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ひらかわ流-2/最近のコムデギャルソンのコレクションの見方、感じ方、読み方。クリエーション編/’14年Paris S/Sコレクション論

 時折、東京へ出掛け出会う人たちの世代によるのだが交わされる会話が、年金の話、
がん保険の話そして、病気の話と異常気象の話若しくは、ガーデニングか旅の話。
多分、これらが僕たち世代が交わす会話の今様の当たり前な話題なのであろう。
 しかし、それなりの世代の会話にも然程、変化は無く加えて自らの自慢話。
最近は殆ど、新鮮な個人の世界観を感じさせるまでのボキャブラリィーを使った話が無く
貧しい会話で所謂、テンプレート化されたものが多い。
ここでも『自由』の根幹が実生活で発育不良化し萎えてしまっているのだろう。

 その現象結果が現在の”東京コレクション”の現実の多くであろう。

 そのような現実とそこでの生活が平和を象徴しているのか、諦めが顕在化しているのか?
僕のような生き方をして来たものにはやはり異界の会話になってしまっている。
従って、そんな輩たちとは再会も憚ってしまう。
 トンネルのこちら側の竹藪の中にいる方が冷静なる好奇心を未だ、引きずることが快感な
生活である。それは、決して快適ではない寧ろ、不便さの中の日常性を周囲の生態系の
摂理の中で心地よさを感じられるからである。

◎はじめに;
 デザイナー川久保玲もそんな“年金云々”などと言う現実からは途方も無くほど遠く、
かけ離れた生活を為さっているから、この様な『服で無い服』に拘ってしまった、
“豊かさ故の反抗心”と言う倫理観からコレクション発想が出来るのであろうか?
と、訝しい考えを持ってしまったCdGの先日のパリコレクションであった。

 僕の様に”捩じれて生きて来たものには”年金の話やがん保険の話を聞かされるよりは
僕向けである。以前、僕が約20年ほど前にインタビューした折には、
川久保サンと“捩じれて生きている”という発言を交わし合ったことを覚えている。
 が、彼女の場合は決して、それが現実の生き方ではない立場と環境からの言葉でしか無い。
元々、若き時代から彼女の実生活のクオリティは“スノッブ”。

 しかし、この様な川久保玲が発する世界がどれだけ通用するのだろうかとも
思ってしまうが、その彼女の強気に僕は魅かれ、より、好奇心駆られ乾杯をしてしまう。
 一方では、この世界が通用する世界が現存することの方に恐怖を感じてしまうし、
また、この世界が本意ある解釈の元に理解されてしまっているのだろうか?との
懐疑的な思いもある。そこに、最近のこのデザイナーが見せる『特意性』からの
『特殊性』とはを感じる。

 既にのべたが、このようなクリエーションアイディアとショー形式に変化し始めたのは
僕流に言えば『特意性』が変化し始めたこの3〜4年来の現実のショーである。
 この変化の要因とは、川久保自身の高齢化もあるであろうし、社員の増加もあるであろう。
何よりもモードにおける環境そのものが変化し、クリエーションの新しさも
変質してしまったという外的要因の現実性からでもあろう。
だが、”継続と繁栄”という実業の世界の義務感も他方では必在するからだ。

◎一つの造形の世界としての”ブリコラージュ”;
 また、結論的な視点から入ろう。今シーズンのコレクションの僕の眼差しは、
このデザイナーの発想になる従来からの『特意性』をより、表層化させた
コレクションピースの”ブリコラージュ”である。
 
 言い替えれば、ここにも、川久保玲流”アーカイブスのバリエーション”と
”アーカイヴスのブリコラージュ”と言う手法が読める。
多分、時代がここ迄来てしまったという迄のこれも新しさの手法なのであろう。
勿論、その時の”自心のアーカイヴス”がオリジナリティあるクオリティが高ければ、
高いほど、今後の利用価値を生む。
 であるから、現在に至る迄のこのブランドのクオリティの高さだけがその立ち居場所と
求める『特意性』に差異を付けられる迄の”ブリコラージュ”手法が可能となり、
『特集性』に耐えられる。

 東北大震災以後のコレクションで見かけるようななった僕流には“アトリエの瓦礫の集積”
以後、”エアー & 詰め物ボンディング”から”フラットクロージング”そして、以前から
時折出て来て彼女が好きなコンセプトの一つ、“エンゲイジングゲイジ”とも言っていい
であろう、”四角い駕篭の鳥”シリーズ。
 結局はこれらのこのデザイナーが提案して来た『特意性』の造形的ブリコラージュが
今回のコレクションに於ける『服で無い、、、』の重要性を委ねた根幹である。

 例えば、彼女の経験からは、先シーズンに発表した”フラットクロージング”は多分、
新しい領域で在ったであろうし、今回もその継続性と発展性が僕には一番美しく、面白く
その後の可能性も読めるまでのものであった。”エアー & 詰め物ボンディング”はご存知の
シリーズ。そして、“エンゲイジングゲイジ”は彼女の「創造の為の発想」の根幹の一つに
位置するものかもしれないと感じたのも今回であった。
若しくはただ、彼女が好きなパターンということも出来る。
 ちなみにこれらの『服で無い、、、』の販売価格を調べると、
一番、価格が高いのがこのシリーズであった。

