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桑沢合同ゼミ-19MAY’15で話したこと−1。

テーマ:「閉塞感」と「自由」、「安心、安全と快適」と「傷み」というアバンギャルド。
 このような時代、これからの新たな時代のために、もう一度、”服やモノをデザインすること”とはを考えてみませんか?---

 『(大半の?)結婚と同じく、安全と自由はお互いがいないと存在できないが、
その共存は容易でない。自由のない安全は束縛に繋がり、安全のない自由は慢性的な不確実性に繋がり、神経衰弱に陥る恐れがある。万が一、パートナー(あるいは、もう一人の自分)と
帳尻を合わせたり、関係の修復を図ったり、なだめたりする試みがいずれも不調に終われば、
安全も自由も、熱烈に求められる価値から眠れない夜の悪夢へと変わる。安全と自由はお互いに独立していると同時に排除し合っている。それらはお互いに目盛りの異なる秤を持って引き合い反発しあっており、これらの矛盾する感情の相対的な割合は、その頻繁に起こる(日課とみなされくらい頻繁に起こる)「中庸」からの逸脱と足並みそろえて変化するため、それらの間で幾度も妥協が図られる。(なが続きしないことが多いが、)ー中略ー安全と自由の共生は、
常に激しくて緊張をはらんだものとなる。その本来的で解決しがたいアンビヴァレンスこそ、
無尽蔵な創造のエネルギーと強迫的な変化の源泉である。』
参考文献/「リキッド化する世界の文化論」
(ジグムンド バウマン著/青土社刊)

1)はじめに、ー「閉塞感」ー「安心、安全そして、快適」ー「マニュアル」
 よく、”今の時代は「閉塞感」を強く感じる。”と言われる時代のようですがそれは、
なぜなんでしょうか?こんなに、モノも食べ物もそれに、情報もなんでもある時代なのに、
なぜ、「閉塞感」が忍び込むのでしょうか?
時代が悪い、社会が悪い、政治が悪い、企業家たちが悪い、いろいろな原因はあるでしょうが、その本当の原因はどこに? 
 この現代社会の一つの普遍性とでも言える「閉塞感」は人間本来の、人間しか持っていない「自由」という権利を脅かし、それは知らぬ間に「飼いならされてしまった集団」化へ追い
込まれ当然ですが、「創造」する世界へも大きな障害を与え始めています。
 僕はその大きな要因の一つに、ヴァーチャル社会が進化しより、複雑に高度に広がり始める
ことで、「あるべき筈である”距離の消滅”の完了」が社会化されてしまっていること。即ち、
ヴァーチュアルなリアリティが現実社会になり始めたこと。これは”ケイタイ”と”PC”を現実社会に進化させた”サテライト産業”が根幹でしょう。当然ですが、もう一つには、「人間性」の根幹があるでしょう。言い換えれば、ヒューマンマインドとヴァーチュアルマインドの差異とそれぞれのテクノロジーのその強制的なる調和が”ノイズ”を生み出した結果の精神不安と社会現象の一つ
でしょう。モノにも人にも社会にも国にもすべて、”あるべき距離”があります。この距離を”自由に楽しめる”ようになることが次なる時代の人間に課された”豊かさ”、あるいは”プライド”ではないのでしょうか?そして、”価値観”なのでしょう。
 むしろ、短縮したり、ショートカットすることだけでは既に、終わっている”20世紀の価値観”でしょう。

