« 決して、語られなかった”コトの次第”を、「一つの展覧会を読む。」 /”M.MARGIELA, THE HERMÈS YEARS”展 | メイン | 『無知が悪いのではなく、無知の自覚のないことが悪いのだ』 »

桑沢デザイン研究所/'17年度”昼間部+夜間部”全校生合同講義ノオト;

桑沢デザイン研究所/'17年 合同講義ノオト;
「”あたらしさ”を生み出すためには?」
文責/平川武治(モード・クリニュシュェ)

「我々はみんな携帯電話を内蔵した存在となったが、
そのことは現実生活とそのイメージの過剰接近や時間的/空間的隔たりの無力さを招き、
重大な混信状態という結果が生じている。」

J.ボードリヤール/「世界の自動記述」より:

PART-1; 現代という時代を深読みする。
 はじめに、「あたらしい自由」というこゝろの有り様、;
 僕がこのモードの世界に身を委ねてかれこれ40年が過ぎる。
大衆が「新しい創造」を願望するならば、まず、「あたらしい自由」というこゝろの有り様の
新陳代謝が必須であり、あるいは、「新しい社会」の誕生か、「新しい法律」の発令なども
関係してくる。
 決して、一人の思い上がりな行為やメディアの煽りだけでは「あらたな新しさ」は
生まれてこない現代という時代性がある。そして、「あたらしい不満」が当然、
こゝろの有り様に喚起しなければ、真の「あたらしい自由」は生まれない。
ここには現代の社会へ対する「カウンター・カルチャー」とはなんなのか?という問いがある。

 戦勝国アメリカは、’50年代にはもうすでに「ビートニック・ジェネレーションたち」
J.ケロアックやA.ギンズバーグ、W.バローたちが文学の世界で登場し、当時の”アメリカの
豊かさ”への「カウンター・カルチャー」の芽生えが始まり、昨年「ノーベル平和賞」を
受賞したB.ディランで代表される'60年代に登場したフォークソングからロック
そして、”ヒッピィー”と呼ばれた、当時の社会からドロップアウトしたコミューン集団たちが
思い感じ経験した当時のアメリカ社会と政治に対して彼らたちのピュアーな眼差しを
持ってこの「カウンター・カルチャー」と言う”反抗文化”なるものを路上に産み落とした。
これは当時の戦勝国「アメリカ合衆国」が”自由”を建前にした豊かな国家であったから
誕生したのが、「カウンター・カルチャー」であり、これが以後、60年以上は
いわゆる「若者文化」の根幹として継続されている。
 
 現代、「新しさ」を生み出すための「あらたな自由」は明日でも生まれえると言える、
今とはそんな不確実さの時代だからだ。
 この”不確実さ”や”不誠実さ”あるいは”不自由さ”に対してみなさんのような若者たちは
「あたらしい不満」を抱き、これに対してそれぞれが”憤り”を覚え、それなりの”行為”が
なされる可能性が現代ではあるのだろうか?
 しかし、この「あたらしい自由」による”憤り”がなければ「あたらしいモノ」は
生まれない。即ち、「あたらしい自由」によって、「コトのアヴァンギャルド」が生まれ、
そのコトによって、「モノのアヴァンギャルド」が芽生えその後、モノにデザインがなされて、
一般社会の生活環境にコミットされてゆく。この速度の速さ加減が”流行”を生む。
結果、日本の戦後の70年間とは、日本人の生真面目さと勤勉さと勘の良さや手の器用さ、
従順さによって見事な現在のような高度なる「大衆消費社会」構造を構築した。
よって、そこでは”モノの豊かさ”を追い求める日常生活と社会構造が発展し、
「モノの価値」を知り、「心の豊かさ」や「心の価値」を学ぶことが遅れてしまった
状況をも作り出した。この結果の所謂、”ツケ”が3世代目の若者たちに影響を
落とし始めているのだろうか?
 彼らたちは何かに、”憤り”を感じ、「あたらしい自由」さで、それなりの行為をなすことに
怠惰になった”マイルド”なのだろうか?
 
 僕は「他人とは違った、比べる対象のものを自らが勇気を持って持つ」ことが大切であり、
このために、”学びがあり、経験があり、旅があり、愛があり、出会いがあり、
好奇心が生まれ、自信も生まれ、知識を知り、自分以外の他者への想いが芽生える。”
と、僕の70年ほどの生き様から自分の「価値観」として大事に、考えて生きて来た人間です。
 日本のファッション産業そのものは変わらぬ体質然り、”壁紙産業”です。”右で売れたもの、
あっちで評判のもの”を「右から、左へ」の思い付きとその感度の良さとイメージングの
上手さだけで「日銭」を儲けて来た商売が日本のこれまでのファッションビジネスの歴史です。
 従って、この業界で漂っているいわゆる”業界人”たちの依然、カッコ付けたる年功序列な
”世間”でしかなく、僕にとっては囲われた自由の”村社会”でしかないのです。
 ここには「あたらしい自由」とは程遠い”世間”が漂っているだけで、「あたらしい自由」を
感じ得るために、「時から学び、時代性を読み込まない、勉強しない」業界人達の棲家は
ここ半世紀程、”壁紙”を張り替えるか、塗り替えるだけで”構造体”まで”リ・ビルド”されて
いないという現実でここまで来てしまったのでしょう。
 「ーそう、世界は”真実っぽさ”で溢れかえってしまっています。」/2005年S.コルベア(コメヂィアン)
 「The world is the wall-paper that looks like a truthiness.」
 
 ある時期から政治家が合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に変わって、
むやみに感情や「勘」に訴えるようになってきた現状を評したものです。
現代社会とはこの”真実っぽさ”に寄って全てが構築されてしまている。
最近の安倍内閣の現状もこのレベルで彼らたちの答弁そのものが既に” truthiness.” 
 そして、M.ムーアが発した、「これは終わりだが、始まりでもある」/
"However this ends, that's where we begin."

