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『倫理』観が希薄になってしまったら人間の『品』が損ない始めます-6;
また自然にやってくる”東コレシーズン”そこで観られるのは
『倫理』観が希薄になってしまったら人間の『品』が損ない始めるという
現実としての”ファッションゴッコ”。
『哲学者がモードに熱烈な関心をそそられるのは、
モードがとてつもなく未来を予感させてくれるからである。
確かに、芸術が、例えば絵画の場合がそうであるように、
現実を我々が実際に知覚するよりも何年も前に先とりして捉まえていることは
良く知られている。』/『パサージュ論』[B1a、1]
巴里在住、アズジンアライアのアトリエで7年間のアシスタント、
その結果、10年”VISA”を取得した瀬尾英樹氏の世界が感じ取れる始めての展観が
僕の嫌いな“ROOMs"で行われた。(嫌いな理由はいろいろある。昨年に僕の写真を無断使用し
その後の謝罪のこゝろが不誠実だからである。この企業の根幹はこのようなレベルであろう)
年々、参加者が減ってゆくこの展示会イベント、なのに変わらない高額参加費。
補助金と援助金そして協賛企業からの合計と支出費用を差し引いても誰がどれだけ
儲けているかの解答は歴然である。が、続いている。不思議な世界である。
さて、そんなレベルの事を書きたいのではない。
瀬尾君の事、作品であり、彼の世界観である。
そして、彼のお師匠、A.ALAIAの事である。
◎プロローグとして;
東京におかしな集団がある。
瀬尾君の行動とその自らが選び取った”立ち居場所”と比較出来ない集団である。
イタリアデニムカジュアルブランドDIASELの広告塔であり、彼らに去勢された
『犬の遠吠え集団』バカの学校。或いは、最も日本的なるムラ集団主義構造。
“アート”と“ファッション”の世界の根幹の区別すら吟味されず、
所詮、”集団で長いものに巻かれろ”型人間の小衆。従って、『自由』が何なのであるか解ず、
”ファッションデザイン”がどれだけ人々の生活に直接寄与しているか、
どのような世界であるかも殆ど皆無。未熟なる経験と大いなる思い違いのスキルのみを
振りかざして幼い自分たちの立ち居場所をより特殊なる狭軌な状況の元でマスターベーションを行っているレベルの集団がある。
また、この集団を褒め称える元編集者等否、ファッション長屋の世話焼きおばさんたちの
存在も摩訶不思議な東京という街のファッションゴッコ。
なぜこのような”バカの学校”を引き合いに出したかと言うと、
今回の瀬尾君の“room's"展示へ殆ど彼ら集団は観に来ていないから不思議に想ったのである。
ここにもこの”バカの学校”の集団性がつまらなく古く見えてしまった。
時代遅れに既になってしまったアントワープの後輩たちさえ避けてしまっていた。
人のモノを欲しがるというよりはパクる事が好きなタローが卒展の時に何を瀬尾君から
パクったのか覚えていないのだろうか?もう、忘れているだけ?
