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少し、気になる「芸術とデザイン」の関係性を考えてみよう。

「芸術とデザイン」の関係性を考えてみよう。(1)
 昨今、「ファッションとアート」の際もラップされ始めてきた。
その”際”がより、不明瞭になり始めるまでの「物質的豊かさ」というリアリティが齎した新しい価値観の一旦だろうか?或いは大いなる自己満足の一旦のみ?
 その証拠に、日本で発信されるこの作品群はその殆どが、「手工芸の世界」でしかない。
”どれだけ、手間暇をかけました。でも、自分自身ではやって居ません”レベルの代物がほとんど。

1)まず、日本のファッションデザインの現状について、
 実際、ここ10年間ほどの日本のファッションアパレル産業はそのビジネスの展開においも、
実績に於いても然程の成果を見せていない。当然であるが、この直接的原因は”ファストファッション”の登場である。即ち、”低価格”と”トレンド性”そして、”資金力”と”生産インフラ”などが
主なる敗因であろう。極論すれば、海外から押し寄せた”黒船” =”ファウストファッション”と
日本発の”ファストファッション”のそれらによってグローヴァルな販路においても負けている。
 従来までの日本のアパレルファッションの販路はその殆どが彼らたちの育ちと同じように
”百貨店”であった。その”百貨店”ビジネス本来が生活の豊かさという社会の変化に気付きその
ビジネス戦略を変革してからは余計にアパレルファッションのビジネスは苦境に陥った。
 しかし、巴里においても、アメリカやまた中国においても、ファッションを確かな一つの国を興すための産業と考えられた國策のもとで新たなブランドファッションビジネスが表層化されている。その結果、このデザイナーファッションビジネスの高トレンド化とそれをより魅力に商品化する工業力と広告宣伝のイメージ力を伴ってここ数年来、彼らたちは”百貨店”ビジネスで確立させたイメージング&ビジネスを”路面店ビジネス”へシフトをし始め、確実にこのゾーンでのビジネスをも伸ばしている。
 一方、”ラグジュアリーファッションビジネス”はその取扱品目を増やす方向でビジネスを広げてきたがその広げ方が今後、課題になってきたのが現在である。即ち、毎シーズン、新しいトレンド性を重視したメディア-ウケを狙った商品群をこれでもか、これでもかとデザインしてゆくには
”リスクとコスト”が掛かり過ぎることに懸念し始め、疲れて来た。そこで従来からのブランド定番商品をどのように周辺商品、コスメやバッグやジュエリーアクセサリィーとシューズ等に
よってその新しさを広告によって編集拡大してラグジュアリーのイメージを保ってゆくか?へ
シフトし始めた。ラグジュアリーブランドのトレンドモノを購入するのはアジアンマーケット、それもやはり、日本しかない。という現実を’90年代で学んだ彼らたちはそのビジネス戦略を
再び、日本へ向け直し始めた。そして、この日本が”観光立国化”戦略を新たな経済戦略の大きな柱としたこととリンクして最近の街の風景がラグジュアリーブッティクと共に変わり始める。
 では、日本のインデペンデントなデザイナーブランドビジネスはどのように進化しているのかあるいは退化してきたのか?結果は”変わらぬ自己満足の現状維持”化でしかない。
 日本のファッション産業のインフラを熟知し、それらと良い関係性を直接持って自分たちの
世界観でデザインしているブランドはそれなりに延びているし、少しは右肩登りで継続している。しかし、自分たちの倫理観と狭軌な”夢”の範疇で自己満足してしまっているデザイナーブランドは現状維持が精一杯であり、当然であるが今後が大変になって来た。
このレベルでの彼らたちは自分の世界観を好きなファッションの世界で、どのように表現すれば誰が買ってくれるのか?ここが見えないか、見ないでモノ造りをやっているのか、それに自己中心な人間性が加わっての現実でしかない。
 ほとんどのファッションメディアはスポンサーとの関係性で成り立っている世界である。
売れて来たブランドが何処なのか、どんな理由で売れ始めたのか?そんなことには無関係に近い。広告主ブランドとの協労によってあるいは、売れる為の情報をそれらしく仕込んでメディア化し売り上げを作り、広告費を確りと取る。この構造が現代ファッションの”広告産業ビジネスの由来である。そしてこれに、ファッションの世界で重要なウリである”トレンド”をどのように
”味付け”をしてゆくか?ここに、現代では”読者モデル=隣のトレンド=リアリティ”というアイコンを生み出し、そのシーズンの”売りたいアイテム”をメディア化”しているのが彼女たちファッション誌編集の生業である。そこへ訪れた、”パリコレ”情報を耳年増的に囁く。
 多分、日本にも人間的に確りと地に足を着け、自分の好きな世界でリスクとコストを掛けて踠いている若いデザイナーたちもそれなりに居るのだろうが、極小である。表層のメディアとその周辺の喧騒に侵されている彼らデザイナー、勘違いさせられてしまっているデザイナーたちが
目立つ。僕的には身勝手な自己満足のレベルを一つの”夢”としている輩たちがメディアにゴマを擦り、モテ騒がれてしまって、ちゃんと自分の世界観で時代を表現し、好きな服にこゝろの有り様を入れ込み気宇し、社会にどのようにコミットさせなければならないかを真撃に考えているデザイナーが少ない。
 この原因の一端は彼らが学んだデザイン教育にある。”デザインとは何か?”という根幹が理解されづ、解らず、教え込まれずに来てしまったこと。”モノ作りとデザイン”の関係性の意義と目的とその根幹が世界レベルで認識されず、ここにも戦後の日本の欠陥教育である”表層”の情報と模倣を教える、根拠なき世界を構築してしまった諸環境が原因。