 僕は田舎に住んでいます。時折、利用する電車での光景、プラットホームへ入ってきた電車に
急いで我先へと乗り込む人たちとは、どのような世代の人が多いのか? 観察してみると、
オヤジ世代もいるのですが案外、若い世代が多いのです。彼らたちは自然に目は”空席”を探し、
身体はもう座ることへ動き始めています。たとえ、周りにご婦人やご老人たちがいても、周りの
ことにはほとんど神経を使わなくこゝろ配らずただ、自分が座ることのために行為する。
そして、座ってしまうと決まったようにケイタイを取り出して安心し、次なる行為を行う。
これがほとんどの停車駅で乗ってくる人たちの、今では当然になってしまった、当たり前の行為と仕草の風景です。 
 ここで、僕の現代社会の読み方は、彼らたちは車内でも自分が安心できる場所の確保がもう、自然な行為として為されている。まず、安心と安全を確保する。そして、ケイタイで”繋がり”を
探す。あるいは、ゲームをする。”安心と安全そして、快適”なる時間を少しの時間の合間でも確保したいという願望がなせる行為が日常化されてしまっているのが現実社会。
 これも日本の戦後70年が持ち得た”豊かさ”という現実の一断面でしょう。多分、その「安心、安全そして、快適」ために、築かれた”社会システム”即ち、「マニュアル」をお利口さに読み込み行為することが長けてあたりまえになってしまった世代と、現代の日本社会の構造はこの
「安心、安全そして、快適」のために、築かれた”社会システム”すなわち、各々のそのための
「マニュアル」が非常に高度なシステムと構造で消費社会に組み込まれた構造のマニュアル社会になってしまった、世界に類を見ない「安心、安全そして、快適」な国なのです。
 しかし、この裏は「戦後の国民を巧く、おとなしく平均的に集団的に飼い慣らす」という戦後のアメリカにより、政府が与えた”シビリアンコントロール”のための社会システムのとても優秀な
実践結果の現実でもあります。
 多分、皆さんのほとんどはこの”社会システム”を自分自身の教養で”点検”しないで与えられた
システムを疑いもせず社会に巧く、順応してしまっている世代でしょう。だから殆ど、自然に
本能的にこのシステムを使って「安心、安全そして、快適」に社会で生きている。このシステムに順応することがもしかしたら「自由」な行為であると考えているのかもしれません。
 このように立派におとなしく飼いならされた日本国民を最近やっと、一部のメディアは「B層」と呼び、まだ、ほんの一部ですが、この集団を危惧し始めました。
 僕は「大衆とは思想なき群集」であると言い切っていますが、多分、今の自民党へ投票する人たちは世代関係なく、この「B層」の人たちが大半なのでしょう。 
 例えば、みなさんが、3日間”ケイタイなし生活”をある種の自分探しのゲームとしてやってみるとわかるでしょう。”ケイタイなし生活”で遭遇することとは、”不安””不信””不便”が殆どで、
そして、それぞれを行為するためには”時間”が必要であることも体感し、理解できるでしょう。
特に、体験した「不便そして、遅い。」はこれからの時代の生活には大切なるもう一つのキーワードでもあります。そして、”不安””不信”は勘と覚悟と勇気とコミュニュケーションによって
その殆どは修復されてしまうものです。あとはどれだけのこゝろある教養を持ち得ているか?
でしょう。
 このゲームによって、もしかしたら皆さん世代が「安心、安全そして、快適」を”モノの豊かさ”の次に求め始めたことによって、失われ始めている大事なことがあることに気が付くかもしれません。それが改めて、「自由」です。
 「自由」とは最も人間的なる、創造の根幹です。自由なこゝろの有り様が在って初めて、自分らしい創造が可能であるという根幹です。そして、「閉塞感」を打ち破ることができるのもこの
「自由」です。またこの自由の「軽さ」や「行き過ぎ」が閉塞感を生み出す要因でもあります。
 今の日本は「保守の進展」という時代性。グローバリズムを機に大衆消費社会を軸にして進化しているのが、ここ15年来の現実で、「保守化」=「中庸」でしかありません。自分たちだけの「安心、安全そして、快適」のためにマニュアル化人間になって終えば、当然このリスクとしての「閉塞感」は感じてしまう。従って、今みなさんが感じている「閉塞感」の原因と根幹は個人にも存在しているということです。個人が、より、オープンスタンスで堂々と生きてゆけば、
社会も国にも現在のような「閉塞感」はかなり、少なくなるでしょう。
 ヴァーチャルコミュニケーションも必要でしょうが、やはり、リアルコミュニケーションが
人間の「五感」へコミュニケートする最短、最良の方法でしょう。ですから、「窓は開けておくほうがいい。」ですね。そして、”「デザイン」の根幹は「コミュニケーション」”ですから
「閉塞感」を持ってしまった、日常ではデザインの豊かさへも関わってくる問題ですね。
文責/平川武治;

投稿者 : editor | 2015年6月 4日 16:01 | comment and transrate this entry (0)

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