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2017年1月28日
Paris Haute Couture Fashion Week/中里唯馬コレクション;
Paris Haute Couture Fashion Week/
Yuma Nakasato;
「愉しみにしていた。」
このクチュリエの先シーズンに引き続いて、第2回目のパリ・オートクチュールコレクションウイークでのデフィレである。
巴里の”モードの大黒柱”であるクチュールコレクションに参加する或いは、出来得る日本人デザイナーは数が少ない。プレタポルテのデザイナーは自分たちがその掛かる資金を準備すればなんとかなる世界である。だが、この街の”モードの懐”はそんなに実際は広くない。特に、”クチュール”の世界は別世界であった。例えば、なんでもそうであるが”2nd.ライン”はそれなりのその立場での役割がある。この構造をそのまま、ビジネスにもしてしまっているのがこの街の”モードの世界”そのものでもある。クチュールに対するセカンドラインとしてのプレタポルテ。
だから少し、以前まではこの街のモードの人たちもこのクチュールの世界とそのテリトリィーを頑なに堅持してきたがやはり、時代が”変革”したために、そのガードが緩み始めた。
例えば、この街に僕の好きなカルチェェ、”サンマルタン運河”がある。これを最近のモードの世界に委ねてみよう。それは運河に新しい流れを作ることでその水面のレベルが上昇して船の川上への運行が可能になるという迄の構造手法によってすでに16世紀にはこの街で作られていたという。この手法が最近のモード組合(サンディカ)の戦略として読める。当然であるが、まだ古い手法としての「金次第」というのも残っているが。
従って、この街のクチュリエたちとその周辺たちを刺激する迄の「あたらしい自由」によっての、「新しさ」を創造できる若いクリエーターたちがウエルカムされる構造になり始めた。
例えば、もう一方で評判が高まってきたオランダ人、IRS VAN H.嬢もその一人である。因みに、彼女は合衆国の3Dプリンターメーカーの企業力によって現在の立ち居場所が生まれた。
「継続することもクリエーション。」
だから、唯馬君がこのクチュールコレクションを継続することそのものがまず、創造の世界につながる素晴らしいさである。
多くのこの街に住んでいる?日本人の若い人たちが集まってきて見ていたが、彼らたちはまず巴里でこのコレクションが継続できることの大変さ。そして、それ自体の産業構造自体に対して無知であろう。このレベルは日本から取材に訪れているジャーナリストたちもほとんど勉強していないだろう。ただ、日本人がやるというレベルの次元で見にきている人たちが大半であった。
これが、僕が言う、そもそもの”壁紙”の始まりである。表層の変化のみを追っかけるが、「壁紙」の裏には「構造体」があり、”壁紙”は構造体の上に貼られるもの。
継続させること自体に”創造性”がないとこの街ではすぐに外される。
ただ続けるには「金次第」の世界がすぐに”お手伝いしましょう”と、どこからか寄り集まってくる。
「全てに、よく頑張った。」
前回は僕が浅はかに見間違えてしまったので今回はどれだけ”進化”させたのかあるいは、”エボリュート”させたのか?それを感じ、見れることが楽しみだった。
しかし、デフィレだけは又もや、どのように今回の彼の世界観がエボリュートされたのかほとんど不明である。暗闇の中から浮かび上がる全体の佇まいが美しすぎるからだ。
翌日、展示会へ行ってまたもや、話を伺う。
確実に基本となる”エレメント”が幾つか増えている。そのために、それぞれを結合させるためのいわゆる”結界”部分を構造化する”部品”も新たに作られている。このパーツの開発によって確実に彼の”レゴ”の組み合わせにバリエーションと構築性が生まれた。ということはこの彼のアイディアと創造により、幅と深みと変化が出せるまでにエボリュートさせたのが今シーズンであった。
やはり、彼は”レゴ・ジェネレーション”だ。そして、彼が創り出す世界とは「数学」の世界から生み出される。それぞれの”エレメント”が”数字”である。”エレメント”を並べ替えるだけでそのヴァリエーションは”無数”という世界である。
「キャスティングが良かった。」
もう一つ、僕が彼の「あたらしい自由」さを感じ取ったことの一つに、今回のキャスティングがあった。このような時代性になると、モデルのキャスティングは大事であり、彼女たちによってコレクションの世界観までもが伝わるからだ。ただ美しいだけ、が大半を占めすキャスティング。唯馬君はここから遠ざかって、自分の”世界観”をその「あたらしい自由」さでまとめた。
彼のキャスティングにおいても”ジェンダー・ミックス”がなされていた。
「あたらしい酒はあたらしい革袋に」のコンセプトがここにも使われていた。
あたらしい手法による新たなモードを平凡な、当たり前の”美しいさ”に着てもらうのではなく、”あたらしい女性”(ジェンダーミックス)に委ねたことが僕にはとても、新鮮に感じられた。
ここで彼の今回の作品からは数年前にも好きで訪れた、ヴィエナの美術館の薄暗い一室に飾られていたG.クリムトの1枚のタブローをその色彩の美しさからイマジネーションした。
次回も楽しみにさせてください。
ありがとう、唯馬君。
前回の彼についてのブログです。
参照/http://lepli.org/discipline/articles/2016/09/post_160.html
2017年1月23日
速報/#Paris Fashion Week Homme-6/18th.Jan~22nd.'17;
速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
22日//JULIAN DAVIED;
このブランドコレクションにも「アンビギュティな性」が描かれていた。
「性」に教戒があるとすれば、現代社会のようにその「性」に「真実ぽっさ」を委ねると、
”世間”はどのような様を見せるのであろうか?