 嘗て、経済恐慌とともに芸術を弄んでしまったヨオロッパ。
 その芸術から智と感覚を得たデザインによってその国を富める国に成し遂げたのが30年代からのアメリカでありここから近代ヨオロッパの没落が始まった。この現実には”アールデコと流線型”の違いがあり、これが”近代デザイン”の源流である。(デザインそのものの発端はイギリスにおける第1次産業革命からで、当時の機械生産化によってもたらされた量産と低コスト素材の誕生がその機であった。)
 今、またそれぞれの国家の経済現実は非常に貧困と弱体化し始めた時代が現在の国際社会の
一面でもあり、それぞれの国はデザインの自由な豊かさとその力によって自国の工業力と経済力を復興させる時代でもあり、発展途上国の工業化も加わり”インダストリアルとデザイン”の
新たなる現実が現代社会の先端である。
 先に述べたように、巴里もサンチェ系アパレルがそのほとんどのパワーを持ち始め、
ラグジュアリー系も彼ら達の歴史とルールを周到して確実に、富を築こうと”インダストリアルとデザイン”の関係性を広告産業化し始めたのも現実です。また、この国のインデペンデントな若手デザイナーたちを優先した国策的なショールーム(designers apartment)をサンディカが協力してここ数年来、催していることもこの国のファッションデザイン産業への新たな決心であろう。
ここへ招待してもらえるデザイナーたちはフランス素材使用とフランス生産が必修条件になっている正に、インデペンデントなフランス人デザイナーたちである。
 
 何れにせよ、日本のデザイン教育においては”デザインとは”、”近代デザイン”とはのデザイン理論の基礎根幹を蔑ろにしその教育の殆どを”表層”を模倣して形つくることに始終して来た。(いわゆる、専門学校教育のレベルである。)そして、”デザインとアート”の差異の根幹も理解せずに無知ゆえ、無闇にアートをもて囃しているファッション業界誌メディアとその媚びた周辺がこの日本のファッションデザイン産業を余計に中途半端な倫理観なき国家に増長させ、
”デザインと産業”によって新たな国力を生むまでには至らず、そのパワーは低下してしまったのがこの10数年のファッション産業であろう。政府が援助する”税金”がしっかりと産業にまで還元されず、先ほども言った、狭軌な小さな個人の”夢”と”倫理観なき自己満足”の変わらずの低レベルの継続化に使われているだけである。(最近の”戦後のツケ、デザイン編”はその殆どの根幹がここに所在していますね。)
 もう既に、「時代の豊かさ」はリアリティを持ちました。インスタ等の「リアジュウ」、そのリアリティからどのように社会とコミットし、産業化し、富と力を産む出せるのが”デザイン”という新たなパワーです。 そして、ファッション産業特有の「過去を消費してゆく」事をいかに、意匠化して行くかを考える時代性でもある。ここでのインデペンデントなファッションデザイナーたちの課題とは、”クオリティ、価格、生産構造、物流、ディストリビュート、イメージング、ターゲットなど等”は全て、”関係性とその勤勉なる開発努力”が根幹であるということの再認識化とそのための謙虚な努力であろう。
 持ち得たコンプレックスから、『無闇にデザイナー振ることに煩わされ、やっていないこともやったように、知らないことも知ったように学んでいないことも学んだようにイメージング』
する構造と立ち居場所はもう、”20世紀のトイレットペーパー”でしかない。
 彼らたちのブランドにおいての現代における”ブランド・インベンティブ(独創性)”とは?
従来のように、”いいモノ、クオリティの高いモノ”を作りことも大切だが、ここにはまってしまうと通例な、それなりのブランドで終わってしまう。”リアジュウ”な現代ではそれなりのカッコ良さやクオリティが良い事は普通なのである。従って、日本が持ちえた高度な”ファッションインフラ”/生地・素材と生産工場、メディア等をどのような関係性によって自分たちのブランドとその
世界観の中に落とし込んだ”モノつくり”が挑戦でき、可能に出来るかが課題でしかない。
 そして、ブランドの考え方やイメージングや美意識や音楽感覚や時代感にブランド・インベンティブが特化しているブランドとしての”インデペンデント”を考えることが今という時代のリアリティであろう。
 そして、今年で言えば、やはり、「ニュース」が新しさを提供しましたね。
国家の政策が変われば、それなりの新たな法律が生まれその法律が新たなる生活習慣を生む。
そうすれば、新しさが生活に自然に必需される。このような視点でデザインするとは?が、
インデペンデントな若いデザイナー諸君が持つべき創造の眼差しであろう。ここでは”外国人コンプレックス”だけでの発想では今後の日本のリアリティに生き残れないであろう。
 ”集団自衛権、東京オリンピック、カジノ、女性の社会化、移民受け入れ、軍需産業、道交法、
そして、観光立国化などは確実に今後の日本のファッションシーンを変貌させられる新しさで
ある。それに、”ゆとり教育”以降のZ世代の新たな価値観とヴァーチャルテクノロジーの共存化。
 そして、「WITHOUT SEWING」と「WEARABLE」は新しいキーワードとなった。
文責;平川武治: 

投稿者 : editor | 2015年12月21日 08:30 | comment and transrate this entry (0)

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