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ひらかわ流、最近のコムデギャルソンのコレクションの見方、感じ方、読み方。/’14年S/Sコレクション版

 ひらかわ流、最近のコムデギャルソンのコレクションの見方、感じ方、読み方。
’14年S/Sコレクション版。

◎はじめに、;
  ショー終了後、会場から聴こえて来たざわめきの中からの会話にならない言葉たち、
”It was a really something!"
"What's a amazing,stunning & terrific!!"
"It was a little heavy but,she has a courageous,always."
"She never changed her ways of directions that was great!"
",,,,,,,,,,,,,,,,,,,,"
 その厳選され、厳密に考えられて座らされた大半の人たちは無口でその会場から出来るだけ早くという感じが今回のショー後の雰囲気だった。

 僕は今シーズンのショーを重く感じた。
空恐ろしいものが出てくれば、出て来るほどにノイズが響き始め、重く暗くある種の
恐ろしさまでを感じた。原因は幾つか、単純だがただ黒が多く出たこと。作品の造形要素が
’12年来ここ3シーズン程のブリコラージュであった為に、よく見ると 個々の作品に
それなりの新鮮味が無かったし、ショーに流れを付けずに断続化させ見せる形式を
取ったこと。そして、会場が計算された演出によって暗闇的であったこと。
"ARE YOU A ARTIST?"
"DO YOU WANT TO BECOME THE ARTIST?"
"JUST,IT'S A OUT OF CATEGORY OF THE FASHIONS CLOTHING,
SHE WANT TO MAKE THAT, ALWAYS." 
"I HAD NEVER SEEN ON THE CATWALK."

◎思い出した幾つか;
 そして、毎回であるがショーを見ている間に思い出したこと幾つかが。
向こう側のフロントローに座っているコレットのサーラやバイヤーたちに混じって、
いつもの様にA.アライアさんが、その隣にカルアさんがいらっしゃった。
そして、 僕は彼らの顔の表情の変化を見た。
もう一方で、先日オープニングレセプションをなさった“A.アライア展”の彼の作品群が
僕の脳裏に現れ始めた。
 そして、また一つ確か、’69年のW.クライン作の映画”ポリーマグー、お前は誰だ”の
1シーンをも思い出し始めた。この映画はその後、幾度もこの街のモードの世界で
インスパイアーされて来た。そのシーンとは、切り開かれた石切り場なのであろうか?
その凹みにファッション編集者たちが座らされて観る、パコ-ラバンヌの作品を思い出させる
アルミミュームを使った所謂“前衛服”群、モードでないモード。今でもそれらが
ランウエーに出てくれば新鮮さと驚きが在るであろう、マヌカンが素肌に着込む金属服。
それらの登場と共に唖然とした顔の観衆たち。即ち、ファッションジャーナリストたちの
表情。驚きと解んないものを見る恐怖さと憤りそして、感嘆。そこで、“凄い!!”という
形容詞しか出てこない直後感。
 約30数年を経て現実として、今再びこのような”モードでないモード”、川久保流に言えば、“服でない服”の登場が時代の必要性になったのであろうか?と思いを馳せた。
 もう一つは、僕が'90年代後半の10年間ほどをヨーロッパ各地のファッション有名大学の
卒業コレクションの審査員をさせて頂いた経験が思い出された。
その”立ち居場所”を変えてみると、まるで“School Show"である。
ファッション学生たちがこのショーをやったと考えるとその全て見方は変質する。
彼らたちはこれからのモードの世界へのある種の可能性を求めて自分の創造性を限りなく
ナイーブに求めて作品化する。川久保玲のコレクションにはこの熱き、青き可能性を秘めて
いるのだろうか?残念ながら”否”であろう。この答えはその後に開かれた展示会へ伺うと
理解出来る。ただ、”服でないものを作りたい。”と言うある種のプロフェッショナルな立場の ”業”からの行為でしか見えない。
 ファッション学生たちはこのショーを見て僕たちもと、勇気を貰った事であろうか? 
ここでも、”否”、今の彼らたちはもっと醒めてしまっている。このデザイナーの”立ち居所”を読んでしまっている。モードの現在点も知ってしまっている。

◎なぜ、今、川久保玲のブランド”コムデギャルソン”は
この様なショーをやらなければならないのか?;