ここでも、『忘恩の徒となるな』を言いたい。“布団屋の息子”もそうである。
よって、ファッションデザインの世界が何であるかも熟知していなく、
自分たちの遠吠えのみで決めつけた世界観で持ち得たコンプレックスである
”アートの世界”へただ、下心とい自己満旺盛にメディアや権威にそして
広告代理店に擂り寄って“他人の褌”でしか相撲が取れない、事が興せない、
責任を持たない輩たち。
そこにはアートの世界への価値観も持たず、”覚悟”も無く、自分たちが海外で見せつけられ
植え込まれた外国人コンプレックスとそこで染込んでしまったアートコンプレックスで
大いなる偏狭な”アートの世界”をただ妄想しているだけのセンス旧き島国小心者集団レベル。
◎瀬尾英樹のオークションと『A.ALAIA展』;
巴里の小さなアパートで、奥さんと2人でA.アライアさんのところで厳しく、狂気に、
培ったスキルと技術を基盤に自分世界に”価値”を認める為に自心の自由さを大切な
こゝろの有り様として当然であるが、自費によって作品制作を続ける。
後、3日になってしまったが、現在、瀬尾君の作品がアメリカの美術館から
オークションへ出展されている。ここでどのような結果が出るかによって、
彼の今後が美術市場でどれだけの”価値”を持った、立ち居場所になるかの
スタートラインなのである。https://paddle8.com/work/hideki-seo/21359-metamorphose
このオークションには、Cameron Silver, Anne Deniau, Valerie Steeleなどが参加の
トークセッションイベントなどもあり、オークションには瀬尾君の他、Alexander McQueen, Charlie Le Mindu, Anne Deniauなどの作品も出品されているようです。
今回の”World Chess Hall of Fame”の詳細サイト/
http://www.worldchesshof.org/news-events/event-calendar/event/2013/10/18/queens-gala/
そして、今、巴里で一番の話題はガリエラでの『A.ALAIA展』である。
見事な審美眼と素材美で造形された”トルソー”の世界。
ここには“ナイーヴ”さが感じ取られパッションが存在する。
昔、多くを書いたのでいろいろは省略するが、
今回の展覧会で感じ、考えた事は『素材美と造形美の極限までの調和感』が着たくなる服へ
仕立てられ、着る女性のボディコンシャスな美しさへの挑戦でしか無い。
先ず、彼A.アライアは皮革素材を主素材とした時代から本格的なクチュリエとして始めた。伸びが少なく正目逆目の織り目もない素材、皮をどのように着る女性をボディコンシャスに
着たくなる服に仕立て上げるか?その為に学び、自らが創作したトワレ術。
その根幹には彼が学んだ”彫刻”の世界が裏付けされている。
次には、ここで身に付けた彼のトワレ術を即ち、トワレメイキングを
今度は伸縮性のある素材で挑戦を始める。
この時に新たに彼が知ったテクニックの発想は“張引力”のバランスである。
素材自体が持っている”張引力”と着る女性の皮膚即ち、皮の”張引力”との攻め合いとなじみ合というバランスと勘の調和が生み出すフォルム美である。
そして、以後は彼が選び使う素材そのものが装飾性を”ボディーコンシャス”に
附加するだけの世界である。
すばらしい『素材美と造形美の極限までの調和感』が作品そのものであり、
着る女性たちを当然であるがより、いい女に見せる服となる。
http://parismusees.paris.fr/en/exhibition/alaia
このA.アライア展の正面に展示されているトルソーを観ると僕はいつも大和松尾寺の
”千手観音像トルソー”(秘仏/奈良時代8世紀)を思い出す。このトルソーと出逢ったのは
2011年春、白洲正子生誕100年特別展が世田谷美術館で行われた際であった。
「白洲正子 神と仏、自然への祈り」展
また、ケ−ブランディ美術館でアフリカの木彫にもこれに類似のトルソーを幾体か
観た事も思い出す。
http://www.matsuodera.com/special.html
もうひとつ、 琵琶湖守山市の蜊江神社の天部形立像(吉祥天)もこの類と感じ、
今僕は“トルソー”と”ボディコンシャス”が気になり始めている。
http://www2.city.moriyama.lg.jp/koho/040615/body2.html
そして、このアライア展の影響が今後の巴里モードへどのような流れを生み出すか?
僕は愉しい思いを馳せる。
それは、また再び、”ボディコンシャス”が崩れてしまった”パンクボディ”から復活する
であろうと。その時、新たな”ボディコンシャス”に選ばれる素材とは?