その時代のモードにおけるオリジナル”アイコン”で在った創られたマダムCOCO−シャネルの
存在とその後の立ち居場所も考慮すると、女性モード史における「アイコン/ミューズたち」の
そのほとんどが、彼女たちの”生き方”、それぞれの時代に「あたらしい自由さ」を持ってその
時代の社会に堂々と生きる女性たちであった。
このシナリオは戦後も続く。また新たな戦後という時代に平和が訪れてき始めた’67年頃には
あのYSLが自分たちの立ち居場所に対峙するターゲットとして、「あたらしい自由」を持って生き抜こうとしている女性たちから自分たちの好みにあったミューズを探し出し、彼女たちをその「あたらしい時代」の”アイコン”に仕立て上げてきた。これがこの街のモードの一種の戦略的
手法であり、シナリオだった。
ここで、それぞれの時代の女性たちが時代に対して持ち得た「あたらしい自由」とは何だったのか?を改めて考える。
”ウーマン・レボリューション”に始まって、”フェミニズム”へ発展しそして、”ジェンダー”論
までへも駆け上って、”ポスト・ジェンダー”へ至ってきたのが戦後の女性の新しい生き方の
全てであった。この表層はどのように社会に関わるか?どのような生き方を行なって子供を育てるか?そして、伴侶の人と家庭を守ってゆくか?これらのための価値観であり、具体的な方法としての生き方でありそして、そのための努力であった。
が、そんな彼女たちのもう一つの「あたらしい自由」は「性」へも当然向けられた。
その解り易い現実は女性たちにも”同性愛者”というゾーンが生まれ始める。
ここでも根幹は人間世界は「男」と「女」だけの性差の世界であったはずが、「もう一つの性」が誕生したことである。
しかし、表層はあらたな新しさを生み出すが、現実と現存の”世間”における「男」と「女」の間にもこの「あたらしい自由」は染み込み始め、従来からの”関係性”にも色々な影響が生まれ始め、それらが及ぼす表層は”離婚”や”家庭崩壊””片親家族”などの現実をクラッチし始め、生み出す”関係性”に対してのこゝろの不安や不信と不誠実などが生む”ストレス”を多く被るまでの社会性にもなった。
僕が言いたいのは従来の古い”世間”を維持してきた宗教モラルに依って構築され一つの価値観にまでなってしまった”性モラル”がここにきて彼女たちや彼らたちの「あたらしい自由」に依って変革し始めているという見方である。
この表層に、2004年に語り始められた、「ポリアモリー」がある。
しかし、この「ポリアモリー」の立ち居場所の現在は肩身の狭い状況に置かれてしまっている。”世間”の古い性モラルから大いにヘイトされ、”同性愛者”たちからもその一線を引かれてしまった立ち居場所のようである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%BC
「あたらしい自由」を”性モラル”の中へ持ち込んだことによってその”関係性”が大きく揺れたのだろうか?この「ポリアモリー」も実は「真実っぽさ」の中で産み落とされてしっまた「新しさ」なのだろう。
JULIANのコレクションは好きである。
東京のストリートを彼のたち居場所とそこからの眼差しで気持ちのいい”距離感”を持ってその世界を僕たちに見せてくれていたからである。彼のリアリティが持ち得たネイション・アイデンティティからの"差異”がセンス良く細やかさとともに爽やかにまとめられた上質なコレクションだからだった。それに、彼が”オプション”する素材は時代感を触れさしてくれるまでの日本素材が多いことも気に入っていた理由だった。
その多くは変わらないであろうが、ここ数シーズン来この”差異感”が少し変化したように感じる。外国人が長く異国に住むと経験する”距離感”は変わらないが、それに対する”差異感”は変化し始める。多分、自心の中に存在している”ネイション・アイデンティティ”が蠢き、より働きかけ始まるのだろう。これは僕のようなものがこの巴里へ来だして、住みだしてそこで現れた変化でもある。