 このP.トランプ当選後の彼のこの発言では,何が”終わり”、何が”始まった”と
言うのでしょうか? 
 「近代」という時代の終焉とFAD,
 ここに来て、「近代」という時代が終わり、新たな時代が誕生するだろうという視点が
あります。昨年”ル・コルビジュェ”の作品群が世界遺産に登録されたこととは、
”近代”がもう既に、遺産になってしまったという視点が読めますね。
 皆さんの周りのより、現実的な世界を見ていただいて、何か、今までとは違った
”something new"な匂いや段取りの違い、気配などを感じ始めていませんか?
これは、FAD現象と言い、一時的な気まぐれな流行りのことであり、このFADは
トップトゥダウンするもので、ある少数特定集団が起こす癖の強いブームの発端です。
これに対してTRENDは一般大衆のうちで流行るものや現象をメディアが仕掛けたもので、
ボトムトゥアップという動きをする流行そのものを言います。
 実は、ファッションの世界の面白さとは理屈ではなく、この”ファッド”なリアリティを
路上で生み出せることがファッションのスピードであり、凄さと役割なのです。
 音の世界はこのファッドを直感によって最初に感じさせてくれるものであり、
ファッションはその感覚とリアリティをイメージングによってブリコラージュしたところで
生み出せる世界だから面白いのです。この現実の実例は、今では、insta.がまさにこの世界の
代表になっていますね。ファッションの種子はいつも”路上”に蒔かれ、”路上”で育ち
広がってゆくFADなものなのです。だから”街・スナ”がウケるのでしょう。
 
 現代は人と”繋がっても”そこにお互いが直感で直に繋がり合える”感動”がより、具体的に
必要な時代が来ています。彼らたちはPCでの繋がりに限界ともどかしさをやっと感じ始め
たからでしょうか?そしてここには、”便利”と”感動”は自ずから本質的に価値レベルが
違うことがわかり始めた若い大衆たちの誕生があります。
 彼らたちはこのようなファッドなリアリティの一片づつをブリコラージュしてゆけば、
”あたらしい自由”が得られ、”新しい何か”が始まることを触覚的に感じ始めたようです。
このリアリティこそが、僕は「近代」という時代の次なる自由を生む
時代のエッセンスだと感じ始めています。

「ナマ/live感」という”コトのアヴァンギャルド”が産む”Tactility/触覚”,
 時代はまた、「ナマ/live」感を必要とし始めました。
モノの新しさはそのほとんどが”バリエーション”の世界でしか有り得なくなり、
コトを興す事によって身体に直接感じる「ナマ/感」がMDされ始めています。
小劇場、ライヴ、フェス、ダンス、ラップとジョギングそれらに、習い事のヨガやストレッチや
ベリィー、フラなどいろいろな身体そのものから感じる「ナマ感」ですね。
それに”do sports"群。オリンピックを目標にしたアスリートたちが時代の表層になってしまう
時代性も手伝っています。この裏には、バーチュアルなエモーションではなくより、
直感できるナマな皮膚感覚の「エモーション」が激しく恋しくなり始めたということで、
ここでのキーワードは”Tactility/触覚”です。
 今までの過去においても「ナマ/live感」は当然、感動を得るための原手段でした。
そこへ、「ヴァーチュアル・リアリティ」という新たな仮想感動も知ってしまった現代人が、
オプションすべき、感じたい「感動」即ち、皮膚感覚としての”Tactility/触覚”を興奮させる
「ナマ/live感」とは?を感じ吟味することが大切な時代性なのでしょう。
ファッションの世界では、”皮膚感”に優しいという”機能”ある素材を使ったものが
ここ数年来のトレンドで有りすでに、「ヨガ・ファッション」や「アス・レジャー」という
ジャンルが生まれていますね。また、「”コトのMD”としてオケージョンでまとめられた
アイテム・ショップ展開」も増えている。
 従って、このようなFADなリアリティを”触覚”中心にして感じ取ることが現代社会では
かなり、重要な人間個々人の”感性の差異”でしょう。ここには”教養”と”感度ある感性”の
4Kが要求されるからです。ここでは”情報社会”に生きている現代人たちが持ち得た
”ヴァーチュアル・リアリティ”とそこに出現する”真実っぽさ”によって、
”センス オブ ヒューマン”が劣化してしまっているからです。
 すなわち、”時代と寝る”ためにはより、人間的なる「クオリティある繊細さ」を持って、
何を”オプション”するかが重要な時代です。
 このような時代は表層の豊かさのみが”液化現象”を起こし、全てが”真実っぽさ”における
”バリエーションの世界”になってしまったという視点も可能です。