もう一つ、今現在の若手デザイナーの誰が”ボディーコンシャス”を
一番旨く造形出来るか?気になり始めた。が、誰もいないだろう。
ここにもアントワープの悪影響が読めるし、その殆どが”ファッションディレクター”に
成り下がってしまった広告の世界が現在のファッションの世界の現実であろう。
◎自由の価値を知らない『センス旧き島国小心者集団』とは;
僕が彼らをこのようにコキ下ろす原因の一つに、
”彼らたちの作る世界はその作り手本人がその作品に自ら”価値”を認めていない。”と
感じてしまう迄のレベルでしか無いからである。
自由の裁量で創られる作品にはその作り手の”価値”があるから作品になり得るのである。ファッションの世界にも、アートの世界にもどちらの世界にも“ただ、中途半端”だけ。
その程度のレベル世界を『犬の遠吠え集団』で自己満足し合っている又は、
同じ傷を舐め合っているだけでしかない作品だからだ。
そして、折角の知性やスキルのその殆どが社会に直接コミットされていないし、
産業にも寄与されていない。教えるという立ち居場所を持ったなら、ヒエラルキーを
特権として“自己自慢と、自己宣伝と苦労話”だけは辞めるべきであろう。
従って、僕のような経験主義者から見ると、『最も日本的なるムラ集団主義構造』
或いは、『センス旧き島国小心者集団レベル』としか言えないのだ。
本当のお芸術家になりたければ意気がりと思いつきと下心で只、作品作りに精を出さず、
自心の人間性を暴露させ先ず、人間として人間に対して律儀に謙虚であり感謝という
こゝろと共に堂々とした生き方を為すべきが始まりである。
ここに彼らたちの『倫理観』がどのレベルで持っているのかが問われる。
そして、藝術の世界の人たちに失礼のないような立ち居場所と行為と発言と
ディシュプリンがなされるべきであろう。ただ、お芸術の世界も現在では“セコンダリー
マーケット”が構築化されそこではしゃぎ廻って、アートスーベニーアのレベルを作品と
勘違いしている輩たちが殆どの自己満アート消費社会の住民が多い。
ファッションの世界からそんなアートの世界を覗き見し、それっぽいものを他人に
作らせて芸術作品だと自己満足の世界で戯けているレベルの集団ではその最終目的駅へ
達するのは“銀河鉄道”以上、可能性が薄い。
折角もち得たそれなりの”夢”と才能も只のそれなりの世界のものでしかない現実。
”勿体ない!限り? 全てに慌て過ぎてその立ち居場所を見間違ったライオンと案山子たち。”
◎エピローグ;
そう、そろそろ発展的希望を抱いてこのカッコ悪い、宗教団体レベルの”バカの学校”も
解散すべきでしょう。嘗て、ヤマガタ初め、この首謀者たち7人ほどが僕の鎌倉へ押し寄せ、
”泣き”を言いに来たあの惨めなる集団性を忘れてしまってのご活躍。
ここにも彼ら流の『倫理観』しか存在しない。
前述のような事を理解出来るこゝろの有り様と知性があれば、こゝろして独り本来、
自分が求めるべき自由な茨の道を持ち得た旧型300%の夢へ、独り旅立たなければ
余りにもただ、カッコ悪さを垂れ流すだけ。お世話になった安達先生や、エスペランサ学校
等に礼節を正して、ただ働きさせた生徒たちに感謝を胸に独立独歩を執るべきだろう。
”無理”をしている人は早死していますよ。
そして、『忘恩の徒となるな』/聖書コリント人への手紙。
◎お勉強の為に;
今読んだ本から一つ、”バカの学校”の生徒諸君は理解出来るかな??学歴をファッションの世界で振り回している輩たちであるから大丈夫であろう。
『生物を模倣するのは経済発展の一形態なのだと思う。生物模倣に関心を持つには、
経済発展に関心を持つ事、力強い経済発展が続くよう望む事が必要だ。
でなければ、より良質な製品、安全な製法を求めるはずがない。
そうでなければ製品や製法を手に入れる事もないはずだ。発展について考えていて、
経済と生態系がとても良く似ている事に気づいた。
つまり、経済と生態系の二つに作用する原則は同じなのだ。』
「経済の本質 自然から学ぶ」/J.Jacobs著:日経ビジネス人文庫より。
『死滅するものは何も無い。全てはかたちを変えるだけだ。』
バルザック/『思想、主題、断片』1910年
文責/平川武治:倫敦市にて。
投稿者 : editor | 2013年10月15日 08:40 | comment and transrate this entry (0)