでも『時代性のリヴァース』が始まったと読める。

◉新たな世紀の違い;
  20世紀の終わりにPCの登場によってもたらされた新しさとは何であろうか?
これは20世紀と21世紀の単純なしかし、根幹的な違いである。
 20世紀とは個人の知識や技術をどれだけクローズドする事。
その結果、それらの”利権”によってビッグビジネスが展開出来た時代性があった。
しかし、この21世紀とはPCを稼働する事で生まれる、“オープンリソース”と
”パーソナルリソースイング”が新しさである。”僕のものはみんなのもの”の時代性である。
個人の知識の集積化はPC以降最早、全てがオープンリソース化されてしまった。そして、
ここでの差異は個人が持ち得たリアリティそして、エピソードとノスタルジアを
”プライド”と発想する”パーソナルリソース”でしか無い。
 20世紀のファッションの世界とは基本的には商標権がなく、代わりに”トレンド”と言う
新しさを産み出すサイクル構造の世界である。依って、人が創ったモノをいち早くパクって
自分のモノのように”イメージ”という包装紙によってラッピングし商標登録したブランド
ビジネスが一世を風靡し資本主義における消費社会構造をより強靭にした。
ここには、若しかしたら『植民地政策主義』がこの構造の根幹に多いに寄与したであろう。
他民族の造ったモノを白人であるからと奪って来て自分たちで見せびらかし愉しみ
ビジネスの商財にする。そこに“エキゾティズム”とか“異文化”を持ち出しての変わらぬ
白人優位主義的なる芸術志向論。ここでも”イメージ”の優位性は必然であり存在した。
 現代という情報消費社会ではそれぞれが持ち得た情報と消費という行為の”リアリティ”に
よってそれらのイメージ群も又、瞬時に消費される。この消費力が全てを優先して社会が
パワーフルにそれなりの豊かさを生むまでの構造が構築されてしまっている。
この構造は特に日本が世界の一歩先を行っていることは確かである。(ここにしか、
現代日本が世界に誇れるリアリティは無い。)
 従って、”社会にコミット”出来た集団だけがその夢を果たすことでパワーフルに豊かさを
生むという図式が読める。
 この『集団の夢』の現実化とPCの発達と情報量によって、誰でも興味ある人たちへ
開かれたオープンリソース。即ち、誰でもが”作り手”に成れると言う「夢の集団」化も
この21世紀の今後の面白さと新しさである。
 多分、デザイナーという職業とその職能は今ほど必然性を持たなくなる。
寧ろ、”デザイナー不要論”さえ出る可能性の時代になろう。(これに付いては次号で、)

  豊かさと言う浮力と新たな科学技術の発達による商品群の登場によって、
それまで”閉じられて”いた全てが今後、より究極のオープン化という時代性へ。
そこで持たなければならない「倫理観」とそこで興り得る「可能性」が新しさの違いであり、
時代の差異としての『ヴァーチャル』が産み出す『リアリティ』と言う新たな環境と構造。
文責/平川武治:

投稿者 : editor | 2013年8月16日 22:52 | comment and transrate this entry (0)

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