PART-2;世界はどうなるのか?
 「Friendly Fascism」から「安心のファッシズム」へ;
 これからの世界とは確実に、小さな塊の、より強靭なコミュニティを羨望する各国の動きが
活発になるでしょう。すなわち、保守が進展すれば当然のように起き上がってくる
”愛国心”という怪物の登場です。この古き新しさでは、新たなバランスとしての
”ナショナル・アイデンティティ”と”ネイション・アイデンティティ”のセルフ・バランスが
問われる時代性になってゆくでしょう。グローバリズムによって、大きく固まった
その実態構造そのものが不誠実なものであること自体を知り始めた知恵ある諸国と諸民族は、
より確な”塊”へ揺れ戻しの始まりが起こる。
 例えば、英国もEU離脱をオプションし、他のEU諸国においてもそれぞれのネイション
アイデンティティが国別に強くなり始めるでしょう。
 極論ですが、トランプ政権下の合衆国ではもしかしたら”州”が個別にインデペンデントな
構造体になり始める可能性もありますね。
 グローバリズムによって、国/ガヴァメントと企業/ビッグ・ビジネスという”複合企業体”が
地球規模でそれぞれの産業において、それなりの企業形態を成立させてしまったのが
20世紀の最後の役割だったのです。
 ここで参考にするのが、すでに40年は経過してしまっている1980年、
アメリカで出版された「Friendly Fascism」という本です。
(これは、今回のトランプ選挙陣営のネタ本の一部です。)
 「Friendly Fascism」とは、;(
参照/翻訳版「笑顔のファッシズム上・下」B.グロス著;日本放送出版協会刊)
 『新しい独裁政治がアメリカ全土にゆっくりと忍び寄っている。”政府と企業の複合体”が
何十年もかかって、次第に形成され、その複合体の司令部には顔のない独裁者が
座り込んでいるのだ。彼らは自らの権力と特権を拡大しようとして、組織や個人のために
なりふり構わず利益を追求している。さらに、広い意味では、経済的操作や情報活動、
あるいは軍事的侵略による、世界各地における国際政治への介入の拡大等も、
そういう独裁者たちの利益追及の結果生じてくることなのだ。
 こういった自体の全てがすでに、世界的な規模で軍拡を煽り、核兵器及び通常兵器という
殺人のための機械の備蓄を増大させているのだ。(これは現在の安倍内閣以後の日本における
”政治と企業の複合体化”から軍事防衛費予算がだんトツに増大し、戦後以降、具体的なる
今後の”軍産複合体”構造を構築しはじめている現実にも現れている。/筆者)
 アメリカはまず、”軍産複合体”の手に権力が握られ続いて、この複合体に類似したものが
多数存在してしまっているのが現実です。そしてこれらの構造体は”多国籍企業体”構造を
持ってより複雑な存在価値を構造化してしまっている。 
 原子力複合体、科学=工業技術複合体、石油=自動車産業=高速道路複合体、
銀行=証券会社=住宅産業複合体、都市計画=開発産業=不動産業複合体、農産物生産及び、
加工と農機具・肥料・飼料の製造販売までも含まれる農業関連産業複合体そして現在では、
IT=モバイル産業=情報産業=メディア産業複合体などなど。
 これらの複合体に実際の企業名を当てはめればその実態が見える。
彼らたちは公然と貢献したり、秘密裏に援助の手を差し伸べたりして、その経済的基盤や
それを育む環境を備えている公共機関や大学が加わり、これらが複雑に絡み合ってさらに
巨大な複合体を形成しているのが現代の社会構造であり、こういう色々な複合体と同様に
重要なのが、顕在化しているビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの提携であり、
この現実が今では世界のいたるところで見られ、その根幹は巨大な超国籍企業と様々な
多国籍複合体にある。ここに、新しい独裁主義を成立させている。”新しいファッシズム”は
その国の伝統や文化遺産によって違った色合いを浴びて現れるだろうし、人種構成や宗教の
構成、政治機構、地政学的環境などによってそれぞれが違った様相を呈する。』
 これらが世界にまたがる”自由主義諸国”を一つにまとめ上げたのが21世紀の
”グローバリズム”の根幹です。
 そして、もう一つ、現代日本のファッシズム、「安心のファッシズム」とは?;
 では、日本的な視点でこの現代という時代性を新たな視点で捉え、考えてみると、
僕が、「家で、みんなで安心・安全・快適」というコンセプトを初めて使い始めたのが
90年代も終わりに近い頃で、”保守の中庸化”の兆しが射し始めた頃でした。
 当時、”ヤンキー”と呼ばれていた若者がそれぞれの実家へ”パラサイト”し始め、
彼らたちが”マイルド・ヤンキー”と呼ばれ、”地元”での実家生活が
「家で、みんなで安心・安全・快適」へ向かい始めた。
 また、当時のファッションのコンセプトが”WAPPING"から"PROTECTION"へ
変革し始めた時期でもあり、例えば、世間ではそれまでタブーの一つであった自らの身体に
傷をつける、”tatoo”がクールになりfadな流行となり始める。そして、ファッションは
”ラッピング”から、着る人間の身体と心を「安心・安全・快適」に
”プロテクト”し始めた頃でした。
 その後、インターネットの普及化とケイタイがより多重・多機能化し”スイカ”カードが
生まれ今のような平成の「安心・安全そして、スイスイ」社会へ発展進化し、
日本社会の現実である「安心のファッシズム」構造が構築され始めました。
この平成の「安心・安全そして、スイスイ」ボケの現代社会を切った本に、
「安心のファッシズム」という本があります。
(参考;「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;)
 現在ではこのコンセプトはすでに常識になってしまっていますが、
当時はフード付きの”被り物”はまだ限定されていて、ブラックのストリート・キッズから
発生し、グラフィティとラップによって”プロパガンダ”されそして、流行によって”クール”に
なり、今では当たり前の一つの”生活衣料品”になっている。これがまさに”サブ・カルと
ファッションの液化現象”です。日本のお笑いの世界も、”シソンヌ”のギャグ・コントのネタが
現在の”spa"型のショップの現実をパロディっているというまでの”SPA"ファッションの
”液化現象”も見られます。
 
 考えてみると、「誠実に生きる、真面目に生きる、真剣に生きる」等とは、これらは全て、
与えられた”自分の生”に対しての、自分の自由な生き方への詞です。これらを放棄さえすれば、
みんなと一緒になれば、その社会の人間たちは誰でもが、「みんな、安心・安全そして快適に
スイスイ」と生きてゆけますよ!という社会構造の構築とアプリ等の科学技術の開発によって
素早く現実に至った現代日本社会です。
 ケータイがなければ何もできない、電車にも乗れない、街も歩けない、学校へも行けない、
そして、”みんなと一緒に”世間”で”暮らしてゆけない社会の構築。
 この与えられた、巨大なシステムに操られることが苦痛にならずむしろ、心地よく便利に
スマートに生きて行けると感じさせる時代性がここに、見事に構築されてしまいました。
 これは、物事の根幹を知らなかったら、”知性”や”教養”に関係なく全てに飼いならされて
しまうという時代性とも読めるのです。これが現代日本の「安心のファッシズム」の由来です。
ここには現実としての、「一台のケイタイ電話+各種アプリ+1枚のプリペイドカード
+クレジットカード+キャッシュカード+各種会員カード+マイレージ各種クーポンサービス
+社員証+マンションキー+スイカ等の交通機関乗車券などなど、」
=安心、安全そして、スイスイ快適生活=「安心のファッシズム」という
現代日本社会構造のマニュアルが出来上がってしまっています。
(参照/日経新聞/2004年5月20日付け。)この構造を起業化したのが、
「フィリカネットワークス」という2004年に設立した企業です。ある意味では
たった”1枚のカード”に不動産価値構造を構築し、ケイタイを生身の人間を”ハブ”機能と
させれば”スイスイ・快適”が日常化するという「安心のファッシズム」の発想であり、
これも”グローヴァリズム”以降に打ち上げられたサテライト衛星がもたらした
”新しいフツー”でしょう。
(参考/フィリカネットワークス”=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立:http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html)
 ここでは、地上のすべてがマーケッターたちの”ゲーム版”上と化してしまっています。
「動く商圏」を構成する「息する財布」としか、認識されなくなってしまった人間たち。
大衆達は「操舵の術」としての”マイカード”と繋がるための”ケイタイ”によって、
現代人の肉体そのものをコントロールされていても違和感を感じないように飼い慣らされて
しまっています。ここでは、便宜さ、便利さや煩わしさののために人間が人間らしく生きてゆく
ための何かを代償としてこのような「安心のファッシズム」を選んだのが
現代日本人の99%でしょう。
 ここには、”みんながしているから、”という価値判断に委ねられた世界でしかありません。
これらはすべて、「大国の軍事衛星」を経由して、GPS機能を利用し流される彼らたちの
”都合”に操作されているという”根幹”は果たして、どれだけの利用者たちが認識した上での
”スイスイ効果”なのでしょうか?GOOGLEの大手得意先はNASAでありUSガバメント系です。
ここでは、「自由に生きる」ことそのものが変質、変革され”操作”されてしまっているのです。
現在のサテライト数は世界では76個が打ち上げられています。
(アメリカ32、ロシア24それに、中国16,それにEUが4。この現実が現在の世界の
”発言力”を持っている巨大国家とされています。)
 