彼のコレクションで言えばやはり、ウイメンズへの彼が持っていた”差異感”が変わった。
ということは彼の「女性観」が成長したのだろう。ここに彼の”リアリティ”も関係しているだろう。
このメンズコレクションでは、1993年には日本でも公開された映画、「Empire of the Sun/太陽の帝国」をなぜか思い出した。
原作がJ.G.バラード、監督がS.スティルバーグ。音楽がJ.ウイリアムスという豪華な顔ぶれによって制作されたいい映画だった。僕の好きなJ.マルコヴィッチが変わらぬうまい演技をして少年を助けていた。上海に残されてしまったイギリス人戦争孤児の少年とアメリカ兵が出会ってめばえる友情物語だったように記憶している。元”キッドブラザース”の男優だったロンドン時代の友人も出ていたので記憶していた。
廃棄になった戦闘機を遊び場所にして、そこに残された落下傘や帽子や制服という帝国軍国
主義の象徴が残骸化されてコード化され、少年たちの”あたらしい自由”のための遊び道具になって登場したからであろうか?
コレクションのトータルな視点はやはり、今シーズンのキーワードである「ゆるさ」でまとめられた、現代の若者たちの”ストリート・ユニフォーム”+”ヘビィー・ドゥティー”の足し算のデザイン。そこへ、”山岳スポーツ”を足元でアクセントに加える。
この”ゆるさ””と”アンビギュティな性”いうクオリティに委ねられた”GENDER MIX"。
JULIANが手がけたコレクションから感じた心優しい熟しがこの映画を僕に久し振りに思い出させてくれた。
ありがとう。
文責/平川武治:巴里11区にて、
2017年1月22日
速報/#Paris Fashion Week Homme-5/18th.Jan~22nd.'17;
速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
21日//White Mountaineering ;
噂に聞いていたブランドをパリで初めて見せていただく。
始めに、プロ意識を強く感じた。それは全てに、”プロ”であることとは確りとした”プロダクト”によってちゃんとした”ガーメント”になっていることである。
大半の若いデザイナーがこの街へやってくるとき、自分たちが持ち得た”夢”への挑戦であり、その結果が”自己満”になってしまうことが多い。
自分たちの”リスクとコスト”でこの街にやって来てそれが”継続”される可能性は非常に難しい。それなりに日本で儲けてこなければ出来得ない現実であるので、器用に”他人の褌”をかき集めて”カッコつけに”来るデザイナーが増えた。そんな連中は、ほとんどが僕が言うところの
”壁紙デザイナー”であり、コレクションも”スタイリング”コレクションに偏っている。
したがって、見せかけのデザインが多く、ガーメントとプライスが合わない。そこで、アルバイトをして資金をかき集めてとりあえずは自分の”夢”=”自己満”のレベルで”パリ・コレ参加”をプロパガンダする。そうしたら、自分も一端のデザイナーになった気分で、わずかな経験とその周辺から聞こえてくる業界話を語ってしまい、余計に”カッコつける”。この大いなる勘違いをさせるのが、雑誌メディアや今では素人に近いブロガーたちがこのレベルをインタヴューと称して聞いてしまう、この悪影響でしかない。この手の連中は”小さな嘘”を平気でつくことからファッション業界人になってゆく。これを始めると、彼らたちのその後の人生は”小さな嘘”の”上塗り”人生となる。
この手の連中は、アンデルセンの「裸の王様」をどのように読み込むか?理解していないであろう。あるいは、ちゃんと読んでないかもしれない。
30年以上もこの街のコレクションを見続けてきた僕の経験からの判断ははっきりしている。
このような「豚もおだてりゃ、木に登る」のデザイナーさんが変わらず、この街へやって来ている。
このブランドの”プロ”さとは、”プロ”感とは?