 ”拘束されてしまっている自分”と“拘束されている他者”との対峙とパラドックスな眼差し。
この“四角い鳥かご”の中にはいつもそのシーズンのメインアイテムが着せられている様だ。
今シーズンは、ジプシー風若しくは、スパニッシュ風フリル付のゆったりとした分量の
ローブである。
 
 ここでは、”丸い鳥かご”ではなく、“四角い鳥かご”もキーワードであろう。
“丸い駕篭”=”コルセット”では、”パンク”ではないのである。

 このデザイナーの「創造の為の発想」は彼女が持ち得た実経験からの発想は現在では、
殆ど無い。寧ろ、「時代の傍観者的なる視点としての距離観」が大きく発想の為の発端として
働く。そこには、現代の若い世代のデザイナーたちとは”遅れ”という差異を感じる。
それは“身体性”ではなく“肉体性”で着るという迄の時代感覚と実生活感が感じられない。
『皮膚感』で着る服ではなく、『装飾性』を着る服でしか無い。

 そこで彼女はファッションビジネスの根幹である”トレンド”という”フレーム/安全パイ”を
大きい外枠としてコレクションを手掛け始めた。
 従って、今回の『服で無い、、、』コレクションも熟視すれば、今シーズンの”トレンド”
要素が程よく旨く含まれ、川久保玲流にこなされたものである。
—BLACK, PINK, チュール、不織布、プリーツ、フリル、フラット、I.J.プリント等々。

 この数シーズン来のこれらの『特意性』の継続の為の創造のエレメントは決して、
着る女性の身体や肉体性には感知していない。寧ろ冷酷に無視されてしまっている。
ここで、川久保の言う『服で無い服』とは着る女性の身体性を無視した服的なる形態をし
それなりの装飾性を幾つも附加させた”オブジェの世界”で在ると言える。

 このCdGのショーの数日前に、僕も『アズジン アライア展』を見せて頂く機会を持った。
従って、このショーを見ている間にどうしても同じファッションのカテゴリーとして、
川久保玲の世界とA.アライアの世界が重なりながら見え隠れしたので、
もう、このCdGのショーの造形美はやはり、単なる空恐ろしい“見得”的なる隙間が却って、
着る女性の為に作り込まれたものとしての感覚を排除された世界でしかなかった。

 そこには創られた造形としての”服”にナイーブさが感じられない。
寧ろ、個人的なる変らぬ”業”が屈折されて感じてくる。
“手”の温もりも感じられない。
―“ああしたい、こうしたい、こうして欲しい。” “ここをもっと、云々、、、、” 
 
 ここでは、“手”の温もりよりも聴こえて来るのは発せられる無数の言葉でしか無い。
悪く言ってしまえば、その多くが既に、貼付けられた装飾性のみが眼につき始めた
今シーズン。

 その中でも僕が興味を持ったのは、”フラットクロージング”による造形美であった。
このシリーズには美が感じられた。河井寛次郎を持ち出す迄でもないが、彼の美意識の一つ、
『醜さもまた、美』も理解出来る。そして、新たな展開による可能性も感じれた。
 後、救われたのは不織布によるインクジェットプリントによる極彩色のシリーズ。
即ち、色が極楽色で詰め物によって、より立体的に、今的な3D発想で構築された美しさと
新しさをも感じさせるものであった。
 
 また、毎回のコレクションで見せるストイックな迄に拘る幾つかの彼女自身が持っている
造形の為の素材の”タブー”も健在であった。
出来るだけ、”原素材”的なる工業素材とその感触を楽しむ迄に。

 従って、出来上がった世界は『服で無い、、、、即ち、オブジェ』の世界。

◎そして、展示会という実業の世界では;
 ショーで見せるのもは『服で無い、、、、即ち、オブジェ』
そして、展示会によって、見事にCdGが売りたい、CdGの売れる『服』を売る。

 この川久保のブランドである”CdG"は既に、前述の“デザイン力学”を熟知した数少ない
優れたデザイナーのブランドである。この“ビジネスとクリエーション”のテイクバランスの
現実はこのブランドの展示会ヘ行く事で多くの事が読め学べる。

 そして、この企業が死守すべき『立ち居場所』とその『継続』のためのビジネス的な
構造によって為されるバックアップ力の集約は“展示会”の根幹であり、培って来た経験と
努力による商品化の巧さとコーディネートアイテムのバランスの良い商品構成は、
変らず、世界のバイヤーたちからの信頼と人気を得ている。
 
 実際にこのような処方の『特意性』のブリコラージュ手法によるショーと
シーズン“トレンド”の幾つかの要素をCdGブランドの世界観ある“テイスト&クオリティ”を
確りと変らず根幹に為された”コムデギャルソンらしさ”を商品化している強みによって、
最近のCdGブランドの実売り上げは伸びていると言う。

 ショーはプレス用。”驚かして価値あること。”
展示会はビジネスバイヤー向け。”世界観を価値として売って価値を生み出すもの。”

 “The Chaos of Idea "は
死守すべき『立ち居場所』とその『継続』のための30年間の創造と販売の経験と
それらを現実化する為の努力によって、初めて全てが可能なるという『根幹』が
全て大切であると言う当たり前の認識を改めて学んだコレクションでもあった。
文責/平川武治:巴里−倫敦−鎌倉にて、

投稿者 : editor | 2013年10月19日 05:04 | comment and transrate this entry (0)

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