 ’80年代も終わりの頃に、既に彼女の口から直接に聞かされた、
「パリコレは勿論、商売のためよ。だからリスクを張って、必至でやるのよ。」という
彼女の”オーナーデザイナー”のこゝろの有り様はこの30数年来、不変であること。
 僕が知ってしまっているデザイナー”川久保玲の凄さと偉さ”の根幹とは、
『自分の立ち居場所の確立とその継続』そして、その為の『距離間』である。
 即ち、巴里のモード界から”どの様に見られたいか?”から”見せたいか?”へ昇華し、
その持続の為の自分たちに必要な”距離間”である。
これが以後、この巴里での60回ほどのコレクションに掛けた想像力と情熱と努力と
そして、資金でしか無い。
 ”巴里のモード界からどの様に見られたいか?見せたいか?”これは多分、
川久保と山本がこの街へ“夢の共有”の為やって来た当時の”真の目的”でもあっただろう。
そして、社員たちは彼女の望む『立ち居場所』を共有出来る事にそれぞれの人生を
掛けたのである。ここには正真正銘の”実業の世界”が存在する。
その為、自心の業から発して、今では社員のためイコール会社の利益の為の持続行為、
実に立派なセオリーでありその実践である。この“持続継続可能”なる根幹を見失う事無く
このように『自分の立ち居場所の確立とその継続』を自分流の『距離間』を保ちながら
日本人として実行継続してゆく事のどれだけ至難な現実へ、いつも晒されながら
ここまでやって来た現在では、決断力ある唯一の潔いファッションデザイナーである。 
 異邦人デザイナーとして誰でもが持つ憧れの巴里へ山本耀司と二人三脚でやって来て
ショーを継続しながらこの巴里のモードの世界の構造を本格的には、耀司と別れて結婚後、
学び始め、自分のそこでの”立ち居場所”がなければそのブランドの価値が築けないということが解ったことが現在の川久保玲とその後のブランド”コムデギャルソン”の継続、持続可能の
根幹である。
 ではその『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその為の『距離間』とは?
そこにこのデザイナーが毎コレクション後、夫の通訳によって発する『アヴァンギャルド』『反抗心』『PUNK』『見た事もない』『塊に流されたくない』そして、『服でない服』など
という言葉がキーワードとなって常に発言されている。即ち、巴里のモードの世界における『特意性』であり、『意外性』とそのバリエーションとしての『特殊性』のモード化である。これらがこのデザイナーの常套言語となっているのだ。
 それなりにパリコレに興味のある輩たちの頭のいい人たちは巴里のモードの世界の根幹が”オートクチュール”であり、その最終目的は女性たちをどのように”エレガント”な
その時代の淑女たちに仕立て上げるかである事はお解りであろう。
ここには時代性と社会性に委ねられた一つの”規範”が存在する。
このフレームに見合った創造性が求められ継続しているのがこの巴里のモードの世界の
根幹であリ、この街が今なお、現在まで”モードのキャピタル”であり得る
由縁の”流れ”である。
 ’82年、ブランド”コムデギャルソン”がこの街でショーをした時のメディアリアクションは
凄まじいものであった。この凄まじさを現在まで”持続継続”する事で
『自分の立ち居場所の確立とその継続』の為の解答である事を、このもう一方で頭の回転の
良いデザイナーは気付き、彼女の”潔さ”が”覚悟と決心”を為せ、
現在に至っているのであろう。ここで嘗ての同胞との差がで来てしまったのも当然であろう。
 川久保が死守している『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』は以後、
年を重ね、シーズンを重ねる毎に新たな価値を生む。その価値は関係性から生まれる他者の
眼がその価値をより、増幅させる装置になる。この事を感知した川久保は以後、
自分のオーナーデザイナーとしての役割イコール、『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』の為に『特意性』を彼女自身のその創造性の根幹に精進し続ける。
そして、その『特意性』がマジックを生み出す創造性であり、『自分の立ち居場所の確立と
その継続』とその『距離間』そのものが”マジック-ポジション”となる事をも既に
熟知してしまっている事が日本人初のパリ-ファッション-メゾンであり世界のブランドに
成熟成長した根幹である。