当たり前であるが、冒頭にも言ったが、ちゃんとした”商品”をデザインして製品にしていること。デザインとはアートではなく、産業製品であり、それがそれ相当の機能を持ち、そのための素材選びが為されていて、その上での後加工とディーテールデザインがあり結果、ブランドとしての”世界観”を生み出していることである。”世界観”とはそのデザイナーとそのチームが持ち得た「文化度」である。この「文化度」は、スキルであり、経験であり教養でありそして、技術で構成されたものと、持ち得た”美意識”によって齎されるものである。ここから”商品”としてのクオリティが生まれ、商品としての”テイスト”がつけられるまでの結果を僕は”プロ”という。
ショーで見たこのブランドの”商品”は、選ばれた”色”にハーモニィーがあり、そこへ加えられた柄やプリントにポジティフな神経が施され、選ばれた素材は冷静に吟味され、着る人へ優しさを与える心使いを感じるものであり、それらをどのように使ってやれば美しいシルエットが生まれ、それらをどのようなアイテムに落とし込んでやればそれらの素材が”成仏”し、どのようなコーディネートを提案してあげると着る人にその”商品”の雰囲気が与えられるか?ここまでを考えて心使って細部にまで凝ったデザインが為されている、だから”プロ”だと言い切れるのだ。
”プロテクション・カジュアル”と呼ぼう。
かなり、コアなる”プロテクション”がデザインなされている。これらはそれぞれの機能性を持ったパーツとしてデザインされてもいる。堂々としている。不安げなおどおどさはない。なので、”クール”なのだ!!
このブランドの”プロ”さは僕にとっては戦国武将たちの”甲冑”を思い浮かべた。
着る武将たちの身分と位を表し、そのための素材を使いこなし、装飾されそして、身を守る機能を備えたものが”甲冑”である。
現代日本社会の「安心のファッシズム」の中でこそ、このような”プロ”意識深い服を着込むこと、そのものが多分、着る若い人たちにとってのアイデンティティを生み与えるのだろう。
”プロ”とは”職人肌”がその身上でもある。
文責/ 平川武治;巴里11区:
2017年1月21日
速報/#Paris Fashion Week Homme-4/18th.Jan~22nd.'17;
速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
20日//CdG H.P.
今シーズンのトレンド・コンセプトの一つに”ジェンダー・ミックス”がある。
アンビギューティなテーマだ。これそのものが”Truthiness"であり、現代の時代感を捉えた
シーズンコンセプトであり、今年の僕の新年のグリーティングに作った言葉、
「The world is the wall-paper that looks like a truthiness.」でもある。
我らが世界へ誇る”ファッション・クリエーター”としてのCdGのデザイナー川久保玲はこの
テーマにこゝろ寄せそして、謳いあげた。
果たして、ファッションゲットーの人たちにはその”真実っぽさ”だけでいいがだが、
どれだけのファッショングルーピーたちには共鳴しただろうか?
証言その1、
彼女が銀座のDSMに使っている彼女のアート・コレクション、”シンディーシャーマン”の写真が一つのコード化されておぼっちゃまたちの頭にのっかている。むしろ、彼らたちの脳みそは
”シンディー”と同じなのですよと言わんばかりに。
2年ほど前に、僕はベルリンのギャラリィーでの”シンディー・シャーマン”展を訪れた。
新旧取り混ざったキューレーションの展覧会であったが、彼女がどのような写真に対する距離感からこの世界へ入ってきたかが判明した1枚を見たのが面白かった。それとは彼女自身の”ヴァギナ”を撮ったものである。
この写真家も”自己顕示欲”が正常ではないレベルのフェロモンを持ち、放っている人間であり
女である。”世間”でアーチストと呼ばれている”女性芸術家”には不思議ではない性格と人格であり、そのほとんどが”アーチスト”願望と自己顕示欲が重なったタイプである。例えば、年老いて帰国後、有名芸術家になってしまったY.草間も然りである。ここに、生きることへの自分が出し得る”執着心”と”ガンバリ”の全てを読む。
ここで僕が認識したこととは、彼女と写真に対する距離感、アーチストと作品の距離感である。
証言ー2、
僕はダイアン・アーヴァスの写真が好きだった。