 ここで問う、”ファッシズム”とは?本質的に、ファジーな曖昧なものの塊を言います。
全ての根拠が”曖昧さ”で始まっている現代のキーワード、「真実っぽさ/truthiness」の世界
そのものであり、自由でないことの”幸福感”が芽生え始め、支配されたがる人間が主人公/
ヒーローでありる世界。
 そこにあるのは「真実っぽさ」が溢れかえっている都合の良い自由の不自由な社会。
しかし、この世界を誰が作り始めたのでしょうか?そして、どんな人たちが我れ先にと
その世界へ駆け込んだのでしょうか?ここに、ビッグ・ビジネスとビッグ・ガバメントの
提携連帯で築かれ作られた”複合体”社会の真意があり、「使われ慣れした、使われやすい、
飼いならされたい”イイヒト”たち」の登場いわゆる、”世間にお利口さん”な世代たちが
登場し、そして、ご主人様になる。
 今年になってより、表層のメディアを騒がせ始めた、”A/I"の登場があります。
”新・移民法”の制定と重なって、今後の「少子高齢化社会」発展という日本の
”新しいフツー”のためのシナリオの読み合わせも始まった。
 そんな僕たちの国の現代社会の表層は更に、ただ、「真実っぽさ」が。
「The world is the wall-paper that only the truthiness.」

PART-3;「ファッションの世界」では、
 「安心のファッシズム」と「ファッションの新しさとは?」;
 このような現代社会「安心のファッシズム」下のここ10数年間に現代の日本の
ファッション産業がどれだけ「新しいフツー」を進化させてきたのだろうか?
今の時代における「一番、あたらしいとは?」もちろん、「あたらしい自由」と
そこから培った「文化度あるスキル」を携えて鮮度高き時代を読むことである。
その一つは当然、見たこともない、目新しさとしての「先端」を「JUST NEW」で創造する
ことであり、もう一つの「あたらしさ」とは「最後尾」に位置することでの
「OLDEST NEW」を見つけることのの2つ。その他はすべて”中途半端”でしかない「SOMETHING NEW」で提案するバリエーションの世界です。
 ここには、「先頭か、ビリか」のみが新しさを生む立ち居場所である。
しかし、ほとんどのアパレルのMD担当者たちは自分たちで、感度高く”リアリティ”を
読み込むことができない不勉強があるために結局、彼らたちがオプションするのは
”右で売れたもの、あっちで評判のもの”を「右から、左へ」の「中途半端な新しさ」に
なってしまう。その結果、店頭では「どこでもドアならぬ、どこでも同じ」になり、
”パクって、勝負”という立ち居場所が日本のアパレル産業の特徴となり、それによって
「日銭が稼げる」という貧しさであり、この根幹ゆえ国家がバックアップするまでの
「複合産業構造態」には40年を経ても、日本のファッション産業はもなれない。
その結果が、今では”ホールディング企業が行なっている流行りの「マネーゲーム」の格好の
”コマ”の一つでしか無くなっているのがもう一つの日本の現代アパレル産業の淋しい現実
なのです。
 ファッションビジネスの新しさには、僕のようなものから見ると、”e-コマース”と
そこへ辿り着くまでの”情報発信”としてのアプリ、サイト、ブログ、snsそして、
インスタなどは当然、デジタル技術革新によってもたらされた新しいファッションビジネスの
情報源であり手法であり当然の新しさです。しかし、それ以外、商売の根幹はほとんど、
40年前と変わっていません。例えば、このファッション企業の人たちは未だに、
”FAX”を実務上使用しています。

 むしろ、「安心のファッシズム」で飼いならされ始めた”人間の退化”によって、
チャレンジしない、人が考えつかないことは考えない、自分のことで精一杯、
楽な方がいい人間たちの仕事そのものも”退化”してしまっているかもしれません。
 そこで、今後のファッションの世界の革新を考えると結論は、”ファッションのe-コマースと
その周辺環境が出来ないこととはなんなのだろうか?”という視点でしかありません。
どの様な「文化度」と「感度」で人間的なる自覚の元に顧客を想い、オプションし
チャレンジしてゆくか?を考え、話し合い、実践してゆく”古き手法”に尽きるのが
一案でしょう。
 なぜならば、ファッションとはデザインのカテゴリィーでありリアルな”世間”へどのように
”コミット”するかが倫理上においても問われなければならないリアル・ビジネスの世界だから
です。
 ここでは「ナマ感」マーチャンダイジングとでも呼ぶ発想で、例ば、”MD"や"VMD"などの
ルーチーン仕事をこの眼差しで見直す必要も、「もう一つの新しさ」に気づく発端に
成り得るでしょう。
 例えば、「ファッションが与えれくれるハッピィネスとは?」の根幹を考えることも
ありでしょう。もう、自分たちの商品という”モノ”だけを売っていても顧客たちは
当然ですが、当たり前になりすぎて「ファッションが与えれくれるハッピィネス」を
感じなくなって来ています。
 ”モノ+コト”の複合関係における相乗関係を「文化度」と「感度」によって、
具体的に考えることも一案でしょう。当然、彼ら顧客たちが購入したいモノとは、
「あの人と同じ」「みんなと一緒のもの」という「安心のファッシズム」下における
”ユニフォーミズム”の消費行動でしかなく、それらの”モノ”はもしかしたら、
ネット上も含めて、どこにでも既に在り、売られている”モノ”でしかないというまでの
”液化現象”がここにも観ることができます。
 
 「安心のファッシズム」における”繋がる”=”閉じ込められる”装置としてのインターネット、
ケイタイ、スイカ、SNS他が生み出す世界とは"ヴァーチャル・リアリティ”と
”ヴァーチュアル・イメージ”現象でしかありません。これらを使うことで”モノを買う”という
e-コマースの世界はある意味で、世界規模の各種の「ユニフォーミズム」にとっての
自動販売機です。
 が、そろそろ、この世界の限界も見え始めてきました。
例えば、”デリヴァリィー・プロブラム”あがあり、このIT環境をそれなりの資金を使って
アプリやサイトを構築すればあとは”スイスイ”が定番になってしまった現代の液化現象。
このような日常になってしまったリアリティにおいては、「ファッションを売る」ためには
どのようなナマでしか体感出来ない「ナマ感」現象が考えられるか?
 結局、「人間を喜ばすには人間にしか出来ないソフト」というアナログ発想です。
ショップへわざわざ行って”服”を買うことの楽しみ、喜びそして緊張感や見られることの
快感そして、気に入っている販売員さんとおしゃれな会話をする等など。
 これら従来の「ファッションを売る」という世界では当たり前だった諸「ナマ感」効果が
無くなり始め、ショップへ行って買う行為からの”エモーション”そのものも消え始める。
この「ナマ感」が与える”エモーション”とは?の復活でしょう。
 