 しかし、ここにも当然であるが”ビジネス”という世界のマジック即ち、”二枚舌構造”が
隠されていなければ成立し得ない。その『特意性』でファッション企業としての実績を
生み出せるのか?実商売として継続可能であるか?という問いである。
即ち、デザイナーに課せられた仕事のもう一つに、『売る為の努力』とともに、僕が良く
発言している、『粗利の取れるデザイン』や『儲けらるデザインアイディア』の創成という
”デザイン力学”が必需となる実業の世界への挑戦によって初めてこのマジックが功を奏する。
 当然であるが、もう一方ではこの企業はそれが、結果的に”日本的なるブランド構成”が
ビジネスの継続及び、拡大化の後ろ盾となる構造をも既に、巴里へ上陸する前に構築し、
それらのブランド“トリコ”を代表としたバックアップブランドからの売り上げと、
直営店ならびにFCシステムによる高粗利がオーナーデザイナーの”業”と『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』の維持と継続に大いに寄与した事は言うまでもない。

 もう一つ、この企業ならではのビジネス面における”特意性”がある。
それも、結果そのようになって行ったと言えるのであるが、やはり、結婚後のこの企業の
ビジネス戦略が大いに他の日本企業との差異を生んだ。
 世界レベルで”ファッションビジネスはユダヤビジネス”という現実を学びそのスキルから
今度はユダヤ人パートナーとの“二人三脚”が全く、高品位な日本発のファッション企業家へと驀進、邁進している。例えば、此れ程の高成功例は日本企業でも皆無であった
“パルファン事業”がある。同じ時期の嘗ての同胞、山本耀司もJ.パトゥ社との間で香水を
手掛けたが、これは見事に失敗し、撤退を1年も見たない間になされた。
(イッセイの香水ビジネスはこの企業のお得意である”ライセンスビジネスの一環であり、
香水の製造発売は資生堂であり、単純に言ってしまえば、只の”名前貸し”ビジネスである。) このコムデギャルソンのパルファンビジネスはコムデギャルソンフランス社の仕掛けと
その後の小規模なビジネスコントロールであるが、やはりここにも
”ユダヤ人シンジケート”との直接的な関係性がなければ成立しない分野でもある。
このパルファンビジネスの成功例と共に、この企業はより、ユダヤ人世界のファッション
ビジネスの佳境と中心部への接近という現実を生む。
従って、ブランド”コムデギャルソン”のコレクションに於ける、『自分の立ち居場所の確立とその継続』とその『距離間』は出来るだけ、巴里モードの中心軸から離れ、
そのビジネス構造は最早”ユダヤ人企業”化した立ち居場所でこの企業が執っている
”クリエーションとビジネス”のバランス化が絶妙な”二層構造”の元で成立された
他に類を見ない世界企業になっている。
 ブランド”コムデギャルソン”の『立ち居場所』とその『距離』は巴里のモードゲットーの
極限に位置している。この場が”マジック-ポジション”そのものであり、
これを持続継続する為の戦略と方法がこの様なショーをやらなければならない必然性である。

◎一つの造形の世界としてみた時には、;
 このようなクリエーションアイディアとショー形式に変化し始めたのは僕流に言えば
『特意性』が変化し始めたこの3年来の現実のショーである。
 この変化の要因とは、川久保自身の高齢化もあるであろうし、社員の増加もあるであろう。何よりもモードにおける環境そのものが変化し、クリエーションの新しさが変質してしまったという外的要因の現実性からであろう。
 この川久保のブランドである”CDG"は既に、前述の“デザイン力学”を熟知した数少ない
優れたデザイナーのブランドである。この“ビジネスとクリエーション”のテイクバランスの
現実はこのブランドの展示会ヘ行く事で多くの事が読める。今回のショーでは余計である。  ショーとしてのため計算され、構成されたショーでしか無かったからである。
ランウェーに勾配を付け、照明を落とし、天上にフローティングライトを取り付け、
それがゆっくりと揺れ動く下をマヌカンがゆっくりと歩く。黒い服を更に暗い空間、
ブラックボックスへ変質させる為の陰影を付ける。(つづく)
相安相忘:
文責/平川武治:倫敦市にて、

 次回は、
 ◎一つの造形の世界としてみた時には、;
 ◎結果としての展示会は、;
その結果、
『服で無い服』という発言の読み方までを。
お愉しみに!!

投稿者 : editor | 2013年10月13日 19:21 | comment and transrate this entry (0)

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