1945年、彼女が身ごもった折にセルフポートレートを撮ったのが始まりで彼女は”写真”の世界に魅せられて、自分が居るべき世界であると信じ込んで1971年、自ら自宅バスタブで手首を切って自殺するまでの26年間をその多くはフリークスたちを撮り続けた。
彼女は’20年代のN.Y.で毛皮商人から財を成した裕福なロシア系ユダヤ人の娘で18歳には
すでに結婚した。そして、自らが身ごもったその姿を鏡て見てしまったことから以前から興味を持っていた写真を自分でも写真機を持って街を徘徊し、見慣れない、見たくない、見れない人たちの存在と自分の距離感を友人のエスクワイー誌の編集者からプレスパスを借りて撮りまくった。当時では、家が裕福であることで可能な職業の一つ、”写真家”になり、いいカメラ機材をいつも新機種が出るたびに購入し、湯水のようにフィルムを使って自分の好奇心に触れる人たちを撮りまくっていた。その写すという彼女の根幹はかなり屈折していた。
そんな彼女があるところへ招待されたことによってその2週間後にはN.Y.の自宅のバスタブで手首を切って自殺した。
3年ほど前にこのパリの美術館で久しぶりに大規模のD.アーヴァスの展覧会を見た。
この写真家には全てに恵まれた生による、”自己愛からの醜さへの逃避”という”覗き見的”な距離感を彼女の写真から感じている。しかし、その撮り方は不躾さが感じられる被写体をいつも正面から強いストロボを使ってライティングするというかなりの自己欲求の冷酷な演出によって写されていた。
そんな性格の彼女が以前、いつもの好奇心からニュージャージーの養護施設を訪れて作品を残していた。師匠であった、R.モデルからは良い批評が得られなかった作品でしたが、彼女の作品群ではいいポジションを占めたものになっている。
そして、彼女はかつて訪れたこの養護施設から慈善バザーの招待を受けて再度訪れます。
ここで本当に”笑顔”がどれだけ幸せを表現するか?養護施設という”世間”の中に入って知った
初めての”笑顔”。この養護施設という”世間”の幼子たちの屈託のない、自由な心から生まれる美しい”笑顔”とその”生”の無垢さを知ってしまったことによって、ダイアンは自分の今までとは何を撮っていたのだっただろうか?フリークスを撮る”覗き見的な根幹とそれとは裏腹に、被写体が自分をどのように見ているか?までの自己意識との距離感で撮っていたことに気づき、思い知り
そして、持病の鬱と重なり苦悩の末、その2週間後に自殺を行なった。
川久保玲はこのダイアン・アーヴァスにも大いなる影響を受けまた、彼女自身の育ちの中にも自分を重ねて見ていることによってのコレクションを例えば、飽くなき”黒”という素材や”ツインズ”を使うことなどの過去に幾つかあった。
証言ー3、
「彼女自身、”ジェンダー”とはをどれほど熟知しているのだろうか?」
自分自身の生き方が”ジェンダーフリー”だと思っているのだろうか?あるいは、思わせてしまっているのだろうか?または、思わされてしまっているのだろうか?
今回のコレクションでは彼女自身がかなり欲求不満な眼差しを持ってコレクションを構築してしまったと感じた。
ここでは、僕は昔から彼女が手掛けた”オムプリュス特有のバランス感”がある時から消えてしまったことも思い出してしまった。今回そのバランス感をジャケットとパンツで出そうと試みているのだが、元には戻れていない。いや、戻らなかった。以前の、肩幅がゆったり目で、着丈が短いプリュス特有のかつての優しいオムプリュスのバランスが見られない。
それを出したかったのだろうが、ここでは彼女のリアリティから生まれているはずの”ジェンダー”が感じられない。あるいは、彼女の実際の生は“ジェンダー”とは対峙したところにその根幹があったのではないか?あるいは、そうでありたいという思いからの生き方だったのか?
それがあのバランス感になり、あの美しいタッグ・プリーツになり、コーディネートによる
”ジェンダー・ミックス”なのだろうか?それらは、余りにも「真実っぽい」だけである。
美しいさに憧れるこゝろの有り様と、それを拒否するこゝろの有り様の対比によって生まれたとしか言いようも無い、背負い込んでしまった、フエルト(?)によるビーズ細工と”機関車”
と”自動車”。そして、シューズ。
「シンディ、どうして機関車を車を背負ってしまったの?」トーマスは聞いただろうか?
ここにも川久保玲流の、一つのメタファーとしての”ジェンダー・ミックス”がコード化されていたのでしょうか?