 「安心のファッシズム」社会における顧客たちの欲求とは?そして、”ストレス”とは?
あるいは潜在的に欲求している”コトのアヴァンギャルド”とはなんなのだろうか?
ここには 何にに手間暇をかけ、自分たちの手が届く”感動”とは何なのだろうか?
というダイレクトな視点が必要でしょう。
 この「ヴァーチャル⇨リアリティ」化されてしまっている”世間”というコミュニティへ
何を差し出せば”わざわざ感”を”エモーション”へ変換できるのでしょうか?
ここに、今時代が望んでいる関係性のための、”ナマ感”で通じ合える”喜びとプライド”が
あります。
 ”妄想”あるいは、”真実っぽさ”の日常性。;
 それを生み出す現実の、”繋がる”=”閉じ込められる”装置否、”檻/安心フレーム”の中でしか
感じられない「安心・安全そして、スイスイ快適」ボケは完全な一種のファッシズム構造で
あり、その中での関係性とは、「集団と個人の関係性」がメインであり、
個人による「自己確認」という行為も当然ですが、他者を介さないと確認できない
「個人と個人の関係性」であり、まさに、”世間”はその中で可能なヴァーチャルな関係に
漂っているだけでしょう。
 では、「個人と個人の関係性」では、”そこに居た”というまでの実存感から生まれる、
”ナマ感”が望まれ、ここでしか感じられない一回限りの”エモーション/感動・感激”を
どのようにファッションをデザインしたりあるいはファッションを売る際に心するか?
の発想もこれからのファッションビジネスには大切な要因になるでしょう。
 例えば、今、若者たちに人気のラッパーたちが吐き出す”コトバ/詞”は彼らたちの
リアリティから吐き出されたもの。その”ナマ感”が感じられるもの程ウケるのが今の音の世界。
当然、そこから発せられる”エモーション”によって身体は奮い、動き始める、これがダンスの
世界。したがって、若い世代の今におけるファッション・イメージングに於ける
”ソース オブ ザ クリエーション”はやはり「BLACK」の世界観へより近づいてしまっていますね。
(参考/「TV番組/「フリースタイル・ダンジョン」https://ja.wikipedia.org/wiki/フリースタイルダンジョン)

PART-4;「新しいまなざし」
 ファッションはもう”ユニフォーム”になってしまったという視点。
 「自由に生きたいために求める自由。与えられた檻の中で求める自由あるいは、
満喫する自由。」 
 ここにも、”タマゴが先か、ニワトリが先か、”の世界がありますね。
 僕がファッションが好きで、この世界に40年も関わっているのは、
「ファッションとは、自由の裁量である」という僕なりの視点とファッションに抱く
価値観が存在しているからです。
 しかし、現在のファッションとは、”人と同じものを着たい。
同じ世界に生きたいから、”というベクトルに、いつの間にかその世界と価値観が
変化してしまっています。
 「自分らしく自由に生きたいために求める。
あるいは、自由に生きたいためにはどのようなものが着たいか?」から、
「与えられた自由の中でのみんなと同じ自由さを満喫するためのファッション」に
変化してしまった現在。ここにも「自己確認」作業のための”ユニフォーム”ですね。
 ここで見えて来るそのファッションとは、”ユニフォーム”でしかありません。
例えば、”マイルド・ヤンキー”たちのユニフォームや、彼らたちの”パラサイト・自立”化に
よって生まれ構成し始めた「平成のニューファミリィ」たちのユニフォーム。

 ここで、皆さんは少し前に放映されていた「UNIQLOの広告コピー/Life Wear Stories/
新たな日常着の追及」をどのように考えていらっしゃるのだろうか?
 「私たちはなぜ服を着るのだろう。正解はひとつじゃない。生活をよくするための服を
つくろうと、私たちは問い続ける。」
 案外、ここに現在のファッションビジネスが迎えてしまっている”液化現象”の根幹が
見えるように思うのです。 
 今、日本のファッション産業が迎えてしまっている「売れにくくなってきた。」
「ファッションを売ることとは?」などの現状に向かってこの”UNIQLOの広告コピー”を
真剣に考えると、もう一つ、”ファッション”という言葉がより、拡張された”液化現象”状態を
示唆したものであり、その現実世界のリアリティある”生活様式”へコミットする世界があり、
もう一つは彼らたちの「文化度」と「美意識」を探るまでの”ユニフォーム感覚”を
新たなファッション感覚としてこの”液化現象”へオプションすること。
 この2つの発想に、どれだけ対峙したそれぞれの立ち居場所を持つか?
ここにこれからの「あたらしい自由」の根幹があるでしょう。
 「安心のファッシズム」における”UNIQLOイズム”とは、自分たちの”塊”においての
”液化現象”、「みんなといっしょになりたい」というまでの「シン・”衣料品”=CLOSING
+オシャレ感=ファッショナブルなUNIFORMIZM」という図式が知らぬ間に
主流になっているのが現代でしょう。
 例えば、前出のすっかり表層からは姿を消したような”マイルド・ヤンキー”たちも、
液化現象として”パラサイト・家族”している。
 そんな”マイルド・ヤンキーシン・ファミリィー”の「ユニフォーム」ブランドが今は
市場でも主流になり、激戦化していますね。
(SPA系ブランドのファミリィーブランド化、UNIQLOやGLOBAL WORKなど、、、)