ここに彼女の「あたらしい自由」を感じ取るべきなのでしょうね。
きっと、展示会へ伺えば、思い切り着たくなるアイテムがちゃんと準備されているシーズンでしょうね。
文責/ 平川武治;巴里11区:
速報/#Paris Fashion Week Homme-3/18th.Jan~22nd.'17;
速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
20日//JUNYA-MAN:
僕の小さな頃は少し郊外へ自転車で出るとまだ、小川があった。
その小川が本流と合流するところが面白くここに集まってくるただ浮かんだもの、浮かびながら彷徨っているもの、今にも沈みそうなもの、これら達をただ眺めているだけにたくさんの時間と雲とともに遊んだことを思い出した。
なぜ、JUNYAのコレクションを見せて頂きながらこんなことを考えてしまったか?
ここに共通することは”浮遊物”あるいは、”ゴミ”である。
僕の昭和30年代の思い出であるから60年も昔の記憶でしかない。
今、目前に次から次えと青年達が着せられてしまった今シーズンのコレクションを見ていると
乗ってしまった流れには逆らえない。ただ流されないように流れるだけだ。これは言葉にすると
簡単なようで実際には難しい。多分、その乗ってしまった流れから逸脱するにはまず、”自心の新しい自由”がそして、覚悟とコストと必要であろう。
近年、”コラボ”というプロダクト手法が習慣になってしまた時代性がある。これは”デザイン手法”ではない。飽く迄も、合理性を元にした”プロダクト手法”でしかない。
「”オリジナル”で生まれたモノ。それが”模倣”され始めその後には”習慣”になってしまう。」
これは僕の好きなG.ガルドが1911年に書いた「模倣の法則」から学んだことで、ファッションの世界の人間にはより、具体的に理解できることだろう。
たしか、このブランドがウイメンズでこの処方”コラボレーション”を本格的に行った記憶がある。以後、世界レベルで可能なる世界のブランドは”習慣”になってしまった。
プロダクトにおける技術とスキルと情報と販路の共有化ビジネスである。
日本人ブランドだけのパワーでは不可能である。これも、いわゆる、ユダヤコミニティの関係性と「グローバリズム」の恩恵である。しかし、この発端を考えて行ったのは僕たちの「横丁のブランド」出身のUNDER COVERだったはずだ。
さて、思い出を本流に戻そう。
その1、「流れに乗ってしまった以上、流れは変えられないのか?」
ここまで、”コラボ”におけるビジネスの”安全パイ”を考慮してのデザインディレクションは
少し、食傷気味になってしまったようだ。彼が乗ってしまったこの流れはこのデザイナー本人にとってハッピーなのだろうか? 自心の自由さが歓喜してのデザイン行為なのだろうか?
彼のコレクションからこのデザイナー本人が見えてこないのである。すなわち、彼の真実であるリアリティが見えず、”真実っぽさ”が流されているだけと言う十数分。
ここにも僕は「安心のファッシズム」を見てしまったようなのだ。
その2、「昨日、書いたことが当たった。」そして、驚いた。
戦後、日本のメンズファッションのルーツであり、この企業のメンズラインの根幹でもある
”VAN"がアメリカンスポーティ・カジュアルウエアーのメモリアルコードとして登場した。
コレクションの中身は、「アメリカンスポーティ・カジュアルウエアー+ヘビィードウティ=RAP+SNOWBOARD=BLACK+WHITE」と読めるマーチャンダイジングの考えられた公式。
ここでは、これほどまでに進化した(?)メンズファッションに与えられた名誉としてのコード「VAN」であろうか?あるいは、オリジナル回帰への”銘板”あるいは、沈みそうで、沈まないレッテル付きの”ゴミ”のようなものなのだろうか?
その3、「流されてくる”重いゴミ”はこれからどこへ辿り着くのだろうか?途中で沈んでしまうのだろうか?誰かが掬い上げるのだろうか?」
ショーの後半からはこれらのコラボ商品が重く感じられてきた。それなりの重素材とレザーが組み合わされたミックス・マテリアル、今シーズン売れっ子の”スタジャン”もある。多分、”ゴミ”と化した時には相当重たい”ゴミ”であろう。
いつの時代かに、「もうゴミを出すことは考えない、なるべき出さないように!」と言う時代性の”壁紙”が一斉を風靡したこともあった。企業倫理が問われ、労働時間や問われる昨今当然、「出した”ゴミ”は自分たちで持って帰りましょう。」と小学校の低学年で教え込まれる。
それが、大人社会になると忘れられてしまう。いや、「都合の悪いことは”忘れる”ことで儲かるんだよ」。この響きは戦後荒廃した焼土の”世間”にはよく耳にした言葉であった。
ここに日本人が大好きな「星の王子さま」の一文を思い出そう。
「かつて、子供だった頃を思っている大人は少ない。」
ということで、僕のこのショーを見させていただき「かつて、子供だったことを思い出しました。」ありがとうございました。
Junyaが大好きなファッションピープルにはこのブランドらしさが満載のコレクション。
新たなコラボメーカーも加わり、リーヴァイスデニムの新しさもあっの”RAP+SNOWBOARD"。これをどのように街で、横丁で着こなすか?メディアの煽り方も楽しみ。
文責/平川武治;巴里11区:
2017年1月20日
速報/#Paris Fashion Week Homme-2/18th.Jan~22nd.'17;
速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
19日//KOLOR :
久しぶりに見せて頂いた。このブランドは当然だが、メンズがいい。
このブランドの世界観がすでに確率しているからだ。
以前は、「もう、ウイメンズは止したほうがいい、勿体無い。」と直接、彼に不躾に提言したこともあった。が、辞めないで今日も見せて頂いた。
こうして一つのショーの中で見るウイメンズはそのデザインポリシーとコンテンツにメンズとの連続性が見られ、展示会で見るウイメンズだけの時よりは”Kolor"らしさに理屈がつけられ、
まとめられていたので少し、安心した。当然であろう、メンズよりも気を使って細かなところまでオトコこゝろでデザインされているからだ。このデザイナーが女性を見るときにそのオトコ目線が何処から始まるかが、分かりやすいデザインが為されているという意味でもある。
僕が感じるのは、このブランドのデザイン・コンテンツは正に、「This is the Tokyo-Design」そのものであり、そして、20数年、変わらないことが誠実でもある。
素材の吟味から始まって、オリジナル素材のミックス・メディア化。それを如何に”料理”するかがこのブランドの巧さであり絶妙なバランス感と、器用さのブリコラージュ。
そして、”the Tokyo-Design”の極上とはパッチワークや裏使いの感覚の良さと、「ちょっとしたディーテールあるいは、ワンポイント・デザイン」のセンスの巧さとオマケ感覚であろう。
この”ちょっとしたディーテール”の巧さは日本人ブランドの巧さにもなっていて海外バイヤーたちが喜ぶ、”ウリ”に直接つながるデザインポイントである。
この機会に「This is the Tokyo-Design」とはを考えてみると、
戦後日本のメンズファッションの根幹は、「アイビー」から始まる、ブランドではご存知であろうあの「VAN」でしかない。従って、「This is the Tokyo-Design」の根幹がここにある。
そして、日本発のメンズファッションのオリジナルマップとは、テーラードのスーチングか、「VAN」のアメリカンスポーツカジュアルか、古着屋御用達、ファッションDJの登場による
「横丁のカジュアル」すなわち「ストリートカジュアル」へと、この3部構成のミルフィーユ構造で出来上がってきた歴史がある。そこへ、パリ・コレ情報とそのデザインの影響が具体的に加わり、”ゲイ御用達”デザインが進化し始めたのが’90年台半ばから。これは”コムデギャルソンH.P.”をロンドン・クルーがディレクションし始めた時期と重なっている。例えば、それまでの川久保玲の”CdG Hオム”のその育ちは「VAN」であり、これを引き継いで進化系になったのが
”CdG.H.P."。ゆえに、ある意味で、元祖「TOKYO-IVY」ブランドであった。ここがY.Y.P.Hとの違いであり、"JUNYA-MAN"との違いでもある。
因みに、”Y.Y.P.H"は懐かしくなってしまった日本のメンズ・ファッションの黎明期を構成した「TD6」時代の菊池武夫や松田光弘から遠く離れた自己顕示な「前衛」が根幹。
そして、"JUNYA-MAN"のこの企業内での棲み分けは、”ストリートカジュアル+ヘビーデゥーティ”に委ねているはずだ。
なぜ、このような事を言うかと言えば、このデザイナー、阿部くんのキャリアの根幹がここに存在したからである。そして、彼の独立後のキャリア(PPCM)もこのカテゴリィーから始まり現在のKolorに至っていることが”This is the Tokyo-Design”と呼ぶに由来している僕の根拠である。
視点をKOLORコレクションに戻そう。
今シーズンのコレクションに感じる、この”ゆるさ”がなんとも絶妙の”ゆるさ”加減。スーチングも無く、フード付きも無い”ゆるさ”そして、全編、”ファー付きパッチワークサンダル”。
これが出来るようになったこのブランドの巧さと強かさに拍手。ここには経験と自信の裏付けがある。それにやはりメンズではより、パターンメイキングの上手さが表層の構築感を出す。
この時にこの”ゆるみ”感はより、パターンメイキングと素材のオプションとのコンビネーションでしか生まれないからだ。ショー後、バックステージに行って実際にサンプルを触ってみる。
僕が好きだった、ライトグレーのワークスからインスパイアーされて出来上がったセット・アップ。この素材も見た目はフランネルかと思ったが触ってみるとより、腰のある織りのいい素材で
料理されたもの。裏地のこなし方、ヘムの”ゆるみ”の出汁加減。パンツの”ちょっとしたディーテール”であるステッチ装飾等など、ありがとうがざいました。
そして、このメゾンでも”ネクタイ”が現れなかった。
この”ゆるさ”感と”ノーネクタイ”が「安心のファッシズム」という時代性のアイローニなのだろうか?あるいは、”ユニフォーム”なのだろうか???