PART-5;自分たちの「ブランド・ファッションを作る」とは?
 ファッション・ディレクターの役割とは?;
 もう一つの「あたらしい自由」のためにファッションの関係者たちが考えるべきこととは、
今後の”ブランド・ビジネス”においては、そのブランドが持ちそして、創造し提案すべき
「ブランドの世界観」が大切な「ブランドを創る」ことの根幹になる。
 ここでは今まで、クリエーションだと思い違いをしていた、自己顕示欲のための表層の
ディーテールにおける形骸的なデザインだけではもう、誤魔化すことは出来ない。
この世界は20年ほど前に既に、終わってしまった。
 即ち、「ブランドを創り、売る」とは、ブランドをディレクションしているディレクターや
企画メンバーたちが生み出す「世界観」を構築し、イメージングして売ることが
現代ファッションビジネス必須の根幹。そのためには、ブランドの”文化度”が必需となる。
これを育成してゆくためには、”文化力”+”感度”+”妄想力”によるブリコラージュ的な
創造性が必要になる。ブランドビジネスとは、このブランドの「文化度」によってブランド・
マークをクリエーションし、インデペンデント化することでしかない。
 従来型のファッション流クリエーションビジネス即ち、世界のトレンド情報を主軸とした
”右と同じ”あるいは、”同じらしく”または”パクる”というプロセスだけだでは
継続が至難になろう。
 あるいは、売りたい顧客たちのための「ユニフォーム/ユニフォーミズム」に特化した
「文化度」レベルのブランドに成り下がることでしかないでしょう。
 あのUNIQLOの立ち居場所は自らが質も量もここに”特化”したことによって成功に
至ったのですから。
 では、「文化度」とは?「ブランドの文化力」とは?;
 これは世間で問われる”ブランドアイデンティティ”へ繫がる視点の再認識ですが、
まずは、誰とファッション・キャッチボールがしたいのか?が
この問いの始まりになるでしょう。
 「それぞれのブランドが、どのような女性たちへ向けて発信されているか?
そのそれぞれの女性たちがどのような時代に、どのような考えを持って、
どのような生き方を望んでいるのか?あるいはしている女性たちなのか?」
という視点とその情報を「ユニフォーミズム」発想で認識すること。
 次には、それらの情報量をブランドの作り手たちによってどれだけ確りとした考えと
念いを馳せるか?言い換えれば、ブランドの作り手たちがどのような価値観や時代観そして、
美意識を持って実社会と関わり、作り手自らも、”リアリティ”を持って生活しているか?
というまでのパーソナルな教養とスキルと経験と美意識が当然、根幹となる。
 その上で、「ブランドの文化力」とは、どのような”生活者ユニフォーム”を必要としている
女性をターゲットにしたブランドなのか?その時のターゲットの女性像とは?
その時の時代観とは?その女性たちにどのように着て欲しいか?
そのために顧客たちの女性へどのようなブランドとしての”美意識”と”ステートメント”を
差し出せられるか?
 ここで、僕がいつも発言している、”May I help you?"というこゝろの有り様で、
社会にコミットできるまでのブランドであるか? ないか?
それが「ブランドの文化力」になる。
 これらを実際にブランドに携わっている人たちが感じ、考えそれぞれの共通言語を持って
日常の仕事に携わっているか?そのためのブランドとしての”心”と”眼差し”を持っているか? 
 このような「ブランドの文化力」を向上させ「文化度」をつけるにはブランド全体の
共通言語が存在するか?そのボキャブラリィーでコミュニケーションが取れるチームワークが
出来上がっているかが全てでしょう。
 「文化力」とは、個人的内面の発見であり、自分自身を、自分の生き方を、認識と感性を
改造するという発見なので、「文化度」を豊かに育成させるための自心の ”土壌”に
こゝろ有る世話を忘れないでしてあげてください。
 いまや僕らの住む世界は、画一的な「ノーブラウ(愚か者)」たちを標的にした
「安心のファッシズム」が生み出した”どこでもドア”的なる巨大商業主義の世界でしかなのです。 
 そこで、「何を作ろうかよりは、何を着てもらえるか?」;
 新たなファッションゲームにはこの視点が鋭くそのための関係性と諸情報とその情報処理に
おいて、知的で美意識高ければより、勝者に近づく。
 現在の巴里発の「ラグジュアリィーブランド」ビジネスのその根幹はすでに「SPA」型
ファッションビジネス構造である。そのビジネスの根幹は「ラグジュアリィーブランド・
ビジネス」と「ファストファション・ビジネス」は同類である。違うことは、[イメージング
+広告戦略+VMD+ブランドエクイティ=贅沢な「ラグジュアリィーブランド」]という
差異で、顧客を揺すぶっている現実でしかない。
 これらを誰が統括的にディレクションが出来るかが、この新しいファッションゲームを
担っているゲーマーたちの役割でありそれが、「ファッション・ディレクター」の登場であった。
 再び、「女性たちが経済的・政治力を発揮し始めた時期だ。ところが彼女たちが着る服が
市場にあるの?!」という時代が到来した。ここで、新たなる女性たちのユニフォームが
必要になり始める。
 彼女たちへ与えるべき3つの特徴、「見栄えのよさ、ウィット、センスの良さ」を
働く女性たちはいつも欲している。ここに、「ブランドの文化力」が秘められていることも
認識しておく必要があろう。
 或いは、従来のデザイナーがなすべき仕事を工場に委ねそして、
新たなブランドチームとしての構成を考えることも「ブランドの文化力」の育成化に
つながるだろう。
 現在のファッションビジネスにおけるアトリエ構造は「F.D+M.D.+生産企画+生産管理」
+営業力+e-マーケッター+S.P.+A.D.+プレス=新しいチーム。という公式になった。
 ”あたらしい自由:が生み出す、「あたらしいフツー」;
 今後のファッションにはどのような”ポジティフな新しいクリエイティヴィティ”が
可能なのだろうか?
 このような時代観と”世間”のリアリティを考察し読み込んだ上、今後のファッションには
どのような可能性が考えられるのだろうか。
 ファッションデザインは如何様にして、”世間”に「あたらしさ」をコミットさせるか?
するか?或いは出来得るか?これが産業と結びついているので、難しい世界である。
 例えば、個人の思い付きだけで”アート”ぶっている間はまだ本質的に”デザイン“は
為されていないか、熟されていない。ファッション・ガーメントを作り出して、
社会にコミットさせることでデザインの創造性が完結する世界である。
 従って、「時代を感じさせる良いクリエーションは良いビジネスを生む」を信じることが
必要である。この”時代を感じさせる”というところにそれぞれの”新しさ”があり、
そのための"あたらしい自由”さを感じさせられるか?がデザインクリエーションの
全てであろう。
 
 20世紀から21世紀に入って、PCが新たな機器になり、大いにこれを利用した
ビジネスがこのファッション界でも進化した。が、ファッション・クリエーションの世界では
どうであろうか?
 「ファッション=人間が着る」という公式が変わらないために、その可能性がどんどん
”素材ありき”の世界へ、それらの素材にどのような後加工が出来るかという新たな可能性も
含めたところへ追い込まれてしまったのが現在の”ファッション・クリエーションの新しさ”の
世界であり、ここへ”ネタ元”として、割って入り込んできたのが、
”ARCHIVE"という世界である。
 3年前に僕が提言した、現在のファッションにおけるクリエティビティとは、
既に、”ヴァリエーション オブ アーカイブ”あるいは”ブリコラージュ ドゥ アーカイヴス”が
根幹になってしまった。
 巴里のこの世界を見ていると、”アーカイヴ”を知らな過ぎるあるいは、”モードの歴史”を
知らない若者たちが、より、知らないブロガーたちを騙している世界でしかない。
 例えば、VETMONTなどのデザインはこの世界でしかない。
 ここで、「人間が着ることがファッションの世界。」という根幹から離れることが
できなければ、決して、新しいものは生まれ得ない。
 ここが「あたらしい自由」なる発想である。
着る人間の体つきが変わらない限り、ファッションにおけるクリアティビティは今後も
ますます、”ヴァリエーション オブ アーカイブ”の世界であろう。
 「今後のファッションにおける新しさ」とは2つのコンセプト;
 ここで共通することは、その新しさは全て、新しい素材とその後加工方法によって
「あたらしい自由」が”商品”化されて、社会に新たなコミットすることである。
すなわち、「新しいフツー」あるいは「次のフツー」の提案である。

 一つは、僕が3年前に発言してきた、”WITHOUT SEWING"の世界。
「今更、糸と針とミシンによって作る服」というのが古いというコンセプトで生まれた
”WITHOUT SEWING"の世界。
 ファッションの世界がより「プロテクション」というコンセプトへ”進化”(?)する
この時代性にあって、そのオリジナルは日本の戦国武将たちが装着していた『甲冑」がある。
 現実に、ここにあたらしい”機器”としての”3Dプリンター”が使われその世界がより、
ポジティフな可能性が生まれ、この立ち居場所で活躍し始めたクリエーターたちが誕生している。
 例えば、”CdG ・ノアール”や”中里唯馬”の存在も確実に「あたらしい自由」のもとでの
彼ら自身の世界を作り出している。彼らは”レゴ世代”である。
 そこに、PCを製作機器として使い込むことで彼らの世界観により、美しさと新しさが
すなわち、”スキル”と”美意識”が見事にメチサージュされている。
 PCを使ってこの”WITHOUT SEWING"の世界を探してみると、素晴らしい美の世界へ
挑戦している創造者たちが多く現れていることも知ることができる。
 今後のファッションの立ち居馬車そのものが一つは”ユニフォーム”であり、
もう一つは”コスチューム”という両極端へこれも”進化”(?)してゆく社会性からも、
この”WITHOUT SEWING"の世界は確実に、新たな”ステージコスチューム”から始まり、
2050年までには新たな”ユニフォーム”になるであろう。
 
 ここでは「服を着る」という概念を変えることからこの「あたらしい自由」が始まる。
すなわち、新しい生活あるいは、”新しいフツー”のための共通言語としての
「ボキャブラリィー」を見つけ出すことから始まる。
「着る」という行為から「装着する」というコンテンツで今後のファッションがポジティフな
可能性を持つことができる。ここで大きく変革することは、服で全身を覆い隠すという、
「着る」という行為から、自分が隠したいところすなわち、プロテクトしたいところ
あるいは、見せたいところに「装着する」という新たしいコンテンツを考えれば、
”WITHOUT SEWING"の世界がもう一つのファッションの世界になる。
 実際に3Dプリンターを使っての作品を発表しているオランダのIRISの場合も6つ割りにした
パーツを「装着」させているのだ。従って、この3Dプリンターでの作品例が比較的多い
「シューズ」もここでは「装着」するというコンテンツで履くことになっている。
 昨年の「パラリンピック」を見ていても「ファッションの新しさ」への大きなヒントが
あったのを思い出そう。ここでは身体の一部としての「装着」する世界で競い合っていた。
ここには貪欲な”人間そのものの現れ”としての”強者”の世界でしかなかったことに驚く。
 
 「今後の新しいファッション」を論じるならば、「あたらしい自由」を確認し、
その上で、新たな「ボキャブラリィー」を見つけ出さなければ”新しさ”が生まれる確率は
極低する。
 もう、この現状況でのファッションの世界における”クリアティビティ”は全て、
「ヴァリエーション オブ アーカイブ」でしかありえない。
が、この現状を救うことができるのは「新しい素材」とそれらへの”後加工”に
委ねることでしかない。
 「新しい素材」あるいは、「使われることがなかった素材」を使うこと。
ここには当然、”縫えるか縫えないものか”の根幹が示唆されることによる
「新しさ」の可能性である。
ここにも”WITHOUT SEWING"というコンセプトが浮かび上がる。
 
 では、もう一つの新しさとは、
 これは実に面白いコンセプトのファッションの世界が訪れる可能性がある。
これも、「新たなユニフォーミズム」からの”裏”の発想である。
 もともと、ファッションとは「自身の存在を着る物」によってより、顕著に自己を
表現するために始まったものである。すなわち、”自己のアイデンティティ”を明確にさせ、
確立させそれを自己の表層のコードと化するためのものであったということを思い出そう。
 身分や地位そして育ちなど、諸々の社会で生きてゆくために必要な社会的な”コード”が
現在までのファッションの世界の進化論である。
 しかし、ここで、もう一つの「あたらしい自由」さでこの現実の”世間”を見てみると、
”時代のリアリティ”の一つに、「個人の自由」が街中に張り巡らされてしまっている
監視カメラや携帯やPCによってそう、「安心のファッシズム」状況下、知らぬ間に
「個人の自由」は犯さててしまっている。
 また、昨年の日本は芸能界のスキャンダルが多発化した年でもあったが、
このような状況は今後、個人の生活をも脅かすまでのここでも、”進化”(?)があろう。
そんな新しい時代性を想像しそこからのファッションへのもう一つの
”新しいボキャブラリィー”とは、真逆な発想である、「自分を消去するためのファッション」
すなわち、「カモ・ファッション」である。これは今後の新しい世代たちの一つの
「カウンター・カルチャー」になろう。”世間”で生きてゆくにも”カモフラージュ”によって
身を隠さなければならなくなるまでの”不自由”という「安心のファッシズム」時代への提言。
 しかし、この根幹はすでにユニフォームの一つである、”ミリタリィー”の世界で
当たり前になっている、”カモフラージュ”というコンテンツである。
 この世界の進化は軍需用としてそれ相当の進化をもたらした世界が現存している。
これを日常の”世間”に持ってくることの発想も、そんなに遠いものではなさそうである。
そして、”着ぐるみ”というファッションもこのカテゴリィーとして
「あたらしいフツー」になるであろう。

 『プライバシーの範疇にかかわらず、近未来のファッションは存在そのものを
”プロテクト”する何か、新しさを提供します。』
/
https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
 『私たちの個人情報と財務情報がインターネットのオンラインにおいて公共の時代には、
個人の存在が見えなくなることはない。
 しかし、オフラインでは、少なくとも、世界中の多くのファッションデザイナーは、
個人の曖昧さを払うことができるような世界を準備し始めている。
 ハイファッションを通して不可視の側面を達成するという概念は、未来的なものでは
なくなってきた。実際にはすでに可能です。
 一般人であれば、自分の写真を雑誌やsnsのページに入れることができます。
例えば、有名人または逃亡者でない限り、日々の生活の中でどのように監視されているかに
ついてはあまり考えないかもしれません。 
 が、現実には不条理なしかし、人間の感情を解釈することができる顔認識、
高精細サーベイランス、AIを含む感情技術が絶えず進化する分野では、家外に出た自分が
あらゆる高度な装置によって、自分の存在がトレース & ディスプレーされてしまいます。』
 そんな「安心のファッシズム」の社会においての究極のプライバシーを守るための
頭からつま先までの、自己を消去するためのファッション・ドレッシングのガイド/メニューが
すでにアメリカのサイトでも紹介されている。
 参考/アイデンティティを消すためのファッションに関してのサイト;
*https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
*「感情的な医学:感情的知性を持つ技術」/http://hd.media.mit.edu/tech-reports/TR-537.pdf
*顔検出からのカモフラージュ。「CV Dazzleは/https://cvdazzle.com
*幻想的な迷彩/https://en.wikipedia.org/wiki/Dazzle_camouflage
*最初のアンチフラッシュ衣料品コレクションの紹介/ https://theishu.com
*https://www.amazon.com/Kreinik-R25-Reflective-Thread-25-Meters/dp/B00CB396DQ
*ステルスウエア;ステルスウエア「アンチドローン」ファッション
/https://ahprojects.com/projects/stealth-wear/
*コープ・ヒンメルブラウ
/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%
BB%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%
A9%E3%82%A6
*CHBLジャマーコート;COOP HIMMELB
/http://www.coop-himmelblau.at/architecture/projects/chbl-jammer-coat
*ファラデーケージ/https://en.wikipedia.org/wiki/Faraday_cage
*ファラデーバッグ;技術を外部干渉から遮蔽する最先端のソリューション
/https://www.disklabs.com/faraday-bags/
 
 最後に、”カジノIR法案”が可決され、;
 より、リアリティな発想になりますがこれによって、現在の日本のファッション産業界は
大いなる”追い風”を再び迎えることができ、新たなビジネスの拡張へつながる
可能性が生まれるでしょう。
 かつて、90年代も半ば、都心部の「キャバクラ」が「地方都市」へ拡張され、
地方にも新たなオケージョンが生まれそれらと共に”AEON”や"駅ビル”といった
新しいディストリビューターの開発と新たな”顧客”、パラサイトし始めた
”マイルドヤンキー”との”三位一体化”によって「SPA型」が発展したあの時代性と
同様の”新たなモチベーション”がここでも「20年周期」というジンクスによって生まれる。
 東京オリンピックとカップリンなされ首都市に”カジノ”が出来るとそれがTVや雑誌メディア
また、SNSでよりパーソナルに拡張されより、ヴァニティなファッションの世界が
プレゼンテーションされ、次なるは2020年以後、カジノ・インフレンスは”大阪万博”
(立候補中)へ引火されその後、地方都市、駅前の”パチンコ館”が総合ギャンブル館”に、
”地元VIP"御用達”のカジノが生まれる機を読み込むことでもう一度、”神風”は吹くだろう。
 ここに、もう一つの「あたらしい自由」が創生され、ファッションのニュー・シーンの
誕生が読める。
 ”地方カジノ”+”路面店/ディストリビューター+新たな”顧客”の”三位一体化”
が現実になれば日本でも本格的な新たな”ドレス”マーケットが誕生する。
 が、ここでは決して、”ストリート・カジュアル”ではない。
 ここでのキーワードとは、「真実っぽさ」。
”真実っぽい”関係性による”シン・男女消費”が新たに生み出す”真実っぽさ”という名の
”ラグジュアリィー・ファッション”あるいは、ヴァニティという名の”ご利益・ファッション”
いわゆる”モテ・服”や”キメ・服”というドレス中心の”ユニフォーミズムであろう。
 あるいは、「109の逆襲」???
 エピローグ;今の日本の政治は落ち着きが有りません。気になる色々、
 北朝鮮からの”煽り”をアメリカ、ロシア、中国がそれぞれの巨大帝国主義的なる
国家エゴのすり合わせ。
 国内の憲法問題と軍事戦略を軸にした、”アメリカのポチ”化の激化。
 日本はいつのまにか、このような”軍事評論家”という人たちが存在していたのだろうか?
 「共謀罪」復活。かつての戦前の大国主義へ妄想した時代へのリバイバル。
 日本メディアは気骨をなくしてしまった。”時間売り”ビジネスに特化したための荒廃化。
 ここにも”金儲け”主義しかない現状のメディア。
 ”不動産売り”へ逆行し初めて業績が再び低迷し始めた”デパートビジネス”
 政策+国家予算の使い方+行政の動き+利権+専門スキル+工業技術+メディアの煽り
=新しいビジネスの誕生。
 国家企業規模の企業の倒産が続く。
 少子高齢化の激化。新移民法と新たな倫理観。
 A.I.という新しい人間の”エゴ”産業化が急進化。
 戦後日本で初めて誕生する新たな産業。軍事産業とカジノ産業。
 e-コマースと宅配のアンバランス化現象。
 ITテクノロジーとヒューマンテクノロジーのアンバランス化が始まる。
 水産業のオープン世界マーケット化が始まる。
 LGBT,マイノリティの表層化と社会の現実のずれ。
 築地、オリンピックそして、カジノ産業。
 ”one-box car"の色が白系から黒系へ変化始めたのだろうか?
「新たなるフツー」のための新たあるディストリビューションとは?
 そして、
これらの現実の日本の状況を”201”の項目で見事に書き下ろされた本が出版された。
 「日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」−15歳から始める生き残ろための社会学。
 響堂雪乃著/白馬社刊:
みなさん、是非、ご一読ください。
合掌:
文責/平川武治:平成29年5月15日:

本稿のオリジナルは、雑誌「FREE MAGAZINE−5」掲載原稿に手を入れました。
 *キーワード;
「Friendly Fascism」
「安心のファッシズム」
「ユニフォーム/ユニフォーミズム」
「ナマ感」/皮膚感覚
「TACTILITY/触覚」
「文化度/文化力」
「コンセプトをブリコラージュ」
「モノのアヴァンギャルド」よりも「コトのアヴァンギャルド」
「液化現象」
*参照/
「日本という滅びゆく国に生まれた若い君たちへ」
 −15歳から始める生き残ろための社会学。響堂雪乃著/白馬社刊:
「笑顔のファッシズム」B.グロス著;日本放送出版協会刊:
「安心のファッシズム~支配されたがる人々。」/斎藤貴男著;岩波新書/2004年刊;
「リキッド化する世界の文化論」ほか、Z・バウマンの著作いろいろ。
「ヴォーグで見たヴォーグ」ー元アメリカンヴォーグ編集長/G.ミラベラの言葉;G.ミラベラ著;2,000年刊より;
「フィリカネットワークス」=ソニー+NTTドコモ+JR東日本;2004年設立/http://www.felicanetworks.co.jp/company/outline.html
「面白いコント;”シソンヌ”」このお笑いコントが醸し出す世界に”ユニフォーム”を感じます。
/https://www.youtube.com/watch?v=S5CTb9HUwRQ
中里唯馬/ http://www.yuimanakazato.com
 

投稿者 : editor | 2017年5月23日 21:47 | comment and transrate this entry (0)

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