文責/ 平川武治:巴里11区にて、
2017年1月18日
速報/#Paris Fashion Week Homme-1/18th.Jan~22nd.'17;
速報/Paris Fashion week/18th.Jan~22nd.'17;
18日//FACETASM:
「若さゆえ」という言葉がこの街にもあったことを思い出した。
この街の人間よりも日本人の方に知られていたあのJ.コクトーの作品に「アンファン テリブル」という小説があったことを思い出した。
「若さゆえ」とは、迸るエネルギィイがあり、生意気さがある。それに、未熟さがある。
だがもう一つ、無知さもある。
今朝のこのブランドのデフィレを見て感じた言葉がこの言葉だった。
”分量”というトレンドを意識しすぎた、”オーバー・コーディ”なショー。
その反面、後ろでディレクションしている本人の不安げさと落ち着きのなさ、
そこから生まれる”おどおどさ”が感じ取れるまでのショーだった。
決して、肝が座って作られたものではない。
「若さゆえ」、廻りを気にし、いい顔をしたい、させたいためにまとめられた、カッコつけて頑張った”東京ストリート ブリコラージュ”な壁紙だった。なので、音で助かっていた。
しかし、時折その姿を現すウイメンズはいい。まるで、性格も、イマジネーションもが対峙するユニット・ブランドである。
デザインすることの巧さは確実にこのウイメンズ・ラインには存在している。
それに女性特有の思い切りの良さが伺える、その良さが着る女性たちを”若さゆえ”心地よく感じさせるまでの大胆なデザインとコーディネートに落とされ着る女性に委ねられている。
したがって、確実の”彼女”が手がけるウイメンズの方が才能を伺わせているし、実際にあるユニット・ブランドだ。
例えば、学校でちゃんと勉強をしてこなかったものと、学ぶための時代には確りと学んできたものとの差異あるいは歪みがここに現れている。
例えば、このブランドのデフィレからウイメンズ・デザインを抜いてしまうとまるで、
朝の繁華街、厚化粧がゆえに剥がれかかっているただ、大きいポスターすなわち、「壁紙」が「安心のファッシズム」の中で周りをキョロキョロ手揉みしているだけのイメージ。
その結果、オムに関しては”分量”を何のために意識したのか?見せられたコーディート群は「隠しききれなかった自我あるいはアイデンティティー」若しくは、「思い切り委ねたいエゴシエーションあるいは甘え」でしかなかった。
それともう一つ大事なところは、オムの”分量のコーディ”はただ、”重さのブリコラージュ”でしかなく、ウイメンズではこれらとともに、”軽さのブリコラージュ”も使う異素材感によって
バランス良くなされていた。この大胆さによって形作られた服には東京的な色気を生み出している。ここに僕は彼女のデザイン力を褒めるのです。
彼が”good morning"で書いているように”定義なんか存在しないのだから”という嘗ての
マイルド・ヤンキーの「若さゆえ」の無知なる開き直り、なんでも有りでショウー。
嘗てのマイルド・ヤンキーたちの多くの今は、パラサイトし既に、姿を消してしまった。
そして今や、「マイルド・ヤンキー ニュー・ファミリィー」たちのご登場ですからね!!
そうそう、彼はJ.コクトーの「アンファン テリブル」を読んだのだろうか?
文責/平川武治:1月18日、巴里11区: